本林 勝夫(もとばやし かつお、1919年9月18日 - 2… 本林 勝夫(もとばやし かつお、1919年9月18日 - 2008年11月17日)は、日本近代文学研究者、共立女子大学名誉教授。 石川県生まれ。東北大学大学院博士課程中退。1989年「斎藤茂吉の研究 -その生と表現」で文学博士の学位を取得。同著で第2回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞する。共立女子大学教授を務め、近代短歌を研究した。 2008年11月17日午後0時40分、心不全のため東京都目黒区の病院で死去。89歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
浜田 寅彦(はまだ とらひこ、1919年9月18日 - 20… 浜田 寅彦(はまだ とらひこ、1919年9月18日 - 2009年10月15日)は、日本の俳優。本名は同じ。 高知県安芸郡奈半利町出身。早稲田大学文学部卒業。劇団俳優座に所属していた。 1937年、早稲田大学文学部国文学科に進み、在学中に演劇の道を志す。移動劇団・瑞穂劇団の研究生を経て、兵役後の1946年に劇団俳優座に入る。『桜の園』や『三人姉妹』などの舞台に立った。 1947年『女優須磨子の恋』で映画デビューして以降、映画で端役・助演問わず多くの作品に出演し、1956年公開の映画『壁あつき部屋』では主演を務めた。またテレビ放送が開始された1953年当時からテレビドラマに出演しており、特に刑事ドラマや時代劇における悪役として、悪徳商人やヤクザの親分、庄屋の役などを演じたが、1980年代以降は善人役・老人役を演じることが多くなった。
斎藤 成文(さいとう しげぶみ、1919年9月17日 - 2… 斎藤 成文(さいとう しげぶみ、1919年9月17日 - 2020年10月7日)は、日本の電気工学者。東京大学名誉教授。専門は宇宙電子工学、マイクロ波工学。宇宙通信技術の向上に尽くし、日本の宇宙開発に貢献した。 1919年、東京都に生まれる。慶応義塾普通部から浦和高等学校 (旧制)を経て、1941年12月、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、終戦まで海軍短期現役技術士官としてマイクロ波レーダの開発を行う。 終戦後、東京大学第二工学部助教授、1951年東京大学工学博士。「高周波誘電加熱に関する基礎的研究」。MIT客員教授を経て、1957年に東京大学生産技術研究所助教授として観測ロケット特別事業に参加し、同年教授に就任。
千葉 正士(ちば まさじ、1919年9月17日 - 2009… 千葉 正士(ちば まさじ、1919年9月17日 - 2009年12月17日 )は、日本の法学者。東京都立大学名誉教授。法学博士(東北大学、1962年)(学位論文「学区制度の研究:国家権力と村落共同体の再編成」)。専門は法社会学、スポーツ法学。宮城県仙台市出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。
井関 章(いせき あきら、1919年〈大正8年〉9月16日 … 井関 章(いせき あきら、1919年〈大正8年〉9月16日 - 2011年〈平成23年〉1月7日)は、日本の実業家、1級建築士。フジタ工業(現在のフジタ)副社長、フジタ顧問を務めた。 広島県広島市出身。1936年、広島県立広島工業学校を卒業し、同年に当時の藤田組に入り広島支店次長を経て1967年に取締役広島支店長に就任する。 フジタ工業常務、同副社長、廿日市観光開発社長を務めた。2011年1月7日、多臓器不全のため死去した。 趣味はゴルフ、登山、園芸。住所は広島県広島市東区牛田本町1丁目、廿日市市阿品4丁目。
具 常(ク・サン、本名:具 常浚(ク・サンジュン)、1919… 具 常(ク・サン、本名:具 常浚(ク・サンジュン)、1919年9月16日 - 2004年5月11日)は、大韓民国の小説家であり言論人である。キリスト教的な存在論を基盤として美意識を追求、伝統思想や仙仏教的な瞑想及び老荘思想まで包括する広範囲の精神世界を受容し、人間存在と宇宙の意味を探求する求道的な傾向が濃い。主要作品として『焦土の詩』などがあげられる。 本貫は綾城具氏。1919年ソウル特別市で生まれ、1920年代初期に家族と共に咸鏡南道元山に移住し、そこで育った。 天主教の家系の影響を受け、小神学校で学んだ。日本に渡り1941年東京の日本大学哲学科を卒業した。この時期にフランスや西欧の急進思想に触れ、1942年に帰国。
三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 -… 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動した。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活動した。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。
原子 公平(はらこ こうへい、1919年9月14日 - 20… 原子 公平(はらこ こうへい、1919年9月14日 - 2004年7月18日)は、俳人。 北海道小樽市に生れる。北朝鮮元山中学校、旧制第三高等学校を経て東京大学文学部を卒業。その後岩波書店、小学館などに勤務した。 俳句は三高時代に「馬酔木」に投句、その後加藤楸邨に師事し「寒雷」同人。1946年、澤木欣一、細見綾子らとともに「風」を創刊、同誌に俳句および評論を発表し社会性俳句を推進、特に1955年に発表した「山本健吉の時評」は社会性俳句の論争のきっかけとなった。1952年より現代俳句協会幹事。1953年「萬緑」同人。1962年「萬緑」を退会し「海程」同人。また「秋」にも同人として参加した。1973年「風涛」を創刊、主宰。
村上七郎(むらかみ しちろう、1919年〈大正8年〉9月14… 村上七郎(むらかみ しちろう、1919年〈大正8年〉9月14日 - 2007年〈平成19年〉9月18日)は、日本の実業家。テレビ新広島副社長、フジテレビジョン専務取締役、関西テレビ放送社長、日本民間放送連盟副会長などを務めた。 陸軍大将を務めた菅野尚一・ハルの七男に生まれる。東京で誕生後、山口県に転居(一部のプロフィールには山口県出身と明記)。末子であるため、学生時代に村上水軍の末裔である母方の血筋を継ぎ、村上健三の養子となる。第22代因島村上家当主。 第一高等学校を経て、1947年東京大学法学部卒業後、共同通信社に入社。社会部記者として出発し、同期にはのちにTBSニュースキャスターを経て参議院議員となる田英夫がいた。
天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 19… 天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 1985年12月18日)は、日本の水泳選手。福岡県直方市出身。 1937年、福岡県立鞍手高等学校卒業。八幡製鐵を経て日本大学に入学。大学時代の1938年8月10日に神宮プールで行われた第14回関東水上選手権大会の1500m自由形で当時の世界新記録(18分58秒8。1000m通過タイム12分33秒8も当時の世界新記録)を樹立した。同記録は1949年8月の全米水上選手権予選で橋爪四郎に破られるまで11年間保持された。
鈴木 文彦(すずき ふみひこ、1919年〈大正8年〉9月13… 鈴木 文彦(すずき ふみひこ、1919年〈大正8年〉9月13日 - 没年不詳)は、日本の外交官、国際公務員。外務省経済局次長、外務省国際連合局長等を経て、1979年から82年までジュネーヴ国際機関日本政府代表部特命全権大使を務めた。 東京出身。東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、1940年浦和高等学校文科甲類卒業。1942年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。1946年に解員(復員)した。 外務省経済局国際機関課長等を経て、1962年在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部一等書記官。
水野 義久(みずの よしひさ、1919年9月13日 - 20… 水野 義久(みずの よしひさ、1919年9月13日 - 2005年5月24日)は、岡山県出身の薬学者。北海道大学名誉教授。第二次世界大戦時は陸軍に入隊した。
越後山 重正(えちごやま しげまさ、1919年9月12日 -… 越後山 重正(えちごやま しげまさ、1919年9月12日 - 1993年1月4日)は、高砂部屋に所属した元大相撲力士。本名は加藤 重正(旧姓柳)。現在の新潟県十日町市出身。182cm、98kg。最高位は東十両4枚目。 1938年5月初土俵、1945年11月十両昇進。勝ち越すも翌場所の1946年11月限り廃業した。
加倉井 和夫(かくらい かずお、1919年9月11日 - 1… 加倉井 和夫(かくらい かずお、1919年9月11日 - 1995年9月24日)は、日本画家。日本芸術院会員。俳人・建築家の加倉井秋を(加倉井昭夫)は兄。 神奈川県横浜市に生まれる。1938年、茨城県立太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)卒業。1944年、東京美術学校日本画科卒業。山口蓬春に師事。第8回日展(1952年)から第13回日展(1957年)まで入選を重ねる。1981年、「青苑」で日本芸術院賞受賞。1989年、日本芸術院会員。1990年、日展常務理事。1992年、勲三等瑞宝章受章。1995年春、ニューヨークで「私の映像 - 加倉井和夫展」を開催。 同年9月24日、急性心不全のため横浜市内の病院で死去。
堀越 克明(ほりこし かつあき、1919年9月10日 - 2… 堀越 克明(ほりこし かつあき、1919年9月10日 - 2011年11月8日)は、日本の教育者。学校法人堀越学園理事長、穎明館中学・高等学校理事長、日本私立中学高等学校連合会会長を務めた。 1919年東京府(現・東京都)生まれ。東京大学農学部卒業。中央教育審議会委員・総務庁国際青年事業推進会議企画委員長、財団法人日本私学教育研究所常任顧問を歴任。堀越高等学校の前身・堀越高等女学校を創立した堀越千代の孫[要出典]。 校長就任後の1973年、同校の創立50周年記念の際に芸能・スポーツのコースを設置。 政治的・思想的には保守の立場に立ち、新しい歴史教科書をつくる会に賛同したほか、日本会議「『日本の教育改革』有識者懇談会」(民間教育臨調)代表委員も務めた。
村田 敏郎(むらた としろう、1919年9月10日 - 20… 村田 敏郎(むらた としろう、1919年9月10日 - 2007年4月17日)は、日本の薬学者(薬物動態学・生物薬剤学)、文部官僚。勲等は勲二等。学位は医学博士(県立鹿児島医科大学・1961年)、薬学博士(東京大学・1961年)。静岡薬科大学名誉教授、財団法人日本薬剤師研修センター名誉会長、社団法人日本薬学会有功会員、社団法人日本薬物動態学会名誉会員。 東京帝国大学医学部助手、東邦女子医学薬学専門学校教授を経て、文部省や厚生省に勤務し、札幌医科大学医学部助教授、熊本大学薬学部教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長(第5代)、財団法人日本薬剤師研修センター理事長(初代)、学校法人共立薬科大学理事長、財団法人日本薬剤師研修センター会長(第2代)などを歴任した。
野田 弘(のだ ひろむ、1919年9月10日 - 1997年… 野田 弘(のだ ひろむ、1919年9月10日 - 1997年1月10日)は、昭和時代日本の教育者。作詞家としての別名義に小川 楠一(おがわ くすいち)がある。 1919年(大正8年)、香川県三豊郡上高野村(現在の三豊市豊中町上高野)に生まれる。1939年(昭和14年)に香川県師範学校本科二部を卒業、県内各地で小学校教員を務めた。教員としては国語の指導に力を入れ、学習指導に関する著書を多数執筆している。 丸亀市立城北小学校の校長職に在った1953年(昭和28年)に香川県が実施した「香川県民歌」歌詞の一般公募で応募作が入選し、翌1954年(昭和29年)1月に制定される(「小川楠一」名義)。1960年代には、文部省の派遣で当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄へ出向した。
中山 好三(なかやま よしぞう、1919年9月8日 - 19… 中山 好三(なかやま よしぞう、1919年9月8日 - 1982年10月8日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。山口県出身。 1940年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1962年11月に取締役に就任し、1964年11月に常務、1968年8月に専務、1972年11月に副社長を経て、1975年3月に社長に就任。1981年12月には会長に就任。 1982年10月8日肺炎のために死去。63歳没。
室井 鐵衛(むろい てつえ、1919年9月6日 - 2011… 室井 鐵衛(むろい てつえ、1919年9月6日 - 2011年4月5日)は、日本の商学者。元宣伝会議会長、東京国際大学教授。 米田清紀と並び、エリア・マーケティング研究の第一人者であった。商学博士。栃木県出身。 慶應義塾大学経済学部卒業後、時事通信社、中央調査社に勤務し、欧米の市場調査を日本に導入。その後、大広でマーケティング局長、常務取締役となり、広告の近代化と発展を牽引した。 実務の第一線から研究者に転じ、後年は千葉商科大学、東京国際大学大学院教授を務め、後進の育成に寄与した。 1993年から1999年まで株式会社宣伝会議取締役会長を務めた。 エリアマーケティングの第一人者で、長年にわたり広告マーケティング分野で活躍した。
丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年… 丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年8月7日)は、日本の民俗学者、苗字・家紋研究家。イタリアのオリエンタル大学名誉教授、文学博士。日本家系図学会会長、日本伝統美保存会、地名を守る会代表などを歴任した。 1919年、栃木県で生まれた。1944年、國學院大學国文科を卒業する。卒論のテーマは『源氏物語』。柳田國男、樋口清之、折口信夫、太田亮らに師事した。高校教師の傍ら苗字調査を続け、1980年の退職後に本格的な研究活動に入り、全国の100万基の墓を巡った。 2006年8月7日、肺炎のため逝去。 栃木県佐野市に住んでいた幼少時に、隣組の住人の苗字、四十八願(よいなら)に関心を抱き、師事した柳田國男にその苗字について質問をしたところ、柳田に勧められ苗字の研究を開始する。
水田 洋(みずた ひろし、1919年9月3日 - )は、日本… 水田 洋(みずた ひろし、1919年9月3日 - )は、日本の思想史家。日本の社会思想史研究の代表的人物で、世界でのアダム・スミス研究推進者の一人。1998年12月日本学士院会員に就任。18世紀スコットランド研究国際学会 (Eighteenth-Century Scottish Studies Society) 生涯業績賞を2001年に受賞[3]。名古屋大学名誉教授、名古屋大学高等研究院アカデミー会員。水田からの寄付金により名古屋大学では「水田賞」を設置し、人文・社会科学(思想史)の若手研究者を表彰している[4][5]。
綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 199… 綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 1997年1月28日)は、群馬県出身のプロ野球選手(外野手)。1966年に綱島新哉に改名。 高崎市立商業補習学校から立教大学、社会人野球の明電舎、増田化学工業、山藤商店を経て、1949年に大映スターズへ入団。 1950年に松竹ロビンスへ移籍。1953年は前年に球団が吸収合併されたため洋松ロビンス所属となり、同年限りで現役を引退。 1958年にPL学園高等学校の監督に就任。1961年に退任するが1963年に復帰し、同年再び退任。1966年に拓殖大学の監督を務めた。
川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2… 川村 明義(かわむら あきよし、1919年〈大正8年〉9月2日 - 2006年〈平成18年〉6月9日)は、日本の免疫学者、医師。医学博士(東京大学・1957年)。東京大学名誉教授。 新潟県新潟市学校町通2番町(現 新潟市中央区学校町通2番町)の新潟医学専門学校病理学教室教授・川村麟也の三男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業、1945年(昭和20年)9月に千葉医科大学を卒業。 1945年(昭和20年)10月に東京帝国大学伝染病研究所第二研究部(部長:田宮猛雄教授)に嘱託として入所、1948年(昭和23年)に東京大学伝染病研究所第五研究部(部長:田宮猛雄教授)副手に就任、1949年(昭和24年)に助手に就任、1959年(昭和34年)7月に東京大学伝染病研究所第二細菌研究部(部長:山本郁夫教授)助教授に就任、1971年(昭和46年)4月に東京大学医科学研究所免疫学研究部長・教授に就任、1980年(昭和55年)4月に東京大学を定年退官、5月に東京大学名誉教授の称号を受称。
石井 勲(いしい いさお、1919年9月2日 - 2004年… 石井 勲(いしい いさお、1919年9月2日 - 2004年)は、日本の教育者。大東文化大学幼少教育研究所所長、大東文化大学附属青桐幼稚園園長などを歴任し、また、石井教育研究所、日本漢字教育振興協會を創設して、特に幼児への漢字教育に取り組み、いわゆる「石井式漢字教育(石井方式)」を開発した。 山梨県に生まれる。山梨県立都留中学校(後の山梨県立都留高等学校)を経て、1937年に大東文化学院(後の大東文化大学)本科へ入学、さらに同高等科へ進んだ。しかし、1942年12月に、戦時体制下で繰上げ卒業となって、直ちに陸軍航空本部へ召集された。 敗戦後は、1948年に山梨県立都留高等学校で英語科と国語科を兼ねる教諭となったが、1950年に東京都八王子市の中学校教諭へ転じ、さらに小学校教教諭の教員免許を取得して、新宿区の小学校の教諭となった。
脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日 ‐ … 脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日 ‐ 1997年(平成9年)12月12日)は、日本の政治家。1971年から1995年までの6期24年にわたり高松市長を務めた。日本社会党県副委員長、全国革新市長会会長などを歴任。高松市名誉市民。 高松市出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て中央大学法学部を卒業。戦後は帰郷し、同郷の成田知巳(後の日本社会党委員長)の秘書を16年間務める。 前市長・三宅徳三郎の1期限りでの引退表明を受け行われた1971年の高松市長選挙に、社会党と共産党の推薦を受け立候補。自身としては3回目の挑戦であったが、当時全国各地で革新自治体が誕生していたことや、保守陣営が分裂したことも手伝い初当選。
森 国五郎(もり くにごろう、1919年9月1日 - 194… 森 国五郎(もり くにごろう、1919年9月1日 - 1945年)は、大分県出身のプロ野球選手。
武田弘道(たけだ・ひろみち、1919年9月 - 1984年6… 武田弘道(たけだ・ひろみち、1919年9月 - 1984年6月)は日本の哲学者、論理学者。北海道旭川市生まれ。 戦後の哲学界に分析哲学と記号論理学を紹介した第一世代の一人。カール・ポパーの主著で浩瀚なる『自由社会の哲学とその論敵』を翻訳出版して(1963年、1973年)令名を高める。海外の哲学者との交友も多く、学会では海外研究者の講演のときには、通訳をした。 三宅剛一の言葉「多く考え、少なく書け」を地でいった人であった。 武田ひろ子編『会議は踊る・ただひとたびの――武田弘道追悼集』ミネルヴァ書房、1985年
飯村 繁(いいむら しげる、1919年〈大正8年〉9月 - … 飯村 繁(いいむら しげる、1919年〈大正8年〉9月 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の元軍人、外交官。陸士53期卒(山砲)。最終階級は陸軍少佐。戦後は在ポーランド・在フィンランド大使館附書記官、内閣調査室調査官、官房会計課予算経理官を歴任した。父は陸軍中将で総力戦研究所所長の飯村穣、岳父は同じく陸軍中将で参謀次長の沢田茂。子は元駐仏大使の飯村豊。 東京府出身。飯村穣・光子の長男。幼少期は大戦の軍需景気に伴うインフレで電気代やガス代も払えないほど生活は困窮しており、休日の食事は白米のみという有様で、姉妹三人は茨城県の父の実家に預けられていた。 麻布中学より東京陸軍幼年学校に転じ、陸軍士官学校を53期生として卒業。
谷端 長(たにはた ひさし、1919年8月31日 - 200… 谷端 長(たにはた ひさし、1919年8月31日 - 2001年1月21日 )は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。経営学博士。 和歌山県古座町(現串本町)出身。1941年彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)卒業。彦根高商時代は文芸部に所属し、経済哲学に関心を持つ。1943年東京商科大学(現一橋大学)卒業。松下電器産業、徴兵、古座造船所等を経て、1951年に神戸大学経営学部助手となる。1959年、著書『動的会計論の構造』(森山書店)にて日本会計研究学会賞・太田賞を受賞。1964年神戸大学経営学部教授。翌1965年、『動的会計論』(森山書店)を出版。この年より甲南大学や香川大学でも教鞭を執る。1984年に神戸大学停年退職、同大学名誉教授、大阪商業大学教授に着任。
高碕 芳郎(たかさき よしろう、1919年8月30日- 20… 高碕 芳郎(たかさき よしろう、1919年8月30日- 2011年4月10日 )は、日本の経営者。東洋製罐社長、会長を務めた。高碕達之助の長男。 大阪府出身。1953年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に東洋製罐に入社した。常務、専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1964年には社長に昇格した。1992年6月に会長に就任し、2001年6月には名誉会長に就任。関西テレビ放送取締役も務めた。 1999年4月に藍綬褒章を受章した。 2011年4月10日、老衰のために死去。91歳没。墓所は小平霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 森右衛門(いとう もりうえもん、1919年8月29日 … 伊藤 森右衛門(いとう もりうえもん、1919年8月29日 - 1990年8月6日)は、日本の経営学者。小樽商科大学名誉教授。北海道におけるエコノミストのパイオニア。小樽区(現小樽市)出身。平井泰太郎門下。 息子に経済学者の伊藤隆敏(一橋大学・東京大学教授を経て、コロンビア大学教授、元日本経済学会会長)がいる。教え子に佐野力(日本オラクル初代会長兼CEO)などがいる。 この他、学内では小樽商科大学学生部長などを歴任。公職としては、北海道最低賃金審議会長。北海道交通審議会会長。札幌商業調整審議会長。また、札幌市地下鉄計画や小樽市都市計画にも参画し指導提案した。平成2年、第22回北海道開発功労賞受賞。
原田 督三(はらだ とくぞう、1919年8月28日 - 19… 原田 督三(はらだ とくぞう、1919年8月28日 - 1976年3月30日)は、愛知県出身のプロ野球選手、野球解説者。ポジションは外野手。1948年~1955年まで原田徳光の登録名でプレー。
中村 輝彦(なかむら てるひこ、1919年 <大正8年> 8… 中村 輝彦(なかむら てるひこ、1919年 <大正8年> 8月27日 - 2007年 <平成19年> 2月7日)は、日本の外交官。 栃木県出身。東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入省。調査局に配属。1979年から駐サウジアラビア大使を務めた(〜1982年)。また、外務省中近東アフリカ局長などの要職を歴任。1986年より住友商事顧問。1989年秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受章。 死後、死亡日に遡って従三位に叙せられた(2007年(平成19年)3月13日付官報にて告示)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
八十島 義之助(やそしま よしのすけ、1919年(大正8年)… 八十島 義之助(やそしま よしのすけ、1919年(大正8年)8月27日 - 1998年(平成10年)5月9日)は、日本の土木工学者。工学博士。東京大学名誉教授。専門は鉄道工学、交通計画学。 東京府出身。慶應義塾幼稚舎、旧制府立高等学校(7年制)を経て、1941年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。翌年、母校の講師となる。その後、東京大学工学部助教授を経て、1955年「敷設軌条の力学的特性に関する研究」で工学博士となり、同年教授に就任。東大紛争では大学改革準備調査会委員長を務める。1980年に定年退官、名誉教授となるとともに、埼玉大学教授に就任。 1986年、帝京技術科学大学(現・帝京平成大学)初代学長に迎えられ、1992年3月、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)会長となる。
葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日… 葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の歌人・実業家。 広島県呉市出身。東京工業大学電気工学科卒。1938年(昭和13年)、『多磨』に入会し、北原白秋に師事。1950年(昭和25年)、岡部桂一郎、金子一秋、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。翌年、伊藤麟、片山貞美、草柳繁一、杉本二木雄、深作光貞、森比左志、山崎方代らが加わる。1953年(昭和28年)、宮柊二の『コスモス』創刊に参加、のち編集人。1981年(昭和56年)、歌集『玄』で第32回読売文学賞受賞。日新運輸倉庫(現・日新)取締役を務めた。
小澤 保知(おざわ やすとも、1919年8月24日 - 20… 小澤 保知(おざわ やすとも、1919年8月24日 - 2009年12月21日)は、日本の工学者。工学博士(北海道大学)。専門は電気工学。北海道大学名誉教授・元北海道自動車短期大学学長。位階は正四位。北海道空知郡岩見沢町(現・岩見沢市)出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
大野 晋(おおの すすむ、1919年(大正8年)8月23日 … 大野 晋(おおの すすむ、1919年(大正8年)8月23日 - 2008年(平成20年)7月14日)は、日本の国語学者。文学博士。学習院大学名誉教授。
林 竹男(はやし たけお、1919年8月23日 - 1992… 林 竹男(はやし たけお、1919年8月23日 - 1992年9月18日)は、大阪府出身の日本の物理学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都大学)。元京都大学原子炉実験所(現:京都大学複合原子力科学研究所, KURNS)第4代所長。日本原子力学会強力中性子源研究専門委員会構成委員。 専門は、原子核物理学・核融合炉開発。 1943年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、1944年京都府立高等農林学校講師。1949年西京大学(現:京都府立大学)の発足により同助教授兼任となり、1958年同教授に昇格する。1964年に京都大学原子炉実験所(現:京都大学複合原子力科学研究所, KURNS)教授となり、1980年から1983年まで同実験所第4代所長を務めた。
山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日… 山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の新聞記者、実業家。中国新聞社第4代社長。 広島県広島市出身。中国新聞創業家に生まれる。子供時代から優等生で広島高等師範学校附属小学校を5年で修了し、広島県立広島第一中学校に入学。旧制中学を4年修了で旧制広島高等学校に進学。自転車通学で3年間無遅刻、無欠席を続け卒業時には皆勤賞を受けた。同期に永野厳雄(広島県知事)、1年後輩に松谷健一郎(中国電力会長)などがいる。 旧制高校卒業後、東京帝国大学経済学部に進学。1941年4月、実父の山本實一が社長を務める中国新聞社に入社。県政記者などを担当していたが、1944年(昭和19年)3月召集令状が来て呉海兵団へ入隊。
高木 一見(たかぎ かずみ、1919年(大正8年)8月20日… 高木 一見(たかぎ かずみ、1919年(大正8年)8月20日 - 1997年(平成9年)3月18日)は、日本の実業家。毎日放送(MBS)元社長。 広島県出身。東北大学法文学部卒業後、1947年(昭和22年)に毎日新聞社へ入社。 1955年(昭和30年)、大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)の設立と同時に出向し、経理部長をつとめた後、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)に転籍して財務部長。その後経理部長、総務局長、テレビ営業局長、取締役テレビ編成制作局長を経て、1968年常務、1969年専務、1979年副社長をそれぞれ歴任。1980年(昭和55年)、第3代社長坂田勝郎の後を受けて毎日放送第4代代表取締役社長に就任した。
武田 繁太郎(たけだ しげたろう、1919年(大正8年)8月… 武田 繁太郎(たけだ しげたろう、1919年(大正8年)8月20日 - 1986年(昭和61年)6月8日)は、日本の小説家。兵庫県神戸市生まれ。早稲田大学独文科卒。 早稲田大学在学中に同人誌「炬火」に参加。 芥川賞候補に4回推されるが、いずれも受賞を逸した。 1960年作の「自由ヶ丘夫人」(光文社)はベストセラーとなり、1960年8月に映画化(東宝、監督佐伯幸三。出演:新珠三千代・池部良・淡路恵子・安西郷子・加東大介・浜美枝・有島一郎・杉葉子)されて、自由が丘の高級住宅街としてのイメージアップにつながった。また全国に「〜丘」という地名が出来るきっかけともなった。この他に「芦屋夫人」(1959年)、「銀座夫人」(1962年)がある。
阿部 新(あべ あらた、1919年(大正8年)8月17日 -… 阿部 新(あべ あらた、1919年(大正8年)8月17日 - 2009年(平成21年)1月8日)は、昭和時代の政治家。秋田県鹿角市長。 鹿角市出身。1943年(昭和18年)九州帝国大学農学部卒業。 花輪町農業会長を経て、1948年(昭和23年)秋田県庁に奉職。鹿角地方事務所経済課長を経て、1956年(昭和31年)鹿角郡花輪町長に当選。1972年(昭和47年)合併により初代鹿角市長となった。3期務め、1988年(昭和63年)4月、落選した。ほか、尾去鉱山観光代表を歴任した。2009年(平成21年)1月8日死去、89歳。死没日をもって従四位に叙される。
石坂 富司(いしざか とみじ、1919年8月17日 - )は… 石坂 富司(いしざか とみじ、1919年8月17日 - )は、日本の教育者。東京都立八王子東高等学校初代校長。群馬県沼田市出身。勲四等瑞宝章。専門分野は歴史。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年… 高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)・解説者・評論家。 東京府立第一商業 から慶應義塾大学へ進学。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(別名・最後の早慶戦)では先発の久保木清の中継ぎとして登板した。卒業後に菊水クラブへ進み、1950年に大映スターズへ入団。1951年から1953年まで3年連続で9勝を記録。現役生活は6年のみであり通算では負け越しているものの、終始大映の主力投手として活躍した。1955年引退。 引退後はニッポン放送解説者・スポーツニッポン評論家を務めた。
小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 19… 小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 1998年9月22日)は、昭和(戦後)の裁判官。 1919年(大正8年)8月15日生まれ。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、南満州鉄道に勤務。現地で軍隊に召集され、抑留の後、復員。1947年(昭和22年)司法試験合格。同年に創設された司法修習所第1期出身の裁判官。法律に強い理論派で、厳格な法解釈で知られた。 自衛隊の合憲性が問われた長沼ナイキ事件 控訴審の裁判長。1審で出された初の自衛隊違憲判決を覆し、最高裁の「送り込み人事」、「長沼シフト」と言われた。
鈴木 隆(すずき たかし、1919年8月12日 - 1998… 鈴木 隆(すずき たかし、1919年8月12日 - 1998年1月25日)は、日本の児童文学作家。 岡山県生まれ。旧制岡山中学校から会津の旧制喜多方中学校に転校。早稲田大学文学部卒。 早大童話会経由で坪田譲治に師事して童話作家となる。1966年に刊行した自伝的長編『けんかえれじい』が鈴木清順によって映画化され、この作で有名になる。
土山 牧羔(つちやま ぼっこう、1919年8月12日 - 2… 土山 牧羔(つちやま ぼっこう、1919年8月12日 - 2013年1月28日)は、日本の教育者である。 1919年(大正8年)大阪府で出生。大阪府立住吉中学校卒業後、アメリカ合衆国へ渡りグリーンビル大学哲学教育学科、1945年(昭和20年)にプリンストン神学大学大学院進学、修士課程を修了。1946年(昭和21年)にシアトルパシフィック大学専任講師を勤めた後に帰国。1948年(昭和23年)に大阪キリスト教学院教授、1952年(昭和27年)大阪キリスト教短期大学学長、1965年(昭和40年)近畿大学講師、1966年(昭和41年)大阪薫英女子短期大学講師などを歴任。 1971年4月1日 社会福祉法人愛の園こひつじ保育園を大阪府堺市にて創立。
沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1… 沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1987年12月5日)は、岩手県出身のプロ野球選手(投手)。 盛岡商業学校時代の1936年、夏の甲子園にエースとして出場するも、初戦で全国制覇した岐阜商業学校に大敗した。 高校卒業後は、日本製鐵釜石へ進み、盛岡鉄道管理局へ移籍するとエースとして活躍。1948年の全国鉄道大会では優勝に貢献した。 1950年に創設したばかりの近鉄に入団した。チーム公式戦の第2戦、1950年3月13日の対南海戦に先発完投勝利を挙げ、これが球団および自身の公式戦初勝利となる。この年は50試合に登板、チーム最多の18勝をマークするも、チーム自体は首位毎日から37.5ゲーム差の最下位だった。
神山 四郎(こうやま しろう、1919年8月10日 - 19… 神山 四郎(こうやま しろう、1919年8月10日 - 1996年12月31日)は、日本の西洋史学者、慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶大文学部助教授、教授、1985年定年退任、名誉教授。専門は歴史哲学、比較文明論、福沢諭吉研究。
尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 194… 尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 1943年12月27日)は、日本陸軍の軍人。戦死後、二階級特進し陸軍中佐。 水戸藩家老に連なる海軍中佐・尾崎貴信の二男として長崎県佐世保市で生まれる。出身地は東京市四谷区若葉町。東京府立一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1940年6月、陸軍航空士官学校(53期)を卒業。航空兵少尉任官。明野陸軍飛行学校学生。 1940年10月、飛行第33戦隊付になり、1941年3月、太刀洗飛行学校教官、8月に中尉任官。1942年10月から1943年4月にかけて明野飛行(甲)学生、同じく同年4月から飛行第25戦隊第二中隊長に着任。同年12月に大尉。