佐藤 皐蔵(さとう こうぞう、1871年7月2日(明治4年5… 佐藤 皐蔵(さとう こうぞう、1871年7月2日(明治4年5月15日) - 1948年(昭和23年)3月23日)は、大正期の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岩手県花巻市出身。 1891年(明治24年)7月、海軍兵学校第18期を6位で卒業し、「比叡」乗組となる。同期には加藤寛治大将、安保清種大将がいる。「葛城」「高千穂」「橋立」乗組を経て1894年(明治27年)3月に海軍少尉に任官。「天城」「西京丸」「愛宕」乗組を経る間に、2度にわたり砲術練習所(海軍砲術学校の前身)で計8か月の教育を受けた。 「西京丸」乗組のときに日清戦争が生起し、黄海海戦に参加した。 1897年(明治30年)12月に海軍中尉に、同月に海軍大尉に進級し、「海門」分隊長。
原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日〈明治4年… 原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日〈明治4年5月14日〉- 1934年〈昭和9年〉3月6日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、拓務大臣、鉄道大臣。 現在の京都府綾部市で原虎好の二男として生まれる。1884年(明治17年)3月に綾部小学校を卒業し、その後、1886年(明治19年)まで代用教員を務める。1892年(明治25年)、弁護士事務所に入り、1893年(明治26年)、東京法学院に入学するも後に退学。 1896年(明治29年)、台湾新竹法院雇となり、裁判官心得に進む。1901年(明治34年)6月、台南県弁務署長に就任。同年11月、台湾総督府警視・保安課長に就任し、1904年(明治37年)12月に退職した。
並川 栄慶(なみかわ えいけい、明治4年5月12日(1871… 並川 栄慶(なみかわ えいけい、明治4年5月12日(1871年6月29日) - 1936年(昭和11年))は日本の芸能家、政治家。京都市会議員、京都府会議員、京都府会議長(第30、32代)。別名は並河栄慶、並川隆乗、隆栄。 1877年(明治10年)家督相続。明治法律学校卒業。1890年(明治23年)京都の中竹座で藤沢浅二郎とともに浮世演説をして賑わい、『諷刺悲壮時事講談』の上演で臨検警官の注意を受けるも初日200、2日目300の人出で注目される。1895年(明治28年)頃に浪曲の前身『チョンガレ節』で人気となる。明治30年代に姓の並河を並川に改姓。 1911年(明治44年)4月、京都市会議員となる。
戸田 海市(とだ かいいち、1871年6月25日(明治4年5… 戸田 海市(とだ かいいち、1871年6月25日(明治4年5月8日) - 1924年(大正13年)3月5日)は、日本の経済学者。法学博士。京都帝国大学教授。臨時国民経済調査会委員。専門は経済学、工業経済。族籍は広島県平民。 広島県豊田郡豊田村生まれ。戸田嘉吉の三男。1892年、私立専修学校理財学科を卒業。青森県有余学館にて経済学、英語等を教授。1897年、東京帝国大学法科大学選科を卒業。第四高等学校教授を経て1901年、京都帝国大学講師。1906年、同教授。河上肇を同大学に招く一方、関一(東京高等商業学校教授)を大阪市助役に推す。商業経済学、工業経済学を担当し、社会政策も講義。社会政策学会の有力会員であった。
高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年… 高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年5月7日) - 1944年(昭和19年)10月10日)は、日本の法医学者。 1871年(明治4年)、伊那県信濃国筑摩郡長畝村(旧天領、現塩尻市)に出生。医学博士、法医学の先駆者として、裏指紋の研究・立証等で活躍。長崎医科大学の学長(4代目)や九州帝国大学総長(5代目)等を歴任。1944年(昭和19年)10月10日、福岡県福岡市にて死去、享年74。墓所は染井霊園。位階として正三位が、叙勲として勲二等旭日重光章授与。
太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4… 太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4年5月6日) - 1927年(昭和2年)4月6日)は、日本の詩人、小説家。名は伊藤蔵三(のち太田玄綱から三村玄綱と改名)。僧職のかたわら叙情派詩人として知られ、初期新体詩詩人の一人。田山花袋の義兄にあたり、『田舎教師』の献辞に「この書を太田玉茗氏に呈す」とある。 武蔵国埼玉郡(埼玉県行田市)出身。1888年、曹洞専門本校大学林(現・駒澤大学)卒業。1894年7月に東京専門学校文学科卒業、同期に島村抱月、後藤宙外がいる。小学時代に、羽生市の建福寺住職・太田玄瞳の養子となり、12歳で僧籍に入る。1888年(明治21年)から「頴才新誌」に投稿をはじめ田山花袋を知り、雑誌「少年文庫」「文学界」各誌に新体詩をつぎつぎと発表して新体詩人として認められる。
岩田 大中(いわた だいちゅう、1871年6月23日(明治4… 岩田 大中(いわた だいちゅう、1871年6月23日(明治4年5月6日) - 1945年(昭和20年)8月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。幼名・徳太郎。 越中国礪波郡今石動町(富山県西礪波郡石動町を経て現小矢部市)で岩田安益の長男として生まれた。明治末に富山市山王町に転籍した。 専修学校(現・専修大学)理財科で学び、1888年に卒業。小間物商と売薬商を営む。1907年9月、富山県会議員に当選した。1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において富山市選挙区から立憲政友会公認で立候補して落選。1910年(明治43年)5月、富山市会議員に当選した。1911年(明治45年)9月に県会議員を退任した。
津田 鍛雄(つだ かじお、1871年6月22日(明治4年5月… 津田 鍛雄(つだ かじお、1871年6月22日(明治4年5月5日)- 1921年(大正10年)11月30日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 備前国児島郡天城村(岡山県児島郡藤戸村、藤戸町を経て現倉敷市藤戸町天城)で、岡山藩天城池田家家臣・津田一陣の長男として生まれた。6歳で父(陸軍少尉)は西南戦争(田原坂の戦い)で戦死した。小学校、大津開達学校を経て、1894年(明治17年)9月、京都同志社に入り、1889年(明治22年)同志社普通学校を卒業。その後、東京専門学校(現早稲田大学)英語政治科で学んだ。 1895年(明治28年)9月に帰郷。有志と岡山英学校を設立。また、味野紡績、児島銀行の創設にも参画し、同行相談役、同支配人を務めた。
久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4… 久保田 政周(くぼた きよちか、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。称号は正四位勲一等。
鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年… 鈴木 邦義(すずき くによし、1871年6月19日(明治4年5月2日) - 1945年(昭和20年)11月30日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事。旧姓・石井、旧名・兼次郎。 三重県出身。石井四郎兵衛の二男として生まれ、鈴木九郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、佐賀県参事官、長崎県参事官、東京府参事官、岐阜県書記官、千葉県事務官・第一部長兼第三部長、滋賀県事務官、宮城県事務官、神奈川県港務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1916年5月、沖縄県知事に就任。織物業などの産業振興に尽力。
坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5… 坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5月2日)- 1943年(昭和18年)5月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県で坂梨磯吉の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。 東亜煙草株式会社取締役、山東興業・山東水産・山東運輸株式会社取締役、神戸・第一水産取締役、坂梨(名)社長、坂梨商事社長、旭セメント社長、日之出漁業社長、日本海水工業社長、東邦化学工業社長、西部合同瓦斯監査役、福岡県会議員などを歴任。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙において、福岡県第15区で立憲政友会から出馬し当選し衆議院議員となり、1期務めた。
沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ち… 沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ちゅうじろう/さわだ ただじろう〉、1871年6月18日〈明治4年5月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月13日)は、明治から昭和にかけての小説家、新聞記者。 1871年6月18日(明治4年5月1日)、京都府に生まれた。二六新報、國民新聞、読売新聞などで約20年間、新聞記者を務めた。その中でも特に、司法記者として中央公論、婦人倶楽部、新小説などに犯罪事実をもとにした物語を執筆した。 1920年(大正9年)に『女の心・男の心』、1925年(大正14年)に『春宵島原巷譚』、1926年(大正15年)には『秋雨の宿』などの短編小説を執筆した。同年7月、週刊朝日にて『足にさはつた女』を執筆した。
加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月… 加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月27日) - 1948年(昭和23年)3月5日)は日本の教育者である。 安房国八幡(現・千葉県館山市)に生まれる。父は長尾藩士。渡辺裁縫塾で学び1890年に卒業する。1893年に小学校裁縫専科正教員の免許を取得する。1894年東洋英和女学校(現・学校法人東洋英和女学院)の裁縫教師になる。 1896年東洋英和女学校の寄宿舎監に就任する。J・K・マンローらの指導により、1897年に洗礼を受ける。1936年に引退するまで、42年間教師と舎監を務め、学校の主婦役、母親役であった。
佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治… 佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治4年4月25日) - 1946年(昭和21年)12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県郡上郡、後の西和良村(現郡上市)出身。1891年、岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)卒。農業を営む。高田町議、養老郡議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、同議長、所得調査委員、高田町助役、養老郡農会議員、地方森林会議員、土地収用審査委員、真利銀行、西濃貯蓄銀行、養老遊園各(株)取締役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰。
山崎 林太郎(やまさき りんたろう、明治4年4月18日(18… 山崎 林太郎(やまさき りんたろう、明治4年4月18日(1871年6月5日) - 1944年(昭和19年)5月24日)は、明治時代から昭和初期の政治家。山口県下関市長などを務めた。 兵庫県出身。1893年(明治26年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業した後、『上毛新聞』の主筆となった。星亨の知遇を得て、星が朝鮮法部顧問となると、顧問付となった。帰国後、前橋市会議員に当選。1901年(明治34年)、星が東京市会議長に就任すると市会書記長となった。尾崎行雄市長時代には市区改正課長、庶務課長、勧業課長、臨時市区改正局主事、助役を歴任した。1909年(明治42年)から2年余りイギリスを視察。帰国後、浅草区長となり、1919年(大正8年)には東京市助役に再任され、さらに市理事を務めた。
中村 彌之祐(なかむら やのすけ、1871年6月2日〈明治4… 中村 彌之祐(なかむら やのすけ、1871年6月2日〈明治4年4月15日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月3日)は、日本の政治家、実業家。兵庫県会議員。中村組社長。舞子土地取締役。族籍は兵庫県平民。 島根県邑智郡口羽村(現・邑南町)、三上新市郎の弟。先代祐七の養子となり1915年、家督を相続する。会社重役であり、中村組社長、舞子土地、中播運送、不二商会、姫路電気化学工業、姫路水力電気、紅屋コークス、幡美鉄道、関西土木電気興業各取締役、姫路商業銀行、神戸布引土地、姫路水力電気各監査役などをつとめた。 資性温厚で、神仏を尊崇するところ深く、特に日蓮宗に帰依する。 1930年、破産者となる。住所は兵庫県姫路市龍野町1丁目。
宇野 勇作(うの ゆうさく、1871年6月2日(明治4年4月… 宇野 勇作(うの ゆうさく、1871年6月2日(明治4年4月15日) - 1940年(昭和15年)10月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 陸奥弘前藩領津軽郡上十川村(青森県南津軽郡六郷村を経て現黒石市)に生まれる。南黒地方屈指の大地主。南津軽郡立中学校を卒業し、産馬、リンゴ園、酒造業、運送業などを営む。1915年(大正4年)青森県会議員に当選。1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では青森県第3区から立憲政友会公認で出馬し、鳴海文四郎を700票余上回り当選する。 1927年(昭和2年)六郷村長となり、1932年(昭和7年)9月には青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで在任した。
大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日〈1871… 大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日〈1871年6月2日〉 - 昭和19年〈1944年〉2月5日)は、明治から昭和戦前期に活動した日本画家。本名・文治郎。 群馬県吾妻郡荻生村(現・東吾妻町荻生)に生まれる。生家は農業のかたわら酒造業を営んでいた。地元の荻生尋常小学校を経て、中之条の吾妻高等小学校を卒業。その後は実家で農業に従事する。 父の反対を周囲が説得し、上京して南画の大家だった滝和亭に弟子入りする。1889年(明治22年)に榛山の雅号を与えられた。奈良・京都の神社仏閣を巡り、古画の研究に取り組む。法隆寺金堂壁画の修復を手がけたことで名前を知られた。この名声が広がり、吉野神宮、高野山などから招かれ、壁画の修復にあたった。
木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4… 木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日(明治4年4月14日) - 1959年(昭和34年)3月15日)は明治時代から昭和時代の人物。地質学者。木戸孝允の養子。実父は松本順造。母は木戸夫人・松子の妹・信。 京都生まれ。1876年(明治9年)、木戸孝允の養子となり、生咲忠太郎から木戸忠太郎となる。1886年(明治19年)4月、養母で伯母の松子が死去。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学地学科卒業、農商務省に入る。 1903年(明治36年)8月23日、小野田元熈の娘・千子と結婚。1907年(明治40年)3月、製鉄所技師兼農商務技師のまま満州鉄道に入社。地質調査部長として鞍山市・撫順鉱の磁鉄鉱を発見するなど功績を挙げた。
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871… 田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)5月6日)は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。 土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した。また学習院御用掛、宮内省御用掛、学習院評議会会員を兼ねた。 1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され、退官した。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月3… 10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月30日〈明治4年4月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓は伊藤、幼名は要三。福島経済界の「巨人」と称された。 陸奥国白河郡、後の福島県西白河郡白河町(現白河市)で素封家・伊藤善右衛門の三男として生まれ、1888年(明治21年)7月、信夫郡八島田村(信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田)の9代吉野周太郎の婿養子となる。1911年(明治44年)8月、養父の死去に伴い家督を継承し、同年11月、10代周太郎を襲名した。 養父の築いた多額の財産により、福島第六銀行頭取、第百七銀行頭取、福島銀行頭取、武蔵野銀行頭取、岩代銀行頭取、福島電灯社長、夏井川水電取締役会長、福島羽二重取締役会長、福島県購買組合連合会理事長、同県信用組合連合会理事長などを務めた。
山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5… 山内 豊政(やまうち / やまのうち とよまさ、1871年5月29日(明治4年4月11日) - 1955年(昭和30年)10月18日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員、南邸山内家3代当主。 土佐藩南邸山内家2代当主・山内豊積(10代藩主山内豊策五男・山内豊著の三男)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)1月8日に男爵を襲爵した。 学習院高等科、和仏法律学校(現・法政大学)を修了。1896年(明治29年)12月、一年志願兵として歩兵第22連隊に入隊し、1899年(明治32年)2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1905年(明治38年)後備役となる。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871… 井上 友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) - 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。 救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。
永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(187… 永田 新之允(ながた しんのじょう、明治4年4月8日(1871年5月26日) – 昭和46年(1971年)6月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→中正倶楽部→新正倶楽部)。岩国市長。ジャーナリスト。 周防国玖珂郡岩国(現在の岩国市)出身。扶桑新聞社で活版職工として勤務。1888年(明治21年)より名古屋逓信管理局、東京逓信管理局、横浜郵便電信局、東京郵便電信局で勤務した。1896年(明治29年)に読売新聞社記者、編集局長となる。その後、国民新聞社に転じ、1902年(明治35年)には理事・編集長となった。さらに1904年(明治37年)に実業之日本社に移り、理事、編集長、営業部長、総務部長を歴任した。
斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5… 斎木 逸造(さいき いつぞう、明治4年4月8日(1871年5月26日) - 昭和30年(1955年)11月1日)は、山梨県出身の政治家。甲府市長(官選第16代)。号は天民。 甲府県巨摩郡牧原村(現在の山梨県北杜市)に漢方医の父「良斎」、母「たけ」の長男として生まれる。明治18年(1885年)頃、山梨県北巨摩郡祖母石村の漢学者菊島茂村が開いた茂村塾に入門し漢学、書道を学び、明治21年(1888年)に武里村(明治8年(1875年)に牧原村、新奥村及び宮脇村が合併して成立)の冨里尋常小学校の授業生として採用された。この頃、当時の思想的主流であった自由民権運動に関心を示し、特に中江兆民に心酔した斎木は、存分に自由民権運動に挺身することを決意し、受業生を辞して北海道に渡り一旦は巡査に採用されたものの、内務省巡査採用規程による採用年齢に達していないため不採用となった。
中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4… 中川 吉造(なかがわ よしぞう、1871年5月24日(明治4年4月6日) - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和時代の土木技術者、内務技監。 中川吉太郎の弟として大和国葛下郡高田村(現・奈良県大和高田市)に生まれ、1913年(大正2年)分家する。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省し、第1区土木監督署附となり、利根川改修の調査に当たる。 1897年(明治30年)土木監督署技師に転じ、翌年、関宿工営所主任として利根川治水工事に関与。1905年(明治38年)内務技師に進み、東京土木出張所技師となる。1910年(明治43年)から一年間、渡欧し、ドナウ川の鉄門などを視察。
2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871… 2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871年5月19日(明治4年4月1日)- 1925年(大正14年)11月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、横浜市会議長。幼名・茂七郎。 武蔵国久良岐郡、現在の横浜市で、洋糸織物商・初代大浜忠三郎の長男として生まれる。横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1888年(明治21年)東京専門学校(現早稲田大学)英語本科を卒業し、欧米諸国を遊歴した。 家業を継承して洋織物商「信濃屋」を経営し、1904年(明治37年)10月、家督を相続し忠三郎を襲名した。横浜取引所理事長、横浜商業会議所議員、横浜生命保険社長、横浜倉庫取締役、神奈川県農工銀行取締役などを務めた。
坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4… 坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4年4月1日) – 1931年(昭和6年)4月11日)は、日本の政治家、実業家、記者。高知県生まれ。号は弔民(ちょうみん)。坂本素魯哉の弟。 1871年5月19日(明治4年4月1日)、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)に生まれる。 1887年(明治20年)土佐立志社に入社。専修学校(現・専修大学)を卒業後、朝鮮政府内務顧問秘書となる。 中外商業新報(現・産経新聞、日経新聞)の記者となり、1894年(明治27年)、日清戦争に際しては、軍事探偵となって満蒙の情報を収集。その後、臨時台湾総督府鉄道隊に奉職。1896年(明治29年)、フィリピン独立運動の時、台湾総督・乃木希典の密命を帯び、フィリピン群島の内情を探査。
後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月… 後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月19日) - 昭和11年(1936年)2月23日)は日本の宗教家、僧。元西本願寺執行長。号は素雲。 高知県幡多郡宿毛村(現在の宿毛市)清宝寺に生まれた。1899年東京仏教大学校を卒業後、帰郷して父をたすけて、清宝寺の住職にいそしんだ。林有造の門をたたいて指導を受けた。 本願寺よりまねかれて京都本山勤務となり、教学局注記に任ぜられた。31歳の時であった。日露戦争には、本願寺の従軍布教僧を命ぜられ、第三軍司令部付として活躍。凱旋の後、東京築地本願寺別院勤務となり、やがて東京出張所長を命ぜられた。 1929年本願寺執行長に就任した。本願寺の要職を歴任、東京市や仏教連合会等の他団体の重要役員を兼ねて活躍した。
村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3… 村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3月29日) - 1924年(大正13年)4月9日)は、日本の保険学者、実業家。法学博士。族籍は兵庫県平民。 日本の海上保険学の祖とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)教授や帝国海上保険副社長を歴任し、独自の保険学を確立するとともに、多くの後進を育てた。申酉事件で母校防衛に尽力し、没後キャンパス内に胸像が設置された。 東京で生まれた。旧福井藩士・関戸由義の二男。兵庫県神戸市北長狭通出身。父である関戸由義は福沢諭吉の知人で、自家の屋敷内で福沢らが神戸商業講習所を設立。1883年、東京府平民・村瀬さだの死跡を相続する。 神戸商業講習所が改組された兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)を5回生として卒業後、1886年高等商業学校(現一橋大学)に入学。
岡田 正美(おかだ まさよし、1871年5月17日(明治4年… 岡田 正美(おかだ まさよし、1871年5月17日(明治4年3月28日) - 1923年(大正12年)10月21日)は、日本の国語学者。号は雲亭。位階は従四位、勲等は勲五等。 長野県出身。1897年に東京帝国大学文科大学国文科卒。1900年、議会に国語・国文の改良に関する請願書を提出。国語調査会の補助委員として国語の整理、改革に参与。東京帝大講師、東京外国語学校教授。墓所は染井霊園1-ロ-12にある。
建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5… 建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。 新潟県蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。1922年退官。1913年日本社会学院(学会)を創設、主宰した。オーギュスト・コントに依拠した総合的社会学を講じた。対露強硬論を唱えた。その後、衆議院議員をへて1938年貴族院議員。
岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年… 岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、鉄道官僚。一年志願兵を経て将校となり、鉄道会社勤務を経て帝国鉄道庁・鉄道省に出仕。札幌鉄道局苗穂工場長や北海道鉄道管理局旭川工場長等を歴任する。東京府士族で官位は陸軍歩兵少尉従五位勲四等。 岡山県岡山市富田町に生まれ、1893年(明治26年)に東京工業学校機械工芸部機械科を卒業、同年12月、一年志願兵として歩兵第2連隊に入隊。1895年(明治28年)7月、歩兵少尉任官と共に予備役となり日本鉄道株式会社に入社、汽車課に勤務する。同年10月、勲六等瑞宝章を受章。1896年(明治29年)2月、盛岡工場に転属。
逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - … 逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - 1939年10月22日)は、鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)出身で高砂部屋、のち井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は今井 与次郎(旧姓年永)。最高位は東関脇。現役時代の体格は168cm、82kg。得意手はハズ押し、左四つ。 子供の頃から土地の宮相撲で活躍していたが、巡業で鹿児島を訪れた初代西ノ海・小錦一行に誘われて高砂へ入門、1893年(明治26年)1月場所序ノ口で初土俵を踏んだ。2年後の1895年(明治28年)6月場所には早くも十両に昇進、十両もわずか2場所で通過して1896年5月場所入幕した。この年の1月場所で初代西ノ海が引退、井筒部屋を興したのでこれに従った。
横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(18… 横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(1871年5月9日) - 昭和13年(1938年)5月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、冶金学者。 上総国長柄郡茂原町(現在の千葉県茂原市)出身。共立学校、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。三菱合資会社高島炭鉱技師となったが、1896年(明治29年)に東京帝国大学工科大学助教授に就任した。翌年よりドイツに留学し、1899年(明治32年)に帰国した後は京都帝国大学理工科大学教授に迎えられた。1901年(明治34年)、工学博士号を受ける。 1913年(大正2年)に澤柳事件により京都帝国大学を辞したが、1917年(大正6年)に秋田鉱山専門学校校長に就き、1925年(大正14年)まで在職した。
中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年… 中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年3月20日) - 1932年(昭和7年)7月21日)は、日本の実業家、醸造家、政治家。衆議院議員。 筑前国宗像郡上西郷村(現:福岡県福津市)で、酒造家・中村清作の長男として生まれる。1889年(明治22年)県立中学校を卒業。日清戦争、日露戦争に従軍した。 上西郷村長、津屋崎町長、宗像郡会議員、同参事会員、福岡県会議員、同参事会員などを歴任。その他、福岡県地方森林会議員、全国酒造組合連合会評議員、宗像郡酒造組合長などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第9区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月1… 高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月19日)- 1916年(大正5年)9月24日)は、日本の新派俳優である。 東京の千住の生まれ。初めは鉄道の駅員を務めていたが、後に俳優に転向し芸能界入りし新派に属した。1892年(明治25年)、川上音二郎が創設した一座に入門し、初めて舞台に立つ。1896年(明治29年)には活動の場を大阪に移り、同派の俳優であった喜多村緑郎らと共に「成美団」を結成した事で、一躍有名となった。「角座」や「朝日座」等関西における新派を生み出した。 1904年(明治37年)に東京に戻った後は「本郷座」を創設し、同派の座長となる。高田の演技が特徴を持った事により、庶民からは「新派(新演劇)の團十郎」と呼ばれた。
丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3… 丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3月18日) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(2期)。 信濃国安曇郡、後の長野県南安曇郡三田村(現安曇野市)で、農業・丸山実太の二男として生まれる。1890年、明治法律学校を卒業。1896年3月、北海道庁に入庁し拓殖部に勤務。同年9月、のちの岩内町に転居し『岩内新報』を創刊した。 その後、札幌市会議員、北海道会議員、同参事会員、同副議長、同議長、北海道国防義会会長、胆振鉄道会社役員などを務めた。 1924年5月の第15回衆議院議員総選挙で北海道第12区から出馬し当選。以後、第18回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
杉山 東太郎(すぎやま とうたろう、1871年5月4日(明治… 杉山 東太郎(すぎやま とうたろう、1871年5月4日(明治4年3月15日) - 1936年(昭和11年)12月27日)は、明治から昭和時代初期の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。 杉山半蔵の長男として静岡県周智郡村松村(山名郡久努村、磐田郡久努村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。久津部の刮目舎(現袋井市立東小学校)から明治法律学校に学び、自由民権運動に傾倒する。19歳にして久努村長に就任し、同村会議員、磐田郡会議員、静岡県会議員を経て、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。つづく第12回、第13回総選挙でも当選し、衆議院議員を3期務めた。
小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953… 小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953年12月12日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史。 1871年、三重県鳥羽市で生まれた。1887年、神宮皇學館に入学したがすぐに退学して上京し、国民英学会や東京英語学校で学んだ。東京帝国大学文科大学史学科に進学し、1899年に卒業。 卒業後は、長野県師範学校で教職に就いた。後に徳島県師範学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、第一高等学校教授をつとめた。 1908年、大韓帝国政府に招聘され、教育制度改革に従事。教科書編輯課長として教科書の編纂などにあたった。 日韓併合後の1918年には、朝鮮総督府中枢院編纂課長として朝鮮史の編纂にあたり、1923年には朝鮮史学会を創立した。
加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年… 加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。岡野敬次郎に師事。弟子に兼子一、菊井維大など。 趣味は俳句、俳画、茶道。俳号の犀水は、犀川に由来。松本市城山公園には頌徳碑があるほか、句碑が多数残る。母校旧制中学の同窓会長や長野県人連合会長も務めた。大正6年、澤柳政太郎を総裁、加藤を副総裁として財団法人「日本アルプス会」が結成された。なお、弟子には商法学者の森清(中央大学名誉教授)がいた 1917年(大正6年)の高等学校旧制松本高校誘致運動では、横田秀雄・田中穂積らと連署で「高等学校設立建白書」を政府に提出し、松本への高等学校誘致に努めた。
吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、187… 吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、1871年4月29日〈明治4年3月10日〉 - 1959年〈昭和34年〉5月22日)は、日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校(現・東京女子医科大学)創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。 東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。
田中 武雄(たなか たけお、1871年4月25日(明治4年3… 田中 武雄(たなか たけお、1871年4月25日(明治4年3月6日) - 1918年(大正7年)2月27日)は、日本の逓信官僚。官選青森県知事、小倉市長。 東京府出身。1896年、東京法学院を卒業。同年12月、判事検事登用第1回試験、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省し逓信属となる。 以後、逓信事務官、逓信書記官、一等郵便局長、逓信省経理局調度課長兼電信灯台用品製造所長、兼台湾総督府事務官、東京逓信経理局長などを経て、熊本逓信管理局長に就任。 1913年6月、青森県知事に就任。大凶作への対応に尽力。1914年4月に休職となる。同年に退官。1916年12月、小倉市長に就任。1918年2月、上京中に死去した。
根本 祐太郎(ねもと ゆうたろう、1871年4月24日〈明治… 根本 祐太郎(ねもと ゆうたろう、1871年4月24日〈明治4年3月5日〉 - 1947年〈昭和22年〉8月24日)は、明治から昭和初期の薬剤師、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、福島県安積郡郡山町長。 陸奥国安積郡、後の郡山町(現郡山市)で、薬種商「かさいし屋」根本庄次郎の長男として生まれる。1874年(明治7年)に父が死去して家督を相続した。町立金透小学校(現郡山市立金透小学校)の尋常科、同高等科を経て、1888年(明治21年)県立福島医学校附属病院で薬学と調剤術の講習を受け、1889年(明治22年)第1回薬剤師試験に合格し、薬舗(現:薬局)を開業した。福島県薬剤師会長、日本薬剤師会初代代議員などを務めた。
山田 禎三郎(やまだ ていざぶろう、1871年4月22日(明… 山田 禎三郎(やまだ ていざぶろう、1871年4月22日(明治4年3月3日) - 1930年(昭和5年)10月6日)は、日本の教育者、実業家、衆議院議員。 信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に生まれる。1894年東京高等師範学校を卒業後、郡立諏訪実科中学(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)に勤め、千葉県師範学校に赴任。その後、 同郷の渡辺千秋京都府知事の縁故で京都府視学に登用されたが辞任し、1899年茨城県師範学校の校長となった。1900年教職を去り、千葉新聞の記者となる。 その後は実業界に転じ、書肆普及会会長、帝国書籍取締役に就任。1902年の教科書疑獄事件では事件発覚のきっかけを作った人物となったが、当人は直前にヨーロッパの教科書事情調査として渡英しており、逮捕は免れたものの留守宅が家宅捜索を受けた。
赤塚 自得(あかつか じとく、1871年4月21日(明治4年… 赤塚 自得(あかつか じとく、1871年4月21日(明治4年3月2日) - 1936年(昭和11年)2月1日)は日本の漆芸家、専門は蒔絵、本名は平左衛門。 東京市芝区浜松町、代々漆芸の家系に生まれる。勧学義塾に学びながら狩野久信に日本画、蒔絵を師事、のち寺崎広業に師事し、白馬会で洋画も学ぶ。 作品の発表先を求めて1925年に金工家の香取秀真、陶芸家の板谷波山らと工芸済々会を結成。 1927年には第8回帝国美術院展覧会で漆工の審査委員を務め、1930年、帝国美術院会員となる。 伝統を踏まえながらも自らの創意で自然を描き、漆芸の近代化を進め、大正・昭和初期の漆芸界で指導的役割を果たした。 1936年、65歳で死去。
佐伯 美津留(さえき みつる、1871年4月21日(明治4年… 佐伯 美津留(さえき みつる、1871年4月21日(明治4年3月2日) - 1948年7月16日)は、日本の発明家。 山形県山形市出身。海軍兵学校に入るが、近眼となり、退学し、1894年(明治27年)に逓信省に入った。逓信省では、無線電信電話の研究、船舶無線電信局、海岸電信局、長距離大電力無線電信局などの設計・施設に従事した。1923年(大正12年)に勅任官に任ぜられた。1925年(大正14年)に日本無線電信会社が創立されると、技師長となった。 正四位勲四等。墓所は多磨霊園。
松家 徳二(まつか とくじ、1871年4月20日(明治4年3… 松家 徳二(まつか とくじ、1871年4月20日(明治4年3月1日)- 1929年(昭和4年)11月14日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 讃岐国寒川郡、後の香川県大川郡富田村(大川村、大川町を経て現さぬき市)で、農業・大庄屋、松家茂太郎の二男として生まれる。郷校で学んだ後、山川塾で漢学を修め、大阪に遊学した。1894年(明治27年)家督を相続した。 1898年(明治31年)香川県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に香川県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選。以後、第11回総選挙まで当選し、衆議院議員を連続5期務めた。
尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明… 尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明治4年2月29日》 - 1921年(大正10年)2月14日)は、日本の薬剤師、政治家。学位は薬学士(帝国大学・1892年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 良助(おざわ りょうすけ)と表記されることもある。長男の尾澤良靖も、のちに「良助」を襲名しているため、混同しないように注意を要する。 尾澤総本店店主、東京府東京市牛込区会議員などを歴任した。 浦和県豊島郡出身の薬剤師である。「脈をとらせても当代一」と謳われた薬種商の尾澤良甫の長男として生まれ、私立薬学校を経て薬舗開業試験に合格し、のちに帝国大学でも学んだ。大学卒業後は、家業である尾澤薬舗を継承し、尾澤総本店の店主となった。