スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 19… 佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 1970年2月5日)は、日本の仏教学者、作家。哲学研究者として朝鮮の水原高等農林学校(現・ソウル大学校農業生命科学大学)、京城帝国大学予科教授、第一高等学校教授を歴任。『仏教の日本的展開』は名著として知られる。その後、文部省督学官、社会教育局長、国際文化会館参与などを務めた。 岩手県胆沢郡金ケ崎村(現金ケ崎町)出身。盛岡中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科卒。 戦後は結核に罹患し、貧困にも苦しむが再起し、1963年には親戚の女性の話をもとにした初の小説『女のいくさ』を刊行、直木賞を受賞。当時64歳という最高齢での受賞であり、「老人の新人」出現として話題をよんだ(のち、記録は古川薫の65歳での受賞に破られる)。
鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 -… 鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 - 1975年7月23日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。岩手県選出の衆議院議員・鈴木巌の二男として生まれた。6歳から父の転勤に伴って盛岡に移る。盛岡中学校、第一高等学校をへて東京帝国大学英文科、のち国文科に転じて1923年卒業。高校時代寮の同室だった川端康成、石浜金作、酒井眞人に今東光の五人で第6次『新思潮』を1921年創刊。1923年文藝春秋同人、1924年川端、横光利一らの『文藝時代』に参加。新感覚派の一人とされた。1928-1930年舟橋聖一、村山知義らと心座の新劇運動に携わる。のち農民小説、大衆小説、歴史小説、相撲小説に転じる。
久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日… 久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日 - 1939年〈昭和14年〉8月21日)は、昭和初期にアマチュア野球で活躍した日本の野球選手(捕手)。 函館のクラブチーム・函館太洋倶楽部で活躍したが、試合中に送球を頭に受け死亡した。 岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。盛岡中学を卒業後、早稲田大学商科に進学。身長5尺9寸(約179cm)の恵まれた体格と強肩の持ち主で、在学中からリーダーシップを発揮。また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。既に大学時代にはまだプロ入りすらしていなかった段階にも拘らず「捕手の神様」と評された。 1922年(大正11年)大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に勤めながら函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレーした。
及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月… 及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和45年(1970年)12月27日)は、第二次世界大戦前に小惑星を複数発見した日本の天文学者。 岩手県盛岡市出身。大日本帝国海軍海軍大将の及川古志郎は兄。 岩手縣立盛岡中學校を卒業。1920年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業後、1922年より当時麻布区板倉から北多摩郡三鷹村大澤へ移転を進めていた東京天文台に技手として勤務し、ブラッシャー社製20センチ天体写真儀を使って天体の位置観測に従事した。東京天文台の移転に当たってはその経度差を測定している。ブラッシャー写真儀による観測で、1927年から1929年にかけて共同発見1つを含む計8つの小惑星を発見。
阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)… 阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)は、英文学者、高知大学名誉教授。岩手県花巻川口町(現:花巻市)出身。 現在の花巻市鼬弊(いたちべい)にある稲荷神社神主の家に生まれる。花城尋常小学校(現・花巻市立花巻小学校)から旧制岩手県立盛岡中学校に進学。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代には親交を結んだ。賢治が詠んだ短歌には「這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る」という一首がある。 第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科卒、旧制高知高等学校教授、戦後高知大学教授、学長を務めた。1966年『ばら色のばら』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
阿部 千一(あべ せんいち、1893年(明治26年)11月2… 阿部 千一(あべ せんいち、1893年(明治26年)11月23日 - 1972年(昭和47年)9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1952-1953)、岩手県知事(1955年-1963年)などを務めた。 1893年(明治26年)11月23日、岩手県稗貫郡湯口村大字中根子(現在の花巻市中根子)に、小学校教員(後に湯口村村長)の父・晁(ちょう)と母・テルの長男として生まれた。仮死状態で生まれ、家族は一時あきらめたが、祖母が千に一つの望みに、と医師を呼んで手当をしてもらって奇跡的に助かったことから、その医師・三又与次郎の発案で千一と名付けられた。1912年に盛岡中学校、1916年に第一高等学校を卒業。
4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26… 4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26年〉11月4日 - 1967年〈昭和42年〉11月21日)は、日本の資産家、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)。「弥右衛門」の名前は代々襲名されており、本記事に記載するのは4代目である。 岩手県稗貫郡花巻町出身。出生名は周蔵。花巻町でも有数の豪農である瀬川家に、3代弥右衛門の子として生まれ、父の死去に伴い1922年(大正11年)1月に家督を相続し弥右衛門を襲名した。 慶應義塾大学経済学部を卒業。父が没した1922年の時点では瀬川家は県下一の多額納税者であった。この時期には農家から貸金業に中心は移っていたとみられている。豊富な資金を岩手軽便鉄道・花巻電気などに投資し、その役員となった。
石川 栄耀(いしかわ ひであき、1893年9月7日 - 19… 石川 栄耀(いしかわ ひであき、1893年9月7日 - 1955年9月25日)は、日本の都市計画家。 都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者。戦前期から戦後にかけて、都市計画分野最大のイデオローグであり、日本の都市計画発展に貢献した。 早くから地方計画・地域計画の重要性を認識し、「生活圏」の考え方を提唱、これを国土計画へ拡大する地方計画の考え方の基礎としていた。 長男の石川允も都市計画家として活動した。 1893年9月、山形県東村山郡尾花沢村(現尾花沢市)に根岸文夫の次男として生まれる。兄は根岸川柳名人根岸栄隆。6歳で母親の実家である石川家の養子になる。養父の石川銀次郎は実父の弟で(妻同士も姉妹)、日本鉄道の職員。
平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日… 平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉9月15日)は、岩手県出身の教員・酒造家・興行主。紫波郡日詰町(現・紫波町)議会議員・日詰町議会議長。言語学者の金田一京助は実兄。 1893年(明治26年)6月3日、岩手県盛岡市下厨河65番地の金田一家に生まれた。父は金田一久米之助、母は金田一ヤス。直衛は四男であり、兄に金田一京助がいる。 岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)を卒業した。1916年(大正5年)12月には岩手県紫波郡日詰町の平井キヌと結婚して平井家の婿養子となった。父の金田一久米之助が事業に失敗したことで経済的に苦しく、結婚の代わりに帝国大学進学に際して平井家から学費援助を受ける条件があったためである。
中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 19… 中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 1970年8月24日)は、京都府出身の美術家、図画教師である。本名は中井 政治郎。 1892年(明治25年)7月1日、京都市上京区に生まれる。京都市立絵画専門学校に進み、竹内栖鳳らから日本画を学ぶ。2年生の時に文展の初入選を果たしたが、教師の目を通さずに出品したことから逆に叱責を受けた。翌年、教師に提出したものの、修正の指導に納得できず、それ以降は官展公募展を問わず出品することはなかった。 岩手県の旧制岩手県立盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高等学校)から図画教員の勧誘がある。一度は固辞したものの、盛岡から訪ねて来た使いの者の「雪景色も、また良うござんすよ」の一言で赴任を決めた。
山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月… 山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉12月15日)は、日本の俳人・鉱山学者。岩手県出身。東京大学名誉教授。 本名は吉郎(きちろう)。初号は泥邨。高浜虚子に俳句を師事、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌「夏草」を主宰した。 岩手県盛岡市出身。父は士族の家柄。5歳のときに母が死去し、母方の叔父笹間夫妻の元で育った。岩手県立盛岡中学校卒業、1910年、第二高等学校入学。野球部でキャプテンを務めた。1916年、東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。古河鉱業に入社。1918年、退社し農商務省技師として鉱山省に勤務。19年にはシベリア炭鉱を調査した。
三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年… 三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年4月9日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後に日本製鐵(現・日本製鉄)社長を務め、日鐵解体後は八幡製鐵の初代社長となった。日本経営者団体連盟(旧日経連)の第2代会長(代表常任幹事)を務めるなど財界に重きをなしたが、航空機事故で遭難死した。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。 1892年(明治25年)、岩手県盛岡市に生まれる。父の三鬼鑑太郎は当時岩手県庁の官吏であったが、のちに実業界(花巻軽便鉄道社長)から衆議院議員(1936年当選)に転身する人物である。五男四女の二男であるが、兄が夭折しているために、実質的には長男として育っている。
大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1… 大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1月9日 – 1977年〈昭和52年〉12月7日)は、大正から昭和期の大蔵官僚、弁護士、政治家。参議院議員、農林中央金庫副理事長。旧姓は佐々木。 岩手県紫波郡、のちの都南村(現盛岡市)で、佐々木定吉の三男として生まれ、政治家大矢馬太郎の養子となり1918年(大正7年)に分家した。盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、第一高等学校を卒業し、1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。同年、大蔵省に入省し参事官室属となる。 以後、富山税務署長、品川税務署長、永代税務署長、仙台税務監督局直税部長、大阪税務監督局直税部長、銀行検査官、大蔵省主税局国税課長兼主税局臨時土地調査課長、東京税務監督局長、日本銀行監理官、大蔵省主税局長などを歴任。
上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1… 上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1985年9月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県雫石町出身。県議・上野広成の三男として生まれる。盛岡中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。航空術学生として学び、横須賀航空隊付、同教官、「三笠」乗組、佐世保航空隊分隊長、霞ヶ浦航空隊分隊長、同飛行隊長心得、大村航空隊飛行隊長、「鳳翔」航空長、霞ヶ浦航空隊飛行隊長、欧米出張、霞ヶ浦航空隊・「赤城」・「加賀」の各飛行長などを歴任。 さらに、海軍航空本部教育部員、「能登呂」艦長、霞ヶ浦航空隊副長、「蒼龍」艦長、大分航空隊・横須賀航空隊の各司令などを歴任し、1941年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
多田 武雄(ただ たけお、1890年(明治23年)10月7日… 多田 武雄(ただ たけお、1890年(明治23年)10月7日 - 1953年(昭和28年)3月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年10月7日、岩手県で盛岡中学校長・多田綱宏の二男として生まれる。盛岡中学から東京府立第一中学へ転校。府立一中を卒業後、海軍兵学校へ入校し、1912年(明治45年)7月、同校卒業(第40期)。海兵同期に、大西瀧治郎、宇垣纏、山口多聞、福留繁、岡新、千田貞敏、吉良俊一など。1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。 1918年(大正7年)12月、呉防備隊分隊長に就任するが、1919年(大正8年)4月、病気のため待命となる。1920年(大正9年)6月、軍令部出仕(第3班第5課)として復帰。
川村 松助(かわむら まつすけ、1890年(明治23年)9月… 川村 松助(かわむら まつすけ、1890年(明治23年)9月1日 - 1961年(昭和36年)6月28日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期)。吉田派。 岩手県紫波郡徳田村(現・矢巾町)に川徳創業者の川村徳松の息子に生まれる。岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。陸軍に入り、除隊後盛岡に松屋百貨店(現存せず)を創業する。盛岡市会議員、盛岡商工会議所会頭、花巻温泉、花巻電鉄の各社長となる。このほか東北六県織物商業組合理事長、全日本繊維商業協同組合、盛岡観光協会、岩手県貿易振興協会各会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月第1回参議院議員通常選挙岩手県選挙区から無所属で出馬、落選。
野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月… 野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月11日 - 1978年(昭和53年)6月25日)は、昭和時代の細菌学者、公衆衛生学者。 岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた。
瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年… 瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年)2月14日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、大正から昭和時代の柔術家、柔道整復師。父のいとこに荒川鉱山の経営者・瀬川安五郎がいる。 岩手県盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの三男として生まれる。岩手師範附属小学校、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1912年(明治45年)京都の武術専門学校へ進学する。同校卒業後、山口県徳山中学校を経て、1917年(大正6年)4月に奥田松五郎の後任として、1943年(昭和18年)まで母校の盛岡中学校にて柔道の指導にあたる。その間、1931年(昭和6年)、加賀野の自宅にて整骨院を開き、小中学生や生活困窮者に対しては無料で施術を行った。
島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964… 島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964年8月7日)は、日本の農学者。北海道大学第6代学長。その一生をリンゴの研究と普及に努めリンゴの神様といわれる。正三位、勲一等瑞宝章を授与。 1889年、陸軍軍人の島時中、きち夫婦の5男として広島県広島市に生まれる。8歳の時に父が亡くなり岩手県稗貫郡矢沢村高木(現・花巻市)に移る。盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1914年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)を卒業。1916年、星野勇三教授に推挙されて青森県農事試験場の技師となる。当時の青森は褐斑病の発生でリンゴ生産減退の時期であったが、早速減収原因の調査に着手。リンゴ栽培改善事業として の三大事業を実施し、従来の粗放な技術から労働集約技術への転換を指導した。
五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日… 五味 清吉(ごみ せいきち、1886年(明治19年)1月1日 - 1954年(昭和29年)8月19日は、大正から昭和前期の洋画家。 岩手県南岩手郡仁王村四ツ家町(現在の盛岡市本町通2丁目)に、小原藤吉・タキ夫妻の7人兄弟の第5子(3男)として生まれる。藤吉は雫石町で古着・呉服屋を開業しており、一時は豆類や古道具、浮世絵なども扱っていた時期があり、幼い五味も浮世絵を見て絵に興味を持ったとも推測される。1892年(明治25年)盛岡第一尋常小学校、1896年(明治29年)盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)、1901年(明治34年)盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)に進学する。同2年生の時、肋膜を患ったのがきっかけで、バプテスト派の盛岡浸礼教会に通い、E.H.ジョンズより受洗。
岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9… 岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は岩手県花巻市出身の俳人、新聞編集者。岩手毎日新聞社(1933年廃刊。現在の毎日新聞とは無関係)の主筆(編集長)でもあった。生誕時の本名は伊藤儀七であったが、幼少時に養子に出たことで岡山儀七となった。 1885年(明治18年) のちの貴族院議員伊藤儀兵衛の四男として、花巻に生まれる。1889年(明治23年)、岡山直機の養子となる。 旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学し、石川啄木と出会う(学年は啄木が1年上)。1901年(明治34年)に啄木のほか野村長一(後の野村胡堂)や、後に医学博士となる小林茂雄や瀬川深(せがわふかし)、猪川浩らと短歌会「白羊会」を結成する。
小田島 樹人(おだしま じゅじん、1885年3月19日 - … 小田島 樹人(おだしま じゅじん、1885年3月19日 - 1959年10月11日)は、日本の作曲家。童謡『おもちゃのマーチ』の作曲者。本名は小田島 次郎(おだしま じろう)。「樹人」は俳号。鹿角市先人顕彰館、秋田県立博物館に展示がある。 1885年、秋田県鹿角郡花輪町(現鹿角市)で、当時の花輪郡長 小田島由義の次男として出生する。1899年、 岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に進学。一年上に石川啄木がいた。1904年、鹿児島県の第七高等学校造士館に進学するも、翌年に中退する。1914年、東京音楽学校器楽科(現東京芸術大学)を卒業。同窓に中山晋平、梁田貞らがいた。同年、東京都芝区の三光小学校に音楽教師として奉職した。
板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉… 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉1月21日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務め、関東軍防疫給水部(731部隊)の設立にも関わった[要出典]。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 征四郎の曽祖父・佐々木伊兵衛は、盛岡藩上士(御徒目付を務めた)。 征四郎の祖父・佐々木直作(文化14年〈1817年〉- 明治27年〈1894年〉)は、漢学の素養が深く、嘉永3年(1850年)に侍講として盛岡藩に出仕し、藩校作人館助教を経て、明治元年(1868年)に盛岡藩首席家老・楢山佐渡が鳥羽・伏見の戦いの直後に上洛した際に 勘定奉行 兼 京都留守居役 として随行するなど、藩の中心人物の一人であった。
野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治… 野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1965年〈昭和40年〉4月24日)は、岩手県二戸郡福岡町(現二戸市)出身の児童文学者、キリスト教牧師、伝道師である。渡辺善太は義兄である。 1885年(明治18年)1月17日、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれ、1890年(明治23年)に郵便局勤務であった父の転勤により盛岡市へ転居。1889年(明治22年)、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)へ入学した。同級生には石川啄木、伊藤圭一郎(『人間啄木』の著者)らがいた。 幼いころから教会に通い、1899年(明治32年)に洗礼を受けた。その年11月盛岡で行われた中田重治の集会での説教を聞いて献身を決意する。
瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年… 瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年)は、岩手県出身の医師、歌人・俳人である。雅号として藻外を名乗った。 1885年(明治18年)1月5日、岩手県江釣子村(現・北上市)の瀬川早水の三男に生れる。のちに、同族の医師の瀬川雅夫の養子となった。実父の早水は1846年(弘化3年)に村宿の長男として生まれ、のちに江釣子小学校を創設。1899年から1903年まで同村の助役を務めたのち板垣退助が率いる自由党のもとでの自由民権運動を推進した。 深は旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同学年にはともに医師を志した小林茂雄や岡山儀七、一級上には歌人の石川啄木がおり、さらに先輩には金田一京助や及川古志郎、野村胡堂らがいた。
獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17… 獅子内 謹一郎(ししうち きんいちろう、1884年(明治17年)3月25日 - 1941年(昭和16年)10月29日)は、日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の中心選手であり、早大草創期の主力でもあった。また、岩手県や満州で後進の育成に努め、「岩手野球の父」とも呼ばれる。守備位置は外野手、三塁手、投手。 岩手県盛岡加賀野村(現・盛岡市)出身。1897年(明治30年)、盛岡尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学する。一学年下に歌人の石川啄木がいたが、獅子内が落第して同級生となったこともあって親しかった(当時の盛岡中学は成績に厳しく、一度も落第せずに卒業できる生徒は学年全体の4分の1程度であった)。
澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-195… 澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-1950年4月7日)は、日本の菌学者・植物病理学者。 1883年12月26日、岩手県盛岡市の生まれ。 1903年3月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を卒業。その後、1903年6月から1908年7月まで盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の植物学教室と図書館に勤務、同教室の教授だった山田玄太郎の助手として植物標本製作などの業務に従事する。1908年8月より、同年6月に設置されたばかりの台湾総督府農事試験場(後に中央研究所農業部)に植物病理部技手として勤務、1910年より教育部技手、同年7月より図書館取扱主任を兼任、1920年より植物病理部主任心得を務める。
弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月… 弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月28日 - 1958年(昭和33年)8月1日)は日本の新聞記者、随筆家。毎日新聞で記者として活動した他、『西遊記』などの翻訳でも活動した。本名は芳夫(よしお)。本名での活動も多い。 ペンネームは、中学生時代に背が低かったことから「小学生」と呼ばれていたことによる。小鰐生、小鰐狂生、小鰐坊という名義も稀に使用した。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。1896年(明治29年)、岩手尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学。同学年には言語学者の金田一京助、作家の野村胡堂、政治家の田子一民がおり、2年下の後輩に歌人の石川啄木がいた。 1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)の高等予科に入学。
小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - … 小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - 1968年11月3日)は、日本の医学者、内科医。岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身。小野寺式圧診法の考案者。 旧制盛岡中学校、第一高等学校を経て、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部の前身)卒業。30歳の若さで九州帝国大学教授に就任。消化器研究に尽力し、特に胃運動曲線照射法で恩賜金記念賞を授与される。「胃運動曲線に関する研究」「圧診法に関する研究」は医学会不滅の業績とされる。 1943年(昭和18年)に退官後は、満州国にわたり新京特別市立第一病院長に就任。1945年(昭和20年)8月19日、第二次世界大戦終結後の混乱の中、新たに発足した新京日本人会の会長に就任。
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2… 及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2月8日 - 1958年〈昭和33年〉5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 1883年(明治16年)2月8日、新潟県古志郡で医師・及川良吾の長男として生まれる(本籍は岩手)。母親は大島高任の長女。初めは「越郎」といったが、後に生誕地から「古志郎」と改名した。 岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に進学した。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。
小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉… 小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉1月10日 - 1952年〈昭和27年〉8月12日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 岩手県東和賀郡十二鏑村(のち和賀郡土沢町→東和町現・花巻市)出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、1906年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。樺太民政署に入り、東京営林局などに勤務した。その後、1908年に母校の盛岡高等農林学校の助教授となり、1918年に教授となった。同年に退職後、岩手林業に入り、常務取締役となった。 1929年、盛岡市会議員となり、18年務めた。 盛岡市長選挙に立候補して、社会党の新人を破って初当選を果たした。
見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月… 見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月6日 - 1955年〈昭和30年〉1月20日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 盛岡市出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。岩手県庁に入り、岩手郡書記となる。内務省警保局書記を経て、青森県北津軽郡長、福島県相馬郡長を歴任した。1927年に満州に渡り、遼陽、鞍山の各事務所長を経て、関東州果樹組合専務理事に就任した。1936年に退職し帰国した。 1939年に盛岡市長に就任。盛岡市は厨川、中野、本宮、浅岸と合併。太平洋戦争が始まり、戦時体制下の市政運営となり、困難を極めた。市長は1943年に辞職した。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1955年に死去した。
郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13… 郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13日 - 1961年(昭和36年)4月28日)は、日本の実業家。三菱重工業社長、太平洋戦争時の東條内閣顧問。戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放された。 地域の教育者であった郷古玉三郎、ゆうの長男として岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)不断町にて生まれた。先祖は仙台藩伊達氏の一門である留守家に仕えた藩医。盛岡中学校(及川古志郎、野村胡堂らと同級)、第一高等学校(東京大学教養学部)、東京帝国大学法科大学法律科を経て、1908年8月、三菱合資会社に入社。入社後すぐに九州の炭鉱へ転勤を命じられた。後には三菱造船、神戸造船、三菱重工、日本航空会社と三菱財閥の各社で勤務。
板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11… 板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11月8日 - 1967年〈昭和42年〉10月28日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。九州大学名誉教授。内分泌や黄体ホルモンの生理学的研究や、久留米大学附設中学校・高等学校を設立したことで知られる。 岩手県盛岡市出身。板垣征四郎の兄。旧制盛岡中学、旧制二高、京都帝国大学医学部を経て、1910年より京都帝国大学福岡医科大学助教授に就任。1913年陸軍2等軍医になる。1914年3月より3年間ヨーロッパに留学し、1918年九州帝国大学教授となる。その後1932年九州帝国大学医学部長、1933年温泉治療学研究所長を歴任。太平洋戦争中にはジャカルタ医科大学学長を務めた。
野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月1… 野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月15日 - 1963年(昭和38年)4月14日)は、日本の小説家・人物評論家。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびすとも。本名:野村 長一(のむら おさかず)。娘は作家の松田瓊子。 1938年発行の『レコード音楽』昭和13年3月号に、読者からの投書に答える形で、次のように述べている。 「ところで震災の前の年から私は美術と音楽のことも書くやうになつた。さうなると胡堂といふ名では少々堅苦しい感じがあるので、何か他の名を考へることにしたのが抑々あらえびすの名の出来るきつかけだつた。有名な浄瑠璃の「袖萩祭文」の中で「奥州のあらゑびす……」云々と阿倍貞任が威張るくだりがあるが、胡堂の胡がそのあらゑびすに相当するので(ゑびすに「にぎゑびす」即ち熟蛮と「あらゑびす」即ち生蛮の二種がある、その荒つぽい方なのである)ゑはえに変えて、斯くして茲にあらえびすの名が誕生を見た次第だ。
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年… 金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て、立教大学教授、東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。学位は、文学博士(東京帝国大学)。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。 長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者。 1882年(明治15年)5月5日、盛岡の四ツ家町に金田一久米之助・ヤス夫妻の長男として誕生。姉1人、弟6人、妹3人の11人兄弟だった。
田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月1… 田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月14日 - 1963年〈昭和38年〉8月15日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第34代)、衆議院副議長(第27代)、官選三重県知事、農林大臣(第4次吉田内閣)、衆議院議員(通算9期)などを務めた。岩手県盛岡市出身。東京帝国大学法科大学卒業。 岩手県士族の田子勘治の次男として生まれる。現在の盛岡市立城南小学校、盛岡中学、旧制二高を経て、1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、内務省に入省。山口県警部、山口県都濃郡長、山口県警察部長、内務省社会局第一課長兼第二課長、社会局長、官選三重県知事などを歴任し、その後政界に転じる。
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月… 八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月19日 - 1965年〈昭和40年〉1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 岩手県盛岡市出身。栃内曽次郎海軍大将は叔父。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原敬の激励だったという。 岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校(29期)へ進んだ。席次は入校時137名中119番。卒業時は125名中75番。第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。大尉時代に『敵艦進路及び速力の誤測に対する命中限界算法、魚雷動的発射に於ける誤差』と題する論文を発表 し、海軍水雷術の発展に貢献している。海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。
原 敢二郎(はら かんじろう、1880年(明治13年)11月… 原 敢二郎(はら かんじろう、1880年(明治13年)11月22日 - 1948年(昭和23年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県出身。旧盛岡藩士・原勝多の三男として生れる。盛岡中学校中退を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「筑紫」分隊長心得として出征した。「千代田」航海長などを経て、海軍大学校乙種学生、専修学生として学ぶ。第1艦隊参謀、「壱岐」航海長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を卒業した。 「三笠」航海長、舞鶴鎮守府参謀、海軍省軍務局員、オランダ駐在、「千早」艦長、欧州出張、軍務局第1課付、「出雲」艦長、教育局第1課長、「陸奥」艦長、第1艦隊兼連合艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級。
米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880… 米内 光政(よない みつまさ、旧字体: 米內 光政、1880年〈明治13年〉3月2日 - 1948年〈昭和23年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵29期・海大12期。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。 連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。 1880年(明治13年)、岩手県南岩手郡三割村(現:盛岡市)に旧盛岡藩士・米内受政の長男として誕生する。 1886年(明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)、海軍兵学校29期に入校。
出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25… 出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25日 - 1947年(昭和22年)8月19日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、在アメリカ合衆国日本大使、貴族院勅選議員、参議院議員。位階は正三位、勲等は勲一等。 岩手県第一大区一小区仁王村(現盛岡市梨木町)で旧盛岡藩藩士の次男として生まれる。旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校の前身)卒、1902年旧制東京高等商業学校(一橋大学の前身)専門部貿易科卒業。同期に山中千之元国際連盟委任統治委員、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。 1902年、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。京城在勤、ドイツ在勤、政務局第一課長を歴任。
煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)… 煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)6月3日 - 1954年(昭和29年)3月21日)は、明治から昭和にかけての西洋史学者、政治学者。日本のロシア史研究の「草分け」。早稲田大学名誉教授。岩手県出身。 煙山専太郎は、岩手県大川目村(現在の久慈市大川目町)に生まれた。盛岡尋常中学を経て東京帝大の史学科に進んだが、のちに哲学科に転科した。有賀長雄が主宰する『外交時報』に、在学中から寄稿しており、有賀の知遇を得ている。早稲田大学で研究者、教育者として過ごした。 『外交時報』は、1898年(明治31年)に有賀が創刊した国際・外交問題専門誌である。埴原正直が編集人をやめた後、編集事務の方面で田中唯一郎が、執筆面で煙山専太郎が有賀を補佐する存在となったとされる。
原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月… 原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月26日) - 1924年(大正13年)1月12日)は、日本の歴史学者。京都帝国大学教授、京都帝国大学文学部長。 1871年、岩手県盛岡市で旧盛岡藩士・原勝多の長男として生れた。盛岡中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科で学んだ。1896年に卒業。同大学大学院に進んだ。 1896年12月から一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入営。1899年2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1904年、歩兵中尉に進級。 1899年9月、第一高等学校教授に就いた。1902年10月、文学博士号を取得。 1907年2月から1909年3月まで、イギリス、アメリカ、ドイツに留学。
大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治… 大矢 馬太郎(おおや うまたろう、1870年7月24日〈明治3年6月26日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月11日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。岩手県盛岡市長。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。旧姓は中村。 中村俊太郎の伯父として、現在の盛岡市馬場町(馬場小路)に生まれる。のち大矢五蔵の養子となり家督を相続する。1888年(明治21年)7月、岩手県中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、盛岡市参事会員を経て、1907年(明治40年)11月、盛岡市長に就任。1910年(明治43年)8月、市長の座を退き、岩手県会議員、岩手県参事会員、盛岡市会議員、同議長などを経て、1916年(大正5年)12月、補欠選挙で貴族院議員に当選し、同年12月26日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
佐々木 豪(ささき ごう)は、日本の皮膚科医、医学者。岩手県… 佐々木 豪(ささき ごう)は、日本の皮膚科医、医学者。岩手県盛岡市の医療法人佐々木皮膚科の院長・理事長を務め、東京科学大学医学部皮膚科学講座の臨床准教授を兼任している。専門は皮膚免疫学、アトピー性皮膚炎、慢性蕁麻疹など。 岩手県出身。岩手県立盛岡第一高等学校を経て、東京医科歯科大学医学部を卒業後、同大学大学院医歯学総合研究科皮膚科学講座にて皮膚免疫学を専攻し、医学博士号を取得した。 その後、東京医科歯科大学医学部附属病院皮膚科学講座助手、独立行政法人東京労災病院皮膚科科長などを経て、故郷である盛岡市に戻り、先代院長(佐々木博)の後を継いで医療法人佐々木皮膚科の第6代院長に就任した。現在は院長・理事長を務めている。
杉田 孝夫(すぎた たかお)は、日本の政治学者。専門は西洋政… 杉田 孝夫(すぎた たかお)は、日本の政治学者。専門は西洋政治思想史、特にドイツ観念論(カント・フィヒテ・ヘーゲル)と近代家族論・ジェンダー論。 主に18世紀末〜19世紀初頭のドイツ政治思想を対象とし、特に「自由と共同性」の問題を軸にカント、フィヒテ、ヘーゲルの再検討を行っている。また、近代家族の形成過程とジェンダー構造の思想史的分析でも知られる。
前田 秀将(まえだ ひでゆき、英語: Hideyuki Ma… 前田 秀将(まえだ ひでゆき、英語: Hideyuki Maeda)は、日本の法医学者、医師。専門は法医学、救急医学、低酸素環境下の病態生理学。 主な研究テーマは、低酸素曝露(特に間欠的低酸素)と関連する病態
佐々木 正利(ささき まさとし)は、日本のテノール歌手である… 佐々木 正利(ささき まさとし)は、日本のテノール歌手である。
石木 寛人(いしき ひろと)は、日本の医師。専門は緩和医療、… 石木 寛人(いしき ひろと)は、日本の医師。専門は緩和医療、がん支持療法、耳鼻咽喉科学。国立がん研究センター中央病院緩和医療科医長。 日本緩和医療学会理事。 岩手県立高田病院院長などを務めた石木幹人の下に生まれる。岩手大学教育学部附属小学校・中学校、岩手県立盛岡第一高等学校を経て、1997年に東京大学理科三類に現役合格(中学・高校・大学の同期に佐藤英貴)。東京大学医学部医学科を卒業後、頭頸部外科、腫瘍内科、緩和医療科のキャリアを積む。 静岡県立静岡がんセンター、国立がん研究センター中央病院、国立がん研究センター東病院などで勤務 。2017年より国立がん研究センター中央病院緩和医療科医長、東京大学医科学研究所附属病院緩和医療科特任助教を務めている。