金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2… 金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2年(1990年)9月23日)は、昭和期広島県の教育者である。忠海高等学校・府中高等学校・広島国泰寺高等学校・崇徳高等学校等の校長を歴任した。 1912年に長崎県で生まれる。実兄と同じ旧制第五高等学校で学ぶ。その後、東京帝国大学文学部国文科へ進学し、同校を昭和3年(1928年)3月に卒業する。同年4月より戦前の大手出版社で教科書出版の老舗で知られる冨山房編集部で勤務する。しかし、教職に携わっていた実父・金子豪から「金子豪は長男も教職にあり。直接に育英の道に入るべきぞ」と勧められ、また全国中学校長会長である先輩に相談したところ、「それは丁度いい。
上甲 幹一(じょうこう かんいち、1912年 - 1969年… 上甲 幹一(じょうこう かんいち、1912年 - 1969年)は、日本の国語教育学者。 東京生まれ。1936年東京帝国大学文学部国文科卒。文部省学習指導要領編集委員。名古屋大学教授。
野生司 義章(のうす よしあき、1912年 - 没年不詳)は… 野生司 義章(のうす よしあき、1912年 - 没年不詳)は、日本の建築家。都市プランナー。ラインヒルゴルフクラブや、北砂五丁目団地など日本住宅公団発足初期の団地設計、その他多くの日本住宅公団住宅の設計や旧日本電信電話公社(現NTT)関連の建築物、その他都市開発・法定再開発などの都市計画の仕事を中心に展開した。千葉工業大学建築学科の創設にも携わり、同大学教授として人材の育成にもあたる。戦前期発行されていた雑誌『国際建築』編集にも関与し、建築作家研究などにも優れた業績を残す。工学博士。子息野生司義光も建築家。 東京帝国大学工学部建築科を1940年に卒業後、三菱地所設計部(現三菱地所設計)、海軍技術大尉、戦後の大成建設勤務を経て、野生司建築設計事務所(ピーク時の所員数は約150名)を開設。
松島省三(まつしま しょうぞう、1912年 - 1997年)… 松島省三(まつしま しょうぞう、1912年 - 1997年)は、日本の農学者。長野県出身。 1934年東京帝国大学農学部農学実科卒業。埼玉県鴻巣市にあった農林省農業技術研究所で提唱した早期に有効茎数を確保するV字型稲作理論は現在の稲作技術の原点となった。 父親が内村鑑三に傾倒していたことから自身も熱心なキリスト教信者であり、矢内原忠雄に師事している。
春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - … 春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - 1995年(平成7年))は昭和期の歌手である。 東京都出身。東京音楽学校卒業。 1932年(昭和7年)デビュー。キングレコードなどで昭和初期に活躍。次の歌などを歌唱した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
五十嵐 正(いがらし ただし、1912年 - 1981年)は… 五十嵐 正(いがらし ただし、1912年 - 1981年)は、日本の建築家、北海道滝川町生まれ。デザイナーの五十嵐威暢は甥に当たる。2005年、威暢の毎日デザイン賞(特別賞)決定により、その影響を与えた人物として、五十嵐正に注目した建築系編集者植田実(建築評論家)の手による取材が行われ、「Casa BRUTUS」(マガジンハウス)の雑誌記事と書籍の出版が行われた。 1912年(明治45年)、北海道滝川町の実業家 五十嵐太郎吉の家庭に六男として生まれた。 明治学院大学文学部英文学科に進学するが、目指すものが違うと、その後日本大学工学部(現 理工学部)建築学科 に再入学し建築家を志す。1938年(昭和13年)、同校を卒業し、東京の木田建業に入社する。
申 泰煥(シン・テファン、英語: SHIN Tae-hwan… 申 泰煥(シン・テファン、英語: SHIN Tae-hwan、1912年 - 1993年)は、大韓民国の経済学者、政治家。大韓民国建設部長官、ソウル大学校総長、大韓民国国土統一院長官を歴任した。本貫は平山申氏。 日本統治時代の朝鮮の京畿道仁川府で生まれる。1936年に京城高等商業学校卒業。1939年に旧制東京商科大学(現一橋大学)本科を卒業し、商学士を取得。専門は理論経済学。在学中、全朝鮮陸上選手権大会の800メートル競走で優勝。同年延禧専門学校(現延世大学校)教授。 1945年朝鮮基督教大学(現延世大学校)教授。1952年ソウル大学校法科大学教授。同年釜山で韓国経済学会を創立。1957年ソウル大学校法科大学長。
池 河連(チ・ハリョン、1912年 - 1960年)は、日本… 池 河連(チ・ハリョン、1912年 - 1960年)は、日本統治時代の朝鮮・連合軍軍政期の南朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国の女性小説家。本名は李 現郁。朝鮮文学家同盟常任委員などとして活動し、第1回朝鮮文学賞受賞。 日本統治時代の朝鮮の慶尚南道居昌郡の裕福な家に生まれ、当時の女性としては珍しく日本に留学し、旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業した。日本の降伏後、朝鮮文学家同盟常任委員などとして活動し、1946年7月の機関紙『文学』創刊号で発表した作品「道程」により第1回朝鮮文学賞を受賞した。1947年に北朝鮮に移るが、朴憲永派が失脚したのち、夫の林和が処刑されたのを知り、発狂して死去したとされる。
吉村 克二(よしむら かつじ、1912年(明治35年) - … 吉村 克二(よしむら かつじ、1912年(明治35年) - 1982年(昭和57年))は、日本の農学者・水産学者。専門は水産学・水産食品学。北海道大学及び函館短期大学名誉教授。元函館短期大学学長。北海道砂川市出身 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
北垣 隆一(きたがき りゅういち、1912年 - 没年不詳)… 北垣 隆一(きたがき りゅういち、1912年 - 没年不詳)は、日本の文芸評論家。北山 隆(きたやま りゅう)という名義でも知られている。 1912年に東京の文京区で生誕する。1934年に早稲田大学文学部史学科を卒業し、東京精神分析学研究所に入会する。著書『夏目漱石の精神分析』でフロイト賞を受賞し、後に本書の全面的な改稿である『改稿 漱石の精神分析』を出版した。 夏目漱石の盲人嫌悪について分析している。 小阪知弘は、北垣が三島由紀夫について、興味深い見解を提示していると評した。野坂昭如は、北垣の著作活動に感謝を表明した。
仁井田 一郎(にいだ いちろう 1912年(明治45年) -… 仁井田 一郎(にいだ いちろう 1912年(明治45年) - 1975年(昭和50年))は栃木県足利郡御厨町(現足利市)町議会議員・実業家・農業技術研究家。栃木県のイチゴ栽培技術を確立し、同県を日本有数のイチゴ生産地に発展させた。
魚住 文衛(文衞、うおずみ ふみえ、1912年 - 1999… 魚住 文衛(文衞、うおずみ ふみえ、1912年 - 1999年 <平成11年> 3月25日)は、弓道家。位階は従五位。 冨田常正師の未亡人冨田久子より常正師の遺言により尾州竹林流正統十五代星野派道統十二代を継承せしめる件の印可を受く。 明治45年〔1912〕愛知県東春日井郡勝川町(現在の春日井市)において青山与曽次郎の次男として出生。 昭和 2年、髙橋重丸師に師事、昭和4年星野廣の後見人大津正吉に入門。 昭和5年大津幡豆三正吉より竹林流初勘の巻を伝授さる。同6年同師よる竹林流歌知射の巻を伝授さる。 同7年同師より竹林流外の物(五巻)を伝授さる。同8年同師より準免許を授与さる。同9年同師より竹林流中央の巻及び父母の巻を伝授され免許皆伝となる。
吉川 金次(よしかわ きんじ、1912年(明治45年) - … 吉川 金次(よしかわ きんじ、1912年(明治45年) - 1996年(平成8年))は、日本の俳人。鋸職人、日本の鋸研究家。第十四回文化人間賞受賞。栃木県出身。 1912年に栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)で生まれる。実家は鋸鍛冶をしており、金次も氏家尋常高等小学校高等科卒業後は、東京に出て鋸の目立て(すり減った鋸やヤスリなどの目を鋭くする)業を営むようになった。また狂言師の野村万蔵に師事し、能面彫刻なども手がけている。 かつて氏家を訪れた河東碧梧桐の影響もあり、1936年に碧梧桐去って以降の中塚一碧楼が主宰する『海紅』の同人となり、自由律俳句を詠むようになる。金次の自由律は層雲出身で後に新俳句人連盟を立ち上げる栗林一石路や橋本夢道のようなプロレタリア俳句が多く、碧門の多い海紅では異色の作風であり、一碧楼にとっても異質な「愛弟子」であった。
山下 正(やました ただし、1912年 - 2011年)は、… 山下 正(やました ただし、1912年 - 2011年)は、日本の料理人。美術品コレクターでもある。 第一洋食店(北海道苫小牧市)の2代目店主であり、明治時代に日本へと伝わってきたフランス料理を父・山下十治郎から引き継いでいる料理人として周囲からは一目置かれていた。 同時に趣味人でもあり、2代目店主に惹かれて日本の文化人たちが日夜、店に集うようになり、第一洋食店は苫小牧の文化サロンとなっていった。川上澄生や芹沢銈介といった民藝運動ゆかりの芸術家たちとの交流を通じ、美術品や工芸品を多数収集している。 第二次世界大戦中、北海道白老町に疎開していた川上澄生は山下と交友をもち、川上の版画の第一洋食店にも展示してあるほか、「山下正コレクション」には数十点が集められている。
有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、… 有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、宮崎県都城市出身の右翼、特殊株主、政治運動家(笹川良一秘書)、天理教布教師。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松永喜久(まつなが・きく 1912年-1998年11月)はス… 松永喜久(まつなが・きく 1912年-1998年11月)はスポーツライター、ボクシングプロモーター。
小堀 林衛 (こぼり りんえい、1912年 - 1989年)… 小堀 林衛 (こぼり りんえい、1912年 - 1989年)は、日本の実業家。小堀住研(現・ヤマダホームズ)の創業者。滋賀県出身。 1912年、東浅井郡上草野村野瀬(現在の長浜市野瀬町)に生まれる。上草野小学校高等科卒業後、大阪の石けん工場で丁稚奉公として働く。1928年、竹中工務店入社。働きながら大阪市立都島工業専修学校建築科(現・大阪府立都島工業高等学校定時制課程)で学び1932年卒業。1950年、竹中工務店退職。1951年、三成建築工業株式会社設立。その後社名変更を重ね、1965年小堀住研とする。
田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日… 田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日)は、日本の歴史家。 1912年奈良県に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校文科に進む。その後、1930年に京都帝国大学文学部史学科に進み、日本中世史を専攻する。卒業論文「王朝時代に於ける荘園の発展過程」をまとめ、1933年に卒業。治安維持法違反容疑で検挙され、釈放後に「封建社会ノ研究」のため京都帝国大学大学院に進学する。1941年から京都府社寺課に嘱託として勤務し、赤松俊秀のもとで京都府内の寺社の宝物の調査に従事する。戦時中に病気になり、出雲町へ移り、療養のため入院していたが、その間にも、歴史学研究会の京都支部を発足させようと西岡虎之助に相談するなどしたことが、日本史研究会の設立につながり、創立委員の一人となった。
三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30… 三橋 健(みはし たけし、1912年 - 1977年4月30日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。「民俗行事」をテーマにした作品が多い。 医者であった父・三橋玉見は詩歌や書画、陶芸をたしなむ文化人で、大原孫三郎に招かれる形で倉敷市に診療所を開業した。健はその次男として1912年に岡山県倉敷市新川町に生まれる。父親の影響もあり、幼い頃から画家を志した健は東京美術学校へ進学した。藤島武二に師事し、在学中に発表した作品『錨づくり』などで独立美術協会展にて入選をしている。 1939年、福沢一郎、小牧源太郎、寺田政明らを中心としたシュルレアリスムを志向するグループが新たに美術文化協会を旗揚げし、健も同協会のメンバーとして参加したが、父の病没に伴い帰省を余儀なくされ、翌年2月、第一回公募展の直前に脱会した。
鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7… 鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7月26日)は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)在学中は、甲子園に2回(夏2回〈1928年、1929年〉)出場した。 1932年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも外野手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月26日、朝鮮・釜山の傷痍軍人療養所て戦病死した。享年32。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の後輩である酒井治彦と共に、彼の名前が刻まれている。
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日… 野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。 1937年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われた「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。
桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11… 桜井誠(さくらい まこと、1912年 - 1983年5月11日)は、主に絵本や児童書などの挿絵の執筆で活動した日本の挿絵画家。静岡県静岡市出身。
小坂 秀雄(こさか ひでお、1912年 - 2000年)は、… 小坂 秀雄(こさか ひでお、1912年 - 2000年)は、日本の建築家。東京都千代田区出身。
兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 194… 兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 1942年(昭和17年)11月14日)は、日本の海軍軍人。空母艦上戦闘機搭乗員として、日中戦争及び太平洋戦争で撃墜王となる。ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。最終階級は海軍少佐。本籍は山形県西村山郡谷地町。
加島 淳(かしま じゅん、明治41年(1912年) - 平成… 加島 淳(かしま じゅん、明治41年(1912年) - 平成2年(1990年))は、広島県出身の実業家。株式会社オーバルの創業者。
大友 淑江(おおとも しくえ、1912年または1913年 -… 大友 淑江(おおとも しくえ、1912年または1913年 - 1995年1月31日)は、福岡県出身の社会福祉法人創始者・元理事長。歌人。知的障害を持つ児童の教育に専念した女性。 1954年北九州市の八幡大学法経学部を卒業。1957年4月中学校教師を辞め、自身の財産を投じ福岡県田川郡大任村の自宅を開放し、当時全寮制養護学校としては全国で初めての私立あすなろ学園養護学校を設立、校長と園長を兼務する。1958年に北九州市小倉南区に移設。途中、学舎陥没の為の流浪や経営の行き詰りによる閉校など、様々な危機を乗り越え、1967年社会福祉法人の認可を得て、理事長に就任する。以後、知的障害児童教育に専念した福祉教育者として全国に名が知られる。
笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年〈明治45年/大正… 笹本 駿二(ささもと しゅんじ、1912年〈明治45年/大正元年〉 - 1998年〈平成10年〉9月28日)は、日本のジャーナリスト、評論家。第二次世界大戦前後のヨーロッパに特派員として滞在し、多くの知見を得た。 1912年台湾基隆生まれ。1935年京都帝国大学文学部を卒業後、外務省に入省。1938年に渡欧。通算五十年近くにわたってチューリヒ、ブダペスト、イスタンブール、ベルリン、パリ、ボンなどに住み、文筆活動を続けた。この間朝日新聞、東京新聞、静岡新聞などの特派員、NHK解説委員等も務め、晩年はボンとチューリヒを拠点に静岡新聞などに執筆していた。 中でも第二次世界大戦前後の生の欧州情勢の報道は貴重な記録として残り、後に『第二次世界大戦前夜』などにまとめられた。
安 龍大(アン・ヨンデ、朝鮮語: 안용대、1912年または1… 安 龍大(アン・ヨンデ、朝鮮語: 안용대、1912年または1913年1月13日または1915年 - 1999年5月6日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家、弁護士。泗川郡・咸安郡・昌原郡・居昌郡郡守、第2・4代韓国国会議員を歴任した。 本貫は順興安氏(朝鮮語版)。号は南史。 日本統治時代の慶尚北道慶州郡(現・慶州市)出身。1940年、中央大学法学部卒。1941年に高等文官試験行政科合格し、朝鮮総督府属、咸鏡南道属として泗川郡・咸安郡・昌原郡・居昌郡守を務めた。解放後は総務処人事局銓叙課長、国会内務委員会専門委員、国務院事務処人事課長、居昌厚生協会長、社会教育協会長、居昌オリンピック後援会会長、山林会支部長などを務めた。
川口 正吉(かわぐち しょうきち、1912年 - 1982年… 川口 正吉(かわぐち しょうきち、1912年 - 1982年2月25日)は、日本の翻訳家。 新潟県三条市生まれ。中央大学経済学部卒業。英語の小説、ノンフィクションを翻訳。キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』がベストセラーになった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
矢吹 幸太郎(やぶき こうたろう、1912年(明治45年) … 矢吹 幸太郎(やぶき こうたろう、1912年(明治45年) - 2009年(平成21年)4月18日)は、日本の元裁判官・弁護士。元札幌地方裁判所判事。矢吹法律事務所初代所長。中央大学法学部卒業。福島県出身。 この他、司法研修所教官も務める 法律の得意分野は特になく、法律全般を扱うが、大学では、商法を講義。 子息は、北海学園大学教授の矢吹徹雄。 『全国弁護士大観』(法律新聞社編集・発行、2007年) この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
清水 武夫(しみず たけお、1912年 - 2011年2月1… 清水 武夫(しみず たけお、1912年 - 2011年2月14日)は、日本の花火研究者。詩人の清水哲男・清水昶兄弟の父であり、また自身でも詩集を出した。
新沢 嘉芽統(しんざわ かがとう、1912年 - 1996年… 新沢 嘉芽統(しんざわ かがとう、1912年 - 1996年5月20日)は、日本の農学者・水文学者。農学博士(東京大学、1962年) 新潟県生まれ。1936年東京帝国大学農学部卒、農林省に入り、愛知県、熊本県で勤務。1945年東大農学部講師、54年東京大学農学部助教授、69年教授。73年定年退官。上野英三郎を初代担当とする農業工学講座が別れた後の、農業土木学第三講座(1954-1961)、農業土木学第二講座(1961-1963)、農地工学講座(1969-1973)を担当。1962年「河川における水利調整の研究」で東大農学博士。1963年『河川水利調整論』で日経・経済図書文化賞受賞。
平石 善司(ひらいし よしもり、1912年 - 2006年3… 平石 善司(ひらいし よしもり、1912年 - 2006年3月20日)は、日本の哲学研究者、同志社大学名誉教授。 同志社大学文学部神学科卒業、広島文理科大学哲学科卒業。1961年「フィロンのロゴス論」で広島大学文学博士。同志社大学助教授、教授、1982年定年退任、名誉教授。
李 亀洙(イ・グス、朝鮮語: 이구수/李龜洙、1912年また… 李 亀洙(イ・グス、朝鮮語: 이구수/李龜洙、1912年または1913年4月18日 - 1967年6月6日)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶南固城郡大可面(朝鮮語版)岩田里に生まれる。小学校、日本大学法科卒。記者を4年間務めた後、会社員、農業をした。 1948年5月に実施された制憲議会選挙にて、慶尚南道固城郡選挙区から無所属候補として出馬し当選した。国会議員当選後は国会財政経済委員会委員を務めた。1948年6月に「統一と均等社会を確約する無所属倶楽部」(통일과 균등사회를 다짐하는 무소속구락부)を結成し、その後も国会内の若手議員が集まった「成仁会」や「同成会」に所属した。 1948年8月に国会本会議で民族反逆行為を処罰する特別法の早急な制定と特別委員会の設置を主張し、同年9・10月に韓米行政移譲協定と米軍駐屯の反対声明の発表に参加した。
李 道栄(イ・ドヨン、朝鮮語: 이도영/李道榮、1912年ま… 李 道栄(イ・ドヨン、朝鮮語: 이도영/李道榮、1912年または1913年5月1日または1914年5月1日 - 1973年6月22日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 本貫は延安李氏、号は文軒。2024年時点で弘益学園理事長を務めていた李勉栄は6親等の再従弟。 京城(現・ソウル)または忠清北道清原郡(現・清州市)出身。景福中学校を経て1932年京城第二高等普通学校卒。1934年京城帝国大学予科修了、1938年同大法文学部法科卒。 京城紡織株式会社業務課長・工場長を経て、1946年以降は忠北新報社長、一信(または一新)産業社長、南韓興産社長、朝鮮農薬社長、東洋滑石鉱業社長、南韓製糸代表取締役、太陽日報理事、国民日報理事、韓国遠洋漁業社長などを歴任し、1955年に韓国貿易協会理事、1957年に南韓製紙理事、1962年に大韓商工会議所副会長、1963年に韓国生産性本部副会長、大韓鉱業協会副会長、1964年に韓国輸出産業公団理事、全国経済人連合会理事、1965年に韓国製紙工業連合会理事を務めた。
御法川 正男(みのりかわ まさお、1912年または1913年… 御法川 正男(みのりかわ まさお、1912年または1913年 - 2005年1月29日)は、日本の実業家。フリーアナウンサー・みのもんたの父親にあたる。日国工業(現:ニッコク)の代表取締役会長を務めた。 宮城県栗原郡鶯沢町(現・栗原市)出身。自身は息子であるみのもんたに日国の社長を継いでもらうことを希望していたが、みのもんたは文化放送にアナウンサーとして入社。同局退社後、みのもんたは日国に入社した。 ニッコクによると、2005年1月29日8時32分、死去。92歳没。
鈴木 重雄(すずき しげお、1912年〈明治45年〉 - 1… 鈴木 重雄(すずき しげお、1912年〈明治45年〉 - 1979年〈昭和54年〉1月31日)は、日本の社会福祉活動家。宮城県出身。らい予防法下の1970年代当時としては異例の、ハンセン病回復者の身分を明かしての社会復帰を果たした。愛生園での園名は田中 文雄(たなか ふみお)。 東京商科大学在学中にハンセン病に罹患し失踪、本名を捨てて愛生園で過ごす。ハンセン病回復者の社会復帰運動に当事者として内部から取り組む過程で再び故郷唐桑町との縁が生まれ、1973年には活動中に得たパイプから本名の鈴木重雄として唐桑町長選挙に出馬。 町長選には落選するもその後も地元唐桑町で地域貢献活動を続け、障害者支援施設「高松園」の設立を実現しつつ、1979年に自死によりこの世を去った。
貝澤 正(かいざわ ただし、1912年 - 1992年2月3… 貝澤 正(かいざわ ただし、1912年 - 1992年2月3日)は、元平取町議会議員、元北海道ウタリ協会副理事長。北海道平取町出身。 1912年に生まれる。祖父はウエサナシ(Uesanash)、父は与治郎。父親はアイヌ人であったが、日本人に同化することを目指していた。母親は和人であったが、アイヌ文化を子どもたちに教えていた。平取尋常高等小学校高等科卒業。 1941年、開拓団員として満州に渡る。当地での中国人や朝鮮人に対する日本人の仕打ちに辟易する。差別言動を注意して銃を突きつけられることもあった。開拓団から離れ、満州の土地で農業を始めたが、体を悪くして帰国する。 平取町に戻り、零細農家から始める。
藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年 - 1997年9月3… 藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年 - 1997年9月30日)は、大分県豊後高田市出身の帝国海軍の軍人。最終階級は特務士官たる少尉(終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉)。 帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施するという、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行した軍人である。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズに近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略は日本の風船爆弾作戦にも採用された。 藤田は1932年(昭和7年)に日本帝国海軍に入隊し、1933年(昭和8年)にパイロットとなった。
有吉 新吾(ありよし しんご、1911年12月29日 - 2… 有吉 新吾(ありよし しんご、1911年12月29日 - 2004年1月20日)は、日本の実業家。三井鉱山社長・会長、日本石炭協会会長を歴任。 先祖は細川家の家臣の有吉氏で、関ヶ原の戦い後丹後国宮津より豊前国小倉に移り、その後宗像市南郷原町に祖父まで代々住んだ。
中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月… 中村 徹雄(なかむら てつお、1911年(明治44年)12月28日 - 1975年(昭和50年)7月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 鉄道院技師・中村謙一の長男として生まれる。父の死去に伴い、1943年(昭和18年)4月1日、男爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)東京帝国大学経済学部を卒業。同年、浅野物産に入社した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。墓所は多磨霊園。
岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月… 岡本 陸人(おかもと むつと、1911年(明治44年)12月28日 - 2007年(平成19年)1月4日)は、日本の実業家。あかね書房創業者。 長野県上水内郡日里村(中条村を経て現長野市)で、岡本梅吉、まつの の四男として生まれる。旧制専修商科学校(夜間)中退する。1926年に書籍取次の東京堂へ入社し、外商部に所属する。1944年に軍へ応召された後に退社し、出版社勤務を経て1949年にあかね書房を創業する。その後、1984年に同社会長に就任。 児童図書出版協会の発起人かつ幹事として学校図書館の設置に尽力し、日本書籍協会理事と読書推進運動協議会理事を歴任する。1983年に勲四等瑞宝章を受勲する。
宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈… 宣仁親王妃 喜久子(のぶひとしんのうひ きくこ、1911年〈明治44年〉12月26日 - 2004年〈平成16年〉12月18日)は、日本の皇族。元華族。高松宮宣仁親王の妃。 旧名、徳川 喜久子(とくがわ きくこ)。徳川慶久公爵令嬢。母は有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子女王。身位は親王妃。お印は初めが亀(かめ)、結婚後は撫子(なでしこ)。 1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子を舞子別邸に預けて帰京した。 1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達された。
井上 勝英(いのうえ かつひで、1911年〈明治44年〉12… 井上 勝英(いのうえ かつひで、1911年〈明治44年〉12月26日 - 1997年〈平成9年〉10月7日)は、昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 海軍士官・井上勝純の長男として生まれる。父の死去に伴い、1939年1月16日、子爵を襲爵した。 1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。1939年(昭和14年)東京高等農林学校(現東京農工大学)助教授に就任。以後、農商事務官、農林事務官、総力戦研究所第二期研究生、南京日本大使館嘱託、農商大臣秘書官事務取扱、農村更生協会主事、日本農業研究所研究員補などを務めた。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没… 日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。高砂熱学工業社長を務めた。 東京都出身。1936年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1955年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務を経て、1975年に副社長に就任し、1976年8月には社長に昇格。1986年4月に会長を経て、1989年6月から相談役を務めた。
福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月2… 福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月25日 - 1999年(平成11年)8月20日)は、日本の実業家。フジテレビジョン副社長。サンケイアトムズオーナー(球団社長兼務)。東京府出身。 1934年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。専攻は「交通論」だった。卒業と同時に満鉄に入社。その後華北交通に派遣され、終戦まで勤務した。 戦後は、母校の早稲田大学で講師と秘書役を務める。 1954年にニッポン放送に入社し、総務部長、編成部長、編成局次長などを歴任した。日本テレビ、NHKがともに活気を帯びて、受像機が次第に茶の間に進出するようになったことを受け、1956年9月、ニッポン放送がテレビ実施本部を作ると、福田は総括責任者となった。
村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月… 村上 冬樹(むらかみ ふゆき、1911年〈明治44年〉12月23日 - 2007年4月5日)は、日本の俳優。山口県徳山市出身。本名は村上 済州(むらかみ さいしゅう)。旧芸名は新田 地作。 徳山で生まれ、父親の仕事の都合で兵庫県神戸市、神奈川県横浜市、東京府と移り住み、両親との死別後は福岡県で育つ。 福岡市立大名小学校、中学修猷館、中学明善校、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業。大学卒業後、1934年9月に新築地劇団の研究生となり、俳優活動を始める。1936年に劇団員に昇格。1938年の『黒田誠忠録』が映画デビュー作。1940年3月に新築地劇団を退団。5月に芸術小劇場の客員となるが、同年8月に新築地劇団は新田を除名処分としたことを発表。
君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日… 君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日 - 1989年〈平成元年〉4月20日)は日本の医師、官僚、政治家。参議院議員(1期)、新潟県知事(公選第9・10・11・12代)。医学博士。 1911年(明治44年)12月22日、君修一郎の長男として新潟市に出生。新潟県立新潟中学校を経て官立新潟高等学校を卒業。1936年(昭和11年)3月、官立新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業。同年11月、応召。 1940年(昭和15年)、栃尾町の栃尾郷立診療所組合(現・新潟県厚生農業協同組合連合会栃尾郷病院)内科部長に就任。東京の日本光学病院内科主任を経て、再度応召。 1947年(昭和22年)、新潟県庁に入庁し、1949年(昭和24年)に新潟県予防課長、1955年(昭和30年)に新潟県公衆衛生課長、1958年(昭和33年)に新潟県衛生部長を経て、1962年(昭和37年)に新潟県総務部長となる。
吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 19… 吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 1981年12月18日)は日本の工学者。大阪大学名誉教授。原子力安全委員会初代委員長。理学博士(大阪帝国大学、1947年)。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。 大阪市立都島工業学校、神戸高等工業学校電気科を経て、1937年に大阪帝国大学工学部電気工学科卒業。学生時代はテニス部のキャプテンであった。1949年、大阪大学工学部電気工学科の教授(電気材料学講座)となる。1957年、原子核工学専攻原子炉工学講座教授(電気工学兼務)。1963年には京都大学教授となり、1969年から1970年まで大阪大学工学部長事務取扱を勤めた。 1975年に大阪大学を退官し、近畿大学教授となる。
金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月… 金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月18日 - 2001年(平成13年)8月15日)は、日本の技術者、実業家。三菱重工業取締役社長や、同社取締役会長、経団連副会長、日本プラントメンテナンス協会会長、日本造船工業会会長などを歴任した。勲一等瑞宝章受章。 山口県山口市野田生まれ。1932年(昭和7年)旧制福岡高等学校を卒業。1935年(昭和10年)九州帝国大学工学部冶金学科卒業し、三菱重工業に入社。1971年(昭和46年)三菱重工業技術本部長。 1977年(昭和52年)三菱重工業取締役社長。1981年(昭和56年)三菱重工業取締役会長。 1986年(昭和61年)日本プラントメンテナンス協会会長。