稲垣 早苗(いながき さなえ、1910年1月1日 - 199… 稲垣 早苗(いながき さなえ、1910年1月1日 - 1999年3月31日)は、日本の経営者。 静岡県富士市出身。1930年に明治学院高等商業部を卒業。1943年10月、稲垣の知人の紹介で日本統計機に入社。同社は日本ワットソン統計会計機(後の日本IBM)の財産が敵産管理法によって凍結された際にその顧客が出資して1943年6月に設立された会社で、IBM製品の保守サービスを提供していた。1950年、営業活動を再開した日本IBMに営業課長として入社。 1956年に営業担当取締役に就任。1960年に生産担当常務、副社長を経て、1962年に社長に就任した。1975年に会長に就任し、1980年3月から相談役を務めた。
加瀬 完(かせ かん、1910年〈明治43年〉1月1日 - … 加瀬 完(かせ かん、1910年〈明治43年〉1月1日 - 1995年〈平成7年〉2月28日)は、日本の政治家。参議院議員・参議院副議長。我孫子市名誉市民。 1910年、現在の千葉県匝瑳市に生まれる。 1920年千葉師範学校(現・千葉大学教育学部)卒業。 小学校・中学校の教員となり、県視学であった鈴木迪彦による抜擢で1938年我孫子第二小学校長に28歳にて就任、以後、我孫子第一小学校長や我孫子第一中学校長を歴任した。千葉県教育委員会委員長も務める。 教育の民主化を目指して政界へ進出し、1947年から千葉県議会議員を務める。 1953年4月の参院選に無所属で出馬し初当選。当選後は左派社会党を経て日本社会党に所属。
松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 … 松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 - 1999年(平成11年)1月27日)は、昭和初期の歌手、教育者。本名は柳 歳一(やなぎ としかず)。 山口県小野田市(現山陽小野田市)生まれ。1932年(昭和7年)、東京音楽学校在学中にレコード歌手としてデビューし、パーロホン・リーガルレコード・オーゴンレコードなどにアルバイトとして吹き込んだ。1933年(昭和8年)、高橋掬太郎が作詞しパーロホンから発売した「片瀬波」が大ヒットし、パーロホンがコロムビアに吸収合併された後もリーガルレコードより再発売された。 歌手活動の期間を通して、ステージにも放送にもただの一度も出演しなかったため、長らく素性は謎であった。
石井 次郎(いしい じろう、1910年 <明治43年> - … 石井 次郎(いしい じろう、1910年 <明治43年> - 1987年 <昭和62年> 3月2日)は、日本の宗教哲学者、教育学者。クリスチャン。九州大学名誉教授。 九州大学教育学部長、東洋英和女学院長、福岡女学院長、活水女子大学学長を歴任した。位階は正五位。 1910年に静岡市に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1934年、青山学院専門学校英語科卒業。同年、九州帝国大学法文学部(宗教学)入学。1937年、同大学院入学。1949年、青山学院大学文学部助教授。ボストン大学大学院入学。1954年、九州大学教育学部助教授。1960年、同教授。1963年、同大学教育学部長。九州大学教育学部では人間形成における宗教的要素に関する研究を行った。
伊藤 次郎(いとう じろう、1910年 - 没年不詳)は、台… 伊藤 次郎(いとう じろう、1910年 - 没年不詳)は、台湾出身のプロ野球選手(投手)。
柯 子彰(か ししょう 1910年 - 2001年)は、元ラ… 柯 子彰(か ししょう 1910年 - 2001年)は、元ラグビー選手、指導者。
山本 捨三(やまもと すてぞう、1910年〈明治43年〉- … 山本 捨三(やまもと すてぞう、1910年〈明治43年〉- 没年不明)は、国文学者。熊本女子大学名誉教授。 滋賀県生まれ。1935年(昭和10年)京都帝国大学文学部国文科卒。関西学院大学助教授、相愛女子短期大学教授、熊本女子大学教授、名誉教授、大谷女子大学教授。
石田 豪澄(いしだ ごうちょう、1910年 - 2005年)… 石田 豪澄(いしだ ごうちょう、1910年 - 2005年)は、天台宗の僧侶、仏教学者。名城大学教授、岩屋寺住職を務める。 明治43年、愛知県平和町に堪忍堂老年画伯を父として生まれる。9歳で天台宗円興寺豪鉄法印の得度を受ける。11歳で曹洞宗雲居寺恵光老師の会下に参じる。その後、20歳で良寛和尚に私淑。四国山中で修行。1935年に駒澤大学入学。大学卒業後、名古屋覚王山日泰寺仏舎利泰安塔奉仕殿司、名城大学教授、同大学図書館初代館長を歴任。 1973年、インドビハール州日本寺本堂天井画を揮毫。国際仏教興隆協会より「日本画僧」の称号を贈られた。 1976年、岐阜県土岐市に法王山中道寺を結ぶ。1983年、山海山根本中院金剛宝寺を結ぶ。
江下 孝(えした たかし、明治43年(1910年) - 平成… 江下 孝(えした たかし、明治43年(1910年) - 平成元年(1989年)6月11日)は、昭和時代の官僚。 福岡県出身。昭和10年(1935年)、東京帝国大学法学部を卒業後、高等文官試験に合格し、内務省に入省。東京府事務官を経て、秋田県・佐賀県にて県庁課長を歴任後、本省に戻る。その後、内務省の再編に伴い、厚生省、戦後、労働省に移る。職業安定局長を最後に退官。退官後は、労働福祉事業団理事、雇用促進事業団副理事長、中高年齢者雇用福祉協会会長を歴任した。1989年、肺炎のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久野桂一郎(くの けいいちろう、1910年 - 1990年)… 久野桂一郎(くの けいいちろう、1910年 - 1990年)は、日本の翻訳家、鉄道官僚。 東京に生まれる。東京大学法学部卒業し国鉄に入社。青函船舶鉄道管理局長ほかを務めた。
真方 敬道(まがた のりみち、1910年 - 1987年)は… 真方 敬道(まがた のりみち、1910年 - 1987年)は、日本の倫理学者。東北大学名誉教授。中世キリスト教哲学を専攻。 東北帝国大学卒業。1962年、「西洋中世哲学における個体論の研究」で文学博士。東北大学倫理学主任教授を務め、1973年、定年退官。東京女子大学教授、1980年、退職。
砂沢 喜代次(すなざわ きよじ、1910年 - 1984年)… 砂沢 喜代次(すなざわ きよじ、1910年 - 1984年)は、日本の教育学者、北海道大学名誉教授。
須山 卓(すやま たく、1910年 - 1981年)は、日本… 須山 卓(すやま たく、1910年 - 1981年)は、日本の経済学者、長崎大学名誉教授。 熊本県生まれ。1934年、法政大学法文学部卒。1958年、「華僑社会経済史研究」で拓殖大学経済学博士。満鉄東亜経済調査局副参事。大東文化大学教授、奥州大学教授。クアラルンプールJETRO事務局長、長崎大学経済学部教授、1977年、定年退官、九州産業大学教授。
高柳 金芳(たかやなぎ かねよし、1910年 - 1985年… 高柳 金芳(たかやなぎ かねよし、1910年 - 1985年5月)は、在野の歴史家、江戸時代研究家。 埼玉県川越市生まれ。1931年明治大学政治経済学部卒業。会社生活のかたわら、江戸時代史に関する研究と執筆を続ける。
井垣 久次(いがき ひさじ、1910年 - 1996年)は、… 井垣 久次(いがき ひさじ、1910年 - 1996年)は、日本の経営者、元京王百貨店常務取締役。京都府京都市出身。官立旧制和歌山高等商業学校(現和歌山大学経済学部)卒業。 全国初の駅弁大会および元祖有名駅弁と全国うまいもの大会の企画発案者として知られる。
清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日… 清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日本の建築家。 大分県佐伯市生まれ。早稲田大学理工学部卒業。逓信省、大日本航空株式会社勤務の後、株式会社 梓設計を創設。「NHK放送センター・NHKホール」で日本建築学会賞・建築業協会賞を受賞。 戦後の焼け野原の中で「梓」の社名の由来となる「におやかで、おおらかで、怒りを含んでいる」建築を目指し、事務所を立ち上げた。「拘束と闘って自由を獲得する。そこで出来上がったものが、ほんとうのデザインである」と設計に情熱を傾けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
富澤 誠造(とみざわ せいぞう、1910年(明治43年)- … 富澤 誠造(とみざわ せいぞう、1910年(明治43年)- 1978年(昭和53年))は、千葉県出身のゴルフ場設計者。 富澤誠造は、1910年(明治43年)、千葉県東葛飾郡に生まれ、1924年(大正14年)14歳で、「武蔵野カンツリー倶楽部・六実コース」(1930年(昭和5年)、「武蔵野カンツリー倶楽部・藤ヶ谷コース」開場、1944年(昭和19年)閉鎖)のグリーンキーパーとして働いた。 1950年(昭和25年)、ゴルフ場の工事を得意とする安達建設の設計部に入社、井上誠一の下で「川崎国際カントリー倶楽部」(現・川崎国際生田緑地ゴルフ場)の工事監督として働きながら、井上からゴルフ場の設計を学んだ。 1957年(昭和32年)、富澤のコース設計第1号である「千葉カントリークラブ・川間コース」が開場した。
藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代… 藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し、初期のテレビ放送劇の台本も書いた。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった。
上山 政夫 (うえやま まさお、1910年 下関市 山口県 … 上山 政夫 (うえやま まさお、1910年 下関市 山口県 日本 - 1988年 下関市 山口県 日本 )は日本のエスペラント詩人・作家。 世界エスペラント協会の文芸コンクール1位を含め、国内外のエスペラント文芸コンクールで受賞歴をもつ、日本のエスペラント文学における先駆者のひとり。宮本正男との活動によってエスペラント語の俳人としても知られる。 死後、太宰治『斜陽』の翻訳である『La Suno Sinkanta』が雑誌『Riveroj』に掲載された。彼は1964年から1980年まで刊行された文学雑誌『L'omnibuso』で林健をはじめとする若い作家たちを育て、次の世代に大きな影響を与えた。 世界エスペラント協会文芸コンクールの原作詩部門で1位になった日本人は1963年、1965年の宮本正男に次いで2人目。
大前 錦次郎(おおまえ きんじろう、1910年 - ?)は、… 大前 錦次郎(おおまえ きんじろう、1910年 - ?)は、日本の料理人。 寿司を世界に広めた人物である。元全国鮨組合会長・理事長。 明治43年(1910年)、東京府東京市神田区神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に生まれる。 青山大寿司の2代目として、全国鮨組合及び東京鮨組合の会長、理事長を歴任。すしの日を提案し、技術コンテストを始めるなどすしの普及に尽力。 初の英文による寿司に関する書籍「The book of sushi」を発行、アメリカ合衆国ワシントンD.C.の全米桜祭りに日本人職人を引き連れ参加し、アメリカ合衆国をはじめ世界に日本のすし文化を広めた。 昭和43年(1968年)厚生大臣表彰、昭和47年(1972年)紫綬褒章、昭和59年(1984年)勲四等瑞宝章を受章。
岡田 慶治(おかだ けいじ、1910年 - 1948年11月… 岡田 慶治(おかだ けいじ、1910年 - 1948年11月)は大日本帝国陸軍の軍人。階級は陸軍少佐。 広島県福山市出身。陸軍士官学校(43期)を出た後、1931年(昭和6年)に陸軍少尉。太平洋戦争では歩兵第56連隊大隊長としてビルマに侵攻。ジャワ島幹部候補生教育隊の教官、パレンバンの南方軍臨時施設隊、ボルネオの混成旅団の大隊長を歴任。 1946年(昭和21年)3月に復員し、長崎で海産物と塩を扱う合資会社を設立するも、1947年(昭和22年)3月、出頭に応じて巣鴨プリズンに収監。同年8月ジャワのチピナン刑務所に移送。スマラン慰安所事件の犯人として、バタビア臨時軍法会議にて死刑を宣告され、1948年(昭和23年)11月に銃殺刑に処された。
小野 隆祥(おの りゅうしょう、1910年〈明治43年〉 -… 小野 隆祥(おの りゅうしょう、1910年〈明治43年〉 - 1986年〈昭和61年〉)は、日本近代文学研究者。太宰治研究家の小野正文の兄。 青森県下北半島生まれ。旧制青森中学校(現:青森県立青森高等学校)、旧制弘前高等学校を経て、1932年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。 1953年、労働者農民党より第26回衆議院議員総選挙に岩手1区から出馬するが、候補者中最下位得票で落選。その後修紅短期大学教授を務めた。
北村 正司(きたむら しょうじ、1910年(明治43年) -… 北村 正司(きたむら しょうじ、1910年(明治43年) - 1989年(平成元年))は、日本の英語学者。専門は英語教育。英米文化。
丹羽 貴知蔵(にわ きちぞう、1910年 - 1992年)は… 丹羽 貴知蔵(にわ きちぞう、1910年 - 1992年)は、日本の金属学者。元北海道大学学長。
佐々木 宗一郎(ささき そういちろう、1910年 - 199… 佐々木 宗一郎(ささき そういちろう、1910年 - 1997年12月20日)は秋田県横手市出身の洋画家。
笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月1… 笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月19日)は、日本の精神科医。東京大学名誉教授。 和歌山県生まれ。海南中学校卒、第三高等学校卒、1936年東京帝国大学医学部卒、1952年「N2ガス吸入による意識喪失の研究」で医学博士。1956年東京大学医学部助教授、同附属病院精神神経科科長、教授。1971年定年退官、名誉教授、国立精神衛生研究所長、財団法人神経研究所長。
大江 卓二(おおえ たくじ、1910年 - 2002年5月2… 大江 卓二(おおえ たくじ、1910年 - 2002年5月27日)は日本の技術者、官僚。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学工学部を卒業した。 逓信省船舶試験所(現・海上技術安全研究所)に入所し、1949年に第4部長となる。以後、運輸省技術研究所船舶機関部長、所長を歴任した。 2002年5月27日、前立腺癌のため死去。
当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) -… 当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) - 1945年(昭和20年)1月23日)は、日本の海軍軍人。「伊48」潜水艦長として「回天」作戦中、米駆逐艦に乗艦を撃沈され戦死した。最終階級は海軍中佐。 沖縄県の出身である。沖縄一中を経て1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校(59期)を123名中32番の席次で卒業。運動神経に恵まれ、柔道は三段である。当山は潜水艦専攻士官となり、潜水学校甲種を卒業して潜水艦長を歴任する。「伊169」、「伊38」潜水艦長として歴戦し、「伊48」艤装員長となる。同艦は竣工後に第六艦隊に編入となり、1945年(昭和20年)1月8日、回天特別攻撃隊金剛隊として4隻の「回天」を載せ出撃した。
南波浩(なんば ひろし、1910年-2000年6月29日)は… 南波浩(なんば ひろし、1910年-2000年6月29日)は、国文学者、同志社大学名誉教授。 京都府生まれ。京都帝国大学大学院修了。同志社大学助教授、教授、1981年定年退任、名誉教授、梅花女子大学教授。
新川 士郎(しんかわ しろう、1910年-1994年)は、日… 新川 士郎(しんかわ しろう、1910年-1994年)は、日本の経済学者。専門は社会政策。経済学博士。北海道大学名誉教授。元北海道大学学長代理。山口県下関市出身。恩師は井藤半禰。
野上 寿(のがみ ひさし、1910年 - 1990年10月1… 野上 寿(のがみ ひさし、1910年 - 1990年10月10日)は日本の薬学者。野上壽 の名前もある。東京大学名誉教授。専門は製剤学。
西田 太一郎(にしだ たいちろう、1910年(明治43年) … 西田 太一郎(にしだ たいちろう、1910年(明治43年) - 1982年(昭和57年)2月3日)は、日本の中国哲学者、法制史家。法学博士。京都大学名誉教授。第三高等学校、京都外国語大学教授。角川書店『新字源』編者の一人。 1910年、大阪府大阪市生まれ。1935年(昭和10年)、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。大学では中国社会思想史および中国法制史を専攻した。 大学卒業後は、第三高等学校、京都大学に勤務。1962年(昭和37年)に「中国刑法史研究」を京都大学に提出して法学博士号を取得。1974年に定年退官し、名誉教授となった。その後も京都外国語大学教授として教鞭をとった。 中国思想史、中国法制史を専攻、『世界古典文学全集』『日本思想大系』等の訳注を担当した。
山本 清幸(やまもと きよゆき、1910年 - 1991年9… 山本 清幸(やまもと きよゆき、1910年 - 1991年9月20日)は、日本の哲学者。 山形県出身。1935年京都帝国大学文学部哲学科卒。1955年九州大学文学部助教授、のち教授。1974年定年退官、名誉教授となる。1959年「シェリング「自由論」の研究」で九大文学博士。シェリングが専門だがのち道元に関心を持った。
大野 達之助(おおの たつのすけ、1910年 - 1984年… 大野 達之助(おおの たつのすけ、1910年 - 1984年5月10日)は、日本の日本史学者。駒澤大学教授。 東京生まれ。第一高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。1958年より駒澤大学文学部歴史学科教授。1971年「聖徳太子の仏教と政治に関する研究」で博士(文学、駒澤大学)。日本仏教史を専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
手島 郁郎(てしま いくろう、1910年 - 1973年12… 手島 郁郎(てしま いくろう、1910年 - 1973年12月25日)は、無教会主義の流れを汲むキリスト教系宗教団体である、「キリストの幕屋」の創始者。熊本県出身。別名、手島アブラハム郁郎。 手島はイスラエルと深い交友関係を持っており、マルティン・ブーバーを訪ねたこともある。 また、聖地エルサレムへは何度も訪れている。1973年3月にはイスラエル建国25周年を祝うために、400人の団員を引き連れてヘルツルの丘を訪問した。 第三次中東戦争が勃発した際には「イスラエル救援委員会」を組織し、救援物資を持ってイスラエルへと渡った。また、第四次中東戦争が勃発した際には、手島が先頭に立って日本全国から3000人規模の人員を集め、イスラエルへの支持を唱えて東京都内を行進した。
中尾 長(なかお ひさし、1910年 - 1937年9月19… 中尾 長(なかお ひさし、1910年 - 1937年9月19日)は、広島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 広島県出身であるが、出生地が県内のどこであるかは未詳。広陵中に入学し、野球部に入部する。1926年、春の選抜でエース・田岡兵一、角田隆良らと初優勝に貢献。中尾も一回戦の静岡中戦で本塁打を打った。翌1927年選抜は田部武雄、八十川胖両好投手を擁し、打線も中尾も含め山城健三、三浦芳郎らを揃え広陵野球部史上最強チームと言われた。しかし、連覇を狙った春の選抜では、大会屈指の好投手小川正太郎擁す和歌山中に、夏の選手権も水原茂らの高松商に決勝で敗れ、広陵中は春夏連続準優勝であった。なおこの年、春の選抜では、山城が1回戦の静岡中戦と2回戦の松本商戦で史上3人目の2試合連続本塁打を、夏の選手権では、2回戦の敦賀商戦で、八十川が史上2人目のノーヒットノーランを、中尾と三浦が本塁打を記録した。
金 永千(キム・ヨンチョン、朝鮮語: 김영천、1910年代 … 金 永千(キム・ヨンチョン、朝鮮語: 김영천、1910年代 - 2000年8月7日)は、大韓民国の法曹。第11代法務部次官。 早稲田大学卒。普通文官試験、朝鮮弁護士試験に合格。光州地方検察庁検事長、清州地方検察庁検事長、大検察庁検事、法務部法務局長、第11代法務部次官(1960年6月30日〜1960年9月29日)、光州高等検察庁検事長、ソウル高等検察庁検事長、大検察庁次長検事、韓国ボーイスカウト連盟副総裁、共和党中央委人権擁護委員長、憲法委員、弁護士などを務めた。2000年8月7日に老衰により死去、享年86。
合田 好道(ごうだ よしみち、別呼称・こうどう、1910年〈… 合田 好道(ごうだ よしみち、別呼称・こうどう、1910年〈明治43年〉 - 2000年〈平成12年〉2月6日)は、日本の画家・陶芸家。 益子焼の窯元や陶芸家志望の若者たちを指導し、「民芸の町・益子」「陶芸の町・益子」を作り上げた、戦後の益子の歴史における象徴的な人物の一人であり、「益子のお目付役」と呼ばれ、濱田庄司を益子焼の中興の祖とするならば、同じ益子焼の陶芸家であった島岡達三から「濱田の精神の伝導者」と呼ばれ、益子の陶芸家たちへの思想的影響力が強かった人物である。 1910年(明治43年)、香川県三豊郡豊濱町(現・観音寺市)に、味噌醤油醸造業であった父・合田辧治、母・まつの4人兄弟の次男として生まれる。
佐竹 利彦(さたけ としひこ、1910年(明治43年) - … 佐竹 利彦(さたけ としひこ、1910年(明治43年) - 1998年(平成10年)7月24日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ二代目社長。おいしくて光沢のある白米ができる精米機を発明し、精米理論を体系化した。またヤシ・ソテツ類植物の収集・分類において権威であった。東京大学で農学博士号を取得(近代精米技術に関する研究)、東京農業大学名誉博士(ヤシの研究)、広島大学名誉博士(近代精米およびヤシの研究)。 1910年(明治43年)、佐竹利市の長男として生まれる。旧制山陽中学校(現・山陽高等学校)で優秀な成績を収め、旧制広島高等工業学校(現・広島大学工学部)への推薦入学が決まっていた。
浦野 まつほ(うらの まつほ、1910年 - 1935年11… 浦野 まつほ(うらの まつほ、1910年 - 1935年11月29日)は、昭和初期の宝塚歌劇団・娘役スター。宝塚歌劇団14期生(1924入学※劇団と音楽学校が分離しておらず入学=入団)。愛媛県松山市出身。本名は松浦芳子。後に洋画家・岸田劉生の実弟で日本初のレビューを作った岸田辰彌(辰弥)の妻となる。 1935年(昭和10年)11月、当時患っていた腹膜炎が原因で死去した。満25歳(数え年26歳)没。墓所は多磨霊園。
坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月… 坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月9日)は、日本の昭和時代に活動した作詞家、歌人。 鹿児島県出身。名前の表記を「利夫」とする資料もある。 1910年(明治43年)、鹿児島県川辺郡西加世田村(現在の南さつま市笠沙町)片浦に生まれる。鹿児島県第一師範学校を卒業後、川辺実科高等女学校他で教鞭を執る。この時期より『多磨』への投稿を通じて北原白秋に師事し、1938年(昭和13年)刊の『多磨第一歌集』に短歌4首が採録されている。第二次世界大戦下では中国大陸へ渡り、大同の国民学校で教頭となった。 終戦を経て日本に引き揚げ、万世町立益山中学校の教務主任在職時に鹿児島県が南日本新聞社と合同で開催した県民歌の懸賞募集で応募作が入選する。