小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 20… 菊盛 英夫(きくもり ひでお、1909年2月14日 - 2001年12月12日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、映画・文芸評論家、翻訳家。中央大学教授を歴任。 富山県富山市生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒業。1980年まで中央大学教授。 多くの著書、翻訳があり、トーマス・マンを専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
関野 克(せきの まさる、1909年2月14日 - 2001… 関野 克(せきの まさる、1909年2月14日 - 2001年1月25日)は、日本の建築史学者、東京大学名誉教授。文化功労者。 東京生まれ。1929年、旧制浦和高等学校理科甲類卒業。1933年、東京帝国大学工学部建築学科卒。1945年、東京大学工学博士。1946年、母校(のち東京大学)教授。1965年、東京国立文化財研究所所長を歴任。1979年~1991年、博物館明治村館長。1990年、文化功労者。墓所は多磨霊園。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
黒河 隼人(くろかわ はやと、1909年2月14日 - 19… 黒河 隼人(くろかわ はやと、1909年2月14日 - 1992年2月1日)は、日本の実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、同社取締役会長を務めた。正四位勲二等瑞宝章。 1927年市立下関商業学校(現下関商業高等学校)卒業。1930年山口高等商業学校(現山口大学)卒業、東洋陶器入社。1953年取締役に昇格。1959年常務取締役。1963年専務取締役。1967年取締役副社長。1972年7月、杉原周一社長の急逝に伴い社長就任。東陶不動産取締役社長、日本特殊陶業取締役、日本碍子取締役。1973年日本陶器取締役。1979年取締役会長。1983年相談役。1979年勲二等瑞宝章受章。1992年正四位。 第一次オイルショックを受け、第3次5カ年計画による対応にあたるなどした。
吉田 重延(よしだ しげのぶ、1909年2月14日 - 19… 吉田 重延(よしだ しげのぶ、1909年2月14日 - 1989年8月7日)は、日本の政治家。元自由民主党衆議院議員。岳父は中野猛雄。 熊本県天草郡栖本村(現・天草市)の農家に生まれる。東京帝国大学農学部農学実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)を卒業後は帰郷し農作業に従事する。その後熊本県職員、栖本村長を経て、1953年の第26回衆議院議員総選挙に旧熊本2区から自由党公認で立候補し初当選する。以後連続7回当選。 自民党では宏池会に所属する。自治政務次官、衆院大蔵委員長等を歴任。1972年にはリベリアのウィリアム・R・トルバート新大統領の就任式典に政府特使として派遣された。
吉川 英史(きっかわ えいし、1909年2月13日 - 20… 吉川 英史(きっかわ えいし、1909年2月13日 - 2006年4月13日)は、日本の音楽学者。文化功労者。 広島県深安郡神辺町(現・福山市)出身。旧姓・佐藤、本名・英士。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を経て、1933年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。1945年東京帝大講師、1946年 - 49年東京音楽学校講師を兼任、東京芸術大学教授。東京芸大邦楽科の新設に尽力。その後武蔵野音楽大学教授、東洋音楽学会会長、義太夫協会会長、琵琶楽協会会長、宮城道雄記念館館長などを歴任した。1972年NHK放送文化賞・紫綬褒章、1979年勲三等瑞宝章、1993年文化功労者、1994年神辺町名誉町民(福山市名誉市民)。
佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982… 佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982年9月22日)は、日本の俳優、映画監督。本名は石崎 由雄(いしざき よしお)。旧芸名に島津 元。 渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、愛称は「サブリどん」。日活を経て松竹に入社し、上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、戦前松竹の看板スターとして活躍した。戦後は監督業にも進出し、『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表した。1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せた。主な作品に『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。女優の黒木しのぶは妻、俳優の石崎二郎は長男、ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫に当たる。
浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 -… 浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 - 2001年〈平成13年〉11月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、実業家である。航空自衛隊では第5代航空幕僚長を務めた。最終階級は陸軍中佐(大日本帝国陸軍)、航空幕僚長たる空将(航空自衛隊)。 石川県石川郡三馬村(現・金沢市内)出身。1927年(昭和2年)金沢第一中学校卒、1928年(昭和3年)陸軍士官学校に入学。 1932年(昭和7年)に陸軍士官学校第44期を全兵科315名中を28番(歩兵科では13番)の成績で卒業する。同年10月25日、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊第10中隊附(第10中隊長は竹内章雄大尉・27期)となり、のち第51代の聯隊旗手を務めている(歩兵第7聯隊編纂『聯隊歴史』)。
井上 宗次(いのうえ そうじ、1909年2月11日 - 19… 井上 宗次(いのうえ そうじ、1909年2月11日 - 1997年10月9日)は、日本の英文学者、翻訳家。大阪府立大学名誉教授。 京都帝国大学文学部英文学科卒業、京都帝国大学大学院文学研究科英文学専攻博士課程修了。和歌山大学教授を経て大阪府立大学教授、定年により名誉教授、神戸学院大学教授。ユージン・オニールなどを訳した。 1997年、急性心筋梗塞のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
中島 茂喜(なかしま しげき、1909年(明治42年)2月1… 中島 茂喜(なかしま しげき、1909年(明治42年)2月11日 - 1973年(昭和48年)11月26日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党所属の元衆議院議員(10期)。 福岡県生まれ。1933年(昭和8年)東京農業大学農学部卒業。福岡県会議員、朝倉郡金川村(後の甘木市、現在の朝倉市)長などを経て、1946年(昭和21年)衆議院議員に初当選。以来当選10回。国会内では裁判官訴追委員会委員長、衆議院国土計画委員長、同内閣委員長などを歴任し、第1次岸改造内閣で自治政務次官に就任した。自由民主党内では地方行政部会長、財務委員長、代議士会長などを務めた。1972年(昭和47年)の総選挙で落選。
占部 秀男(うらべ ひでお、1909年(明治42年)2月11… 占部 秀男(うらべ ひでお、1909年(明治42年)2月11日 - 1978年(昭和53年)10月13日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 神奈川県出身。1929年(昭和4年)日本大学商科を卒業した。 1929年、東京毎夕新聞社に入社。その後、東京都主事に転じた。労働運動に加わり、東京都職員労働組合委員長(7期)、全日本自治団体労働組合(自治労)委員長(5期)、官公労議長などを務めた。自治労政治部長、同東京都本部地方選挙対策委員長として、美濃部亮吉革新知事の実現に尽力した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で立候補して落選。1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙で全国区に左派社会党公認で立候補して落選。
松井 憲紀(まつい としのり、1909年2月11日 - 19… 松井 憲紀(まつい としのり、1909年2月11日 - 1995年11月15日)は、日本の経営者。横河電機製作所(現在の横河電機)社長、会長を務めた。東京都出身。 1930年に山梨高等工業学校電気工学科を卒業し、1932年に横河電機製作所(現在の横河電機)に入社。1952年に取締役に就任し、1960年に常務、1969年に専務を経て、1971年に社長に就任。1974年から1976年までに会長を務めた。 明星学園理事長も務めた。 1975年に藍綬褒章を受章し、1980年に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年11月15日急性心不全のために死去。86歳没。
伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - … 伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - 1984年10月29日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。専門は日本近世史。研究分野は、近世の文化史・社会史から政治史に、そして経済史にまで及ぶ広範囲なものであった。この他、自治体史編纂にも積極的に取り組み、『水戸市史』『小千谷市史』『新潟県史』の編纂に関わった。 新潟県古志郡富曽亀村亀貝(のち長岡市亀貝町)に伊東三次郎の長男として生まれた。1921年旧制長岡中学入学、1925年旧制新潟高等学校文科乙類入学、1928年卒業。1931年東京帝国大学文学部国史科卒業、大倉精神文化研究所の嘱託となる。翌1932年に卒業論文『国学の史的考察』(大岡山書店、1932年)を刊行し、東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。
山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - … 山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - 1991年9月21日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授、高知大学名誉教授。専門は農業経済学。経済学博士(京都大学・1962年)。京都府生まれ。 子に山岡亮平(動物生態学者、京都工芸繊維大学名誉教授)、山岡耕作(魚類学者、高知大学名誉教授)など
高馬 一郎(こうま いちろう、1909年2月10日 - 20… 高馬 一郎(こうま いちろう、1909年2月10日 - 2006年8月12日)は、日本の経営者。グンゼ社長を務めた。兵庫県姫路市出身。 1930年に上田蚕糸専門学校製糸科を卒業し、同年に郡是製絲(のちのグンゼ)に入社。1959年1月に取締役に就任し、1965年1月に常務、1967年1月に専務を経て、1975年1月には社長に就任。1979年2月には会長に就任。 2006年8月12日老衰のために死去。97歳没。
三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月1… 三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月10日 - 1983年(昭和58年)1月7日)は、日本の社会運動家、実業家。日本共産党員でありつつ、特別高等警察(特高)のスパイとして活動した。「小林多喜二を売った男」として知られている。 秋田県由利郡川内村(現由利本荘市)生まれ。1928年頃に上京し、旋盤工として働きながら、1930年10月、全国労働組合同盟(全労)亀戸分会に加入、東京・下町の労働運動に参加した。やがて非合法の組合運動に接近する中で、検挙・拘留を繰り返し、1930年頃警視庁特高課毛利基直属のスパイとなった。 1931年6月15日、コミンテルン上海出張所(極東部)組織部長イレール・ヌーランとその妻が上海租界警察に逮捕されるという「上海ヌーラン事件」を誘発した。
鈴木 明良(すずき あきら、1909年(明治42年)2月8日… 鈴木 明良(すずき あきら、1909年(明治42年)2月8日 - 1985年(昭和60年)9月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。落選後は詐欺を生業とし、「M資金事件」の立役者と言われた。 茨城県結城郡江川村(現在の結城市)出身。1928年、茨城県立下妻中学校を卒業。岩佐鉄工所営業部長、朝日海運取締役社長、明商株式会社社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で旧茨城県選挙区から出馬して当選し、その後第24回総選挙まで連続3回の当選を果たした。この間、日本進歩党情報部長、民主党総務、民主自由党総務、衆議院内閣委員長などを歴任した。 1952年の第25回総選挙で落選し、同時に選挙違反で逮捕された。
鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 200… 鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 2005年5月12日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県加世田市(南さつま市)出身。教育者小原國芳の長兄の次男として誕生し、叔父國芳の養子となる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、國芳が校長を務めた旧制成城高等学校を卒業した。1932年京都帝国大学文学部教育学科卒業。その後國芳の娘と結婚し、國芳が養子に入っていた鰺坂家を代わって相続した。静岡県視学官、東京農業教育専門学校教授、鹿児島大学教授を経て、1959年京都大学教育学部教授。1972年に定年退官、名誉教授となる。その後、甲南女子大学学長、文部省教育職員養成審議会会長を務めた。
広田 栄太郎(ひろた えいたろう、1909年(明治42年)2… 広田 栄太郎(ひろた えいたろう、1909年(明治42年)2月8日 - 1974年(昭和49年)5月23日)は、日本の国語学者。 東京生まれ。東京帝国大学卒。二松学舎教授、文部省国語調査官。国語審議会幹事、戦後の国語国字改良に当たる。のち中央大学教授、大妻女子大学教授。在職中に死去。
中村 忠雄(なかむら ただお、1909年(明治42年)2月8… 中村 忠雄(なかむら ただお、1909年(明治42年)2月8日 - 1981年(昭和56年)5月30日)は、日本の政治家。茨城県龍ケ崎市長を務めた(2期)。 茨城県稲敷郡柴崎村(新利根村→新利根町を経て、現在の稲敷市)に生まれる。1931年(昭和6年)に東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)を卒業した。その後、歯科医院を開業する。 1940年(昭和15年)に稲敷郡大宮村(現在の龍ケ崎市)会議員となり、1946年(昭和21年)には議長となる。 龍ケ崎市発足後の1955年(昭和30年)、龍ケ崎市議会議員となる。1966年(昭和41年)、市議会議長に就任した。1975年(昭和50年)、龍ケ崎市長に当選した。
米原 昶(よねはら いたる、1909年(明治42年)2月7日… 米原 昶(よねはら いたる、1909年(明治42年)2月7日 - 1982年(昭和57年)5月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党幹部会委員。 鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭は江戸時代は因幡街道の宿場町・智頭宿として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号で呉服類や小間物の商いをしていた。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼや社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世 哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年、第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。
宮下 忠雄(みやした ただお、1909年2月7日 - 199… 宮下 忠雄(みやした ただお、1909年2月7日 - 1990年9月27日)は、日本の中国経済学者。 1909年、長野県上田市で生まれた。名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)に入学し、田中金司に師事した。1929年にに卒業。神戸商業大学(現・神戸大学)に進み、1932年に卒業。 卒業後は東亜同文書院教授に就いた。1941年、母校の神戸商業大学助教授に任命された。同大学が1944年10月に神戸経済大学に改称となったことから、以降同大学助教授。 1947年に教授昇格。1949年、新制大学発足にともない神戸経済大学が神戸大学に包摂となったため、1952年以降は神戸大学経済学部教授。同1952年、学位論文『近代中国銀両制度の研究』を神戸大学に提出して経済学博士の学位を取得。
佐々木 酉二(ささき ゆうじ、1909年(明治42年)2月6… 佐々木 酉二(ささき ゆうじ、1909年(明治42年)2月6日 - 1997年(平成9年)8月14日)は、日本の化学者。専門は、酵母菌などの細菌研究や微生物研究。学位は、農学博士(北海道帝國大學)。北海道大学名誉教授。北海道生まれ。 北海道庁乳規格調査会委員、文部省科学研究費等審議会委員、文部省学術奨励審議会委員、内閣資源調査専門委員などを歴任。 北海道大学教育学部、同医学部、同水産学部、帯広畜産大学、北海道教育大学、北海道栄養短期大学、天使女子短期大学、北星学園女子短期大学、北海道工業大学などの非常勤講師を務めた。
花岡 大学(はなおか だいがく、1909年2月6日 - 19… 花岡 大学(はなおか だいがく、1909年2月6日 - 1988年1月29日)は、日本の童話作家・小説家・児童文学作家、仏教の僧侶である。本名如是(ゆきよし)、僧名大岳。浄迎寺の住職を務めた。京都女子大学名誉教授。
村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 … 村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。初代京都府警本部長、初代内閣総理大臣官房調査室長(現・内閣情報調査室)、綜合警備保障の創業者で、社長・会長。 東京出身。東京高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1935年(昭和10年)内務省に入省し、1939年(昭和14年)に福岡県警防課長から、汪兆銘の南京政府を実質的に支配していた上海の興亜院に転出し、中国大陸における特高警察活動や、思想文化統制に従事。 敗戦後は、青森県警察部長を務めている最中に吉田茂に才気を見出され、第1次吉田内閣で内閣総理大臣秘書官に抜擢されるも、のちに内務省に戻り、廃止された特高警察の代わりとして設立された、内務省警保局公安一課(公安警察)の課長として、情報関係業務に従事。
松宮 誠一(まつみや せいいち、1909年2月5日 - 19… 松宮 誠一(まつみや せいいち、1909年2月5日 - 1987年9月25日)は、日本の歯科医師、歯学者。口腔病理学を専門とし、東京歯科大学学長、同大学名誉学長を務めた。 1909年2月5日生まれ。1930年に東京歯科医学専門学校を卒業し、1940年に名古屋帝国大学医学部大学院を修了した。戦時中の特例措置により医師試験に合格し、医師免許も取得した。 東京歯科大学では講師、助教授、教授を歴任した。1971年から1977年まで副学長、同年7月から1983年3月まで学長を務め、1983年4月に名誉学長および名誉教授の称号を受けた。WHO歯学専門委員、日本学術会議会員、医道審議会委員などを歴任した。口腔病理学を専門とし、歯牙硬組織疾患および歯髄疾患を中心とした基礎研究および教育に従事した。
下河辺 孫一(しもこうべ まごいち、1909年〈明治42年〉… 下河辺 孫一(しもこうべ まごいち、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1997年〈平成9年〉10月10日)は、日本の実業家で、下河辺牧場の創業者。下河邉 孫一の表記もある。 1909年、元日本鉱業(現・ENEOS)社長・下河辺建二の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。東京帝国大学獣医科実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)卒業後宮内省に入省、御料牧場の獣医師として5年間勤務の後独立して成田市に下河辺牧場を開業し、サラブレッドの育成に努めた。戦後北海道沙流郡門別町(現・日高町)に支場を開設して長男の下河辺俊行が経営にあたった。1975年(昭和50年)成田空港建設に伴い牧場を香取郡栗源町(現・香取市)に移転した。
工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 197… 工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 1971年9月21日)は、岩手県岩手郡川口村(現:岩手町)出身のサッカー選手、サッカー指導者。ベルリンオリンピックのサッカー日本代表コーチを務めた。 旧制・岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)から1927年に第一早稲田高等学院へ進学。ゴールキーパーとして全国高等学校ア式蹴球大会に出場、1929年の第6回大会の優勝に貢献した。1930年に早稲田大学商学部に入学し、ア式蹴球部に入部。一時はフォワードに転向して競技を続けたが、体格に劣ることから選手生活に見切りを付け、マネージャーとして活動するようになった。 1933年に大学を卒業後、一時大同生命保険に就職したが、後に同盟通信社に転職。
潮 万太郎(うしお まんたろう、1909年2月4日 - 20… 潮 万太郎(うしお まんたろう、1909年2月4日 - 2000年4月8日)は、日本の俳優。本名は、柴田 作治郎(しばた さくじろう)。 長女は女優の弓恵子、長男は元俳優の柴田昌宏、次男は俳優の柴田侊彦。娘婿は俳優の宮口二郎。 東京市浅草区七軒町(現・東京都台東区元浅草)出身。旧制攻玉社中学校を経て、太平洋美術学校(現・太平洋画会研究所)卒業。 1923年、小笠原映画研究所製作第一作の無声映画『三色すみれ Love in Idleness』で花房 綾夫の芸名でデビュー。1929年、無声映画『修羅城』より芸名を潮 万太郎に改め、本格的に芸能活動を始める。 小笠原プロダクションを経て、日活太秦撮影所、日活多摩川撮影所などで活躍後、合併し設立された大映では脇役として多くの作品に出演した。
金 三純(キム・サムスン、朝鮮語: 김삼순、1909年2月3… 金 三純(キム・サムスン、朝鮮語: 김삼순、1909年2月3日 - 2001年12月11日)は、大韓民国の生物学者。韓国最初の女性農学博士で、特に菌類学の分野ではヒラタケの韓国国内での人工栽培の実現など多くの業績があり、著書に『韓国産キノコ図鑑』がある。 号は声至。3人の兄弟(金洪鏞、金汶鏞、金星鏞(朝鮮語版))と夫の姜世馨はいずれも国会議員を務めた。政治家の李会昌は妹と李弘圭(朝鮮語版)の息子である。 金海金氏の7人きょうだいの上から4番目の三女として大韓帝国全羅南道潭陽郡昌平面に生まれた。1929年、京畿高等女学校卒業。1933年3月、東京女子高等師範学校理科選科修了。のち東京女子高等師範学校研究科を経て、1941年4月、北海道帝国大学理学部植物学科入学。
宮島 義勇(みやじま よしお、1909年2月3日 - 199… 宮島 義勇(みやじま よしお、1909年2月3日 - 1998年2月21日)は、日本の撮影監督。 長野県上高井郡高山村で出生、東京都で育つ。学生時代よりアナキズムなどの左翼思想に傾倒する。1929年、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)卒業。同年、父の知人から増谷麟を紹介され松竹蒲田撮影所入社、現像技術を学ぶ。1931年、増谷が写真化学研究所(略称:P.C.L.、後の東宝映画、現在の東宝)を設立したのに伴い移籍。1933年、同社の劇映画製作開始により撮影部に異動、1935年に撮影技師に昇格。1936年、『唄の世の中』が第1回作品となった。1940年、『燃ゆる大空』で一躍その名が高まる。陸軍などから評判により国策映画・反米映画を撮る一方、日本映画カメラマン協会の書記長として活動した。
竹内 利美(たけうち としみ、1909年2月2日 - 200… 竹内 利美(たけうち としみ、1909年2月2日 - 2001年)は、日本の民俗学者、歴史学者。東北大学名誉教授。 長野県長野市生まれ。1944年國學院大學文学部国史学科卒業。日本の村落の実地調査研究を続け、社会学的見地に立って理論化を目指した。 1929年長野県上伊那郡川島村小学校、同本郷小学校で教諭となり、1940年日本常民文化研究所に勤務、1944年中央水産業会職員、1948年連合軍総司令部民間情報教育局世論及社会調査部顧問などを経て、1951年東北大学教育学部講師、1952年助教授、1954年教授。1972年定年退官、名誉教授、同年東北福祉大学教授、1983年退官。 1962年「日本村落構造の研究」により東洋大学から文学博士の学位を授与される。
古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日… 古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日 - 1994年(平成6年)8月15日)は、日本の国文学者。東京女子大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。東北帝国大学国文科卒、松本高等学校教授、宇都宮大学助教授、東京女子大学教授、68年定年退任、名誉教授、東京農業大学教授、武蔵野女子大学教授。52-81年法政大学能楽研究所兼任所員。能楽・狂言を主として研究。ほか、師の小宮豊隆を助けて戦後の岩波書店『漱石全集』の編纂に携わり、漱石研究も行った。墓所は多磨霊園
秋山 晴夫(あきやま はるお、1909年2月1日 - 198… 秋山 晴夫(あきやま はるお、1909年2月1日 - 1980年11月23日)は、日本のフランス文学者であり、中央大学名誉教授である。 長野県北佐久郡岩村田町(現在の長野県佐久市)に生まれた。旧制野沢中学校(現在の長野県野沢北高等学校)を経て、1933年に東京帝国大学仏文科を卒業した。卒業後は司法省調査課に勤務した。1941年には軍の命令により広州湾フランス租借地に出張した。1943年には一兵卒として北支に出兵した。戦後の1949年に中央大学教授に就任し、1980年に定年退任、名誉教授となった。 ボードレール、ランボーをはじめとするフランス文学の翻訳を多数手がけた。
岡崎 平夫(おかざき ひらお、1909年(明治42年)2月1… 岡崎 平夫(おかざき ひらお、1909年(明治42年)2月1日 - 1993年(平成5年)12月27日)は、日本の政治家。第22 - 26代岡山市長で、歴代最多の5期務めた。岡山市名誉市民。 旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、浦上豊ら。徳島高等工業学校(現・徳島大学)卒業後、大阪市水道局に就職したが応召、ボルネオで終戦を迎えた。帰国を待つ間に大腸ガンを2度手術、1946年病院船で帰国。 戦後の1947年、大阪に水道工事会社を設立後、翌1948年吹田市水道部長に転職。1952年関西大学第二部法学部を卒業。岡山市水道局長を経て、1963年岡山市長に初当選、以来連続5期20年在任し、歴代の岡山市長では最も長く市長を務めた。
岡崎 俊夫(おかざき としお、1909年2月1日 - 195… 岡崎 俊夫(おかざき としお、1909年2月1日 - 1959年5月26日)は、日本の中国文学者、翻訳家。 1909年、青森県南津軽郡の黄檗宗法眼寺で生まれた。父親が僧籍にあり、また教育上の都合から幼少期は山口県、福岡県と小学校を転々とした。父親が東京府東京市芝区白金(現在の東京都港区白金)の瑞聖寺住職になったのを機に、芝区の小学校に転校。浦和高校に入学し、在学中に文学活動を始めた。1928年に小説「髑髏」を浦高学友会雑誌に発表。また、同校在学時に武田泰淳や萩原文彦らと知り合っている。 1930年、東京帝国大学文学部支那哲学科に入学。哲学を学びたいと考えていたものの、教授内容は漢学であり、落胆した。
前川 忠夫(まえかわ ただお、1909年〈明治42年〉2月1… 前川 忠夫(まえかわ ただお、1909年〈明治42年〉2月1日 - 1988年〈昭和63年〉6月25日)は日本の政治家、農学者。香川大学学長や香川県知事を務めた。位階は従三位。 1909年、香川県三豊郡上高瀬村(現・三豊市)で生まれる。旧制山形高校(現・山形大学)を経て、1935年に東京帝國大学(現・東京大学)農学部を卒業。専門は農業工学で、岩手大学教授などを務めている。1955年に香川大学農学部教授となり、農学部長を経て1964年に学長に就任。 1961年 東京大学農学博士。論文の題は「かんがい用貯水池の貯水能に関する研究」。 1974年に社会党、共産党、民社党、公明党などの推薦を得て香川県知事選挙に出馬。
横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日… 横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第一勧業銀行初代頭取、全国銀行協会連合会会長。 司法大臣・横田千之助の長男として、東京・麹町に生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1932年(昭和7年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。翌年に日本勧業銀行に入行する。 築地支店長、大阪支店次長、審査第二部長、丸の内支店長を歴任。1955年(昭和33年)取締役に選任、丸の内支店長委嘱。常務、専務、副頭取を経て、1969年(昭和44年)2月、武田満作頭取の病気退任を受け、横田が後任として昇格した。 頭取に就任した当時、勧銀は都市銀行中位でもたついており、折からの国際化の進展で銀行が生き残るためには合併しかないと判断し、第一銀行の井上薫と共に、渋澤倉庫の八十島親義や日本経済新聞社の池内正人らの力を借りて、極秘裡に合併計画を進め、第一勧業銀行を発足させた。
海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 197… 海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。 長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。 1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校高等師範科(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。 1938年に「お猿のかごや」で初めてのヒットを記録すると、以後「あの子はたあれ」、「ちんから峠」、「めだかの幼稚園」、「花やさん」、「つばめの旅」、「からすの赤ちゃん」、「やさしいおかあさま」など、数多くの国民的ヒット作品を生みだした。
堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 201… 堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 2011年2月23日)は、日本の登山家。1936年に立教大学山岳部遠征隊を率いて、ヒマラヤ山脈のナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル)の登頂に成功した。 富山県下新川郡石田村(現在の黒部市)出身。富山県立魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)に進み、野球部や陸上競技部に所属する傍ら、スキーにも取り組んで、黒部鉄道(現・富山地方鉄道本線)が開通すると宇奈月まで出向いて滑っていた。 1927年、立教大学予科2年に編入学し、立教大学山岳部に入部する。大学についてはのちに商学部経済学科に進む。山岳部へは当初はスキーをやる目的での入部であったが、実際に立山連峰の冬山に入るとスキーではなくアイゼンで歩けることを知ったという。
常盤 嘉治(ときわ よしはる、1909年〈明治42年〉1月3… 常盤 嘉治(ときわ よしはる、1909年〈明治42年〉1月30日 - 1997年〈平成9年〉2月23日)は、日本の実業家。経済ジャーナリスト。学校法人関東学院大学常任理事として同学校法人の財政立て直しを行なった。燦葉会会長。横浜ユネスコ協会副会長。常盤経済研究所会長。国務大臣私設秘書。船田中に声をかけられ護国同志会へロビイストとして参画。1946年、日本協同党(現・自由民主党)の推薦により東京一区より第22回衆議院選挙出馬も1,180票で落選。キリスト教プロテスタント。 1909年(明治42年)、神奈川県茅ヶ崎市芹沢に生まれる(現・神奈川県立茅ヶ崎里山公園谷戸の家周辺)。貧しい分家の育ちだが、芹沢の常盤家本家は農業のほかに金貸しや穀物商などを営み、白壁の土蔵を持つ地主であった。
竹之下 休蔵(たけのした きゅうぞう、1909年1月30日 … 竹之下 休蔵(たけのした きゅうぞう、1909年1月30日 - 1988年3月20日)は、日本の体育学者。東京教育大学(現筑波大学)名誉教授。体育社会学を研究した。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1932年に東京高等師範学校体育科を卒業した後、1936年に東京文理科大学教育学科を卒業(東京高等師範、東京文理科大ともに東京教育大学の前身)。1937年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)助教授に就任し、その後、神戸商業大学(現神戸大学)予科教授、東京体育専門学校(東京教育大学体育学部の前身)教授を経て、1947年に文部省事務官となる。後に文部省大学学術局視学となり、1949年、学校体育指導要綱、学習指導要領体育編の作成で中心的な役割を果たす。
川喜田 愛郎(かわきた よしお、1909年1月29日 - 1… 川喜田 愛郎(かわきた よしお、1909年1月29日 - 1996年12月6日)は、日本の細菌学者、医学史学者。専門はウイルス学、医学史。 東京府生まれ。1932年、東京帝国大学医学部卒業、同年4月東京帝国大学附属伝染病研究所に助教授として入所。主に日本脳炎などのウイルス学を研究した。1949年、千葉大学医学部教授。1952年、WHO技術専門職としてエジプトのカイロに1年半ほど駐在する。1968年、千葉大学学長として、学生運動の対処にあたる。1969年、千葉大学を退職。『近代医学の史的基盤』(岩波書店、1977年)により、日本学士院賞を受賞した。
児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 198… 児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 1986年10月20日)は、日本の歌手、教育者。 1909年(明治42年)1月28日、広島県広島市向洋(現:広島市南区向洋新町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一中学校(現:広島国泰寺高校)を1年で中退し、15歳になる1924年(大正13年)に渡米しパシフィック大学音楽科で学び、7年間をアメリカで暮らす。21歳になる1930年(昭和5年)の帰国後、日本青年館で音楽会を開催する。その後、イタリアに留学し、在欧5年でオペラを本格的に学んだ。1933年(昭和8年)、ミラノ音楽院を修了。 帰国後、25歳になる1934年(昭和9年)、ビクターの専属となる。
末吉 悌次(すえよし ていじ、1909年1月28日 - 20… 末吉 悌次(すえよし ていじ、1909年1月28日 - 2003年1月)は、日本の教育学者。長崎県生まれ。広島文理科大学教育学科卒。文学博士(広島文理科大学・1953年)(学位論文「社会的教育学の性格」)。広島大学教育学部教授、74年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
蒼井 雄(あおい ゆう、1909年1月27日 - 1975年… 蒼井 雄(あおい ゆう、1909年1月27日 - 1975年7月21日)は、日本の探偵作家(名前の読み方には「あおい たけし」説もある)。本名は藤田優三。 電力会社の技術者を本業とする寡作なアマチュア作家ながら、日本において初めて鉄道ダイヤを題材とした長編探偵小説『船富家の惨劇』(1935)を著したことで、日本の推理小説史に名を残している。戦後に鉄道ダイヤを用いた推理小説を書いた鮎川哲也や松本清張も、この作品に影響を受けたという。 F・W・クロフツやイーデン・フィルポッツなど、1920年代以来の欧米探偵小説界においてリアリズム指向を持った作家の影響を受け、当時の日本の探偵小説界では珍しくリアリティ重視の本格探偵小説を書いたが、その活動期であった1930年代から1940年代には、時期尚早と地味な作風のため広く受け容れられることはなかった。
磯野 万亀男(いその まきお、1909年1月27日 - 20… 磯野 万亀男(いその まきお、1909年1月27日 - 2003年5月19日)は、日本の経営者。野村不動産社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1929年に神戸商業大学を卒業し、同年に野村證券に入社。1949年1月に取締役に就任し、1956年11月に常務、1959年6月に野村不動産専務を経て、1963年11月には副社長に就任し、1969年1月には社長に昇格。1978年10月に会長に就任し、1981年12月に代表取締役相談役を経て、1987年12月から相談役を務めた。社長時代には、鎌倉市での大規模住宅開発と新宿野村ビルの建設などを手掛けた。 1988年4月に藍綬褒章を受章。 2003年5月19日心不全のために死去。
森口 忠造(もりぐち ちゅうぞう、1909年1月27日-19… 森口 忠造(もりぐち ちゅうぞう、1909年1月27日-1988年9月9日)は、専修大学理事長・専修大学総長。元毎日新聞社事業部長。
福井 順一(ふくい じゅんいち、1909年1月26日 - 没… 福井 順一(ふくい じゅんいち、1909年1月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 福岡県出身。早稲田大学卒。東邦精工、中央商事、政治経済研究所、新政、泰西映画各社長を歴任。1949年の第24回衆議院議員総選挙で千葉3区から民主自由党公認で立候補したが落選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で自由党公認で立候補して初当選。以来3期務めた。この間、第1次岸内閣北海道開発政務次官、衆議院国土総合開発特別委員長を歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選。1963年の第30回衆議院議員総選挙から選挙区を福岡1区に移したが、3回続けて落選した。
田淵 実夫(たぶち じつお、1909年1月25日 - 199… 田淵 実夫(たぶち じつお、1909年1月25日 - 1991年3月8日)は、日本の俳人、政治家、民俗学者。 俳号・十風子。広島県三次市生まれ。関西大学卒、京都大学大学院言語学専攻博士課程満期退学。中学、高校、大学教師ののち、1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧広島3区から日本社会党公認で出馬し初当選。1949年、落選。広島市立図書館長。広島市文化センター管理者。比治山女子短期大学教授、広島女学院大学教授。広島方言、石垣などを研究した。