田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月… 田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月8日 - 昭和19年(1944年))は、日本の教育者、漢学者。逗子開成中学校、鎌倉女学校を創設した。東京開成中学校の校長も務めた。東京府士族。子に田辺元、孫に野沢協がいる。
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田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月… 田邊 新之助(たなべ しんのすけ、文久2年(1862年)1月8日 - 昭和19年(1944年))は、日本の教育者、漢学者。逗子開成中学校、鎌倉女学校を創設した。東京開成中学校の校長も務めた。東京府士族。子に田辺元、孫に野沢協がいる。
早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈… 早川 金十郎(はやかわ きんじゅうろう、1862年1月8日〈文久元年12月9日〉 - 1935年〈昭和10年〉10月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。埼玉県川越市長。 忍町(現行田市)に生まれる。1876年(明治9年)埼玉県師範学校小学師範科を卒業し、小学校教員となる。ついで入間、南埼玉郡役所に奉職し、1915年(大正4年)から川越町助役を3期、1923年(大正12年)から市助役を3期務め、1932年(昭和7年)3月から川越市長を1期務めた。市長在任中の1933年(昭和8年)には県内初の都市計画法が適用され、大規模な耕地整理、住宅建設や工場誘致、道路の新設などを行った。
筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文… 筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文久元年12月8日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。吉岡ホテル社長。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の四男。寺子屋式の教育を受ける。吉岡村に分家する。酒小売、質商を営む。 村区長、村評議員、村会議員、信用組合長、気高漁業、山陰倉庫各監査役等をつとめる。酒造会社を経営する。 趣味は骨董、囲碁。住所は鳥取県気高郡吉岡村大字吉岡(現・鳥取市吉岡温泉町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月… 三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。11歳の時に父が没したため、越前国坂井郡の浄土宗西光寺の住職の伯父に引き取られてそこで学んだ。明治9年(1876年)にのちの石川県第三師範学校に入学して、明治11年(1878年)に同校を卒業した。
小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12… 小田 伴輔(おだ ばんすけ、1862年1月4日(文久元年12月5日)- 1941年(昭和16年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 周防国玖珂郡柳井村(のち山口県玖珂郡柳井町を経て現柳井市)で、小田超祐の長男として生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続した。柳井町長、周防銀行取締役となる。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙において山口5区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1895年(明治28年)8月27日に議員を辞職した。1941年に死去した。
八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元… 八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元年12月3日〉 - 1926年〈大正15年〉10月17日)は、日本の商人(呉服商)、地主、会社役員、政治家。鳥取県会議員。鳥取市会副議長(15代)。鳥取勧業取締役。 鳥取市元魚町1丁目、八村八次郎の長男。森本晩盛塾に、漢学を学ぶ。家業の呉服商に従事したが、1887年頃に廃業した。1892年に鳥取市会議員となり、1911年1月に副議長に就任した。 1911年6月に鳥取県会議員補欠選挙に当選した。帝国党、憲政会に所属。1915年10月に県参事会員となり、1916年11月に辞職した。 趣味は茶の湯、生花、書画、骨董。住所は鳥取市元魚町1丁目。
門田 正経(かどた まさつね、1862年(文久2年)1月 -… 門田 正経(かどた まさつね、1862年(文久2年)1月 - 1924年(大正13年)12月8日)は、日本のジャーナリスト、東洋協会幹事長、拓殖大学学友会初代会長。 伊予国松山生まれ。松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)から慶應義塾に入り、朝野新聞、馬場辰猪の國友会に入り、山陰新聞、海南新聞、大阪毎日新聞創立に参加。台湾協会専門学校の幹事となり、毎日新聞の特派員として台湾に渡り、台湾統治の一翼を担う。墓所は多磨霊園。
高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年… 高柳 豊三郎(たかやなぎ とよさぶろう、文久2年(1862年) - 明治45年(1912年)2月22日)は、日本の実業家。読売新聞社社長などを務めた。 肥前国佐賀生まれ。佐賀藩士で、1885年に商法講習所(現一橋大学)を卒業し、三井物産入社。同期に藤瀬政次郎がいた。 1890年三井物産を退社。1892年兵庫県立神戸商業学校校長。同年愛知県名古屋商業学校校長。1897年依願退官。 日本郵船入社後、春日丸事務長などを経て、1909年日就社社長。1910年読売新聞社社長。1912年死去。社葬が行われた。 読売新聞社創業者の本野盛亨の甥にあたる。
佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) -… 佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) - 1907年(明治40年)2月26日)は、日本の明治期における外科医。順天堂副医院長。武蔵国江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)出身。 1862年(文久2年)旧暦7月、安房国花房藩士松下信久の四男として江戸に生まれる。1873年(明治6年)に父と死別し、兄松下道久の下で育つ。1876年(明治9年)に東京外国語学校に入り、翌1877年(明治10年)に東京大学医学部予科に入学した。1886年(明治19年)、学制変更により東京帝国大学医科大学となった年に卒業する。東京帝国大学医科大学卒業前に陸軍軍医総監佐藤進の養子佐藤梅尾と結婚し、婿養子となる。
豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - … 豊島 恕平(とよしま じょへい、1862年〈文久2年〉 - 1920年〈大正9年〉9月29日)は、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)出身の医師・実業家・政治家。高遠電灯社長、高遠電気軌道創立者。立憲政友会所属。長野県会議員(2期)。 文久2年(1862年)、信濃国伊那郡高遠(現・長野県伊那市高遠町)に生まれた。父親は高遠藩士の亀井則義であり、恕平は九男だった。親戚の豊島篤次は長崎県で官吏(裁判所刑事部)を勤めており、亀井恕平は豊島家に養子に入った。1878年(明治11年)4月には長崎中学校を卒業して長崎医学校に入学した。 1884年(明治17年)には医術開業試験に合格して医師開業免許を受け、三菱会社の高島炭鉱病院に勤務した。
田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年… 田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年4月) - 1918年(大正7年)9月9日)は、三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・文筆家。号は竹香。豊橋市長の田部井勝蔵は弟。 文久2年(1862年)4月、江戸・赤坂にある刈谷藩の江戸藩邸に生まれた。父は刈谷藩士の田部井清蔵であり、鉚太郎は長男だった。田部井家は三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)にある。 明治維新後には愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、21年間にわたって愛知県内の学校の訓導や校長を務めた。また、南画家の牧野敏太郎(挙母藩藩士の子であり牧野義雄の兄)の南画の師だった。1901年(明治34年)には富山県視学となった。
小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年… 小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年)- 1902年(明治35年)11月12日)は、日本の実業家。岡山県倉敷市出身。諱は、義直。 雄弁家として知られた。 小松原芳太郎の長男として倉敷村に生まれる。1866年(慶応2年)、倉敷浅尾騒動で父を失う。早くから両親を失い祖父小松原義平(善右衛門義忠、1817-1904)に養育された。終生祖父の恩を忘れず八十過ぎて足の不自由な祖父を背負って浴室に入れていた。1883年(明治16年)、21歳のときに村会議員、1888年(明治21年)、倉敷紡績所株式会社を設立。1891年(明治24年)、倉敷銀行(現中国銀行)を設立。 大日本紡績協会副会長。
伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 -… 伊奈 初之烝(いな はつのじょう、1862年〈文久2年〉 - 1926年〈大正15年〉6月11日)は、尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)出身の実業家。伊奈製陶所(伊奈製陶株式会社、INAXを経て、現在のLIXIL)を経営した。 初代伊奈長三郎(号は長三)は、常滑焼で知られる尾張国知多郡常滑(現在の愛知県常滑市)の陶芸界で名を残し、4代まで伊奈長三郎を襲名した。文久2年(1862年)に生まれた伊奈初之烝は、それまでの伊奈家の家業だった陶芸には興味を向けず、近代的な窯業工場の経営を志向した。5代目伊奈長三郎は伊奈初之烝ではなく弟の伊奈伍助が襲名している。 設立年は定かでないが、伊奈初之烝は個人経営の伊奈製陶所を設立し、商号を「マルハ」として陶管の製造を開始した。
板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年)… 板倉 松太郎(いたくら しょうたろう、1862年(文久2年) - 1924年(大正13年))は、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身の教育者。第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)校長(1887年-1900年、1906年-1921年)。板倉は当時の碧海郡の教育界の中心的な存在であった。1919年(大正8年)に勲八等瑞宝章受章。 文久2年(1862年)、三河国碧海郡大浜村乙立(現・愛知県碧南市浅間町)出身。1880年(明治13年)7月19日に愛知県師範学校を卒業し、第五十五番小学棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)の教員となった。1886年(明治20年)に新川に架かる無名橋が現在地に移設された際には、板倉や岡本八右衛門らが元禄橋と命名している。
大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(18… 大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) – 大正10年(1921年)7月5日)は、日本の新聞記者、政治家。 秋田市長(第5代)、衆議院議員(立憲政友会)、秋田県会議長、秋田県会議員などを務めた。 久保田藩士大久保盛実の長男として中谷地町(現秋田市)に生まれる。藩校明徳館で漢学を学んだ後、東京に出て1875年(明治8年)より朝野新聞の記者となった。帰郷後の1881年(明治14年)に秋田日報を創刊し、1883年(明治16年)に秋田改進党を結成した。同年、秋田県会議員に選ばれ、後に議長に就任した。後藤象二郎が大同団結運動を唱えると、これに呼応して東北九州連合の必要性を説いて、精力的に活動した。
木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850… 木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) - 1914年(大正3年)10月2日)は、明治時代の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 松山城下柳井町で藩士・木村利長の長男として生まれる。1871年(明治4年)松山県庁掌、1874年(明治7年)愛媛県雇・戸長、1878年(明治11年)風早郡書記、1880年(明治13年)同郡長心得、1886年(明治19年)風早・和気・温泉・久米郡長心得を歴任。1890年(明治23年)1月に松山五十二銀行取締役に転じたが、同年2月6日、推挙され松山市長に就任した。 1896年(明治29年)2月まで市長を務めたのち、実業界に入り、松山商業銀行頭取、同行取締役、松山商業会議所会長などを歴任した。
田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(18… 田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 大正15年(1926年)3月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)出身。茨城県学務課勤務や出版事業経営を経て、宮城県仙台市に弁護士事務所を開業した。仙台弁護士会長、宮城県教育会副会長、仙台英語学校校長などを務めた。また仙台市会議員、同議長、宮城県会議員、同議長に選ばれた。 1912年(明治40年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、広瀬電力株式会社取締役を務めた。
町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(18… 町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 1917年(大正6年)4月2日)は、群馬県の養蚕家。高山長五郎の後を継いで高山社第2代社長となり、私立甲種高山社蚕業学校を設立した。 嘉永3年(1850年)11月23日上野国緑野郡本郷村の養蚕農家町田藤太郎の子として生まれた。幼名は藤太郎。明治5年(1872年)3月9日家督を継ぎ、1874年(明治7年)3月本郷村副戸長となった。 矢場村で堤防工事を監督した際、休憩時間に吉田半十郎宅で高山長五郎の清温育の講義を聞いて興味を持ち、1875年(明治8年)入門し、1876年(明治9年)蚕児飼育法授業員として地域を巡回した。
相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3… 相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3年11月22日) - 1924年(大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人、横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。
高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永… 高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永3年11月12日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、明治時代に活躍した佐賀藩出身の実業家、炭鉱技術者である。漢詩も嗜み西渓と号した。正六位。 法律家で元老院議員を務めた鶴田皓は実兄。Z旗のTakaこと高取ヒデアキとNobuこと高取伸和は曾孫。佐藤栞里の遠い親戚でもある。 1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。 また、多久家の世継ぎである多久乾一郎の御学友に選ばれており、多久藩の郷校東原庠舎や佐賀藩校弘道館などで共に漢学と国学を学んでいる。
大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1… 大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1850年12月7日)-明治39年(1906年)4月17日)は、明治期の政治家。下総国香取郡磯山(現在の千葉県香取市(旧佐原市))出身。 豪農の出身で26歳の時に地元・磯山の戸長を務めて地租改正の実施に尽くした。その後千葉県の県会議員を務め、明治14年(1881年)に香取郡の郡長に就任して利根川の治水対策や佐原出身の伊能忠敬の贈位実現に尽力した。その頃、庸之助をはじめとする香取郡の人々は利根川の洪水防止策を求めていたが、利根川の恩恵を受けられずに水不足に苦しむ房総半島の人々はこれに強く反発して、地域間の対立を生じていた。そこで明治17年(1884年)、千葉県側の治水対策に不満を抱く茨城県と房総半島選出の県議達が連携して利根川以北の千葉県域を茨城県に譲る替わりに利根川の治水工事に茨城県が費用を負担するとした県境変更運動を開始したのである。
葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(18… 葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(1850年12月6日) - 1937年(昭和12年)2月2日)は、明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれる。また「葦」の字を「蘆(芦)」として蘆原金次郎、蘆原将軍とされる場合もある。訓みは旧仮名遣いでは「あしはら」と表記されるが、発音は「あしわら」である。 生まれは越中国高岡(現在の富山県高岡市)とする文献と、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)とする文献がある。 埼玉県深谷で櫛職人として働いていたが、20歳の時に東京に出て発病したと言われる。24歳の時に結婚したが、懲役に処せられたことから妻に逃げられ離婚。
和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月… 和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月)- 1895年(明治28年)5月2日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。 下野国塩谷郡、のちの栃木県塩谷郡岡村(片岡村大字岡村、矢板町を経て現矢板市)で、戸長を務める家に生まれた。農業を営む。 三大区三小区副戸長に就任。1872年(明治5年)29カ村戸長となる。以後、地主総代、区長、学区取締を務めた。1882年(明治15年)2月、栃木県会議員に選出され、立憲改進党に所属して、1890年(明治23年)まで8年間在任した。この間、塩谷郡学務課長を務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(栃木県第4区)で当選したが、議員在任中の1895年5月、日本赤十字社病院で肺疾患のため死去した。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年… 湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年11月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家(衆議院議員、群馬県会議員)・実業家・社会運動家。雅号は雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。 弟は詩人の湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰・蘆花の姉・初子、子に画家の湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正、山室軍平、深井英五らと親交があった。 嘉永3年10月21日(1850年11月24日)、上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。
佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月2… 佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月21日 - 明治43年(1910年))は、日本の政治家。潮止村会議員。 葛飾郡二郷半領戸ヶ崎村(三郷市)の加藤家に生まれ、埼玉郡八條領川崎村の佐藤家の婿となる。明治8年(1872年)頃伊勢野村戸長、同9年頃川崎村戸長、同13年頃南川崎村惣代、同17年頃伊勢野村連合戸長を務めた。水利に尽力し、葛西用水路第一部普通水利組合の議員を務めた。明治15年(1882年)戸ヶ崎渡しの所に戸ヶ崎村の加藤謙光と共同出資で収銭橋を架け、両人の性を取り藤橋と名付けた。 また同18年と同25年からの2期、県会議員を務めた。明治10年代(1877年 - )から活発な政治活動を行い、明治14年(1881年)7月に法律研究・演説結社である嚶鳴社の影響を受け、高橋荘右衛門らと草加嚶鳴社を結成した。
永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年… 永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年10月15日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・愛野。 肥前国藤津郡、のちの佐賀県藤津郡南鹿島村(鹿島町を経て現鹿島市)で、鹿島藩士の愛野家に生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永田佐次郎と共に副島の警護に当たった。1877年(明治10年)東京の同人社を卒業した。 勧農局雇となり、その後、内務省取調局御用掛を務めた。1879年(明治12年)旧藩主鍋島直彬が沖縄県令として赴任した際に従い、沖縄県属となる。
波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永… 波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永3年10月10日〉- 1922年〈大正11年〉8月29日)は、明治・大正時代の官僚・政治家。司法大臣・宮内大臣などを歴任した。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等子爵。 1850年(嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現:佐賀県小城市)に小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、熊本の木下塾、大学南校でドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた。 1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。
永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永… 永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永3年10月7日)- 1928年(昭和3年)1月7日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村大字高津原、鹿島町を経て現鹿島市横田)で、鹿島藩士・永田佐一の長男として生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永野静雄と共に副島の警護に当たった。藩では学校寮監、仏式練兵教師、予備隊長を務め、慶応4年(1868年)戊辰戦争で鹿島藩の北陸道出陣に従軍した。 1870年5月(明治3年4月)藩命で大阪兵学寮(のち陸軍士官学校)に入学したが、同年11月、父の病により退学した。
高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850… 高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日) - 昭和6年(1931年)1月10日)は、明治~大正期の日本画家。本名は、得三(とくぞう)。なお三女に映画女優の高島愛子がいる。 父親の手ほどきもあり、幼少の頃から絵を描くことが好きであったが後、徳山(現・山口県周南市)出身の大庭学僊(おおば がくせん)に本格的に学ぶ。明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。 1990年代以降には、近代アカデミズム成立以前の先駆的な地形学者、地質学者、地理学者としての再評価が進んでいる。 長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれ、学んだ明倫館では、9歳(当時)で下郷していた後の陸軍大将・乃木希典との交友もあった。
三浦 徹(みうら とおる、嘉永3年9月17日(1850年10… 三浦 徹(みうら とおる、嘉永3年9月17日(1850年10月22日) - 大正14年(1925年)9月30日)は、明治時代に活動した日本の牧師である。日本基督教会の牧師として活動した。 音楽家納所弁次郎の義兄、文部大臣を務めた政治家永井道雄の祖父、民主党の政治家鮫島宗明の曽祖父である。 1850年(嘉永)に沼津藩士三浦千尋の息子として生まれる。江戸に住み、フランス兵法を学ぶが、のちに英学を学ぶようになり、米国長老教会宣教師のクリストファー・カロザースに接触するようになる。 その後に、スコットランド一致長老教会の宣教師ロバート・デイヴィッドスンの日本語教師になる。デイヴィッドスンと同居して僅か10日後に、デイヴィッドスンより洗礼を受ける。
井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年… 井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年9月15日) - 1928年(昭和3年)10月22日)は、日本の翻訳家。徳島県徳島市出身。父は医師の井上不鳴。甥に英文学者・堀正人。親戚に評論家の内田魯庵。明治10年代の翻訳全盛期に科学冒険小説の翻訳を多数手がけた。 徳島藩医・井上不鳴の長男・永吉として徳島城下前川の中洲で生まれた。兄弟は8人で(うち3人は早世)、3人の姉と弟が一人いた。7歳で江戸でオランダ人のヤン・ドンケル・クルティウスに英語を学んだ。その後、芳川顕正に同道して鹿児島に行ったが、1年ほどで徳島に戻り、小学校教師となる。1871年に教師を辞めて神戸の海岸四番館の通訳となり、ドイツ領事館に転じて、領事・ドクトル・フォケの通訳となった。
21代 田部 長右衛門(たべ/たなべ ちょうえもん、1850… 21代 田部 長右衛門(たべ/たなべ ちょうえもん、1850年10月16日〈嘉永3年9月11日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月14日)は、明治から大正期の政治家、実業家、林業家。貴族院多額納税者議員。名は長秋。田部本家第21代当主。 出雲国能義郡母里村(伯太村、伯太町を経て現・島根県安来市)で宇山清左衛門の弟として生まれる。1874年(明治7年)1月、飯石郡吉田村(現・島根県雲南市吉田町吉田)でたたら製鉄業を営む20代田部長右衛門周重の養嗣子となる。1885年(明治18年)4月、家督を相続し、21代『田部長右衛門』を襲名する。 1879年(明治12年)、出雲国鉄師頭取に就任するが、洋鉄の流入により、1923年(大正12年)に和鉄経営を廃業した。
沢田 耕治郎(さわだ こうじろう、1850年10月12日(嘉… 沢田 耕治郎(さわだ こうじろう、1850年10月12日(嘉永3年9月7日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 近江国蒲生郡、のちの滋賀県蒲生郡桐原村(現近江八幡市)で生まれる。漢学と法律学を学ぶ。戸長、桐原村会議員、同村長、滋賀県会議員、徴兵参事員、地方森林会議員、近江米同業組合会議員、蒲生倉庫(株)取締役社長、蒲生銀行頭取となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1904年の第9回衆議院議員総選挙で三選した。衆議院議員を3期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙で落選した。
椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永… 椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永3年9月4日) - 1935年(昭和10年)9月10日)は、幕末の桑名藩士、明治期の教育者・内務官僚。三重県師範学校長、官選県知事、小樽区長。旧姓・塚田、旧名・丈夫。 江戸八丁堀の桑名藩邸で同藩士・塚田長平の二男として生まれ、同藩士・椿重三郎の養子となる。藩校・立教館で学んだ。戊辰戦争では幕府方として転戦した。その後、桑名に帰るも、1973年に上京して東京師範学校で学び、1874年1月、同校を卒業。 1874年2月、文部省三等訓導任官。1875年9月、度会県師範学校二等訓導に就任。以後、同校監事兼一等訓導、三重県師範学校長を歴任。1880年2月、地方官に転じ三重県四等属となる。
長谷川 好道(はせがわ よしみち、1850年10月1日〈嘉永… 長谷川 好道(はせがわ よしみち、1850年10月1日〈嘉永3年8月26日〉- 1924年〈大正13年〉1月27日)は、日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長、朝鮮総督を歴任。官位は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。 1850年(嘉永3年)10月1日、長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。剣術師範であった父について剣術を修める。戊辰戦争には精義隊小隊長として参戦する。 明治後は大阪兵学寮学生となり、1871年(明治4年)8月に陸軍少尉心得、同年12月には陸軍大尉・5番大隊長。1872年(明治5年)4月、陸軍少佐、翌年5月歩兵第1連隊長心得、同6月中佐として西南戦争に従軍する。
横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9… 横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9月14日) - 1923年(大正12年)2月24日)は、明治・大正時代の司法官僚、法律家。法学博士。司法次官、検事総長、大審院院長(現在の最高裁判所長官)等を歴任。法典調査会第三部長(刑法起草責任者)。和仏法律学校(現在の法政大学)校長。位階勲等は正二位勲一等。爵位は男爵。 肥前島原藩士・横田宗雄の長男として豊前国宇佐郡辻村(現在の大分県宇佐市)に生まれる。1865年、日田の咸宜園に入塾し、漢学などの各種学問を学ぶが、同期に清浦奎吾(後の内閣総理大臣)がおり親友となった。横田は清浦の力添えも得ながら出世していくことになる。 中津市学校を経て、1872年に上京し数え年23歳で慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学し、1873年に清浦の斡旋で埼玉県の師範学校教諭となった。
13代 上野 弥一郎(彌一郎、うえの やいちろう、1850年… 13代 上野 弥一郎(彌一郎、うえの やいちろう、1850年9月10日(嘉永3年8月5日)- 1929年(昭和4年)6月4日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家・実業家。衆議院議員、京都府会議長。幼名・弥寿次郎、諱・宗愛。号・舟陵、玉裁、青藍。 丹後国加佐郡西方寺村(京都府加佐郡岡田中村字西方寺、加佐町を経て現舞鶴市西方寺)で、代々当主が弥一郎を襲名し大庄屋を務めた上野家の12代上野弥一郎(隠居名・一良)、増子の二男として生まれる。兄が夭折し慶応4年1月(1868年)家督を相続し13代弥一郎を襲名。梅垣秀和の塾で学び、さらに親族・岸本玄甫宅に住み込み漢籍・習字・算術を修め、その他、山口道一などに師事して漢籍を学んだ。
長谷川 敬助(はせがわ けいすけ、1850年9月4日(嘉永3… 長谷川 敬助(はせがわ けいすけ、1850年9月4日(嘉永3年7月28日) - 1922年(大正11年)7月16日)は、明治から大正時代の政治家。官吏。銀行家。自由民権運動家。埼玉県会議長。 長谷川六左衛門の長男として、武蔵国埼玉郡北河原村(埼玉県北埼玉郡北河原村を経て現行田市)に生まれる。1883年(明治16年)5月、家督を相続する。生家は世襲名主。寺門静軒に学ぶ。詩書を能くし、敬堂または雨林を号した。 明治維新後、副戸長、学区取締、第十五区長などを歴任した。1875年(明治8年)民権結社「七名社」の結成に参画し、出納幹事などを務めた。1879年(明治12年)白根多助県令に見い出され入間・高麗郡長に就任した。
山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年… 山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年)11月15日)は、明治時代の日本の洋画家、版画家である。 嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。 既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。
関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永… 関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永3年7月5日) - 1912年(明治45年)1月21日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 木村寿山の子として水戸城下に生まれ、1870年(明治3年)常陸国信太郡鳩崎村(茨城県信太郡鳩崎村、稲敷郡鳩崎村、江戸崎町を経て現稲敷市)の先代・関口八兵衛の養子となり家督を相続する。漢学を修めた。1882年(明治15年)鳩崎村外2箇村戸長となり、1884年(明治17年)同職を辞し、翌年の1885年(明治18年)茨城県会議員に当選するが辞退した。醤油醸造業に従事する傍ら、1888年(明治21年)為替回漕会社を江戸崎町に興し、1889年(明治22年)には煉瓦製造場を設立した。
田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(185… 田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(1850年8月6日) - 大正12年(1923年)8月15日)は、日本の経済学者・政治家・官僚。元東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3… 岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3年6月28日)- 1919年(大正8年)12月17日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・高橋、幼名・権作、雅号・雲隣。 出雲国神門郡稗原村(現島根県出雲市)で、豪農・高橋佐十郎の二男として生まれ、10歳で松江堅町の豪商・先代岡崎運兵衛の養子となる。江戸の昌平坂学問所で学び、帰郷後、藩儒・澤野修輔、中村守手などに師事し、さらに南画を天野漱石に学んだ。慶応3年(1867年)養父の死去に伴い18歳で家督を継承し、運兵衛を襲名した。 維新後、自由民権運動に加わり自由党に入党。松江町会議員、松江市会議員、同議長、島根県会議員、同副議長、同議長を歴任。
粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 … 粟飯原 常世(あいはら つねよ、嘉永3年8月〈1850年〉 - 1919年〈大正8年〉9月24日)は、幕末の長州藩士、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等功三級。 長門国阿武郡椿郷西分村(現山口県萩市)で、長州藩士・粟飯原衛門兵衛の長男として生まれた。四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争での奥州各地の戦闘に参戦した。 1872年(明治5年)2月、陸軍少尉に任官。西南戦争では別働狙撃大隊(長:河野通好少佐)の第1中隊長を務め、佐賀県を転戦のち熊本城下守備につく。1891年(明治24年)4月に陸軍歩兵中佐・歩兵第19連隊長に補任され、第3師団・桂太郎中将隷下で日清戦争に出征し、海城攻防戦にて奮戦した。
三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6… 三輪 猶作(みわ なおさく、1850年7月23日(嘉永3年6月15日)- 1917年(大正6年)9月17日)は、明治から大正前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、四日市市会議長。 伊勢国三重郡浜田村(三重県三重郡四日市町浜田を経て現四日市市)で、大地主、酒造業・三輪嘉平(嘉左衛門)の長男として生まれる。堀木恥堂から漢籍を学んだ。酒造業、肥料商を営む。 1886年(明治19年)頃、三重県酒造改良協会の設立を主導し、専門技術者を招聘して醸造術の近代化を図り、酒造法の改善に貢献した。また、四日市米穀取引所、四日市銀行の設立に尽力し、取引所理事長、銀行2代頭取を務めた。その他、関西鉄道監査役、三重県人造肥料監査役、三重土木取締役、四日市倉庫重役、四日市商業会議所役員なども務めた。
4代 高橋 喜惣治(たかはし きそうじ、1850年7月21日… 4代 高橋 喜惣治(たかはし きそうじ、1850年7月21日(嘉永3年6月13日)- 1918年(大正7年)4月15日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。のち左京(さきょう)と改名した。名・猷、諱・種健、字・伯応、号・鶴洲、通称・喜惣治。 上総国埴生郡立木村(千葉県上埴生郡鶴枝村立木、長生郡鶴枝村を経て現茂原市)で、豪農、大庄屋・高橋千満太の長男として生まれる。高橋家は曽祖父・信重以来、通称を喜惣治と称した。富津の織本東岳(履道)から漢学を学び、さらに江戸の島田重礼に入門し、小野湖山に詩文を学んだ。帰郷して大庄屋となった。 1872年(明治5年)第三十九区戸長に就任。第七大区地租改正惣代人、第七大区区会議員、第七大区四小区戸長などを歴任。
笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日… 笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日〉- 1941年〈昭和16年〉1月7日)は、幕末の前橋藩士、明治期の政治家。衆議院議員、前橋市長。幼名・鏘吉。 武蔵国入間郡川越で川越藩士、侍医・笹治玄碩の息子として生まれる。居城の移転に伴い上野国勢多郡前橋に転居。家業を継ぐことを好まず、儒学を修めるため江戸に出て紀州藩儒・渡辺曽輔に入門した。紀州藩が長州征討に参加することに伴い渡辺が帰藩の命を受けたため、幕臣林靏梁に師事した。慶応3年(1867年)時勢の変遷に伴い前橋に戻り、親幕尊王攘夷の立場で活動したが、その意思を貫くことが困難となり脱藩。江戸で捕縛され前橋に送還され、明治元年11月6日(1868年12月19日)死一等を減じ廃嫡のうえ自宅禁錮を命ぜられた。
橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永… 橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永3年9月25日)- 1928年(昭和3年)5月30日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田。 越中国礪波郡中田町(富山県東礪波郡中田町を経て現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる。射水郡、のちの守山村(現:高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った。 米の仲買人として成功して一代で財産を築いた。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた。
岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6… 岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6月28日〉 - 大正3年〈1914年〉9月10日)は、日本の実業家・発明家。 嘉永3年(1850年)5月、美濃国山県郡保戸島村大字戸田16(現在の岐阜県関市戸田267)の庄屋の家に生まれた。 故郷は長良川と今川に挟まれており、古くから水害の多い場所だった。1933年(昭和8年)に保戸島橋が架かるまで、渡し舟を用いないと対岸との行き来ができない土地だった。 岡田は自費で用水の開削と堤防の築造を計画し、1880年(明治13年)8月に両者が竣工した。さらに各務用水の開削にも着手し、1891年(明治24年)5月にはほとんど完成に至ったが、同年10月28日の濃尾地震で水路が崩壊した。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保