石橋 和(いしばし やわら、1873年(明治6年)6月3日 … 石橋 和(いしばし やわら、1873年(明治6年)6月3日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 福岡県出身。石橋伊三郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1899年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し土木局属となる。 以後、滋賀県参事官、岩手県参事官、埼玉県警部長、埼玉県事務官・第四部長、愛知県事務官・警察部長、福島県事務官・内務部長、岐阜県内務部長、大阪府警察部長、東京府内務部長などを歴任した。 1915年1月8日、佐賀県知事に就任。1917年1月17日、岐阜県知事に転任。美濃九郡の米生産検査制度を実施し、大井川の水利権問題の解決などを行う。
有吉 忠一(ありよし ちゅういち、1873年〈明治6年〉6月… 有吉 忠一(ありよし ちゅういち、1873年〈明治6年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉2月10日)は、日本の内務官僚。千葉県知事・宮崎県知事・神奈川県知事・兵庫県知事。朝鮮総督府政務総監。横浜市長。貴族院議員。横浜商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、日赤理事も務めた。豊岡県宮津(現・京都府宮津市)生まれ。クリスチャン。父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 東京帝国大学法科大学卒業。内務省に入省。1896年 内務省。県治局属。 日本基督教団神戸教会の教会員であり、神奈川県知事時代には関東学院の開設に助力する。 有吉が朝鮮総督府、政務総監だった頃にイギリス人の植民地研究の権威だったアレン・アイルランドが朝鮮を訪れている。
菅又 薫(すがまた かおる、1873年6月2日 - 1950… 菅又 薫(すがまた かおる、1873年6月2日 - 1950年4月26日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(2期)。 栃木県塩谷郡、のちの花岡村(北高根沢村を経て現高根沢町)で、農家・菅又吉松、とき の息子として生まれた。 東京医学専門学校(現東京医科大学)に学び、医師免許を取得後、1907年故郷で病院を開業する(菅又病院)。その後、北高根沢村長、塩谷郡会議員、栃木県会議員などを務める。この間、1932年に北高根沢村の隣の阿久津村(現・高根沢町)で起きた栃木県最大の小作争議(阿久津村事件)の調停に立った。 1942年の第21回衆議院議員総選挙で非推薦で立候補して当選する。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では日本進歩党から立候補して再選される。
名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 … 名尾 良辰(なお よしたつ、1873年(明治6年)6月1日 - 1967年(昭和42年)11月9日)は、日本の朝鮮総督府・内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事、台南州知事。 佐賀県佐賀郡、後の高木瀬村(現佐賀市)出身。佐賀藩新陰流師範・名尾良知の長男として生まれる。佐賀県佐賀中学校を経て、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。1901年、内務省に入省し警視庁警部となる。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。1906年5月、内務省試補・地方局勤務となる。 以後、警視庁警視・巡視官、大分県事務官・警察部長、埼玉県事務官・警察部長、秋田県内務部長、青森県内務部長、静岡県内務部長などを歴任。
末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治… 末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治6年〉6月 - 1950年〈昭和25年〉5月29日)は、日本の実業家、ジャーナリスト 。関門日日新聞社社長。関門日報社顧問。同盟通信社理事。山口県多額納税者。 閑院宮載仁親王受賞者。日本新聞協会総裁受賞者。 山口県豊浦郡赤間関(現下関市)で同県人・末光貞右衛門の長男として生まれ、1929年に家督を相続する。住所は山口県下関市阿弥陀寺町(赤間神宮の所在地)、山口県在籍。 山口県内の新聞社である馬関物価日報、下関実業日報、関門日日新聞社などの複数の新聞社及び東京等複数の支社の社長等を務める。 中でも、関門日日新聞社は、当時の山口県下では、発行部数トップの新聞社であった。
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉… 堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉5月25日 - 1955年〈昭和30年〉5月12日)は、明治から昭和時代の医学者、大日本帝国陸軍軍医。 堀内直学の長男として丹波国多紀郡篠山北新町(現・兵庫県丹波篠山市北新町)に生まれ、1888年(明治21年)7月、家督を相続する。 1894年(明治27年)第二高等学校医学部(現・東北大学医学部)を卒業し、陸軍に入り、三等軍医となる。1896年(明治29年)台北病院医務嘱託、台北県医院医員、台湾総督府医院医員、台湾総督府医学校助教授、同校舍監、同校教授、同医院医長を歴任する。1912年(大正元年)多紀郡出身者として初めて医学博士の学位を授かる。
窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 194… 窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 1944年9月14日)は、日本の実業家。同じく実業家の内田信也は実弟。 茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)生まれ。実業家の内田信也は実弟。1896年高等商業学校(現:一橋大学商学部)卒業、三井物産入社。1907年に堺セルロイド(現:ダイセル)専務取締役。1910年北海道炭礦汽船幹事。1913年波佐見鉱業専務取締役。1914年窪田事務所を設立し、南洋諸島との貿易に従事。1918年富士製紙(後の王子製紙)社長。早川電力社長、如水会理事、日魯漁業(現:マルハニチロ)社長などを歴任。1927年東京米穀商品取引所理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 19… 田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 1943年11月7日)は、日本の音楽教育家、作曲家。 鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)に田村重蔵の6人兄弟の末子として出生。体が非常に強健であったことから虎蔵と命名されたとされる。 蒲生小学校、鳥取高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)を経て、1892年鳥取県尋常師範学校を卒業。卒業後は因幡高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)に赴任するが、同年9月に東京音楽学校に進学。1895年同校を卒業。兵庫県尋常師範学校を経て、1899年東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭。 言文一致唱歌を提唱し、納所弁次郎らと「幼年唱歌」(1900年)「尋常小学唱歌」などを編集。
有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 19… 有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 1949年5月31日)は、日本の官僚。貴族院議員。実業家。 長野県伊那郡南殿村(現上伊那郡南箕輪村)生まれ。 1891年、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業。1894年、東京法学院(現中央大学)英語法律科卒業。志願兵として近衛野戦砲兵連隊に入隊し、日清戦争従軍後、砲兵少尉で除隊。1897年、高等文官試験に合格して大蔵省主税局に入省。長崎税関監視部長、函館税務署長を経て、1906年に韓国政府に聘用され鎮南浦税関長となり、さらに統監府財政監査官、同書記官・監査部長に就任した。その後、朝鮮総督府書記官・関税課長、京畿道内務部長、同第一部長、度支部税関長、朝鮮総督府参事官・事務官などを歴任。
小畑 大太郎(おばた だいたろう、1873年(明治6年)5月… 小畑 大太郎(おばた だいたろう、1873年(明治6年)5月22日 - 1946年(昭和21年)8月9日)は、明治から昭和前期の銀行家、政治家、華族。貴族院男爵議員、正三位勲三等。弟は陸軍飛行第五連隊長(立川飛行場長)の小畑厳三郎、陸軍三羽烏の小畑敏四郎。 男爵・小畑美稲の長男として東京府(現東京都)に生まれる。1894年(明治27年)に慶應義塾大学を卒業し、第十五銀行に入行。1900年(明治33年)に欧米に留学。1903年(明治36年)にニューヨーク大学商科卒業。ケミカル銀行、カナダ銀行で銀行事務を研究。帰国後、第十五銀行で書記を務めた後、同行副支配人となり、農村経済更生中央委員会委員となる。
林 永太(はやし ながた、1873年5月21日 - 1918… 林 永太(はやし ながた、1873年5月21日 - 1918年4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県出身。1895年、日本法律学校卒。末武南村会議員、都濃郡会議員、山口県会議員、同参事会員、同副議長を務め、周防銀行、記念肥料(株)各取締役、周陽銀行頭取、柳井瓦斯(株)監査役となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において山口県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選した。1918年に死去した。
桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月2… 桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年〈明治6年〉5月20日 - 1941年〈昭和16年〉9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は桐生 政次(きりゅう まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。 金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、1892年(明治25年)には小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科(現在の東大法学部)に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ。
庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月1… 庄司 乙吉(しょうじ おときち、1873年〈明治6年〉5月18日 - 1944年〈昭和19年〉11月10日)は、日本の実業家である。東洋紡績の社長を務めた。 秋田県の生まれ。1897年(明治30年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、大日本綿糸紡績同業連合会に入りインドのボンベイ(現在のムンバイ)駐在員や書記長を歴任した。1912年(大正元年)には大阪紡績に転勤し支配人を務め、1917年(大正6年)からは東洋紡績に社名変更し取締役や副社長も務める。1919年(大正8年)には第1回国際労働会議に出席したカネボウ(現在のクラシエホールディングス)の社長を務めた武藤山治の顧問を務めるために渡米したが、帰国後の1923年(大正12年)にアナキズム運動に関わった「ギロチン団」に狙撃される。
三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年(明治6年)5月… 三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年(明治6年)5月18日 - 1956年(昭和31年)10月31日)は、日本の華族、宮内官、政治家。明治法律学校(現:明治大学)卒業。子爵。1925年(大正14年)から貴族院議員(会派は研究会)に互選。宮中顧問官。三室戸家9代当主。 京都で三室戸治光の子として誕生。1898年(明治31年)7月、明治法律学校を卒業し、宮内省へ奉職。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、宮内属に任官し、帝室会計審査官、内匠寮主事、内匠寮工務課長、皇后宮主事・会計課長、主猟頭などを歴任し、1921年(大正10年)10月、宮中顧問官に就任した。
石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日… 石井 露月(いしい ろげつ、1873年(明治6年)5月17日) - 1928年(昭和3年)9月18日)は、日本の俳人。本名は祐治。 秋田県河辺郡女米木(めめき)の農家石井常吉の二男として生まれる。幼時に祖父与惣右衛門から実語教を口伝で習って覚えた。祖父はまた発句もよくしたので、それも覚えた。少年時代はとにかく読書欲旺盛で、川向かいの村落に小舟で渡り本を借りてきて読んでいたという。高麓小学校では成績優秀で、文部省から賞品に論語の本を贈られるほどであった。また、12歳頃から既に盤虎・李花園・雲城・芥郎などと号して文筆に親しんでいた。 1888年(明治21年)秋田中学校に入学。中学時代は江帾澹園に漢詩漢籍を習い創作の添削指導も受けるなどしていたが、脚気を患い3年で退学。
橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月1… 橋本 正治(はしもと まさはる、1873年(明治6年)5月17日 - 1956年(昭和31年)10月8日)は、日本の内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山口県知事、鹿児島県知事、呉市長、札幌観光協会長。札幌市栄誉市民。旧姓・吉田。 福井県吉田郡円山西村(現在の福井市)出身。吉田伝七の二男として生まれ、のち橋本久と結婚し橋本と改姓。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して内務省に入省。北海道勧業部長、山口県知事、鹿児島県知事などを経て1927年、札幌市長に就任。1937年、札幌市長を退任した。後任は三沢寛一。 市長在任中は上下水道事業の推進、札幌市営バスの運行開始などを行った。
属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年… 属 最吉(さっか さいきち、旧姓・井上、1873年〈明治6年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉12月24日)は、日本の実業家。三井鉱山(現・日本コークス工業)元取締役。日本石油監査役。族籍は山口県士族。宇部興産元副社長の俵田寛夫は次男、衆議院議員の林芳正は曽孫にあたる。 山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)出身。井上哲蔵の二男。1895年、山口高等学校を卒業した。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。 三井鉱山会社に入り総務部長、三池鉱業所長、三池染料工業所長を経て三井鉱山取締役。また小倉石油、三井化学、東洋高圧各取締役、日本石油、三池窒素工業、東洋高圧工業、日本亜鉛工業各監査役などをつとめた。
岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日… 岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日 - 昭和24年(1949年)5月)は、日本の俳人。本名は鉄蔵。 鳥取県法美郡宇倍野村奥谷(現鳥取市国府町奥谷)に、秋田治三郎の二男として生まれる。 明治20年(1887年)、気多郡鷲峰村(現鳥取市鹿野町鷲峰)の岡田権九郎の養子となる。 明治21年(1888年)から俳句を始め、明治24年(1891年)に俳誌「鹿野苑」を創刊。明治25年(1892年)には上京し、阿心庵永機に師事して華峰庵機外と号した。 明治27年(1894年)に立机を許され、その後、俳誌「稲葉の光」を創刊したり、鷲峰吟社を主催するなど、数多くの俳誌の選者として全国的に活躍した。
伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14… 伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、明治後期から昭和前期の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 東京府出身。海軍士官・伊藤雋吉の長男として生まれる。父・雋吉の死去に伴い、1921年(大正10年)5月10日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1898年(明治31年)10月、海軍造船学生となり、1899年(明治32年)6月、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。同年6月、海軍造船中技士に任官し横須賀海軍造船廠造機科主幹に就任。以後、艦政本部部員、造船監督官、舞鶴海軍工廠造機部長、艦政局第三課長などを歴任し、1917年(大正6年)6月、横須賀海軍工廠造機部長に就任。
池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10… 池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10日 – 1943年(昭和18年)10月15日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 熊本県天草郡富岡町(現在の苓北町)に桜井勝九郎の三男として生まれ、池田泰之の養子となった。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、一年志願兵として陸軍歩兵少尉となった。御領村長、同村会議員、天草郡会議員、同参事会員、熊本県会議員を歴任し、九州実業新聞社社長、九州新聞社副社長を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他大谷石材株式会社社長、中国稲荷山鋼索鉄道株式会社社長、苓州銀行取締役を務めた。
秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7… 美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。 1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医・美濃部秀芳(美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた。高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)、帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。
桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7… 桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、鳥取市収入役。旧姓・池原。 鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)、池原茂兵衛の二男として生まれる。小学校中等科卒業後農業に従事する。1895年に八村八次郎の養子となり、同年桝田の絶家再興をおこない、元魚町1丁目で呉服商を経営する。一時は智頭街道筋で呉服商を営む。 1900年に旧名・房吉を八次郎と改名し、京都呉服同業組合繁盛会地方幹事を嘱託され、1912年に廃業の居を東町に移し、1915年8月に鳥取市収入役となる。 1934年、自治功労者表彰を受ける。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、桝田八次郎の地価所有高は「839円40銭」である。
真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日… 真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日 - 1960年(昭和35年)1月20日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 広島県に生まれる。1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に出仕する。第五区(大阪)土木監督署に入り、淀川改修に1911年(明治44年)まで従事した。淀川改修では主任技師として大規模な機械化施工を推し進めた。同年東京土木出張所に転じ、1921年(大正10年)まで利根川第三期改修工事に従事。淀川改修で確立した施工技術を応用してパナマ運河を凌ぐ大土木工事に尽力した。この間、1914年(大正3年)に欧米に出張した。 同年、東京土木出張所工務部長兼庶務部長になり、関東大震災後には管内の河川構造物の復旧工事を担当した。
武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)… 武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)5月4日 - 1936年(昭和11年)8月17日) は、日本の実業家。元東神倉庫会長。東洋レーヨン発起人。 東京府士族。1893年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産でドイツ帝国ハンブルクの開拓にあたり、三井物産大阪支店長、三井物産神戸支店長、三井物産機械部長、三井物産取締役、東洋棉花取締役、日本レイヨン取締役などを務めた。1918年には安川雄之助、南条金雄とともに三井物産常務取締役に就任し、財務を統括した。1925年東洋レーヨン発起人。1935年から東神倉庫会長を務めたが、翌年死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月… 飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 飯田久助の長男として、福岡県穂波郡、のちの嘉穂郡桂川村(現桂川町)で生まれた。1896年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1898年中央大学を卒業。 1899年弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士を経て、独立開業する。 1910年弁護士を廃業して玄洋社に入り、鉱山業に従事。1911年北海道炭山を三井鉱山に、次いで1915年美唄炭山を三菱合資に売却して、巨利を得て実業界に進出。南満洲太興を設立して代表社員となり、天図軽便鉄路、図們鉄道、弓張嶺鉄山、天宝山銀銅鉱などの事業を経営。新登川炭鉱社長、神国生命保険社長、有隣生命保険社長、萬朝報社長なども務めた。
熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 19… 熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 1968年1月7日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学林(現駒澤大学)教授。曹洞宗總持寺独住16世貫首、永平寺73世貫首。道号は祖学。諡号は大光円心禅師。 明治6年愛知県丹羽郡丹陽村(現一宮市)生まれ。1880年郷里の文殊院石原泰豊師について出家、1886年滋賀県慈眼院諏訪周禅師につき得度、1891年同師より嗣法。1892年永平寺に転じる。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1902年宗門内地留学生となり、京都浄土宗専門学院(現学校法人佛教教育学園)に入り、唯識学を研究した。1905年師席を継ぎ慈眼院住職、1908年母校の曹洞宗大学林教授に就任。
2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)… 2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)4月27日 - 1935年(昭和10年)6月28日)は、明治後期から昭和初期の銀行家、農業経営者。貴族院多額納税者議員、勲四等。 新潟県笹岡村(現・阿賀野市)の地主の家系で代々五十嵐甚蔵を名乗った。初名は直彦。1894年(明治27年)に慶應義塾を卒業後、1908年(明治41年)に新発田銀行取締役、同頭取、第四銀行取締役、榎並銅鉄株式会社取締役、新発田倉庫監査役、新潟新聞監査役、新潟県地主協会会長等となる。 品川弥二郎にじかに小作奨励を勧められ、1893年(明治26年)から蔵米品評会を実施した。 1925年(大正14年)新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 … 小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1947年〈昭和22年〉11月30日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→中正会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 名東県寒川郡長尾名村(現在の香川県さぬき市長尾名)出身。札幌農学校で植物学を専攻した。東京朝日新聞に入社して、博物方面の記事を担当し、『日本の高山植物』(二松堂、1906年)を著した。また日本海洋会の理事となり、『瀬戸内海論』(文会堂、1911年)を著した。 実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月2… 松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1937年〈昭和12年〉1月30日)は、京都を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。ネオ・ルネサンス様式の名建築として知られる京都府庁舎旧本館や、京都ハリストス正教会聖堂などの設計などで知られる。 京都府技師として新築設計を手がける一方で、京都の社寺建築の修復・保存にも実績を残したが、部下の汚職に連座したとして官職を辞す。その後は九州鉄道技師を経て、恩師・辰野金吾の推薦により関東州(旅順・大連地域)の行政機関である関東都督府民政部に着任した。1908年3月の着任から近藤伊三郎が部下となる1916年8月までの8年間は、民政部土木課の唯一人の建築技師だった。
安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日… 安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日 - 1949年(昭和24年)2月5日)は、石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。 長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。 弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 19… 金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4… 佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4月22日 - 1935年(昭和10年)4月21日)は、日本の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北能。 秋田県由利郡、後の金浦町(現:にかほ市)で北能喜吉の二男として生まれる。1895年2月、由利郡塩越村(現:にかほ市)の呉服商・佐々木小治郎の養子となる。1897年にロシア帝国沿海州を視察し、その地の漁業の有望なことを見極め、樺太を含めた同地方での漁業を経営。函館に根拠を置き、倉庫業、船舶業、米穀海産物委託問屋なども営んだ。函館区会議員、函館商業会議所特別議員、樺太建網漁業水産組合組長、露領水産組合評議員、函館慈恵院監事、北日本汽船重役、北海道鉄道重役、樺太漁業社長、佐々木倉庫社長、寿都鉄道社長などを務めた。
有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月2… 有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月21日 - 1955年(昭和30年)1月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県豊浦郡、のちの長府町字金屋浜(現下関市)出身。旧長府藩士・有川常友の長男として生れる。山口高等中学校中退を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、工兵少尉に任官し工兵第5大隊付となる。1898年(明治31年)12月、陸軍砲工学校高等科(6期)を優等で卒業し陸軍築城部本部付となる。 1899年(明治32年)8月、ドイツ駐在となり、砲工学校教官を経て、1904年(明治37年)6月、第8師団兵站電信部長に就任して、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征し、この間、第3軍司令部付(兵站電信部長)を務めた。
春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20… 春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20日 - 1937年(昭和12年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)(2期)。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)に生まれる。1895年(明治28年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。1900年(明治33年)中国に留学し、1903年(明治36年)からアメリカに留学する。1906年(明治39年)帰国。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に当選する。また、東亜耐火工業の専務取締役などを務めた。1937年(昭和12年)6月9日に死去。 鉄道大臣などを務めた小川平吉の側近で、いわゆる五私鉄疑獄事件によって小川とともに逮捕。
堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - … 堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - 1932年2月1日)は、山梨県巨摩郡大八田村(現・北杜市長坂町)出身の教育者・俳人。出生名は堀内 常太郎(ほりうち つねたろう)であり、柳南は号である。 1873(明治6)年4月20日、山梨県北巨摩郡秋田村(現・北杜市長坂町大八田)に生まれる。父親は堀内与右衛門。10代後半、自由民権派新聞「峡中日報」編集長を通して俳句と出会う。山梨尋常師範学校卒業後、南都留郡谷村尋常小学校を初任地として33歳まで山梨県内で教鞭を執る。この間、25歳で結婚、28歳で校長職。俳句への思いを断つことができず33歳で職を辞して上京、自由律俳誌「層雲」の同人となるが、同年妻きくを鉄道事故で失い、上京生活1年で郷里へ帰る。
加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4… 加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4月19日 - 1939年(昭和14年)12月3日)は、日本の逓信官僚、銀行家、政治家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁、貴族院議員。旧姓・川村。 愛知県出身。川村浩の三男として生まれ、加藤厚寛の養子となる。1897年(明治30年)7月、私立日本法律学校(現日本大学)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1898年(明治31年)2月、逓信省に入り通信書記として電務局に配属された。 1898年11月、福島郵便電信局長に就任。以後、岡山郵便電信局長、長崎郵便電信局監理課長、通信事務官、金沢郵便電信局監理課長、大阪郵便電信局監理課長、宇都宮郵便電信局長、一等郵便局長などを歴任。
桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 19… 桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 1931年4月10日)は、造船技術者、労働運動家。 宮崎県南那珂郡油津(現・日南市)出身。第一高等学校、東京帝国大学工科大学造船科卒業。小村寿太郎の愛顧を受け、米国・英国で10年間造船学を学ぶ。帰国後、三菱造船所、鳥羽造船所の技師長となる。1919年、第1回国際労働会議に労働者代表として出席したが、政府による代表の選定に対して労働団体から反対運動が起こった(国際労働会議代表反対運動)。娘は桝本セツ。
羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月1… 羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月16日 - 1944年(昭和19年)2月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。政治家。最終階級は陸軍少将。功四級。 兵庫県多紀郡出身。鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)を経て、1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。歩兵第6連隊附となり、日露戦争に出征。 戦後、名古屋陸軍幼年学校生徒監、近衛歩兵第2連隊大隊長を歴任。ついで、1917年(大正6年)8月に釧路連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第58連隊長(第13師団、歩兵第26旅団)に補されシベリア出兵に従軍。その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命。
安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4… 安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4月15日 - 1927年(昭和2年)7月15日)は、日本の内務官僚。
森本 泉(もりもと いずみ、1873年(明治6年)4月13日… 森本 泉(もりもと いずみ、1873年(明治6年)4月13日 - 1956年(昭和31年)2月18日)は、日本の大蔵・内務官僚。官選山形県知事。 高知県土佐郡上街本町筋(現:高知市上町)で、旧高知藩士・森本安秀の長男として生まれる。1891年7月、高知県尋常中学校を卒業。1897年、慶應義塾大学部理財科を卒業。1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し理財局に配属された。 以後、税関監視官、函館税関監視部長、税関事務官兼税務官、函館税務署長、大阪税関監視部長などを歴任。1910年5月20日、内務省に転じ長野県事務官に就任。以後、長野県警察部長、栃木県内務部長、富山県内務部長などを歴任。
塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4… 塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4月12日 - 1965年〈昭和40年〉5月3日)は、日本の銀行家。ノーベル化学賞を受賞した野依良治は外孫。 長野県北佐久郡三岡村(現・長野県小諸市)出身。農業・銀行家、塩川仁助の三男。塩川幸太の弟。1897年、分家する。 1885年、長野県立長野中学校上田支校(後の松本中学上田支校)に入学。翌年、第一次中学校令に伴い上田支校が松本校に統合されたため上京。中村敬宇の同仁社に学び、第一高等学校に入学。1896年、第一高等学校大学予科を卒業。 1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、大学院に入った後、馬越恭平に目をかけられ帝国商業銀行試補となる。
小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12… 小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12日 - 1947年(昭和22年)8月9日)は、日本の外交官。 石川県出身、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学法律学科卒業。警視総監官房に半年間勤務後、外交官及領事官試験に合格して外務省に入り、1898年(明治31年)10月に天津在勤の領事官補へ任じられる。その後、シンガポール、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスでの勤務を経験した。1905年(明治38年)に中国へ転勤、芝罘領事、天津総領事などを務める。1908年(明治41年)柔術家の野口清と在留官民が設立した天津武術會で副会長を務める。 1916年(大正5年)に日本へ戻って外務省政務局長などを務めるが、1918年(大正7年)10月から1923年(大正12年)まで特命全権公使として再び中国へ派遣される。
5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6… 5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6年)4月11日 - 1959年(昭和34年)6月12日)は、明治から昭和期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。初期の産業組合指導者。幼名・熊蔵。 兵庫県印南郡今市村(伊保村 を経て現高砂市伊保町)で大地主、4代伊藤長次郎の長男として生まれる。兵庫県尋常中学校(のち姫路中学校、現兵庫県立姫路西高等学校)を卒業し、京都の顕道学校、東京の国民英学会、日本法律学校で英語、法律を学んだが、父の病により学業を中断して帰郷した。1895年(明治28年)9月、父の死去に伴い家督を相続し第5代長次郎を襲名した。 1896年(明治29年)以降、加古川銀行頭取、三十八銀行頭取、神栄社長、兵庫県農工銀行取締役、兵庫県農会長、印南郡会議員、同郡参事会員、日英博覧会評議員、茶業組合中央会議特別議員、生産調査会委員などを務めた。
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月1… 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。
伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日… 伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日 - 1921年(大正10年)11月26日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。号は明、士徳、懐亭、鳳南、別名に正基。 酒田本町(現酒田市)の医師伊東清基の長男として生まれる。上京し、東京専門学校で政治学を修め、1896年(明治29年)卒業し台湾総督府旧慣調査会嘱託となる。はじめ佐田白茅、須田古龍について漢学を学んだが、のち札幌の露清学校に転じ中国語、ロシア語を習得し、1898年(明治31年)から東部シベリア、満州、福建、広東などを巡遊し対外問題の処理に尽瘁した。中国、朝鮮には十数回に渡り赴き、1911年(明治44年)の辛亥革命の折には孫文らと交わり「支那浪人」と称された。
八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月… 八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。 1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる。
中沼 信一郎(なかぬま しんいちろう、1873年(明治6年)… 中沼 信一郎(なかぬま しんいちろう、1873年(明治6年)4月8日 – 1919年(大正8年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 京都府に中沼清蔵の長男として生まれ、祖父で学習院講師を務めた中沼了三の跡を継いだ。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補、神戸地方裁判所検事代理となった。翌年、辞して京都に弁護士を開業。1907年(明治40年)、横浜市助役に就任した。翌年に辞した後は横浜で弁護士の業務に従事した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に祖父の出身地である隠岐選挙区から出馬し、当選を果たした。
石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日… 石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月29日)は、昭和期の日本の篆刻家・書家である。 幼名は石松、長じて碩と改名。雙石を号とした。千葉県山辺郡四天木村(現・大網白里市四天木)の生まれ。 四天木村の石井太郎兵衛の三男として誕生。石井家は九十九里浜の大網元・斉藤巻石(四郎右衛門)とは縁戚にあたり、石松少年は度々斎藤家を訪れ、収蔵された書画・美術品に触れることができた。この頃から細かいことが大好きで小刀を持ち歩いては様々な物に彫りつけたという。四天木学校に四年間通うと儒家島田順堂に素読を習い漢学の基礎を身につけた。14歳には父の務めている役場で書記見習いとして帳簿や土地台帳の整理を行っている。