長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 199… 長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 1990年10月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。位階は従三位。勲等は勲一等。 新潟県長岡市で生まれ育つ。旧制新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業後、旧制第一早稲田高等学院(現在の早稲田大学の教養課程)入学している。その後は、父の死去に伴い旧制早稲田高等学院を中退し、17歳で長谷川酒造社長に就任する。 その後、戦時中は1942年5月、南西方面艦隊海軍民政府に志願し、インドネシアのセレベス島マカッサルに勤務したとされている。1944年12月、帰国した。 終戦後、青年団活動を経て、上組村議、宮内町議、長岡市議を2期、新潟県議会議員を4期を務めあげた。
相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日… 相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日 - 1999年2月5日)は、日本の洋画家。埼玉県川越町(現・川越市)生まれ。冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた。新制作協会会員。 埼玉県川越町(現・川越市)に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎(のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で、恵まれた環境だった。1936年、川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学んで東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗に触れ、家業を継いだ。1940年、21歳で兵役に就き、第二次世界大戦中は旧満州やフィリピンを転戦。1944年、フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落。
崔 常寿(チェ・サンス、朝鮮語: 최상수/崔常壽、1918年… 崔 常寿(チェ・サンス、朝鮮語: 최상수/崔常壽、1918年12月3日 - 1995年6月5日)は、大韓民国の民俗学者、随筆家。 本貫は慶州崔氏。号は石泉(ソンチョン、석천)。 1918年12月3日、日本統治時代の朝鮮で慶尚南道の釜山に生まれた。いっとき慶尚北道の慶州で幼年期を過ごし、大阪外国語学校(現: 大阪外国語大学)英語学科で専門学士号を取得した。1947年、韓国民俗学会の会長を務め、『民族学報』を発刊した。その後韓国外国語大学校助教授、京畿大学校教授、梨花女子大学校講師、韓米アジア民俗学会理事長、慶熙大学校教授などを務めた。 著書として『韓国民俗学研究叢書』、『韓国民間伝説集』、『韓国とアラビアとの関係』などがある。
石田 徳次郎(いしだ とくじろう、1918年12月3日 - … 石田 徳次郎(いしだ とくじろう、1918年12月3日 - 1990年3月28日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1939年1月に石田旭山印刷取締役に就任し、1941年に同志社大学法学部政治学科を卒業。1943年に大日本スクリーン製造専務に就任し、1947年5月には社長に就任。1989年4月に会長に就任。 1963年6月に紺綬褒章を受章し、1980年4月に藍綬褒章を受章。 1990年3月28日心不全のために死去。71歳没。
高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918… 高峰 三枝子(たかみね みえこ、本名:鈴木 三枝子、1918年12月2日 - 1990年5月27日)は、日本の女優、歌手。歌う映画スターの草分け的存在。父は筑前琵琶演奏者の高峰筑風。妹は女優で歌手の高峰麻梨子。孫は元女優の高峰陽(ひなた)。 1918年(大正7年)12月2日(月曜日)、東京府東京市芝区露月町(現在の東京都港区新橋5丁目)に生まれる。実父・高峰筑風は、独立して高峰流筑前琵琶の宗家となった。東洋英和女学校(高等女学校。東洋英和女学院中学部・高等部の前身)を卒業した1936年(昭和11年)に、筑風が急死。一家を養うために、周囲の勧めもあり映画界入りを決意。帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社し、同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で女優としてデビューした。
金 宅述(キム・テクスル、朝鮮語: 김택술/金宅述、1918… 金 宅述(キム・テクスル、朝鮮語: 김택술/金宅述、1918年12月2日 - 1981年10月28日)は、大韓民国の公務員、政治家、実業家。第2・3代韓国国会議員。本貫は道康金氏(朝鮮語版)、別名は春江。 日本統治時代の全羅北道井邑郡七宝面(現・井邑市)出身。中央大学法学部、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。全羅北道労働課長、大韓労働総連盟全羅北道副委員長などを歴任し、1950年の第2代総選挙に井邑乙選挙区より大韓労働総連盟所属で出馬して初当選した。第3代国会議員の退任以降は全羅商工社、全南商工新報社、大韓旅客自動車株式会社の社長を歴任し、1967年頃は民主共和党に所属しながら韓国貨物車会社の社長を務めた。
井上 元勝 (いのうえ もとかつ、1918年(大正7年)12… 井上 元勝 (いのうえ もとかつ、1918年(大正7年)12月2日 - 1993年(平成5年)1月1日)は、日本の武道家。唯心会と琉球古武術のグランドマスターとして知られた。 東京府東京市麻布区麻布富士見町(現・東京都港区南麻布)出身、慶応義塾大学卒業。 井上は、日本の首相であった公爵桂太郎の次男、また侯爵井上勝之助の嗣子である侯爵井上三郎の次男として東京市麻布富士見町に生まれた。母は井上馨の長女・千代子。幼い頃から武家の訓練を始めたが、警備スペシャリスト、甲賀流 忍術の宗家継承者であり、最後の真の忍者と見なされていた藤田西湖(1898-1966)によって武術を教えられた。 後に井上は、小西康裕と平信賢のもとで訓練を行い、そこで琉球古武道保存振興会で使用される武器術を学ぶ。
鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )… 鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )は、日本の水泳選手。1936年ベルリンオリンピック400メートル自由形で銀メダル、1500メートル自由形で銅メダルを獲得している。立教大学出身。
戸田 順之助(とだ じゅんのすけ、1918年(大正7年)12… 戸田 順之助(とだ じゅんのすけ、1918年(大正7年)12月1日 - 2013年(平成25年)10月9日)は日本の実業家、元戸田建設社長・会長。東京都出身。
村山 登(むらやま のぼる、1918年〈大正7年〉12月1日… 村山 登(むらやま のぼる、1918年〈大正7年〉12月1日 - 2015年〈平成27年〉1月22日)は、日本の農林技官、植物栄養・肥料学者。農学博士。元農林省農業技術研究所化学部作物栄養科長、元東京農工大学農学部長。東京農工大学名誉教授。 新潟県新潟市出身。1935年(昭和10年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1941年(昭和16年)4月に農林省農事試験場助手に就任、1943年(昭和18年)7月に応召、1945年(昭和20年)9月に復員、農事試験場に勤務、1950年(昭和25年)4月に農林省農業技術研究所化学部作物栄養科作物栄養第2研究室長に就任、1961年(昭和36年)3月に東京大学から農学博士の学位を取得、1964年(昭和39年)5月に農林省農業技術研究所化学部作物栄養科長に就任。
田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 198… 田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 1981年8月22日)は、昭和中期から後期(1940年代後半~1970年代)のプロ野球選手・プロ野球審判員。
鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日… 鵜月 洋(うづき ひろし、1918年〈大正7年〉11月29日 - 1965年〈昭和40年〉6月12日)は、日本の国文学者。専門は、近世日本文学及び宣伝・広告文。 1918年11月29日、千葉県銚子市に生まれる。 第二早稲田高等学院を経て、1939年4月1日、旧制早稲田大学文学部文学科国文学専攻に入学。学徒出陣のため、1941年12月25日に繰り上げ卒業となる。卒業論文は暉峻康隆の指導の下、江戸戯作(洒落本)をテーマとし、成績優秀だったため優等賞を受けた。 1942年4月1日に早稲田大学大学院に入学。同年9月27日には論文「近世後期写実小説の研究」に教職員賞が与えられた。同年9月の城右高等女学校教諭、1944年9月から日本文学報国会主事となる。
長谷 章久(はせ あきひさ、1918年〈大正7年〉11月28… 長谷 章久(はせ あきひさ、1918年〈大正7年〉11月28日 - 1985年〈昭和60年〉10月25日)は、国文学者。 東京生まれ。1942年東京帝国大学文学部国文科卒。1947年同大学院(旧制)修了、埼玉大学助教授、教授、1962年「仮作物語の享受に関する研究」で東京大学文学博士。1981年埼玉大学を定年退官、名誉教授、放送大学教授、埼玉教育センター長。日本風土文学会会長を務めた。自ら写真を撮り、啓蒙的な書物を多く著した。
村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)1… 村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)11月27日 - 1972年(昭和47年)8月26日)は、日本の政治家、内務・通産官僚。衆議院議員(2期)を務めた。従四位勲三等。 1918年(大正7年)、広島県に生まれる。広島県立広島第一中学校を経て東京府立第四中学校へ転校し、その後、第一高等学校を卒業。卒業後は短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学。1945年に卒業した。同年6月、海軍主計少尉に任官。舞鶴施設本部付兼第101部隊長を務めて終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学法学部を卒業。
宗川 信夫(むねかわ のぶお、1918年11月25日 - 2… 宗川 信夫(むねかわ のぶお、1918年11月25日 - 2005年12月17日)は、日本の映画撮影監督。 山形県出身。麻布獣医専門学校(現麻布大学)卒業後、1939年日活多摩川撮影所に撮影助手として入社。 1953年大映作品「落花の門」で撮影監督デビュー。以降、「しとやかな獣」、「白い巨塔」、「大怪獣ガメラ」等、大映の話題作ヒット作の撮影を手掛けた。1972年からフリー。 ジャーマンシェパード犬の愛好家で、撮影を担当した1957年映画「名犬物語 吠えろシェーン」、1959年フジテレビ開局記念ドラマ「少年ジェット」に出演したシェーンは自身の愛犬シェーン・D・グランプリ号。「少年ジェット」の第一部・黒い影篇5〜8話では監督と撮影を兼任した。
鵜澤 昌和(うざわ まさかず、1918年(大正7年)11月2… 鵜澤 昌和(うざわ まさかず、1918年(大正7年)11月24日 - 2019年(平成31年)2月4日)は、日本の経営学者。青山学院大学名誉教授。専門分野は、経営情報システム、コンピューター応用、オフィスオートメーション。 青山学院大学学長、東京家政学院大学学長、日本ファシリティマネジメント推進協会会長、日本セキュリティ・マネジメント学会会長等を歴任し、藍綬褒章、勲三等旭日中綬章を受章した。 東京都生まれ。旧制明治中学校(現明治大学付属明治高等学校)在学中、同校校長を務めていた父鵜澤總明(明治大学総長)が通っていた富士見町教会で洗礼を受ける。1936年に明治中学を卒業し、旧制東京商科大学(現一橋大学)予科に進学。
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月2… 南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住。 1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰。 1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。
三ッ林 弥太郎(三ッ林 彌太郎、みつばやし やたろう、191… 三ッ林 弥太郎(三ッ林 彌太郎、みつばやし やたろう、1918年〈大正7年〉11月22日 - 2003年〈平成15年〉8月18日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党所属の衆議院議員(10期)。 科学技術庁長官(第3次中曽根内閣)を務めた。 埼玉県北葛飾郡行幸村千塚(のち幸手町、現・幸手市)、三ッ林幸三の長男として生まれる。埼玉県立杉戸農業学校、埼玉青年師範学校(現・埼玉大学教育学部)卒業。奉天予備士官学校卒業。 青年学校教諭兼小学訓導、埼玉県農業会勤務を経て1948年に埼玉県指導農協連北葛飾支所経営課長となり1951年以来4回県議に当選。 自民党県連副幹事長を務め1960年に県議会副議長、1964年に議長に選ばれる。
小林 ちづ(こばやし ちづ、1918年(大正7年)11月22… 小林 ちづ(こばやし ちづ、1918年(大正7年)11月22日 - 平成時代まで存命。没年は不明)は、日本社会党衆議院議員。衆議院議員(1期)当選1回。小林正美(日本社会党衆議院議員)の未亡人。三重県では数少ない女性議員であった。 福岡県戸畑市生まれ。1936年(昭和11年)に、奈良県育英高等女学校を卒業した。その後に衆議院議員となる小林正美と結婚をして、職業は議員秘書を務めた。 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙では同じ選挙区から複数候補者を樹立する日本社会党執行部の方針で三重1区から日本社会党の2人目の公認候補として、小林ちづの夫の小林正美も出馬したが、亀山市を境界として、四日市市を中心とする北部地域は新人の四日市市出身の小林正美候補の地盤で、伊賀や津市などの南部地域は現職の中井徳次郎候補の地盤とする地盤割りが成功して小林正美・中井徳次郎の2人共が当選した。
吉川 政己(よしかわ まさき、1918年11月22日 - 2… 吉川 政己(よしかわ まさき、1918年11月22日 - 2002年2月6日)は、日本の医学者、老人医学が専門。 東京出身。父は実業家の吉川長三郎。岳父は日産の浅原源七。東京帝国大学医学部卒。1949年医学博士、東京大学医学部教授(冲中重雄の後任)。1975年から1976年にかけて医学部長。1979年定年退官、名誉教授、東京警察病院。息子は吉川洋・東大教授。
縣 聡(あがた さとし、1918年(大正7年)11月20日 … 縣 聡(あがた さとし、1918年(大正7年)11月20日 - 2003年(平成15年)2月10日)は、日本の政治家。元長野県大町市長。 長野県北安曇郡大町(現大町市)生まれ。旧制大町中学(現長野県大町岳陽高等学校)を経て、1940年(昭和15年)3月、旧制高岡高等商業学校卒業。同年に渡満し、満州特産物輸出貿易業・瓜谷商店に勤務。翌年応召し、1946年(昭和21年)復員。1951年(昭和25年)3月、北安曇農業高等学校(現長野県池田工業高等学校)教諭となり、1953年(昭和27年)退職し、大町商工会議所専務理事となる。1954年(昭和29年)8月、大町市役所に入庁し、税務課長、税務課長、総務課長を歴任した。
藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11… 藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11月19日 - 2000年12月14日)は、浄土宗僧侶・仏教学者。 和歌山県田辺市出身。父は藤堂祐範。大正大学仏教学科卒、1944年同研究科修了。1979年「日中浄土教思想史の研究」で佛教大学文学博士。佛教大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。浄土宗大本山知恩院浄土宗学研究所研究員、増上寺法主。
多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 198… 多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 1987年3月26日)は日本の政治家。 元衆議院議員(日本共産党公認、通算2期)。日本共産党北海道副委員長、道平和委員会副会長、道原水協副委員長、日朝協会道副会長などを歴任した。 北海道空知郡上砂川町生まれ。1942年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。その後、旧陸軍の樺太山砲隊に入隊した。戦後はシベリアに抑留される。1947年12月に帰国した。ソ連から帰国後の1948年、日本共産党へ入党。美唄、留萌の各地区委員長、道委員会常任委員などを歴任した。1972年の衆院選で北海道1区から出馬し初当選を果たした。1976年の衆院選では次点に終わる。1979年の衆院選で返り咲きを果たす。
塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 20… 塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 2020年5月4日)は、日本の日本近代文学研究者。京都女子大学名誉教授。筆名・黒田しのぶ。 日本領朝鮮(現・北朝鮮)生まれ。立命館大学大学院日本文学専攻修了。朝鮮京城梨花女子高等女学校教諭、帰国後は京都女子大学教授、1989年定年、名誉教授となる。樋口一葉、半井桃水を研究した。
大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没… 大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名、大内 幸香(おおうち ゆきこ)。 1918年(大正7年)11月15日、愛媛県伊予郡砥部町大字原町に生まれる。4歳上の兄に俳優の大内弘(本名・大内一郎)がいる。 1936年(昭和11年)3月、愛媛県立松山高等女学校(現在の愛媛県立松山南高等学校)を卒業すると同時に、兄の在籍するマキノ正博の新会社マキノトーキー製作所に入社する(第二期入社)。同年4月29日に公開された根岸東一郎・マキノ正博共同監督による『加賀見山』に出演して、満17歳で映画界にデビューした。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や兄の大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、照子と同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくが、照子は、同社跡地に、甲陽映画から独立して今井理輔が設立した「今井映画製作所」に移籍した。
沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 … 沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 - 2002年2月10日)は、日本の政治家。衆議院議員。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。 1941年(昭和16年)日本大学文理学部(高等師範)卒業。国鉄職員から国鉄労働組合役員、大宮市議会議員を経て、1959年から大宮市選出の埼玉県議会議員を4期務める。 1972年総選挙に日本社会党公認で旧埼玉1区から立候補するが落選。 旧1区から旧埼玉5区が分離独立した1976年総選挙では旧5区から立候補し、初当選を果たした。以後衆議院議員を6期務める。 この間1979年(昭和54年)11月に衆議院交通安全対策特別委員会理事・1989年(平成元年)に衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長を務める。
打吹 美砂(うちぶき みさ、本名:藤本 千栄子、旧名:知江子… 打吹 美砂(うちぶき みさ、本名:藤本 千栄子、旧名:知江子、旧姓:米本、1918年(大正7年)11月15日 - 2010年(平成22年))は、元宝塚歌劇団(元花組主演男役および娘役クラス、元花組組長。)の人物である。鳥取県倉吉市出身。芸名は同郷の上級生である高砂松子が故郷の打吹公園の名前をとって命名した。宝塚歌劇団時代の公称身長は160cm。宝塚歌劇団時代の愛称はヨネちゃん(旧姓の米本から)。改名前は打吹 たもとであった。 1931年、21期生として、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。当時は入学イコール入団で学校と劇団は一体であった。 1948年 - 1951年・1953年 - 1960年、花組組長。
村沢 夏風(むらさわ かふう、1918年11月14日 - 2… 村沢 夏風(むらさわ かふう、1918年11月14日 - 2000年11月29日)は、東京都出身の俳人。本名喜八郎。東京市京橋区生。保善商業学校卒。1942年、「鶴」に入会し石田波郷に師事。1958年鶴賞、1965年鶴散文部門賞受賞。1987年、村山古郷没後の「嵯峨野」を継承主宰。1989年、句集『独坐』により第29回俳人協会賞受賞。人物、作風ともに温雅であった。句集に『寒影』『山望』『彩雲』『独坐』『村沢夏風句集』など、研究書に『石田波郷の俳句』Ⅰ~Ⅳなどがある。また漫画家として『漫画 俳句入門』(共著)の著書がある。
西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - … 西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - 2006年7月1日)は、日本の外交官。外務省国際連合局長や、EC大使、国連大使を務めた。1991年勲一等瑞宝章受章、2006年叙正三位。 北海道函館市出身。旧制横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部の前身)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。大学では井藤半彌ゼミナールに所属。 大学在学中の1940年に外交官及領事官試験に合格。しかし成績が悪いのでは出世ができないと考え、翌年の再受験を考えていたところ、門脇季光人事課長(のちに駐ソ連大使)から、外務省では試験の成績は関係ないので、一刻も早く入省すべきだとの助言を受け、1941年外務省入省。
芦原 千津子(あしはら ちづこ、1918年11月14日 - … 芦原 千津子(あしはら ちづこ、1918年11月14日 - 2009年1月5日)は、松竹楽劇部(改名を経て、OSK日本歌劇団)娘役スター。 1918年(大正7年)生まれ。大阪府大阪市の住吉大社の近くで生まれ育つ。 1931年(昭和6年)、松竹楽劇部に入団。秋月恵美子によれば、芦原は「天才肌」であり、(稽古熱心だった秋月に比し)短時間で振付をマスターした。またダンスに専念する姿勢でファンに「愛想をしない人」であった。 1935年(昭和10年)、大阪劇場『アベック・トア』で秋月とのコンビで起用されるようになる。その後1937年(昭和12年)以降は、秋月が男役メインとなり、二人は男役・娘役ペアでコンビを組むようになった。
三浦 道雄(みうら みちお、1918年(大正7年)11月12… 三浦 道雄(みうら みちお、1918年(大正7年)11月12日-1993年(平成5年)10月6日)は日本の政治家、実業家。青森県議会議長(自由民主党)、南部鉄道社長、東北電力監査役。 1918年(大正7年)11月12日に青森県三戸郡五戸町に生まれる。1942年(昭和17年)、法政大学経済学部を卒業する。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。大湊海軍航空隊付となる。同年5月、大湊軍需部付兼経理部部員に転任。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、1945年(昭和20年)1月、大湊軍需部占守支部(北千島)に転じ、その後、小樽武官府で終戦を迎えた。
伊藤 孝次郎 (いとう こうじろう、1918年(大正7年)1… 伊藤 孝次郎 (いとう こうじろう、1918年(大正7年)11月12日 - 1992年(平成4年)5月10日)は、日本の地方政治家。東久留米市長を務めた。 山形県出身。早稲田大学専門部政経科に通い(1940年卒業)、1939年中外商業新報記者となる。翌年青島興亜新報支局長兼論説委員となる。戦後、東京タイムズに入り、社会部次長を経て、総理府公職訴願審査委員会事務局に勤める。その後、東京都久留米町議会(現・東久留米市議会)議員に当選。市制施行後に副議長に就任した。 1978年10月10日、東久留米市長の石塚政寿が汚職事件の責任をとり辞職。石塚の辞職に伴い11月26日に行われた市長選に社会党・共産党の推薦を得て立候補。
鳩山 威一郎(はとやま いいちろう、1918年〈大正7年〉1… 鳩山 威一郎(はとやま いいちろう、1918年〈大正7年〉11月11日 - 1993年〈平成5年〉12月19日)は、日本の政治家、大蔵官僚。正三位勲一等。 第52・53・54代内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の長男。祖父は第6代衆議院議長の鳩山和夫。母方の祖父は右翼団体玄洋社出身の貴族院議員寺田栄。鳩山由紀夫、鳩山邦夫は息子。井上和子は長女。指揮者の渡邉暁雄とは義兄弟に当る。 東京市小石川区(現・東京都文京区)出身。高等師範附属小(現・筑波大附属小)、旧制府立高等学校高等科文科甲類(後の旧・都立大学)を経て、1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業。高等試験行政科も1番で合格したと伝わっており、大蔵省に入省(専売局書記兼大臣官房文書課に配属)、同期に柏木雄介、加治木俊道など。
松井 栄造(まつい えいぞう、1918年(大正7年)11月1… 松井 栄造(まつい えいぞう、1918年(大正7年)11月10日 - 1943年(昭和18年)5月28日)は、昭和初期の旧制中等学校野球(現・高校野球)、大学野球の選手(投手、外野手)。左投げ左打ち。
赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 20… 赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 2012年5月18日)は、日本の精神科医。クリスチャンとして「医学と福音」をライフワークのテーマとし精神医学と神学の関係を研究した。また日本ルーテル神学大学や東京神学大学などの神学校で精神医学を講じた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1938年(昭和13年)第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1943年(昭和18年)東京大学医学部卒業。大槻外科入局、副手。医学博士。 1946年(昭和21年)、国立療養所清瀬病院外科医長。1953年(昭和28年)、東芝林間病院副院長兼外科医長。1961年(昭和36年)、浜松の社会福祉法人聖隷病院院長。1958年、シカゴ大学で「医学と宗教の関係」を研究。
村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1… 村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1989年11月20日)は、日本の政治家。自由民主党所属衆議院議員(3期)。福田派。
史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 - 2019… 史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 - 2019年9月20日)は、台湾の歴史家、台湾独立運動家。 中国国民党の弾圧を避けて日本に亡命し、『台湾人四百年史』を著した。台湾民主化後、帰国。台湾独立運動の指導者の一人で、「独立台湾会」の設立者。左目を失明している。本名は施朝暉(し・ちょうき、シー・ディアウフイ)。 1918年11月9日、日本統治時代の台北州士林にて出生。父の林済川は台湾の豊原出身で、若い頃に日本に留学して台湾文化協会の活動に関わり、また『台湾青年』の編集に携わる経験を持っていた。母は士林の富豪の施家の出身で、5人兄弟のうち史明だけが母の姓に従っている。 1937年に日本へ渡り、早稲田大学で政治学を学ぶ。
末永 隆甫(すえなが たかすけ、1918年 <大正7年> 1… 末永 隆甫(すえなが たかすけ、1918年 <大正7年> 11月8日 - 2004年 <平成16年> 1月25日)は、日本の経済学者。専門は経済学史。大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授。元神戸商科大学(現兵庫県立大学)学長。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)を経て、1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業。杉本栄一や高島善哉に師事した。同年から早川泰正とともに企画院嘱託として調査部で勤務した。1942年第54師団輜重兵部隊入隊。1946年大阪市立大学経済学部助手着任。1949年大阪市立大学経済学部助教授。1955年大阪市立大学経済学部教授。1962年大阪市立大学経済学博士。
酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8… 酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人、後にビジネスマン。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉。 徳島県阿波郡林村(現:阿波市)で、8人きょうだいの次男に生まれた。徳島県脇町中学校を経て1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)した。同期生に豊田穣、広尾彰がいる。その後、日本海軍に入隊した。 太平洋戦争(大東亜戦争)における第一撃として、日本海軍は日本時間の1941年(昭和16年)12月8日、米領ハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊や周辺の軍事基地に対する奇襲(真珠湾攻撃)を実施。
村瀬 一三(むらせ いちぞう、1918年11月7日 - 戦死… 村瀬 一三(むらせ いちぞう、1918年11月7日 - 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手。
茅野 秀三(かやの しゅうぞう、1918年11月7日 - 没… 茅野 秀三(かやの しゅうぞう、1918年11月7日 - 没年不明)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。西日本パイレーツに在籍した茅野健一は実兄。 神奈川県で生まれ育ったが、父親の仕事の関係で台湾に移住。台北州立台北工業学校(現:国立台北科技大学)時代は、1932年夏の甲子園に出場。チームメイトに漆原進、茅野健一がいる。横浜高工、横浜金港クラブを経て、1947年に国民野球連盟の宇高レッドソックス(のちに熊谷レッドソックスに改名)に入団。夏季リーグ30試合制で打率.403の高打率をマークし、首位打者のタイトルを獲得した。 翌1948年に中日ドラゴンズに入団。4月4日の大陽ロビンスとの開幕戦(鳴海球場)に2番・中堅手で先発出場を果たした。
藤原 てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - 201… 藤原 てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - 2016年11月15日)は、日本の作家。夫は作家の新田次郎(本名・藤原寛人)、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。エッセイストの藤原咲子は長女。孫はベーシストの村井研次郎。旧姓両角。 長野県茅野市出身。県立諏訪高等女学校(現、諏訪二葉高等学校)卒業。1939年、新田と結婚。1943年に新京の気象台に赴任する夫と共に満州に渡る。敗戦後の1945年、夫を一時残して子供3人を連れ満州より引き揚げ、1946年帰国、心臓を患い寝たきりで、精神にも変調をきたしていたらしく、しばらくして新田も帰国したが、すぐには夫と分からない状態だったという。 帰国後、遺書のつもりでその体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』はベストセラーとなった。
岡村 信夫(おかむら のぶお、1918年11月6日 - 没年… 岡村 信夫(おかむら のぶお、1918年11月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。 惟信中學校から1936年に名古屋軍へ入団。同年秋季リーグ後に退団。
大村 しげ(おおむら しげ、1918年(大正7年)11月6日… 大村 しげ(おおむら しげ、1918年(大正7年)11月6日 - 1999年(平成11年)3月18日)は、京都市祇園生まれの随筆家、京料理研究家。京都の食べ物や暮らし、お店などに関する記録の著作がある。障害、福祉のあり方をテーマにした随筆も出版している。 1918年(大正7年)11月6日、京都府京都市の祇園の仕出し料理店で長女として誕生する。仕出し料理店を営んでいた父の死後は、看板を汚さないためにも店の引継ぎを断っている。1935年(昭和10年)、京都女子専門学校(現・京都女子大学)国文科に入学、京都市中京区寺町姉小路に借家で一人暮らしを始める。以降没するまでここが本拠となった。1965年(昭和40年)に京都西陣少年ホーム(青年の家)に非常勤職員として入所。
三好 基之(みよし もとゆき、1918年(大正7年)11月6… 三好 基之(みよし もとゆき、1918年(大正7年)11月6日 - 1989年(平成元年)12月30日)は、日本の実業家。産経新聞社副社長、西友ストア社長、三島製紙社長。 政治家三好英之の長男として鳥取県米子市道笑町に生まれる。1941年東京帝国大学法学部卒。 戦後、経済同友会に勤務していた時に国策パルプ工業社長の水野成夫に認められ、1950年同社に入社。1958年総務部副部長。 1958年、水野が産経新聞社再建の社長として乗り込むと、三好もそれに従い、取締役として産経入りした。その後、常務、専務、副社長と昇進を果たす。水野が産経新聞を退陣する際、三好も行動を共にして退社する決意を固める。その機会を捉えて、西武百貨店の経営陣補強のため堤清二が水野に三好の貰い受けを打診し、水野は快諾。
清水 孝之(しみず たかゆき、1918年11月5日 - 19… 清水 孝之(しみず たかゆき、1918年11月5日 - 1994年3月1日)は、日本の国文学者。愛知県三河地方の小中高校の校歌を数多く作詞した。 1918年、愛知県岡崎市で生まれた。1936年、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を卒業。東京帝国大学文学部国文科に進み、1941年に卒業。 卒業後は、愛知第二師範学校講師に就いた。その後、安城女子専門学校(現・愛知学泉短期大学)講師。1951年、広島女子短期大学助教授となった。次いで高知女子大学助教授。1962年、学位論文『蕪村は画家か俳人か:その俳諧史的研究』を大阪大学に提出して文学博士号を取得。愛知県立芸術大学教授となり、在任中は同附属図書館長も務めた。
桜井 七之助(さくらい しちのすけ、1918年11月4日 -… 桜井 七之助(さくらい しちのすけ、1918年11月4日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、三塁手、外野手。 神奈川工業学校在籍中は、快速球とカーブを兼ね備えた好投手として知られており、1935年夏の大会の甲神静大会予選では準決勝の静岡中学戦でノーヒットノーランを達成。決勝の甲府中学戦で五味芳夫(のち金鯱)と投げ合い、4-5で惜敗して惜しくも甲子園出場は成らなかった。 翌1936年に大東京軍の結成に参加。1936年秋季シーズンでは開幕投手を務めるなど、ドロップやカーブを武器に、チームの主戦投手として活躍した。しかし、同シーズンの大東京は歴史に残る大不振で、5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)しか残せず、桜井自身も1勝10敗、防御率5.20と散々な成績に終わった(最多敗戦投手及びリーグワースト防御率〈規定投球回達成者19人中〉でもあった)。
趙 欣坡(チョ・フンパ、朝鮮語: 조흔파、1918年11月4… 趙 欣坡(チョ・フンパ、朝鮮語: 조흔파、1918年11月4日 - 1980年12月24日) は、大韓民国の小説家、放送作家。 本名は趙 鳳淳(チョ・ボンスン、조봉순)。本貫は漢陽趙氏。 日本統治時代の平安南道平壌に生まれ、1941年に専修大学法科卒業。1950年代初頭より文壇に登場した。1947年までソウル中央放送局アナウンサーを務め、そのほか京畿女子高等学校の教員、『現代女性』主幹、『国都新聞』『世界日報』『韓国経済新聞』の論説委員などを務めた。1960年公報室公報局長に異動後、国務院事務処公報局長とソウル中央放送局長などを務めた。また、1964年に発表した小説『ヤルゲ(ヤルゲ: 小憎らしい者の意)伝』で知られている。
折原 脩三(おりはら しゅうぞう、1918年11月4日 - … 折原 脩三(おりはら しゅうぞう、1918年11月4日 - 1991年2月28日)は、日本の思想や老い問題評論家。本名・伊東庫之助。 千葉県生まれ。東京商科大学(現・一橋大学)卒業。横浜正金銀行に勤務。 戦時中は陸軍二等兵として中国で従軍。 戦後、東京銀行に勤務するかたわら、評論活動を行っていたが、1973年に退職。 退職後は思想の科学研究会会長をつとめた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2… 立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2017年2月)は、日本の彫刻家。 長野県諏訪市出身。宮大工立川和四郎の末裔で、父は立川義清。彫刻師だった祖母や父の影響で彫刻家を志す。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科卒業。藤井浩佑に師事。日展や日彫展を中心に数多くの作品を発表した。1978年第一回日展会員賞受賞。日展審査員、日展評議員、日展参与などを務めた。東京都荒川区西日暮里に在住し、アトリエを構えていた(藤井浩佑の屋敷跡)。