小坂 立夫(こさか たつお、1903年 - 1996年)は、… 小坂 立夫(こさか たつお、1903年 - 1996年)は、日本の造園家。東京の公園緑化事業の他、国立公園制定事業にも関与した。 旧制開成中学、旧制新潟高校を経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学農学部林学科を卒業した。東京帝大在学中は本多静六に師事する。同年、東京市公園課工手に採用される。この採用は、課長の井下清が視察で外遊中に、技師の大溝勇に紹介されて「運よく」採用されたと述べている。 その後志願兵として近衛輻重部隊に入営するが、1927年(昭和2年)に復職した。 1930年(昭和5年)から1938年(昭和13年)まで、内務省衛生局→厚生省体力局に勤務した。 1938年(昭和13年)、都市計画神奈川地方委員会技師兼地方技師(県土木部都市計画課)となり、神奈川県庁に移る。
斎藤 久雄(さいとう ひさお、1903年〈明治36年〉 - … 斎藤 久雄(さいとう ひさお、1903年〈明治36年〉 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の文学者(ドイツ文学)。静岡大学名誉教授。 静岡高等学校、静岡大学での勤務を経て、静岡女子大学学長(第2代)などを歴任した。 山梨県出身のドイツ文学者である。ノヴァーリスの作品の翻訳を手掛けたことで知られている。静岡高等学校、および、その後身の静岡大学にて教鞭を執った。静岡女子大学では学長に就任するなど、静岡県における女子教育の充実に尽力した。 1903年(明治36年)に生まれ、山梨県にて育つ。1926年(大正15年)に東京帝国大学に入学し、文学部のドイツ文学科にて学んだ。 その後はドイツ文学の研究者として活動する。
松浦 一六(まつうら いちろく、1903年 - ?<1999… 松浦 一六(まつうら いちろく、1903年 - ?<1999年時点で故人>)は、日本の日本文学研究者。近世日本文学、特に井原西鶴の研究などで知られ、「西鶴町人物研究の先覚」と評された。 兵庫県武庫郡須磨村(1912年に町に昇格、1920年に神戸市に編入)に生まれ、中学卒業まで地元で育つ。少年期には浪曲と野球に熱中した。中学卒業後、神戸を離れて岡山市の第六高等学校に進んだ。その後上京し、1927年に東京大学文学部国文科を卒業した。 大学卒業後すぐに、第七高等学校教授となり、以降、七高などから改組新設された鹿児島大学、さらに鹿児島県立短期大学、鹿児島短期大学で教授を歴任した。 なお、第二次世界大戦中には静岡市にいた時期があり、1945年6月の静岡大空襲で、収集していたレコード類などを始め全財産を失うという経験もしている。
間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1… 間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1979年(昭和54年))は、兵庫県神戸市出身の日本の建築家、一級建築士、ゴルフ場設計者。 間野貞吉は、1903年(明治36年)、兵庫県神戸市に生まれ、神戸一中から岡山の旧制第六高等学校を卒業、東京帝国大学工学部建築科に入学した。1926年(大正15年)、建築復興助成株式会社に入社、耐火建築の設計を主な仕事として勤務した。1929年(昭和4年)、東京帝国大学を卒業した。 間野は建築家として耐火建築物の設計を多く手掛けた。1932年(昭和7年)、母校の東京帝国大学から、論文『ゴルフ場の施設』により工学博士号を授与された。「相模カンツリー倶楽部」のメンバーとなり、ゴルフに打ちこんだ。
尹 克栄(ユン・グギョン、朝鮮語: 윤극영、1903年 - … 尹 克栄(ユン・グギョン、朝鮮語: 윤극영、1903年 - 1988年)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の童謡作家、作曲家、児童文化運動家。 本貫は海平尹氏(朝鮮語版)。あだ名は作品名からとった「半月おじいさん」(반달할아버지)である。 1903年、ソウル生まれ。校洞普通学校を卒業した後、1917年に京城高等普通学校を経て、京城法学専門学校に入学したが、1921年に中退した。その後は日本に渡り、東京音楽学校・東洋音楽学校などで声楽とバイオリンを専攻した。 1923年にセクトン会の創立同人に加わり、朝鮮語の童謡の創作を試みた。同年7月にソウルで開催された「全朝鮮少年指導者大会」に参加し、『童謡に対する実在論』(동요에 대한 실재론)というタイトルの講演をした。
井汲 越次(いくみ えつじ、1903年 - 1976年)は、… 井汲 越次(いくみ えつじ、1903年 - 1976年)は、日本のドイツ文学者。 1924年東京外国語学校独語科卒。同人誌『河』に参加。戦後、大阪府立大学教授、大阪女子大学教授、1967年大手前女子大学教授を歴任し、ドイツ・ロマン派、特にハイネを研究、翻訳した。
原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本の… 原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本のノンフィクション作家、編集者、翻訳家。本名は堀経道 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、長野師範学校卒業。関西学院英文科卒業。博文館編集部で「少年世界」などの担当を経て、1933年頃に出版社・六人社を発足。1936年頃から原圭二名義で戦争に関する文章の寄稿を始める。その後、民主教育協会勤務。探検記、探偵小説、翻訳多数。 堀経道名義では探偵小説・推理小説の翻訳を多数しており、昭和22年6月刊行の「黄金の書」(まひる書房)の企画を終戦後いち早く立ち上げ、江戸川乱歩の元へ相談を持ちかけた。
相澤 次郎(あいざわ じろう、1903年 - 1996年)は… 相澤 次郎(あいざわ じろう、1903年 - 1996年)は、日本の技術者。北海道夕張市出身。 1914年、小学5年生の際に1860年のロンドンの博覧会に出展された人造人間「マシンボックス」の写真に感銘を受けロボットへの志向を高める。 1931年、日本初のロボット工作指南書「図解 人造人間の作り方」を著し、1933年には「ロボット管弦楽団」を展覧会に出品し1934年には「ロボット」「ROBOT」の登録商標を取得したが「ロボットはみな兄弟」の信念のもとに、その商標権を行使せずにロボットの普及に務める。 戦後は東京都立工芸高等学校の講師や安立電気の技師の傍らで子供向けの制作活動を再開、上野動物園のおサル電車や象型ロボット「多摩吉君」などを制作、また当時海外輸出で人気を博したブリキ製のロボット玩具についてのアドバイスも行った。
金子 丑之助(かねこ うしのすけ、1903年(明治36年) … 金子 丑之助(かねこ うしのすけ、1903年(明治36年) - 1983年(昭和58年))は、日本の医学者、解剖学者。日本医科大学名誉教授、埼玉医科大学教授。解剖学の権威として知られた。1977年、勲三等瑞宝章受賞、松伏町初代名誉町民。 埼玉県北葛飾郡金杉村(現・松伏町)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)を大正10年に卒業した後、日本医科大学に入学。1928年 日本医科大学専門部卒業。東京帝国大学解剖学教室に入室。1929年から1931年日本歯科医専教授。1929年昭和医専教授。1930年日本医科大学講師、1936年助教授。1944年教授。1971年定年退職。その後1975年-1978年に埼玉医科大学の教授も務めた。
松木明(まつき あきら、1903年 - 1981年12月3日… 松木明(まつき あきら、1903年 - 1981年12月3日)は、日本の血清学者、民俗学者。 第八師団軍医広田守の長男として青森県弘前市に生まれ、母親の実家を次いで松木姓になる。弘前中学から弘前高等学校、東京帝国大学医学部を卒業後、同大学の三田定則教授のもと血清学を学び、1934年弘前に帰って開業。血清人類学の研究を行う。津軽民俗の会会長。息子は松木明知。
後藤 基胤(ごとう もとたね、1903年または1904年 -… 後藤 基胤(ごとう もとたね、1903年または1904年 - 1959年1月4日)は、日本の教育者、サッカー選手。 東京高等師範学校附属中学(現:筑波大学附属中学校・高等学校)ではサッカー部に所属。東京高等師範学校に進学後も蹴球部に所属し、主将も務めた。また、1921年に開催された第5回極東選手権大会の日本代表にも選出され、2試合に出場。2戦2敗に終わったが、フィリピン代表戦で得点を決めた。 1923年に東京高師を卒業して、神奈川県立湘南中学校(現:神奈川県立湘南高等学校)に赴任。同時期に創設された同中蹴球部の指導も行った。 その後、学習院に移り学習院初等科などで教育に携わった。 1959年1月4日、東京都新宿区で肺癌により死去した。
西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉-… 西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉- 2008年〈平成20年〉6月5日)は、日本の実業家。父親は、実業家の西松喬。配偶者は坂野鉄次郎の養子坂野紀美子。大阪市西区江戸堀生まれ。 1903年に大阪市西区江戸堀に生まれる。両親はインド綿花輸入を扱う輸入商社西松商店を経営していた。大阪で2年から3年ほど過ごした後に、神戸市東灘区東明に移った。その後、御影師範学校附属の小学校に通い、1916年に卒業。その後、開学まで1年待ち、1917年に甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校)に1回生として入学。甲陽中学卒業後は、慶應義塾大学に進学した。その後、鐘紡に就職。1933年から1938年までヨーロッパ駐在員としてロンドン、ニューヨークに赴任した。
蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月… 蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月13日)は、日本の医学者・内科医師である。1945年の広島市への原子爆弾投下で被爆しながらも、広島逓信病院(広島はくしま病院の前身)院長として被爆者の治療と原爆症の研究を行い、その苦闘の記録は『ヒロシマ日記』として各国で出版された。岡山県岡山市出身。 1903年、岡山県御野郡牧石村(現:岡山市)に生まれる。(旧制)岡山県立矢掛中学校、(旧制)第六高等学校を経て1929年に岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)を卒業する。その後、同大学の稲田内科にて研究を行い、1938年に学位を取得した。そして1942年には広島逓信病院の院長に就任し、これにより後半生を大きく変えることとなった。
梶 和三郎(かじ わさぶろう、1903年 - 1983年11… 梶 和三郎(かじ わさぶろう、1903年 - 1983年11月6日)は、日本の教育者。灘中学校・高等学校第3代校長。 香川県三豊郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)出身。 旧制香川県立三豊中学校に進学後、恩師から数学教師になることを諭されて東京高等師範学校数学科に進学。同高等師範学校を卒業後、1926年(大正15年)旧制愛媛県立大洲中学校に数学科教諭として赴任。1927年(昭和2年)旧制神奈川県立湘南中学校に転任。1938年(昭和13年)から1941年(昭和16年)まで旧制群馬県立太田中学校教頭を務める。その後、兵庫県立福崎高等学校、兵庫県立洲本高等学校、兵庫県立姫路東高等学校、兵庫県立星陵高等学校の校長を歴任。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
西内 雅(にしうち ただし、1903年 - 1993年4月1… 西内 雅(にしうち ただし、1903年 - 1993年4月19日)は、日本の歴史学者。 高知県生まれ。高知第一中学校卒業。一時期マルクス主義やアナーキズムに傾倒。代用教員を経て、広島文理科大学数学科卒業。和暦および暦法研究の過程で、谷秦山(渋川春海の弟子)の土佐勤皇思想(土佐南学)に接し、皇国史観にのめり込む。平泉澄(当時東京帝国大学教授)が開いた青々塾の門下生となり、皇国史観で著名な「平泉学派」のイデオローグの一人とみなされるに至る。 広島文理大研究生、陸軍士官学校嘱託教官を経て陸軍教授(1933年以降青々塾門下生が次々に陸海軍学校の教官に迎え入れられている)。のち、総力戦研究所所員(思想担当教官)として同所研究生等に「皇国思想」を教授するが、当時の日本の各界の若手エリートからなる同所研究生の間では時代錯誤的であるとして評判が悪かったといわれる。
高橋 虔(たかはし まさし、1903年(明治36年) - 1… 高橋 虔(たかはし まさし、1903年(明治36年) - 1992年(平成4年)7月30日)は、日本の神学者、聖書学者。
鈴木 松雄(すずき まつお、1903年(明治36年) - 1… 鈴木 松雄(すずき まつお、1903年(明治36年) - 1978年(昭和53年)9月6日)は、日本の実業家、工学者。東京工業大学電気工学科教授。工学博士(東京帝国大学)。昭和電線電䌫(現・昭和電線ホールディングス)社長・会長・相談役やCQ出版社長、多摩電気工業(現・KOA (企業))社長などを歴任した。
畑良一(はた りょういち 1903年 - 1969年9月27… 畑良一(はた りょういち 1903年 - 1969年9月27日)は、野崎産業(現 JFE商事)元会長。
沢 寿郎(さわ じゅろう、1903年 - 1988年1月4日… 沢 寿郎(さわ じゅろう、1903年 - 1988年1月4日)は、元鎌倉中央図書館長。 鎌倉市役所教育課長、社会教育課長ののち、市立中央図書館長。 東京生まれ。幼いころから鎌倉に住む。上智大学卒。在学中から大仏次郎と知り合い、その資料集めの助手をする。また中山義秀に師事。 雑誌編集者を務めたのち、1951年鎌倉市役所に入る。同年、松谷文吾の筆名で、「筋骨」でサンデー毎日百万円懸賞小説一等。 1954年「たき女抄」で芥川賞候補。1962年「秘雪」を『文藝朝日』に掲載する。
三輪清三(みわ せいぞう、1903年 - 1989年9月18… 三輪清三(みわ せいぞう、1903年 - 1989年9月18日)は日本の内科医、医学者。千葉大学名誉教授。元千葉大学医学部附属病院長。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、静岡高等学校 (旧制)卒業。1931年(昭和6年)、千葉医科大学卒業、第一内科に入局。国立千葉病院副院長を経て、1955年(昭和30年)、第一内科教授。1963年(昭和38年)、千葉大学医学部附属病院長、同看護学校長を併任。1969年(昭和44年)退官。1971年(昭和46年)、君津中央病院長。 消化器を中心に腎臓、血液、神経、感染症など幅広く診療した。個人の創意を尊重、自由な研究を推進し、その結果、有為の人材が生まれ育ったと言われ、門下から医学教育の教授職者が十指を超えた。
岡山 俊雄(おかやま としお、1903年 - 1987年8月… 岡山 俊雄(おかやま としお、1903年 - 1987年8月10日)は、日本の地理学者。明治大学名誉教授。理学博士(1961年)。地形学者だが、地理学教育にも尽力した。26年かけて日本全土の接峰面図を描き、それをもとに日本列島の地形構造を考察した。 1903年、東京市小石川区(現・東京都文京区)にて生まれる。東京高等師範学校附属中学校(筑波大学附属高等学校)に入学し、遠足・旅行・登山などで多くを学び、大縮尺の地形図に親しむ。卒業後、松本高等学校(現・信州大学)に入学し、登山を続けた。1926年、同校を卒業し、東京帝国大学理学部地理学科に入学。山崎直方・辻村太郎らの指導を受ける。当時、出身中学のサッカー部のコーチをしていた岡山は責任のとり方について悩み、中期論文を採る気持ちになれなかったが、山崎直方の「出したまえ」の一喝により切羽詰まって「切峰面による釜無・赤石二山地の研究」を2年時の進級論文として書き上げた。
金 斗鎔(キム・ドゥヨン、1903年 - 没年不明)は、北朝… 金 斗鎔(キム・ドゥヨン、1903年 - 没年不明)は、北朝鮮の社会運動家、政治家。咸鏡南道咸興出身。 日本に留学し、1923年に旧制第三高等学校に入学、弁論部で活躍した。1926年東京帝国大学文学部美学科に入学し、新人会や日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)で活動し、中野重治らと交友を深める。朝鮮プロレタリア芸術家同盟東京支部を組織し、機関紙『芸術運動』の編集発行にあたり、評論や戯曲を執筆した。1929年から在日本朝鮮労働総同盟にも参加したが、中央委員会を日本労働組合全国協議会(全協)の朝鮮人委員会に改編することをめぐって、金文準らと対立した。1930年に共産主義者に対する弾圧により治安維持法違反で検挙、投獄された後、1935年に東京の『朝鮮新聞』発行や、朝鮮芸術座の演劇活動に関与しながら、『文学評論』などの日本の雑誌や、『朝鮮中央日報』など朝鮮の新聞に文学評論を多数執筆したが、1936年10月29日、朝鮮語劇を通じて民族解放運動ならびに階級意識の高揚に活動したという理由で朝鮮人劇団が弾圧された「朝鮮芸術座事件」で再び検挙され、懲役1年8か月の判決を受けた。
渡邉 佐平(わたなべ さへい、1903年 - 1983年)は… 渡邉 佐平(わたなべ さへい、1903年 - 1983年)は、日本の経済学者。元法政大学総長。 栃木県出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、法政大学経済学部講師に就任、助教授を経て1933年に教授となり、金融論・貨幣論を講じた。その傍ら後藤隆之助らの昭和研究会に参加し、昭和研究会の研究者養成機関である昭和塾でも講師を務めた。 1948年に政府の経済安定本部員として国民所得調査室長を務める。法政大学経済学部長・常務理事などを歴任し、1960年に「通貨学派の研究」により経済学博士(法政大学)を取得、1967年3月15日に総長に就任する。町田市へのキャンパス移転などを計画したものの、学生紛争が激化する中で体調を崩し1968年4月8日に辞任。
小野 勇(おの いさむ、1903年(明治36年)- 1972… 小野 勇(おの いさむ、1903年(明治36年)- 1972年(昭和47年)10月17日)は、日本の造園家、作庭家。 福島生まれ。1928年(昭和3年)、東京高等造園学校(現・東京農業大学造園科学科)卒業後、内匠寮庭園係勤務となり、1929年(昭和4年)まで霞ヶ関離宮庭園詰所勤務となる。 その後1933年(昭和8年)まで新宿御苑および朝香宮御殿庭園工事にたずさわる。同年宮内省匠生となり、赤坂離宮、新宿御苑庭園勤務となる。 1941年(昭和16年)宮内技手となり、1946年(昭和21年)退官後、通信建設工業株式会社勤務となる。 その後、1948年(昭和23年)より宮内府王殿寮庭園係に復職、1960年(昭和35年)庭園第二係長。
林 基奉(イム・ギボン、朝鮮語: 임기봉、1903年 - 1… 林 基奉(イム・ギボン、朝鮮語: 임기봉、1903年 - 1982年9月26日または9月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の牧師、労働運動家、政治家。第2代韓国国会議員。 全南木浦出身。平壌神学校、同志社大学本科卒。キリスト教の牧師として15年ほど活動し、大韓労働総連盟木浦海上連盟委員長・初代中央本部副委員長、初代鉄道労組委員長を務めた。国会議員在任中は主に勤労基準法および船員法案などの分野で活躍した。 1982年9月26日、ソウル市恩平区亀山洞の自宅で持病または老衰のため死去。享年77。
孫 耕暁(そん こうぎょう、1903年 - 1946年)は、… 孫 耕暁(そん こうぎょう、1903年 - 1946年)は、満州国の官吏・政治家。中華民国国民党通化県党部書記長。通化事件の中華民国政府現地指導者。 東北大学理学部出身。満州国絡江中学校長、1940年(康徳7年)、通化省立地方職員訓練所長、通化省本会宣伝部長、1943年(康徳10年)、王道書院院長など歴任。1945年(民国35年)、国民党通化県党部書記長。1946年2月2日20時に自宅で翌日の蜂起について中華民国政府関係者たちと相談していたところ、朝鮮人民義勇軍に拘束され、中国共産党軍の元で尋問がなされた。供述書作成直後に銃殺されたという説と中国共産党軍主催の通化市内の百貨店で開かれた事件展示会で、戦利品の中央に藤田実彦大佐とともに見せしめとして3日間に渡り立たせられたとの両説がある。
蘇 宣奎(ソ・ソンギュ、朝鮮語: 소선규、1903年 - 1… 蘇 宣奎(ソ・ソンギュ、朝鮮語: 소선규、1903年 - 1968年8月17日)は、大韓民国の政治家。大韓民国建国初期の野党政治家で、第2・3・5・6代韓国国会議員(第5代は参議院議員)、初代参議院副議長。 本貫は晋州蘇氏。米軍政期に司法部次長を務めた蘇完奎(朝鮮語版)は兄。 全羅北道益山生まれ。1928年に福島高等商業学校(のちの福島大学)を卒業し、東京商科大学(のちの一橋大学)に進学した。解放後は東大門区長、1946年にソウル特別市副市長を歴任した後、1950年の第2代総選挙では民主国民党候補として益山郡甲選挙区から出馬した。政党制度が確立されず、ほとんどの候補者が無所属で出馬した中、明確に政党の看板を掲げて初当選した。
金 奉斗(キム・ボンドゥ、朝鮮語: 김봉두、1903年または… 金 奉斗(キム・ボンドゥ、朝鮮語: 김봉두、1903年または1906年4月8日 - 1972年7月22日または9月22日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 全北長水またはソウル出身。明治大学法学部卒。長水郡で輸出糧穀の搗精業と肥料販売業を営んだほか、株式会社三重社重役、大韓土建株式会社・大地産業株式会社・大地土建株式会社社長、韓国民主党中央常務委員、無所属の制憲国会議員を務めた。1954年の第3代総選挙、1958年の第4代総選挙と1960年の第5代総選挙(参議員)にも出馬し、政界引退後は貞陵山荘を開墾して農業を営んだ。 1972年7月22日、長水郡渓内面の自宅で持病により死去。享年67。
李 殷相(イ・ウンサン、이은상、1903年 - 1982年)… 李 殷相(イ・ウンサン、이은상、1903年 - 1982年)は韓国の詩人である。慶尚南道の昌原出身。本貫は全州李氏。 雅号は鷺山である。1903年10月22日、馬山で生まれる。1920年、延禧専門学校に入学して2年を修学してから、日本の早稲田大学へ留学した。1928年、帰国して「朝鮮語辞書編纂委員会」で働く。韓国固有の詩である時調の現代化に貢献して、李秉岐とは双璧を成しながら詩調の一つの類型を完成させた。 彼の作品のほとんどは、曲になって歌曲として歌われるほど、伝統の詩調形式を現代的なリズムでとしてうまく消化させている。このような点は、李秉岐とは異なる特徴でもある。
岩本 政一(いわもと まさいち、1903年 - 1979年1… 岩本 政一(いわもと まさいち、1903年 - 1979年1月12日)は、日本の政治家、実業家。元参議院議員(自由民主党・1期)。 北海道札幌郡豊平町石山(現札幌市南区石山)出身。札幌市立石山小学校卒。1929年に貨物自動車運送業を開業。豊平自動車運輸専務、北海道自動車運輸専務を経て、1956年社団法人北海道トラック協会初代会長(~1975年)や、北海道議会議員(札幌市選出)を6期務め、自民党道連幹事長、同党道連副会長、全国都道府県議会議長会副会長、北海道議会議長(1963年5月から1977年7月)、北海道開発審議会委員などを歴任。1971年の第9回参議院議員通常選挙に北海道選挙区から立候補し当選。
田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-19… 田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-1988年(昭和63年)1月24日)は、現在の秋田県仙北市角館町上新町生まれの画家。本名は田口徳蔵。 1926年(大正15年)荒川青亭に師事、1927年には上京して同郷の平福百穂の門に入り、1932年(昭和7年)には川端画学校に入学して日本画を学んだ。1933年10月30日の平福百穂の死に会した唯一の門人。百穂没後は吉田秋光に師事した。戦前在京中は童画を好み、三越百貨店で毎年ひらかれる童宝展に出品した。1937年(昭和12年)9月の日中戦争に応召したのち、満州・中国で約600枚の戦線スケッチをのこした。戦後は郷里角館に帰り、高等学校での美術指導や創作活動にたずさわった。
一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903… 一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903年 - 1981年5月3日)は、洋画家。 北海道空知郡滝川村(現・北海道滝川市)で生まれ、少年時代に一家で江部乙村(現・滝川市江部乙町)に転居する。家業のりんご園を手伝いながら絵画の研究に励む。同じく江部乙村の近所に住んでいた岩橋英遠とも親しくなり、1926年(大正15年)(22歳)で上京し、本郷絵画研究所にて学ぶ。そこで岡田三郎助に師事し、安井會太郎らの影響を受けることになる。1929年(昭和4年)に帝展に初入選する。晩年は一水会の作家として自己の画風を誠実に貫く絵画活動を続けた。 1944年(昭和19年)には戦争により郷里の江部乙に疎開するが、江部乙の名産であるリンゴ園やそこに働く人々を明るく伸びやかな作風の作品を書き続けた。
小山 卯三郎(おやま うさぶろう、1903年 - 1985年… 小山 卯三郎(おやま うさぶろう、1903年 - 1985年3月4日)は、日本の指揮者。大日本帝国陸軍で軍楽隊の指揮者として活躍した後、戦後も複数の楽団を指揮した。 1903年(明治36年)、熊本県玉名郡玉名村(現・玉名市)迫間に生まれた。同じ村の出身で、東京の陸軍戸山学校軍楽隊を卒業した田邉隆太郎が帰郷して演奏したコルネットに魅せられて音楽の道を志すようになった。1909年(明治42年)に玉名村立玉名尋常小学校に入学した。卒業後の1920年(大正9年)、陸軍戸山学校に入学するとクラリネットとバイオリンを専攻した。 卒業後は軍楽隊に所属し、1939年(昭和14年)には陸軍戸山学校の教官となった。