川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 19… 川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 1962年11月10日)は、日本のラグビー選手・功労者。福岡県のラグビー先駆者の一人。 東京都に生まれる。1925年福岡県中学修猷館、1927年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、慶應義塾大学法学部へ進学し、ラグビー部において全日本東西対抗選手として活躍した。 1930年慶應義塾大学を卒業し、東邦電力福岡支店に入社。東邦電力ラグビーチームの主力として、福岡県ラグビーの普及とレベルアップに貢献した。 戦後は、山本太郎、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立に尽力し、九州ラグビーフットボール協会の理事長から会長、日本ラグビーフットボール協会専務理事を務めた。
野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 199… 野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 1993年)は、日本の児童詩人、教育者。 福島県小名浜(現いわき市)生まれ、茨城県平潟町育ち。1928年東京府立青山師範学校卒、29年同専攻科卒、詩人・大関五郎に師事。東京府北多摩郡砧小学校教師、滝野川小学校教諭。小砂丘忠義の『綴方生活』同人。1944年浅草区新堀国民学校教諭、集団疎開、敗戦ののち46年小島小学校教諭、日本作文の会創立に参加。中央区月島小学校長を最後に1968年定年退職。作文、児童詩の指導を行った。「のぐちしげお」とひらがなの筆名を用いた。
森脇 一夫(もりわき かずお、1907年(明治40年)5月1… 森脇 一夫(もりわき かずお、1907年(明治40年)5月10日 - 1978年(昭和53年)3月25日)は、歌人、国文学者。 アメリカ合衆国ハワイに生まれ、生後4カ月で帰国して広島県豊田郡沼田西村(現・三原市)で育つ。1927年東京府豊島師範学校卒業後、小学校訓導となる。1932年日本大学高等師範部国語漢文科卒業、1936年東京高等師範学校研究科卒業、1939年日本大学法文学部文学科卒業。1942年東京市本所高等実践女学校教諭、1946年日本大学予科教授、1949年日本大学助教授、1956年日本大学教授。1960年「万葉の美意識」で日本大学文学博士。1977年定年。 若山牧水系の歌人で、1928年菊池知勇の『ぬはり』に参加。
福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1… 福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1月11日)は、日本の社会運動家、著述家。兵庫県出身。東京女子大学中退。旧姓は波多野、是枝。 1907年、大浦事件の裁判長を務めた波多野高吉と高等女学校教師はまの間に生まれた。1924年、北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会を結成し、女子学生運動を指導した。 1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長だった是枝恭二と結婚。翌年、三・一五事件で検挙された。1934年2月、治安維持法再犯として起訴され、服役した。 戦後は1955年に日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。
申 奎植(シン・ギュシク、朝鮮語: 신규식、1907年5月8… 申 奎植(シン・ギュシク、朝鮮語: 신규식、1907年5月8日または1910年 - 2003年6月10日)は、大韓民国の官僚、政治家。第3・4代韓国国会議員。 本貫は高霊申氏(朝鮮語版)、号は雪巌。儒教の信者。 全羅北道(現・全北特別自治道)扶安郡舟山面出身。福知中学校、早稲田大学専門部政経科卒。米軍政庁農務部農産局総務課長・農産局副局長・農経局農政課長、内務部長官秘書室長、国防部長官高級副官・秘書課長、関税庁長、除隊将兵補導会(現・韓国在郷軍人会)副会長、中央管財庁長署理、三南中学校(朝鮮語版)校長、第4代国会農林委員長を務めた。 2003年6月10日、老衰により死去。享年101。 2003年に死去した時点で生存中の議員経験者のうち最高齢であった。
船越 弘(ふなこし ひろむ、1907年(明治40年)5月7日… 船越 弘(ふなこし ひろむ、1907年(明治40年)5月7日 - 1967年(昭和42年)9月7日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、広島県三次市長。 広島県出身。松山高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1942年(昭和17年)5月、三次町会議員に選出された。2期在任し、1947年(昭和22年)5月、町議会議長となる。双三郡町村会議長会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に広島県第3区から民主自由党から出馬して初当選。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で自由党から立候補したが落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙では再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1… 杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1972年6月21日)は、日本の経営者、工学博士。東陶機器(現在のTOTO)社長を務めた。 大分県大分市出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。 三菱重工業での勤務を経て、1948年5月に東洋陶器に転じ、専務、副社長を経て、1967年7月に社長に就任。 1972年6月21日、脳卒中のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日… 井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。
力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 19… 力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 1994年9月9日)は、日本の教育者、山口大学第4代目学長。同大学工業短期大学部元学長。専門はドイツ語。 山口県立医学専門学校ドイツ語講師 。 大学紛争時の1969年8月から1970年3月まで山口大学教養部長を務め、その後、学長代行を経て、1971年4月に、2年間空席となっていた学長職に就き、学長として1973年まで務めた。 同大学構内吉田遺跡の調査団長の一人。他に市川禎治、中村正二郎も加わった。同大学工業短期大学部の学長。
国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994… 国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994年4月18日)は、日本の水彩画家。「北海道を代表する芸術家」の1人に挙げられる。 北海道の気候や風土を意識したテーマで描き、幻想的で静謐感の漂う作風が特徴。 1907年5月6日、函館区鶴岡町(現・函館市大手町)で書画骨董などを商っていた父・美登利、母・キクの六男(男6人女1人の末子)として生まれるが、同年8月25日の函館大火で生家は丸焼けになり、その後は住居を転々としつつ1914年には宝小学校に入学する。1916年8月2日の函館大火でも罹災し、両親と1人の兄と4人とで小樽区山田町(現・小樽市山田町)へ移住した。 1924年に小樽区立堺尋常小学校(現・小樽市立堺小学校)高等科を卒業して上京。
松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2… 松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2001年10月25日)は、日本の作曲家、ピアニスト。 子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれる。母の治子は公爵徳大寺実則の四女。大叔父に内閣総理大臣西園寺公望がいる。 学習院初等科から暁星中学校に進む。16歳のとき生家が没落し、久堅町の邸宅を手放すことを余儀なくされ、父と別居した母に伴われ、妹とともに青山に仮寓。一高入試に失敗して2年間の浪人ののち、慶應義塾大学文学部仏文科に進む。国立音楽学校に転学したが1年ほどで慶應義塾大学に戻り、叔母の学資援助により、大学時代からピアノをチャーレス・ラウトロプに、和声学と対位法と楽式論をハインリヒ・ヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事。
仁戸田 六三郎(にえだ ろくさぶろう、1907年(明治40年… 仁戸田 六三郎(にえだ ろくさぶろう、1907年(明治40年)5月5日 - 1981年(昭和56年)4月2日)は、昭和時代の宗教哲学者、文学博士、早稲田大学名誉教授。 日本統治時代の台湾の台北にて生まれる。仁戸田家は佐賀藩士で、千葉氏の一族の末裔であった。1920年、不入斗尋常小学校を卒業。1925年、正則中学校を卒業。1928年、早稲田大学附属第二早稲田高等学院文科を卒業。1931年、早稲田大学文学部哲学科西洋哲学専攻を卒業後の1932年から同大学の非常勤講師となる。 1943年より助教授となり、1948年から1978年まで教授を務め宗教哲学の講義を行った。定年後に名誉教授となった。文化学院や駒沢大学、明星大学の講師も務めた。
浜島 昇(はまじま のぼる、1907年5月5日 - 1963… 浜島 昇(はまじま のぼる、1907年5月5日 - 1963年9月17日)は、日本光学工業(現ニコン)社長。長野県出身。 1930年に東京帝国大学法科に卒業し、日本光学工業に入社した。 1941年1月に取締役に就任し、1963年5月には社長に就任。 1963年9月17日に肺臓癌のため在職中のまま死去。56歳没。
長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 197… 長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 1977年4月9日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京教育大学名誉教授。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校卒業。 1928年下諏訪尋常高等小学校(現・下諏訪町立下諏訪南小学校)代用教員。東京文理科大学(現・筑波大学)教育科卒業。1932年山梨県女子師範学校教諭。1936年和歌山師範学校教諭。1941年静岡師範学校教諭、同附属国民学校(現・静岡大学教育学部附属静岡小学校)主事。1945年応召により中国へ出征。 1947年文部省(現・文部科学省)教科書局に入省、同局小学校社会科主任、文部事務官 。
吉田 孝吉(よしだ たかよし、1907年 <明治40年> 5… 吉田 孝吉(よしだ たかよし、1907年 <明治40年> 5月5日 - 1982年 <昭和57年> 6月17日)は、日本の銀行家。岩手銀行頭取を務めた。位階は従五位。 岩手県出身。1929年に福島高等商業学校を卒業し、同年に盛岡銀行 (のちの岩手銀行) に入行。 1948年に取締役に就任し、1950年11月に常務、1968年4月に専務を経て、1973年11月には頭取に就任。1977年12月に会長に就任。 1978年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1982年6月17日白血病のために死去。75歳没。死没日付をもって正七位から従五位に進階した。
小口 優(おぐち まさる、1907年5月5日 - 1970年… 小口 優(おぐち まさる、1907年5月5日 - 1970年1月4日)は、日本のドイツ文学者。 栃木県烏山町出身。1930年早稲田大学文学部独文科卒。第一早稲田高等学院教授をへて、早大教授。18世紀ドイツ文学が専門で、ヘルダーリン、ゲーテなどの研究や翻訳をおこない、グンドルフを日本に紹介した。
岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年… 岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年〉5月4日 - 1971年〈昭和46年〉1月20日)は、昭和期の実業家、政治家。岡崎財閥の2代目総帥岡崎忠雄の長男。義父に大谷尊由。 兵庫県出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学経済学部を1932年(昭和7年)に卒業し鐘紡、岡崎汽船を経て、神戸海上運送火災保険に入社した。同社取締役を歴任して、昭和19年(1944年)3月、戦時経済・金融統制の下、横浜火災海上保険、共同火災海上保険、朝日海上火災保険(楽天損害保険との旧社名と同じだが無関係)と4社が合併して誕生した、同和火災海上保険の新社長に就任した。 戦後は、東京衡機製造所、日豊海運など岡崎家系列の企業の社長や、日本航空、日本テレビ、東洋パルプなどの取締役、1955年(昭和30年)から1964年(昭和39年)に掛けて神戸商工会議所会頭を務めたのに加え、日本商工会議所副会頭も歴任した。
大江 巳之助(おおえ みのすけ、本名:大江 武雄、1907年… 大江 巳之助(おおえ みのすけ、本名:大江 武雄、1907年(明治40年)5月4日 - 1997年(平成9年)1月24日)は、徳島県鳴門市出身の人形製作者。撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)中退。 2009年現在、文楽で用いられている人形の首(かしら)の大部分は彼が製作したものである。 板野郡大津村大代(現鳴門市大津町大代)の人形師の二男として生まれる。1930年(昭和5年)に人形師見習いとして大阪文楽座に入る。同年8月に美之助(のちに巳之助)四代目大江巳之助を襲名。 1969年に学術功労者として徳島県知事表彰、1971年に紫綬褒章、1974年に第十回キワニス文化賞、1976年に吉川英治文化賞、徳島県文化賞、1982年に勲四等瑞宝章、1988年に文楽協会功労者表彰、1990年に国際ソロプチミスト千嘉代子賞、第三回文化庁長官賞、鳴門市市民栄誉賞など、数々の賞を受賞している。
森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日… 森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1999年〈平成11年〉3月13日)は、日本の作家。 岩手県盛岡市出身。本名:森 佐一(もり さいち)。旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科中退。岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家。宮沢賢治と深い親交があり、賢治作品や賢治に関する文章を多く残している。 妹の夫である大村次信(写真家大村次郷、考古学者大村幸弘の父)は、盛岡藩で火業師(砲術師)をつとめ、エトロフ島事件に遭遇しロシア人の捕虜となった大村治五平の子孫にあたる。その縁から、大村家で門外不出の書として伝えられていた治五平の手記『私残記』を託され、1943年6月に現代語訳と解説をつけて大和書店より翻刻出版した。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993… 藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993年5月6日)は、日本の日本史学者。
野上 俊静(のがみ しゅんじょう、1907年5月3日 - 1… 野上 俊静(のがみ しゅんじょう、1907年5月3日 - 1994年10月7日)は、日本の仏教学者。大谷大学教授・同学長を歴任。勲三等瑞宝章受章。 1907年、福岡県生まれ。大谷大学文学部史学科を卒業。大谷大学教授を経て、1967年から1969年まで第18代大谷大学学長を務めた。 専門は中国仏教史(遼・金・元の征服王朝時代)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
鹿島 俊雄(かしま としお、1907年5月2日 - 1995… 鹿島 俊雄(かしま としお、1907年5月2日 - 1995年11月4日)は、日本の歯科医師、政治家。郵政大臣(第34代)参議院議員(3期、自由民主党)。東京歯科大学理事長、日出学園理事、医学博士。 1933年、東京歯科医学専門学校を卒業。 1959年、日本歯科医師連盟をバックにして全国区から第5回参議院議員通常選挙に立候補し当選。1963年、科学技術政務次官に就任。その後1965年、1971年の参院選でも全国区で当選した。1974年11月、第2次田中角栄第2次改造内閣の郵政大臣として初入閣。しかし、この内閣は田中金脈問題で28日後に総辞職をし、鹿島はその後再入閣することがなかったため、わずか29日間しか閣僚を経験することができなかった。
樫山 欽四郎(かしやま きんしろう、1907年〈明治40年〉… 樫山 欽四郎(かしやま きんしろう、1907年〈明治40年〉5月1日 - 1977年〈昭和52年〉8月7日)は、日本の哲学者。元早稲田大学文学部教授。研究対象は、ドイツ近世哲学・実存哲学。 長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、早稲田大学文学部哲学科卒。同助教授、1949年教授。早稲田大学高等学院長、第二文学部長、第一文学部長を経て大学院文学研究委員長に就任。 ヘーゲル研究で知られ1951年ヤスパース協会、1957年実存主義協会設立に参画、理事を務めた。1960年「ヘーゲル精神現象学の研究」で文学博士。また1969年早大野球部長に就任、東京六大学野球連盟理事、日本学生野球協会理事を務めた。
杉山 誠(すぎやま まこと、1907年(明治40年)5月1日… 杉山 誠(すぎやま まこと、1907年(明治40年)5月1日 - 1968年(昭和43年)12月30日)は、日本の演劇評論家、翻訳家。 東京出身。東京帝国大学文学部卒。新関良三に師事。戦前は尾上菊五郎劇団文芸部長、戦時中は1943年召集されて南方に赴き、将校として芝居を上演したことは、部下だった加東大介の『南の島に雪が降る』に杉山大尉(マノクワリ守備隊司令部)と実名で描かれている。 戦後は俳優座付属俳優養成所主事・共立女子大学文芸学部教授。イプセンなどの近代戯曲を翻訳・紹介、新聞に歌舞伎評も書いた。妻は尾上菊子(きくし)の名で菊五郎に師事していたが戦時中死去。 1968年12月30日、劇団民芸稽古場での年忘れパーティで、スピーチのさなかに心筋梗塞で倒れ、死去。
南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月… 南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。南家商事社長。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)出身。父は南家清一。鳥取県信用組合理事長、境港市監査委員会委員、境港商工会議所副会頭、鳥取県中小企業団体中央会理事などをつとめる。住所は境港市外江町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993… 鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993年2月18日)は、日本のプロレタリア作家、政治家。 秋田県平鹿郡旭村(現・横手市)出身。横手中学から山形高等学校へ進学するも社会運動にかかわって中退。 山形高校在学中に紺野与次郎らとともに社会主義運動に入る。その後上京し、東京合同労組書記などを経て職工になる。1929年、四・一六事件に連座し逮捕される。ほどなくして創作活動に入り、『監房細胞』(1931年)などの小説を著し、日本プロレタリア作家同盟の秋田支部を結成して活動した。作家同盟解散後も創作活動を続けたが、1940年には東北農業研究所を設立、農村での改良運動にかかわる。 第二次世界大戦後は政治活動も行い、1946年には旭村の村長職もつとめた。
中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月2… 中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が脳膜炎により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。
赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1… 赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1979年1月24日)は、日本の歴史学者。北海道旭川市出身。 北海道鷹栖村(現旭川市)の真宗大谷派の寺院光岸寺に次男として生まれる。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部史学科に進み、三浦周行・西田直二郎・中村直勝らに学ぶ。同期に清水三男がいる。卒業論文として「室町幕府の統制意識に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部史学科卒。 京都府嘱託・主事として、府下の社寺宝物や史跡の調査に従事。1949年京都府教育委員会文化財保護課の初代課長。東寺百合文書のうち、東寺にて放置されたままであった文書群の存在を確認してその解読にあたり、その成果を「東寺百合文書」として発表する。
木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4… 木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4月28日 - 1999年 <平成11年> 9月20日)は、日本の哲学者。ドイツ哲学を専攻。東北大学名誉教授。位階は正四位。 富山県小矢部市出身。1932年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1962年「ヘーゲル宗教哲学の研究 特に宗教的意識と哲学的思惟との関係について」で東北大学文学博士。東北大学文学部教授。1971年定年退官、名誉教授、大谷大学教授を務めた。 1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 父・木場了本は第四高等学校で西田幾多郎の教えを受けた後、1911年東京帝国大学文学部哲学科卒、京都で大谷大学の教授を勤め、後郷里金沢に帰って第四高等学校の教授となった。
斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 199… 斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 1997年11月14日)は、日本の木版画家。文化功労者(1995年)。 独学で独自の木版画技法を確立。浮世絵版画の技法や西洋作家の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した。安井曽太郎の木版に魅せられ、版画を研究した。版画の他に油彩や水墨画も数点残している。 やないづ町立斎藤清美術館などのほか、斎藤と生前親交があったアメリカ人美術商ノーマン・H・トルーマンが斎藤の作品を約3,000点収集している。一部は東京の渋谷ヒカリエで2018年12月に公開された。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
生野 初子(いくの はつこ、1907年〈明治40年〉4月27… 生野 初子(いくの はつこ、1907年〈明治40年〉4月27日 - 1967年〈昭和42年〉)は、日本の女優である。本名は出生名が生野 静子(いくの しずこ)、俳優の高木新平と結婚して高木 静子(たかぎ しずこ)となった。 1907年4月27日、福岡県浮羽郡吉井町(現在の同県うきは市吉井町)に「生野静子」として生まれる。 満12歳になる1919年(大正8年)に女歌舞伎の一座に入団し、熊本市内にあった旭座で初舞台を踏む。1924年(大正13年)1月、京都のマキノ映画製作所等持院撮影所に入社、阪東妻三郎主演、寿々喜多呂九平脚本、後藤秋声監督のサイレント映画『山猫の眼』に阪東の相手役として出演し、「生野初子」の名で映画界にデビューした。
多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907年4月27日 - 200… 多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907年4月27日 - 2008年4月6日)は、阿波踊りのおはやし「阿波よしこの」の歌い手である。 また、お鯉さんの名で伝統文化の継承と「よしこの」の普及に貢献し続けた。 徳島県徳島市富田町出身。徳島市名誉市民。とくしま市民遺産選定。 日本コロムビア大阪支社、ポリドール・レコードに所属していた。2006年に『お鯉〜唄声は時代を超えて〜』のCDが発売され、2007年には徳島県民栄誉賞を受賞し、自身が目標としていた「100歳での現役よしこの歌手」を実現する。 2008年4月6日6時40分、老衰のため死去。享年102(100歳没)。晩年は公演時に車椅子で移動する姿が多くみられていた。
仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-199… 仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-1995年2月14日)は、日本の教育者、言語学者、琉球大学名誉教授。
山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月… 山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月26日 - 1988年〈昭和63年〉5月7日)は、日本の文芸評論家。本名は石橋 貞吉(ていきち)。俳句批評から出発し、古典から現代文学まで幅広く追究。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。昭和を代表する文芸評論家の一人である。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。著書に『現代俳句』(1951年)、『古典と現代文学』(1955年)、『いのちとかたち』(1981年)など。 文芸評論家石橋忍月の三男。最初の妻は俳人の石橋秀野。なお秀野の妹は漫画家の清水崑の妻である歌人の清水恒子。俳文学会、日中文化交流協会、日本ペンクラブ、各会員。
山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月2… 山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月25日 - 1996年〈平成8年〉5月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。妻は、児童文学作家で翻訳家の山本藤枝。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 福井県遠敷郡松永村門前(現小浜市)で、山本文雄の長男として生まれる。旧制小浜中学校卒業。中学時代より詩作を始め、1926年(大正15年)東洋大学専門学部倫理学東洋文学科に入学、1929年(昭和4年)に卒業した。在学中に乾直恵、白井一二らと『白山詩人』同人となり赤松月船、勝承夫、大村主計と詩を発表し、処女詩集『仙人と人間との間』を創刊し活躍した。 1932年(昭和7年)三省堂編集部に勤めながら文学活動を続け、1935年(昭和10年)には同人誌『星座』に参加、同誌に連載した『国木田独歩ノート』で全国同人誌クラブ賞受賞。
安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980… 安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980年3月2日)は、日本の国際法学者、平和運動家。法政大学名誉教授、国際法学会幹事長、原水爆禁止日本協議会(原水協)初代議長。 大阪府門真市出身。大阪市立生魂小学校時代の同級生に作曲家の服部良一がいた。 国際法専攻。戦前期はモーゲンソーの影響を受ける。第二次世界大戦中には東京帝国大学法学部教授として、田畑茂二郎(京都帝大)とともに、「大東亜国際法」を提唱した。しかしこのことをもって1947年占領軍により戦争協力とみなされ、1948年に東大を公職追放となる。神奈川大学教授を経て法政大学教授に就任した。 1954年3月1日のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆事件を契機に、同年5月9日、東京都杉並区の婦人団体、福祉協議会、PTA、労組など39人は「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成した。
巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 … 巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 - 2023年〈令和5年〉12月12日)は、大阪府柏原市在住だった長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。2022年4月19日から死去するまで長寿日本一であった。 1907年4月25日、6人兄弟の次女として八尾町(現在の大阪府八尾市)に生まれる。桃やブドウを育てる農家の夫と32歳の時に結婚。3人の子供に恵まれた。結婚前は華道や茶道を習い、生け花が得意で、106歳までは自宅の玄関に生けた花を飾り、庭では菊を育てていた。みたらしやぜんざいなど甘い物が大好きであった。 2013年、柏原市の特別養護老人ホーム「はくとう」に入所する。入所時は車いすに乗ったまま体操するなど元気だったという。
鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 19… 鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 1985年5月28日)は、兵庫県出身の日本の建築構造学者。工学博士(京都帝国大学)。大阪大学名誉教授。日本建築学会元副会長。武田五一の教え子で、構造学の研究に関する業績を残している。 ついても先駆的な業績を残した。このような実践を通し、構造力学という純粋で厳密な学問の大切さとともに実務に密着する鋼構造学の設計・施工の実態を踏まえた地道な技術者教育とその基礎にある人間教育がすべての根源であるとの認識を固めたように思われている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小出 武(こいで たけし、1907年4月24日 - 2007… 小出 武(こいで たけし、1907年4月24日 - 2007年1月6日)は日本の地理学者。 旧制東京文理科大学卒業。信濃教育会研究所主任、長野県立高校教諭、本州大学(現・長野大学)教授、1969年から1972年まで学長代行を務めた。理学博士(東京教育大学)。元長野県地理学会会長。勲四等旭日小綬章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月2… 8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京府東京市本郷区壱岐殿坂出身の落語家、喜劇役者。本名∶岩田 喜多二。旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。 父は6代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。 1917年には5代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進。この時睦ノ太郎、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される。 1928年には父の6代目助六が睦会を脱退し独立した際、自身は睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。
渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 20… 渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 2000年7月21日)は、日本の写真家である。 戦前はライカなどの小型写真機を駆使したスナップ写真で著名となった。フリーランスとなってからは、対外宣伝グラフ誌『NIPPON』に参加。また国際文化振興財団や木村伊兵衛らの中央工房に関係した国際報道写真協会で活躍。報道写真家の草分けとなる。戦後には大型カメラを使用する建築写真界の第一人者、そして優れた写真教育者となった。写真家としては日本で最初の文化功労者。三条市名誉市民。 新潟県南蒲原郡三条町(現在の三条市)に呉服商の家に生まれる。1925年小西写真専門学校(のちの東京写真専門学校)に入学。在学中より『写真月報』に作品を発表。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991… 河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991年2月11日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。静岡大学名誉教授。 愛知県知多郡内海町(現・南知多町)出身。第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学仏文科卒業。徳川義忠(尾張徳川家・分家)の家庭教師を務め、31年草村北星の龍吟社に入る。32年藤山工業図書館勤務、38年財団法人東亜研究所(近衛文麿総裁)に入り調査員となる。戦後の47年広島文理科大学および広島高等師範学校講師、48年静岡高等学校教授、49年静岡大学文理学部教授、54年図書館長、62年文理学部長、65年改組により初代人文学部長、67年東京教育大学教授、71年定年退官、静大名誉教授、72年白百合女子大学教授、78年定年退職。
安部 三史(あべ さんし、1907年4月20日 - 1993… 安部 三史(あべ さんし、1907年4月20日 - 1993年11月5日)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。元北海道医療大学学長。 北海道出身。1933年(昭和8年)北海道帝國大學医学部卒業後、同医学部助手。1941年(昭和16年)帯広高等獣医学校講師に就任。帯広獣医畜産専門学校講師を経て1946年(昭和21年)北海道大学医学部講師。その後、同医学部助教授。1956年同教授。1963年同医学部長。1967年北海道大学歯学部教授となり、同歯学部長。1970年北海道大学停年退官。同名誉教授。北星学園大学文学部社会福祉学科教授。1974年東日本学園大学薬学部教授。1977年東日本学園大学2代学長に就任。
松浦 東介(まつうら とうすけ、1907年(明治40年)4月… 松浦 東介(まつうら とうすけ、1907年(明治40年)4月18日 - 1964年(昭和39年)3月6日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員。 山形県東村山郡成生村(現在の天童市)大字大清水に生まれる。1926年、山形県立寒河江中学校を卒業。山形県会議員、同参事会員を務めた。1942年の翼賛選挙では山形1区(当時)から大政翼賛会の推薦を受けずに立候補したため落選した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で山形選挙区から出馬して当選。以後、23回、24回、25回、27回、29回、第30回総選挙で当選し、衆議院議員を通算7期務めた。 この間、日本自由党、民主自由党、自由党、日本民主党、自由民主党に所属。
小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 … 小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 - 没年不明)は日本の数学者、教育学者。鳥取大学教授。 鳥取県境港市竹内町出身。 昭和7年(1932年)京大卒。朝鮮元山公立中学校、鳥取二中各教諭、鳥師教授を経て鳥取大学学芸学部教授。 趣味は俳句。宗教は禅宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 199… 伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 1992年4月4日)は、日本の植物研究家である。サボテンの交配や研究を行い、サボテンに関する多くの著作を行った。 山口県宇部市に生まれた。旧制中学卒業後、独学でサボテンの研究を行った。1952年、中井猛之進の推薦で「南米産サボテンの新分類法」の学位請求論文を提出した。1957年の『サボテン図説 南米物サボテンの分類』はドイツのサボテン研究家で、網羅的なサボテンの事典を作ったドイツのクルト・バッケベルクの著書『サボテン科』("Die Cactaceae: Handbuch der Kakteenkunde")に引用された。新種のサボテン450種を作出し、200以上のサボテンの属や1000以上の種の命名をおこなった。
権 泰郁(クォン・テウク、朝鮮語: 권태욱/權泰郁、1907… 権 泰郁(クォン・テウク、朝鮮語: 권태욱/權泰郁、1907年4月17日または1910年10月15日 - 1981年6月11日または6月12日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、大韓民国の政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 慶尚北道安東郡出身。東京麻布中学校、中央大学予科・法学部卒。中央大学在学中に反日運動により収監されたことがある。卒業後は東京で歯科材料商を営んだほか、貧民救済事業を従事した。光復後は馬山工科学館長、馬山帰還同胞会長を務めた。1948年の初代総選挙で国会議員に初当選し、国会で米国へ渡航しようとした徐載弼を慰留した。第2代国会議員在任中に舌禍事件により30日間の出席停止処分を受けた。
五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(… 五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(明治40年)4月17日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、歌舞伎役者・俳優。俳名は橘丈。屋号は豊島屋。本名は寺田勝次。 曾祖父は二代目嵐璃珏。四代目嵐芳三郎の子。 東京の上野の生まれ、本郷元町尋常小学校卒業。1914年に三代目嵐市太郎の名で本郷座で初舞台。五代目市川鬼丸(後の三代目尾上多賀之丞)の部屋子になり、1921年に市村座に参加。1927年6月に五代目嵐芳三郎を襲名。1944年に前進座に参加。女形、二枚目を得意とし晩年は老け役に徹した。 1954年に文部省芸術祭奨励賞受賞。 墓所は台東区一乗寺にある。戒名は「前勝院技能日芳居士」。