鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4… 鈴木 氏亨(すずき しこう、1885年〈明治18年〉10月4日 – 1948年〈昭和23年〉1月15日)は、日本の新聞記者、編集者。菊池寛の秘書を務めたのち、1923年に創刊された月刊誌『文藝春秋』の編集に加わり、のちに文藝春秋社の専務取締役を務めた。 1885年(明治18年)10月4日、宮城県仙台市に生まれる。早稲田大学を卒業後、文芸誌『新小説』の記者として編集・執筆の道に入った。 1923年(大正12年)、菊池寛が創刊した『文藝春秋』に編集同人として参加。創刊号には「時代は移る」を寄稿している。以後、編集・経営の両面で同誌の発行体制を支え、専務取締役に就任した。 1948年(昭和23年)1月15日、長野県軽井沢の自宅にて死去。
船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日… 池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日 - 1942年(昭和17年)1月8日)は、歌舞伎の劇作家、劇評家、翻訳家。甥は池田弥三郎。 池田鉸三郎・乃婦の次男に生まれた。家は幕末から続く銀座の天ぷら屋「天金」で、兄が金太郎、本人の幼名が銀次郎だった。1891年から私塾の鍋町小学校に通い、公立の麹町小学校を卒業した。その後商工中学を経て、1907年早稲田大学英文科を卒業した。東京毎日新聞の劇評を2年書いた後、1911年(明治44年)、坪内逍遙らの文芸協会の演芸主事となった。1913年(大正2年)の文芸協会解散後は、東儀鉄笛・土肥春曙らと劇団「無名会」を組織し、翌1914年、第一作『滝口時頼』を上演した。
吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治1… 吉岡 信敬(よしおか しんけい/のぶよし、1885年〈明治18年〉9月1日 - 1940年〈昭和15年〉12月7日)は、日本の応援団員、新聞記者。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。 なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。 吉岡信敬は1885年(明治18年)9月1日、父・吉岡湖一郎、母・サヨの三男として生まれた。 出生は山口県萩城下河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月… 若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日)は、戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)。 宮崎県東臼杵郡坪谷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、すなわち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」 1904年(明治37年)早稲田大学に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。
3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)… 3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)8月3日 - 1950年(昭和25年)9月25日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は欣蔵。 2代高広次平の長男として富山県礪波郡福岡町(西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれる。早稲田大学政治経済科修了。1914年(大正3年)時点で県内で4番目の多額納税者だった。1920年(大正9年)3代次平を襲名した。 1915年(大正4年)中越鉄道の3代目社長に就任し、全線を開通させた。ついで1919年(大正8年)西礪波郡会議員を経て、福岡町会議員、同農会長を歴任する。ほか、山又機業社長、北陸信託、中越鉄道、富山県農工銀行、富山日報社各監査役などを歴任した。
藤井 浩然(ふじい こうねん、1885年(明治18年)8月 … 藤井 浩然(ふじい こうねん、1885年(明治18年)8月 - 1938年(昭和13年)10月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 新潟県高田町(現在の上越市)出身。1908年(明治41年)、早稲田大学哲学科を卒業。『高田日報』主筆、『新潟毎日新聞』編集局長を経て、越佐新報社社長・主筆となった。 1938年(昭和13年)、衆議院議員補欠選挙で当選を果たした。 その他、高田英語学校を創設し校長に就任した。
竹下 文隆(たけした ぶんりゅう、1885年(明治18年)7… 竹下 文隆(たけした ぶんりゅう、1885年(明治18年)7月28日 - 1975年(昭和50年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。竹下満蔵の二男として生まれる。1918年、早稲田大学法律科を卒業した。 1915年、政治雑誌『国論』を創刊し、その社長兼主筆に就任。1918年、東京医学専門学校の創立に参画し、同校主幹、同理事を務めた。その他、丸之内銀行監査役、横浜倉庫監査役、有限責任信用組合共同金庫理事長、日出貯蓄銀行取締役頭取などを歴任。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙に輸入候補として沖縄県から立憲政友会所属で出馬し当選。運動員が大がかりな選挙違反を行い「金権候補」と言われた。
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6… 小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6月30日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、大正から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者。 父が創業した長野実業銀行を継ぎ、1930年(昭和5年)にはその後身である信濃銀行の第2代頭取に就任。しかし直後に昭和恐慌のため信濃銀行は破綻、その影響で没落した。「久七」は父も名乗った名であり、襲名前は辰治を名乗った。 1885年(明治18年)6月30日、小林久七(先代)の長男として生まれる。旧名は辰治。生家の小林家は長野の新町にて油問屋「美濃屋」を営む旧家で、父・久七は金融業にも進出して明治中期に「崇成社」を結成、1903年(明治36年)にはこれを元に長野実業銀行を起こして頭取となっていた。
永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)… 永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)6月11日 - 1950年(昭和25年)12月6日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し衆議院議員選挙に連続5回当選し海軍参与官を務めた。 静岡県周智郡久努西村(現在の袋井市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治科を卒業。台湾日日新聞社記者、満洲日日新聞社編集長、大連汽船株式会社天津支店長、永田鉱業株式会社社長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回に至るまで5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で海軍参与官に就任した。 さらに大連の漢字紙『関東報』の社長や静岡民友新聞社の社長も務めた。
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日… 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。
2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5… 2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5月16日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、小樽市長。旧名・真吉。 北海道出身。実業家、初代・宮吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)早稲田大学商科を卒業。 1912年、板谷商船取締役に就任。1924年(大正13年)先代の死去により家督を相続して2代・宮吉を襲名し、板谷商船社長、樺太銀行頭取に就任。その他、板谷生命保険社長、 (株) 十合呉服店会長、北海貯蓄銀行頭取、尾張時計監査役、黒姫汽船 (資) 代表社員、肥料調査委員会委員、北海道拓殖計画調査会委員などを務めた。 1926年(大正15年)北海道多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年6月25日に就任し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26… 飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日)は、山梨県出身の日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人であり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。句集に『山廬集』(1932年)、『椿花集』(1966年)、ほかに随筆集なども多数。 山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。飯田家は名字帯刀を許された旧家で、大地主である。
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年… 小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年)3月28日 - 1976年(昭和51年)3月17日)は、大正から昭和時代の政治家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 茨城県信太郡木原村(稲敷郡木原村を経て現美浦村)出身。小沢金蔵の長男として生まれ、1934年(昭和9年)家督を相続する。1904年(明治37年)成城学校を卒業し、のち東京専門学校に学ぶ。陸軍に入り歩兵中尉に進んだ。 茨城県会議員となり、帝国在郷軍人会稲敷郡連合分会長、稲敷郡養蚕組合長、同農会長、同壮年団長を歴任した。ほか、東邦産金会社専務取締役、松本電機計器監査役を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 19… 原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 1964年2月10日)は、日本のジャーナリスト。貴族院勅選議員。 岡山県後月郡西江原村(現・井原市)出身。1907年早稲田大学卒。報知新聞社に入り、1915年、東京朝日新聞社に入る。社会部長を経て、1925年、大阪朝日新聞社に入る。同社では編集局長から専務となり、1946年8月14日、貴族院勅選議員となった。貴族院議員は交友倶楽部に所属し翌1947年5月2日の貴族院廃止まで在職した。同年12月に公職追放を受けた。その後、追放解除となり、1964年に死去した。
佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年… 佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年3月3日 - 1945年1月2日)は、日本の俳優である。坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」で「日本の女優第一号」こと松井須磨子の同期として新劇俳優を始め、「舞台協会」を設立、また日活や東亜キネマの無声映画にも出演した。のちのスター女優夏川静江、おなじくのちの俳優夏川大二郎は妻の連れ子である。 本名の「佐々木 百千万億」は珍名である。早稲田大学文学部露文科卒業。1909年(明治42年)4月、24歳のときに、坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」が設立した「文芸協会演劇研究所」に入学する。同期生は、武田正憲、林和、柳下富司、伊藤理基、掬月晴臣、日高清、久里四郎、志田徳三、松井須磨子、三田千栄子(のちの山川浦路、上山草人の妻)、五十嵐吉野の11名であった。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - … 北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - 1942年11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。 1885年(明治18年)1月25日、熊本県玉名郡関外目村(現:南関町)に長男として生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現:柳川市)にある家に帰る。
加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年1… 山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年12月24日)は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。 旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部。捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国。 早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う。
殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 19… 殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 1947年〈昭和22年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(明治35年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(明治38年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷汝耕は日本留学中に日本人女性と結婚している。
木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福… 木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福岡県出身の実業家。山一證券の会長をはじめ、多くの企業で要職を歴任した。 1885年(明治18年)5月28日、福岡県八女郡上広川村で西村武助の三男として出生。長崎市・木下キチの養子となり、1912年(明治45年)その家督を相続した。翌1913年(大正2年)に早稲田大学商学部を卒業すると三菱合資会社に入社。長崎支店で勤めた後、1915年に小池合資会社へ転じた。1917年(大正6年)4月、小池合資は山一合資へと改組。1926年(大正15年)には山一證券株式会社となる。茂は同社大阪支店長を経て専務となり、社長の太田収が急逝した1938年(昭和13年)の12月に社長に選任される。
田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月… 田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月26日 - 1945年(昭和20年)9月)は、台湾総督府官僚。名古屋市長。 山口県出身。1904年(明治37年)、早稲田大学邦語法律科(現・法学部)を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計となる。台湾総督府事務官、殖産局商工課長・庶務課長、勅任参事官、台北州内務部長を歴任した。 退官後、名古屋市助役を経て、1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで名古屋市長を務めた。 その後、東北電気株式会社取締役、東邦瓦斯証券株式会社顧問、東邦電力株式会社顧問となった。 戦時中は新潟県内に疎開し、1945年(昭和20年)9月に亡くなった。
中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月2… 安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月23日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正五位。 宮城県桃生郡野蒜村山の坊(鳴瀬町を経て現東松島市)で生まれる。早稲田大学専門部政治経済科を卒業。19歳で渡米し、苦学してシカゴ大学大学院政治科、同法科などで学び、1912年(明治45年)ホイトン大学文科を卒業した。在米中は、南加州日本人会長、中央ロスアンゼルス日本人会長、商工会議所会頭などを務め、日米親善、在留邦人人権擁護などに尽力した。 帰国後、塩釜市行政顧問、宮城県地方労働委員(中立代表)、徳海屋(株)支配人、不二貿易取締役社長などを務めた。
田中 四郎左衛門(たなか しろうざえもん、1884年〈明治1… 田中 四郎左衛門(たなか しろうざえもん、1884年〈明治17年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の商人(槌屋、織物問屋)、実業家、資産家。族籍は東京府平民。 東京日本橋浜町生まれ。田中四郎左衛門の長男。1890年、家督を相続。1908年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。東京銀行監査役となる。 1917年、男爵の前島彌等とはかり、日章火災海上再保険を創立し、専務取締役に挙げられる。1918年、日章信託会社を起し、会長となる。 日本絹絨紡織取締役社長、大日本文華社長、白木屋呉服店、関東機械ナット各取締役、横浜生命保険支配人などをつとめる。 謡曲を嗜む。宗教は浄土宗。住所は東京市日本橋区浜町1丁目、麹町区紀尾井町・同区三番町、四谷区南町。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - … 畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - 1938年6月25日)は、内村鑑三門下(無教会派)のキリスト教独立伝道者。 農村伝道に従事し、またミルトン、カーライル、ブラウニング等の英文学を積極的に翻訳・紹介した。 1884年、長野県上田町(現上田市)に生まれる。1902年、旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業、早稲田大学予科入学。1904年、内村鑑三の門下生となる。1906年、早稲田大学文学部哲学科を卒業し、千葉県立千葉中学校の英語教師となる。1909年に同じ内村門下であった、成沢むつと結婚。1911年、千葉中学校を辞職。千葉県東金町の農村をベースに独立伝道を開始、また執筆・出版活動を行う。
沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年… 沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年〉10月16日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、日本の政治家。釜石市長(2期)。 岩手県南閉伊郡釜石村(のち釜石町、現・釜石市)に生まれる。早稲田大学法科卒。電友社を経て、東京朝日新聞社に入る。その後、帰郷し、1911年(明治44年)釜石電気会社を設立する。ほか、運送倉庫会社や製氷会社などを興し、その経営に当たる。 政治面では1917年(大正6年)から1925年(大正14年)まで釜石町会議員を2期務めた。1931年(昭和6年)12月20日、岩手県会議員補欠選挙に上閉伊郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して、初当選を果たした。同月22日に就任した。
中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月… 中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月14日 - 1974年(昭和49年)4月13日)は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為(なかむら まさため)。 山梨県南都留郡河口村(後の旧同郡河口湖町、現富士河口湖町)に生まれる。8人兄弟の長男。河口村は河口湖に面し、江戸時代から富士参詣者への宿坊を提供する御師の町で、中村家も御師業を営みつつ農業や養蚕を行っていた。 1890年(明治23年)に村立河口小学校へ入学する。両親の影響で幼少時から文学に親しみ、回覧雑誌などを製作している。1897年(明治30年)中学進学のため一時上京するが、翌年に甲府の山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学。
上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3… 上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3日 - 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。筑摩鉄道(現・アルピコ交通上高地線)やバス事業を始め、多くの事業経営に携わった他、戦前・戦後に新村村長・長野県会議員・衆議院議員をも務めた。 長野県東筑摩郡新村(現松本市)で元衆議院議員の上條謹一郎の長男として生まれる。 松本中学校から早稲田大学に進み、のち帰郷して家を継いだ。1913年に新村村長になる。上条を中心とする有志が、1915年(大正4年)に 安筑軽便鉄道として、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下された。次いで、1918年に安曇鉄道が、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下される。
粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2… 粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月20日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)。位階は正四位。勲等は勲二等。 戦前は憲政会・立憲民政党に所属したが、戦後に公職追放された。追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。政界復帰(1952年)の後は、改進党・日本民主党に所属した。日本民主党が保守合同した後は、自由民主党にて松村・三木派に所属した。 1884年(明治17年)、福島県安積郡(現在の郡山市富久山町)に生まれる。 1911年(明治44年)、第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬していた古島一雄の選挙を手伝う。
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 「明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成である。
村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月… 村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月18日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の歴史学者。
佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 … 佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1951年〈昭和26年〉1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党、東京府第6区)、拓務参与官。教育者。実業家。勲等は勲四等。位階は正五位。 宮城県仙台市生まれ。1909年(明治42年)に早稲田大学文科哲学科を卒業し、翌年に同研究科を修了した。鉄道院総裁官房嘱託を経て、1912年(大正元年)から東北帝国大学講師や宮城県立工業学校講師を務め、1915年(大正4年)に早稲田大学学長秘書に転じ、1920年(大正9年)からは教育新聞社社長となり、さらに日本社会教育協会専務理事を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
於勢 升(おせ のぼる、旧姓・柴田、1884年(明治17年)… 於勢 升(おせ のぼる、旧姓・柴田、1884年(明治17年)9月 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。城東土地社長。大阪府会議員。族籍は大阪府平民。 大阪府・柴田平學の三男。於勢眞十郎の養子となり、1919年、家督を相続する。1909年、早稲田大学商科を卒業。 会社の重役で、推されて大阪府参事会員である。三十二銀行、日ノ丸電線各取締役、城東土地社長、同取締役などをつとめる。宗教は仏教、真宗。趣味は碁、謡曲。住所は大阪市大正区三軒家町2丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
馬野 精一(まの せいいち、1884年(明治17年)9月 -… 馬野 精一(まの せいいち、1884年(明治17年)9月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山口県出身。1908年(明治41年)に早稲田大学政治経済科を卒業。翌年、同研究科を卒業し、高等文官試験に合格した。滋賀県属、同試補、鹿児島県揖宿郡長、富山県理事官を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官となり、黄海道第三部長、慶尚南道警察部長、京畿道警察部長・警察官講習所長などを歴任した。1925年(大正14年)に京城府尹に就任し、1929年(昭和4年)には咸鏡南道知事に昇格し、さらに全羅南道知事に転じた。
三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日… 三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日 - 1956年(昭和31年)7月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。 鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った。1917年に衆議院議員となり、一時疑獄事件で失脚するも復帰。1945年に鳩山一郎らと日本自由党を結成するが公職追放。1952年政界に復帰。1954年反吉田勢力をまとめて日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現させる。さらに1955年の保守合同、自民党成立に尽力した。 寝業師型、調整型の代表的な政治家として知られる。 同姓で名前も似ている三木武夫とは縁戚関係にはない。
浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7… 浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1947年〈昭和22年〉11月29日)は、日本の実業家。浅野財閥二代目総帥として苦境にあった浅野財閥を再建した。二代目浅野総一郎を襲名する。 初代浅野総一郎の長男で、浅野セメント深川工場で生まれた。早稲田大学商科を卒業後、セメント業研究のために欧米を何度も視察した。1930年(昭和5年)、父の死後に浅野財閥総帥になると浅野総一郎を襲名したが、弟の浅野良三に実務を任せた。1938年(昭和13年)に刊行された中外産業調査会による『中堅財閥の新研究 関東編』という書籍には「独裁的」な先代と比較して「うって変って温和な性格、よく云えば長老の風があり、悪く云えば長男型で、平々凡々だ」という人物評がある。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1… 江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1938年4月7日)は、日本の外交官。 福井県三方郡三方町横渡、江戸勘四郎家の長男として出生。 1904年(明治37年)3月、旧制小浜中学校卒業、明治40年度に早稲田大学高等師範部歴史地理科を卒業し、さらにその翌年に東京帝国大学選科(国史)を卒業し、旧制志布志中学校、旧制水戸中学校に教諭として勤務する。 1918年(大正7年)、外交官補試験に合格、外務省入省。1919年(大正8年)領事館補。1925年(大正14年)より領事として青島、漢口(中国)、リバプール(イギリス)、バンクーバー(カナダ)等に勤務。1931年(昭和6年)より外務省文化事業部第二課長、第一課長兼文部書記官歴任。
平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月1… 平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月13日 - 1919年(大正8年)9月2日)は、明治・大正時代の日本の詩人・小説家・新聞記者。民謡詩人として多くの作品を残した。群馬県前橋市出身。本名は駒次郎。 1884年(明治17年)5月13日/15日/17日、群馬県前橋本町(現在の前橋市本町2丁目)に生まれる。実家は酒造業を営んでいた。祖父・與吉は近江国蒲生郡(現在の滋賀県東近江市)の出身で、武蔵国の造り酒屋「中村屋」に奉公した後前橋にのれん分けをした。與吉は現在の新潟県柏崎市出身のゆきを妻としたが夫婦には子がなかったため、晩村の父となる仙太郎を養子に迎え、とを(ゆきの妹)と結婚させた。
河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月3… 河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月31日 - 1946年〈昭和21年〉1月12日)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)出身のアマチュア野球選手(投手)。日本初のプロ野球チーム創設者。 父は河野通理で、加賀藩士。妻の河野いゑは飛田穂洲(忠順)の妹。 1897年(明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校在学中は野球に熱中しすぎたためか中退した。転校した明治学院には4年に編入し、わずか半年ほど在籍しただけだが、この時期に安部磯雄と出会い、彼のキリスト教精神に共鳴した。東京高等商業学校を目指していたが、1903年(明治36年)に早稲田大学商科入学。早大入学後、創設して3年目の野球部に入部し、ここでまたも野球部部長の安部に偶々出会う。
獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17… 獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17年)3月25日 - 1941年(昭和16年)10月29日)は、日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の中心選手であり、早大草創期の主力でもあった。また、岩手県や満州で後進の育成に努め、「岩手野球の父」とも呼ばれる。守備位置は外野手、三塁手、投手。 岩手県盛岡加賀野村(現・盛岡市)出身。1897年(明治30年)、盛岡尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学する。一学年下に歌人の石川啄木がいたが、獅子内が落第して同級生となったこともあって親しかった(当時の盛岡中学は成績に厳しく、一度も落第せずに卒業できる生徒は学年全体の4分の1程度であった)。
南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月2… 南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月22日 - 1976年(昭和51年)1月26日)は、明治末から昭和期の林業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。 鹿児島県日置郡市来郷伊作田村(東市来村伊作田、東市来町伊作田を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業。早稲田大学を中退。 帰郷して父の鉱山業に従事。1930年(昭和5年)家督を相続。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任。1932年(昭和7年)東市来村長に就任。
原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4… 桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1958年〈昭和33年〉9月24日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、ブラジル大使。 香川県出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治科を卒業し、外務書記生試験に合格した。清国に在勤し、1908年(明治41年)に高等文官試験に合格し、外務属となった。1911年(明治44年)、外交官及領事官試験に合格し、領事官補、領事、外務書記官・帝都復興院書記官、大使館一等書記官を歴任し、その間に奉天、漢口、サンフランシスコ、バンクーバー、シカゴ、ワシントンD.C.に勤務した。さらにホノルル総領事、漢口総領事、大使館参事官、天津総領事、外務省亜細亜局長、同東亜局長を務めた。