スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
中村 直人(なかむら なおと、1969年1月18日 - )は… 中村 直人(なかむら なおと、1969年1月18日 - )は、日本の実業家、元ラグビー選手。競技引退後は、祖父が創業した酒類販売店「なおかつ」の代表取締役社長を務めている。 洛北高校(同期にサッカー選手・指導者の曺貴裁がいる)、同志社大学を経て、1991年、サントリー(現:東京サントリーサンゴリアス)に加入。 1998年5月3日に行われたパシフィック・リム選手権カナダ戦で日本代表初キャップを獲得した。 2002年、現役を引退した。 その後サントリーサンゴリアス、キヤノンイーグルスのコーチを経て、2013年、同志社高校のヘッドコーチ就任。
平澤 創(ひらさわ はじめ、1967年3月26日 - )は、… 平澤 創(ひらさわ はじめ、1967年3月26日 - )は、日本の実業家。大阪芸術大学卒業。株式会社フェイス代表取締役社長。日本コロムビア株式会社取締役会長。 京都府京都市に生まれる。京都府立洛北高等学校を卒業した後、大阪芸術大学芸術学部へ進学する。大学在学中からアルバイトでTV番組の作曲や音楽制作などに関わる。 大学卒業後、任天堂での勤務を経て、1992年に起業。株式会社フェイスを設立し、同社の代表取締役社長に就任。1999年、世界で初めて携帯の「着信メロディ」をダウンロードする仕組みを創り、世界約100ヵ国、累計約90億台以上の携帯端末に搭載される。2001年、JASDAQ上場。2002年、35歳当時、同社の東証一部上場を創業社長としては当時史上最年少で果たした。
松本 整(まつもと ひとし 1959年5月20日 - )は、… 松本 整(まつもと ひとし 1959年5月20日 - )は、元競輪選手、現在はスポーツトレーナー、実業家。京都市出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第45期生。登録番号は9996。現役時は日本競輪選手会京都支部所属。師匠は木代隆治。初出走は1980年4月19日の門司競輪場で初勝利も同レース。血液型はA型。 松本は幼い頃に両親が離婚し、それからは母・光子により女手一つで育てられる。母親は理不尽なことについては断固として意志を曲げない人で、中学時代、髪型をリーゼントパーマにした松本に対し、初めて見た時は何も言わずも、翌日から「パーマ反対」と書いたカードを家の中で一週間にわたって掲げ続け、松本が根負けする形でパーマを辞めさせたこともあった。
今井 敬三(いまい けいぞう、1950年11月19日 - )… 今井 敬三(いまい けいぞう、1950年11月19日 - )は、京都府京都市左京区出身の元サッカー選手、実業家。1970年代後半の日本を代表するディフェンダー(当時はフルバック)。 京都府立洛北高等学校、同志社大学を経て日本サッカーリーグ(JSL)の藤和不動産サッカー部/フジタ工業クラブサッカー部(現、湘南ベルマーレ)で9年間プレイ。1977年から1980年まで4年連続でJSLベストイレブンに選出され、1979年には日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)にも輝いている。古前田充と共にフジタの守備の中心選手だった。 日本代表選手としては1978年アジア大会やモスクワオリンピック予選などに出場し、代表主将も務めた。
岩﨑 隆(いわさき たかし、1937年 - )は、日本の実業… 岩﨑 隆(いわさき たかし、1937年 - )は、日本の実業家。株式会社ノリタケカンパニーリミテド代表取締役社長や、同社代表取締役会長、中部経済同友会代表幹事などを務めた。 京都府立洛北高等学校を経て、1960年同志社大学経済学部卒業、日本陶器株式会社(現ノリタケカンパニーリミテド)入社。1992年取締役に昇格。1994年常務取締役。1997年専務取締役。1998年取締役副社長。1999年から代表取締役社長を務め、2002年には社章を制定した。2004年代表取締役会長。2009年相談役。中部経済同友会代表幹事なども務めた。
松下 治夫(まつした はるお、1931年(昭和6年)12月 … 松下 治夫(まつした はるお、1931年(昭和6年)12月 - 2014年(平成26年)10月)は、日本の実業家、芸能プロモーター。芸能事務所の草分け的存在である渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者の一人。 京都府出身。京都府立洛北高等学校卒業。従来、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが少なくなかった、そこで、タレントを抱えるプロダクションが自らの手で興行を行い、利益と権利を確保しようという狙いのもとに、1955年、当時人気ベーシストであった渡辺晋とその妻美佐と組んで渡辺プロダクションを設立した。 それまでレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。
12代 下村 正太郎(しもむら しょうたろう、1927年(昭… 12代 下村 正太郎(しもむら しょうたろう、1927年(昭和2年)11月20日 - 2007年(平成19年)5月13日)は、日本の実業家。大丸社長・会長。 京都府出身。大丸の創業家12代目当主。府立一中を経て、大阪大学経済学部を卒業。 1951年、大丸の主力行である三菱銀行に入行。ニューヨーク支店などに勤務。1965年に大丸に転じ、取締役となり、常務、専務を経て、1984年に社長に就いた。 梅田店出店のため、社長就任直前の1984年2月期に大丸は赤字決算に転落した。しかし、就任直後の1984年上半期(3~8月)の売上高は前年同期の7%増となった。このまま業績を回復軌道に乗せるため、1万人の労使あげて、サービス向上の「スクラム10,000運動」を始めた。
奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 200… 奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 2009年11月7日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。元松竹株式会社社長。創業家である白井家、大谷家以外からは永山武臣以来2人目の社長であった。父は元松竹専務の奥山市三、次男は元松竹専務でチームオクヤマ代表の奥山和由。 京都市出身。京都府立京都第一中学校、第五高等学校を経て、1947年京都帝国大学法学部政治学科卒業。同年大和証券入社。1951年松竹入社。主に映画興行部門、国際部門を歩き、1955年プロデューサー、国際部長を経て1968年取締役、1971年常務、1974年専務、1978年副社長。1986年、松竹大船撮影所50周年を期して「ニュー大船調」を打ち出す。
上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2… 上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2001年6月21日)は、日本の経営者。文藝春秋社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1939年に早稲田大学文学部国文科を卒業し、同年に文藝春秋新社に入社。 出版部長、「文学界」・「オール讀物」・「週刊文春」・「文藝春秋」各編集長を経て、1961年に取締役に就任し、専務、副社長を経て、1984年6月に社長に就任。1988年5月には会長に就任。 2001年6月21日、肺炎のために死去。86歳没。
工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 -… 工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 - 1981年7月23日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。京都府京都市出身。 1939年に京都帝国大学英文学科を卒業し、毎日新聞社に入社した。取締役、東京本社編集局長、副社長を歴任した後に、1968年1月には、相談役を務めた。1949年の大リーグのサンフランシスコ・シールズの招聘と毎日オリオンズの創設に尽力した。 1974年から1978年までにNHK経営委員会委員長を務め、1978年10月1日からパシフィック・リーグ会長に就任し、エキサイティング・リーグ「パ」のキャンペーンを繰り広げるなど、パ・リーグの観客動員の増加に力を入れた。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 198… 古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 1983年8月23日)は、日本の大蔵官僚、満洲国官僚、実業家。東京府出身。義兄に小金義照。長男は古海建一(国際善隣協会理事長、元東京銀行常務、元ユアサ商事会長)。勲二等瑞宝章(1971年)。 京都一中、三高を経て、東京帝国大学法学部政治学科に進む。学生時代を通じて野球部に在籍し、主にキャッチャーをしていた(帝大時代にはラグビーも兼部)。中学時代には第3回全国中等学校優勝野球大会に出場した。 1924年大学卒業し、大蔵省入省。入省同期に、青木実(満洲国経済部次長、戦後はシベリア抑留を経て合同証券会長、水戸常陽銀行社長)、難波経一(のち満州国専売公署副署長、軍需省燃料局長官・同整備局長官などを経て、戦後山陽パルプ社長・会長)など。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年… 大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年> 10月5日 - 1981年 <昭和56年> 2月27日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。位階は正五位。京都府京都市出身。 1909年に京都府立第一中学校を卒業し、同年に大橋商店に入社。1948年に蝶理社長に就任し、1958年5月には会長に就任。1959年9月から1960年5月までに再び社長を務めた。家政学園理事長も務めた。 1944年に紺綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年2月27日、老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年… 夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。別号は旭初。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人。呉甌・李元暉と共に、王揖唐側近の部下と目された。 日本に留学し、京都府立第一中学、第一高等学校を卒業した。その後、ドイツにも留学し、ベルリン大学で学んでいる。帰国後の1929年(民国18年)10月21日、北平特別市政府秘書処秘書に任命された。後に黄郛配下となり、行政院駐平政務委員会で科長をつとめる。1935年(民国24年)12月に冀察政務委員会が成立すると、ここでも科長となった。 1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立すると、夏粛初はこれに参加している。
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。
甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、188… 甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、1880年(明治13年)5月21日 - 1938年(昭和13年)6月25日)は、日本の発明家、実業家。高砂香料工業の創業者。 京都の士族・甲斐荘正秀の長男。京都府師範学校附属小学校、京都府立一中、第三高等学校を経て、京都帝国大学理工科大学純正化学科を卒業した。1906年に久原躬弦の下で助教授に任命された。しかし、応用化学、特に香料工業に関心があったことから休職し、1910年に欧州に私費留学した。欧州では、フランスのグラースに下宿し、製造職工や調合見習いを行い、スイスのジボダンで合成香料の開発と調合を研修し、1913年末に帰国した。 帰国後は、丸見屋(後のミツワ石鹸)に勤めるが、合成香料工業が苦境に陥り、1919年7月に退職した。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
麻田 駒之助(あさだ こまのすけ、明治2年10月14日(18… 麻田 駒之助(あさだ こまのすけ、明治2年10月14日(1869年11月17日) - 昭和23年(1948年)11月24日)は、日本の出版者、中央公論社の初期の社長。『ホトトギス』の俳人で俳号を椎花。 京都出身。京都府人麻田栄之進の長男として生まれ、京都府立中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒。西本願寺内局に勤務し、大谷光瑞の意向により1892年(明治25年)、反省会庶務係となり上京、『反省雑誌』の編集に当たる。1899年(明治32年)同誌を『中央公論』と改称。1904年(明治37年)、反省会社長となり、滝田樗陰が編集を担当して言論・文芸雑誌として売り上げを拡大したため編集実務を滝田に委ね、1914年(大正3年)に社名を中央公論社と改めた。