佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2… 佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2001年6月29日)は、日本の経営者。綜合警備保障社長を務めた。 宮城県出身。1936年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。 1960年6月に取締役、1963年に常務、1966年に専務、1971年6月に監査役を経て、同年8月に綜合警備保障常務に就任し、1980年11月には社長に昇格。1986年9月に相談役に就任。 1968年6月から1981年6月までに早稲田大学理事と1970年5月から1974年5月までに大東京興産社長を務め、巣鴨学園理事も務めた。 2001年6月29日、急性呼吸不全のために死去。89歳没。
李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20… 李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏。号は青居(チョンゴ、청거/靑居)。 日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。
南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日… 南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日 - 没年不明)は、香川県綾歌郡出身の実業家、政治運動家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - … 鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - 1994年3月9日)は、日本の経営者。鴻池組元会長。全国建設業協会元会長。 大阪府大阪市出身。1937年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大林組での勤務を経て、1939年に鴻池組に入社した。1943年に副社長に就任し、1944年には社長に昇格。1962年には会長も兼任し、1985年から会長に専任した。 1994年3月9日腎不全のために京都大学医学部附属病院で死去。82歳没。
福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月2… 福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月25日 - 1999年(平成11年)8月20日)は、日本の実業家。フジテレビジョン副社長。サンケイアトムズオーナー(球団社長兼務)。東京府出身。 1934年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。専攻は「交通論」だった。卒業と同時に満鉄に入社。その後華北交通に派遣され、終戦まで勤務した。 戦後は、母校の早稲田大学で講師と秘書役を務める。 1954年にニッポン放送に入社し、総務部長、編成部長、編成局次長などを歴任した。日本テレビ、NHKがともに活気を帯びて、受像機が次第に茶の間に進出するようになったことを受け、1956年9月、ニッポン放送がテレビ実施本部を作ると、福田は総括責任者となった。
大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)1… 大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)12月4日 - 1982年(昭和57年)1月28日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。静岡県出身。 1934年に早稲田大学政治経済学部卒業。同年に日本経済新聞社の前身である中外商業新報社に入社した。 シンガポール支局長、日本経済新聞大阪本社代表などを経て、1954年には取締役に就任し、常務、専務を経て、日本経済新聞の創刊100周年になる1976年3月からは社長に就任。積極的な営業展開により発行部数を着実に伸ばしていき、経営基盤をより強化していった。 テレビ東京、日経マグロウヒル社などの取締役にも兼任し、1979年からは日本新聞協会会長を務め、新聞業界の販売正常化と電算機による新聞製作の推進を務めた。
鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - … 鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - 1990年10月28日)は、日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。 津軽藩の御蔵番だった祖父が、御維新で北海道樺太監獄の典獄長(刑務所長)に左遷され、北海道に渡る。 北海道の夕張郡の当時は人口6,000人程度の村だった由仁町に父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた。母・モヨは写真館を経営していた。父・徹は撮影技師だったが由仁町に来てからは歯科医になった。 1924年、岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務めていたが、鹿内は「小生意気な子供であった」という。通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた。
近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月2… 近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月29日 - 1994年(平成6年)1月23日)は、元体操選手、実業家。 東京市神田区に生まれる。1936年(昭和11年)早稲田大学専門部法科卒。在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 現役引退後は、体操指導者となり、1956年メルボルンオリンピックおよび1960年ローマオリンピックでは体操総監督を務めた。ほか、1968年の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選。日東鉄工社長、国際体操連盟副会長、日本オリンピック委員会常任委員、アジア体操連合会会長を歴任し、1982年(昭和57年)日本体操協会会長となり、1991年(平成3年)名誉会長に就任した。
佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 19… 佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の社長を務めた。 東京都出身。佐藤信四郎の二男。1936年、早稲田大学文学部を卒業。日本経済新聞社の前身である中外商業新報に入社し、整理部、社会部、工業部各記者、通信、社会各部長、大阪支社編集長、編集局次長、総務部長、工務局長を経て、1959年2月に取締役に就任し、1965年4月には常務大阪本社代表に就任した。1972年3月に退任し、同年4月に東京12チャンネル副本部長、1973年4月に本部長を経て、株式会社に改組したのち同年11月から1975年10月まで社長を務めた。
池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日… 小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日 - 1986年〈昭和61年〉1月4日)は、日本の記者、新聞編集者、実業家。新潟日報社第4代社長、會津八一記念館初代館長。 新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られた。 そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合った。 包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられた。
竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月… 竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月1日 - 1996年(平成8年)12月31日)は、日本の実業家。竹中家第15代当主。竹中工務店社長、会長、関西経済同友会代表幹事等を歴任した。 兵庫県神戸市出身。旧制甲南高等学校を経て、1933年(昭和8年)早稲田大学理工学部建築学科卒業、早稲田大学大学院修了。 1975年(昭和50年)には無公害、省エネルギー空調システムの開発で毎日工業技術奨励賞受賞。
長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 20… 長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 2001年5月9日)は、日本の経営者。読売新聞社常務、読売ジャイアンツ球団代表を務めた。愛知県江南市出身。 1937年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に読売新聞社に入社した。社会部、編集局婦人部長、社会部長、編集局総務を経て、1969年に報知新聞社副社長兼編集局長に就任し、1971年に読売新聞社編集局長兼取締役に就任し、1973年に常務に就任した。1975年6月から1987年までに読売ジャイアンツ球団代表を務めた。1978年から1979年にかけての江川事件では球団代表として対応にあたった。 1987年にセントラル・リーグから連盟特別功労賞として表彰され、同リーグの顧問も務めた。
友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 -… 友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、日本の経営者。文化放送、キングレコード、サンケイ・スワローズで社長を務めた。 京都府京都市出身。1936年に早稲田大学政治経済学部を卒業。第一紙業社社長、第一通信社社長を経て、1956年に文化放送専務に就任し、1968年には社長に昇格した。 その一方で、産業経済新聞社で取締役と専務を務め、キングレコードで代表取締役社長と会長を務めた。フジテレビジョン代表取締役、サンケイ・スワローズ球団社長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年5月16日肺炎のために死去。
金 元圭(キム・ウォンギュ、朝鮮語: 김원규、1910年6月… 金 元圭(キム・ウォンギュ、朝鮮語: 김원규、1910年6月17日 - 1988年3月10日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 慶尚北道盈徳郡出身。早稲田大学専門部商科卒。南鮮貿易創業者・理事社長・代表理事会長、咸興商工専修学校設立者、徳永百貨店会長、東洋醸造会長、三光興業会長、第一企業会長、咸興商工ゴム社長、東亜ゴム工業社長、興南ゴム社長、東亜炭鉱社長、再生ゴム社長、合同通信社社長・代表理事、韓国畜産物輸出組合理事長、韓国海苔輸出組合理事長、大韓商工会議所常務委員、東海水産社長、大韓蚕糸会中央会理事、自由党中央委員、国会復興委員会委員、東林水産会長、水産経済新聞社長、元洋貿易会長を務めた。
岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没… 岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。文化放送社長、会長を務めた。東京都出身。 1933年に早稲田大学商学部を卒業。 日本放送協会での勤務を経て、1957年11月に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1965年に常務、1972年11月に専務を経て、1979年6月には文化放送社長に就任。1987年7月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
八馬 眞治(八馬 真治、はちうま しんじ、1909年〈明治4… 八馬 眞治(八馬 真治、はちうま しんじ、1909年〈明治42年〉10月10日 - 1976年〈昭和51年〉1月9日)は、日本の実業家。多聞酒造社長。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の六男。1932年、早稲田大学経済学科卒業。1942年、八馬汽船、1943年、西宮酒造各監査役。1949年、八馬汽船取締役。 灘五郷酒造組合理事長、日本酒造組合中央会評議員、西宮商工会議所常議員、西宮カントリークラブ理事をつとめる。また多聞有限社員である。 三代八馬兼介、八馬安二良、八馬駒雄の弟。 趣味は庭球。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市平田町、西宮市大井手町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 197… 前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 1977年5月21日)は、日本の実業家。キヤノン2代目社長を務めた。 気を見るに敏にして積極果断で、難局に当っては慎重に事を進める。私生活ではユーモアに理解があり、囲碁とゴルフを趣味とした。 1909年9月15日:山梨県都留市に生まれる。 1930年3月:早稲田大学政治経済学科卒業。その後山一証券勤務を経て、1934年5月キヤノン株式会社の前身である精機光学研究所に移った。 1937年8月10日:精機光学研究所を基盤とする新会社:精機光学工業株式会社設立に合わせ、同社営業部長に就任。 1946年8月:同社取締役に就任。 1947年9月:同社がキヤノンカメラ株式会社に改名。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 200… 小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 2003年3月10日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。長崎県出身。 1934年3月に早稲田大学文学部を卒業し、1935年10月に朝日新聞社に入社。 1964年11月に長崎新聞社専務を経て、1968年11月から1976年12月までに社長を務めた。 2003年3月10日肺気腫のために死去。93歳没。
三神 良三(みかみ りょうぞう、1909年〈明治42年〉5月… 三神 良三(みかみ りょうぞう、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の実業家、経営評論家。 山梨県生まれ。1933年早稲田大学経済学科卒。東宝劇場に入り、日劇支配人、大東亜会館支配人。1947年東京會舘取締役総支配人、50年常務、61年社長、70年取締役、73年顧問。1966年世界貿易会館社長。有楽書房社長。俳句も詠んだ。
橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 19… 橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 1997年9月10日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。長男は橘康太郎(衆議院議員)、孫は橘慶一郎(高岡市長、衆議院議員)。 富山県射水郡守山村(現:高岡市)出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。1931年早稲田大学商学部卒。伏木海陸運送社長、守山村議、高岡市議、同議会議長を務め、1946年の第22回衆議院議員総選挙において日本進歩党で富山県から出馬し初当選。翌年より富山2区となり、衆議院議員を3期務めた。1949年第3次吉田内閣で賠償政務次官。1959年より高岡市商工会議所会頭。1969年春の褒章で長年、海陸運送業に携わって貿易関係団体要職に就いて特にソ連との貿易尽力し輸出の振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
坂本 元雄(さかもと もとお、1908年5月29日 - 20… 坂本 元雄(さかもと もとお、1908年5月29日 - 2003年1月31日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。神奈川県出身。 1931年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。 1961年に取締役を経て、1962年に井関農機副社長に就任し、1966年から1970年までに社長を務めた。三菱電機監査役も務めた。 2003年1月31日肺炎のために死去。94歳没。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 19… 佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 1971年12月3日)は、日本の柔道家(講道館9段)、実業家。旧姓笠原。 学生時代に全国中等学校柔道大会や明治神宮大会柔道競技で優勝等の成績を残し、特に早稲田大学在学中には学生柔道界の花形としてその勇名を轟かせ全日本選士権大会も獲得。卒業後は古河鉱業に就職し、営業部長や資材部長、炭鉱所長、監査役、顧問等を歴任し、実業家として活躍した。 栃木県宇都宮市で医師を務める笠原家10人兄弟の5男として東京都世田谷区の奥沢に生まれ、少年期より栃木県で育った。兄3人が旧制宇都宮中学校(現・県立宇都宮高校)から旧制第四高校へ進んだ柔道選手であったほか、姉2人の夫も旧制第四高校の柔道選手であった関係で、笠原も物心が付いた頃には家の中の十畳間で兄達が乱取を行うのを見て育つなど、既に柔道が身近な存在となっていた。
神部 俊郎(かんべ としろう、1907年10月23日 - 1… 神部 俊郎(かんべ としろう、1907年10月23日 - 1995年4月14日)は、日本の政治家、実業家、元地方公務員。北海道滝川市長(1期)。 滝川町(現・滝川市)生まれ。滝川市の前身となる8代目滝川町長神部為蔵の孫。1925年北海道庁立滝川中学校卒。1929年早稲田大学専門部法律科卒業後、農業及び土木建築請負業に従事した。その後、1931年6月、札幌土木事務所職員となる。その後、上川郡鷹栖信用購買販売利用組合書記なり、1939年、鷹栖村助役となった。1941年、北海道人造石油に入社した。戦後は滝川化学労働組合執行委員長となった。 1947年4月5日の滝川町長選に出馬し、臨時町長代理を務めた奥山与作らを破って初当選を果たした。
江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 19… 江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 1972年7月11日)は日本の会社経営者、政治家。 衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。株式会社丹羽鉄鋼相談役。 京都府京都市出身。早稲田大学理工学部電気工学科を1933年に卒業後、1938年日本電気玉川向工場に入社。大津工場第2検査課長などを歴任したが、1946年に日本共産党へ入党したのを機に同党滋賀県委員や日本電気労働組合大津分会執行委員を務めた。しかしレッドパージに伴い同社を解雇されると、大阪府内で会社を経営。1949年の第24回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から出馬し初当選、滋賀県初の共産党国会議員となった。当選1回。 1972年7月11日、肝硬変のため神奈川県川崎市中原区の日本医科大学付属第二病院にて死去。
杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日… 杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日 - 2000年7月3日)は、日本の会社役員、サッカー選手。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、兄は上智大学教授などを務めた野村正二郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 旧制大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て早稲田高等学院に進学。早稲田高等学院3年次の1927年に上海で開催された第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが出場機会は無かった。同年9月14日に平壌での崇実専門学校との親善試合で代表初出場を果たした。 早稲田高等学院卒業後は早稲田大学理工学部電気工学科に進学。ア式蹴球部に所属し、在学中の1930年5月開催の第9回極東選手権大会の日本代表に選出されるも第8回大会同様に出場機会は無かった。
小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日 … 小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日 - 1997年4月17日)は、日本の経営者。信越化学工業社長、会長を務めた。長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)出身。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1932年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に信越化学工業に入社。 1948年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年7月に副社長に就任し、1974年7月に業界不況の状況で社長に就任する。 経理・財務担当常務時代は、数字を綺麗に書くこと、判子は伝票に書かれている内容をよく見て、グッと力を入れてまっすぐ縦に押すこと、ソロバンで加減乗除の計算ができるようにすることを経理担当に厳命、管理部門の強い権限を変革して販売、製造、研究各部門に権限を振り分けた。
田口 助太郎(たぐち すけたろう、1907年(明治40年)8… 田口 助太郎(たぐち すけたろう、1907年(明治40年)8月10日)- 1983年(昭和58年)12月11日)は、日本の実業家、映画プロデューサー、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡草加町(現:草加市)で生まれる。1932年、早稲田大学専門部法律科を卒業した。農林省馬政局属を経て、日満工業社員、大同産業取締役社長、国際映画プロダクション理事長を務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から日本自由党所属で出馬して当選し、その後、民主自由党に移り衆議院議員を一期務めた。 1949年、読売映画社社長に就任。ニュース映画製作者連盟会長、教育映画製作連盟理事長、映像文化製作者連盟理事長、産経映画社社長などを務めた。
圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)… 圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)4月3日 - 1994年(平成6年)3月14日)は日本のジャーナリスト、実業家。日本経済新聞社社長。 千葉県印旛郡公津村下方(現:成田市下方)の農家の次男として生まれる。農家とは言っても圓城寺家は成田の近郷にその名を知られた旧家だった。旧制成田中学(現:成田高等学校)四年の時、虫垂炎を患い、更に心臓も病むようになる。健康状態が思わしくない状態が続き、圓城寺本人は東京の大学へ進むつもりでいたが、千葉医専(現:千葉大学医学部)で診察を受けると「こんな体で東京に行くなんて死に行くようなもんだ」と医者におどかされてしまう。このため、いったん進学をあきらて、自宅で無為徒食の生活を三年続けた。
池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1… 池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1907年1月7日-1989年5月24日)は、日本のジャーナリスト、元琉球新報社社長。
宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月2… 宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月26日)は日本の実業家、プロ野球球団経営者・スカウト。 1907年(明治40年)和歌山県生まれ。父親は鉄道省勤務。早稲田大学理工科卒業。大学卒業後単身中華民国青島市に渡り、貿易業に従事した。ここで得た利益をもとに帰国後、兵庫県神戸市で貿易商を営む傍ら、大阪市で旋盤工場を経営した。この時期に戦況の激化を考慮し、兵庫県尼崎市に電線工場を購入した。1944年(昭和19年)応召。応召期間中に大阪の旋盤工場は空襲で焼失したが、尼崎の電線工場は焼け残ったため、第二次世界大戦後、自動車クラクションの製造を開始した。この自動車部品製造会社、宇高産業は成功を収め、巨額の利益をあげた。
金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月… 金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月2日 - 1973年7月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲国会議員。 忠清南道扶余郡出身。京城徽文高等普通学校中退。東京正則英語学校、早稲田大学専門部政経科卒。ジャーナリストとして中国の華中地域で歴遊した後、京城評論社社長、忠南興業株式会社専務取締役を経て、朝鮮建国準備委員会扶余郡副委員長、大韓独立促成国民会扶余郡支部副委員長を歴任した。 1973年7月3日、ソウル市城北区の自宅で死去。享年67。
田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 19… 田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 1986年1月28日)は、日本の経営者。テレビ西日本社長を務めた。熊本県熊本市出身。 1930年に早稲田大学高師部英語科を卒業し、1935年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社した。 1958年3月にテレビ西日本専務に就任し、1963年に副社長を経て、1967年から1971年までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1986年1月28日肺炎のために死去。79歳没。
黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、190… 黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、1906年7月27日または1907年7月27日 - 1987年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 京畿道平沢郡(現・平沢市)出身。中東学校(現・中東高等学校)卒、1927年早稲田大学政外科修了。1930年に平沢郡協同組合組合長、1944年に朝鮮商工会平沢郡出張所長を務めて、平沢郡農会議員、平沢郡国民会長、生活必需品商業組合理事長、平沢畿湖水利組合組合長、平沢中学院設立者・院長、朝鮮紡績理事・重役、世界食糧農業機関韓国支部副会長、京南水利組合組合長、テドン産業会長、第3代国会農業資金特別対策委員会委員長・水害対策委員会委員長、民主共和党政策委員を務めた。
森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977… 森 茂雄(もり しげお 、1906年3月18日 - 1977年6月24日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手・監督・実業家。
嶺 駒夫(みね こまお、明治39年(1906年)3月16日 … 嶺 駒夫(みね こまお、明治39年(1906年)3月16日 - 昭和49年(1974年)11月16日)は、日本の実業家。元昭和製袋工業社長。 妻の淑子は櫻内幸雄(商工大臣、農林大臣、大蔵大臣を歴任)の二女、娘の貴代子は福田康夫(第91代内閣総理大臣)の妻、孫の福田達夫は衆議院議員。 趣味は音楽、登山。宗教は浄土宗。 中国電力会長を務めた櫻内乾雄とは明治中学校1年生のときからのクラスメートであり、親友だった。妻・淑子は櫻内の妹である。
藤井 丙午(ふじい へいご、1906年(明治39年)2月23… 藤井 丙午(ふじい へいご、1906年(明治39年)2月23日 - 1980年(昭和55年)12月14日)は、日本の実業家、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。新日本製鐵副社長、参議院議員などを歴任した。 財界にあって、政界とのつきあいも広く、参議院議員になるなど「財界政治部長」の異名を取った。 岐阜県加茂郡黒川村(現白川町黒川)出身。早稲田大学専門部政治経済科在学中に、早慶戦の入場券を学校当局が不正配分したとして、学生がストライキを起こす騒ぎに発展したが、藤井は学生側委員長としてストライキを指揮した。この騒ぎは、中野正剛・緒方竹虎が学校と学生の間に入って仲介を務めたが、このことが縁で、1931年(昭和6年)3月卒業後、同年4月に(中野と緒方が在籍していた)朝日新聞社に入社した。
崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、190… 崔 秉国(チェ・ビョングク、朝鮮語: 최병국/崔秉國、1906年2月16日または1907年 - 1973年9月)は、日本統治時代の朝鮮の教員、大韓民国の実業家、政治家。烏山面(現・烏山市)面長、第3代韓国国会議員を歴任した。本貫は全州崔氏(朝鮮語版)。 京畿道華城郡出身。早稲田大学政治科卒。大成学校教員を経て、解放後は大同青年団烏山面団長、大韓青年団(朝鮮語版)烏山面団長・華城郡団長・中央総本部中央執行委員、烏山商事常務理事・監事、烏山中学財団理事長、烏山面長、自由党華城乙区党委員長、第3代民議員を務めた。 1957年、贓物を横領した疑いで徐寅洪議員の随行員2名は警察の取り調べを受けたが、当初は崔の随行員という虚偽な陳述をした。
高洲 九郎(たかす くろう、1906年1月21日 - 198… 高洲 九郎(たかす くろう、1906年1月21日 - 1981年3月8日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。佐賀県出身。 1928年に早稲田大学商学部を経て、1932年にバーミンガム大学高等部を卒業し、1933年に三井鉱山に入社した。1934年に三井物産を経て、1947年9月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)取締役に就任し、1952年11月に常務、1955年6月に専務、1965年11月に会長を経て、1967年11月から1974年2月までに社長を務めた。 1981年3月8日心不全のために死去。75歳没。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> … 内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> 5月15日 - 2009年 <平成21年> 7月8日)は、日本の経営者。オリンパス光学工業(現在のオリンパス)社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1931年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に高千穂製作所(現在のオリンパス)に入社。1945年12月に取締役に就任し、1954年7月に常務、1963年12月に専務を経て、1967年6月に社長に就任。1971年12月に会長に就任し、1973年12月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2009年7月8日老衰のために死去。
浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月1… 浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月11日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。熱海市議会議員。相模屋社長。伊豆山観光協会長。 新潟県・須山斌二郎の三男。1927年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。東京大北電信会社に勤務。相模屋旅館・浜田三郎の養子となる。養父経営の相模屋旅館を継承する。1947年、熱海市議に当選。 教育委員長、早大稲門会会長、ユネスコ理事長に挙げられる。1948年、家業の相模屋を株式に改組と共に専務に就任。1955年、熱海商工会議所副会頭に就任。 宗教は真言宗。趣味は絵画、野球、乗馬、ゴルフ、カメラ、登山。住所は静岡県熱海市伊豆山。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15… 多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15日 - 2002年(平成14年)5月31日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家、アマチュアボクシング選手、プロボクサー。衆議院議員。 岡山県窪屋郡、現在の倉敷市出身。1940年(昭和5年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 東京吉井洋行を経営。合同新聞記者となり、大阪時事新報記者、満州新聞大阪支社営業部長、山陽民報主筆を歴任。南北アメリカ、アフリカ、インド、中国、満州等の各地を取材して回り、また従軍記者として中国大陸や南方に派遣された。その他、在外同胞帰還促進会理事、日本漁民組合瀬戸内海部長、倉敷体育協会副会長、備中板金加工業組合理事長、遠藤青汁取締役社長、ほか内海高速汽船(のち琴平高速汽船)社長、遠洋漁業協同組合理事長などを務めた。
内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38… 内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38年)3月12日 - 1989年(平成元年)10月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡石地町長。 新潟県刈羽郡石地町(朝日町、西山町を経て現柏崎市西山町石地)で、素封家・内藤鷲郎(内藤久寛養子)の長男として生まれる。1930年(昭和5年)早稲田大学経済科を卒業した。 1931年(昭和6年)9月、新潟県会議員に当選し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に新潟県第3区から立憲民政党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その他、石地町長、新潟県町村長会副会長、刈羽郡町村長会長、新潟県大陸開拓協会副会長、大政翼賛会刈羽郡支部長、柏崎税務署管内家屋賃貸価格調査委員、青少年団長、帝国在郷軍人会石地分会長、石地町農会長などを務めた。
瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905… 瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905年(明治38年)2月15日 - 1975年(昭和50年) )は日本の実業家である。日産化学総務部長を経て日本証券代行(現:三井住友信託銀行)取締役。岡山県井原市出身。 1905年(明治38年)岡山県後月郡県主村(現:井原市)の渡辺家に生れる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に芥川賞作家の石川達三、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)編成局次長になる金澤覚太郎、日本電気化学社長になる日野西義輝、倉敷紡績取締役になる翁孝文がいた。1924年(大正13年)卒業後、早稲田大学高等予科(商科)を経て、1926年(大正15年)早稲田大学商学部へ入学した。
仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年… 仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年)10月15日 - 1958年(昭和33年)5月27日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 沖縄県那覇区垣花町(現那覇市垣花町)で、清水泡盛醸造元の仲村家に生まれる。1923年(大正12年)那覇市立商業学校を卒業。その後上京して、1927年(昭和2年)、早稲田大学法律科を卒業。 帰郷して家業に従事。その後、沖縄酒造組合連合会代議員、同評議員、那覇商工会議所議員、首里無尽社長などを務めた。 1941年(昭和16年)沖縄県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月20日に就任し交友倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)12月14日に議員を辞職した。
塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月… 塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日 - 1989年〈平成元年〉9月7日)は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業。早稲田大学法律科で学んだ。 津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた。 日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選。