堀内 啓治(ほりうち けいじ、1875年(明治8年)5月23… 堀内 啓治(ほりうち けいじ、1875年(明治8年)5月23日 - 1945年(昭和20年)10月24日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、山梨県南都留郡福地村長。 山梨県都留郡福地村新屋(南都留郡福地村、富士上吉田町を経て現富士吉田市新屋)で、堀内克明の三男として生まれる。東京英語学校、慶應義塾で学んだ。1891年(明治24年)6月、兄昌治から家督を相続し、農業、醤油醸造業を営む。 1906年(明治39年)福地村会議員に選出され、同村長、所得税調査委員、地方森林会議員、福地村耕地整理組合長、日本赤十字社特別社員などを務めた。1907年(明治40年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員となり、1911年(明治44年)10月、県会議員に再選され2期在任した。
真境名 安興(まじきな あんこう、1875年5月20日〈同治… 真境名 安興(まじきな あんこう、1875年5月20日〈同治14年4月15日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月28日)は、ジャーナリスト、歴史学者、沖縄学の研究者。伊波普猷、東恩納寛惇とともに、戦前の沖縄学における「御三家」と呼ばれる。著書に「沖縄一千年史」、「琉歌大観」など。 五大姓の一つ、毛氏池城殿内(元祖・新城親方安基)の支流・毛氏真境名家(系祖・玉城里之子親雲上安暉)の分家13世。父・真境名安布、母・毛氏真牛の次男として首里桃原村(現・桃原町)に生まれる。唐名は毛居易、童名は樽金(タルガネ)。長兄・安宏が真境名本家の養子となったため、安興が父・安布の家督を継いだ。 首里小学校を経て、沖縄県師範学校附属小学校に学び、1891年(明治24年)に沖縄県尋常中学校(のちの県立一中、現・沖縄県立首里高等学校)へ進学した。
小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日… 小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日 - 1955年〈昭和30年〉7月23日)は、明治・大正時代に活動した日本のジャーナリスト、大正・昭和時代の実業家である。時事新報社の記者を経て実業界に入り、明治生命保険取締役や時事新報社社長を務めた。記者時代に衆議院議員(当選1回)、晩年に貴族院勅選議員も務めた。長野県出身。 1875年(明治8年)5月18日、長野県佐久郡小諸町(現・小諸市)に小山謙吾の五男として生まれる。実家の小山家は小諸の与良に居を構え酒造業を営む旧家であり、父・謙吾は長野県会議員も務めた人物である。兄に酒造業を継いだ謹之助、千代田生命保険に勤めた禎三がいる。上京して福澤諭吉が開いた慶應義塾に学び、1904年(明治37年)大学部法律科を卒業。
高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5… 高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5月17日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、明治、大正、昭和期の日本の実業家。 福岡県生まれ。1900年(明治33年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。大阪商船に入社。後に三井物産に転じ、藤原銀次郎の知遇を得て、1912年(明治45年)に王子製紙に入社。 苫小牧工場長を経て、1914年(大正3年)に王子製紙取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、藤原銀次郎の後任として1938年(昭和13年)12月に取締役社長に就任した。その後1942年12月まで王子製紙の社長を務めている。同社のほか、傍系会社の日本パルプ工業の取締役社長を1939年(昭和14年)5月から1943年(昭和18年)1月まで務めた。
田中 徳兵衛(四代目 德兵衞、たなか とくべえ、1875年(… 田中 徳兵衛(四代目 德兵衞、たなか とくべえ、1875年(明治8年)5月15日 - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県北足立郡南平柳村長。幼名・徳蔵。勲四等旭日章。味噌醸造業。 埼玉県足立郡十二月田村(のち北足立郡南平柳村、現・川口市)で、味噌醸造業、素封家・三代目田中徳兵衛の長男として生まれる。1894年(明治27年)家督を相続し四代目徳兵衛を襲名した。 埼玉味噌醸造組合長、帝国実業協会幹事、東京共立銀行監査役、東京紡績監査役などを務めた。 南平柳村会議員を務めた後、1922年(大正11年)から1929年(昭和4年)まで同村長を務めた。
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - … 樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治… 広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治8年)5月11日 - 1907年(明治40年)8月1日)は、日本の経済学者。京都帝国大学法科大学助教授。 千葉県君津郡富岡村上根岸の人。千葉中学、第一高等学校を経て、1900年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農商務省に入り、工場法案の調査を嘱託される。かたわら専修学校などの講師をしていたが、1902年、京都帝国大学法科大学助教授となる。1905年、政治経済学研究のため独・米・英の三国に留学を命ぜられる。ミュンヘン大学に入る。統計調査に従事する。 1907年8月1日、病を得てミュンヘンで亡くなる。葬儀が9月17日洛東智積院で行われ、井上学長と学生清瀬とが弔詞を読む。
横田 成年(よこた せいねん、1875年(明治8年)5月10… 横田 成年(よこた せいねん、1875年(明治8年)5月10日 - 1953年(昭和28年)1月11日)は日本の造船・航空工学者。東京帝国大学名誉教授。 京都府京都市で、横田成憲の長男として生まれた。1898年(明治31年)に東京帝国大学工学部造船学科卒業後、ただちに同大学助教授に就任する。1910年(明治43年)に教授に就任し、1918年(大正7年)に同大航空研究所の初代所長に就任、同年に工学部航空学科が創設され主任教授となる。1934年(昭和9年)に日本航空学会が創設され、初代会長に就任し、1936年(昭和11年)に同大名誉教授となる。 日本の航空工学の草分け的存在であり、1936年(昭和11年)に退官するまで38年間、同大学にあって弾性力学、流体力学、弾道学など広い分野にわたる諸問題に、数学的技法を駆使し、多くの研究成果をあげた。
木本 主一郎(きもと しゅいちろう、1875年(明治8年)5… 木本 主一郎(きもと しゅいちろう、1875年(明治8年)5月10日 – 1939年(昭和14年)9月18日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡木ノ本村長。幼名・八郎。 和歌山県海部郡木ノ本村(海草郡木ノ本村を経て現和歌山市木ノ本)で、地主、酒造業・木本太兵衛の長男として生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。1904年(明治37年)家督を相続し主一郎と改名。家業を営んだ。 1905年(明治38年)8月、木ノ本村長に就任し、1912年(明治45年)4月まで在任。1907年(明治40年)10月、海草郡会議員となり1期在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、以後、1927年(昭和2年)まで連続して再選され、1928年(昭和3年)2月、衆議院議員に当選のため県会議員を辞職した。
藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 … 藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 - 1953年(昭和28年)12月1日)は、国文学者、東京帝国大学名誉教授。東洋大学第9代学長。 1875年、福岡県柳川で藤村順吉の次男として生まれた。橘蔭学館(のちの福岡県立伝習館高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学国文学科に進学。1901年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授に就いた。1903年より広島高等師範学校教授を務め、1910年に東京帝国大学国文科助教授となった。1922年に教授昇格。1934年からは東洋大学学長を兼任。1936年に東京大学を定年退職。1940年からは、汪兆銘政権下の北京大学で教鞭を執った。
阪上 貞信(さかがみ さだのぶ、1875年5月6日 - 19… 阪上 貞信(さかがみ さだのぶ、1875年5月6日 - 1932年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県出身。1897年、明治法律学校及び東京法学院卒。朝鮮江景、群山各日本人居留民団長、群山土地組合長、同土地組合連合組合評議員、同商業会議所特別議員、鮮南勧業(株)社長、京南鉄道(株)専務取締役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1920年の第14回衆議院議員総選挙において山口3区から立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1924年の第15回衆議院議員総選挙に立候補しなかった。1932年死去。
日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - … 日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - 1924年7月3日)は、日本の地球物理学者。理学博士(1906年)。東北帝国大学教授。岩石や地震波の研究者。『物理学汎論』などを表し、岩石の弾性の研究により第2回帝国学士院賞を受賞し、近代地震学の基礎を開いた。アインシュタインとも親交を持ち、彼を長岡半太郎らと共に東北帝国大学に招いた。 日下部定治の3男として山形県東村山郡金井村(現・山形市)に生まれる。幼い頃は社交性がない神経質な子供であり、村の寺に小僧として3年間預けられたこともあった。小学生の頃から数学などが非常に得意であった。旧制山形尋常中学、旧制二高へ進み、1900年、東京帝国大学物理学科を卒業。
中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 19… 中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 1937年2月19日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト、作詞家である。本名は中内 義一(なかうち ぎいち)。 1875年(明治8年)5月5日、高知県に「中内義一」として生まれる。 旧制・東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、博文館に入社し、その後、『萬朝報』の記者となった。戯曲『大尉の娘』は、1923年(大正12年)、井上正夫、初代水谷八重子が演じ、評価を得た。同作は、八重子の当たり役となり、「八重子十種」の演目のひとつとなった。 新派のための戯曲のほか、小説を執筆し、長唄の作詞も手がけている。 1937年(昭和12年)2月19日に死去した。
関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5… 関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5月4日 - 1950年〈昭和25年〉6月10日)は、日本の官僚・政治家。 宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日… 吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日 - 昭和4年(1929年)3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。 大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。 東京府湯島に佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている。
佐藤 国司(さとう こくし、1875年〈明治8年〉5月2日 … 佐藤 国司(さとう こくし、1875年〈明治8年〉5月2日 - 1946年〈昭和21年〉7月1日 )は、大正から昭和時代前期の政治家、新聞経営者。北海道釧路市長。 千葉県匝瑳郡共興村(現・匝瑳市)出身。佐藤鉄之助の長男。明治法律学校を経て、1904年(明治37年)東京法学院を卒業する。1909年(明治42年)釧路実業新聞を創刊し、白石義郎らと共に釧路実業調査会を設立する。1910年(明治43年)釧路町会議員当選を皮切りに、水産組合議員、漁業組合議員、北海道会議員、北海道参事会員を経て、1922年(大正11年)から釧路市会議員に2期当選する。 1928年(昭和3年)推挙され釧路市長に就任し、同市会議員を経て、1936年(昭和11年)同市長に再選した。
冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 19… 冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 1955年7月22日)は、明治〜昭和期の日本の僧侶。真言宗豊山派管長および教育者。 「斅」が特殊文字であることから、ウェブ上では「富田学純」という代用表記も見られる。 長野県水内郡水内村(現・長野市信州新町)に生まれる。1897年、哲学館(現・東洋大学)卒業。1882年、長野県更府村長勝寺の冨田容純の従弟となる。1902年、哲学館の卒論を「新義真言宗史綱」として出版。1911年、真言宗豊山派宗務長、同派集議などを経て、1932年、同派管長となり、大僧正。 1914年より東京中野宝仙寺住職。一方1920年豊山大学長となり、1926年同大と大正大学合同で、大正大学教授となった。
武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月… 武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月30日)は、日本の医学者。九州帝国大学名誉教授。専門は内科学。 田中茂右衛門の四男として福岡県に生まれる。陸軍軍医監を務めた武谷水城の養嫡子となり、後にその長女長榮と結婚する。武谷水城の父(養父)は、福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くした武谷祐之、祖父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。 1894年福岡県立尋常中学修猷館、1898年第一高等学校医科を経て、1903年東京帝国大学医科大学を卒業。1906年内科学専攻のため文部省より3年間ドイツ留学を命ぜられ、帰国後1910年医学博士の学位を受ける。
橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4… 橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。 日産自動車、ダットサン、いすゞ自動車の前身である快進社の創立者。 1875年(明治8年)4月28日、愛知県額田郡柱村19番(現・岡崎市柱6丁目)に生まれた。父は橋本斧吉、母はくらであり、増治郎は次男だった。生家は「大橋本」と呼ばれる旧家であり、兄の橋本松次郎は岡崎村会議員や岡崎村長を務めている。 羽根小学校、額田郡高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業すると、1891年(明治24年)に東京工業学校(現・東京工業大学)に入学し、1895年(明治28年)に工芸部機械科を卒業した。
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月… 上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。父は上村太兵衛、母は仲子。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた。
小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - … 小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - 1954年2月7日)は、明治-昭和期の日本の化学者。 新潟県に生まれる。東京帝国大学卒。同大学の講師、宝田石油技師を経て、1918年に早稲田大学教授となる。石油精製に使われる酸性白土の発見および研究で知られる。「酸性白土」の命名も小林が行っている。1935年工業化学会有功賞、1953年日本化学会功績賞受賞。 化学機械協会(現: 公益社団法人化学工学会)の初代会長(1936年-1938年)を務めた。
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日… 高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した。
川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日… 川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は日本の俳人、俳書収集家。本名は徳三郎。 兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立神戸商業高等学校卒業後、鉄材商を営む。俳句は河東碧梧桐に師事。俳誌「阿蘭陀渡」を創刊。句集に「和露句集」がある。碧梧桐主宰の俳誌『海紅』に創刊号から参画した。
佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治… 佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治8年)4月13日 - 1926年(大正15年)3月6日)は、日本の仏教学者・教育者。大谷大学教授、第3代大谷大学学長。大谷大学の組織と研究方針を確立させた人物として知られる。清沢満之門下。著作に『親鸞聖人伝』、『支那浄土教史』などがある。 1875年(明治8年)、愛知県碧海郡古井村(現・愛知県安城市)にある真宗大谷派の願力寺に生まれた。乳は山田才相、母はつやまであり、次男だった。 幼少時、大分県日田郡日田町の咸宜園(大谷派長福寺の学寮を起源とする)に学び、1888年(明治21年)、東本願寺が設置した三河育英教校に入学。その後、1893年(明治26年)、実質的に東本願寺の運営だった京都府立尋常中学校に編入し、翌年には東本願寺設置の京都第一中学寮に入学した。
柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1… 柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1955年6月19日)は、日本の大正から昭和時代前期にかけて活動した歌人、作詞家。鳥取県出身。 1875年(明治8年)、鳥取市藪片原町に生まれる。1896年(明治29年)に鳥取県尋常師範学校を卒業後、県内各地の小学校訓導を経て東京高等師範学校国文科へ入学し、1903年(明治36年)に卒業する。 旧制都城中学校で教諭を1年間務めた後、1904年(明治37年)に岐阜高等女学校へ転任。和歌や長詩を嗜み、1908年(明治41年)に文部省が懸賞募集した新体詩で第一部二等に入賞する。1915年(大正4年)11月に執り行われた大正天皇の御大典記念事業として京都市が歌詞を募集した「京都市歌」で応募作が二等に入賞したが、一等は「該当作なし」となったため柏木の応募作が採用となり、1951年(昭和26年)に現行の市歌へ代替わりするまで歌い継がれた。
藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1… 藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1945年11月29日)は明治・大正期日本の英文学者、劇作家。学習院名誉教授。号は古雪(こせつ)。 1875年(明治8年)、新潟県士族(元佐渡奉行所幕臣)・藤沢親之の次男として東京府に生まれる。幼名は菊丸(きくまる)。東京帝国大学文学部英文科に入学し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から英語を学んだ。在学中、英作文の優秀者に与えられる賞を受賞しているが、その理由は英文の正確さ以上に「内容が優れている」と評されてのものであった。同期には森清(子爵、森有礼長男)、内ヶ崎作三郎(衆議院議員)、小日向定次郎(英文学者)、栗原基(同)、小島武雄(旧制第五高校教諭)らがいる。
傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日… 傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日 - 1924年(大正13年)8月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員。 傍士次、勘の長男として、高知県香美郡片地村(土佐山田町を経て、現在の香美市)に生まれる。東京帝国大学法科大学に学ぶ。1904年(明治37年)高知県会議員に当選。のち大阪市秘書課長、同東区長を歴任する。1921年(大正10年)夏、欧米を視察後、財界にも進出し、鶏林鉱業、日本ゼラチン各取締役、東大阪土地建物、日本ゼラチン、ライト商会各監査役などを歴任した。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では高知県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選するが、任期中に大阪市で死去した。
岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7… 岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7日 - 1966年(昭和41年)2月22日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家(貴族院議員)。正三位、勲一等瑞宝章。法学博士。 1875年、山口県熊毛郡立野村(現・光市)に樋山彦七の二男として生まれ、松前藩の有力商人であった岩田金蔵の養子となる。樋山家は江戸時代、代々庄屋をつとめた家柄だった。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。同期に、湯浅倉平などがいる。 1901年(明治34年)に東京日日新聞社入社。1902年(明治35年)弁護士開業、東京築地に岩田宙造法律事務所(現在の岩田合同法律事務所)を開設。後に、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士に就任。
斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明… 斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。 明治期より昭和期にかけ風俗史、郷土史、美術史等の執筆を行っていた文学博士で、日本美術院の再興や発展、運営にも深く関わった。 1875年(明治8年)に千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)に出生。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)、長兄に元衆議院議員の斉藤斐がいる。茨城県尋常中学校、旧制二高を経て東京帝国大学国史科卒業。大学在学中に郷里守谷の歴史をまとめた「守谷志」を刊行、1902年(明治35年)に大学卒業以後は、半世紀以上に渡り、美術史や国内の世相史を中心に執筆を行った。
斉藤 隆三(さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月… 斉藤 隆三(さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。
赤羽 巌穴(あかはね がんけつ、1875年4月5日 - 19… 赤羽 巌穴(あかはね がんけつ、1875年4月5日 - 1912年3月1日)は明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者。本名は赤羽一(あかはね はじめ)。巌穴は号。 長野県筑摩郡広丘村(現塩尻市)の郷原宿に生まれる。父の名は赤羽無事、母は京。家は下問屋と呼ばれている旧家で、代々郷原宿の問屋場を務めていた。弁護士で衆議院議員まで務めた森山儀文治は叔父に当たる。 郷原宿下問屋の長男に生まれ、16歳で祖父源蔵から家督を相続したが、1893 年(明治26年)家督を弟宜十に譲って、翌1894年(明治27年)上京した。1898年(明治31年)7月、東京法学院(現在の中央大学)を卒業して、神戸新聞社に就職し神戸新聞の記者となり神戸に移るも、1899年東京に戻り、島田三郎の『革新』、松村介石の『警世』の記者となる。
石川 寅治(いしかわ とらじ、明治8年(1875年)4月5日… 石川 寅治(いしかわ とらじ、明治8年(1875年)4月5日 - 昭和39年(1964年)8月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家、版画家。 高知県高知市において石川義忠の長男として、明治8年4月5日生まれる。まず旧制中学時代に上村昌訓について洋画を教わった。明治24年(1891年)に上京し、小山正太郎の不同舎という私画塾に学び、明治26年(1893年)、第5回明治美術会展に「野鴨」を初出品した。明治33年(1900年)のパリ万博にも作品を出品した。翌明治34年(1901年)には明治美術会の組織改革により、新会務委員となって吉田博、満谷国四郎とともに太平洋画会を結成し、水彩画のほか、油絵、素描、木版画、彫刻などを制作し続けた。
小田 幹治郎(おだ みきじろう、1875年(明治8年)4月3… 小田 幹治郎(おだ みきじろう、1875年(明治8年)4月3日 - 1929年(昭和4年)3月1日)は、日本の裁判官。朝鮮総督府官僚。 兵庫県出身。1895年(明治28年)、和仏法律学校(現在の法政大学)邦語法律科を卒業。判事検事登用試験に合格し。司法官試補、長野区裁判所判事・長野地方裁判所判事を務めた。1905年(明治38年)、韓国政府の聘用で、平安北道裁判所法務補佐官、内閣法典調査局事務官、同書記官を務めた。1910年(明治43年)より朝鮮総督府取調局事務官、朝鮮総督府事務官・参事官室勤務、総督官房総務課勤務、中枢院書記官、中枢院調査課長などを歴任。1922年(大正11年)に中枢院書記官長に就任した。
津川 イネ(つがわ イネ、1875年〈明治8年〉4月3日 -… 津川 イネ(つがわ イネ、1875年〈明治8年〉4月3日 - 1986年〈昭和61年〉5月21日)は、長寿日本一であった徳島県の女性。 1875年、徳島県麻植郡木屋平村森遠集落で農林業を営む津川国三郎・マス夫婦の長女として生まれる。 9歳の時、村に小学校が設立され入学したが、入学時の生徒はイネただひとりだけだったという。 永らく独身を貫いていたが、39歳の時に15歳年下の男性(婿養子)と結婚。当時としてはかなりの晩婚であった。その後数人の子どもが生まれたが、二男一女を除いて夭折した。また、1945年には次男と孫(長女の息子)が戦死している。 75歳頃まで、木綿の入手が難しかったこともあり、現在徳島県那賀郡那賀町木頭でしか織られていない、太布織っていたという。
松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。
秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明… 秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明治8年〉4月1日 - 1953年〈昭和28年〉9月11日)は、日本の政治家(衆議院議員、下関市会議員・同議長)、資産家、実業家。秋田商会社長。族籍は山口県平民。 山口県厚狭郡藤山村(現・宇部市)生まれ。秋富傳五郎の二男。秋富久太郎の弟。11歳の時叔父の許に小僧となり追い使われるが、忠実に働いて僅かな暇にも『立志伝』を読む。 1893年、19歳で先代松次郎の養子となる。1917年、家督を相続する。家業の海運業に従事する傍ら、海陸産物の売買にも事業を拡げる。日清戦争中には食糧・雑貨などを朝鮮、満州方面へ輸送し、戦後は台湾へ木材や食糧を販売して大きな利益を得る。
島田 五空(しまだ ごくう、1875年(明治8年)4月1日 … 島田 五空(しまだ ごくう、1875年(明治8年)4月1日 - 1928年(昭和3年)12月26日)は秋田県山本郡(現・能代市)出身の俳人にして実業家、政治家。本名・島田豊三郎。別号に香車、悟空、五工、山頭火など。 1875年(明治8年)4月1日に父豊三郎、母キヱの次男として現在の能代市畠町に生まれる。幼名は島田長冶郎といい、この島田家は名士の家系であったが父と兄の死により幼くして島田豊三郎の名を継ぐ。小学校卒業の頃にはすでに日本外史、十八史略、三国志、水滸伝などを次々読破するなど大変読書熱心な子供であり、才気煥発、敏捷にとびまわる利巧者ぶりが孫悟空のようだと称されたことが後の雅号の由来となる。
高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日… 高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日 - 大正元年(1912年)6月2日)は、日本の明治時代に活動した日本画家。 熊本県鹿本郡山鹿町松坂(現在の熊本県山鹿市)に、浦田長次郎と登喜の長男として生まれる。本名は久馬記(くまき)。長次郎は熊本藩御用絵師の矢野良敬に師事、雪舟の流れをくむ雲谷派に学び、地元山鹿で画塾「観松堂」を開いていた。雪翁・雪長の号を持ち、今でも山鹿周辺の寺社には長次郎が描いた絵馬が多く残っている。初めは父に絵の手ほどきを受け、同じく次弟の一二(号は天鹿)、四男の四郎(号は湖月・廣香)も日本画家になっている。明治25年(1892年)17歳で熊本在住の南画家・犬塚松琴に弟子入りする。
清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30… 清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月7日)は、広島県豊田郡能地村(現・三原市幸崎町能地)出身の彫金家。本名、清水 亀蔵(しみず かめぞう)。日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄。 広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した。最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した。彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、香川県立工芸学校の教諭になるが、6年余りで退職し、奈良県に住んで法隆寺の古美術を研究した。
小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 … 中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 徳島県美馬郡、のちの脇町(現美馬市)で生まれた。神戸市会議員、同参事会員となる。神戸商工会議所議員、副会頭、神戸真田同業組合長、日本麦稈真田同業組合連合会会長、神戸麻真田輸出組合、神戸帽子輸出組合、日本東洋パナマ帽輸出組合連合会各理事長を務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続3期務める。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。
有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 19… 有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 1943年2月19日)は、現在の長崎県島原市出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は大家 八五郎(旧姓山中)。最高位は東小結。5代式秀。165cm、123kg。 1894年5月序ノ口。1899年5月十両昇進、1800年代最後の関取のひとりである。1900年5月場所、7勝2敗1休で現在でいう十両優勝にあたる成績をあげる。翌1901年1月場所は番付運なく十両筆頭にとどまるが、翌5場所月に新入幕。1904年1月場所では東8枚目で7勝2敗1休、9日目に駒ヶ嶽に敗れるまで梅ヶ谷、常陸山の両横綱と並走した。1909年小結昇進。三役は結局この一場所ですぐ平幕に落ち、その後は幕内中位をエレベーターしていたが、1913年1月場所十両落ち、翌5月場所で幕下陥落を機に引退、式秀を襲名した。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)… 島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)3月20日 - 1966年(昭和41年)10月24日)は日本の考古学者。南満州鉄道で大連図書館の初代館長などを務めたのちに憲政会に所属し、その後は東亜考古学会の幹事として戦後にいたるまで活動した。 1875年(明治8年)に生まれる。高校時代は仙台の第二高等学校で過ごし、この頃からすでに『東京人類学会雑誌』などに遺跡紹介の論文を掲載している。1895年(明治28年)には創設者の一人として奥羽史学会を結成。大学は東京帝国大学法科大学に進み、1897年(明治30年)ごろには国際法学会の発起人の一人となっている。東大法科時代の同級生には中田薫、杉栄三郎、柳田國男、松岡均平、遠藤源六らがいる。
小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16… 小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16日 - 1945年(昭和20年)6月15日)は戦前日本のドイツ語教師。石川県士族。熊本市第五高等学校で44年間ドイツ語を教えた。 1875年(明治8年)3月16日石川県金沢に小島与次郎の長男として生まれた。原籍は川上新町3丁目12番地。1881年(明治14年)5月金沢の小学校に入学し、1888年(明治21年)11月共立尋常中学校(後の金沢一中)第2年級に編入、1892年(明治25年)4月第1回生として卒業し、同校予備科で嘱託教師を務めた。 1893年(明治26年)9月11日第四高等中学校本科第1年級に入学し、徳永富・蒲生重実にドイツ語を学んだ。
蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年(明治8年)3月1… 蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年(明治8年)3月15日 - 1952年(昭和27年)2月3日)は、日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。
中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日… 中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 宮城県出身。仙台藩士・中川操吉の二男として生まれる。第二高等学校を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属・総務局文書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1903年(明治36年)7月、福島県参事官に就任。以後、兵庫県参事官、内務省参事官・衛生局保健課長、地方局市町村課長、埼玉県内務部長などを歴任。1909年(明治42年)12月から1911年2月まで欧米へ出張した。
三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日… 三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日 - 1923年〈大正12年〉9月1日?)は、日本の詩人。本名は三木 猶松、他の筆名に天友、未奇庵、雪衣、楽天遊などがある。 1875年3月12日、兵庫県赤穂市加里屋に、省六・恒子夫妻の次男として生まれる。 1879年に大阪へ移り、大阪府立北野中学校を経て、1894年に東京専門学校に入学。在学中に『早稲田文学』をはじめとした各新聞・雑誌で詩を発表する。後に病気のために退学。 1897年、浪華青年文学会の客員として、機関誌『よしあし草』に寄稿された詩の選者となる。1900年3月、須藤南翠、水谷不倒、菊池幽芳などと関西文学同好会を結成する。