スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 … 坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 - 没年不詳)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。少候13期。第二次世界大戦に参加した最古参の現役戦闘機乗りのひとりで、教官やテストパイロットとしても活躍した。最終階級は陸軍少佐。 1909年(明治42年)8月6日、岐阜県旧稲葉郡蘇原村(現各務原市蘇原町)に生まれる。岐阜中学校を卒業後、民間パイロットを目指して所沢陸軍飛行学校で操縦教育を受けた。飛行学校卒業後の1928年(昭和3年)2月、予備役下士官を志願して陸軍に入隊、航空兵伍長として平壌の飛行第6連隊に配属された。同年5月、第三次山東出兵で半年間中国へ出動し、のち明野陸軍飛行学校で助教を務めた。
矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1… 矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本の洋画家・実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長。モザイクによる壁画、作品を制作。代表作にJR・名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。 1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 19… 高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 1990年1月10日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。一橋大学名誉教授、関東学院大学名誉教授。 岐阜県出身。旧制岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)首席を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学では当初福田徳三ゼミナールに参加したが、福田の留学のため大塚金之助の指導を受けた。卒業論文「経済静学と経済動学の国民経済学的意義:ヨセフ・シュンペーターの研究」だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。 1927年指導教官大塚金之助の推薦を受け、母校東京商科大学助手に就任。1927年、渋沢栄一の孫である尾高豊作や尾高朝雄の支援を得て設立され、大塚が所長を務める東京社会科学研究所研究員を兼務し、杉本栄一とともに同研究所での活動に従事。
近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24… 近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24日 - 1988年〈昭和63年〉10月23日)は、日本の詩人。 1904年東京京橋に生まれる。岐阜中学時代より短歌を作り始め、15歳で窪田空穂に年少の才能を賞賛される早熟ぶりを示した。明治大学在学中に「謝肉祭」を創刊。明大卒業後、鉄道省に入り、その一方で詩作をし、春山行夫、竹内隆二、棚夏針手、佐藤一英などと交友をもった。北原白秋に認められ、「詩と音楽」「近代風景」などで新進詩人として出発。27年上海外遊。28年雑誌『詩と詩論』創刊に編集同人として参加、以後「MADAME BLANCHE」「文学」「詩法」「新領土」と戦前戦中のモダニズム詩運動の中心で活動した。
野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日… 野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日 - 1997年(平成9年)1月29日)は、日本の政治家、大蔵官僚。池田勇人・福田赳夫とともに、「大蔵省の3田」と呼ばれた。 岐阜県岐阜市出身。野田繁吉の五男として生まれる。岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した後、大蔵省に入省(大臣官房文書課属)。在学中の1926年(大正15年)11月に高等試験の行政科試験と司法科試験に合格した。 浜松税務署長、松戸税務署長、為替局総務課長、興亜院経済部第四課長、大蔵省総務局総務課長、門司海運局次長、大蔵省金融局次長、外資局長、主計局長、専売局長官などを歴任し、1948年(昭和23年)3月に大蔵次官に就任した。
日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 19… 日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 1989年2月21日)は電通相談役。岐阜県出身。 岐阜中学校から第四高等学校に進み東京帝国大学法学部政治学科入学。1928年に卒業と同時に電通に入社。上海電通広告公司主任理事を経て、1947年に取締役に就任。その後1950年に常務取締役、1957年に専務取締役、1960年に代表取締役副社長を経て、亡くなった吉田秀雄社長に代わって1963年2月8日に代表取締役社長に就任。電通テック本社ビル建築に指揮を執る。1964年に東京オリンピック大会では「マーケティング局」と「PR局」を新設し国家イベント参画への道を開く。1965年には旧吉田記念館(吉田秀雄氏私邸)および現金1億4千万円の出捐を得て、文部省の認可により吉田秀雄記念事業財団が発足し初代理事長となる。
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日… 松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日 - 1988年(昭和63年)6月16日)は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - … 大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - 1987年9月23日)は、日本の実業家。元いすゞ自動車社長。勲二等瑞宝章。 岐阜県出身。1920年旧制岐阜中学校(のちの岐阜県立岐阜高等学校)卒業。のちに第三代在京岐阜高校同窓会会長を務めた。 1928年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、東京石川島造船所自動車部(のちのいすゞ自動車)に入る。 1965年いすゞ自動車社長に就任。自動車業界再編の中、1966年に富士重工業と提携。同年藍綬褒章受章。1970年に日産自動車と提携。 1970年日産自動車との提携を機に社長を退任。この退任は、ワンマン社長として知られた大橋が、同じくワンマン社長として知られ、大学の1年後輩である、日産自動車の川又克二社長に主導権を握られるのを嫌ったことが理由との見方もされた。
坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5… 坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる。
酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1… 酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1901年1月1日 - 1981年4月15日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)校長や、初代名古屋大学経済学部長、経済社会学会会長、日本学術会議会員等を歴任した。 1901年、岐阜県岐阜市生まれ。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1924年に同大本科を卒業。大学では左右田喜一郎に師事した。1942年に学位論文『国民経済ノ構造変動ノ本質並ニ原因ニ関スル研究』を提出して経済学博士号を取得。 1922年より指導教官左右田が主催した横浜社会問題研究所主任研究員。
三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11… 三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11月28日 - 1982年(昭和57年)5月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。 岐阜県恵那郡明智町(現・恵那市)出身。父親は村長を務める名望家だった。弟は名古屋市で眼科医院を開業した三宅寅三(歌人・三宅千代の夫)。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)から早稲田大学政治経済学部に進学。早大では学生無産運動団体の「建設者同盟」に参加した。同学年に平野力三(元農林大臣)。 1923年早大を卒業。翌1924年に日本農民組合関東同盟の新潟県出張所を新発田に開設、以後新潟県に定住する。1926年、小作料の減免を求める農民に対し、地主が土地への立入禁止処分で対抗したことから始まった木崎村小作争議(木崎村は現在の新潟市北区)を先頭にたって指導し、小作料不納同盟の結成、小作人子弟の同盟休校、村政改革、無産農民学校設立などを行い対抗した。
和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 … 和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 - 1923年〈大正12年〉2月14日)は日本の社会運動家、農民運動家。早稲田大学の学生運動団体であった民人同盟会および建設者同盟の中心人物。 青森県上北郡三本木村(現在の十和田市)出身。父・足也が畜産技師として岐阜県庁に赴任した関係で、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)に進み、柔道部にて平野力三や三宅正一と知り合う。旧制中学時代の和田は、トゥルゲーネフやトルストイを好んで読んでいたという。その後、早稲田大学に進学する。 1919年(大正8年)2月、早稲田大学の学生を中心とした社会運動団体・民人同盟会の創立に参加する。しかし、まもなく中心メンバーの高津正道と和田の間で路線対立が生じる。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。 気象学者の堀口由己は兄。 佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
後藤 真太郎(ごとう しんたろう、1894年5月28日 - … 後藤 真太郎(ごとう しんたろう、1894年5月28日 - 1954年1月27日)は、日本の出版・編集者、座右宝刊行会社長。
大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – … 大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – 1975年12月14日)は、昭和期の外交官・政治家。衆議院議員(3期)。カンボジア大使。
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年… 宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。 岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業後、陸士(26期)を卒業、席次は737人中230番。歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属された。本来であれば陸大に入学するのに必要な連隊長からの推薦も受けられない成績であったが、二度目の受験で合格し陸大36期を64人中29番で卒業した。 参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月2… 小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月21日 - 1962年〈昭和37年〉9月9日)は、日本の医師。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、国立予防衛生学研究所長を歴任。岐阜県各務原市出身。
青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 -… 青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 - 1954年7月2日)は、日本の哺乳類学者。台北帝国大学教授を経て、岐阜大学初代学長。 1883年、岐阜県厚見郡日置江村に生まれた。且格尋常小学校、岐阜中学校、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学動物学科に入学。1910年に卒業し、同大学大学院に進学した。 1913年(大正2年)、九州帝国大学助手に採用され、解剖学教室に勤務。1915年5月に依願退職。1909年8月に高等学校教員免許を取得し、9月より旧制愛知医科大学(現名古屋大学)予科教授となった。1922年、同校講師に昇格。 1927年4月、台湾総督府高等林業楽校教授に任命され、同時に在外研究を命じられて2年間イギリス、フランス、イタリア、アメリカの4か国へ研究留学した。
澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8… 澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8月2日 - 1973年(昭和48年)3月11日)は、日本の内務官僚、裁判官。最高裁判所判事。岐阜県出身。
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日… 高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した。
青木 徹二(あおき てつじ、1874年(明治7年)9月9日 … 青木 徹二(あおき てつじ、1874年(明治7年)9月9日 - 1930年(昭和5年)10月12日)は、明治期の検察官、弁護士、法学者。 岐阜県生まれ。岐阜中学校を中退し、1891年(明治24年)慶應義塾に入学。1897年(明治30年)に慶應義塾大学部法律科を卒業後時事新報社に勤める。翌年判検事試験に合格し、神戸区裁判所検事代理となるも1899年(明治32年)これを辞任し、再び時事新報社に入った。その後、慶應義塾の大学部教員養成のためドイツに派遣され、ベルリン大学などで学ぶ。1902年(明治35年)7月帰国後、大学部法律科で商法を講じた。1910年(明治43年)法学博士となる。1920年(大正9年)、雑誌『東方時論』に「続世相審かし論」を投稿し、不敬罪の廃止を唱えたため、新聞紙法違反で禁固4ヶ月の判決を受ける。
佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治… 佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治4年4月25日) - 1946年(昭和21年)12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県郡上郡、後の西和良村(現郡上市)出身。1891年、岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)卒。農業を営む。高田町議、養老郡議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、同議長、所得調査委員、高田町助役、養老郡農会議員、地方森林会議員、土地収用審査委員、真利銀行、西濃貯蓄銀行、養老遊園各(株)取締役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰。
井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3… 井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1943年(昭和18年)11月22日)は、日本の官僚・政治家。元衆議院議員。岐阜県出身。岐阜中学(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。 東京帝国大学卒業後、高等文官試験行政科に合格。内務書記官などを経て、1908年に佐賀県知事に就任。1917年、富山県知事に就任。1919年、神奈川県知事に就任。1922年、大阪府知事に就任。1923年、内務次官に就任した。 1919年ごろ現職の知事も衆議院議員に立候補できる制度が制定された。当時この制度を利用していたのは井上孝哉と警視総監を務めた宮田光雄の2名だけであった。
武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻、1870年10月27日… 武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻、1870年10月27日(明治3年10月3日) - 1963年(昭和38年)8月11日)は日本の政治家・実業家。岐阜県知事・衆議院議員、岐阜県名誉県民。岐阜商工会議所会頭。 元衆議院議員の武藤嘉一は長男。衆議院議員を務め外務大臣、総務庁長官などを歴任した武藤嘉文は孫にあたる。曾孫は衆議院議員の武藤容治。 岐阜県山県郡千疋村(現:関市千疋)出身。辻丈助の二男。岐阜県岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て、東京法学院(現:中央大学)を中退。 その後、稲葉郡会・岐阜県会の議員をつとめる一方、家業の酒造業(『菊川』)を経営するほか、食糧営団・電力会社・地方鉄道・地方新聞(岐阜日日新聞、岐阜合同新聞)の会社などを経営して経済界の発展のために数数の業績を残した。
北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年… 北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年2月12日) - 大正11年(1922年)1月12日)は、日本の海洋学者、水産学者。日本における水産行政、水産学研究、海洋測器開発の先駆者として知られる。 明治3年(1870年)、美濃国山県郡北野村(現在の岐阜県岐阜市三輪)の各務家において生まれる。幼い時に父を亡くした後、岐阜中学を経て青山学院へと進むが、その間は学費の捻出の為に学僕を務めた苦学生であった。明治27年(1894年)7月に東京帝国大学理科大学動物学科選科を卒業する。在学中は箕作佳吉の指導により、霞ヶ浦の水族調査を行っている。また、明治26年(1893年)にはウシモツゴの和名の基となった岐阜市での方言名「う志もろこ」の名を初めて報告した。
上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年… 上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1937年〈昭和12年〉5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 美濃国不破郡矢道村(青墓村、赤坂町を経て現岐阜県大垣市矢道町)で上田半右衛門の長男として生まれ、1909年(明治42年)に家督を相続した。 1888年(明治21年)岐阜県第一中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。1892年(明治25年)7月、陸軍士官学校(3期)を卒業し、1893年(明治26年)3月、陸軍歩兵少尉に任官。日清戦争に従軍。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では大本営兵站総監部副官として出征した。
下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶… 下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶應2年10月24日) - 1939年(昭和14年)11月22日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。 現在の岐阜県生まれ。岐阜県中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を経て、1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。数学や英語が得意で、同じ岐阜出身の各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)と首席を争ったが、次席となった。 また在学中、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、立花寛蔵(のちに初代大倉高等商業学校校長)らと議論を交わした。
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応… 平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉- 1945年〈昭和20年〉11月27日)は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。 明治、大正、及び昭和初期に活躍。1934年(昭和9年)、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った。
大野 亀三郎(おおの かめさぶろう、1861年9月6日(文久… 大野 亀三郎(おおの かめさぶろう、1861年9月6日(文久元年8月2日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。 美濃国、のちの岐阜県稲葉郡岩村(現岐阜市)で、農業・大野八右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)岐阜県立中学校を首席で卒業する。 岐阜県会議員となる。ほか、北海道開拓事業に関わり、興業銀行取締役、岐阜移民重役、蘇東銀行、北海道馬匹奨励、釜山埋築各監査役、日本興業銀行設立委員を務めた。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第1区から出馬し当選。その後、第3回総選挙から第11回総選挙まで連続10回当選した。
野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - … 野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - 1911年(明治44年)12月2日)は、明治時代の政治家。実業家。衆議院議員。 美濃国中島郡大浦村(岐阜県中島郡大浦村、羽島郡大浦村、正木村を経て現羽島市)出身。岐阜中学校に学ぶ。 学務委員、所得調査委員、岐阜県会議員、同常置委員、徴兵参事員、地方衛生会員、大浦村外四ヶ村長、正木村会議員を歴任した。実業界では、三井物産会社社員、岐阜物産、岐阜倉庫各社長を務めた。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
水原 碧衣(みずはら あおい、2月14日 - )は、日本の女… 水原 碧衣(みずはら あおい、2月14日 - )は、日本の女優。芸能事務所G2GEN(ジツゲン)所属。岐阜県出身。 中国、ハリウッドなどで活動している。京都大学法学部卒。全人口のうち、上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であるメンサの会員。 岐阜県立岐阜高等学校、京都大学法学部卒業後、早稲田大学法科大学院に進学(後に中退)。その後、世界3大映画専門大学の1つであり、世界的な映画監督であるチャン・イーモウやチェン・カイコーを輩出した北京電影学院の演技科に1年間留学し、首席卒業。 2016年、東京国際映画祭の東京・中国映画週間で初主演映画『海を越えた愛(原題『漂洋过海来爱你』)』がゴールドクレイン賞を受賞した。
藍川 清成 は、明治時代後期から昭和時代にかけて活動した日本… 藍川 清成 は、明治時代後期から昭和時代にかけて活動した日本の弁護士・実業家・政治家である。岐阜県出身。
村木 保裕 は、元東京高等裁判所裁判官。
毛利 晴光(もうり はれみつ)は、裁判官。東京地方裁判所部総… 毛利 晴光(もうり はれみつ)は、裁判官。東京地方裁判所部総括判事を経て東京地方裁判所八王子支部部総括判事(刑事第二部)・東京家庭裁判所八王子支部部総括判事。東京大学卒業。
臼井 裕詞(うすい ひろつぐ )は、フジテレビジョンの映画事… 臼井 裕詞(うすい ひろつぐ )は、フジテレビジョンの映画事業局映画制作部長(映画プロデューサー、テレビドラマプロデューサー)、兼 株式会社FILM取締役。 慶應義塾大学卒。
井波 哲尚(いなみ さとひさ)は、日本の総務官僚。総務省大臣… 井波 哲尚(いなみ さとひさ)は、日本の総務官僚。総務省大臣官房審議官や、総務省人事・恩給局次長、内閣官房内閣審議官、総務省統計局長等を歴任した。 岐阜県出身。岐阜県立岐阜高等学校を経て、1980年 東京大学法学部卒業。1981年 総理府入府(内閣総理大臣官房人事課)。2001年1月6日 総務省行政管理局管理官(法務、農水等担当)。2002年1月 総務省行政評価局評価監視官兼内閣府政策金融改革準備室参事官。同年8月 総務省大臣官房参事官。2003年1月 総務省統計局統計調査部調査企画課長。2009年7月 総務省大臣官房秘書課長。 中部管区行政評価局長、総務省大臣官房審議官(行政評価局担当)を経て、2012年 総務省人事・恩給局次長。
犬飼 重仁(いぬかい しげひと)は、一般社団法人アジア資本市… 犬飼 重仁(いぬかい しげひと)は、一般社団法人アジア資本市場協議会 代表理事。 アジア開発銀行(ADB)ABMFコンサルタント。アジア域内金融資本市場法規制システム研究者。アジア債券市場研究者。元早稲田大学教授。 1980年代後半から90年代前半に駐在した英国シティの、プロのみが参加する金融資本市場の自由闊達な姿に魅かれ、日本とアジアに、英国の市場のような、活力ある先進的な金融資本市場制度を導入できないかを想い描いていた。 英国滞在中に、市場関係者の協力を得て、当時として新しい概念に基づく、マルチ・カレンシーのユーロ ・ミディアムターム・ノート[EMTN]プログラムの立ち上げを担当した。 2000年代の冒頭には、大手企業の財務部門のメンバーらとともに、電子CPの我が国への導入に尽力。
柴橋 正直 は、日本の政治家。岐阜県岐阜市長(3期)。衆議院… 柴橋 正直 は、日本の政治家。岐阜県岐阜市長(3期)。衆議院議員(1期)、民主党岐阜県連代表などを歴任。
堀部 伸子(ほりべ のぶこ)は、日本出身の国際公務員。元国際… 堀部 伸子(ほりべ のぶこ)は、日本出身の国際公務員。元国際連合人口基金(UNFPA)アジア・太平洋地域事務所所長。 岐阜県岐阜市出身。岐阜県立岐阜高等学校を経て、一橋大学社会学部及び一橋大学経済学部卒業後、デンバー大学ジョセフ・コーベル国際研究大学院修了、国際関係学修士。大学院修了後、バグダッドの都市計画プロジェクトのためイラクに赴任した。 1984年ジュニア・プロフェッショナル・オフィサーとして国際連合開発計画バルバドス事務所に赴任。その後、人口関係に興味があったため、1987年から国際連合人口基金に移り、中国国事務所副所長等を務めた。また、ニューヨークやウィーンの国際連合人口基金本部、国際連合プロジェクトサービス機関本部、国連薬物犯罪事務所本部でも勤務した。
馬島 龍一(まじま りゅういち、Ryuichi Majima… 馬島 龍一(まじま りゅういち、Ryuichi Majima)は、日本の薬剤師、薬学者。学位は博士(薬学)(岐阜薬科大学・2021年)。専門は母子感染症のサイトメガロウイルスやSARS関連コロナウイルスなど。 薬学者、薬剤師を目指し岐阜薬科大学へ進む。2017年3月、岐阜薬科大学薬学部薬学科 卒業。同年、薬剤師国家試験に合格した。同大薬学研究科 薬学専攻へ進み、ウイルス学や母子感染症学等を専門とする井上直樹に師事する。2021年3月、同大薬学研究科 薬学専攻 博士課程修了。博士(薬学)取得後も、井上直樹のもとで研究を続ける。 2021年6月、渡米、ミネソタ大学薬学部(The Center for Drug Design)にて博士研究員として薬学、ウイルス学などの研究をおこなう。
山部 俊文(やまべ としふみ)は、日本の法学者。専門は経済法… 山部 俊文(やまべ としふみ)は、日本の法学者。専門は経済法。学位は、法学修士(一橋大学)。明治大学法学部教授。一橋大学名誉教授。 熊本県八代市生まれ。北方町立北方小学校、岐阜県本巣郡北方町・岐阜市学校組合立北方中学校を経て、1975年岐阜県立岐阜高等学校卒業。1980年一橋大学法学部卒業、伊藤忠商事入社。1983年一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、法学修士。1986年一橋大学大学院法学研究科博士後期課程単位修得、日本学術振興会特別研究員。1987年一橋大学大学院法学研究科博士後期課程退学。指導教官は久保欣哉。 1988年一橋大学法学部専任講師。1991年同助教授。1993年から1994年までミュンスター大学客員研究員。