スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年(明治19年)9月2… 田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年(明治19年)9月22日 - 1963年(昭和38年)6月26日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位。郵政大臣(第2代)、電気通信大臣(第2代)、参議院議員(2期)、長岡市長(第8代)。北越製紙社長。 新潟県長岡市の紙問屋田村文四郎の三男として生まれる。新潟県立長岡中学校を経て、1911年に東京高等商業学校(一橋大学の前身)専攻科を卒業、越後鉄道に入社し、経理課長として実務経験を積む。 1915年、父たちが設立した北越製紙(現:北越コーポレーション)に支配人として入社し、1934年に専務、1940年には社長に就任。工場の新設・拡充をリードし、北越製紙を現在の規模に育て上げた。
山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月1… 山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月18日 ‐ 1934年(昭和9年)7月27日)は日本の検察官(海軍法務官)、海軍軍属。五・一五事件を検察官として担当した。 新潟県三島郡来迎寺村(現・長岡市)に生まれる[要出典]。新潟県立長岡中学校から旧制第三高等学校に進学した。長岡中学校では山本五十六の1学年下だったという。1911年に東京帝国大学法科大学を卒業した。 1912年4月に新潟県属として出仕の後、1915年10月に高等文官試験に合格した。1917年3月に海軍省主理試補・舞鶴鎮守府軍法会議付となる。1932年2月、東京軍法会議検察官となり、五・一五事件を担当する。 五・一五事件においては、当時、政府の汚職から犯行に至った海軍将校に対する寛大な措置をもとめる世論が起こっていた。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4… 山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。真珠湾攻撃を指揮した。 新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。 1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生する。当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と名付けられた。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
栂野 明二郎(明次郎)とがの めいじろう、明治15年(188… 栂野 明二郎(明次郎)とがの めいじろう、明治15年(1882年)12月6日 - 昭和15年(1940年)10月20日)は、日本の発明家、実業家。新潟県立長岡高等学校卒業生名簿では「栂野明次郎」と記載されている。 新潟県長岡市出身。明治35年(1902年)に新潟県立長岡中学校を卒業する。日露戦争時に補充兵として半月の軍隊生活を送る。明治42年(1909年)に帝国大学農科大学農芸化学科(現・東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)を卒業した。その後、日本醤油株式会社に入社するが明治43年(1910年)に辞め、樺太庁の依嘱を受けて木屑酒精製造調査のために北米に差遣された。明治44年(1911年)に大蔵省醸造試験所技師に任官した。
鶴見 一之(つるみ かずゆき 1881年(明治14年)11月… 鶴見 一之(つるみ かずゆき 1881年(明治14年)11月 - 1959年(昭和34年)10月12日)は、日本の土木工学者。仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身)と東北帝国大学で教授、仙台高等工業学校・仙台工業専門学校では校長を務めた。 東北土木学会の設立等に尽力し、仙台工専の後継となる東北大学工学部土木工学科の礎を築いた。 新潟県士族、鶴見保四郞の長男として生まれ、1900年(明治33年)3月古志郡立長岡中学校(現在の新潟県立長岡高等学校を卒業した。1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、仙台高等工業学校教授となる[要出典]。 長岡市の下水道整備事業や、仙台市の上下水道事業[要出典]に携わった。
竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治… 竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治14年)2月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関中佐。第一次世界大戦で地中海に派遣された第二特務艦隊の第11駆逐隊機関長として戦死した。 新潟県出身。父・竹垣純一は越後長岡藩士で、戊辰戦争で武名があった。長岡中学在学中、父が事業に失敗し竹垣家は経済的苦境に陥る。竹垣は苦学団を頼ることとなり徒歩で東京へ向かった。逓信省雇いとなって自ら学資を稼ぎ、成城学校から海軍機関学校へ進む。1904年(明治37年)卒業(12期)。 海軍少機関士(少尉相当官)に任官し、「吾妻」乗組みとして日露戦争に参戦。第3艇隊附、「須磨」・「厳島」乗組み、「橋立」・「香取」・「吾妻」の各分隊長を務めたほか、海軍水雷学校を修了している。
佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5… 佐藤 剛蔵(さとう ごうぞう、1880年(明治13年)7月5日 ‐ 1960年(昭和35年)5月13日)は日本の医師、医学博士、医学教育者。旧姓、夏目。 新潟県長岡藩の士族、夏目洗蔵(長岡洋学校等の教員であった)の弟として生まれ、古志郡立長岡尋常中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)を1899年(明治32年)に卒業、1902年に佐藤織居の養子となる。1906年 (明治39年)に京都帝国大学医科大学(現在の京都大学医学部)を卒業し、1907年6月に、1906年開院の平壌同仁医院長として朝鮮半島に渡った。 佐藤は 大韓医院医育課長、1916年京城医学専門学校教授、1924年に京城帝国大学医化学教授を兼任し、 1927年に京城医学専門学校の校長(第7代)を1945年まで務めた。
丸田 幸治(まるた こうじ、1880年〈明治13年〉2月20… 丸田 幸治(まるた こうじ、1880年〈明治13年〉2月20日 - 1945年〈昭和20年〉2月26日)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国海軍の軍医。最終階級は海軍軍医少将。 新潟県長岡市に生まれる[要出典]。旧制新潟県立長岡中学校を経て、京都帝国大学医科大学を卒業する。1908年(明治41年)海軍中軍医に任官。1917年(大正6年)九州帝国大学大学院を経て、海軍軍医学校教官等を歴任する。[要出典]1931年(昭和6年)海軍軍医少将となる。 なお長岡高等学校同窓会名簿には「丸田幸二」との記載もある[要出典]。 長男は、海軍軍医の丸田吉人。レイテ沖海戦で重巡洋艦鳥海の軍医長として乗艦し戦死。
小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13… 小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13年)1月3日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕、右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。 旧長岡藩士・小林保四郎の長男として生まれる。長岡中学・陸軍中央幼年学校を経て、1901年、陸軍士官学校卒業(13期)。同期には志賀直方(志賀直哉の叔父、近衛篤麿の親友)・井田磐楠・林茂清・中岡弥高・建川美次らがいる。 1902年、砲兵少尉となる。1904年、日露戦争に出征し砲兵中尉となる。1908年、陸軍砲工学校高等科卒(14期)、砲兵大尉となる。
小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日… 小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日 - 1967年(昭和42年)9月8日)は、日本の検察官、政治家、弁護士。岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣で司法大臣・法務大臣などの閣僚を務める。新潟県長岡市出身。 新潟県古志郡長岡弓町(長岡本町、長岡町を経て現:長岡市)に、旧長岡藩士田中敬次郎の三男として生まれる。その後、長岡裁判所検事・元会津藩士小原朝忠の養子となり「小原」姓を名乗る。新潟県第七中学区公立第一番小学校(現:長岡市立阪之上小学校)、旧制:新潟県立長岡中学校(現:新潟県立長岡高等学校)から、麹町区永田町の橋本圭三郎宅の書生となり共立学校四年級に編入。旧制第一高等学校では松平恒雄(宮内大臣、初代参議院議長)、長島隆二(大蔵省理財局長心得、政友会代議士、桂太郎総理の娘婿)らと同級であった。
森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11… 森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11日-1953年4月23日)は、明治-昭和期の物理学者・教育者。 高知県香美郡野市村(現在の香南市)出身。1892年高知尋常中学校を卒業後、第三高等学校・第二高等学校を経て1899年に東京帝国大学理科大学を卒業する。 卒業後、新潟県立長岡中学校教諭になるが、1901年に第三高等学校教授に迎えられる。 「森総」の愛称を持ち、多くの物理学の著書を著したことから、その著書は”森総の物理学"の異名を得た。また、教育者としても湯川秀樹や朝永振一郎などを物理を教えて彼らに大きな影響を与えたとされる。 1935年、同じ高知県出身でもある前任の校長・溝淵進馬の急逝を受けて第三高等学校校長に就任する。
磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日… 磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日 - 1935年(昭和10年)11月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。磯部四郎の娘婿。 福井県福井市で士族の日比登の二男として生まれる。1887年、私立長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)卒。京都帝国大学教授で工学博士の日比忠彦は実兄。第一高等学校を経て、1898年に東京帝国大学法科大学を卒業。卒業後、直ちに弁護士を開業した。弁護士・貴族院議員の磯部四郎の長女艶子と結婚し、姓を改めた。 本所区会議員、東京市会議員を経て、1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で司法参与官を務めた。
日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日… 日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日 - 1921年(大正10年)6月1日)は、日本の構造家、建築系構造工学者、京都帝国大学工学部教授。 専門は建築材料学・構造建築学・材料強弱学などで、鉄筋コンクリート建築の権威と呼ばれた。 福井県士族日比登の二男として生まれる。磯部尚は実弟である。明治18年、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学。明治30年、帝国大学工科大学土木科を卒業し工学士となり、京都帝国大学理工科大学助教授となる。 明治35年土木工学硏究のためドイツに留学、明治37年帰国し工学博士の学位を取得。大正3年7月京都帝国大学工学部工科大学教授。 京都大学旧工学部建築学教室本館(総合研究15号館)等の構造設計を手がける。
浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年… 浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年2月13日) - 1944年(昭和19年)3月8日)は、日本の英米文学者、教育者。同志社大学英文科教授、東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。 摂津三田藩(兵庫県三田市)出身。三田藩士の浦口長弘と千代の子として生まれる。12歳の時に神戸の川本恂蔵の家に寄宿し、キリスト教に感化を受けると、1884年(明治17年)に神戸教会において原田助(同志社第7代目社長)より受洗。 同志社普通学校に入学し、1890年(明治23年)に同志社を卒業。その後、英文学を志し神戸、東京、仙台、函館を転々とする生活を送る。 1894年(明治27年)夏に神戸にいた際には、ウォルター・ウェストンの日本アルプス登山に、H.J.ハミルトン(日本聖公会中部教区初代主教)とともに通訳として同行し、日本アルプス連山の初登頂に成功する。
小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日〈明… 小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日〈明治3年12月21日〉 - 1944年〈昭和19年〉11月27日)は、明治後期から昭和前期の政治学者。日本初の政治学者の一人とされる。東京帝国大学総長。 1871年、柏崎県古志郡長岡城下上田町(現:新潟県長岡市上田町)に生まれる。級友の身代わりに校長排斥事件の責任をとって長岡中学校を中途退学後に上京し、共立学校から一高を経て、1895年(明治28年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進んだ。 1897年(明治30年)文部省から在外研究を命ぜられ、ヨーロッパに留学。1901年(明治34年)帰国後に日本初となる政治学講座の教授となる。
川上 栄太郎(榮太郎、かわかみ えいたろう、1870年6月1… 川上 栄太郎(榮太郎、かわかみ えいたろう、1870年6月13日(明治3年5月15日)- 1930年(昭和5年)9月28日)は、明治から昭和初期の酒造家、地主、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県古志郡中通村長。 越後国古志郡摂田屋村、のちの新潟県古志郡中通村(上組村、宮内町を経て現長岡市 摂田屋)で、酒造業・川上生三郎の長男として生れた。1886年(明治19年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業。高橋竹之助から漢学・詩文を学んだ。1897年(明治30年)家督を相続し家業の酒造業を営んだ。 長岡酒造組合長、新潟県酒造組合連合会長、長岡米穀株式取引所理事長、新潟県地主協会評議員、中越酒造社長などを務めた。
橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日… 橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日(慶応元年9月23日) - 1959年(昭和34年)2月14日)は、日本の官僚・実業家。貴族院議員。新潟県長岡市千手町出身。 長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年(明治17年)に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年(明治23年)、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年(明治38年)に横浜税関長、1907年(明治40年)に主計局長、1911年(明治41年)には大蔵次官となる。さらに、1912年(明治42年)12月5日に貴族院議員に勅選され、1946年(昭和21年)まで努めた。
川上 淳一郎(かわかみ じゅんいちろう、1865年9月7日(… 川上 淳一郎(かわかみ じゅんいちろう、1865年9月7日(慶応元年7月18日) - 1931年(昭和6年)11月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1878年、長岡学校(現新潟県立長岡高等学校)入学。1885年、東京専門学校卒。農業を営む。前東谷村(のち東谷村→栃尾市→長岡市)会議員、同村長、古志郡参事会員、新潟県会議員、同参事会員となる。また栃尾銀行、長岡銀行、北越新報各取締役、越佐新聞社社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において新潟県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治… 堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治2/慶応元年1月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月30日)は、日本の外交官(特命全権公使)、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人・堀口大學の実父。 越後長岡藩の足軽(銃卒)堀口良次右衛門の長男として古志郡長岡城下に生まれる。北越戦争で旧暦明治元年6月に父が戦死、翌年2月に幼くして家督を相続した。 明治5年より手習師匠渋川金吾に就き、2年半ほど読み書きを習った後、藤野友徳の漢学塾及び阪之上小学校へ通学。数え15歳で小学校教員を務めながら、叔父・岩神澄海の菁莪塾で学んだが、小林雄七郎の「偉くなるには英語をやらなければ駄目だ」という助言に従い、1883年(明治16年)春に19歳で長岡中学校に入学。
広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、… 広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、1864年10月13日〈元治元年9月13日〉 - 1896年〈明治29年〉10月22日)は、明治期の日本の鉄道技術者、自由民権運動家。 仙石貢らとともに東京市街高架鉄道(現在の山手線および京浜東北線の上野駅・浜松町駅間の高架線区間)および中央停車場(現在の東京駅)の計画、設計をおこなった。広川は計画設計作業従事中に倒れ、32歳で死去した。 越後国三島郡飯塚村(現在の新潟県長岡市飯塚)に、広川甚左衛門とちやの次男として生まれる。[要出典]父は小さい頃に死別し、母のもとで育てられる。1878年(明治11年)、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学した。
豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年… 豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年5月26日) - 1927年(昭和2年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。日清戦争で鳳凰城攻略一番乗りを果たし、日露戦争では沈旦堡を死守した騎兵将校である。最終階級は陸軍中将。 豊辺は長岡洋学校、陸軍幼年学校を経て1882年(明治15年)に陸軍士官学校を卒業した、旧5期生の一人である。騎兵第一大隊附、教導団騎兵中隊小隊長、三本木軍馬補充部勤務を経て騎兵第五大隊第一中隊長として日清戦争に出征する。平素の豊辺は周囲に無能と思われており、大尉に進級したものの、予備役入りは近いと考えられていた。しかし豊辺は実戦においてその評価を一変させる。 騎兵第五大隊第一中隊は大島義昌が率いる第九旅団に属したが、この旅団は日清の開戦に備えて最初に動員された部隊であり、仁川に上陸し1894年(明治27年)7月25日に行動を開始する。
小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年… 小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年3月1日) - 1929年(昭和4年)2月26日)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国海軍の造船技師。海軍造船総監を務め、最終階級は海軍造船少将。 兄は画家の小山正太郎。 越後長岡藩士・小山良運の二男に生まれる。長岡洋学校を経て、工部大学校造船学科を1883年(明治16年)に卒業した。1884年、小野浜造船所に入り、[要出典]1888年に海軍大技士となる。1890年、呉鎮守府造船部製造科主幹となる[要出典]。1891年に従七位に叙せられる。 1896年に造船監督官となり、ドイツ帝国に留学して造船学を学ぶ。 1898年に正六位に叙せられた。
藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年… 藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。 1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。 東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(18… 小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(1857年2月15日) - 大正5年(1916年)1月7日)は、明治時代の日本の武士、洋画家。実作者としてよりも教育者として名高い。小山善元の長男であり、小山觀翁の大伯父にあたる。 越後国長岡藩・藩医の惣領。明治2年(1869年)家督相続をして、長岡藩士として出仕(高100石)。廃藩後に地元の長岡洋学校で学ぶ。明治4年(1871年)政治家を志して上京するが、翌年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、まもなく塾頭になる。同6年、陸軍兵学寮に入り,翌年陸軍士官学校図画教授掛となって、陸軍省に招聘されていたフランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から水彩画法などを学んだ。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年… 小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年1月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉7月5日)は、明治から大正にかけての日本の教育者。長らく東京盲唖学校および東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)の校長を務め、盲聾教育の発展に尽力した。 1854年(安政元年)に越後で生まれる。戊辰戦争で長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年(明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。 1886年に、文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる。
葛西 レオ(かさい れお、Reo Kasai、8月7日 - … 葛西 レオ(かさい れお、Reo Kasai、8月7日 - )は、日本のトランペット奏者・作曲家・編曲家。 東京都生まれ。幼少期からピアノとエレクトーン、作曲を学ぶ。また、15歳以下の子供たちが参加するヤマハ音楽教室主催の「ジュニアオリジナルコンサート」(JOC)に出演。その後父親が実家の家業である温泉旅館を継ぐこととなり新潟県長岡市へ移住。。新潟大学教育人間科学部附属長岡中学校で吹奏楽部に入部しトランペットを小池伸幸に習い始める。長岡高等学校入学後、同氏の勧めにより元NHK交響楽団首席奏者の津堅直弘に師事し東京へレッスンに通うようになる。その後、東京音楽大学へ進学しトランペットと作曲を学ぶ。在学中から多数のコンテストにて優勝を重ね、これまでに「YAMAHA管楽器プレイヤーズコンテスト」グランプリ受賞「浅草ジャズコンテスト」ベストプレイヤー賞(大会MVP)を2度受賞、第4回新潟ジャズコンテスト ソロプレイヤー部門」優勝、 「MXTVゼベックスオンラインバトル」優勝、「Art for Life 20th ADLIB CONTEST」 BEST PRODUCTION賞、「NOTHIN'BUT JAZZ ADLIB CONTEST」 準優勝など多くの賞を受賞している。
中村 ちひろ(なかむら ちひろ、5月23日-)は、ラジオパー… 中村 ちひろ(なかむら ちひろ、5月23日-)は、ラジオパーソナリティ、『SKY's THE LIMIT JAPAN』代表。新潟県長岡市出身。 新潟県立長岡高等学校、中央大学文学部哲学科卒業。大手生命保険会社の法人営業を経験後、FM新潟にて、パーソナリティ・ディレクター、プロデューサーに従事。その後、ハワイ・オーストラリアにてラジオ番組の制作やコーチング技法を学び、『SKY's THE LIMIT JAPAN』を設立した。その後は企業や行政を対象としたセミナー・研修を行いながら、新潟県民エフエム放送のアナウンサー・ラジオパーソナリティとして活躍していた。
伊藤 貞勝(いとう さだかつ)は明治期の日本の教育者。 東京… 伊藤 貞勝(いとう さだかつ)は明治期の日本の教育者。 東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校・附属中学校)の最初の専任校長。初等教育の教科書の監修などもおこなった。 現在の新潟県長岡市に生まれる。長岡洋学校、東京師範学校中等師範科(後の東京高等師範学校)を経て、1898年(明治31年)8月30日に内閣総理大臣の大隈重信より、東京府高等女学校長兼東京府高等女学校教諭に任命される。それ以前は東京府学務課吏員が校長であり、初めての専任校長となった。 伊藤は「東京市、特にその下町は他府県のど の土地よりも不健康な土地柄だという文部省の調査を知って第一高女の教育方針の第一に健康教育をあげた」とされる。
広橋 真紀子(ひろはし まきこ)は、日本の作曲家、音楽プロデ… 広橋 真紀子(ひろはし まきこ)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー、ピアニスト。新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校、国立音楽大学作曲学科卒業。 5歳より、ピアノを始める。ピアノの楽譜を読むのが大嫌いだった反面、即興演奏ばかりしていたという。 国立音大卒業後は、カラオケのMIDI制作や、アイドル、歌手への楽曲提供、環境音楽を始めとする音楽プロデューサー、自身の作・編曲によるピアノの演奏等で活躍している。 現在は、神奈川県横浜市に在住で、母親でもある。
木花 牧雄(きはな まきお)は、NHKのアナウンサー。 新潟… 木花 牧雄(きはな まきお)は、NHKのアナウンサー。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校を経て、東京大学大学院理学系研究科を修了後、2012年に入局。初任地は青森放送局、2015年4月に釧路放送局、2018年4月に東京アナウンス室、2020年3月に長崎放送局、2024年4月に地元の新潟放送局へ異動。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。