一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1… 一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1867年5月7日〈慶応3年4月4日〉- 1944年〈昭和19年〉12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。 公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。
岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(186… 岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(1867年5月5日) - 昭和10年(1935年)8月21日)は、日本の海藻学者・水産学者。日本海藻学の開拓者として明治から昭和初期にかけて活躍し、養殖の基礎を築いた。また、日本で初めてプランクトンを定性的に研究した。発表した論文は約250編、海藻に関する著書が極めて多い。 慶応3年4月2日(1867年5月5日)に岡村清七、セイの長男として江戸芝新幸町(現在の東京都港区新橋1丁目)に生まれる。芝新銭座町の攻玉塾、東京大学予備門を経て明治18年(1885年)7月に東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)へ入学した。明治22年(1889年)7月の帝国大学理科大学植物学科卒業後は同大学大学院に入学、矢田部良吉のもとで藻類学研究を開始した。
三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年… 三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年5月4日) - 1919年(大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。
中西 巌(なかにし いわお、1867年(慶應3年)5月 - … 中西 巌(なかにし いわお、1867年(慶應3年)5月 - 1961年[要出典])は、日本の実業家、株式仲買人である。東京株式取引所一般取引員、丸中商店(中西巌商店)店主、丸九商店、中西証券社長。 慶應3年5月、和歌山縣那賀郡西貴志村鳥居(現紀の川市)の郷士の父:繁蔵の八男として生まれる。当家は古くより那賀郡に住し、庄屋役を務め名字帯刀を許されたる家柄であった。 1885年(明治18年)縣立和歌山師範学校を卒業して、小学校に教鞭を執り19歳で伊都郡五茂村小学校長に任命されるが、その後心機一転して逓信官吏を志し和歌山郵便局に奉職したのち、岐阜逓信局勤務を経て、名古屋郵便局逓信課長となり、1900年(明治33年)には東京逓信局に転任し逓信課長に任ぜられる。
原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月2… 原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月26日)- 1936年(昭和11年)4月13日)は、日本の実業家である。 江戸の生まれ。高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、同学校の教授となり教鞭を執る。1892年(明治25年)に明治火災保険(現在の東京海上日動火災保険)に入社し、副支配人や代表取締役を歴任した。 1914年(大正3年)には同社の常務に就任するが翌1915年(大正4年)に自身の独立によって辞任し、三井物産の小田柿捨次郎常務取締役から損害保険会社設立のための調査研究の委嘱を受け、大正海上火災保険の設立計画書の立案を行った。 しかし、1917年(大正6年)には平生釟三郎東京海上火災保険専務取締役の反対で、大正海上火災保険での経営への参画を辞退させられ、その後は日本初の火災保険協会であった日本共立火災保険の設立に携わる。
武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3… 武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3月1日) - 1945年9月7日)は、日本の女性医師。明治期からすくなくとも1920年(大正9年)まで、福井県内で活動していた女性医師は1名のみであり、この間、武生は県内ただ一人の女性医師であった。 近江国高島郡(現・滋賀県)に生まれる。済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)に学び、1891年(明治24年)に24歳で医術開業試験に合格し、女性医師として日本で12番めに医籍登録した。 1893年(明治26年)福井県敦賀郡中郷村(現・敦賀市)堂の武生慶哲と結婚。同地で主に眼科を専門として開業し、西愛発・中愛発・東愛発などの近隣小学校の校医も務めた。
六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年… 六角 紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) - 1950年(昭和25年)4月15日)は、日本の漆工芸家。日本の漆工芸界の草分け。旧姓・藤岡、幼名・仲太郎。のち注多良と改名。 1867年、 広島県佐伯郡大原村(現・江田島市大柿町大原)生まれ。1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現・広島大学教育学部)を卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京。東京美術学校(現・東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授に就任し、岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。 1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際には行動をともにし、日本美術院の創立に参加。
三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月… 三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月18日) - 1945年(昭和20年)6月29日)は、日本の外科医。 徳島県穴吹町舞中島(現・美馬市)出身。1891年(明治24年)に帝国大学医科大学卒業後、外科教授であったユリウス・スクリバの勧めで外科医となる。徳島市内の外科病院で5年ほど勤務したのち、ドイツへ留学してブレスラウ大学のミクリッチ(ミクリッツ、Jan Mikulicz-Radecki)に師事し、胆石症の研究を行った。 帰国後、35歳の時に大阪府立医学校(現在の大阪大学)の付属医院外科医長、続いて京都帝国大学、福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に赴任した。その後再度ドイツへ留学し、1904年(明治37年)、38歳の時に福岡医科大学教授となった。
鈴置 倉次郎(すずおき くらじろう、慶応3年3月15日(18… 鈴置 倉次郎(すずおき くらじろう、慶応3年3月15日(1867年4月19日) - 大正15年(1926年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→猶興会→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。 尾張国知多郡北崎村(現在の愛知県大府市)出身。知多郡大府村初代村長の鈴置善平は実兄にあたる。1883年(明治16年)、愛知県中学校を卒業。1886年(明治19年)に大学予備門を終え、1890年(明治23年)に東京帝国大学法科大学政治理財科を卒業した。卒業後は会計検査院の検査官となった。1898年(明治31年)に退官し、小栗銀行の理事に就任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3… 本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)は、日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1867年(慶応3年)、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)に、姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれる(幼名・長二)。幼くして母方の菩提寺である妙善寺の本多日境に師事し、本多姓を継いだ。小学校卒業後、妙立寺の池田日昌のもとで得度し、日昌亡き後は岡山県津山の本蓮寺で児玉日容のもと、日什教学を学ぶ。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1887年(明治20年)、上京後に私立哲学館(現・東洋大学)の第一期生として入学する。
神戸 松之輔(かんべ まつのすけ、1867年4月15日(慶応… 神戸 松之輔(かんべ まつのすけ、1867年4月15日(慶応3年3月11日) - 1929年(昭和4年)4月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 播磨国飾東郡姫路(現兵庫県姫路市)出身。姫路銀行頭取、姫路瓦斯(株)社長となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙でも再選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1929年に死去した。
神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(… 神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(慶應3年3月10日)- 没年不詳)は、明治から大正期の裁判官・弁護士・政治家。衆議院議員、佐賀市会議長。 武蔵国江戸麻布(現東京都港区)で佐賀藩士・神崎要助、のせ の四男として生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 司法官に任官し、判事試補、和歌山地方裁判所判事、佐賀地方裁判所判事などを歴任し、1891年(明治24年)に退官し佐賀市で弁護士を開業し、その後、福岡市、長崎市、小倉市、久留米市などにも出張所を開設した。 1897年(明治30年)憲政本党に入党し、佐賀市会議員、同議長、佐賀県会議員、佐賀商業会議所議員、九州鉄道顧問などを務めた。
小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年… 小林 源蔵(こばやし げんぞう、慶応3年3月6日(1867年4月10日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、日本の鉄道官僚、衆議院議員(立憲政友会)。位階勲等は正四位勲三等。 出羽国旧米沢藩士の秋山家に生まれ、小林家の養子となった。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学を卒業。逓信省に入り、鉄道書記となった。1897年(明治30年)、鉄道事務官に昇進。1902年(明治35年)から翌年にかけて欧米各国の鉄道事務を視察した。 日露戦争が勃発すると野戦鉄道経理部庶務課長に任命されたが、戦地に赴く途中、乗船していた佐渡丸がロシアの攻撃を受け、捕虜となった。1年半にわたって虜囚生活を送ったが、1905年(明治38年)に帰国することができた。
神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20… 神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20年3月5日) - 1942年(昭和17年)1月24日)は、沖縄県出身の政治家、実業家。衆議院議員。琉球政府で行政副主席を務めた神村孝太郎は長男。 具志川間切天願(現うるま市字天願)で、代々地頭代を務める神村家の神村孝吉の長男として生まれる。1889年、沖縄県尋常師範学校を卒業し、帝国大学農科大学実科で学び、1892年に卒業した。 1894年、沖縄県属に就任。その後退官し、1898年、沖縄県農工銀行創立委員となり、1899年に設立後、監査役に就任。同年、謝花昇らと沖縄倶楽部を結成し自由民権運動に加わったが、1900年、農工銀行重役改選において支配者層につき取締役に選出された。
美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7… 美馬 儀一郎(みま / みうま ぎいちろう、1867年4月7日(慶応3年3月3日)- 1939年(昭和14年)8月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・神原、旧名・亀吉。 阿波国那賀郡富岡町(現徳島県阿南市富岡町)で、酒造業・神原五郎右衛門の二男として生まれた。少年時代は叔母の三木与吉郎家で奉公し東京支店で働いた。1885年2月、徳島佐古町918番屋敷の大地主・先代美馬儀一郎の養子となった。養父の死去により、1898年3月に家督を相続し儀一郎を襲名した。 家業の綿織物商に加えて、染織工場の設置、石炭販売業を開業するなど多角経営を計った。また、阿波染織同業組合長、阿波商業銀行頭取、徳島商業会議所会頭などを務め、徳島県立工業学校の設立、徳島高等工業学校の設備充実に尽力した。
武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月… 武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日)は、明治・大正・昭和前期の経営者、労務管理思想家、言論人、衆議院議員(3期)。 『博聞雑誌』を創刊した後、三井財閥に招聘されて経営に携わり、「紡績王」と呼ばれた。「経営家族主義」と「温情主義」を提唱・実践して日本的経営論を考案した。 晩年は実業同志会(後に国民同志会)を結成して政界に進出し、衆議院議員を3期務めた。また、『時事新報』の編集者として、渋沢栄一の系譜に繋がる政商や、徳富蘇峰などの御用新聞記者を攻撃。「政・財・官」の癒着を次々と暴き、連載『番町会を暴く』で帝人事件を告発した。このために権力者から付け狙われ、1934年(昭和9年)3月に銃撃されて死去した。
志村 源太郎(しむら げんたろう、慶応3年3月1日(1867… 志村 源太郎(しむら げんたろう、慶応3年3月1日(1867年4月5日)- 昭和5年(1930年)8月23日)は、明治から昭和にかけての日本の官僚、銀行家。日本勧業銀行総裁。貴族院議員。 甲斐国(現・山梨県)出身。明治22年(1889年)に東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。東京農林学校(現東京大学農学部)教授等を経て、その後農商務省に入り参事官・秘書官を歴任する。その後法制局に移動し参事官を務め、農商務省に戻り工務局長に就任。退官し日本勧業銀行に相談役として入行。一旦横浜正金銀行に移り検査役・外国課長を歴任したが、その後日本勧業銀行に戻り副総裁を経て明治44年(1911年)総裁に就任し長きにわたり総裁を務める。
永山 時英(ながやま ときひで、慶応3年3月1日(1867年… 永山 時英(ながやま ときひで、慶応3年3月1日(1867年4月5日) - 昭和10年(1935年)2月6日)は、日本の教育家。長崎県立長崎図書館初代館長。 近世長崎の歴史的特異性に着目し、世界史の中の長崎という視点から、キリシタン史料・対外貿易史料の収集等特色ある図書館作りに努めた。また、日本図書館協会の理事を務め、日本の図書館活動の発展に寄与した。同時期の長崎で活動した古賀十二郎・武藤長蔵と並んで長崎学の三大家とされる。
畑 良太郎(はた りょうたろう、1867年4月4日〈慶応3年… 畑 良太郎(はた りょうたろう、1867年4月4日〈慶応3年2月30日〉- 1937年〈昭和12年〉4月5日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使。駐スウェーデン公使。錦鶏間祗候。正三位勲一等。 信濃国(後の長野県)出身。1890年(明治23年)、帝国大学法科大学独法科を卒業し、外務省試補となった。1892年(明治25年)より駐オーストリア公使館交際官試補、駐オランダ公使館三等書記官、駐ドイツ公使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1908年(明治41年)に外務書記官となり、さらに駐ドイツ大使館参事官になった。 その後、駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使を歴任した。退官後の1925年(大正14年)に錦鶏間祗候となった。
藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう / むねたろう、1867… 藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう / むねたろう、1867年4月4日(慶應3年2月30日)- 1927年(昭和2年)2月21日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員、山梨県会議長、山梨県北都留郡上野原町長。 甲斐国都留郡松留村(山梨県北都留郡巌村、上野原町を経て現上野原市松留)で、藤田重兵衛の四男として生まれる。 1903年(明治36年)山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務め、1911年(明治44年)県会議長に就任した。その後、上野原町を務めた。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選。中央線電化促進などに尽力したが、議員在任中の1927年2月、甲府の旅館で急逝し、衆議院議員に1期在任した。
斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867… 斎藤 斐章(さいとう ひしょう、慶應3年2月26日(1867年4月2日) - 昭和19年(1944年)5月27日)は、日本の教育者、歴史学者。 岩手県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業し、東京府師範学校訓導・教諭となる。1902年(明治35年)、東京高等師範学校助教諭となり、1906年(明治39年)に教諭、1908年(明治41年)に教授に進んだ。歴史学・歴史教育法研究のため欧米に留学し、1911年(明治44年)に帰国した。1920年(大正9年)からは附属中学校主事を兼ねた。1936年(昭和11年)、退官。
望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年… 望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日(慶応3年2月27日) - 1941年(昭和16年)1月1日)は日本の政党政治家。広島県出身。
荻野 六郎(おぎの ろくろう、1867年4月1日(慶応3年2… 荻野 六郎(おぎの ろくろう、1867年4月1日(慶応3年2月27日)- 1923年(大正12年)2月6日)は、明治時代の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国榛沢郡横瀬村(のち埼玉県大里郡豊里村、現深谷市)で、名主・荻野竹五郎の長男として生まれる。1887年、埼玉県師範学校を卒業した。 1896年、大里郡会議員補欠選挙で当選し、同参事会員も務めた。1897年、進歩党所属で埼玉県会議員に当選した。1894年9月、第4回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から選出された原善三郎が、1897年 9月29日、貴族院多額納税者議員に就任したため、その補欠選挙に出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 その他、下谷商業銀行頭取、深谷銀行専務取締役、吾妻馬車鉄道株式会社社長、赤坂湖泉株式会社取締役、深川電灯株式会社社長、大日本生命保険株式会社取締役、中央商業銀行監査役、日本商業興信所評議員などを務めた。
山香 二郎吉(やまが じろきち、1867年3月31日(慶応3… 山香 二郎吉(やまが じろきち、1867年3月31日(慶応3年2月26日)- 1936年(昭和11年)1月21日)は、日本の裁判官、検察官。大審院(現最高裁判所)判事などを務めた。
大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29… 大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29日〈慶応3年2月24日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月19日)は、日本の英米文学者、英語教育者、翻訳家、聖職者。教育者として東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)を創設したほか、旧制第六高等学校(現・岡山大学)教授や旧制甲南高等学校(現・甲南大学及び甲南中学校・高等学校)教授を歴任。英文学者や翻訳家としてシェイクスピア劇の講義に加え、イギリス公使の翻訳官を務めた。また、ハーバード大学で外国人初の舎監となり、日本聖公会の聖職者としても伝道に従事した。号は折鵬、竹隠。 1867年3月29日〈慶應3年2月24日〉、備前国岡山に生まれる。
福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(18… 福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日(1867年3月29日) - 昭和13年(1938年)9月26日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。三重県桑名町長、長島村長。 伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、1896年(明治19年)に家督を継ぐ。1884年(明治17年)に陸軍士官学校(旧9期)に入学し、1887年(明治20年)に卒業。同年7月歩兵少尉に任官し、陸軍大学校(10期)で学び、日清戦争に出征した。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀を歴任。日露戦争時には第12師団高級参謀を務め、その後は留守第12師団参謀長、歩兵第68連隊初代連隊長、臨時朝鮮派遣歩兵第1連隊長、第16師団参謀長、第26旅団長を歴任した。
原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶… 原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶応3年2月18日〉- 1944年〈昭和19年〉8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。男爵、法学博士。帝国弁護士会名誉会員。第9代中央大学学長。 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。幼名は亀太郎。父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。
谷口 留五郎(たにぐち とめごろう、1867年3月23日(慶… 谷口 留五郎(たにぐち とめごろう、1867年3月23日(慶応3年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月15日)は、日本の内務官僚。県知事。 大和国出身。谷口直満の五男として生まれる。1890年、帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等試験に合格し、内務省試補となり総務局に配属された。以後、鳥取県・長崎県・東京府の各参事官、秋田県・福岡県・神奈川県の各書記官、神奈川県事務官などを歴任。在任期間中の1899年に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。 1906年7月、徳島県知事に就任。その後、岡山県知事を経て、1911年7月、鹿児島県知事となる。1914年1月の桜島の大正大噴火の復旧に尽力した。
木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月… 木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月23日) - 昭和18年(1943年)9月12日)は、大正・昭和期の真宗大谷派の僧侶。『新訳仏教聖典』の翻訳者。本名は祐精。
岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867… 岩崎 一高(いわさき かずたか、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和19年(1944年)3月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、松山市長。 伊予国松山に伊予松山藩士岩崎一正の子として生まれる。1886年(明治19年)、専修学校(現在の専修大学)を卒業。卒業後は松山に戻って、海南新聞社の経営に加わり、自由民権思想の普及に尽力した。 1919年(大正8年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。翌年の総選挙には落選したものの、1923年(大正12年)に松山市長に選出された。さらに道後湯之町長を務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に当選した。 その他、松山高等商業学校(現在の松山大学)の理事を務めた。
小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(… 小山 忠雄(おやま / こやま ただお、慶応3年2月15日(1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日)は、日本の教育者。号は自得。 出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた。
豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2… 豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家・実業家。トヨタグループの創始者。 豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明した。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業した。 慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれた。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。
藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3… 藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3年2月12日)- 1930年(昭和5年)10月23日)は、明治から昭和初期の華族、政治家。男爵、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。幼名は憲丸。 山城国京都で竹内治則の二男として生まれた。1876年(明治9年)2月、旧名張領主の名張藤堂家当主・藤堂高節の養子となり、1893年(明治26年)家督を相続。1914年(大正3年)9月28日、高成に改名した。 國學院で学ぶ。1894年(明治27年)神宮皇學館の舎監兼助教授に就任。1906年(明治39年)9月17日、男爵を叙爵。1910年(明治43年)6月に小栗常太郎らと設立した興業貯金株式会社では取締役社長を務めた。
中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867… 中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867年3月16日) - 明治27年(1894年)11月16日)は日本の漢詩人。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子など 1867年(慶応3年)2月21日、伊予国宇和島賀古町(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、1899年(明治2年)第一高等中学校本科一部(文科)第二年(三之組)に進級した。同級生に夏目漱石や正岡子規がいた。1894年(明治17年)11月16日午前9時、東京の山龍堂病院で死去した。享年28歳。没後の1895年(明治28年)11月16日、『逍遙遺稿』(正外二編)と題して500部発行された。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた。
柳原 極堂(やなぎはら きょくどう、慶応3年2月11日(18… 柳原 極堂(やなぎはら きょくどう、慶応3年2月11日(1867年3月16日)- 昭和32年(1957年)10月7日)は愛媛県出身の俳人である。
足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(186… 足立 鍬太郎(あだち くわたろう、慶応3年2月10日(1867年3月15日) - 昭和7年(1932年)11月18日)は、日本の教育者、郷土史家。 出雲国松江鍛冶(現島根県松江市)出身。1884年島根県師範学校卒業。島根県内小学校の訓導となり、1885年校長に就任。1894年新潟県尋常中学校助教諭。1906年長野県立飯山中学校初代校長。1911年長野県立諏訪中学校校長。1912年静岡県賀茂郡立豆陽学校校長。1921年島田高等女学校校長。静岡県の郷土史を研究し、静岡県史蹟名勝天然記念物調査委員、静岡市史編纂主事、静岡県史編纂主事を務める。次男は文部官僚の井上赳。
土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867… 土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867年3月11日) - 大正14年(1925年)2月15日)は、日本の化学者。教育者。 1867年東京府生まれ。1887年(明治20年)、東京帝国大学理科大学応用化学科を卒業。1889年(明治22年)より山口高等中学校教諭となり、1899年(明治32年)からは石川県工業学校校長を務めた。1903年(明治36年)より応用科学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後の1905年(明治38年)からは名古屋高等工業学校校長に就任した。さらに1918年(大正7年)からは大阪工業高等学校校長に転じた。
村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3… 村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3年2月5日) - 1937年(昭和12年)10月18日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。村松亀一郎の従兄弟。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。1888年(明治21年)よりアメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立大学法学部を卒業した。帰国後、第二高等学校の講師となったが、辞して1894年(明治27年)から仙台市に弁護士事務所を開いた。1901年(明治34年)にはシャムとイギリスの弁護士資格を取得し、バンコクに事務所を開いた。帰国後は東京や仙台で弁護士の業務に従事した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年… 久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年2月4日)- 1938年(昭和13年)7月10日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、香川県会議長、香川県木田郡古高松村長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡古高松村(木田郡古高松村を経て現高松市古高松)で生まれる。1891年(明治24年)東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した。農業を営む。 古高松村長を務めた。香川県会議員に選出され同参事会員も務めた。1903年(明治36年)10月、同議長に就任し1905年(明治38年)9月まで在任した。 井上甚太郎の死去に伴い1905年9月に実施された第9回衆議院議員総選挙香川県郡部補欠選挙で当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員に1期在任した。
草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶… 草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶応3年2月2日) - 1931年(昭和6年)4月24日)は、日本の学者、実業家。現在の石川県加賀市大聖寺出身。加賀国大聖寺藩藩医(禄高:150石)・草鹿泰冲(蓮浦)の次男。兄は草鹿甲子太郎(衆議院議員、弁護士、神戸日華実業協会理事長)。子息については後節を参照。 大聖寺小学校(現・加賀市立錦城小学校)を経て、金沢一中を[要検証 – ノート]卒業。1884年(明治17年)に東京外国語学校(現・東京外国語大学)を卒業し、翌年東京にて学習院助教授を務めたがその後ドイツに留学、1887年(明治20年)に留学先のイェーナ大学を卒業し、哲学の学位を取得している。
野津 左馬之助(のつ さまのすけ、1867年3月4日(慶応3… 野津 左馬之助(のつ さまのすけ、1867年3月4日(慶応3年1月28日) - 1943年2月17日)は、明治 - 昭和期の日本の郷土史家。『島根県史』編纂委員。「前方後方墳」の命名者。号は「天籟」。幼名は馬之助。 島根県島根郡東持田村(現・松江市東持田町)に生まれる。11歳時に左馬之助に改名した。 1888年(明治21年)、島根県尋常師範学校を卒業後、美濃郡で尋常小学校の訓導となった。以後、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校、1897年着任)、長野県立長野中学校(現・長野県長野高等学校、1899年着任)、島根県第三中学校(在職中に島根県杵築中学校に改称、現・島根県立大社高等学校、1904年着任)で勤務し、1910年(明治43年)に教職を退いた。
嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2… 嘉悦 孝(かえつ たか、慶応3年1月26日(1867年3月2日) - 昭和24年(1949年)2月5日)は、熊本県熊本市本山町出身の女性教育者。明治36年に日本初の女子商業教育校、私立日本女子商業学校を創立。嘉悦学園創立者。孝子とも。 孝の父である嘉悦氏房は熊本藩の儒学者、横井小楠の教えを受けていた。孝は幼いころから父を通して学問を学び、実学思想を身に付けていった。彼女が女子の経済的自立に関して考えるに至った経緯として、父である嘉悦氏房が経営していた緑川製紙場で女工として働いていたということがある。成長してからは東京の成立学舎女子部で学び、教育への理解を深めていった。卒業後、同校にて教鞭を取り、日本女子教育会講師などを務めた後の明治36年(1903年)、私立日本女子商業学校を創立した。
安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應… 安住 伊三郎(あずみ いさぶろう、1867年2月27日〈慶應3年1月23日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月31日)は、日本の実業家。安住大薬房社長。タイ王国名誉領事。幼名は猪之助。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住文四郎の二男。家が貧しかったため縄をない、自ら学資をつくる。 1897年、兄瀧蔵方より分れて一家を創立する。岡山県真島郡落合町の酒造家・木村良江に養われる。13歳の頃、鳳鳴社という塾に入り、進昇山に就き、漢籍を学ぶ。 1888年、22歳の頃に大阪の安東久次郎の薬舗の店員となり、5年後自ら独立して売薬業を営む。1893年、幼名猪之助に因む猪印のノミ取粉と安住蚊取り線香の製造販売を創める。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(186… 中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和18年(1943年)1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。 生家は代々庄屋をつとめる家系であった。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後に海軍へと入隊し、1892年(明治25年)真珠養殖の事業を始めようと宮古島へと渡った。しかし、宮古島の島民たちは琉球王国の時代から続く重い人頭税に苦しみ、貧困を強いられていた。これを見かねた中村は精糖業技師として同じく宮古島を訪れていた城間正安とともに当時の沖縄県知事であった奈良原繁に人頭税の廃止を訴えた。
中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応… 中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応3年1月15日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。号は木公 出羽国(秋田県)平鹿郡阿気村(大雄村を経て現横手市)の奥山家に生まれた。明治29年11月中村宗興の二女ノブに入夫婚姻。内藤湖南、畑山呂泣らと明治18年秋田県師範学校を卒業後、秋田市内で教鞭をとる。博文館編集部員、忠愛新報編集長、教育報知主筆、明治新聞主筆、報知新聞記者、秋田魁新報主筆を経て、1913年(大正2年)より秋田新聞社社長を務めた。 1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬して、当選を果たした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応… 笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応3年1月14日〉 - 1911年〈明治44年〉6月12日)は日本の牧師、教育者である。 津軽(弘前)藩士の家に生まれ、1885年(明治18年)に東奥義塾を卒業し、1885年8月に本多庸一より洗礼を受ける。同年9月からアメリカに渡り、デポー大学で学び哲学博士号を取得する。 1893年(明治26年)に帰国し、1894年(明治27年)より長崎市の出島メソジスト教会牧師に就任する。 そして、鎮西学館(のちの鎮西学院)の哲学講師を務めた。1904年(明治37年)鎮西学館の副館長になる。 そして、1906年(明治39年)日本人初の鎮西学館の館長に就任する。
上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867… 上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、神宮皇學館館長、貴族院議員。国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めたほか、文部省専門学務局長や臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。小説家円地文子の父。 1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保(現在の東京都新宿区)の尾張藩下屋敷で生まれる。 東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1… 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3… 藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、日本の実業家。三井物産株式会社取締役、東洋綿花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)代表取締役社長。 長崎県出身。1885年に商法講習所(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産株式会社に入社した。同期に高柳豊三郎(のちに株式会社読売新聞社社長)がいた。香港支店を経て、上海支店長、綿花部長を歴任し、取締役に就任。東洋綿花株式会社の設立に関与(同社の設立は、三井物産綿花部が分離独立したもの)。代表取締役社長に就任する。 政財界に幅広い人脈を持ち、東亜同文書院教授で、南満州鉄道社員の山田純三郎を通じて、孫文の辛亥革命を支援したり、犬養毅、新渡戸稲造らとともに南洋協会の設立発起人、渋沢栄一、中島久万吉らとともに日米電信株式会社創立委員などもつとめた、晩年は、財団法人滝乃川学園の理事もつとめ、同学園創立者の石井亮一の事業を援けた。