中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月… 中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月30日(明治4年10月18日)- 1945年(昭和20年)8月8日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選1回)。 桑名県桑名郡、のちの三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、中村太三郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)、家督を相続した。東京専門学校で学び、アメリカ合衆国に漫遊した。 北海道で中村農場を経営し、開拓事業に従事。実業界では、京都電気鉄道取締役、日本興業取締役、東洋電業取締役、久城耐火煉瓦取締役、若王子鉱業取締役などを務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(三重県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(… 筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(明治4年10月16日) - 1925年(大正14年)3月29日)は、石川県出身の日本の俳人、俳画家。別号に北雪、四石、此君、雪の村人、松杉窟など。旧姓は向田、本名は虎次郎。長男は歌人の筏井嘉一。 1871年(明治4年)に石川県金沢市で旧加賀藩士の子として生まれる。地元の新聞社、北陸新報に文選工として勤務しながら(当時の同僚に室生犀星がいる)、正岡子規の日本派に影響されて俳句を始める。1892年、富山県高岡市に転居すると、子規の『日本』俳壇に投句。また綿糸商を営んでいた筏井家の婿養子に入り、姓を向田から筏井と改める。1897年、子規門で新傾向俳句の河東碧梧桐が高岡を訪れた際に碧梧桐と会い傾倒、寺野守水老、山口花笠などと共に句会『越友会』を立ち上げる。
原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年… 原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年10月13日) - 1961年(昭和36年)12月12日)は日本の曹洞宗の僧侶で、臨済宗の禅も兼修したことで知られる。号は大雲。駒澤大学教授。 1871年に福井県小浜市で生まれた。7歳の時に曹洞宗の寺院に小僧として入り、高校生まで過ごした。 20歳の時に臨済宗の正眼寺僧堂で修行し、1年半から2年で見性体験を得た。 1901年に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業した。 彼は曹洞宗、臨済宗の双方の高僧を歴参、原田祖道、丘宗潭、秋野孝道、安達達淳、星見天海、雲霧軒大義、高源室毒湛に師事した。 1911年から1923年の間、駒澤大学教授を務めた。
大森 慶次郎(おおもり けいじろう、1871年11月23日(… 大森 慶次郎(おおもり けいじろう、1871年11月23日(明治4年10月11日) - 1962年(昭和37年)5月11日)は、大正から昭和時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。弟 大森国平の親戚は貴族院議員 小林八右衛門。 大森嘉四郎の長男として山梨県東八代郡南八代村(八代村、八代町を経て現笛吹市八代町南)に生まれ、1896年(明治29年)家督を相続する。早稲田大学文学科を卒業し、南八代村会議員、東八代郡会議員を歴任。1896年(明治29年)甲府市柳町に大森銀行を創立し、のち頭取となる。 1918年(大正7年)山梨県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から翌年の7月8日まで在任した。
近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4… 近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4年10月11日)- 1961年(昭和36年)2月24日)は、日本の政治家。青森県八戸市の初代市長。 1871年(明治4年)に旧八戸藩士の家に生まれる。八戸高等小学校から研成学舎に入り、卒業後は小学校の教員となり、その後は教員をしながら東京専門学校に通った。その後、中退した。帰郷後に八戸の小学校の校長となった。1889年(明治22年)に八戸青年会に入会。1894年(明治27年)に八戸青年会を脱会し、政治団体「北辰会」を結成した。1907年(明治40年)5月、八戸町助役となり間もなく町長に就任したが、同年9月16日に停職となった。1908年(明治41年)に地元紙「奥南新報」を創刊した。
山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明… 山本 良吉(やまもと りょうきち、1871年11月22日(明治4年10月10日) - 1942年(昭和17年)7月12日)は、日本の倫理学者、教育者。号は「晁水」。 1871年、石川県金沢市鶴間谷で生まれた。石川県専門学校および後身の第四高等中学校に学ぶも中退。中学校では鈴木大拙・西田幾多郎・藤岡作太郎と同窓であった。帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、1895年に修了。 同1895年に京都府立尋常中学校教諭に就いた。1897年に静岡県尋常中学校教諭となり、修身ならびに英語を担当 1900年に京都府立第二中学校教頭となった。1908年に京都帝国大学学生監。1909年に第三高等学校教授を兼任し、倫理学を講じた。
吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 19… 吉野 伝治(よしの でんじ、1871年11月22日 - 1940年2月3日)は、千葉県出身の日本の実業家。 東武鉄道の支配人を経て取締役となり、東武鉄道に関連する様々な企業の社長を歴任し最後は東武鉄道の第2代社長となったが、就任15日で死去した。 明治4年10月10日(グレゴリオ暦1871年11月22日)、千葉県長生郡土睦村(現在の睦沢町)の粒良市郎右衛門の次男として生まれた。1887年(明治20年)、千葉中学校を卒業した後、第一高等中学校に進学。同年、夷隅郡東村(大原町を経て、現在のいすみ市)の名士であった吉野忠吾の養嗣子となった。1893年(明治26年)7月の第一高等中学校卒業者一覧には「粒良伝治(吉野伝治)」の記載がある。
引田 乾作(ひきた けんさく、1871年11月22日〈明治4… 引田 乾作(ひきた けんさく、1871年11月22日〈明治4年10月10日〉- 1948年〈昭和23年〉5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 山口県阿武郡萩町土原村(現萩市大字土原)で旧長州藩士引田利亮の四男として生まれ、兄引田利章の死去に伴い1891年(明治24年)に家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し陸軍省軍務局軍事課に配属された。山縣有朋元帥副官を務め、その後、日露戦争に第1軍参謀として出征した。 ドイツ帝国派遣、歩兵第11連隊付、歩兵第70連隊大隊長、参謀本部課長兼陸大兵学教官、陸軍技術審査部部員などを歴任。
佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(… 佐藤 亀八郎(さとう かめはちろう、1871年11月20日(明治4年10月8日) - 1936年(昭和11年)7月15日)は、日本の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、宮城県農工銀行頭取、宮城県販売購買組合理事長。 仙台県名取郡柳生村(宮城県名取郡中田村を経て現仙台市太白区柳生)で、素封家・佐藤惣十郎の長男として生まれる。1889年(明治22年)宮城農学校、1896年(明治29年)和仏法律学校(現法政大学)を卒業。1903年(明治36年)に家督を相続し、同年、宮城県会議員(-1927年(昭和2年))に当選する。その他、中田村会議員、宮城県農会長、同県産米改良協会会頭、帝国農会議員、仙台商業会議所常議員などを務めた。
仁田 大八郎(にった だいはちろう 、1871年11月19日… 仁田 大八郎(にった だいはちろう 、1871年11月19日(明治4年10月7日) - 1945年(昭和20年)3月1日)は、明治から昭和時代前期の静岡県田方郡で活躍した実業家、政治家。
太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4… 太田 政弘(おおた まさひろ、1871年11月16日〈明治4年10月4日〉- 1951年〈昭和26年〉1月24日)は、日本の内務官僚、政治家。正三位。警視総監(第30代)、関東長官(第6代)、台湾総督(第14代)、貴族院議員。 山形県出身。鶴岡藩士・弁護士、太田政道の長男として生まれる。山形中学、第一高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省警保局警務課勤務となる。1899年(明治32年)11月、文官高等試験に合格。1900年(明治33年)2月、三重県事務官に就任し、さらに同県内務部第1課長を務める。 1902年(明治35年)3月、宮崎県警察部長に就任。
斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、… 斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、1871年〈明治4年〉11月14日 - 1921年〈大正10年〉10月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲二等功三級。 愛知県碧海郡土井村辻(現・岡崎市土井町)出身。斎藤兵三郎の四男。赤渋小学校卒業後、同校助教を務め、宮地小学校への合併後も同職。1891年(明治24年)に小学校教員免許を正式に取得。成城中学校を経て翌年桑子小学校訓導となるも、同年士官候補生として近衛歩兵第2連隊に入営。1895年(明治28年)陸軍士官学校第6期卒業。日清戦争では台湾に派遣され、三角湧や龍潭城、新竹を転戦するもマラリアに罹患し新竹兵站病院に入院。
南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(18… 南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(1871年11月12日) - 昭和3年(1928年)7月20日)は、明治から大正にかけての教育者・英文学者。旧制富山高等学校初代校長。 富山県富山市長江生まれ。実弟には田部隆次(英文学者)、田部重治(英文学者・登山家)がおり、英文学の南日三兄弟と呼ばれた。 恒太郎は努力家で学業が優秀だった。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)在学中の明治23年10月、文部大臣森有礼が来校し、突然英語で質問した際にも明快に答えたという。 1885年(明治18年)9月富山県尋常中学校に入学し、同期の南弘(官僚・富山県初の大臣)や蟹江義丸(哲学者)らと学び、旧制第四高等学校(現金沢大学)進学を目指したが、南弘と共に県に建白書を出してストライキに加担したこと、重い眼病になったことなどから中退し、5年で退学。
不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年1… 不破 熊雄(ふわ くまお、1871年11月12日(明治4年11月)- 1955年7月4日)は、日本の実業家。 福岡藩士不破國雄の二男として福岡県に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1895年三井工業部に入社し、芝浦製作所に勤務した後、第五高等学校工科教授を数年務め、三井鉱山技師に転じる。1911年欧米各国の鉱山界を視察し、帰国後山野炭鉱所長、田川炭鉱所長を経て、取締役となる。三井窒素工業社長・会長、東洋高圧工業(現・三井化学)取締役も兼任している。 退任後は三井合名会社重役待遇となる。墓所は多磨霊園
福澤 泰江(ふくざわ やすえ、1871年11月12日(明治4… 福澤 泰江(ふくざわ やすえ、1871年11月12日(明治4年9月30日) - 1937年(昭和12年)7月10日)は、日本の地方政治家、篤農家。大正から昭和初期にかけて長野県赤穂村の村長を長く務め、全国町村長会の創立に関わり、後にはその会長も務め、さらには内閣調査局参与なども歴任した。 長野県上伊那郡赤須村生まれ。赤穂村役場に入り、若くして収入役を務めた。その後、長野県会議員を経て、1914年から1937年にかけて村長を務めた。福澤が村長として建設を主導し1922年に完成した村役場は、後には駒ヶ根市の市役所庁舎としても使用され、さらにその後に移築され、旧駒ヶ根市役所庁舎として保存公開されている。
水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治… 水崎 基一(みずさき もといち、1871年11月10日(明治4年9月28日) - 1937年(昭和12年)11月29日)は、日本の経済学者、教育者。同志社大学経済学部教授を経て、浅野綜合中学校(現・浅野中学校・高等学校)初代校長。クリスチャン。なお、書、漢詩、短歌の雅号は濃川。 1871年(明治4年)9月28日、7月の廃藩置県直後の松本県(11月に筑摩県となった)筑摩郡北深志下下町(現・松本市)に、旧松本藩士水崎好照の長男として誕生した。廃藩置県の混乱と大家族だった水崎家の困窮の中で、1878年(明治11年)、2年前に新校舎が建設された、文明開化を象徴する開智学校に入学し、松本新聞社に勤務しながら苦学して通った。
谷口 武一郎(たにぐち たけいちろう、1871年11月10日… 谷口 武一郎(たにぐち たけいちろう、1871年11月10日(明治4年9月28日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、日本の実業家。第2代三井物産船舶部(現商船三井)部長。 兵庫県出身。1889年神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)卒業、三井物産入社。長崎支店長、本店参事、船舶部長、奉天出張所長兼奉天日本人商業会議所会頭、牛荘出張所長兼牛荘日本実業会会長等を歴任した。 妻カノ[旧制 坂]明治31年11月9日没(享年26歳)長男武彦。後妻のカメは医師呉来安の二女。神戸商工会議所議員等を務めた谷口茂雄は弟で、その妻は日本燐寸製造創業者直木政之介の三女恊。
本田 義成(ほんだ よしなり、1871年11月6日(明治4年… 本田 義成(ほんだ よしなり、1871年11月6日(明治4年9月24日) - 1952年(昭和27年)4月12日)は、衆議院議員(立憲政友会)。長男は東日本ボクシング協会初代理事長を務めた本田明。明の次男(自身の孫)は本田明彦。 新潟県三島郡片貝村(現在の小千谷市)出身。少年時代に単身上京し、明治法律学校(現在の明治大学)の校外生として苦学しながら、商業に励んだ。四谷区会議員、同議長、東京府会議員、同参事会員、東京市会議員、同参事会員を歴任。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4期務めた。 その他、大木戸住宅株式会社監査役、朝鮮営林洋行代表社員などを務めた。
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治… 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年1… 林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年11月4日) - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の教育者である。 鳥取県邑美郡向国安村(後の気高郡美穂村大字向国安、現在の鳥取市向国安)生まれ。東京音楽学校で岡野貞一、永井幸次らとともに学ぶ。各地の県立師範学校や中学校で数学・音楽を担当した。1895年(明治28年)から1933年(昭和8年)まで39年間にわたり子弟の教育に努めた。1906年(明治39年)、36歳の若さで鳥取県立第二中学校(のち米子中学校に改称、現米子東高校)校長に就任。1911年(同44年)には鳥取中学校(現鳥取西高校)校長となり、山積する難問に対処して学校を再建するとともに野球を奨励し、野球部の強化を図った。
福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871… 福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871年11月3日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。準三と表記される場合がある。 相模国大住郡小嶺村(現在の神奈川県平塚市)の代々里正・組頭を務めた家で、福井直吉の長男として生まれる。1891年(明治24年)、慶應義塾を卒業。社会問題に関心を持ち、神奈川県農会副会長を務めるかたわら、農商務省の嘱託として神奈川県の工場・職工の調査にあたった。自らは社会主義者ではなかったが、1899年(明治32年)に著した『近世社会主義』は日本で社会主義を解説した最初期の文献である。また、郭沫若は、同書が1913年に中国語に翻訳され、これが中国へのマルクス・エンゲルス思想の初めての紹介になったと述べている。
岡本 英太郎(おかもと えいたろう、1871年11月2日〈明… 岡本 英太郎(おかもと えいたろう、1871年11月2日〈明治4年9月20日〉 - 1953年〈昭和28年〉5月16日)は、日本の農商務官僚。位階は従三位、勲等は勲二等瑞宝章。 農商務次官(第25代)、産業組合中央金庫理事長(初代)、特許局長官(第20代)、国際労働総会日本政府代表。錦鶏間祗候。 大阪府三島郡山田村(現在の吹田市)出身。 岡本家は雄略天皇の御宇、伊射奈岐神社(吹田市山田東)の初代神主・岡本豊足彦を始祖とする1000年以上連綿と続く素封家である。 1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年12月文官高等試験に合格した。農商務省に入り、林務官、山林局事務官・書記官、鉱山監督局事務官・書記官、官営八幡製鉄所理事、山林局長、商工局長・戦時保険局長、商務局長、農務局長、農商務次官、兼特許局長官を歴任し、1923年(大正12年)12月8日、農商務次官を依願免本官となり退官した。
矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日(187… 矢田 長之助(やだ ちょうのすけ、明治4年9月20日(1871年11月2日) – 昭和15年(1940年)11月27日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ)公使。 島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市)で矢田伝四郎の長男として生まれる。1895年(明治28年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。教員を経て、1899年(明治32年)に外交官及領事官試験に合格した。1900年(明治33年)より領事官補として天津、漢口に勤務した。その後、駐メキシコ公使館三等書記官、同二等書記官、バンクーバー領事、オタワ総領事、ニューヨーク総領事、ホノルル総領事を歴任した。1921年(大正10年)より駐シャム公使を務めた。 退官後は横浜市立横浜商業学校・横浜市立横浜商業専門学校校長事務取扱を務め、さらに財団法人暹羅協会(のち日本タイ協会)常務理事・理事長を務めた。
宮崎 来城(みやざき らいじょう、1871年11月(明治4年… 宮崎 来城(みやざき らいじょう、1871年11月(明治4年)- 1933年(昭和8年))は、明治期から昭和期にかけて活動した日本の漢詩人、教師。福岡県久留米に生まれ、各地を放浪としながら台湾や中国でも活動した。帰郷後は詩作を行いながら門弟を集め教育を行うなど九州詩壇の盟主となった。代表作に『侠文章』(田岡嶺雲との共著)、伝記『鄭成功』など。 本名は宮崎 繁吉(みやざき しげきち)。字は子寔、初号は柳溪。来城、来城小隠と名乗っていたが、赤髪天狗・赤髪などの筆名を使った文章も見られる。 1871年(明治4年)に久留米裏町(現在の荘島松ヶ枝町)で、久留米藩士であり俳人の宮﨑松語の長男として生まれる。
赤澤 ナカ(あかざわ ナカ、1871年(明治4年)11月 -… 赤澤 ナカ(あかざわ ナカ、1871年(明治4年)11月 - 1941年(昭和16年))は、日本最初の保育園と言われている新潟静修学校付設保育所(現・赤沢保育園)で、明治から昭和にかけて約45年間、保母であり続けた人物である。 1871年(明治4年)11月新潟県蒲原郡長場村(現・新潟市西蒲区)中之口長場に渡辺藤次郎の長女として誕生した。同村の渡邊勘治の後妻となって2人の子をもうけるも1896年(明治28年)離婚し、2人の子を残して中蒲原郡須田村(現・加茂市)の五十嵐家の養子となる。 1896年(明治29年)頃、新潟静修学校を運営していた赤澤鍾美と再婚同士で夫婦となる。日清戦争、日露戦争、韓国併合を経て、日本の大陸進出が盛んになるにつれ、新潟港の重要度が増し、新潟市の人口は増え続けていった。
島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4… 島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4年9月18日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月1日)は、明治から大正にかけての華族(男爵)。島津氏一門・宮之城家16代当主。島津久治の長男。貴族院議員を務めた。 1871年(明治4年)、宮之城家第15代当主島津久治(島津図書)の長男として鹿児島に生まれる。生後間もない1872年(明治5年)1月に父が急逝したため、同年1月10日に家督を継ぐ。大龍小学校を経て、1895年(明治28年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業。1896年(明治29年)鹿児島高等中学造士館廃止のため高等中学造士館本科から学習院へ転学。 1896年(明治29年)、鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校を創立した。
角 源泉(すみ げんせん、明治4年9月18日(1871年10… 角 源泉(すみ げんせん、明治4年9月18日(1871年10月31日) - 昭和17年(1942年)8月14日)は、日本の政治家、官僚。衆議院議員、新宮市長。山本七平の大叔父。 1871年(明治4年)和歌山県東牟婁郡三輪崎村(三輪崎町を経て現新宮市)、角三郎左衛門の三男として出生する。明治21年頃、上京し、河津祐之の書生として住み込む。 1893年(明治26年)和仏法律学校(現法政大学)仏語法律科卒業。1897年(明治30年)判事検事登用試験、文官高等試験に合格し、和歌山地方裁判所の検事代理に採用される。その後、司法官を辞し、通信官僚に転進する。 1911年(明治44年)台湾総督府事務官、台湾総督府通信局長心得を経て、1913年(大正2年)台湾総督府通信局長、1915年(大正4年)台湾総督府土木局長に就任する。
大島 金太郎(おおしま きんたろう、明治4年9月18日(18… 大島 金太郎(おおしま きんたろう、明治4年9月18日(1871年10月31日) - 昭和9年(1934年)1月27日)は、日本の農学者。 長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)で、先代・大島金太郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)、札幌農学校を卒業し、1895年(明治28年)に札幌農学校の助教授に就任した。 1898年(明治31年)より農芸化学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学し、アメリカでは農務省技師嘱託となった。1903年(明治36年)に帰国して札幌農学校教授となり、翌年から北海道庁技師を兼ねた。1907年(明治40年)、論文提出により農学博士の学位を得た。同年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改称し、東北帝国大学教授となる。
佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年1… 佐多 愛彦(さた あいひこ、明治4年9月17日(1871年10月30日) - 昭和25年(1950年)3月4日)は、日本の医学者。府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)学長。 鹿児島県出身。佐多直隆の四男として生まれる。鹿児島医学校を経て、1890年(明治23年)に帝国大学(現・東京大学)選科を卒業。同大学助手、市立富山病院医員を務めた後、1894年(明治27年)に府立大阪医学校教諭となった。1897年(明治30年)よりドイツに留学し、1900年(明治33年)に帰国。帰国とともに医学博士の学位を得た。 1902年(明治35年)、府立大阪医学校校長・同病院長に就任し、医学校が大阪医科大学に改組されると引き続き学長を務めた。
朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日〈… 朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日〈明治4年9月16日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月3日)は、日本の商人(米商)、東京府多額納税者、渋谷区多額納税者、実業家、政治家。東京府会議員、同議長。東洋青物市場顧問。族籍は東京府平民。旧姓は杉浦。 愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)に杉浦家の二男として生まれた。小学校を5年で中退した。東京深川木場の材木店で働いた。 1897年に朝倉たきの入婿となり、1899年に家督を相続した。三田用水の朝倉水車業を手伝う。精米業を営み、「丸朝商店」と称した。 1904年、養父・徳次郎の後を継いで、渋谷村会(のち渋谷町会)議員に推挙された。家業の傍ら自治の仕事に携わった。
鈴木 達治(すずき たつじ、1871年10月24日(明治4年… 鈴木 達治(すずき たつじ、1871年10月24日(明治4年9月11日) - 1961年(昭和36年)8月29日)は、日本の化学者・教育者。愛媛県出身。号は煙洲。横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)の初代校長として「三無主義教育」を実践したことで知られる。 現在の愛媛県四国中央市下柏町に5人きょうだい(4男1女)の長男(上に姉あり)として生まれる。鈴木家は農家であったが、家族の他に下人が3人いる自作地主であった。 今の四国中央市立松柏小学校と漢学塾に通い、小学校卒業後は母校で教員の手伝いを務めていたところ、校長に同志社で英語を学ぶよう勧められる。1885年8月に京都に移り、8月の入学試験を受けたが不合格となる。
稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日(1… 稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日(1871年10月20日) - 大正5年(1916年)2月17日)は、群馬県高崎市出身で稲川部屋→浦風部屋→高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は吉井→松本 貞四郎。身長167cm、体重110kg。最高位は関脇。 ずんぐりとした体からの突き押しを武器に上位陣を苦しめた。稲川門人だった角界入り当初は、弱く期待もされていなかったが、努力を積み重ねて入幕。1900年(明治33年)1月場所には8勝1敗と優勝相当の成績を残している。1901年~1906年頃には上位に定着し関脇5場所を務めている。1901年5月大関梅ノ谷と引分、1902年1月大砲に勝利、晩年の1907年5月にも横綱梅ヶ谷に勝利している。
佐藤 理吉(さとう りきち、1871年10月19日(明治4年… 佐藤 理吉(さとう りきち、1871年10月19日(明治4年9月6日) - 1959年(昭和34年)11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山形県最上郡西小国村(現・最上町)出身。1894年、東京専門学校政治科卒。醸造業を営み、最上郡会議員、山形県議、同参事会員、最上郡農会議員、同会長、山形県農会副会長となる。ほか最上酒造(株)取締役社長、最上銀行取締役を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが、無投票で当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙では国民同盟から立候補したが落選した。1959年死去。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年… 信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。 1871年、鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した。そのためどういう母親だったかの記憶はない。 旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年… 本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和27年(1952年)2月18日)は、日本の彫刻家。高知市桂浜で悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像(総高約15m)は、白雲の代表作である。本名は本山辰吉で「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた[要出典]。 明治4年、辰吉は土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に次男として生まれる。父本山茂武(省吾)は、土佐藩家老で宿毛7,000石の領主・伊賀家(安東家)に仕えていた。本山家は、かつて長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還し、生活は極めて貧困であった。
中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4… 中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1946年(昭和21年)1月20日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 山形県出身。中里重威の二男として生れる。山形県中学校、攻玉社を経て、1893年12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生として学んだ。 その後、「明石」砲術長、海兵教官などを経て、日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。「常磐」砲術長、軍令部参謀、海軍省軍務局員、イギリス駐在、「阿蘇」副長、軍務局員、軍令部参謀、「春日」艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級。
千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年… 千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日)- 1943年(昭和18年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍少将、貴族院男爵議員。
添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(… 添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、埼玉県知事、山梨県知事、山形県知事などの要職を歴任した。 小浜県遠敷郡西津村(後の雲浜村西津、現・福井県小浜市)に、旧小浜藩士、福井県大飯郡長[要出典]、滋賀県神崎郡長[要出典]を務めた添田良平の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。東京帝大では一木喜徳郎のもとで学んだ[要出典]。同年7月、内務省に入省し内務属・庶務局地理課勤務となり、同年10月、兵庫県属・内務部第一課勤務に異動。
川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年10月4日〈明治4年… 川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年10月4日〈明治4年8月20日〉- 1944年〈昭和19年〉5月16日)は、日本の土木工学者・教育者。 福岡県上妻郡津江村(現・八女市津江)に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館、1892年第五高等中学校工科を経て、1895年帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。 1895年熊本県技手、翌1896年技師となり、国の重要文化財に2004年に指定された旧郡築新地甲号樋門(郡築三番町樋門、熊本県八代市)などを設計している。1900年第五高等学校教授・工学部土木科主任に就任。1905年から2年間アメリカ、フランスに留学してコロンビア大学等で学び、1906年官制改革により第五高等学校工学部から改称された熊本高等工業学校の教授となる。
境 長三郎(さかい ちょうざぶろう、明治4年(1871年)1… 境 長三郎(さかい ちょうざぶろう、明治4年(1871年)10月 - 没年不詳)は、日本の検事。 佐賀県出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。名古屋区裁判所判事、岡崎区裁判所判事、福岡地方裁判所判事を歴任。1908年(明治41年)、統監府判事に転じ、京城地方裁判所部長となり、1910年(明治43年)からは朝鮮総督府検事となり、京城地方法院検事、高等法院検事、京城地方法院検事正、大邱覆審法院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1932年(昭和7年)に高等法院検事長に就任した。
大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4… 大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。 平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で、旧名は松浦常(まもる)である。 1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。
伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月… 伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月16日(1871年9月30日) - 昭和7年(1932年)8月15日)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。 東京日本橋呉服町(現・中央区)に写真家の北庭筑波の息子として生れる。実家は呉服町の油問屋で、父の北庭は浅草花屋敷で写真館を開いていた。祖父は浄瑠璃宮薗節の2代目宮薗千寿ともいわれる。医学予備校独逸協会などに学び、父の没後は神戸の三井銀行に勤務した。 当時、川上音二郎の「書生芝居」が人気を得ていることに興味を持ち、明治24年(1891年)、「川上一座」に俳優として参加した。間もなく、傲慢だった川上と袂を分かち、芸術的写実的な演劇を目指し、11月、依田学海の援助で浅草の吾妻座を本拠に男女合同改良演劇「済美館」を興した。
高岡 熊雄(たかおか くまお、1871年9月29日(明治4年… 高岡 熊雄(たかおか くまお、1871年9月29日(明治4年8月15日) - 1961年(昭和36年)12月29日)は、日本の農学者・農政学者・農業経済学者。。第3代北海道帝国大学総長。島根県生まれ。 1871年、津和野藩士・高岡道敬の次男として島根県鹿足郡津和野町で生まれた。津和野小学校を卒業後、兄がいた旧制山口中学校に進学し、ここで出会った国木田哲夫(独歩)とは終生の親交を結んだ。その後兄の転勤にともなって転校し、札幌農学校(現・北海道大学農学部)予科に進学。農学校では新渡戸稲造に師事。1895年6月、札幌農学校農学科を卒業した。卒業後は、新渡戸教授のすすめで同校の研究生となった。 1896年7月、母校の札幌農学校農芸伝習科講師に就いた。
境野 哲(さかいの さとる/さとし、明治4年8月12日(18… 境野 哲(さかいの さとる/さとし、明治4年8月12日(1871年9月26日) - 昭和8年(1933年)11月11日)は、日本の仏教史学者・仏教運動家。宗教家(真宗大谷派僧侶)。文学博士。専門は中国仏教史。号は黄洋(こうよう)。境野黄洋の通称で知られる。 宮城県名取郡(現在の仙台市太白区)出身。哲学館(東洋大学の前身)出身。東洋大学教授を務める傍ら、曹洞宗大学(駒澤大学の前身)にも出講。新仏教同志会の中心メンバーであり、雑誌『新仏教』(1900-1915年)発刊に尽力。禁酒・禁煙・廃娼運動を展開。また、明治27年(1894年)には鷲尾順敬や村上専精らと雑誌『仏教史林』を創刊。大正7年(1918年)、東洋大学(哲学館)出身者として初めて、同大学の学長に就任。
杉 精三(すぎ せいぞう、明治4年8月12日〈1871年9月… 杉 精三(すぎ せいぞう、明治4年8月12日〈1871年9月26日〉 - 1954年〈昭和29年〉1月11日)は、日本の逓信官僚、内閣印刷局長。錦鶏間祗候。 現在の山口県防府市に蔵田恂一の長男として生まれ、母方の杉家を継いだ。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。通信事務官、青森郵便局長、高松郵便局長、広島郵便局長、京都郵便局長、名古屋逓信管理局長、航路標識管理局長、西部逓信局長・大阪地方海員審判所長、逓信省経理局長、内閣印刷局長を歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、電信協会に入り、理事を経て、会計部長を務めた。
岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明… 岡松 参太郎(おかまつ さんたろう、1871年9月23日(明治4年8月9日) - 1921年(大正10年)12月15日)は、日本の法学者。専門は民法学。学位は、法学博士(1901年)。京都帝国大学法科大学(現在の京都大学法学部)教授。儒学者の岡松甕谷の三男。弟子に末川博など。 宮崎県延岡市出身。東京府尋常中学(のちの東京府立第一中学校)、第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に帝国大学法科大学英法科卒業。ただちに助教授に就任し、明治29年(1896年) - 32年(1899年)の間、民法研究のため欧州留学し、民族法学者ヨーゼフ・コーラーらと交流する機会を得た。 明治32年(1899年)、京都帝国大学法科大学教授に就任。
三輪 源造(みわ げんぞう、1871年9月18日(明治4年8… 三輪 源造(みわ げんぞう、1871年9月18日(明治4年8月4日) - 1946年(昭和21年)11月5日)は日本の教育者、国文学者である。
沢原 精一(澤原 精一、さわはら せいいち、1871年9月1… 沢原 精一(澤原 精一、さわはら せいいち、1871年9月18日〈明治4年8月4日〉 - 1953年〈昭和28年〉7月1日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家、銀行家、広島県多額納税者、地主・家主。貴族院多額納税者議員。勲四等。呉商工会議所顧問。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。戸谷次助の二男。幼少の頃に賀茂郡荘野村の叔父岡崎鼎の養子となる。1896年(明治29年)7月に先代ウタの入夫となり1902年(明治35年)9月に家督を相続した。 1896年(明治29年)以降、呉貯蓄銀行取締役、呉陽倉庫、瀬戸内海横断電力、呉製氷各社長、沢原銀行取締役のほか、呉商業会議所会頭、呉市会議長、日本放送協会理事、広島県商工団体連合会顧問、呉信用組合長などを歴任した。
大島 慶治郎(おおしま けいじろう、1871年9月16日 -… 大島 慶治郎(おおしま けいじろう、1871年9月16日 - 1935年5月12日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した日本の実業家、新聞経営者。愛知県東春日井郡小幡村(現在の名古屋市守山区)出身。名前の表記を「慶次郎」とする資料も見られる。 明治4年8月2日(西暦1871年9月16日)、新愛知新聞社を創業した大島宇吉の長男として出生。宇吉は小幡大島本家10代・大島宇右衛門の三男として出生したのち東大島家を分家した大島為三郎の養子となっていたが、慶治郎は宇吉の次兄で伯父に当たる12代・大島竹三郎の養子として小幡大島本家を継ぎ第13代当主となった。 愛知県立第一中学校を卒業したのち日露戦争当時は小幡村の村長を務め、村政への功により勲七等青色桐葉章を受章している。