古山 高麗雄(ふるやま こまお、1920年〈大正9年〉8月6… 古山 高麗雄(ふるやま こまお、1920年〈大正9年〉8月6日 - 2002年〈平成14年〉3月11日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。芥川賞作家。 主として太平洋戦争(大東亜戦争)下の徴兵での従軍体験や、復員後の生活を舞台にした小説を発表し、いかなる場においても変わることのない人間のありかたを描き出した。 PL教団主宰の『芸術生活』誌では編集専従のデスク(副編集長)で入社し、のち編集長。『季刊藝術』誌では、音楽を担当する遠山一行、文学を担当する江藤淳、美術を担当する高階秀爾と共に、専任の編集長として同人を組み発行した。 編集者として、森敦を見出すなど、広い識見を高く評価される。また人脈も広く、予備校時代の安岡章太郎をはじめ、遠藤周作、寺山修司、田中小実昌、吉田満、小島信夫、円地文子らと深い交流を持った。
橋立 孝一郎(はしだて こういちろう、1920年(大正9年)… 橋立 孝一郎(はしだて こういちろう、1920年(大正9年)8月5日 – 1988年(昭和63年))は、日本の実業家。キデイランドの創業者。 1920年、東京府渋谷町に出生。東京外国語学校、明治大学を経て、陸軍主計将校となり、勤務地の秩父で終戦を迎える。秩父で地元の女性と結婚。1946年7月に秩父で読書クラブ橋立書店を開設、これがキデイランドの前身となる。1950年、幼少時代を過ごした原宿に、橋立書店(現・キデイランド原宿店)を構える。周辺に外国人が多かったことから、洋書や外国人向け雑貨を取扱い始め、更にはハイクオリティの日本の玩具をメインに扱うこととなった。情報の発信基地として知られるようになり、海外の王室やタレントが来日の際に訪れる定番コースにもなった。
大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - … 大ノ森 金一(おおのもり きんいち、1920年8月5日 - 没年不明)は、秋田県平鹿郡大森町(現在の同県横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。本名は大黒 金一(おおぐろ きんいち、後、神谷(かみや)に改姓)。現役時代の体格は176cm、83kg。最高位は東前頭5枚目(1946年11月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、足癖。 16歳の時に上京し、1937年1月場所に於いて、伊勢ヶ濱部屋から初土俵を踏む。四股名は出身地の平鹿郡大森町から、「大ノ森」と名乗った。1938年1月場所で序ノ口に付いてからは、負け越しなしで順調に番付を上げた。1941年5月場所で十両に昇進。十両も2場所で通過し、1942年5月場所で入幕した。
新居 猛(にい たけし、1920年(大正9年)8月4日 - … 新居 猛(にい たけし、1920年(大正9年)8月4日 - 2007年(平成19年)10月5日)は、日本の家具デザイナー。インテリア・デザイナー協会名誉会長。徳島県徳島市出身。旧制徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)卒業。 1920年(大正9年)に徳島市の剣道具製造業の家に生まれた。デンマークの家具の美しさに影響されたのがきっかけで椅子づくりにのめり込む。1969年(昭和44年)、有限会社ニーファニチアを設立し代表取締に就任する。1974年(昭和49年)、自身の作品であるニーチェアXがニューヨーク近代美術館にて永久収蔵が認められた。その後、インテリア・デザイナー協会の名誉会長となる。 2007年10月5日、急性敗血症のため死去。
吉村 平吉(よしむら へいきち、1920年8月3日 - 20… 吉村 平吉(よしむら へいきち、1920年8月3日 - 2005年3月1日)は、東京都出身の日本の作家。 東京市赤坂に生まれる。父は書画骨董商で、平吉は長男だった。小学生時代から父に芸者の置屋に連れられたという。旧制中学3年生の時、榎本健一が所属していた劇団「ピエル・ブリヤント」のレビューに熱中して浅草に通い詰めた。ついには自作のレビュー台本を持ち込み、早稲田大学専門部政治経済科在学中には、文芸部見習いとなることを許される。 しかし、徴兵されて内モンゴルの包頭で兵役に就いた。1945年12月に復員。帰国後は「空気座」という劇団(左卜全・有島一郎らが参加)の代表となるが、資金不足により1年ほどで解散し、以後は上野駅や新橋駅界隈で娼婦を斡旋する「ポン引き」を稼業とした。
辻 輝子(つじ てるこ、1920年〈大正9年〉8月2日 - … 辻 輝子(つじ てるこ、1920年〈大正9年〉8月2日 - 2017年〈平成29年〉10月23日)は、女流陶芸家。日本の女性陶芸家第1号。仙台万華鏡美術館名誉館長。夫は日本犬研究家の斎藤弘吉。弟に陶芸家の辻清明、子に陶芸家の辻厚成、孫に陶芸家の辻厚志がいる。
氏原 正治郎(うじはら しょうじろう、1920年8月2日 -… 氏原 正治郎(うじはら しょうじろう、1920年8月2日 - 1987年8月21日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。愛知県出身。 東京帝国大学経済学部卒。同助手、1949年東京大学社会科学研究所助手、1951年助教授、1962年教授、1968年所長事務取扱、1969-1970年所長、1981年定年退官、名誉教授。雇用促進事業団雇用職業総合研究所長。1987年死去。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。 実態調査によって戦後の労働問題を追究、労使慣行の解明、社会保障や高齢者雇用の政策立案に尽くした。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - 20… 柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - 2011年3月25日 )は、日本の生物学者・科学・国際問題評論家。 専門は分子生物学。学位は、理学博士及び医学博士。京都精華大学名誉教授。本名、横田篤弘。 大阪府堺市生まれ。旧制京都一中、旧制三高卒業、京都帝国大学工学部応用化学科入学を経て、1946年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業。ミノファーゲン製薬研究部、大阪大学を経て、山口県立医科大学教授、広島大学原爆放射能医学研究所教授、オーストラリア連邦科学産業研究機構上級主任研究員、関西医科大学教授、ベルリン高等学術研究所客員研究員、京都精華大学教授、同学長などを歴任。京都精華大学名誉教授。
中瀬 秀夫(なかせ ひでお、1920年8月1日 - 1991… 中瀬 秀夫(なかせ ひでお、1920年8月1日 - 1991年1月7日 )は、日本の経営者。日清紡績社長、会長を務めた。 長崎県出身。1947年に九州大学法文学部経済学科を卒業し、同年に日清紡績に入社した。1967年6月に取締役に就任し、1970年6月に常務、1976年7月に専務を経て、1979年7月に社長に就任。1986年6月に会長に就任。 1991年1月7日、急性心不全のために死去。70歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
内田 朝雄(うちだ あさお、1920年〈大正9年〉8月1日 … 内田 朝雄(うちだ あさお、1920年〈大正9年〉8月1日 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の俳優。本名:内田 朝雄(うちだ ともお)。 日本領朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)平壌出生、島根県出身。平壌府第一中学卒業。円型劇場、劇団月光会を経て、コヒナタ企画に所属していた。 息子は俳優の内田岳志。 日本領朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)平壌に役人の子として生れる。中学校卒業後、満州炭鉱傘下の東満和竜炭鉱に入社。1941年(昭和16年)に応召し、終戦を仁川で迎え、1945年(昭和20年)に復員。翌1946年北海道開拓公社に入社し、江別市で開墾事業に従事した後、長野県上水内郡の飯綱高原に入植するが、1950年(昭和25年)、地元の人間との意見対立から同地を引き払う。
上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31… 上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31日 - 2018年(平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。 1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった。
島薗 安雄(しまぞの やすお、1920年7月30日 - 19… 島薗 安雄(しまぞの やすお、1920年7月30日 - 1997年4月9日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学・精神生理学。元金沢大学医学部教授。東京医科歯科大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1950年)。京都府京都市生まれ。 父は東京大学医学部教授などを務めた島薗順次郎、息子は東京大学大学院人文社会系研究科教授の島薗進。 1920年京都府京都市生まれ。1943年東京帝国大学医学部医学科卒業。1950年東京大学より医学博士の学位を取得。1954年フンボルト留学生として西ドイツ留学。1956年東京大学医学部助教授。1959年金沢大学医学部教授。1967年東京医科歯科大学医学部教授。
有江 幹男(ありえ みきお、1920年7月30日 - 200… 有江 幹男(ありえ みきお、1920年7月30日 - 2009年11月21日)は、日本の工学者。北海道大学・北海道工業大学名誉教授、北海道大学・北海道工業大学元学長。従三位勲一等瑞宝章。北海道夕張町(現・夕張市)出身。専門分野は機械工学、流体力学。 1972年の札幌冬季五輪にあたっては、人工的に風を起こして影響を調べる再現実験を行い、ジャンプ競技場の改修指針を出した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30… 北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30日 - 1995年〈平成7年〉10月23日)は、日本の俳優、演劇研究家。本名同じ。 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学国文科卒業。六月劇場に所属していた。 大学在学中に劇団「若い仲間」を結成して演劇活動を行う一方、同人誌「演技研究」を発刊する。 1943年より兵役のためフィリピン・レイテ沖海戦に加わる。 1949年、女優の杉村春子の紹介で文学座に参加し、1950年の舞台『わが心の高原』(ユージン・オニール)ので、杉村の相手役を演じる。 岩田豊雄を師と仰ぎ、中村伸郎らと親しかった。1963年、三島由紀夫の『喜びの琴』事件で脱退し、1964年の劇団NLT結成に参加する。
小野 光洪(おの みつひろ、1920年(大正9年)7月28日… 小野 光洪(おの みつひろ、1920年(大正9年)7月28日 - 2005年(平成17年)11月9日)は、昭和から平成初期の政治家、実業家。塩尻市長(第4代)。位階は従四位。父は元衆議院議員の小野祐之。 長野県東筑摩郡塩尻町生まれ。1937年(昭和12年)3月、旧制長野県立松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を卒業し、1941年(昭和16年)早稲田大学専門部商科を修了。1946年(昭和21年)から小野石灰六名社を経営[要出典]、1960年(昭和35年)に信陽化学工業と改称し代表取締役となる[要出典]。1959年(昭和34年)4月から塩尻市議会議員を5期務め、1963年(昭和38年)同副議長、1967年(昭和42年)には同議長に就任。
駿河 敬次郎 (するが けいじろう、1920年7月28日 -… 駿河 敬次郎 (するが けいじろう、1920年7月28日 - 2023年3月21日)は日本の医師。順天堂大学医学部名誉教授、ノアクリニック院長。 1941年(昭和16年)、旧制第四高等学校理科乙類卒業。 1944年(昭和19年)、東京帝国大学医学部卒業。 1944年~1945年、陸軍短期軍医中尉。 1946年(昭和21年)、東京帝国大学医学部第2外科副手。 1949年(昭和24年)、賛育会病院外科部長。 1959年(昭和34年)、米国ピッツバーグ大学医学部留学。 1963年(昭和38年)、東京大学医学部外科学講師。順天堂大学医学部外科学講師。 1966年(昭和41年)、順天堂大学医学部外科学客員教授。
一丸 章(いちまる あきら、男性、1920年7月27日 - … 一丸 章(いちまる あきら、男性、1920年7月27日 - 2002年6月12日)は、日本の詩人。 福岡市新柳町で生まれる。幼少時に両親と生き別れ、伯母の家で育つ。1937年、福岡県立福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。 「母音」「こをろ」「九州文学」「ALMEE」などに参加する。生まれつき病弱であり、戦後、KBCやNHKなどで脚本を書いたり、研究所員や短大・文化サークルの講師をつとめたりした。1966年、福岡県詩人会の創立に携わり、16年間代表幹事を務める。2001年、先達詩人顕彰(日本現代詩人会)。未完の長詩「美濃道行魂胆咄(みのへのみちゆきこんたんばなし)」がある。 没後、弟子の龍秀美の尽力により全詩集が刊行される。
源 了圓(みなもと りょうえん、源了円、1920年7月27日… 源 了圓(みなもと りょうえん、源了円、1920年7月27日 - 2020年9月10日)は、日本の日本思想史学者。東北大学名誉教授、北京外国語大学名誉教授。日本学士院会員。 1920年、熊本県宇土市にて、浄土真宗住職の三男として生まれた。第五高等学校を経て、京都大学文学部哲学科に進んだ。1948年に同大学を卒業し、同大学大学院に進学。京都学派の田辺元や西谷啓治に学び、梅原猛と親交を結んだ。 日本女子大学文学部教授を経て、東北大学文学部教授に就任。1981年、学位論文『近世初期実学思想の研究』を東北大学に提出して文学博士号を取得。1984年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は国際基督教大学教授として教鞭をとった。
林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月… 林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月25日 - 2010年(平成22年)2月28日)は、日本の物理学者(天体物理学)・天文学者。学位は理学博士(京都大学・論文博士・1954年)。京都大学名誉教授。位階は従三位。文化勲章受章者。 天文学と原子核物理学・素粒子物理学とをつなぐ学問である宇宙物理学の日本における先駆者の一人。京都大学理学部物理学科・天体核物理学研究室の教授を27年にわたって務め、研究の一方で数多の優秀な理論物理学者や宇宙物理学者、天文学者や惑星科学者を育てた。 京都府京都市上京区紫竹西南町(現・京都市北区紫竹西南町)に林誠次郎・ムメ夫妻の四男として生まれる。生誕翌年の1921年(大正10年)7月12日、大叔父・林寛次郎の養嗣子となる。
梅岡 義貴(うめおか よしたか、1920年7月25日 - 2… 梅岡 義貴(うめおか よしたか、1920年7月25日 - 2005年12月30日)は、日本の心理学者。 1943年東京帝国大学文学部心理学科卒業、同大学院を経て、1949年東京水産大学講師、1952年北海道大学助教授、教授、1976年東京大学文学部心理学科教授、1981年定年退官、学習院大学教授。1991年退職。日本動物心理学会理事長を務めた。 1961年 東京大学 文学博士 論文の題は「相互行動の分析法について 」。1993年 日本心理学会名誉会員。 2005年、肺炎のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
窪田 啓作(くぼた けいさく、1920年7月25日 - 20… 窪田 啓作(くぼた けいさく、1920年7月25日 - 2011年)は、日本のフランス文学者、詩人、翻訳家、銀行員。本名・開造。 カミュ『異邦人』の翻訳で知られる。 神奈川県生まれ。1943年、東京帝国大学法学部卒業。在学中にマチネ・ポエティクに参加し詩や小説を書いた。 大学卒業後、東京銀行に入行。パリ、新橋各支店次長、国際投資部副参事役を経て、1948年欧州東京銀行頭取となる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中村 大造(なかむら たいぞう、1920年(大正9年)7月2… 中村 大造(なかむら たいぞう、1920年(大正9年)7月25日 - 1987年(昭和62年)5月6日)は、日本の官僚、実業家。元運輸事務次官・全日本空輸社長。三重県桑名市出身。
川野 トモ(かわの とも、1920年7月24日 - 2007… 川野 トモ(かわの とも、1920年7月24日 - 2007年8月14日)は、株式会社ヤオコー創業者、ヤオコー名誉会長。埼玉県比企郡小川町出身。義父は川野清三。子に川野幸夫・川野清巳。旧姓:門倉トモ。 そのバイタリティや商才の高さから「小川のおしん」の異名を持つ。また父親が経営していた古物商「門倉商店」は、創業当時の八百幸商店の主要取引先だったという。
河井 坊茶(かわい ぼっちゃ、-ぼうちゃ、1920年7月24… 河井 坊茶(かわい ぼっちゃ、-ぼうちゃ、1920年7月24日 - 1971年12月1日)は、日本の俳優、歌手、放送タレントである。本名は秋元 喜雄(あきもと よしお)。 1920年(大正9年)7月24日、秋元喜雄として生まれる。早稲田大学理工学部を卒業後、母校の暁星中学校で数学教師をつとめていた。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲、同年8月15日、25歳のときに第二次世界大戦の終戦を迎え、同年11月、復員してきた三木鶏郎が東京大空襲で焼け跡となっていた三木の九段の自宅跡に掘立小屋「鶏小屋第1号」を建てたとき、河井は妻とともに居候する。 翌1946年(昭和21年)1月29日、三木がNHKラジオの番組『歌の新聞』第1回放送に出演するにあたり、繁田裕司(三木)、朝川賞郎、秋元喜雄(河井)3人の「コメディアン・ハーモニスト」名義でともに出演した。
芳本 甚二(よしもと じんじ、1920年〈大正9年〉7月23… 芳本 甚二(よしもと じんじ、1920年〈大正9年〉7月23日 - 2014年〈平成26年〉7月5日)は、日本の政治家。元奈良県御所市長(5期)。位階は正五位。勲四等瑞宝章。 奈良県出身。1943年〈昭和18年〉関西大学法学部卒。1946年〈昭和21年〉福助足袋に入社。1952年〈昭和27年〉に退社し、家業の芳本商店を継ぐ。1978年〈昭和53年〉御所市長選挙に立候補し、初当選する。市長を5期務め、任期途中の1996年〈平成8年〉に退任した。1997年叙勲で勲四等瑞宝章を受章。2014年〈平成26年〉死去。死没日付をもって正八位から正五位に進階。
浦 太郎(うら たろう、1920年〈大正9年〉7月22日 -… 浦 太郎(うら たろう、1920年〈大正9年〉7月22日 - 2017年4月)は、日本の数学者。 東京府(現・東京都)出身。 はじめは天文学者を志し萩原雄祐のもとで天文学を学んだが、その後数学に転向し福原満洲雄に師事した。力学系の関数解析の分野で先駆的な業績がある。 1951年9月に戦後第2回フランス政府給付留学生として渡仏したが、マルセイユ港に到着した際、当時マルセイユに滞在していた建築家の吉阪隆正が出迎え、パリに移ってから親交を深めた。帰国後に浦は吉阪に自邸の設計を依頼。1956年に完成した浦邸は、今日吉阪の代表作の1つとして評価されている。 長男浦環は、工学者で東京大学生産技術研究所教授。
山井 湧(やまのい ゆう、1920年7月22日 - 1990… 山井 湧(やまのい ゆう、1920年7月22日 - 1990年4月16日)は、中国思想学者、東京大学名誉教授。 1920年、兵庫県生まれ。中学四修で第一高等学校に入学した。卒業後は東京帝国大学支那哲学科に進学したが、1942年に学徒出陣のため繰り上げ卒業。軍隊では内地勤務であったため、戦後いち早く復員し、大学に戻った。 長く特別研究生、都立高校教諭としての勤務を経て、母校である東京大学文学部中国哲学研究室助手となった。1962年に中央大学助教授として着任。1964年、東京大学文学部助教授に就任。1971年に教授昇進。1981年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった〔疑問ありーノート参照〕。その後は大東文化大学教授として教鞭をとり、文学部長も務めた。
金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、… 金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、1920年7月21日 - 1992年12月5日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2… 小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2013年2月18日)は、日本の経営者。フジサンケイグループ代表、ニッポン放送会長を務めた。 栃木県出身。1943年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井精機、栃木労働基準局での勤務を経て、1954年にニッポン放送に転じ、1960年に産業経済新聞社への出向を経て、1961年にニッポン放送に復帰。1967年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務に就任し、1969年5月に専務を経て、1977年6月から1986年6月までにサンケイビル社長を務めた。1992年7月から1993年7月までにフジサンケイグループ本社社長を務め、1993年6月から1997年6月までフジサンケイグループ代表とニッポン放送会長を務めた。
沢田 文吉(さわだ ぶんきち、1920年7月18日 – 20… 沢田 文吉(さわだ ぶんきち、1920年7月18日 – 2006年6月12日)は、日本の棒高跳び選手。 1940年代から1950年代にかけて活躍、日本陸上競技選手権大会優勝9回、アジア大会金メダル2回。1952年ヘルシンキオリンピックでは6位入賞を果たした。 岐阜市出身。1938年、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)在学中、全国中等学校選手権(全国高等学校陸上競技対校選手権大会の前身)で110mハードル走に出場し優勝している(16.8秒)。 東京文理科大学(東京教育大学を経て筑波大学の前身となる官立大学)に進む。1942年、日本学生陸上競技対校選手権大会で優勝(4m00)。同年、日本陸上競技選手権大会で初優勝(4m10)。
服部 治則(はっとり はるのり、1920年(大正9年)7月1… 服部 治則(はっとり はるのり、1920年(大正9年)7月18日 - 2015年(平成27年)2月28日)は、日本の歴史学者・民俗学者である。山梨大学名誉教授。山梨郷土研究会常任理事。正四位。 三重県上野市(現伊賀市)に生まれる。1945年(昭和20年)に東京文理科大学(のちの東京教育大学)史学科国史科を卒業し、1947年には山梨師範学校(のちの山梨大学)助教授になる。山梨県の農村地域における柳田國男の調査にも同行している。 歴史学と民俗学の手法を組み合わせた歴史民俗学的アプローチの研究を行い、1950年代から60年代には山梨県独自の民俗事例として知られる親分子分慣行の研究を行う。これは非血縁の親子関係を結び、親分は子分に経済的庇護を加え子分は親分に対して奉仕する伝統的な人間関係で、服部はその起源を求め武田氏研究へと研究対象を移行する。
林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7… 林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7月17日 - 1945年(昭和20年)4月21日)は、日本の海軍軍人。海兵69期。大東亜戦争末期、戦闘機「紫電改」搭乗員として本土防空戦に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1920年(大正9年)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれた。鎌倉町立第二尋常高等小学校、神奈川県立湘南中学校を卒業。1938年(昭和13年)4月、海軍兵学校69期に入校。母親は林が軍に入ってからは毎日裏山のお宮に参拝して無事を祈っていた。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業、少尉候補生として練習艦隊の重巡「那智」乗組、練習航海に出発。4月、重巡「摩耶」乗組。
岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 200… 岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 2006年)は、日本の右翼活動家・教育者。島根県出身。昭和戦前期から占領期にかけて活動し、1945年に松江騒擾事件を起こした。別名岡崎允佐夫(おかざき いさお)。 松江騒擾事件とは島根県庁の焼き討ち事件で、1945年8月24日、終戦に不満をもった岡崎らが「聖戦続行、昭和維新政府樹立」を要求して皇国義勇軍と名乗り、島根県知事公舎、発電所、新聞社等を襲撃した。襲撃後、皇国義勇軍は罪を不問とする条件で投降したが、岡崎は戦時騒擾罪等で無期懲役となって服役した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効等による恩赦で出所。その後、1961年に学校法人淞南学園、現立正大学淞南高等学校を創立して理事長となり、長く学校の経営にあたった。
藤井 貞夫(ふじい さだお、1920年7月16日 - 199… 藤井 貞夫(ふじい さだお、1920年7月16日 - 1997年4月28日)は松下電工代表取締役相談役、合成樹脂工業協会会長。 1935年に松下電器製作所に入社。1963年に松下電工に移籍し取締役となる。1971年に常務取締役、1977年に専務取締役、1981年に代表取締役副社長を経て、1985年3月に代表取締役社長に就任。1989年2月に代表取締役会長。1992年1月11日に亡くなった丹羽正治名誉会長の葬儀・告別式の委員長を務め、同年、代表取締役相談役に退く。 1997年4月28日午前4時10分に脳出血の為死亡。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 200… 富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 2006年3月8日)は、北海道出身の詩人、ジャーナリスト、国際芸能プロモーター。 若い頃からヴァレリーやリルケに傾倒。金子光晴に師事し、新聞記者のかたわら、河邨文一郎らと同人を結成し、詩を次々に発表。特に、アイヌ・コシャマインの戦いを題材にした長篇叙事詩『クオンタインとシクフ』は傑作とされる。「野性」「至上律」「ポエム」「核」同人。1957年に、「赤い呼び屋」と称された神彰のアート・フレンド・アソシエーション(AFA)に参画。制作部長として、木原啓允、工藤精一郎らとともに神彰を支え、数々の国際プロモーションを行う。 1920年、北海道七飯村(現七飯町)の農家に、父輝美、母志づの長男として生まれる。
中村 浩(なかむら ひろし、1920年7月15日 - 198… 中村 浩(なかむら ひろし、1920年7月15日 - 1985年8月23日)は、日本の国文学者、歌人。 大阪市生まれ。本名・米島勉。父は書道家で大阪朝日新聞にも勤務した中村眉山(本名は平三)。父親が阪田の書の代筆をしていた関係で、晩年の阪田三吉と交流があり、のちにその思い出をもとに阪田の27回忌(1972年)に、それを記念した『実録王将伝』を執筆、のちに『棋神・阪田三吉』として刊行した。 國學院大學文学部国文学科卒。折口信夫、金田一京助に師事。戦後、関西大学、薫英学園で教職につき、その後、大阪府議会事務局、四天王寺女子大学、羽衣学園短期大学、辻調理師学校に勤務。
稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 199… 稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 1998年4月20日)は、日本の俳優。本名:稲葉 吉久。 千葉県成田市宗吾出身。日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒業。劇団俳優座に所属していた。 芸術小劇場在籍中に応召。1950年俳優座に入り、『三文オペラ』『桜の園』などの舞台に立った。映画では『七人の侍』で副将格として勘兵衛を補佐する五郎兵衛役を演じた他、多くの作品に出演し名脇役として活躍した。また、『ダイヤル110番』や『ザ・ガードマン』での刑事役や警備員役などテレビドラマにも多く出演した。時代劇では善人役での出演が多いが、悪役として出演することもあった。 1998年4月20日、心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。
油屋 亮太郎(あぶらや りょうたろう、1920年(大正9年)… 油屋 亮太郎(あぶらや りょうたろう、1920年(大正9年)7月15日 - 1996年(平成8年)11月9日)は、昭和から平成時代の政治家。長崎県平戸市長。平戸市名誉市民。 平戸市出身。長崎県立中学猶興館卒業。 1955年(昭和30年)から平戸市議会議員4期、1971年(昭和46年)から長崎県議会議員を2期務め、1983年(昭和58年)平戸市長に当選し、4期務めた。4期目の1996年(平成8年)、在職中に死去した。
髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)… 髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)7月14日 - 2006年(平成18年)2月14日)は、日本の財務官僚、日本専売公社職員。 福岡県大牟田市出身。1938年福岡県中学修猷館、1940年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1942年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1942年に高等試験行政科に合格し、9月に大蔵省に入省したが、短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に補修学生として海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、長崎監督官事務所に配属。1944年(昭和19年)3月、海軍省主計局契約部第6課に転じ原価計算を担当。
井手 文子(いで ふみこ、1920年7月13日 - 1999… 井手 文子(いで ふみこ、1920年7月13日 - 1999年12月10日)は、日本の近代女性史研究家。 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。自由学園高等部卒業。在学中、羽仁五郎を囲む世界史研究講座に参加し、1945年治安維持法により検挙される。戦後は民主主義科学者協会(略称:民科)に所属して1948年の婦人問題研究会(1957年 日本女性史研究会に発展、1963年ごろ 活動停止)の結成に参加、松下圭一らと1960年現代婦人問題研究会(1969年解散)にも参加。平塚らいてうや雑誌「青鞜」の研究、『伊藤野枝全集』(學藝書林)の編纂を行った。1961年に刊行した『青鞜』(弘文堂)では、従来は平塚らいてうを中心として研究されていた青鞜社を、集団としての女性解放運動の視点からとらえ直した画期的な研究書として支持を得た。
飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10… 飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10日 - 2007年(平成19年)2月25日)は、山梨県出身の俳人。飯田蛇笏の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。
的場 徹(まとば とおる、1920年〈大正9年〉7月10日 … 的場 徹(まとば とおる、1920年〈大正9年〉7月10日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の特撮監督、撮影技師、ドキュメンタリー監督。東京市(現・東京都)麹町区有楽町出身。 1920年(大正9年)7月10日、東京の有楽町に生まれる。幼少時より映画に憧れを持つ。 1937年(昭和12年)、旧制中学時代にP.C.Lのエノケン物の映画を観て、「数十人に分身したエノケンの孫悟空」などといった、トリック撮影の魅力にはまる。父親、兄ともに絵描きで、母親は別方面への進学を望んだが、結局、東京美術学校 (現:東京芸術大学)に進む。 1938年(昭和13年)、東京美術学校を卒業。撮影助手募集の新聞公募を見て、日活多摩川撮影所の「技術部」に姫田真佐久と共に入社。
松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月1… 松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月10日 - 1945年(昭和20年))は、昭和時代の競泳選手。 山口県吉敷郡大歳村矢原高畑(現山口市矢原町高畑)の医師松村章の二女として生まれる。1927年(昭和2年)大歳小学校に入学し、椹野川の八光面(石津橋の下)で泳ぎを覚えた。 山口高等女学校在学中、100m自由形で1936年ベルリンオリンピック競泳日本代表に選出されたが、本大会では出場しなかった。
肥田野 直(ひだの ただし、1920年7月9日 - )は、東… 肥田野 直(ひだの ただし、1920年7月9日 - )は、東京出身の日本の教育心理学者。東京大学・大学入試センター名誉教授、学校法人旭出学園理事長。
伊夫伎 一雄(いぶき かずお、1920年〈大正9年〉7月8日… 伊夫伎 一雄(いぶき かずお、1920年〈大正9年〉7月8日 - 2009年〈平成21年〉9月2日 )は、日本の銀行家。三菱銀行頭取を務めた。 伊夫伎準一の長男として滋賀県で生まれ、東京で育つ。伊夫伎家は滋賀・伊夫伎神社の神官の家柄である。 1943年(昭和18年)に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学。1944年(昭和19年)3月、経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。第二工作部会計係官を務め、1945年(昭和20年)3月に主計大尉に進み終戦を迎えた。 戦後は三菱銀行に復帰。熱田支店長、調査部副部長、新橋支店長、大阪支店次長、調査部長を歴任。
松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月… 松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月7日 - 2009年(平成21年)8月15日)は、日本の映画監督。元海軍士官で、僧侶でもある。法名、釈 宗惠(しゃく しゅうえ)。 島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)の浄土真宗の寺の五男に生まれる。小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学して2年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し、広島市へ出た。1938年(昭和13年)に卒業した後には京都へ進み、1941年(昭和16年)に龍谷大学専門部を卒業。日本大学芸術学部に移り、在学中の1942年(昭和17年)には映画に仏心を注入したいと考え、東宝演出助監部に入る。
松島 博(まつしま ひろし、1920年7月7日 - 2002… 松島 博(まつしま ひろし、1920年7月7日 - 2002年2月17日)は、日本の工学者。工学博士(早稲田大学)。元国士舘大学・国士舘短期大学学長、学校法人国士舘理事長。 長崎県出身。1940年(昭和15年)陸軍士官学校(54期)を卒業し、終戦時は陸軍船舶練習部研究部主事・陸軍大尉であった。 1968年(昭和43年)国士舘大学工学部土木工学科卒業。1973年(昭和48年)早稲田大学大学院理工学研究所博士課程修了。1975年(昭和50年)工学博士取得。 1969年(昭和44年)国士舘大学工学部助手。1970年(昭和45年)講師。1974年(昭和49年)助教授。1977年(昭和52年)教授。 1973年(昭和48年)土木学会吉田賞受賞。
佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年… 佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年2月26日)は、日本の実業家。東京近鉄百貨店社長、京都近鉄百貨店社長・取締役相談役などを歴任した。 兵庫県神戸市東灘区出身。 1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学経済学部を卒業した後、兵役に出た。復員後、1945年(昭和20年)11月に近畿日本鉄道へ入社。同社百貨店部に勤め、1969年(昭和44年)5月に近鉄百貨店上本町店の店長になった。1972年(昭和47年)の百貨店部の分離独立に当たって取締役に就任し、2年後には常務取締役に就いた。1976年(昭和51年)、東京都武蔵野市吉祥寺に三越と共同出資で「東京近鉄百貨店」の出店が決まり、佐藤は社長として、店長の髙田多喜男と共に店の立ち上げに奔走した。
内山 尚三(うちやま しょうぞう、1920年7月5日 - 2… 内山 尚三(うちやま しょうぞう、1920年7月5日 - 2002年12月14日)は、日本の法学者。専門は、民法・労働法。法学博士(1960年)。法政大学名誉教授、札幌大学名誉教授。建設業の労働関係、請負契約などに関する国の各種審議会の役員を歴任。栄典は、正五位勲三等瑞宝章。 妻・章子は政治家・鶴見祐輔の次女。政治家の後藤新平は義祖父(章子の祖父)、社会学者の鶴見和子は義姉(章子の姉)、哲学者の鶴見俊輔は義兄(章子の兄)。新潟県柏崎市出身。
今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 … 今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 - 平成22年(2010年)5月2日)は、日本のジャーナリスト、文筆家、江戸・街道研究家。日本経済新聞社記者。街道歩きの第一人者[要出典]。『半七捕物帳』の研究でも知られる。 大正9年(1920年)7月5日、東京府東京市神田区に生まれ育つ。後に品川区大井に移る。先祖は群馬県碓氷郡坂本町(現安中市松井田町坂本)という。 戦後間もない昭和21年(1946年)、早稲田大学を卒業して日本経済新聞社に入社、社会部に配属され、帝銀事件・下山事件・三鷹事件等の取材に関わった。警視庁キャップ、婦人家庭部長、大阪本社社会部長、東京本社地方部長、札幌支社長等を歴て、昭和49年(1974年)定年退職した。