白䂖 春樹(しらいし はるき、1912年(明治45年)1月2… 白䂖 春樹(しらいし はるき、1912年(明治45年)1月2日 - 1997年(平成9年)3月30日)は、愛媛県伊予郡松前町出身の政治家。愛媛県議会議員時代に自由民主党愛媛県連を率いてリーダーシップを発揮し、保守王国愛媛の基盤を作り、愛媛県知事を4期務めた。同郷で、「四国の大将」と呼ばれた実業家・坪内寿夫とは、特に晩年、犬猿の仲であった。 旧制愛媛県立松山商業学校(現在の愛媛県立松山商業高等学校)を経て、官立高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に進み、1933年(昭和8年)3月に卒業する。 1947年(昭和22年)4月、愛媛県議会議員に当選。戦後の混乱期に、農業団体での活動をバックボーンに、地方政治の世界に足を踏み入れた。
石垣 純二(いしがき じゅんじ、1912年1月2日 - 19… 石垣 純二(いしがき じゅんじ、1912年1月2日 - 1976年1月30日)は、日本の医事評論家。 兵庫県生まれ。1937年東京帝国大学医学部卒。衛生教育家。公衆衛生学会、生活教育の会会員。ラジオドクターの草分け。1950年の第2回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で立候補したが落選した。1953年の第3回参議院議員通常選挙では全国区から無所属で立候補したが落選した。 晩年、将棋に熱中して、その著書『石垣流二枚落大血戦』では、雑誌の企画として行ったプロ棋士相手の「二枚落ち」での下手側対局が紹介されているが、当時は主流戦法ではなかった「銀多伝」戦法を用いたことで注目された。 1976年1月30日、死去。
名取 礼二(なとり れいじ、名取 禮二、1912年(明治45… 名取 礼二(なとり れいじ、名取 禮二、1912年(明治45年)1月2日 - 2006年(平成18年)11月20日)は、日本の生理学者。名取筋線維の創出と研究で知られる。文化勲章受章者。贈従三位(没時陞位)、贈勲一等瑞宝章(没後叙勲)。 東京府生まれ。1929年旧制獨逸学協会中学校卒業、東京慈恵会医科大学予科入学。1936年東京慈恵会医科大学卒業。東京慈恵会医科大学教授などを経て、東京慈恵会医科大学学長・理事長、日本体力医学会理事長、全国医学部長病院長会議会長などを歴任。1976年(昭和51年)に朝日賞、1981年(昭和56年)文化功労者、1986年(昭和61年)には文化勲章を受章。森亘、岡本道雄、高久史麿らとともに日本国際医学協会名誉顧問、石川忠雄、江橋節郎とともに上原財団名誉理事などを務めた。
野村 尚吾(のむら しょうご、1912年1月2日 - 197… 野村 尚吾(のむら しょうご、1912年1月2日 - 1975年5月15日)は、日本の編集者、作家、評論家。本名・利尚。 富山県富山市生まれ。早稲田大学英文科卒業。在学中から『早稲田文学』の編集に携わる。早稲田大学卒業後、毎日新聞社出版部に勤務。1940年、『嫩葉の木立』を刊行して作家デビュー。以後、『早稲田文学』を中心に作品を発表。戦後、谷崎潤一郎の担当となり、1949年、毎日新聞への「少将滋幹の母」連載、1962年、「サンデー毎日」連載の「台所太平記」を担当する。1950年、「遠き岬」で、1960年、「花やあらむ」で芥川賞候補、1962年、『乱世詩人伝』で直木賞候補、1963年、『戦雲の座』で直木賞候補、小説新潮賞受賞。
川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 19… 川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 1996年5月15日)は、日本の工学者。専門は電子回路学。第10代東京工業大学学長・初代長岡技術科学大学学長・第46代電子通信学会会長などを務めた。文化功労者。 栃木県大田原市生まれ。栃木県立大田原中学校(現在の栃木県立大田原高等学校)を経て、1935年に東京工業大学電気工学科を卒業して東京電気株式会社(現在の東芝)に入社し、無線機器の開発などを行なった。1948年、東京工業大学助教授に就任した。1949年に工学博士の学位(学位論文「振幅変調波の伝送に関する研究」)を取得した。1953年に教授、1969年に電子通信学会会長、1971年に工学部長。
来栖 三郎(くるす さぶろう、1912年1月1日 ‐ 199… 来栖 三郎(くるす さぶろう、1912年1月1日 ‐ 1998年10月1日)は、日本の民法学者。東京大学名誉教授。1983年から日本学士院会員。穂積重遠門下。弟子に安達三季生、山田卓生、石田穣、中山信弘など。 台湾新竹州新竹市生まれ。研究に専念するため学会の理事職等は引き受けなかった。生涯独身であったため、研究を義姉が支えた。大変謙虚な性格で、日本学士院会員に推薦された際も躊躇するほどだったという。 同僚であった川島武宜を尊敬するといって憚らず、川島をして天才と言わしめた。そのため、両教授の門下が重複することしばしばであった。 川島、加藤一郎とともにセツルメント法相部の指導教授として活動し、稲本洋之助が社会学へ進む道筋をつけた。
太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 … 太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 - 1998年〈平成10年〉9月14日)は、昭和期の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)議長、元宇部窒素(現・宇部興産→UBE)企画課長。春闘方式を定着させた人物。 岡山県林田村(現・津山市)生まれ。旧制津山中学、旧制第六高校を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。1935年に大日本特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果たした。
川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日… 川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月14日 )は日本の実業家である。三井生命保険、華興商業銀行勤務を経て神戸銀行取締役となり、その後、阪神相互銀行・第2代代表取締役社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)岡山県川上郡川上町領家(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、画家になる皆見鵬三がいた。1929年(昭和4年)に同校を卒業後、旧制第六高等学校へ入学する。1932年(昭和7年)に同校を卒業後、同年、東京帝国大学法学部へ入学する。1935年(昭和10年)3月に東大法学部政治学科を卒業し、三井生命保険へ就職する。
松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 200… 松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 2002年3月19日)は、日本の官僚。通商産業事務次官。日本鋼管会長。
住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 200… 住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 2005年7月28日)は、日本の実業家。学位は、工学博士(東京大学)。第16代当主住友吉左衛門友成男爵の弟。父は住友友純。長男芳夫は住友家第17代当主。住友金属工業専務、住友精密工業会長などを歴任した。 1912年1月1日生まれ。1936年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、1946年に住友金属工業に入社する。1962年11月取締役中央技術研究所所長となり、常務を経て、1970年11月専務に就任、1972年11月に相談役、住友精密工業会長となる。後に両社の監査役を務めた。この間、1953年(昭和28年)3月27日には「復元現象の研究」により東京大学から工学博士の学位を受け、さらに「ガスタービン並びにジェットエンジン用翼材の生産技術の確立」によって大河内記念賞を受賞している。
上林 与市郎(かんばやし よいちろう、1912年1月1日 -… 上林 与市郎(かんばやし よいちろう、1912年1月1日 - 1993年6月8日)は、日本の政治家。 日本社会党衆議院議員(6期)。社会民主連合顧問。 1982年勲二等瑞宝章、1983年羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)、1993年正五位。 山形県東田川郡泉村(現・鶴岡市羽黒町泉)に生まれる。 中央大学法学部卒業後、郷里に戻り、社会の民主化と新しい労農漁民運動の構築に専心。1947年、新憲法下における初の衆院総選挙旧山形2区から日本社会党公認で出馬。連続6期務め、阿部昭吾が秘書として仕える。 議員在任中は、衆院決算常任委員長などを務めたほか、社会党中央執行委員を歴任。加えて全日本農民組合連合会書記長に就き、農民組合組織の統一運動に尽力。
岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 … 岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の台湾総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 台湾出身。出生時より岸田氏に養子に出される。岸田氏は、京都府舞鶴市野村出身。岸田氏方の親戚には岸田久吉、岸田正吉などがいる。実父方の森氏は奄美大島で銃火薬を扱っていた家系である。実母方は大森氏で宮崎県出身。 台北第一師範学校附属小学校、台北高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。台湾総督府に勤務。同総督府では、法制事務を所管する官房審議室、書記官、台南州北門郡郡守などを歴任。 終戦後は台湾総督府残務整理事務所で勤務後に日本に引揚げ、国会職員として勤務。
小関 藤一郎(こせき とういちろう、1912年1月1日 - … 小関 藤一郎(こせき とういちろう、1912年1月1日 - 2002年11月10日)は、日本の社会学者。 1912年、東京で生まれた。第一高等学校文科に入学し、1931年に卒業。東京帝国大学文学部社会学科で学び、1934年に卒業。同大学大学院に進学したが、1935年に退学。戦中は外地で過ごした。 1947年、三重県社会教育課長。1950年、三重県立大学専任講師となり、社会学を担当。1952年、南山大学経済学部助教授となった。1954年に同教授昇格。1960年、関西学院大学社会学部教授に転じた。1970年から1972年には、同社会学部長を務めた。1977年、学位論文『デュルケームと近代社会』を関西学院大学に提出して社会学博士号を取得。
木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 198… 木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 1987年4月7日 )は、日本の経済学者。専門は財政学。一橋大学名誉教授。井藤半彌門下。ドイツ流の財政社会学を日本の財政学に導入。 宮城県志田郡志田村(現・大崎市古川、旧・古川市)生まれ。 1928年和歌山高等商業学校(現・和歌山大学経済学部)に無試験入学。1934年東京商科大学(現・一橋大学)卒業(井藤半彌ゼミナール)、同大学大学院研究科に進学するとともに、高輪商業学校(現・高輪中学校・高等学校)等で教鞭をとる。 1945年に召集により第2師団入隊。同年終戦により復員。 1973年に胃癌が発見され東京女子医科大学消化器病センターで胃3分の1の切除手術を受ける。
法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)… 法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)1月1日 - 1995年(平成7年)3月12日)は望遠鏡製作者。静岡県焼津市生まれ。 鉄工所を経営するかたわら、日本初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめとし、約400台の望遠鏡を作った。その多くが天文台、研究所、大学で使用され、日本の天文学を支えた。「日本には、秘密の精密工場があるに違いない」と、世界中の技術者に言わしめた、天体望遠鏡製作の世界的権威であったが、本人は生涯を職人気質で通した。大胆かつ緻密な手法に、世界中の天文学者、技術者からの信頼を得ていた。 製作した主な望遠鏡には、美星天文台101cm赤道儀式天体望遠鏡、早稲田大学2.4m電波望遠鏡、栃木県子ども総合科学館75cm赤道儀式天体望遠鏡などがある。
林 寿郎(はやし じゅろう、1912年1月 - 1986年7… 林 寿郎(はやし じゅろう、1912年1月 - 1986年7月11日)は、多摩動物公園初代園長、恩賜上野動物園(東京都台東区上野公園)の元園長(第2代)。
佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、… 佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、日本の元アマチュア野球選手。栃木県出身。 宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)から早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは遊撃手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、中国で従軍。しかし、戦地で病を得て1938年(正確な死没月日は不明)に韓国の龍山陸軍病院で戦病死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
石井 正之助(いしい しょうのすけ、1912年 - 1990… 石井 正之助(いしい しょうのすけ、1912年 - 1990年)は、英文学者、東京学芸大学名誉教授。東京都生まれ。麹町小学校、旧制豊山中学校を経て、1935年東京外国語学校英語部卒業、50年文部省内地研究員として東京文理科大学在籍。51年ガリオア留学生として米国オハイオ州立大学大学院に学ぶ。69年「ロバート・ヘリック研究」で東京教育大学文学博士。東京学芸大学教授、76年定年退官、名誉教授、白百合女子大学教授。83年退職。
荒川 正嘉(あらかわ まさよし、1912年 - 没年不詳)は… 荒川 正嘉(あらかわ まさよし、1912年 - 没年不詳)は、広島県出身のプロ野球選手。 呉工業学校(旧制)から呉海軍工廠を経て、1938年秋に名古屋金鯱軍へ入団。1940年に退団。
小林 利蔵(こばやし としぞう、1912年 - 1973年)… 小林 利蔵(こばやし としぞう、1912年 - 1973年)は、福井県敦賀市出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは一塁手、二塁手、三塁手。
岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は… 岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は、兵庫県出身の野球選手。
勝山 正躬(かつやま まさみ、1912年 - 1989年)は… 勝山 正躬(かつやま まさみ、1912年 - 1989年)は、日本の教育者。灘中学校・高等学校第4代校長。 兵庫県出身。旧制兵庫県立姫路中学校、旧制姫路高等学校を経て、京都帝国大学文学部卒業。1936年、旧制灘中学校に着任。1971年から1987年まで校長を務めた。
谷口 隆之助(たにぐち りゅうのすけ、1912年 - 198… 谷口 隆之助(たにぐち りゅうのすけ、1912年 - 1982年3月)は、日本の宗教哲学者、宮城学院大学名誉教授。東京生まれ。青山学院中等部、神学部卒、京都帝国大学哲学科選科卒。1943年、京都大学宗教学研究室嘱託。1947年、東北学院専門学校(東北学院大学の前身)教授。東北学院大学助教授、宮城学院女子大学教授。1969年から1970年まで、大阪産業大学学長。のち、八代学院大学学長、1976年退職。
牧田 諦亮(まきた たいりょう、1912年(明治45年) -… 牧田 諦亮(まきた たいりょう、1912年(明治45年) - 2011年(平成23年))は、日本の僧侶、中国仏教史研究者。 1912年、滋賀県岩根村(現・湖南市)で生まれた。生家は野洲市の浄土宗念仏寺。小学1年の時、京都の寺町乗願寺・岩井真亮の弟子となった。 佛教専門学校(現佛教大学)を卒業後、大谷大学文学部東洋史学科に進学し、1936年に卒業。京都帝国大学文学部東洋史選科に進み、1939年に修了した。 1942年、中国に渡り、上海東亜同文書院大学助手に就いた。戦後の1946年、東方文化学院京都研究所助手に採用された。同研究所が1949年に改組された後は後継の京都大学人文科学研究所教授となった。
金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2… 金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2年(1990年)9月23日)は、昭和期広島県の教育者である。忠海高等学校・府中高等学校・広島国泰寺高等学校・崇徳高等学校等の校長を歴任した。 1912年に長崎県で生まれる。実兄と同じ旧制第五高等学校で学ぶ。その後、東京帝国大学文学部国文科へ進学し、同校を昭和3年(1928年)3月に卒業する。同年4月より戦前の大手出版社で教科書出版の老舗で知られる冨山房編集部で勤務する。しかし、教職に携わっていた実父・金子豪から「金子豪は長男も教職にあり。直接に育英の道に入るべきぞ」と勧められ、また全国中学校長会長である先輩に相談したところ、「それは丁度いい。
上甲 幹一(じょうこう かんいち、1912年 - 1969年… 上甲 幹一(じょうこう かんいち、1912年 - 1969年)は、日本の国語教育学者。 東京生まれ。1936年東京帝国大学文学部国文科卒。文部省学習指導要領編集委員。名古屋大学教授。
野生司 義章(のうす よしあき、1912年 - 没年不詳)は… 野生司 義章(のうす よしあき、1912年 - 没年不詳)は、日本の建築家。都市プランナー。ラインヒルゴルフクラブや、北砂五丁目団地など日本住宅公団発足初期の団地設計、その他多くの日本住宅公団住宅の設計や旧日本電信電話公社(現NTT)関連の建築物、その他都市開発・法定再開発などの都市計画の仕事を中心に展開した。千葉工業大学建築学科の創設にも携わり、同大学教授として人材の育成にもあたる。戦前期発行されていた雑誌『国際建築』編集にも関与し、建築作家研究などにも優れた業績を残す。工学博士。子息野生司義光も建築家。 東京帝国大学工学部建築科を1940年に卒業後、三菱地所設計部(現三菱地所設計)、海軍技術大尉、戦後の大成建設勤務を経て、野生司建築設計事務所(ピーク時の所員数は約150名)を開設。
松島省三(まつしま しょうぞう、1912年 - 1997年)… 松島省三(まつしま しょうぞう、1912年 - 1997年)は、日本の農学者。長野県出身。 1934年東京帝国大学農学部農学実科卒業。埼玉県鴻巣市にあった農林省農業技術研究所で提唱した早期に有効茎数を確保するV字型稲作理論は現在の稲作技術の原点となった。 父親が内村鑑三に傾倒していたことから自身も熱心なキリスト教信者であり、矢内原忠雄に師事している。
春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - … 春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - 1995年(平成7年))は昭和期の歌手である。 東京都出身。東京音楽学校卒業。 1932年(昭和7年)デビュー。キングレコードなどで昭和初期に活躍。次の歌などを歌唱した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
五十嵐 正(いがらし ただし、1912年 - 1981年)は… 五十嵐 正(いがらし ただし、1912年 - 1981年)は、日本の建築家、北海道滝川町生まれ。デザイナーの五十嵐威暢は甥に当たる。2005年、威暢の毎日デザイン賞(特別賞)決定により、その影響を与えた人物として、五十嵐正に注目した建築系編集者植田実(建築評論家)の手による取材が行われ、「Casa BRUTUS」(マガジンハウス)の雑誌記事と書籍の出版が行われた。 1912年(明治45年)、北海道滝川町の実業家 五十嵐太郎吉の家庭に六男として生まれた。 明治学院大学文学部英文学科に進学するが、目指すものが違うと、その後日本大学工学部(現 理工学部)建築学科 に再入学し建築家を志す。1938年(昭和13年)、同校を卒業し、東京の木田建業に入社する。
申 泰煥(シン・テファン、英語: SHIN Tae-hwan… 申 泰煥(シン・テファン、英語: SHIN Tae-hwan、1912年 - 1993年)は、大韓民国の経済学者、政治家。大韓民国建設部長官、ソウル大学校総長、大韓民国国土統一院長官を歴任した。本貫は平山申氏。 日本統治時代の朝鮮の京畿道仁川府で生まれる。1936年に京城高等商業学校卒業。1939年に旧制東京商科大学(現一橋大学)本科を卒業し、商学士を取得。専門は理論経済学。在学中、全朝鮮陸上選手権大会の800メートル競走で優勝。同年延禧専門学校(現延世大学校)教授。 1945年朝鮮基督教大学(現延世大学校)教授。1952年ソウル大学校法科大学教授。同年釜山で韓国経済学会を創立。1957年ソウル大学校法科大学長。
池 河連(チ・ハリョン、1912年 - 1960年)は、日本… 池 河連(チ・ハリョン、1912年 - 1960年)は、日本統治時代の朝鮮・連合軍軍政期の南朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国の女性小説家。本名は李 現郁。朝鮮文学家同盟常任委員などとして活動し、第1回朝鮮文学賞受賞。 日本統治時代の朝鮮の慶尚南道居昌郡の裕福な家に生まれ、当時の女性としては珍しく日本に留学し、旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業した。日本の降伏後、朝鮮文学家同盟常任委員などとして活動し、1946年7月の機関紙『文学』創刊号で発表した作品「道程」により第1回朝鮮文学賞を受賞した。1947年に北朝鮮に移るが、朴憲永派が失脚したのち、夫の林和が処刑されたのを知り、発狂して死去したとされる。
吉村 克二(よしむら かつじ、1912年(明治35年) - … 吉村 克二(よしむら かつじ、1912年(明治35年) - 1982年(昭和57年))は、日本の農学者・水産学者。専門は水産学・水産食品学。北海道大学及び函館短期大学名誉教授。元函館短期大学学長。北海道砂川市出身 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
北垣 隆一(きたがき りゅういち、1912年 - 没年不詳)… 北垣 隆一(きたがき りゅういち、1912年 - 没年不詳)は、日本の文芸評論家。北山 隆(きたやま りゅう)という名義でも知られている。 1912年に東京の文京区で生誕する。1934年に早稲田大学文学部史学科を卒業し、東京精神分析学研究所に入会する。著書『夏目漱石の精神分析』でフロイト賞を受賞し、後に本書の全面的な改稿である『改稿 漱石の精神分析』を出版した。 夏目漱石の盲人嫌悪について分析している。 小阪知弘は、北垣が三島由紀夫について、興味深い見解を提示していると評した。野坂昭如は、北垣の著作活動に感謝を表明した。
仁井田 一郎(にいだ いちろう 1912年(明治45年) -… 仁井田 一郎(にいだ いちろう 1912年(明治45年) - 1975年(昭和50年))は栃木県足利郡御厨町(現足利市)町議会議員・実業家・農業技術研究家。栃木県のイチゴ栽培技術を確立し、同県を日本有数のイチゴ生産地に発展させた。
魚住 文衛(文衞、うおずみ ふみえ、1912年 - 1999… 魚住 文衛(文衞、うおずみ ふみえ、1912年 - 1999年 <平成11年> 3月25日)は、弓道家。位階は従五位。 冨田常正師の未亡人冨田久子より常正師の遺言により尾州竹林流正統十五代星野派道統十二代を継承せしめる件の印可を受く。 明治45年〔1912〕愛知県東春日井郡勝川町(現在の春日井市)において青山与曽次郎の次男として出生。 昭和 2年、髙橋重丸師に師事、昭和4年星野廣の後見人大津正吉に入門。 昭和5年大津幡豆三正吉より竹林流初勘の巻を伝授さる。同6年同師よる竹林流歌知射の巻を伝授さる。 同7年同師より竹林流外の物(五巻)を伝授さる。同8年同師より準免許を授与さる。同9年同師より竹林流中央の巻及び父母の巻を伝授され免許皆伝となる。
吉川 金次(よしかわ きんじ、1912年(明治45年) - … 吉川 金次(よしかわ きんじ、1912年(明治45年) - 1996年(平成8年))は、日本の俳人。鋸職人、日本の鋸研究家。第十四回文化人間賞受賞。栃木県出身。 1912年に栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)で生まれる。実家は鋸鍛冶をしており、金次も氏家尋常高等小学校高等科卒業後は、東京に出て鋸の目立て(すり減った鋸やヤスリなどの目を鋭くする)業を営むようになった。また狂言師の野村万蔵に師事し、能面彫刻なども手がけている。 かつて氏家を訪れた河東碧梧桐の影響もあり、1936年に碧梧桐去って以降の中塚一碧楼が主宰する『海紅』の同人となり、自由律俳句を詠むようになる。金次の自由律は層雲出身で後に新俳句人連盟を立ち上げる栗林一石路や橋本夢道のようなプロレタリア俳句が多く、碧門の多い海紅では異色の作風であり、一碧楼にとっても異質な「愛弟子」であった。
山下 正(やました ただし、1912年 - 2011年)は、… 山下 正(やました ただし、1912年 - 2011年)は、日本の料理人。美術品コレクターでもある。 第一洋食店(北海道苫小牧市)の2代目店主であり、明治時代に日本へと伝わってきたフランス料理を父・山下十治郎から引き継いでいる料理人として周囲からは一目置かれていた。 同時に趣味人でもあり、2代目店主に惹かれて日本の文化人たちが日夜、店に集うようになり、第一洋食店は苫小牧の文化サロンとなっていった。川上澄生や芹沢銈介といった民藝運動ゆかりの芸術家たちとの交流を通じ、美術品や工芸品を多数収集している。 第二次世界大戦中、北海道白老町に疎開していた川上澄生は山下と交友をもち、川上の版画の第一洋食店にも展示してあるほか、「山下正コレクション」には数十点が集められている。
有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、… 有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、宮崎県都城市出身の右翼、特殊株主、政治運動家(笹川良一秘書)、天理教布教師。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松永喜久(まつなが・きく 1912年-1998年11月)はス… 松永喜久(まつなが・きく 1912年-1998年11月)はスポーツライター、ボクシングプロモーター。
小堀 林衛 (こぼり りんえい、1912年 - 1989年)… 小堀 林衛 (こぼり りんえい、1912年 - 1989年)は、日本の実業家。小堀住研(現・ヤマダホームズ)の創業者。滋賀県出身。 1912年、東浅井郡上草野村野瀬(現在の長浜市野瀬町)に生まれる。上草野小学校高等科卒業後、大阪の石けん工場で丁稚奉公として働く。1928年、竹中工務店入社。働きながら大阪市立都島工業専修学校建築科(現・大阪府立都島工業高等学校定時制課程)で学び1932年卒業。1950年、竹中工務店退職。1951年、三成建築工業株式会社設立。その後社名変更を重ね、1965年小堀住研とする。
田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日… 田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日)は、日本の歴史家。 1912年奈良県に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校文科に進む。その後、1930年に京都帝国大学文学部史学科に進み、日本中世史を専攻する。卒業論文「王朝時代に於ける荘園の発展過程」をまとめ、1933年に卒業。治安維持法違反容疑で検挙され、釈放後に「封建社会ノ研究」のため京都帝国大学大学院に進学する。1941年から京都府社寺課に嘱託として勤務し、赤松俊秀のもとで京都府内の寺社の宝物の調査に従事する。戦時中に病気になり、出雲町へ移り、療養のため入院していたが、その間にも、歴史学研究会の京都支部を発足させようと西岡虎之助に相談するなどしたことが、日本史研究会の設立につながり、創立委員の一人となった。
三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30… 三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。「民俗行事」をテーマにした作品が多い。 医者であった父・三橋玉見は詩歌や書画、陶芸をたしなむ文化人で、大原孫三郎に招かれる形で倉敷市に診療所を開業した。健はその次男として1912年に岡山県倉敷市新川町に生まれる。父親の影響もあり、幼い頃から画家を志した健は東京美術学校へ進学した。藤島武二に師事し、在学中に発表した作品『錨づくり』などで独立美術協会展にて入選をしている。 1939年、福沢一郎、小牧源太郎、寺田政明らを中心としたシュルレアリスムを志向するグループが新たに美術文化協会を旗揚げし、健も同協会のメンバーとして参加したが、父の病没に伴い帰省を余儀なくされ、翌年2月、第一回公募展の直前に脱会した。
鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7… 鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7月26日)は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)在学中は、甲子園に2回(夏2回〈1928年、1929年〉)出場した。 1932年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも外野手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月26日、朝鮮・釜山の傷痍軍人療養所て戦病死した。享年32。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の後輩である酒井治彦と共に、彼の名前が刻まれている。
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日… 野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。 1937年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われた「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。
桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11… 桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11日)は、主に絵本や児童書などの挿絵の執筆で活動した日本の挿絵画家。静岡県静岡市出身。
小坂 秀雄(こさか ひでお、1912年 - 2000年)は、… 小坂 秀雄(こさか ひでお、1912年 - 2000年)は、日本の建築家。東京都千代田区出身。
兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 194… 兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 1942年(昭和17年)11月14日)は、日本の海軍軍人。空母艦上戦闘機搭乗員として、日中戦争及び太平洋戦争で撃墜王となる。ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。最終階級は海軍少佐。本籍は山形県西村山郡谷地町。
加島 淳(かしま じゅん、明治41年(1912年) - 平成… 加島 淳(かしま じゅん、明治41年(1912年) - 平成2年(1990年))は、広島県出身の実業家。株式会社オーバルの創業者。
大友 淑江(おおとも しくえ、1912年または1913年 -… 大友 淑江(おおとも しくえ、1912年または1913年 - 1995年1月31日)は、福岡県出身の社会福祉法人創始者・元理事長。歌人。知的障害を持つ児童の教育に専念した女性。 1954年北九州市の八幡大学法経学部を卒業。1957年4月中学校教師を辞め、自身の財産を投じ福岡県田川郡大任村の自宅を開放し、当時全寮制養護学校としては全国で初めての私立あすなろ学園養護学校を設立、校長と園長を兼務する。1958年に北九州市小倉南区に移設。途中、学舎陥没の為の流浪や経営の行き詰りによる閉校など、様々な危機を乗り越え、1967年社会福祉法人の認可を得て、理事長に就任する。以後、知的障害児童教育に専念した福祉教育者として全国に名が知られる。