大嶺 政寛(おおみね せいかん、1910年(明治43年)2月… 大嶺 政寛(おおみね せいかん、1910年(明治43年)2月10日 - 1987年(昭和62年)12月20日)は、沖縄県出身の洋画家。昭和時代の戦前戦後にわたって沖縄の原風景を描き、「赤瓦屋根の政寛」と称された。沖縄民芸協会会長を務めた。 那覇市久米町生まれ。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)在学時に、比嘉景常の薫陶を受けて西洋画を志す。1929年(昭和4年)沖縄県立第二中学校を卒業後、沖縄県師範学校本科二部に進み、1930年(昭和5年)に卒業する。以後、那覇尋常小学校や那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)、沖縄県立第一高等女学校等で教鞭を執る。 1933年(昭和8年)、第10回春陽会展に入選。
北川 静二(きたがわ せいじ、男性、1910年2月9日 - … 北川 静二(きたがわ せいじ、男性、1910年2月9日 - 1997年4月19日)は、日本のフィギュアスケート選手(シングル)。指導者。滋賀県出身。1935年全日本フィギュアスケート選手権優勝。 八幡商業学校卒。銀行勤務の傍らフィギュアを始め、1933年関西フィギュアスケート選手権大会で優勝。 1935年度の第7回全日本選手権では、前回王者・片山敏一のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック参加による欠場はあったものの、見事優勝を果たす。 また、妻の政子をパートナーに、日本アイスダンスの草分けとしても知られた。 戦後は京都府スケート連盟初代会長・日本スケート連盟理事・国際公認審判員などを務める傍ら、政子とともに後進育成に尽力する。
板原 伝(いたはら つたえ、1910年(明治43年)2月8日… 板原 伝(いたはら つたえ、1910年(明治43年)2月8日 - 1984年(昭和59年)11月7日)は、昭和時代の政治家。農民運動家。高知県土佐市長。 板原信衛、うまの二男として高知県高岡郡高岡町(現土佐市)に生まれる。高岡町高等小学校を中退し、農業に就いた。小作農家として楮加工、養蚕に従事した。 1929年(昭和4年)高知県穀物検査の制度化に反対し、農民運動を進め、制度は廃案となる。その後、岡崎精郎を委員長とする全国農民組合県支部、高東地区で兄の板原正気、西原貞らと共に激しい農民運動を展開した。 1945年(昭和20年)戦後の農民開放指令、農地改革となり、1946年(昭和21年)農民組合が新たに発足し農地改革推進の中心的役割を担うようになる。
今井 繁三郎(いまい しげさぶろう、明治43年(1910年)… 今井 繁三郎(いまい しげさぶろう、明治43年(1910年)2月7日 - 平成14年(2002年)1月9日)は、日本の画家。羽黒町名誉町民(現:鶴岡市名誉市民)。 羽黒町(旧泉村)戸野に生まれる。 旧制鶴岡中学(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業後、上京。創作に励む傍ら、美術雑誌の編集長を務める。また太平洋戦争の最中には、従軍画家として諸国を巡った。戦後、帰郷。美術団体「白甕社(はくおうしゃ)」の代表を長年務め、庄内の芸術振興や後身の指導に尽力した。 具象、抽象を織り交ぜた奔放な画風で知られ、晩年まで旺盛に創作を続けた。 1990年に鶴岡市山王町にあった豪商の土蔵を買い取り、自作を常設展示する今井繁三郎美術収蔵館を自宅庭に開館した。
橋本 正一(はしもと しょういち、1910年2月6日 - 1… 橋本 正一(はしもと しょういち、1910年2月6日 - 1978年7月21日)は、日本の経営者。東京都出身。 1934年に東京帝国大学工学部機械学科を卒業。 日本国有鉄道での勤務を経て、1960年5月に近畿車輛常務に就任し、1966年5月に専務を経て、1970年5月から1978年6月までに社長を務めた。 1978年7月21日胃ガンのために死去。68歳没。
根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)… 根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)2月5日 - 2001年(平成13年)7月17日)は、昭和から平成時代の陸水学者、藻類学者。特に珪藻学の分野における貢献で知られる。 和歌山県那賀郡池田村(現・紀の川市打田)の豪農の長男として生まれる。和歌山県立和歌山中学(現・ 和歌山県立桐蔭高等学校)、東京高等師範学校理科三部を経て、東京文理科大学生物学科植物学専攻に入学する。1934年(昭和9年)同大学を卒業と同時に母校の助手となり、1944年(昭和19年)東京高等師範学校教授、1946年(昭和21年)東京文理科大学助教授となる。その後、1948年(昭和23年)11月に大津臨湖実験所(現・京都大学生態学研究センター)に異動する。
大塚 喜一郎(おおつか きいちろう、1910年(明治43年)… 大塚 喜一郎(おおつか きいちろう、1910年(明治43年)2月5日 - 1988年(昭和63年)8月26日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事、学校法人中央大学理事長。京都府舞鶴市出身。 三高に入ったが、寮に門限をつけることに反対して、ストライキ実行委員長をしてストライキに入り、警察に拘束されて放校処分となり、1934年(昭和9年)に中央大学法科を卒業。1935年(昭和10年)9月に高等文官試験司法科に合格し、同年12月に弁護士登録。 堀江専一郎法律事務所に勤務後、1939年(昭和14年)に大塚法律事務所を開設する。1959年(昭和34年)4月に日弁連事務総長、1961年(昭和36年)3月に法学博士、司法研修所教官、1970年(昭和45年)4月に第一東京弁護士会会長に就任。
三輪 壽雪(みわ じゅせつ、1910年(明治43年)2月4日… 三輪 壽雪(みわ じゅせつ、1910年(明治43年)2月4日 - 2012年(平成24年)12月11日)は、日本の陶芸家。第11代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。位階は従五位。本名は節夫。 山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。1927年旧制萩中学校卒業後、兄である十代休雪(隠居後は休和)を助けながら伝統技法を学んだ。1941年に三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込み、召集令が出された1944年以外は作陶の手を休める事はなかった。 1955年に雅号を「休」と称し作家活動を開始。
平塚 勝一(ひらつか かついち、1910年(明治43年)2月… 平塚 勝一(ひらつか かついち、1910年(明治43年)2月4日 - 1983年(昭和58年)10月29日)は、昭和期の地方公務員、政治家。埼玉県所沢市長。 所沢市出身。1933年(昭和8年)海軍経理学校修了。1948年(昭和23年)所沢町役場に就職。所沢市収入役、助役を経て、1967年(昭和42年)所沢市長に当選し、4期在任した。市長在任中の1983年(昭和58年)10月29日、肝硬変のため73歳で死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
高橋 清一郎(たかはし せいいちろう 1910年2月3日 -… 高橋 清一郎(たかはし せいいちろう 1910年2月3日 - 1972年10月29日)は、衆議院議員を5期務めた日本の政治家である。 1910年(明治43年)2月、新潟市に生まれる。私立新潟夜間中学校、高検を経て新潟高等学校卒業。1936年(昭和11年) 京都帝国大学法学部卒業。 1937年(昭和12年)、南方に出征。 1947年(昭和22年)、新潟県議会議員・新潟市議会議員。1958年(昭和33年)5月、第28回衆議院議員総選挙で新潟1区初当選(無所属)し、以後5期連続で務める。 1964年(昭和39年)7月、第3次池田改造内閣防衛政務次官。同年11月、第1次佐藤内閣防衛政務次官。1967年(昭和42年)11月、第2次佐藤第1次改造内閣郵政 政務次官。
角田 三男(かくた みつお、1910年2月2日 - 1985… 角田 三男(かくた みつお、1910年2月2日 - 1985年5月6日)は、将棋棋士。棋士番号13。鳥取県西伯郡岸本町(現・伯耆町)出身。木見金治郎九段門下。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
野中 到(のなか いたる、1910年2月1日 - 1989年… 野中 到(のなか いたる、1910年2月1日 - 1989年7月22日)は、日本の原子物理学者で、東京大学の原子核研究所長も務めた。 新潟県長岡市出身。1933年東京帝国大学理学部物理学科卒業。1944年「速い中性子の散乱について(英文)」で東大理学博士。東芝電気中央研究所、1950年九州大学理学部助教授、教授、1961年東京大学教授兼原子核研究所長。1971年定年退官、名誉教授、千葉大学教授。1975年定年退官。原子核やX線の研究をした。1982年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
河野 金昇(こうの きんしょう、1910年2月1日 - 19… 河野 金昇(こうの きんしょう、1910年2月1日 - 1958年3月29日)は、日本の政治家、愛知県選出の衆議院議員。海部俊樹の師匠として知られている。 東京都出身。幼少時に足を負傷し、治療が不十分であったために障害が残った。金昇の親は、障害者となった息子を不憫に思い、兄弟の中で金昇だけを大学に進学させてあげたという。1933年(昭和8年)早稲田大学専門部を卒業する。その後、政治を志し、大学の先輩に当たる中野正剛の門下となり、中野が主宰する東方会に入る。1942年(昭和17年)の総選挙(いわゆる翼賛選挙)において地元愛知県から東方会(翼協非推薦)で立候補するが、落選した。1943年(昭和18年)中野が東條英機内閣を「戦時宰相論」で批判すると、10月に東方会の同志共々、特高に検挙され、中野は自刃するという悲運に見舞われた。
北川 政夫(きたがわ まさお、1910年2月 - 1995年… 北川 政夫(きたがわ まさお、1910年2月 - 1995年8月4日)は、日本の植物学者である。戦前は中国東北部の植物を研究した。 旧満州の大連市に生まれた。東京帝国大学の植物学科を卒業した。大陸科学院研究官を務め、標本を収集し、地域植物誌をまとめ、中国東北部の植物相を明らかにするとともに、多くの新種植物の記載を行った。ボウフウ(Saposhnikovia seseloides auct. non (Hoffm.) Kitag.)の記載などが含まれる。1947年から農林技術研究所、農業技術研究所で働き、1950年から横浜国立大学の教授となった。
猪原 淳三(いのはら じゅんぞう、1910年(明治43年)1… 猪原 淳三(いのはら じゅんぞう、1910年(明治43年)1月31日 - 没年不明)は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。 広島県に生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現在の広島大学附属中学校・高等学校)を経て、早稲田大学に進む。大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックにフィールドホッケーで出場、フォワードとして2試合をプレイし、銀メダルを獲得した。 1934年(昭和9年)、早稲田大学を卒業。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
秦 万紀子(はた まきこ、1910年1月30日 - 1965… 秦 万紀子(はた まきこ、1910年1月30日 - 1965年10月10日)は日本のファッションデザイナー、カラリスト。自らのコレクション発表と共に、日本各地で編物デザイナー養成をし、服飾編み物界の興隆に寄与した。1951年、財団法人白南風社 しらはえしゃ (1951-2009)を労働省の認可を得て設立。編物手芸にデザイン・色彩・製図 法の指導で付加価値を高めて提供をする授産事業を行い、第2次大戦による戦争未亡人の自立のために活躍した。1961年パリのサロン・デ・エトワール(SALONS DE L’ETOILE)にて「秦 万紀子コレクション」を開催し、パリ市会よりパリ名誉市民賞(AMI DE PARIS)を受賞。
加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 19… 加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 1989年6月5日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。
野上 素一(のがみ そいち、1910年1月29日 - 200… 野上 素一(のがみ そいち、1910年1月29日 - 2001年2月4日)は、日本のイタリア文学者・イタリア語学者。京都大学名誉教授。
加藤 静一(かとう せいいち、1910年1月29日 - 19… 加藤 静一(かとう せいいち、1910年1月29日 - 1989年12月5日)は、日本の医学者(眼科学)。 岐阜県岐阜市出身。旧制第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学医学部卒業。1943年旧制樺太医学専門学校眼科教授。1946年旧制松本医学専門学校教授、1948年旧制松本医科大学教授、1958年信州大学医学部附属病院長。1966年医学部長。1973年学長を歴任。1981年退官、同年江戸川女子短期大学学長に就任。1981年勲二等旭日重光章受章。エスペラント語の眼科教科書を出版した。
東條 猛猪(とうじょう たけい、1910年(明治43年)1月… 東條 猛猪(とうじょう たけい、1910年(明治43年)1月29日 - 1991年(平成3年)5月23日)は、日本の大蔵官僚、実業家。大蔵省銀行局長、北海道拓殖銀行頭取、北海道旅客鉄道初代会長を務めた。 高知県高知市出身。旧制高知高等学校を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省。専売局長官官房兼主計局属。1946年9月21日に主計局予算課長。1947年7月2日に主計局第一部長(大蔵、歳入、国会、裁判所、会計検査院、司法、外務、皇室、内閣、内務、地方財政、文部、厚生担当)。1948年7月5日に主計局第一部長(大蔵、歳入、国会、裁判所、会計検査院、司法、外務、皇室、内閣、内務、地方財政、文部、厚生担当)兼主計局第一部第二課長(国会、裁判所、会計検査院、司法、外務担当)。
井口 愛子(いぐち あいこ、1910年1月28日 - 198… 井口 愛子(いぐち あいこ、1910年1月28日 - 1984年12月1日)は、日本のピアノ教育家・ピアニスト。東京府東京市日本橋区(現東京都中央区)出身。本名は、佐藤愛子(旧姓:井口)。 とくに基礎教育が専門分野であった。 音楽之友社・新音楽辞典による。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
小川 由加里(おがわ ゆかり、1910年(明治43年)1月2… 小川 由加里(おがわ ゆかり、1910年(明治43年)1月28日 - 1981年(昭和56年)8月26日)は、日本の彫刻家。本名は、小川緑。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。高等小学校卒業後に指物師に入門。のちに自営独立し、1936年には知人に依頼されて木彫の聖観音像を制作。1937年元陸軍中将市瀬源助により蓼科高原横谷渓谷に護国の霊地を築くこととなり、金沢国有林の原木から斎戒沐浴半年かけて横谷観音堂『横谷聖観世音菩薩』像を制作し奉納鎮座された。1938年に上京して日本美術学校(のちの日本美術専門学校)に入学。池田勇八、吉田久継、岡野聖雲らに師事。1939年の第3回文展に『胸像』を出品して初入選。
川井 英良(かわい ひではる、1910年1月27日 - 19… 川井 英良(かわい ひではる、1910年1月27日 - 1997年2月14日)は日本の司法官。
阪田 泰二(さかた たいじ、1910年1月27日 - 196… 阪田 泰二(さかた たいじ、1910年1月27日 - 1968年10月7日)は、日本の大蔵官僚。
梁 炳日(ヤン・ビョンイル、朝鮮語: 양병일、1910年1月… 梁 炳日(ヤン・ビョンイル、朝鮮語: 양병일、1910年1月27日 - 1962年9月5日)は、大韓民国の弁護士、政治家。第2・5代韓国国会議員。 本貫は南原梁氏(朝鮮語版)。 全羅南道康津郡出身。中央大学法学部卒。高等文官試験司法科に合格した後は東京で弁護士を務め、東京弁護士会に所属した。帰国後は光州弁護士会会長、朝鮮弁護士会全羅南道支部長、大同青年団光州支団部副団長、大韓青年団光州市団長、韓国青年団光州市団長、民主党全南道党委員長を歴任した。1950年の第2代総選挙に康津郡選挙区から民主国民党所属で出馬して当選し、1960年の第5代総選挙に同選挙区から民主党所属で出馬して当選した。 1962年9月5日に聖母病院にて脳溢血により死去。
村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 200… 村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 2000年11月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授、元兵庫医科大学医学部教授。学位は、医学博士。 西丸四方、島崎敏樹らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。1964年には日本精神病理・精神療法学会を創設し、後に京都学派と呼ばれる多くの精神医学者を輩出した。フランス留学時にはジャネの心理学体系を学び、ウジェーヌ・ミンコフスキー、ルートヴィヒ・ビンスワンガー、メダルト・ボスなどの人間学的理解に加えて、ジークムント・フロイトの精神力動的視点から患者の精神構造の理解を試みた。
佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 19… 佐藤 哲三(さとう てつぞう、1910年1月26日 - 1954年6月25日)は、日本の洋画家。新潟県長岡市に生まれ、新発田市で生涯を過ごす。蒲原平野や農民などを主なモチーフとし、郷土に根ざした作品を制作した。1954年、白血病で死去。 1910年(明治43年)1月26日、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に新発田藩士の末裔である父、佐藤英雄、母、菊乃との間に五人兄弟姉妹の三男として生まれる。父親は哲三の出生後まもなく台湾へ渡る。その翌年、母親は哲三とその兄姉を連れて新発田市に移転。1914年、哲三は脊椎カリエスを患い、背骨に障害を負う。1916年に父親が帰国、一家は新発田上町に移転し、書画骨董店『十万堂』を開業する。
赤松 勇(あかまつ いさむ、1910年〈明治43年〉1月25… 赤松 勇(あかまつ いさむ、1910年〈明治43年〉1月25日 - 1982年〈昭和57年〉8月30日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(11期)。 長男は元衆議院副議長の赤松広隆。 兵庫県朝来郡和田山町(現朝来市)生まれ。聴講生として早稲田大学で学び中央大学で履修する。在学中の1926年(大正15年)、労働農民党に入党する。1931年(昭和6年)、日本労働組合総評議会に参加し中央委員になる。1937年(昭和12年)の人民戦線事件で逮捕されて4年間入獄する。 1945年(昭和20年)、日本社会党の結成に参加する。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で初当選を果たした。
小幡 謙三(おばた けんぞう、1910年1月24日 - 19… 小幡 謙三(おばた けんぞう、1910年1月24日 - 1992年5月9日)は、日本の経営者。石川県出身。 1933年に京都帝国大学法学部を卒業し、旭ベンベルグ絹糸での勤務を経て、1947年3月に旭化成工業取締役に就任し、その後は常務、専務を歴任した。 1965年12月に積水化学工業顧問に就任し、1966年2月に社長に就任し、1971年5月に会長に就任した。 1972年5月にユニチカ社長に就任し、1974年3月から1977年3月までに会長を務めた。 1970年から1990年までに積水ハウス会長を務め、讀賣テレビ放送監査役も務めた。 1992年5月9日心不全のために死去。82歳没。
松山 彬(まつやま あきら、1910年 <明治43年> 1月… 松山 彬(まつやま あきら、1910年 <明治43年> 1月24日 - 1995年 <平成7年> 9月3日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。位階は従四位。 長崎県出身。1935年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、1939年に東亜燃料工業に入社。1959年に取締役を経て、1966年に副社長に就任し、1976年3月には社長に昇格。1986年3月に会長を経て、1988年3月から相談役を務めた。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1995年9月3日心不全のために死去。85歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
池田 禎治(池田 禎治、いけだ ていじ、1910年1月22日… 池田 禎治(池田 禎治、いけだ ていじ、1910年1月22日 - 1977年2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 福岡県田川郡香春町出身。上京し、東京府立第五中学に学ぶ。総同盟本部書記、社会民衆党書記などを経て、労働運動に加入した。その後、都新聞、読売新聞、時事新報の政治部記者から、時事新報政治部長となった。 戦後、日本社会党の結党に参加し西尾末広系の党内社会党右派に所属。片山内閣で内閣総理大臣秘書官と西尾末広国務大臣秘書官を務めた。福岡県小倉市(現在の北九州市小倉南区蜷田若園近辺)の県営アパートの一室を借りて、かなり手狭な社会党支部を開いている。1960年1月、民主社会党(後の民社党)結党に参加。
西垣 徳雄(にしがき とくお、1910年1月22日 - 19… 西垣 徳雄(にしがき とくお、1910年1月22日 - 1989年5月13日)は、兵庫県出身の野球選手。1950年発足の国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)初代監督。
篠島 秀雄(しのじま ひでお、1910年1月21日 - 19… 篠島 秀雄(しのじま ひでお、1910年1月21日 - 1975年2月11日)は、日本の実業家、サッカー選手。三菱化成工業(現在の三菱ケミカル)の社長などを歴任した。 栃木県上都賀郡日光町(現:日光市)出身。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校尋常科、東京高等学校高等科文科乙類を経て、1928年に東京帝国大学に入学。東京帝大ではア式蹴球部に入部して主将も務めた。また、在学中の1930年(昭和5年)に開催された第9回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場して優勝に貢献した。 1931年に東京帝国大学法学部を卒業して三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社。1941年3月、田邊五兵衛商店(現在の田辺三菱製薬)に転じて専務取締役に就任。
中村 浩(なかむら ひろし、1910年〈明治43年〉1月20… 中村 浩(なかむら ひろし、1910年〈明治43年〉1月20日- 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、日本の微生物学者。別名「うんこ博士」。「泉三三彦」名義の著書もある。 1910年、成蹊学園創立者・中村春二の次男として東京本郷富士前町で生まれた。1927年に旧制成蹊高等学校理科を卒業。東京帝国大学理学部植物学科で学び、1933年に卒業。 1942年、東京帝国大学理学部講師に就いた。1943年、ドイツ語執筆した学位論文『紅色細菌の代謝生理への寄与』を東京帝国大学に提出して理学博士号を取得。 戦後の1950年、九州大学理学部教授に就いた。その後、近畿大学教授に転じた。1959年、日本クロレラ研究所副所長。
高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 19… 高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 1998年6月2日)は、宮崎県生まれの詩人、政治家。 中原中也と親交が深かったことで知られる。旧制成城高等学校時代に後輩の吉田秀和と同居を始め、吉田のフランス語の家庭教師だった中也と知り合った。当時高森は21歳、中也は24歳だった。高森は同人誌「白痴群」などで発表されていた中也の詩をすでに読んでいたため、二人はすぐに仲良くなり、1932年5月には京都・奈良を二人で旅行。8月には山口県に帰省中だった中也を高森が訪問した後に二人で高森の実家の宮崎へと向かい、そのまま九州旅行をした。中也の死後も積極的に回想などを綴り、研究にも協力した。中也が藁の上で寝転んでいる有名な写真は、中也が宮崎を訪れた際に高森の手で撮影されたものである。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。 松山商業学校から明治大学に進学し、卒業後に京城電気へと進む。1936年に名古屋金鯱軍に入団。主将を任されるが、目立った成績を残すことなく1937年に応召される。1939年に金鯱軍へ復帰するが、ここでも打率.220と低迷し、同年限りで再び退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
高辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 19… 高辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 1997年5月20日)は、日本の官僚、裁判官。竹下改造内閣で法務大臣を務めた。甥に外交官の青木盛久がいる。名前は正巳とも。 1910年(明治43年)静岡県沼津出身。東京府立四中、旧制三高を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省入省。第二次世界大戦後、1951年(昭和31年)には日ソ交渉全権委員の随行員としてソビエト連邦を訪問している。 その後、地方自治庁部長などを経て、内閣法制次長時代に自衛隊を「必要最小限の戦力」と解釈する。1964年(昭和39年)から1972年(昭和47年)にかけて第1次佐藤内閣~第3次佐藤内閣まで内閣法制局長官を務め、東大確認書問題、自衛隊の交戦権問題、沖縄返還や沖縄公用地問題について法律面から佐藤内閣を支えた。
苅田 久徳(かりた ひさのり〈きゅうとく〉、1910年1月1… 苅田 久徳(かりた ひさのり〈きゅうとく〉、1910年1月19日 - 2001年8月3日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督・審判員、解説者・評論家。 長女はSKD戦後8期生を経て大映の女優として活動した苅田とよみ、三女は映画『妻の日の愛のかたみに』主題歌等で知られる歌手の苅田千賀子。 少年時代から横浜で有名な野球少年であったが、旧制本牧中学校から進んだ旧制法政大学の1年目は失策が多かった。チームの低迷もあって、応援団が「あんな下手くそを使うな」と藤田信男監督に怒鳴り込む騒ぎもあったが、藤田は「野球をやるのはワシらだ。帰れ!」と追い返している。その後のハワイ遠征で受けた藤田の猛ノックが守備開眼の転機となり、2年目からは東京六大学一の堅守の遊撃手として名を馳せ、初優勝に貢献。
小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 … 小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 宮城県仙台市出身。1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格。1937年(昭和12年)4月、台湾総督府交通局書記に任じ、鉄道部自動車課勤務、庶務課勤務、殖産局商工課勤務を経て、1939年(昭和14年)7月、台北州蘇澳郡守に就任した。その後、拓務事務官・殖産局、拓北局青年課勤務を経て、1942年(昭和17年)10月、陸軍司政官に任じた。
乾 恒雄(いぬい つねお、1910年1月18日 - 1998… 乾 恒雄(いぬい つねお、1910年1月18日 - 1998年10月21日)は、日本の実業家。オリックス元社長・会長。 大阪府出身。法曹一家の生まれ。1933年に慶應義塾大学経済学部卒業後、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)へ入社。[要出典]1964年にオリエント・リース設立に参加し、副社長に就任する。1967年、福井慶三の後任として2代目社長に就任。社長時代は、自主独自路線を選択し、出向者をゼロにし、親会社からの紹介を受けずに自ら知恵を出して顧客を開拓した社風を築いたことで知られていた。[要出典]1980年に社長の座を当時45歳の宮内義彦に譲り、会長に就任して長年にわたり務めた。1998年10月21日死去。
佐久間 正(さくま ただし、1910年1月17日 - 199… 佐久間 正(さくま ただし、1910年1月17日 - 1992年9月26日)は、日本のスペイン語学者、東西交渉史学者。 東京出身。1938年中央大学法学部卒。1945年横浜市立経済専門学校講師、1949年横浜市立大学助教授、教授、1960年亜細亜大学教授、1962年清泉女子大学教授。80年定年。
片山 信夫(かたやま のぶお、1910年1月17日 - 19… 片山 信夫(かたやま のぶお、1910年1月17日 - 1997年3月4日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱物学・鉱床学。 1910年1月17日、東京都に生まれる。父の片山正夫(1877 - 1961)は東京帝国大学理学部化学教室教授を務めた化学者であり、液体の表面張力と温度の関係式(片山の式)で知られている。 1933年(昭和8年)に東京帝国大学理学部鉱物学科を卒業、直ちに同理学部助手となり、1938年(昭和13年)講師に昇任。1939年(昭和14年)に商工省工業技術院地質調査所(戦時中は地下資源調査所と呼ぶ)へ転任し、主に東南アジアの鉱産物資源調査・開発に従事。1946年(昭和21年)同省地質調査所(現産業技術総合研究所)勤務となる。
津田 信敏(つだ のぶとし、1910年1月16日 - 198… 津田 信敏(つだ のぶとし、1910年1月16日 - 1984年1月4日)は、舞踊家。静岡県出身。 青山学院大学英文学科卒業。在学中より児童舞踊から活動を開始。芸術舞踊へ活動の場を広げる。 1935年、モデルネ・タンツ(いわゆるモダンダンス)研究のためドイツ留学。マックス・テルピス舞踊学校やドイツ国立舞踊大学で学んだ。帰国後は津田信敏近代舞踊学校をひらくなどして数々の影響を与えた。 1952年、元藤燁子(1928-2003)と結婚。津田近代舞踊学校(津田・元藤近代舞踊研究所、のちのアスベスト館)を設立した。1962年、津田は、元藤燁子と別れ、アスベスト館を出て、津田信敏舞踊研究所を開設。ここで小林琴美・藤田三恵子・小林美代子・原さなえなどを育てた。
箭内 健次(やない けんじ、1910年1月16日 - 200… 箭内 健次(やない けんじ、1910年1月16日 - 2006年)は、日本の歴史学者。 東京都小石川に、東洋史学者箭内亘の次男として生まれる。旧制静岡高等学校から、1934年東京帝国大学国史学科卒業。36年台北帝国大学講師、38年助教授、敗戦によって引き上げ、47年外務省調査課入局、48年文部省教科書局、50年金沢大学教授、53年九州大学教授、64年同文化史研究所所長、68年東海大学教授、74年駒澤大学教授。
松平 精(まつだいら ただし、1910年1月15日 - 20… 松平 精(まつだいら ただし、1910年1月15日 - 2000年8月4日)は、鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の技術者。 1910年、東京市浅草区に旧杵築藩主能見松平家の子爵・松平親信の三男として生まれる。 学習院高等科を経て、東京帝国大学(現:東京大学)工学部船舶工学科に進学。造船所の実習では肉体労働が多く、知識を使うところが少なく感じたが、三菱航空機の工場を見学すると学問的であるため、航空機の道を選択する。 1934年に大学卒業後、同年設立された海軍航空技術廠へ「有識工員」として入る。飛行機部研究科に配属されたが、1年間の現場実習の後、陸軍飛行連隊で1年間の兵役に就いた。 本格的な研究生活が始まったのは1936年のことで、当時海軍では1人も専門家がいなかった飛行機の振動問題を手掛けるよう命じられた。
李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15… 李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15日 - 1974年1月14日)は、「金日成将軍の歌 (김일성 장군의 노래)」の作詞などによって知られる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の詩人。 咸鏡南道北青郡出身。京城第二高等普通学校(後の景福高等学校(朝鮮語版))を卒業し、日本の立教大学と早稲田大学に学んだ。この当時に、林和などと知り合い、社会主義系の文学運動に加わった。 1931年の冬至に結成された朝鮮プロレタリア芸術家同盟 (KAPF) に加わり、中央委員として活動した。1932年に検挙されて、約2年間、投獄の苦難を体験し、以後は故郷である北清に戻り、詩集を発表した。KAPFの活動をしていた初期には、現実参加的な叙述詩を書いたが、服役後に刊行した詩集『待望 (대망)』(1937年)、『焚香 (분향)』(1938年)、『望洋 (망양)』(1940年)には虚無的な情緒で、弱気な知識人としての苦悩を告白する内容が入っている。
小川 平二(おがわ へいじ、1910年〈明治43年〉1月14… 小川 平二(おがわ へいじ、1910年〈明治43年〉1月14日 - 1993年〈平成5年〉7月16日)は、日本の政治家。内閣官房副長官(政務担当)、労働大臣(第28代)、自治大臣(第25代)、国家公安委員会委員長(第34代)、北海道開発庁長官(第39代)、文部大臣(第103代)、衆議院議員(12期)。 鉄道大臣、司法大臣などを歴任した小川平吉の二男として、東京都に生まれる。衆議院議員を務めた小川一平は兄、日中国交回復後に初代中国大使(1973-77年)を務めた外交官小川平四郎は弟、首相宮澤喜一、外交官(駐チリ大使など)小川元は、それぞれ甥。 東京府立五中、旧制佐賀高等学校文科乙類、1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、三菱商事入社。
今井 林太郎(いまい りんたろう、1910年1月13日 - … 今井 林太郎(いまい りんたろう、1910年1月13日 - 2003年9月8日)は、日本の歴史学者、神戸大学・大手前大学名誉教授。専門は日本古代・中世史。 大阪府生まれ。大阪府立今宮中学校を卒業し、1928年第三高等学校文科に入学。同校で中村直勝の講義を受け、日本史を専攻することにする。1931年に卒業すると、京都帝国大学では三浦周行の定年退官が決まっていたこともあり、「中世に於ける社寺と社会との関係」に惹かれて平泉澄のいる東京帝国大学へ進学する。同期入学に北山茂夫、久保田収や箭内健次らがいる。卒業論文では「中世における庄園の農民」をテーマとしようと黒板勝美に相談したところ、「歴史のいろいろな記録には殆んど出てこない、そんなものを調べてみても無駄だ」という意見であったというが、黒板の承認を得て清水三男の論文「中世に於ける若狹太良莊の農民」などに学びながら、卒業論文「中世における荘民について」をまとめた。
山崎 安雄(やまざき やすお、1910年1月12日 - 19… 山崎 安雄(やまざき やすお、1910年1月12日 - 1964年7月3日)は、日本の出版者、評論家。 埼玉県熊谷生まれ。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、同志社大学予科中退、文化学院文学部卒業。1938年毎日新聞社入社。出版局図書編集部勤務、出版局参事。出版をめぐる著作を多く書いた。