スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
田中 隆治(たなか たかはる、1946年 - )は、青森県… 田中 隆治(たなか たかはる、1946年 - )は、青森県出身の日本のバイオ技術者。サントリー顧問・元取締役基礎研究所長、「青いバラ (サントリーフラワーズ)」の開発チームリーダー。元星薬科大学学長。理学博士(大阪大学)。 青森県青森市生まれ。桃山学院高等学校卒、金沢大学理学部生物学科卒、神戸大学大学院理学研究科修士課程修了。サントリー入社後、酵母菌の研究に携わり、サントリーの医薬品分野を開拓していく。ポリフェノールの研究成果を応用し、10年の歳月を経て、世界で初めて青いバラ (サントリーフラワーズ)の開発に成功した。 2005年より東京大学大学院農業生命科学研究科特任教授、2008年より金沢大学理事。
梶 光夫(かじ みつお、本名:梶 芳道、1944年9月9日 … 梶 光夫(かじ みつお、本名:梶 芳道、1944年9月9日 - )は、1960年代の日本の歌手、現在は日本を代表する金細工師・宝飾デザイナーとして国際的にも知られ、また米国宝石学会(G.I.A GG)の資格を取得し、宝石鑑定家でもある。 大阪府大阪市出身。1944年、大阪で時計・宝石・貴金属を扱う宝石商「スイス時計店」の長男として生まれる。 1963年12月、コロムビアレコードより「黒髪」で歌手デビュー、翌1964年には、3作目の「青春の城下町」が大ヒット。テレビを中心に映画にも多数出演する。 父親は長男に家業を継いでほしいという思いから芸能界入りを反対していたが、デビュー時に父親と交わした“芸能生活は5年間”という約束を守り、1970年には歌手を引退した。
堀口 武視(ほりぐち たけし、1944年(昭和19年)7月1… 堀口 武視(ほりぐち たけし、1944年(昭和19年)7月13日 - )は、大阪府の政治家。 泉南市議会議員(8期)。泉南市議会議長4回、全国市議会議長会評議員、大阪府市議会議長会副会長などを歴任。 大阪府泉南市出身。桃山学院大学卒業後、家業の紡績業を営む。 桃山学院高等学校、桃山学院大学経済学部卒業。 卒業後、家業である紡績業を営む。 父・堀口文助は、第2代泉南市議会議長(在職中の1972年(昭和47年)に死去)。二男・堀口和弘は、平成26年6月25日に澤田貞良・小林雄志の二人の大阪府議とともに大阪維新の会を離党(のちに除名)した前大阪府議会議員(自由民主党所属)で2019年現在は泉南市議会議員。
岡村 晃(おかむら あきら、1943年7月18日 - )は、… 岡村 晃(おかむら あきら、1943年7月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(内野手)。 桃山学院高校では外野手、関西大学へ進学し三塁手に転向。関西六大学野球リーグでは1962年春季リーグで優勝を経験。同年の秋季リーグからレギュラーとして活躍。翌1963年秋季リーグでも首位に立つが、「西川事件」により優勝取り消し、1964年春季リーグ出場辞退の処分を受ける。同年の秋季リーグでは8打席連続安打のリーグ新記録を作る。4年生時には主将を任された。リーグ通算68試合出場、227打数58安打、打率.256、2本塁打。 1965年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから6位指名を受けるも拒否し、社会人野球の河合楽器へ入社。
米田 慶三郎(よねだ けいざぶろう、1943年1月13日 -… 米田 慶三郎(よねだ けいざぶろう、1943年1月13日 - )は、大阪府大阪市阿倍野区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 桃山学院高卒業後の1962年からPL教団でプレーし、土井垣武コーチの指導を受ける。当時のチームメイトには野田征稔がいたが、同年の都市対抗近畿予選敗退の後にチームが休部。1964年には電気化学工業へ移籍し、久保山誠監督の指導を受け、1967年の都市対抗野球に出場。 1967年のドラフト3位で大洋ホエールズに入団。 「年齢的にも最後のチャンス」の25歳でプロ入りし、1年目の1968年は二軍で藤井勇監督の指導を受け、イースタン・リーグで本塁打王と打点王の二冠を獲得。開幕早々から長打力に一目置かれ、開幕後は不動の4番打者となり、3月30日の開幕戦の東京戦で西三雄から放った左翼席への第1号を皮切りに、4月1日にも西から9回二死後に初球を左中間へ豪快なサヨナラ本塁打にした。
尾川 昌法(おがわ まさのり、1937年1月22日 - )は… 尾川 昌法(おがわ まさのり、1937年1月22日 - )は、日本の歴史学者。社団法人部落問題研究所理事・大阪民衆史研究会会長・元立命館大学非常勤講師。専門は日本近代史・社会運動史・部落史。 1963年立命館大学文学部史学科卒業。1967年同大学大学院文学研究科修士課程修了。同年桃山学院中学校・高等学校教諭となる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
堀本 律雄(ほりもと りつお、1935年1月20日 - 20… 堀本 律雄(ほりもと りつお、1935年1月20日 - 2012年1月14日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(投手)、コーチ、解説者・評論家。 桃山学院高校では3年次の1952年、夏の大阪府大会で準決勝に進出するが、明星高に敗退。高校卒業後は1953年に立教大学へ入学するが、同期のエース東実や1年下の杉浦忠の陰に隠れ、あまり活躍の機会はなかった。専ら他校のエースを真似た練習台の投手であった。他の大学同期に矢頭高雄がおり、一年下に長嶋茂雄がいた。大学卒業後は1957年に日通浦和へ入社し、同年の都市対抗では3勝を挙げて決勝に進出。熊谷組の島津四郎と投げ合うも完封を喫するが、この大会の久慈賞を獲得。
小島 秀哉(こじま ひでや、1934年〈昭和9年〉3月19日… 小島 秀哉(こじま ひでや、1934年〈昭和9年〉3月19日 - 2012年〈平成24年〉7月17日)は、日本の俳優。本名、小嶋 秀哉(読み同じ)。広島県呉市出身。松竹・関西演劇部所属。桃山学院高等学校卒業。血液型B型。 曾我廼家十吾に弟子入り。 1953年に松竹新喜劇へ入団し、「藤山寛美に次ぐナンバー2」と目された。 1977年に退団後、小沢昭一主宰の芸能座に参加。なお、退団は藤山との不仲が噂されたが、藤山の娘・直美主演の舞台に数多く出演していた(2009年の松竹新喜劇結成60周年記念公演にも出演)。 1978年、『ダイナマイトどんどん』で野球の試合前に「ダイナマイト〜!」と気合を入れる主人公の相棒・留吉役で出演。
沖浦 和光(おきうら かずてる、1927年1月1日 - 20… 沖浦 和光(おきうら かずてる、1927年1月1日 - 2015年7月8日)は、日本の社会学者、民俗学者。桃山学院大学名誉教授、同大学長。専攻は芸術論、社会思想史、比較文化論。もっぱら被差別民、被差別部落、マルクス主義的民族論などの研究を行う。 大阪府豊能郡箕面村半丁(現・箕面市)の生まれ。小学校2年生のころに大阪市内の紀州街道沿いにある下町の長屋に引っ越す。 箕面村牧落小学校、大阪市阿倍野区晴明丘小学校、住吉区田辺小学校と転校を繰り返したのち、私立桃山中学校、旧制浪速高等学校文科甲類を経て、1953年東京大学英文科でアメリカ文学を研究。東大卒業後、大学院に進学するかたわら、大田区立大森第八中学校で英語を教える。
渡辺 博之(わたなべ ひろゆき、1921年1月1日 - 19… 渡辺 博之(わたなべ ひろゆき、1921年1月1日 - 1990年10月2日)は、大阪府大阪市阿倍野区出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・監督。 旧制桃山中学校卒業後、同志社大学に進学し野球部に所属した。1941年と1942年春秋リーグ戦では関西六大学リーグ初優勝かつ4連覇(戦後まもなくの1946年春秋リーグ戦連覇で6連覇)に貢献するなどエースとして活躍。在学中に南海軍から入団の打診を受けるも拒否し、卒業後に応召を受ける。戦後は会社員として働くが、それから間もなく独立し、御堂筋に洋品雑貨の店を構えていた。これと並行してノンプロチーム「全大阪」に参加し、1946年から1948年まで3年連続で都市対抗に出場。
石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月1… 石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。 政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。 政界引退後の晩年および死後に、ソビエト連邦のスパイであったことを指摘する情報が複数発見されたが、立件されなかった(後述)。 秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ。
斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - … 斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。 父親は貿易商であり大阪府で生まれた。 帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した。 1930年3月に卒業。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した。
岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 199… 岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 1992年12月2日)は、日本の経営学者・商学者。専門は、中小企業経営論。元・旭川大学学長。元・札幌大学学長。小樽商科大学名誉教授。 京都府亀岡市出身。桃山中学校(旧制)(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。1932年関西大学第二部商科卒業。1936年(昭和11年)神戸商業大学卒業。その後、小樽高等商業学校講師を経て、1940年(昭和15年)小樽高等商業学校教授。1951年(昭和26年)小樽商科大学商学部教授。1970年(昭和45年)小樽商科大学停年退官。同名誉教授。札幌大学学長代行代理。1971年札幌大学学長。1974年札幌大学学長を退任。
田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1… 田辺治太郎 (たなべ ちたろう、1908年3月18日 - 1972年10月16日)は、日本の実業家、元サッカー選手、サッカー指導者。大阪府出身。1972年勲三等瑞宝章。 田辺製薬株式会社(現・田辺ファーマ株式会社)代表取締役社長、代表取締役会長を歴任した。
筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 19… 筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 1989年4月17日)は、日本の動物学者で自然保護活動家。血液型はA型。 藍問屋の三男として大阪府大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理科甲類を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事する。 1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。
森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 -… 森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 - 平成6年(1994年)11月4日)は日本の実業家。元資生堂社長。幼名治。
時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33… 時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉6月26日)は、日本の経済学者。早稲田大学第9代総長。日本私立大学連盟第5代会長。 長男は元一橋大学経済学部教授で計量経済学者の時子山和彦。 1900年4月8日、大阪府堺市に生まれる。旧制桃山中学校(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。早稲田大学附属第一高等学院文科(政経)、早稲田大学政治経済学部経済学科を経て、1927年4月、早稲田大学大学院(財政学・統計学専攻)に進学し、1929年3月まで在籍する。1933年4月から在外研究員としてアメリカ合衆国・ドイツに留学する。 1939年4月から早稲田大学専門部政治経済科教授に、1940年2月から同大学政治経済学部教授に、1949年4月から第一・第二政治経済学部教授および同学部長になる。
斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1… 斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1970年10月31日)は、日本の実業家・政治家。TDKの創業者で衆議院議員・科学技術政務次官を務めた。 1898年(明治31年)斎藤宇一郎とミネの三男として、秋田県由利郡平沢村(現にかほ市)に生まれた。父の宇一郎は秋田の農業の発展に尽力し、代議士にもなった人である。憲三は地元の平沢小学校を卒業した後、本荘中学(現:秋田県立本荘高等学校)への進学を希望していたが、父の勧めにより大阪の私立学校である桃山中学(現:桃山学院高等学校)に入学した。 1922年(大正11年)早稲田大学商学部を卒業後、農家の副業奨励のため炭焼きや養豚などの事業に取り組むが、いずれも失敗する。
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 -… 瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。
松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1… 松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家である。衆議院議員(6期)。 大阪府南河内郡黒山村出身。1922年(大正11年)、京都帝国大学経済学部卒業。桃山学院中学校の英語教諭、大阪府立黒山実業学校の教頭などを経て、経済界に転身した。神国海上火災KK(日本興亜損害保険の前身会社)、大阪タクシーKK、大阪メーターKK等を経て、1946年(昭和21年)、日本社会党に入党、日本社会党大阪府連合常任執行役員となる。 1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙で大阪第3区より衆議院議員に初当選、日本社会党中央委員に就任。大阪メーターKKを退職。1950年(昭和25年)東京相互タクシーKKを設立し、代表取締役に就任。
山元 亀次郎(やまもと かめじろう、1894年〈明治27年〉… 山元 亀次郎(やまもと かめじろう、1894年〈明治27年〉5月12日 - 1962年〈昭和37年〉3月27日)は、大正から昭和期の政治家・実業家。衆議院議員。通称「山亀」と称された革新の闘士。 鹿児島県大島郡西古見村(焼内村、西方村を経て現瀬戸内町西古見)で、鰹漁業網元・山元十太郎の息子として生まれた。1909年(明治42年)大島郡古仁屋高等小学校を修了。熊本、長崎で船員として務め学費を貯めて、1915年(大正4年)大阪市の桃山中学校(現桃山学院中学校・高等学校)を卒業した。2年間の兵役を経て日本大学専門部法科に入学したが1918年(大正9年)に中退した。 1919年(大正10年)4月、全国学生同盟会、同年12月、日本労働党、1921年12月、対外青年革新協会などをそれぞれ結成して、学生運動、普選運動に尽力した。
生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月… 生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家・翻訳家・劇作家・小説家。 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。 本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2… 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。
熊谷 明泰(くまたに あきやす)は、日本の言語学者。専門は社… 熊谷 明泰(くまたに あきやす)は、日本の言語学者。専門は社会言語学、朝鮮語学。関西大学名誉教授、元北東アジア学会理事。東崇学術賞受賞。 大阪市生まれ。1967年桃山学院高等学校卒業。1975年大阪府立大学経済学部経済学科卒業。1977年大阪外国語大学外国語学部朝鮮語学科中退。1981年大阪外国語大学大学院外国語学研究科東アジア語学専攻修士課程修了。1983年高麗大学校国語国文学科大学院博士課程朝鮮語学専攻入学(文部省国費留学)。1989年一橋大学大学院社会学研究科社会言語学専攻博士課程単位取得満期退学、ソウル大学校大学院国語国文学科朝鮮語学専攻博士課程入学。指導教官田中克彦。 1984年大田実業専門大学観光日語科専任講師。
白坂 哲彦(しらさか てつひこ、1940年(昭和15年) -… 白坂 哲彦(しらさか てつひこ、1940年(昭和15年) - )は、日本の医学者、がんの研究者。 1940年旧満州・現フルンボイル市ハイラル区生まれ。桃山学院高等学校、北里大学衛生学部卒業。1971年同大学大学院衛生学研究科修士課程修了。1975年徳島大学大学院医学研究科博士課程修了、医学博士。同大医学部助手を経て、大阪大学蛋白質研究所助手。大塚製薬株式会社琵琶湖研究所長を経て、1990年大鵬薬品工業株式会社の創薬センター・病態医化学研究所所長。2005年北里大学生命科学研究所客員教授。2002年(平成14年)「5-フルオロウラシルの生化学的修飾による新しい癌化学療法の開発に関する研究」により、高松宮妃癌研究基金学術賞受賞、木村禧代二賞受賞。