高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1… 高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1999年8月4日)は、日本のオーディオ評論家、音楽評論家。 ヴァイオリニストの父・高城重之(横浜翠嵐高校校歌作曲者)と、ピアニストの母・翠の長男として東京に生まれる。実妹に作曲家・音楽教育家の涌井曄子がいる。その三女の涌井純子(純の文字に草冠が付く)は作編曲を施すハープ奏者。 小学校入学前からピアノを弾いており、1929年、福岡県中学修猷館を卒業し、東京高等師範学校理科第1部(数学)に入学。同時に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)選科のピアノ科、後に作曲科に通い、ピアノを榊原直と田中規矩士、作曲を橋本国彦に学ぶ。 その後、都立三田高校数学教諭、都立南高校校長、都立深沢高校校長などを歴任するが、その傍ら日本のオーディオ界の草分けとしても活躍。
金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1… 金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1998年6月30日)は、日本の経営者。長崎県出身。 1934年に慶應義塾高等部を卒業し、1937年に日産火災海上保険に入社。1959年に取締役に就任し、1963年に常務、1966年に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格し、1977年4月までに務めた。 1976年9月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年6月30日腎不全のために死去。86歳没。
不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980… 不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980年5月11日)は、日本の女優、女剣劇の開祖。1930年代以降、初代・二代目の大江美智子とともに女剣劇の全盛期を築きあげた舞台女優である。 戦前の女剣劇創成期から、卓越した立ち回り技術と、しばしば「男性的」とも評された中性的なイメージで人気を博した。 本名は迫 静子(さこ しずこ)。旧姓・大西。 1912年(明治45年)3月18日、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)に生まれる。香川県綾歌郡坂出町(現在の同県坂出市)に生まれる。 1916年(大正5年)、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)出身の旅役者・迫日出雄の養女になり、戸籍上の名が「迫静子」となる。
三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16… 三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16日 - 2005年(平成17年)6月15日)は、日本画家、江戸風俗研究家。 香川県高松市に生まれる。実家は古くから歌舞伎芝居などの背景画や小道具、看板等を描く仕事をしていた。 東京美術学校日本画科卒業。岡本綺堂「半七捕物帳」など挿絵の分野で活躍ののち、江戸時代の風俗考証画を描くことに専念する。 日本文芸家協会会員。江戸を語る「江戸会」に属した。1988年、「失われてゆく江戸風俗を四十年の歳月をかけ、『江戸職人図聚』はじめ数著に集大成、江戸風俗の”絵引き”として貴重な資料を提供」した功績により、吉川英治文化賞を受賞した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
尾上 政次(おのえ まさじ、1912年3月14日 - 199… 尾上 政次(おのえ まさじ、1912年3月14日 - 1994年1月18日)は、日本の英語学・アメリカ文学者、翻訳家。中央大学名誉教授。 兵庫県姫路市生まれ。尾上作兵衛の六男。姫路高等学校を経て、1934年東京帝国大学英文科卒。1939年まで大学院に在籍し、大阪高等学校教授、武蔵大学教授、戦後1951年中央大学経済学部助教授、1953年文学部助教授、教授、1982年定年となり名誉教授。はじめアメリカ英語を研究し、のち文学研究、翻訳をおこなった。 1994年1月18日、急性心不全のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
水上 一久(みずかみ いちきゅう、1912年3月14日 - … 水上 一久(みずかみ いちきゅう、1912年3月14日 - 1962年4月12日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 石川県金沢市生まれ。1932年第四高等学校文科甲類卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「荘園制の崩壊より見たる中世の東寺領」。 1935年鹿児島県史編纂委員、1943年立命館大学文学部教授を経て、1945年第四高等学校講師、1946年同校教授、1950年金沢高等師範学校教授、1952年金沢大学法文学部助教授、1958年同教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 19… 石野 信一(いしの しんいち、1912年3月13日 - 1996年1月19日)は、日本の大蔵官僚、実業家。第8代大蔵事務次官、さくら銀行名誉会長。文芸評論家の村上一郎は従兄弟。 神戸三中、大阪高校を経て、1935年、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、大蔵省入省。主計局配属。理財局総務課長、大臣官房調査部長、理財局次長の後、1957年6月11日に俗に「森 - 石 ライン」と呼ばれることとなった森永貞一郎の下で官房長を務め、1959年に銀行局長、1961年に主計局長を経て、1963年に大蔵事務次官に就任、池田勇人首相の高度経済成長政策のブレーンとして活躍した。熟慮断行タイプとして知られ、大臣官房財務調査官(大臣官房調査課担当)だった1954年度予算編成では緊縮型予算を主張し貫徹した話は伝説になっている。
山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月1… 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、日本の女優・実業家・社会事業家・慈善家。兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。映画人の育成、功績のあった人の賞賛、教育・文化・福祉事業への支援活動に、私財を投げ打った。 1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった。
松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 19… 松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 1985年8月20日)は、日本の俳優。太陽プロモーション所属。奈良県出身。 大阪府大阪市福島区生まれ。早稲田大学文学部英文学科卒業。 北支那方面軍へ兵役後、1934年、中央演劇会を経て同年中に村山知義らの新協劇団に研究生として参加する。1935年に映画デビューする。その後スマトラ島からタイへの兵役を経て、1952年に滝沢修、宇野重吉らの劇団民藝に入団、『セールスマンの死』などの舞台に立った。1973年に民藝を退団し、フリーとなった。舞台のほか、映画、テレビドラマでも渋い脇役として活躍した。 趣味・特技は関西弁、剣道(2段)。
阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13… 阿具根 登(あぐね のぼる、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉1月16日)は、日本の政治家。参議院議員(5期、日本社会党)。参議院副議長。位階は正三位。 福岡県大牟田市出身。海軍横須賀通信学校卒。三井三池炭鉱に就職し、戦後大牟田市議を経て1949年に三井三池労組の初代組合長に就任。1953年、参院選に全国区から社会党公認で立候補し当選する。党参議院国対委員長を歴任し、三井三池争議では社会党の一員として調停役に回った。1965年の参院選で落選、1967年には熊本県知事選にも立候補するが落選し、翌1968年の参院選で国政に返り咲いた。 1978年、飛鳥田一雄委員長の下で下平正一、北山愛郎らと共に党中央執行副委員長に就き、1980年の衆参同日選後は党参議院議員会長に就任。
住友 彰(すみとも あきら、1912年3月12日 - 201… 住友 彰(すみとも あきら、1912年3月12日 - 2011年8月16日)は、日本の土木技術者。専門はトンネル工学。 福岡市に生まれる。1930年福岡県中学修猷館を経て、1935年九州帝国大学工学部土木工学科を卒業。 1935年内務省技師となり、下関工事事務所に勤務。1937年下関市と門司市(現・北九州市)の海底を結ぶ関門国道トンネルの調査工事の下関側責任者となり、戦中の工事休眠期間中は他事務所へ転任。工事が再開されると、併任のまま関門国道工事に携わる。戦前、戦中から、1958年の完成まで、21年間にわたって一貫してトンネル工事の調査から設計施工までを幹部として関わり、関門国道トンネルの完成に尽くした。
中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月1… 中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月11日- 1988年(昭和63年)3月27日)は、新潟県出身の歌人。長岡工業高等専門学校名誉教授。コスモス短歌会新潟県支部長。 新潟市刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。 町立小千谷尋常小学校から旧制県立小千谷中学校を経て、國學院高等師範学校を卒業した。卒業後は水戸工業学校で教員(国語・漢文)となる。 1938年、歩兵第58連隊少尉として支那事変に従軍した。除隊後、新潟県立糸魚川中学校で教職に復帰する。 1945年7月に再度の招集を受け、広島県からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没する。
岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2… 岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」[4]。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる[5]。
赤松 明勅(あかまつ めいちょく、1912年3月11日 - … 赤松 明勅(あかまつ めいちょく、1912年3月11日 - 1965年2月6日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡金砂村(のち伊予三島市、現・四国中央市)出身。日本大学大阪専門学校(現・近畿大学)で学ぶ。海南新聞記者となり、赤松博集堂製本工場を経営する。関西製本業統制組合専務理事、全国製本紙工商工業協同組合専務理事、上分村農民組合長となる。 戦後、日本社会党愛媛県支部連合会執行委員となり、1947年の第23回衆議院議員総選挙では愛媛2区から日本社会党公認で立候補してトップ当選、衆議院議員を1期務めた。1949年の第24回衆議院議員総選挙では社会革新党から立候補したが落選した。
佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1… 佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1983年1月23日)は、日本の陸上競技選手。 秋田県鹿角郡小坂村(現在の小坂町)に生まれる。1929年に大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、小坂鉱山花岡支社に入社し、明治神宮大会の男子100mで優勝する。 翌年、東京高等師範学校に進み、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝し、ついで1931年には一般対抗学生選手権の4×100mリレーの学生チームの第2走者として、41秒6で当時の日本記録を樹立した。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれたが、怪我のために辞退した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは男子100メートルに出場した。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
横地 治男(よこち はるお、1912年3月10日- 2007… 横地 治男(よこち はるお、1912年3月10日- 2007年3月28日)は、日本の実業家、柔道家。島根県隠岐の島町名誉町民。 島根県隠岐郡出身。島根県立隠岐商船水産学校(現・島根県立隠岐水産高等学校)を卒業し陸軍に入隊、少尉で終戦を迎えて満州から復員した。復員後は防錆用の塗料販売業を手掛け、1956年に大日本化学商事(現ダイニッカ)として法人化。リッカーが経営破綻した際には一時期事業管財人を務めている。 実業界での活動の傍ら1975年には東京都世田谷区に柔道の私塾「講道学舎」を創立。オリンピック選手をふくめ、約200名の選手を輩出した。また、全日本柔道連盟顧問も務めた。 2007年3月28日、不整脈のため東京都目黒区の病院で死去、95歳没。
原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - … 原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - 1980年6月25日)は、日本のジャーナリスト、ロシア語翻訳家、国際問題評論家。 戦前は同盟通信社の記者の傍らロシア文学を翻訳、戦後は時事通信社の記者として主としてロシア問題を論じていたが、1959年、社命によりボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を初めて日本語に翻訳した。 秋田県生まれ。1933年、青山学院文学部英語師範科卒業。 1939年、同盟通信社入社。1945年、時事通信社に入社し、外信部長、モスクワ特派員、時事研究所長などを歴任。1971年退職。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
田坂 興道(たさか こうどう 、1912年3月10日 - 1… 田坂 興道(たさか こうどう 、1912年3月10日 - 1957年3月23日)は日本昭和時代の東洋史学者。 明治45年(1912年)、山口県に生まれる。東京大学文学部東洋史学科卒業。東方文化学院研究員をへて昭和30年中央大学教授となる。アラビア語、ペルシャ語などの原史料にもとづくイスラム史研究をこころざす。遺稿に「中国における回教の伝来とその弘通」。昭和32年(1957年)3月23日死去。享年45。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没… 重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没年不明)は、日本の歯科医師、政治運動家・『日本世直し党』党首。 かつて党本部所在地として届け出ていた神奈川県大和市の住所には歯科医院が存在している。
小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10… 小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10日 - 1944年(昭和19年)7月23日)は、小説家太宰治の内縁の妻。芸者としての名は紅子。太宰からはハツコと呼ばれていた。 「HUMAN LOST」(1937年)や「姥捨」(1938年)や「東京八景」(1941年)など多数の太宰作品に登場する一連の女性のモデルとなった。 父・小山藤一郎と母・キミ(旧姓:吉沢)の長女として北海道室蘭市に生まれる。1922年(大正11年)、父が失踪したため、母子家庭となり、一家で青森に移住。母は置屋「野沢屋」で裁縫師として働いた。 1925年(大正14年)3月、南津軽郡大鰐町の大鰐尋常小学校を卒業し、母の勧めで料亭「玉屋」(野沢屋の後身)に仕込妓(芸妓の使い走り)として住み込みで働く。
阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日… 阿部 竹松(あべ たけまつ、1912年(明治45年)3月7日 - 1973年(昭和48年)4月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 秋田県雄勝郡で生まれる。北海道上川郡和寒村(現和寒町)に家族と共に移住。1923年(大正12年)和寒尋常高等小学校を卒業。その後、秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を中退した。 農民運動にかかわった後、1937年(昭和12年)三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社し大夕張砿業所(三菱大夕張炭鉱)保安係となる。1945年(昭和20年)大夕張炭鉱労働組合の結成に参画し副委員長となる。日本社会党北海道連の結成に加わる。1947年(昭和22年)大夕張炭鉱労組委員長に就任し、同年、夕張市議会議員となる。
長谷川 テル(はせがわ てる、1912年〈明治45年〉3月7… 長谷川 テル(はせがわ てる、1912年〈明治45年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉1月10日ないし1月14日(文献により異なる)は、日本のエスペランティスト、反戦・反帝国主義運動家。 本名は長谷川 照子(はせがわ てるこ)。筆名は緑川 英子(みどりかわ えいこ)。エスペラント名は Verda Majo (ヴェルダ・マーヨ:緑の五月)。父は土木技師。女優の吉永小百合の母和枝とその妹の評論家川田泰代は遠縁にあたる。 山梨県大月市に生まれる。1929年、東京府立第三高女(現在の東京都立駒場高等学校)を卒業後、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)に進学。学内で文化サークルを同級生と伴に作り、エスペラントを学ぶ。
吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7… 吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7日 - 1993年(平成5年)2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。
都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 … 都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 - 2006年〈平成18年〉2月5日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。 初代一橋大学経済研究所長、第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)を歴任、日本学士院会員に選出された。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこなった。 大分県生まれ、名古屋市育ち。小学校第5学年修了、旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第4学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対して欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍される。
古関 金子(こせき きんこ、1912年(明治45年)3月6日… 古関 金子(こせき きんこ、1912年(明治45年)3月6日 - 1980年(昭和55年)7月23日)は、日本の声楽家、詩人。旧姓、内山。夫は、作曲家の古関裕而。 1912年(明治45年)、内山安蔵・みつの六女として、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)に生まれる。家族は、長兄と女性10人(うち、長女・次女・三女・八女は早世)。父・安蔵は、豊橋市に駐屯していた陸軍第十五師団に蹄鉄・馬具・蹄油などの物資を納入する「内山安蔵商店」を営んでいたが、金子が12歳の時(1924年(大正13年)10月3日)に死去。その後は母親が家業を引き継ぎ、子育てをした。 金子は、幼い頃からお転婆で、音楽と文学が好きでオペラ歌手を目指していたという。
遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979… 遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979年8月3日)は日本のピアニスト、音楽教育者。京都府出身。1929年に東京音楽学校予科に入学。1933年3月に同校本科器楽部ピアノ専攻を卒業。同年より同校の聴講科と研究科に進学し、1935年3月に聴講科ピアノ専攻を、1936年3月に研究科作曲部を修了。レオ・シロタ、クラウス・プリングスハイム、レオニード・クロイツァーに師事した。1939年10月(2日または20日)にデビュー。上野楽星会員。東京女子高等師範学校、武蔵野音楽学校、上野児童音楽学園講師。お茶の水女子大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4… 森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、歌人。夫は作家の豊田三郎と、長女は森村桂。 群馬県伊勢崎市の旧家の生まれ。東京府立第五高等女学校卒。女子高等学園で西角井正慶に和歌の教えを受ける。同人誌『海石榴』を発行。1946年『鶏苑』に参加。1953年加藤克巳を中心に『近代』を創刊。1954年に『古今』に入会。1960年北沢郁子らと同人誌『藍』を創刊する。現代歌人協会会員。
大野 昭和斎(おおの しょうわさい、1912年3月4日 - … 大野 昭和斎(おおの しょうわさい、1912年3月4日 - 1996年8月30日)は、日本の木工芸家。 本名は片岡誠喜男(かたおか せきお)。重要無形文化財「木工芸」の保持者(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては中臺瑞真とともに3番目の認定者(1984年)である。 岡山県総社市八代生まれで、1920年に西阿知町に移り住む。父で指物師の片岡斎三郎に14歳で師事、指物や象嵌を修行する。23歳のころ文人画家柚木玉邨(ゆのきぎょくそん)に師事、絵画を習い昭和斎と命名される。作品には桑を好む。桑のほかに欅、柿、黄楊木、肥松(こえまつ)も使う。指物・象嵌の技術に優れ、作品は箱や文机、卓、飾り棚、小箪笥、盛器、香盆、菓子鉢などを作り、箱の四方の直線に線象嵌を用いて指物独特の直線の美しさを見せる。
石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月… 石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月3日 - 2003年 <平成15年> 12月31日)は、日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。位階は正三位。 東京の府立四中を経て、旧制浦和高校入学。浦和高時代に学生ストライキを煽ったとして停学処分を受け、2年遅れで東北帝国大学法文学部法科入学。1937年(昭和12年)に東北帝大法科卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係に勤め、その後専務や副社長として長く川又克二社長を支えた。 1954年(昭和29年)、42歳の時に取締役に就任し、将来の「日産の社長候補」と目された。
福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日… 福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月17日)は、日本の政治家。勲二等従四位。衆議院議員総選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。 香川県高松市出身。旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満洲に渡って満洲国の機関紙「斯民」の記者となる。満洲人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年に25歳で社長就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970… 李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970年)は、韓国の時調の詩人、ジャーナリスト。本貫は慶州李氏、本名はイ・ホ(이호)。慶尚北道の清道郡出身。妹は詩人の李永道。 解放後は詩人として活動しながら、大邱日報、大邱毎日新聞の編集局長・論説委員などを務めた。
小川 昂(おがわ たかし、1912年3月1日 - 2008年… 小川 昂(おがわ たかし、1912年3月1日 - 2008年4月14日)は日本のミュージック・ライブラリアン (音楽司書) の先駆者。NHK資料室でレコードや楽譜など音楽資料の整理に長年携わり、音楽関係の多様なレファレンスブックを刊行。また後進の育成にも尽力した。1972年黄綬褒章受章。 1912年東京に生まれた小川昂は、父の転勤により10歳の時京都へ転居。役人であった父親は几帳面で整理魔であり、また管楽器を吹く趣味もあった。小川は中学在学中からチェロを学び東京音楽学校に進学を志すが、父の許しが得られず断念。京都帝国大学農学部図書室へ就職し、上司や先輩から仕事の手ほどきを受ける。京大オーケストラに参加する一方、青年図書館連盟の集会で間宮不二雄に認められる。
菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年… 菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年> 3月1日 - 1984年 <昭和59年> 8月31日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。 宮城県仙台市出身。1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本郵船に入社。1959年に取締役に就任し、1961年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1971年には社長に昇格した。1978年6月に会長に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年8月31日肝不全のために死去。72歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
庄司 保親(しょうじ やすちか、明治45年(1912年)3月… 庄司 保親(しょうじ やすちか、明治45年(1912年)3月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元合資会社第弐商会代表社員社長。元鳥取県西伯郡渡村会議員。 女優・司葉子はいとこ。 明治45年(1912年)3月1日、鳥取県西伯郡渡村(現境港市渡町)に庄司廉の長男として生まれる。 昭和11年(1936年)東京帝国大学経済学部卒業。 昭和17年(1942年)鳥取県石炭統制(株)常務取締役。昭和21年(1946年)鳥取地方裁判所調停委員(~1980年)。昭和26年(1951年)合資会社第弐商会代表社員社長。昭和35年(1960年)協和地下工業(株)代表取締役社長。 昭和36年(1961年)鳥取県教育委員(~1969年)昭和37年(1962年)(株)博愛病院取締役社長。
福田 久男(ふくだ ひさお、1912年3月1日 - 1998… 福田 久男(ふくだ ひさお、1912年3月1日 - 1998年5月9日)は、日本の経営者。中央信託銀行社長を務めた。福岡県築上郡吉富町出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1962年5月に中央信託銀行専務に就任し、1968年11月に副社長を経て、1970年12月に社長に就任。1979年12月に会長に就任し、1983年12月に取締役相談役を経て、1987年3月には相談役に就任。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1998年5月9日に急性腎不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
寺島 隆太郎(てらしま りゅうたろう、1912年3月 - 1… 寺島 隆太郎(てらしま りゅうたろう、1912年3月 - 1964年7月31日)は、衆議院議員(8期)。正四位勲二等。
大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 19… 大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 1990年5月28日)は、日本の技術者、経営者である。トヨタ自動車工業の元副社長。 かんばん方式など生産管理のあり方として世界的に有名となった“トヨタ生産方式(Toyota Production System、略称TPS)”を体系化した人物である。その業績により、日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りしている。 中華民国の大日本帝国租借地関東州大連市生まれ。大野は旧制愛知県立刈谷中学校(現愛知県立刈谷高等学校)および名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械科を卒業後、1932年(昭和7年)豊田紡織(現:トヨタ紡織)に入社し、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)トヨタ自動車工業(現:トヨタ自動車)に転籍した。
宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は… 宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は28日) - 1983年3月5日)は、日本の小説家、翻訳家。本名は池上 子郎。 岡山県岡山市生まれ。 宮内の父は元逗子開成中学校社会科教師の石塚巳三郎(1881年生)。巳三郎は1910年に七里ヶ浜で起きた逗子開成生徒のボート遭難事件で世間から猛批判を受けて逗子開成を辞し、四国八十八箇所巡礼の旅に出た。岡山で教員となり、その地で池上家へ婿養子に入り世間から身を隠すように苗字を変え、池上巳三郎となり、生まれた子が池上子郎、すなわち宮内寒弥である。 1923年に一家で南樺太に移住。1932年早稲田大学に入学し、同人雑誌『早稲田文科』などに作品を発表する。
藤本 武(ふじもと たけし、1912年2月28日 - 200… 藤本 武(ふじもと たけし、1912年2月28日 - 2002年6月9日)は、日本の経済学者。経済学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「最低賃金制度の研究」)。元日本女子大学文学部教授。 京都府舞鶴市生まれ。1935年東京帝国大学経済学部卒、1962年「最低賃金制度の研究」で、東京大学より経済学博士の学位を取得。 全国米穀販売購買組合連合会、日本労働科学研究所、日本女子大学文学部教授、労働科学研究所客員所員。1972年社会政策学会代表幹事。
内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 20… 内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 2003年9月2日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の設計部員、富士重工業の取締役、東海大学の教授などを務めた。戦前は艦上偵察機「彩雲」、戦後は国産初の量産型ジェット機T-1の設計などを手掛けた。 第二高等学校、大阪帝国大学数学科を経て、飛行機の研究をするため、東京帝国大学工学部航空学科に入学。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、高山捷一、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。卒業論文は「翼性能に及ぼす乱れ及び規模効果の影響」。中島飛行機社長の中島知久平から連絡を受け、同級生の渋谷巌と共に向かい会社訪問で入社が決まった。
宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2… 宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2009年1月2日)は、日本の歌人。口語自由律短歌(いわゆる新短歌)の隆盛に努めた。短歌雑誌「未来山脈」代表。京都歌人協会委員長。新短歌人連盟会長。現代歌人協会会員。 滋賀県坂田郡息長村箕浦(現在の米原市)、米原駅近くの母の生家で生まれる。2歳の時に、警察官だった父を殉職で失う。その後、教職についた母に育てられる。 昭和6年、県立彦根中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)時代、歌人の平井乙磨の薦めで前田夕暮の「詩歌」の会員となり、矢代東村の選で「詩歌」に初めて短歌5首が掲載された。横浜の旧制横浜専門学校(現在の神奈川大学)に進学するため関東に移り、中野嘉一や香川進らと出会う。
大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月… 大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月24日 - 1949年(昭和24年)4月10日)は、昭和前期の教育者、公吏(地方公務員)、政治家。衆議院議員。 長崎県北松浦郡出身。長崎県師範学校を卒業し、長崎県公立小学校訓導、東京市王子小学校訓導、赤羽小学校訓導を務めた。 その後苦学して1939年(昭和14年)東京文理科大学(のち東京教育大学)教育学科を卒業した。東京市役所に入り、同書記、東京都属、同主事を歴任した。 1947(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。1949(昭和24年)1月の第24回総選挙では無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 19… 勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 1991年5月28日)は、元日本債券信用銀行会長。朝鮮銀行入行後、日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)に入り、常務、副頭取、頭取を歴任。父は朝鮮銀行総裁、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。『重臣たちの昭和史』『中国借款と勝田主計』を著す。 東京府下豊多摩郡渋谷町中渋谷に、愛媛県松山市出身の大蔵官僚勝田主計・伊与子の4男として生まれる。 東京府青山師範学校附属小学校、東京府立一中に入学。その頃、一中においてサッカー部が創部され、キャプテンになる。1930年、一中卒業と同時に、同校地にあった旧制府立高等学校に入学。
水谷 啓二(みずたに けいじ、1912年2月22日 - 19… 水谷 啓二(みずたに けいじ、1912年2月22日 - 1970年3月19日)は熊本県八代市出身の人物。共同通信社勤務を経て、森田正馬の創始した精神療法「森田療法」の普及に尽力した。 (以下、生涯、略歴等の記述はおもに水谷啓二追想録編集委員会 (2010)による) 水谷啓二は明治45年(1912年)、熊本県八代に生まれる。両親は教師、四人兄弟の長男だった。旧制第五高等学校に在学時代、神経症に悩み五高を一年留年している。 五高時代に上京した際、本屋で森田正馬の著書『神経衰弱と強迫観念の根治法』に出会い、感銘を受けて本郷の森田正馬を訪ねるも、森田からまずは五高を卒業するよう言われた。 一年後(1932年)に父親の反対を押し切って上京。
伊沢 一郎(いざわ いちろう、1912年〈明治45年〉2月2… 伊沢 一郎(いざわ いちろう、1912年〈明治45年〉2月22日 - 1995年〈平成7年〉5月14日)は、日本の俳優。熊本県菊池郡河原村(現・菊池市)出身。本名:萱野 季男(かやの すえお)。女優の美川かつみは妻。俳優の川谷拓三は甥。 高輪商業学校卒業。1930年に日活太秦に入社。1931年にサイレント映画『かんかん虫は唄ふ』でデビュー。朴訥だが誠実なキャラクターで注目され、『ためらふ勿れ若人よ』、『魂を投げろ』などの作品で、デビュー間もない原節子とのコンビで主演。戦後も脇役として活躍。熊本なまりの喋りと親しみのあるキャラクターが特徴だった。温厚な性格でも知られており、時代劇や特撮、更にはロマンポルノとジャンルを問わず幅広い作品に出演した。
時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 19… 時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 1994年11月2日)は、日本の教育者。学校経営者。元学校法人北星学園理事長。 北海道札幌市生まれ。1935年北海道帝国大学農学部卒業。同年、札幌光星商業学校教諭。1946年北星高等女学校教諭。1948年北星学園高等部部長(学校長)。1951年北星学園理事。北星学園女子短期大学副学長。1956年北星学園幼稚園園長。北星学園女子短期大学学長。1969年北星学園第2代理事長に就く。1987年学校法人稚内北星学園初代理事長。1991年高齢のため同理事長退任。北星学園名誉理事長に就く。
龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - … 龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - 1988年6月28日)は、日本の俳優。神奈川県横浜市出身。本名は龍崎 光一郎。旧芸名は竜崎 一郎。特技は剣道(5段)。師は映画監督の牛原虚彦。 旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高校)卒。 新興キネマ、高田プロダクション、東宝、ぷろだくしょん森に所属していた。 1988年6月28日、肺癌のため死去。76歳没。
生田 勉(いくた つとむ、1912年2月20日 - 1980… 生田 勉(いくた つとむ、1912年2月20日 - 1980年8月4日)は、日本の建築家・建築学者。東京大学名誉教授。木造の温かみを生かした住宅・山荘作品に独自の境地を開いた。また、アメリカの文明批評家であるルイス・マンフォードの著作の紹介者としても知られる。 北海道小樽市生まれ。旧制第一高等学校から、1939年東京帝国大学工学部建築学科卒。一高同期に立原道造、大学の一期上に丹下健三・浜口隆一がいる。特に立原とは深く交わった。また、ル・コルビュジエの作品・思想に強い影響を受けた。 その後逓信省営繕課勤務を経て、1944年旧制一高教授。その後東大教養学部助教授となり、1961年教授、1972年定年退官。
高橋 貞一(たかはし さだいち、1912年〈明治45年〉2月… 高橋 貞一(たかはし さだいち、1912年〈明治45年〉2月20日 - 2003年〈平成15年〉3月14日)は、日本の国文学者。 香川県出身。東京文理科大学卒、1961年論文「軍記物語の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。京都府立の高等学校教諭、立命館大学教授を経て、佛教大学文学部教授。1982年定年退任、名誉教授となる。中古・中世文芸、軍記物語が専門。『保元物語』の著者を葉室時長とする説がある。