土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身… 土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身の元プロ野球選手(投手、右翼手)。
1910年代生まれ:6,028人
土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身… 土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身の元プロ野球選手(投手、右翼手)。
伊藤 経盛(いとう つねもり、1918年 - )は、愛知県出… 伊藤 経盛(いとう つねもり、1918年 - )は、愛知県出身のプロ野球選手。
岡本 一雄(おかもと かずお、1918年 - 没年不明)は、… 岡本 一雄(おかもと かずお、1918年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは捕手、一塁手。
太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)… 太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)は、栃木県出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。
佐野 利勝(さの としかつ、1918年 - 2006年)は、… 佐野 利勝(さの としかつ、1918年 - 2006年)は、ドイツ文学者。京都大学・滋賀医科大学名誉教授。 1918年、大阪府に生れる。1941年、京都帝国大学経済学部を卒業。同大学文学部独文科に進んで1946年に卒業。卒業後は、母校の京都大学教養部教授。1982年に定年退官し、名誉教授となる。その後は滋賀医科大学教授として教鞭をとった。
芝 烝(しば すすむ、1918年 - )は、日本の哲学者。京… 芝 烝(しば すすむ、1918年 - )は、日本の哲学者。京都女子大学名誉教授。 マドラス大学タミル学会終身会員、日本語の系統研究会代表幹事、日本道州制研究会代表。 愛媛県南予生まれ。広島高等師範学校卒業。1947年京都帝国大学文学部哲学科(倫理学)へ入学、旧制大学院(ヘーゲル法哲学)、京大人文科学研究所へと進む。ドイツのハイデルベルク大学に留学(哲学・人類学)。 国立民族学博物館研究協力者、京都女子大学助教授、教授、文学部長、学長代行をへて、名誉教授。その後花園大学教授を務めた。
朴 南秀(パク・ナムス、1918年 - 1994年)は韓国の… 朴 南秀(パク・ナムス、1918年 - 1994年)は韓国の詩人。平安南道平壌出身。 1918年、平安南道平壌に生まれる。平壌の崇仁商業を卒業後日本に渡り中央大学に入学する。卒業後は朝鮮殖産銀行の鎮南浦支店に入行し、1946年に朝鮮殖産銀行平壌支店長に昇進したが、朝鮮戦争期に大韓民国国軍の撤収に伴い越南した。 1939年、『문장(文章)』に「초롱불(灯火)」「거리(距離)」「밤길(夜道)」「마을(村)」 「심야(深夜)」「주막(酒幕)」などの 6篇が推薦された。初期の作品は日帝植民地の農村生活を通して時代的な暗黒相を求めていた。 「문장(文章)」の中に、他の詩人は主に自然を詩っていたとき、朴は社会にも関心をおいて、叙情的な情景に切実な感情を隠喩しているのが特徴である。
植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年… 植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年)は、日本の裁判官、弁護士、翻訳者。 1918年生まれ。1941年、司法科試験合格。1948年、東京帝国大学法学部卒業後に裁判官となり、松山地方裁判所長、東京高等裁判所判事、公証人などを務める。 1960年頃から精神科医吉益脩夫の指導の下で、「日本犯罪誌」の編集委員となる。1962年にはオーストリアのナチス法制家のエルンスト・ゼーリッヒの著書を翻訳出版。1964年、第1回刑事政策審議会賞。1988年、第3回日本犯罪学会賞を受賞。弁護士に転身する。2005年に死去。同年日本司法精神医学会が設立され、刑事法学者で精神科医の山上皓が理事長に就任した。
織本 匠(おりもと たくみ、1918年 - 2001年)は、… 織本 匠(おりもと たくみ、1918年 - 2001年)は、日本の構造家・構造設計技術者・構造学者・武蔵野美術大学名誉教授・織本匠構造設計研究所(現:織本構造設計)創立者。 織本姓は義父である織本道三郎に由来する。旧姓は佐伯。 1942年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。卒業後は鹿島建設に入社した。 親交のあった芦原義信が中央公論社ビルを設計する際に構造設計を担当した際、独立を企図していた芦原に協力するため独立に踏み切り、1956年に織本匠構造設計研究所(現・織本構造設計)を設立する。一方、1965年に武蔵野美術大学に建築学科の教授に就任し、1970年には主任教授となった 。 1984年に織本匠構造設計研究所の社長を退任し、2年後には武蔵野美術大学建築学科も退職した。
大門 一夫(だいもん かずお、1918年 - 1992年)は… 大門 一夫(だいもん かずお、1918年 - 1992年)は日本の毛髪に関する著作家。 執筆のかたわらパーマ液や脱毛剤など戦後の美容科学の先駆者としての功績が高く、理美容師の育成にも努めた。 東京田端に生まれる。1941年 東京帝国大学医学部薬学科卒。1992年 急性肺炎のため死去(享年74) この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)… 熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)は、日本の画家、美術教育者。 山梨県東山梨郡菱山村(勝沼町を経て現甲州市)生まれ。1938年東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒、1942年早稲田大学専門学校政治経済科卒業。1948年東京美術学校油絵科内地留学修了。東京都の公立小学校教諭を1955年まで務める。1957年東京教育大学教育学部芸術学科構成専攻卒業。1958年二紀会絵画部同人。1965年国際美術教育会議(INSEA)東京会議事務総長を務める。1969年女子美術大学助教授、INSEA本部財務局長、1974年東京造形大学教授。1979年岡山大学教育学部教授。1983年上越教育大学教授。
保積英次(ほづみえいじ、1918年 - 2007年)は、東京… 保積英次(ほづみえいじ、1918年 - 2007年)は、東京工芸大学芸術学部名誉教授。写真、カメラ、ストロボ(エレクトロニックフラッシュ)、その他の理論と実践を専門とした。 1918年東京生まれ。1941年東京写真専門学校(旧制)卒業。助手、助教授、東京写真短期大学教授を経て、東京写真大学短期大学部学部長(学長職)となる。当時の東京写真短期大学は、主として営業写真館の写真家を目指す者を対象としていた。その後、東京工芸大学芸術学部名誉教授。 桑沢デザイン研究所講師、日本写真学会評議委員などを歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
金井 多喜男(かない たきお、1918年 <大正7年> - … 金井 多喜男(かない たきお、1918年 <大正7年> - 2000年 <平成12年> 3月14日)は、日本の通産官僚。中小企業庁次長や、通商産業省繊維雑貨局長を経て、東亜石油代表取締役社長や、伊藤忠商事取締役副会長などを務めた。位階は正四位。 東京生まれ。福岡県立門司中学校(現福岡県立門司高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1941年に同大学学部を繰り上げ卒業。井藤半彌ゼミ出身。同年高等試験行政科合格。1942年商工省入省。1953年通商産業大臣官房調査統計部化学統計課長。同年通商産業大臣官房調査統計部動態統計課長。1954年通商産業省繊維局綿業課長。1956年通商産業省繊維局綿麻業課長。
西川 元彦(にしかわ もとひこ、1918年 - 没年不明) … 西川 元彦(にしかわ もとひこ、1918年 - 没年不明) は、日本の経済学者 、日本銀行監事。 名古屋高等商業学校で宮田喜代蔵 の指導を受け、「最も理論的なものは、最も実践的である。」という言葉で、経済に対する関心を深める。宮田の勧めもあり、東京商科大学に進学、中山伊知郎の門を叩く。 1941年(昭和16年)東京商科大学卒業後、日本銀行入行。統計局長、調査局長、監事を歴任、一橋大学の講師も務めた。1978年(昭和53年)1月に前川春雄副総裁を委員長とする日本銀行百年史編纂委員会が発足すると、吉野俊彦、呉文二と共に日本銀行百年史編纂委員会の委嘱委員を務めた。 中央銀行の理論と歴史に関する権威として知られ、多くの論文、専門書を執筆・監訳した。
池内 基周(いけうち もとちか、1918年(大正7年) - … 池内 基周(いけうち もとちか、1918年(大正7年) - 1997年(平成9年))は、日本の建築家。 1941年(昭和16年)に横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)卒業後、内匠寮匠生に採用され、1942年(昭和17年)に宮内技手となる。その後招集、復員を経て、宮内府、宮内庁に勤務した。 1956年(昭和31年)に宮内庁管理部工務課建築第一係に所属。1957年(昭和32年)に宮殿造営調査室の企画主任を拝命、1958年(昭和33年)には企画係長となった。 1963年(昭和38年)からの臨時皇居造営部では、造営課企画係長および課長補佐をつとめた。 その後、管理部工務課に戻り、1969年(昭和44年)に課長補佐、1978年(昭和53年)に工務課長となったのち、1981年(昭和56年)に退官。
上野 泰(うえの やすし、大正7年(1918年) - 昭和4… 上野 泰(うえの やすし、大正7年(1918年) - 昭和48年(1973年)2月21日)は、日本の俳人。妻の上野章子は高浜虚子の六女である。 横浜市の出身。立教大学経済学部卒業。昭和17年(1942年)、高浜虚子の六女・章子と結婚した。出征、復員の後、小諸に疎開中の虚子から俳句を学び、戦後の『ホトトギス』の新人として、野見山朱鳥と並び賞された。虚子から「泰の句に接すると世の中の角度が変わって現れてくる。」と評され、「新感覚派と呼んだらどんなものであろう。」と評された。家業の運送業の経営に加わりながら、昭和26年(1951年)『春潮』を主宰した。昭和48年(1973年)2月21日、癌のために急逝した。
矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、… 矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として小金井聖公会主任司祭や、教育者として立教大学一般教養部助教授を務める傍ら、立教学院百年史の編纂を提案し刊行するなど、立教学院の史実を掘り起こし、歴史を体系化することに尽力した。 1940年(昭和15年)、立教大学文学部宗教学科卒業。 1954年(昭和29年)、矢崎は小金井聖公会の主任司祭に就任する。1951年(昭和26年)に購入してあった用地に、牧師館と小金井聖公会仮聖堂が建てられ、同年12月12日には献堂式が行われた。 1964年(昭和39年)の秋頃、立教大学一般教育部助教授であった矢崎は、立教学院の年史書である「立教学院八十五年史」の次の年史である「立教学院百年史」の編纂を立教大学文学部史学科教授の海老沢有道とともに提案し、編纂を進めた。
大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7… 大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7年) - 1944年(昭和19年)9月)は、昭和戦前期の日本の陸上競技選手。現在の栃木県佐野市出身。箱根駅伝で活躍して日本大学の連覇に貢献し、3000m障害で日本記録を更新した。太平洋戦争に出征し戦死。佐野地域で1951年より開催されている「大澤駅伝競走大会」は、郷土の名選手であった大沢を記念した大会である。 1918年(大正7年)、栃木県安蘇郡常盤村(現在の佐野市牧町)生まれ。1931年(昭和6年)に旧制佐野中学校(現在の栃木県立佐野高等学校・附属中学校)に入学し、陸上競技選手としての活躍を見せた。 1936年(昭和11年)、日本大学に進学。
上原 晋(うえはら すすむ、1918年 - 2015年 )は… 上原 晋(うえはら すすむ、1918年 - 2015年 )は、ラックス株式会社(現ラックスマン)の元開発担当常務。 経歴は以下のようになっている。1918年、兵庫県宝塚市に生まれ、1939年に株式会社錦水堂入社。1958年にMA-7Aモノラル真空管アンプ、6CA7の採用と高圧回路を採用して60wのハイパワーを実現した。
石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2… 石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2002年(平成14年)は、日本の軍属、事業家。 太平洋戦争において東京外語大学インド語科在学中にF機関に通訳として従事、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市を補佐した。戦後は三菱商事のインド駐在員として日印関係に尽力した。晩年は東京大学で長崎暢子教授と共にインド学の研究をしていた。 山形県鶴岡市大山町にて粂太郎、元江の子として生まれる。兄弟は12人、妹1人の大家族であった。1935年上京。この頃大川周明やA.M.サーハエの影響を受ける。東京外語大学進学時、インド人教師バルラースからヒンズー語、ウルドゥ語を学ぶ。1941年10月中旬、在学中に参謀本部からの命令により急遽タイへ送られる。
伊藤 久徳(いとう きゅうとく、1918年 - 1997年)… 伊藤 久徳(いとう きゅうとく、1918年 - 1997年)は、日本の将棋駒師。山形県天童。 生前は「天童の天皇」と呼ばれ、天童高級駒の第一人者。 弟子に大澤富月がいる。 1980年天童開催の王将戦で、初めて天童駒が使用された作者が久徳であった。 1989年「現代の名工」として労働大臣表彰。
山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は… 山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は日本の技術者。 累計1万台以上の山田風車が製造され、北海道はもとより、国内外の各地に設置されたが、各地の電化が進むにつれて、1960年代にはその役割を終えた。この数はウィンドファームが設置されている現在の日本国内での設置台数よりも多い。数々の特許を取得した。風トピアで実験の結果、弱風から発電を開始して、強風では独特の構造で風を避け、発電効率が高く、耐久性にも優れ、輸入機より高性能であることが実証された。当時製造された風力発電機は現在の基準でも遜色ない水準で費用対効果に優れていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
米川 信夫(よねかわ のぶお、1918年(大正7年) - 2… 米川 信夫(よねかわ のぶお、1918年(大正7年) - 2008年(平成20年))は、日本の翻訳家。
山田 實(やまだ みのる、1918年 - )は、日本の写真家… 山田 實(やまだ みのる、1918年 - )は、日本の写真家。1977年、沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞。2000年、沖縄県文化功労者として表彰。兄は、詩人の山田有勝。
岡田 利弘(おかだ としひろ、1918年 - 2003年)は… 岡田 利弘(おかだ としひろ、1918年 - 2003年)は、日本の物理学者。東京府生まれ。
西川 博夫(にしかわ ひろお、1918年 - 1944年7月… 西川 博夫(にしかわ ひろお、1918年 - 1944年7月3日)は、日本の元アマチュア野球選手。埼玉県出身。ポジションは外野手。 浦和中学(現・埼玉県立浦和高等学校)在学中は、甲子園に2回(春2回〈1935年、1937年〉)出場した。浦和中は1935年春には、初出場(埼玉県内では川越中学〈現・埼玉県立川越高等学校〉に次いで2番目の出場)ながらベスト8に入る活躍を見せたが、1937年春の大会では初戦(3月29日)の対・滝川中学〈現・滝川中学校・高等学校〉戦で0-27という大敗を喫した。 1938年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦にも出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月3日、中国北支・石門の陸軍病院にて戦病死した。
椋本 伊三郎(むくもと いさぶろう、1918年 - 2002… 椋本 伊三郎(むくもと いさぶろう、1918年 - 2002年11月28日)は、日本の外交官。駐エチオピア特命全権大使や、駐ウルグアイ特命全権大使を務めた。金大中第15代大韓民国大統領の恩師。 福岡県築上郡椎田町(現築上町)生まれ。中津商業学校(現岐阜県立中津商業高等学校)を経て、1939年長崎高等商業学校(現長崎大学)本科卒業。 朝鮮総督府木浦公立商業学校教諭などを経て、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1948年九州連絡調整地方事務局小倉連調事務所長代理。 在シドニー日本国総領事館領事、在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官等を経て、1964年外務省欧亜局中近東アフリカ部中近東課長。
井戸田 きよ子(いとだ きよこ、1918年(大正7年)- )… 井戸田 きよ子(いとだ きよこ、1918年(大正7年)- )とは、日本の陸上競技選手。 1918年、愛知県に生まれる。愛知淑徳高等女学校(現在の愛知淑徳中学校・高等学校)在学中は愛知県春日井郡山田村(現在の名古屋市西区)に暮らした。1934年4月9日に行われた国際女子競技大会予選で800メートル競走に出場し、日本代表となった。5月31日に国際女子競技大会が行われるロンドンに向けて神戸港を出港した。大会では800メートル競走で2分24秒1という記録を叩き出し、当時の日本記録を更新した。同年11月24日並びに1935年の全日本女子東西対抗陸上競技大会では800メートル競走と走幅跳で優勝した。1935年に名古屋市の鶴舞公園で開かれた大会では400メートル競走を1分2秒6でゴールし日本新記録を達成した他、200メートル競走で27秒3、三段跳で10メートル39を記録した。
小松 暢(こまつ のぶ、1918年 - 1993年11月22… 小松 暢(こまつ のぶ、1918年 - 1993年11月22日)は20世紀の日本の女性。漫画家・やなせたかしの妻で、結婚前は編集者を務めた。「小松」は1度目の結婚以降、やなせとの再婚までの間に名乗った姓で出生時の姓は「池田」。 大阪府大阪市に生まれる。父は現在の高知県安芸市出身で、鈴木商店に勤務していた。幼い頃は釧路市を経て高知市で暮らしており、高知県女子師範学校附属小学校(現:高知大学教育学部附属小学校)、高知県立第二高等女学校(現:高知県立高知丸の内高等学校)に通っていた。大阪で旧制阿部野高等女学校(現:大阪府立阿倍野高等学校)を卒業した。女学校時代は「韋駄天おのぶ」の異名を持つ短距離ランナーとして知られたという。
山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - … 山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - 1983年〈昭和58年〉8月28日)は、日本の実業家。元広島ガス社長、元広島商工会議所会頭。 広島市出身。広島県立広島第一中学校を経て旧制広島高等学校に入学。旧制高校では松谷健一郎元中国電力社長、山本朗元中国新聞社社長、永野厳雄元広島県知事らと同期で、友人だった。旧制高校では寮委員を務め留年したが、非常に人望があった。 旧制高校を卒業後は九州帝国大学工学部に進学、卒業後は住友金属工業に入社するも間もなく海軍に応召。終戦により復員するも、財閥解体により復職できず、四国ガスに勤務した後、1947年(昭和22年)、実父が重役をしていた広島ガスに入社。
塚崎進(つかさきすすむ、1918年 - 2007年9月27日… 塚崎進(つかさきすすむ、1918年 - 2007年9月27日)は、日本の国文学者、民俗学者、歌人。筆号は東籬男(とう りお)。 1941年慶應義塾大学文学部国文学科卒業。折口信夫から国文学、民俗学、短歌作法を学び、折口春洋より短歌実作の指導を受ける。同時に柳田國男にもつき日本民俗学会に属す。
広瀬 謙次郎(ひろせ けんじろう、1918年〈大正7年〉 -… 広瀬 謙次郎(ひろせ けんじろう、1918年〈大正7年〉 - 2004年〈平成16年〉6月1日)は、日本の予知能力者。東京銀座生まれ。父は、日本の実業家。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員を務めた藤田謙一(1873年 - 1946年)。この父の「謙」の字を継ぎ命名された。学生時代に広瀬家の養子となる。 1918年、実業家の藤田謙一の息子として東京市京橋区銀座に生まれる。慶應幼稚舎(小学校)に入学し、附属学校を経て、慶應義塾大学 経済学部へ進学。裕福な時代の藤田家で暮らすが、父藤田謙一の賞勲局疑獄による失脚で、没落した藤田家を離れ、広瀬家の養子となる。1941年、同大学を卒業し、徴兵で中国大陸へ派兵され、蕪湖・蘇州・上海など4年間転戦し、1945年、上海から復員・帰国。
貴志 正造(きし しょうぞう、1918年〈大正7年〉 - 1… 貴志 正造(きし しょうぞう、1918年〈大正7年〉 - 1980年〈昭和55年〉8月27日)は、日本の国文学者。中世日本文学・説話文学専攻。二松学舎専門学校・國學院大學文学部国文科卒業。二松学舎大学文学部国文学科教授を歴任。和歌山県生まれ。
本間 信治(ほんま のぶはる、1918年 - 1995年4月… 本間 信治(ほんま のぶはる、1918年 - 1995年4月28日)は、日本の地名研究家。本名は本間 信治(のぶじ)。 東京生まれ。中央大学専門部商学科卒。第二次大戦のとき沖縄戦に参加。 戦後、測量会社に勤務のかたわら、地名を研究。地名研究協議会、地名文化研究会主宰。楠原佑介の師にあたる。
梅原 成四(うめはら なるし、1918年 - 1957年)は… 梅原 成四(うめはら なるし、1918年 - 1957年)は、日本のフランス文学者。 画家・梅原龍三郎の長男。妹は嶋田紅良。妻の昭子は小坂善之助と田中隆三の孫。 1918年、生まれる。東京帝国大学仏文科卒。 戦後東京大学教養学部助教授となりいくつかのフランス文学の翻訳を行う。 助教授在職中の1957年7月26日午前5時半、急性肺炎により新宿区の自宅で死去。享年39。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
小川 超(おがわ ちょう、1918年 - 1982年11月3… 小川 超(おがわ ちょう、1918年 - 1982年11月30日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 勲三等旭日中綬章 愛媛県生まれ。浦和高等学校(旧制)卒、1948年東京帝国大学文学部独文科卒。立教大学教授、横浜市立大学教授、東京大学教養学部教授、1979年定年、名誉教授、お茶の水女子大学教授、図書館情報大学教授を務め、在任中に死去した。ドイツ文学の子供向け翻訳を多くした。
重兼 暢夫(しげかね のぶお、1918年〈大正7年〉 - … 重兼 暢夫(しげかね のぶお、1918年〈大正7年〉 - 1991年〈平成3年〉4月27日)は、日本の建設技官。東北地方建設局長、国土地理院長を務めた。 1941年東京帝国大学工学部土木工学科卒業、朝鮮総督府技師に任官。1967年東北地方建設局長。1968年国土地理院長。1969年度から1970年度まで日本地図学会会長を務めた。
廣瀬 貞雄(ひろせ さだお、1918年(大正7年) - 20… 廣瀬 貞雄(ひろせ さだお、1918年(大正7年) - 2007年(平成19年)6月9日)は、日本の精神科医、ロボトミスト、日本医科大学教授。同大名誉教授にも。 1918年大阪生まれ。 産婦人科医の養子になる。中学時代から歌舞伎を愛し、演劇論をやるために美学者を志したが、父の反対で断念。 1938年東京帝大医学部に入学。 その後も歌舞伎を愛好し続け、16代目市村羽左衛門宅を訪ねたりしていた。 1946年に派遣された松沢病院では、市村から教わった「切られ与三郎」の所作を披露したことから、「与三さん」との異名をとった。 1951年に学会に発表され、1971年に石川清に告発された、いわゆる「臺実験」で実際に執刀したのは、臺弘ではなく、廣瀬であった。
高山 正喜久(たかやま まさぎく、1918年 - 2017年… 高山 正喜久(たかやま まさぎく、1918年 - 2017年2月10日)は、日本のデザイン学者。筑波大学名誉教授。 岡山県生まれ。1937年岡山県師範学校卒、東京高等師範学校卒、1951年東京文理科大学文学部卒、1955年早稲田大学第二理工学部卒、1972年東京教育大学助教授、1974年筑波大学教授、1982年定年退官、名誉教授、1981年~1986年桑沢デザイン研究所所長。2001年日本デザイン学会特別賞。日本デザイン学会名誉会員。
林 重男(はやし しげお、英語: Shigeo Hayash… 林 重男(はやし しげお、英語: Shigeo Hayashi、1918年 - 2002年9月1日)は、日本の写真家。東京写真専門学校(現 東京工芸大学)を卒業。陸軍傘下の東方社で『FRONT』をはじめとする対外向けの写真を撮影。敗戦直後に文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加し、広島・長崎を撮影した。 戦後は、商業写真家のかたわら、「反核・写真活動」の代表委員・運営委員長を務めるなど反戦平和活動を続けた。 1918年、東京府荏原郡大崎町(現:東京都品川区上大崎)生まれ。東京写真専門学校(現 東京工芸大学)を卒業。横浜シネマ現像所(横浜シネマ商会)に入社。1940年1月19日に徴兵され野戦工兵として満州(中国東北部)に渡る。
小沢 知雄(おざわともお、1918年 - 2016年7月21… 小沢 知雄(おざわともお、1918年 - 2016年7月21日)は、日本の造園学者、緑化工学者。造園地被学などを専門とした。 東京農業大学名誉顧問・同大名誉教授。東京農業大学緑友会名誉会長。造園学科長、日本造園学会会長を歴任。日本造園学会や日本芝草学会名誉会員。東京農業大学総合研究所芝草部会会長。農学博士。 東京農業大学を1941年12月に繰り上げ卒業。日産農林工業株式会社に研究職として就職、農園部企画課に配属後も軍の応召を繰り返すが、健康診断により結局兵隊にはいかずじまいであった。 戦後の1947年から母校農大の園芸研究室に無給の副手として在籍の傍ら、国本女学校で週2日の非常勤講師を務める。同年9月から助手に採用された。
宮崎清隆(みやざき きよたか、1918年 - 2001年5月… 宮崎清隆(みやざき きよたか、1918年 - 2001年5月25日)は、日本の小説家、陸軍軍人。最終階級は陸軍憲兵曹長、作詞家。 新潟県刈羽郡田尻村(現・柏崎市)生まれ。日本大学法学部、経済学部卒。柔道四段、剣道三段。日中戦争では陸軍憲兵曹長として、大陸で転戦し多くの戦傷を負う。戦後は戦争犯罪人として指名され「東洋の魔王」と呼ばれるが連合軍の追跡を逃れ中国を脱出し、6ヵ月の逃避行を行った。1951年日本独立に際し追及を解かれ、後にその体験などを著作としベストセラーとなった。鉄道弘済会本部会長室秘書課勤務。 また、三島由紀夫に惚れられて、15万円のスーツをプレゼントされることや唯一の弟子とも見られていた。
永丘智郎(ながおか ちろう、1918年-1986年7月6日)… 永丘智郎(ながおか ちろう、1918年-1986年7月6日)は、日本の心理学者。 早稲田大学文学部心理学科卒、同大学院修了、関東学院大学助教授、甲南大学文学部教授をへて、聖徳栄養短期大学教授を務めた。
大塚 全教(おおつか ぜんきょう、1918年 - 2007年… 大塚 全教(おおつか ぜんきょう、1918年 - 2007年10月29日)は、真言宗の尼僧、身体障害者。 広島県福山市出身。4歳でポリオ(小児まひ)となり、右腕と左肩から肘にかけて不自由となった。1939年大石順教に師事して1943年に出家得度、勧修寺境内で大石と暮らした。大石の設立した身体障害者自立支援団体「この花会」を引き継いだほか、自らも左足で書や絵画の創作活動を続けた。世界身体障害者芸術家協会名誉会員。 2007年10月29日、局所性腹膜炎のため死去。
出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 - 19… 出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 - 1985年5月17日)は、俳人。筆名は出澤珊太郎。作家星新一の異母兄。
堀 太郎(ほり たろう、1917年 <大正6年> 12月25… 堀 太郎(ほり たろう、1917年 <大正6年> 12月25日 - 1995年 <平成7年> 11月17日 )は、日本の経営者、銀行家。十八銀行頭取を務めた。位階は従四位。 京都府京都市出身。1943年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大蔵省に入省した。1968年7月に経済企画庁審議官、1970年7月に本州四国連絡橋公団理事、1973年6月に世界銀行日本代表理事兼大蔵省顧問兼外務省参与を経て、1976年12月に十八銀行に転じ、副頭取に就任し、1983年10月には頭取に昇格した。1990年2月には会長に就任。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年11月17日、心不全のために死去。
西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日… 西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日 - 2002年7月11日)は、昭和時代から平成時代にかけて活躍した洋画家。 神戸市に生まれる。1939年~1941年の京城での従軍中に画家になる決意を固め、帰国後1942年に小磯良平に師事した後、日本大学専門部芸術科に入学する。卒業後、小磯良平に誘われて新制作派協会(後の新制作協会)に参加し、その後の主たる活動の場とした。 作品の主題は一貫して建造物で、作風は初期の叙情的風景画から次第に想像上の空間を組み合わせたシュールレアリズム的風景画へと変化し、さらに1953年に発表した「洞」「空間」が高い評価を受けて以降は抽象化した建物の構造体による多次元的広がりをもつ空間の表現へと移行する。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
水野 良一(みずの りょういち、1917年12月23日 - … 水野 良一(みずの りょういち、1917年12月23日 - 1999年6月27日)は、愛知県出身のプロ野球選手。
松本 司朗(まつもと しろう、1917年 <大正6年> 12… 松本 司朗(まつもと しろう、1917年 <大正6年> 12月23日 - 1999年 <平成11年> 5月20日)は、日本の経営者。黄桜社長を務めた。位階は正六位。 京都府出身。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、兵役を経て、復員した1946年に松本治六郎商店(のちの黄桜)に入社。1964年に社長に就任。1995年に相談役に就任。 1979年に藍綬褒章を受章。 1999年5月20日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって従七位から正六位に進階した。