細川 玖琅(ほそかわ くろう、1882年〈明治15年〉11月… 細川 玖琅(ほそかわ くろう、1882年〈明治15年〉11月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。朝鮮企業社長。富士見銀行頭取。若宮八幡宮司。長野県諏訪郡富士見村長。族籍は長野県士族。 長野県士族・細川直行の長男。1901年、東京高等師範学校附属中学校を卒業。1908年、第二高等学校第二部農科を卒業。1911年、家督を相続し、同年東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業する。 銀行会社の重役で、推されて長野県会議員である。長野県参事会員に挙げられる。神職、富士見村長、富士見村農会長である。住所は長野県諏訪郡富士見村字若宮(現・富士見町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
竹内 友三郎(たけうち ともさぶろう、1882年〈明治15年… 竹内 友三郎(たけうち ともさぶろう、1882年〈明治15年〉11月25日 - 没年不明)は、日本の商人(精肉商、牛肉商)、政治家、実業家。合名会社竹内商店代表社員。旧姓・山本。 大阪府人・山本義光の三男、あるいは四男。山本與次右衛門の弟。愛知県知多郡八幡町生まれ。竹内慶太郎の養子となり、1923年に家督を相続する。神戸中学卒業。 合名会社竹内商店神戸支店に入る。横浜市会議員、横浜屠場、東神冷蔵製氷各取締役などをつとめる。 宗教は禅宗。趣味は囲碁。住所は神奈川県横浜市中区真砂町1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25… 豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25日 - 1969年(昭和44年)7月24日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員を6期務めた。青山学院大学講師、中央大学講師も務めた。 父は教育者の豊田太蔵。国土交通官僚の竹歳誠(国土交通事務次官や内閣官房副長官など歴任)は豊田の妹の孫にあたる。 鳥取県八橋郡由良村(現東伯郡北栄町)出身。 1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科卒業。オックスフォード大学に留学。 帰国後鉄道書記官、鉄道監察官を歴任する。 1928年(昭和3年)に立憲政友会公認で第16回衆議院議員総選挙に立候補して初当選、以降総選挙に連続6回当選。岡田内閣大蔵参与官、鉄道会議議員、土木会議議員、鈴木内閣大東亜政務次官となる。
千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 -… 千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 - 1962年2月21日)は、日本の実業家、政治家。近代岡崎の商工業者の第一人者として知られる。岡崎商工会議所の会頭を3期(通算約12年)、衆議院議員を1期務めた。長女の夫は一宮市の実業家・四代目豊島半七。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)の呉服商の老舗大島屋に生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業後、名古屋市の簿記学校に進む。1903年(明治36年)、父の死去により年若くして家業を継いだ。 家業の呉服商に木綿部を増設して千賀合名会社を設立し、三河木綿の生産に着手した。当時特産品として知られた三河木綿は零細な家内工業によるものであったため、生産量はごくわずかであった。
小泉 丹(こいずみ まこと、1882年(明治15年)11月2… 小泉 丹(こいずみ まこと、1882年(明治15年)11月23日 - 1952年(昭和27年)10月21日)は、日本の動物学者。 京都府出身。東京帝国大学理学部動物学科卒。伝染病研究所で宮島幹之助に師事。台湾で熱帯病を研究。1924年新設の慶應義塾大学医学部教授、寄生虫学を担当。マラリアやデング熱の研究、『蛔虫の研究』、進化論の解説などの業績がある。名前は「たん」と通称される。墓所は多磨霊園。 弟の小泉鉄(鐵、まがね、1886-1954)は作家、翻訳家で、第二次『新思潮』に谷崎潤一郎らと参加、のち『白樺』に参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )1… 山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )11月17日 - 1954年(昭和29年 )3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1… 平山 蘆江(ひらやま ろこう、1882年11月15日 - 1953年4月18日)は日本の新聞記者、作家。
後藤 多喜蔵(ごとう たきぞう、1882年(明治15年)11… 後藤 多喜蔵(ごとう たきぞう、1882年(明治15年)11月15日 - 没年不詳)は、日本の検察官、裁判官、内務・警察官僚、政治家。官選県知事、門司市長、久留米市長。 福岡県出身。後藤増蔵の四男として生まれる。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年8月2日、司法省に入省。司法官試補となり東京地方裁判所及同検事局並東京区裁判所及同検事局で事務修習を命じられた。 1912年12月10日、検事に任官し、予備検事・東京地方裁判所検事局兼東京区裁判所検事局詰となる。以後、東京地方裁判所兼東京区裁判所検事、大阪地方裁判所兼大阪区裁判所検事を務めた。1916年1月11日、判事となり、横浜区裁判所判事に就任。
郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13… 郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13日 - 1961年(昭和36年)4月28日)は、日本の実業家。三菱重工業社長、太平洋戦争時の東條内閣顧問。戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放された。 地域の教育者であった郷古玉三郎、ゆうの長男として岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)不断町にて生まれた。先祖は仙台藩伊達氏の一門である留守家に仕えた藩医。盛岡中学校(及川古志郎、野村胡堂らと同級)、第一高等学校(東京大学教養学部)、東京帝国大学法科大学法律科を経て、1908年8月、三菱合資会社に入社。入社後すぐに九州の炭鉱へ転勤を命じられた。後には三菱造船、神戸造船、三菱重工、日本航空会社と三菱財閥の各社で勤務。
上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月… 上野 直昭(うえの なおてる、1882年〈明治15年〉11月11日 - 1973年〈昭和48年〉4月11日)は、日本の美学者。日本学士院会員、東京藝術大学名誉教授。 出典:(日本美術年鑑)・(百年史) 1882年(明治15年)、上野昭道の長男として神戸市に生まれた。慶應義塾幼稚舎、東京正則中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業。 1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで、美学者である大塚保治教授の主宰する東京帝大文科大学美学研究室の副手をつとめた。その在任中の1916年(大正5年)に東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得て、絵巻物の調査研究に当たった。
織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11… 織田 一磨(おだ かずま、1882年(明治15年)11月11日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は明治期から昭和期の芸術家、版画家。 洋画を川村清雄、石版画をオットマン・スモリック、金子政次郎に学ぶ。「自画石版の織田一磨」として知られる。主な作品は東京国立近代美術館などに収められている。 1882年(明治15年)11月11日、織田信徳の四男として東京府芝区にて誕生した。1894年(明治27年)頃、父信徳らと大阪に転居する。その後、広島石版印刷所や大阪市役所図案調製所に勤務する。1898年(明治31年)、16歳の時、兄の織田東禹の元で更に石版画の技術を学んだ。1907年(明治40年)に石井柏亭らによって刊行された美術雑誌『方寸』に参加し、創作版画の道に進んだ。
浅利 三朗(淺利 三朗、あさり さぶろう、1882年(明治1… 浅利 三朗(淺利 三朗、あさり さぶろう、1882年(明治15年)11月10日 – 1966年(昭和41年)11月3日)は、日本の内務及び朝鮮総督府官僚、政治家。栃木県知事(官選第25代)、香川県知事(官選第19代)、衆議院議員(3期)。 岩手県西磐井郡平泉町出身。浅利杏坪の三男として生まれ、兄・浅利寛の養子となる。一関中学、第二高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し三重県属となり、内務部勧業課に配属された。 1910年5月、三重県内務部地方課に配属。以後、山形県事務官、同視学官、大阪府視学官、茨城県警察部長、高知県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁警察部長、富山県内務部長などを歴任。
村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 … 村上 武次郎(むらかみ たけじろう、1882年11月10日 - 1969年7月29日)は、日本の冶金学者。 京都府南桑田郡(現:亀岡市)に生まれる。京都府師範学校を経て東京高等師範学校を卒業し、京都府立第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校)の教師職に就くが、再び学問を志し29歳で京都帝国大学理学部純正化学科へ入学。卒業後も大学に残り講師を務める。近重眞澄の推挙で、1916年新たに設立される東北帝国大学に臨時理化学研究所(所長本多光太郎、現:東北大学金属材料研究所)に赴任する。以後KS鋼・新KS鋼の研究に携わり、ステンレス鋼や高速度工具鋼など新素材の領域で優れた業績を上げた。 娘婿に今井勇之進がいる。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)… 菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)11月9日 - 1939年(昭和14年)3月6日)は、日本の教育者。旧姓は早川。 長野県小県郡当郷(現青木村)生まれ。長野県尋常中学校上田支校(1899年(明治32年)には長野中学校上田支校に、翌1900年(明治33年)に上田中学校として独立、現・長野県上田高等学校)、同松本本校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、旧制浦和高等学校、東京帝国大学哲学科卒業。尋常中学校の同級生に五島慶太がいた。千葉県夷隅郡中川村の菰田家の養子となる。 東京府立第二中学、旧制山口高等学校で教壇に立った後、1928年(昭和3年)文部省学務局事務官となり、翌年学生課長、調査課長を務めた。
出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉1… 出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉11月9日 - 1964年〈昭和39年〉7月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。侍従武官としての宮仕えを経て、海軍兵学校校長、舞鶴要港部司令官を務めた。 福岡県宗像市出身。地主・出光勝兵衛の三男として生れる。旧制東筑中学校(現福岡県立東筑高等学校)を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、第1艦隊参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、水雷学校教官、イギリス駐在、軍令部第1班第2課参謀、兼参謀本部員、軍令部第2班第4課長、給炭艦「野島」艦長、「多摩」艦長、海軍省人事局第1課長、「八雲」艦長、「迅鯨」艦長、海軍通信学校教頭などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - … 中井 猛之進(なかい たけのしん、1882年11月9日 - 1952年12月6日)は、日本の植物分類学者。東大教授、小石川植物園長、ボゴール植物園長、国立科学博物館長。小説家の中井英夫は息子。 チョウノスケソウ Dryas octopetala L. var. asiatica (Nakai) Nakai などを命名したほか、ノジギク Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai、ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii (DC.) Nakai などの分類学的検討を行い、名を残した。また、セリ目 Apiales Nakai、インドカラムス属 Indocalamus Nakai、ムニンヤツデ属 Boninofatsia Nakai などの分類群を設立した。
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11… 河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。 名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。 小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。 明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。
板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11… 板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11月8日 - 1967年〈昭和42年〉10月28日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。九州大学名誉教授。内分泌や黄体ホルモンの生理学的研究や、久留米大学附設中学校・高等学校を設立したことで知られる。 岩手県盛岡市出身。板垣征四郎の兄。旧制盛岡中学、旧制二高、京都帝国大学医学部を経て、1910年より京都帝国大学福岡医科大学助教授に就任。1913年陸軍2等軍医になる。1914年3月より3年間ヨーロッパに留学し、1918年九州帝国大学教授となる。その後1932年九州帝国大学医学部長、1933年温泉治療学研究所長を歴任。太平洋戦争中にはジャカルタ医科大学学長を務めた。
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)… 大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。位階および勲等は正四位・勲二等。 滋賀県犬上郡彦根町出身。旧彦根藩士・大海原尚義(近江鉄道、大日本製糖重役)の長男として生まれる。三重県第一中学校、学習院高等科を経て、1908年、東京帝国大学法科大学を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年2月、内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官、熊本県事務官、埼玉県警察部長、千葉県警察部長、長崎県警察部長、内務省警保局事務官兼内務書記官、東京府内務部長などを歴任。 1922年10月、山梨県知事に就任。
児玉 実良(兒玉 實良、こだま さねよし、1882年(明治1… 児玉 実良(兒玉 實良、こだま さねよし、1882年(明治15年)11月5日 - 1956年(昭和31年)3月20日 )は、明治末から昭和期の裁判官、検察官、弁護士。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡樋脇郷麓(樋脇村、樋脇町を経て現薩摩川内市)で、児玉善輔の長男として生まれた。1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。司法官試補に任じられ、徳島地方裁判所判事、千葉地方裁判所判事、名古屋地方裁判所・名古屋区裁判所検事、七尾区裁判所検事、小倉区裁判所検事、高松地方裁判所・高松区裁判所検事、京都地方裁判所・京都区裁判所検事、鹿児島区裁判所検事などを歴任した。退官後は鹿児島市で弁護士を開業した。
大橋 清太郎(おおはし せいたろう、1882年11月3日 -… 大橋 清太郎(おおはし せいたろう、1882年11月3日 - 1962年11月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 現在の東京都出身。東京府立一中卒(現・東京都立日比谷高等学校)。材木商を営み、品川町議、同町長、東京市議、同参事会員、東京府議、同参事会員、同議長を経て、1940年、斯波貞吉と麻生久の死去による東京5区(当時)の衆議院議員補欠選挙で初当選。 1939年(昭和14年)に盛り上がりを見せた反英運動には大橋も積極的に参画。7月14日に行われた山王台などで行われた反英市民同盟主催の集会では座長の一人を務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選した。
中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉1… 中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉11月3日 - 1949年〈昭和24年〉11月30日)は、日本の貴族院勅選議員、太田市長。 群馬県新田郡太田町(現在の太田市)に太田保次郎の長男として生まれ、中村勘蔵の婿養子となった。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。翌年より会計検査院書記となり、同副検査官となった。1915年(大正4年)より衆議院書記官も兼任し、1923年(大正12年)より衆議院書記官長を務めた。1930年(昭和5年)に退官した後は国政研究会を主宰した。1935年(昭和10年)より内閣調査局(のち企画庁)参与を務めた。この間、文官普通試験委員長、臨時議員建築局、大蔵省営繕管財局各参与、大礼使事務官、議会制度審議会臨時委員などを務めた。
青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1… 青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1953年1月10日)は日本の医学者(外科学)、華族(男爵)。 長野県東筑摩郡洗馬村(現塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の次男で、元東北帝国大学総長熊谷岱蔵の実弟。 明治39年(1906年)東京大学医科大学(東京大学医学部)卒業。在学中に同大内科教授青山胤通の娘芳子と結婚、青山姓となった。大正5年(1916年)「胆石形成に関する実験的研究」で医学博士号取得。同8年(1919年)東京帝大外科学助教授、同14年(1925年)外科学第1講座教授。外国留学後、昭和11年(1936年)視力障害を理由に依願退職。従三位勲三等。 腹部外科、特に胆石症や胃潰瘍などの権威として知られ、著作に「小外科総論」がある。
水島 彦一郎(みずしま ひこいちろう、1882年(明治15年… 水島 彦一郎(みずしま ひこいちろう、1882年(明治15年)11月1日 - 1953年(昭和28年)2月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。旧舞鶴市長。 京都府加佐郡中筋村(現在の舞鶴市)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。東京日日新聞記者、東京毎日新聞記者を経て、富士製紙に勤めた。第一次世界大戦中は大阪で松田製作所、大阪金工などの軍需工業の経営に従事した。その後郷里に戻り、中筋村会議員、加佐郡会議員、同参事会員に当選。また京都府会議員に2回選出され、参事会員、郡部会議長、議長を歴任した。また舞鶴町長に選ばれ、加佐郡町村長会会長、京都府町村長会会長、全国町村長会副会長に就いた。
小林 福太郎(こばやし ふくたろう、1882年(明治15年)… 小林 福太郎(こばやし ふくたろう、1882年(明治15年)11月 - 1938年(昭和13年)3月26日)は、日本の修理大工、建築家。社寺を中心に和風建築作品を多数設計した。 東京出身。工手学校(現工学院大学)を卒業。もともとは内務省に奉職したのち、宮内省内匠寮に入り、特別保護建造物の修繕に従事。 1913年(大正2年)、御料車内部装飾設計を鉄道院から嘱託され両陛下御同乗車(皇室用客車 § 7号御料車)、賢所奉安御車(賢所乗御車)を担当する。 1919年(大正8年)、日光廟大修理工事の主任技師となる。 1925年(大正14年)には小林建築設計事務所を設立。没後は息子の小林謙一が継ぎ、大物忌神社吹浦宮や浅草寺雷門などを設計している。
中井 久三(なかい きゅうぞう、1882年(明治15年)11… 中井 久三(なかい きゅうぞう、1882年(明治15年)11月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 宮城県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。栃木県那須郡書記、同上都賀郡長、同下都賀郡長、群馬県理事官、青森県理事官、和歌山県書記官・学務部長、大分県書記官・学務部長、栃木県書記官・学務部長、石川県書記官・学務部長を歴任した。 退官後の1933年(昭和8年)より宇都宮市助役を務めた。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月… 佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。
上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月… 上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月28日 - 1970年(昭和45年)4月19日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主。 1882年、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910年に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の梅子(琴の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉) 村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933年に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946年、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。
若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉1… 若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉10月24日 - 1933年〈昭和8年〉1月25日)は、明治末から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山梨県出身。若尾民造の三男として生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し実業界に入る。 1917年(大正6年)父の死去に伴い三男であったが二人の兄が早逝していたため家督を相続した。若尾銀行頭取、若尾保全社長、常盤生命代表取締役、若尾貯蓄銀行代表取締役、日本電化代表取締役、日本電気炉工業取締役、日本電球取締役、東京電燈取締役、東京瓦斯取締役、日本機械製造監査役、甲府商業会議所常議員、甲府市商業学校商議員などを務めた。
有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 … 有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 - 1947年11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍中将有地品之允の三男として東京に生まれる。 1900年(明治33年)3月、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。 1915年(大正4年)5月26日、駆逐艦「夕暮」駆逐艦長に就任。1917年(大正6年)11月、海軍大学校(甲種第15期)を卒業し海軍少佐に昇進した。 1918年(大正7年)1月、「槇」艦長となり、第二特務艦隊司令部付、「柏」駆逐艦長などを歴任し、1919年(大正8年)9月15日、第2水雷戦隊参謀に就任。
寺部 だい(てらべ だい、女性、1882年10月20日 - … 寺部 だい(てらべ だい、女性、1882年10月20日 - 1966年5月18日)は、愛知県碧海郡桜井村(現・安城市桜井町)出身の教育者。学校法人安城学園の創立者。藍綬褒章受章(1958年)。安城市名誉市民(1962年)。 1882年(明治15年)10月20日、愛知県碧海郡桜井村(現・安城市桜井町)出身。5歳の時には母親とともに、2か月かけて長野の善光寺参りを行っている。母親は道標に刻まれた文字を苦労して読んでおり、女子教育の大切さを痛感した母親はだいを学校に通わせる決心をした。6歳から13歳までは長谷部某の漢学塾に通い、だいは塾内で男子にもまれる悦びを知った。19歳で東京裁縫女学校(現・東京家政大学)に入学すると、自身で生活費を稼ぎながら夜間には教員養成所に通った。
角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉1… 角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉10月18日 - 1974年〈昭和49年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北勢多郡青木村(利根郡利根村青木を経て現・沼田市利根町青木)出身。群馬県尋常中学校利根分校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。日露戦争では連隊旗手を務め負傷する。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業した。陸大同期には畑俊六、杉山元両元帥、小磯國昭、二宮治重らがいる。 インド駐箚武官、参謀本部欧米課英国班長などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第79連隊長に就任。
小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)1… 小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)10月18日 - 1974年(昭和49年)4月24日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県西山梨郡甲府若松町(現甲府市若松町)で小宮山栄兵衛の長男として生まれる。甲府市立小学校高等科を卒業。甲府市内の河内屋古着店に勤める。1902年(明治35年)に上京し家具販売業を創業し、のち鉄鋼原料商を営んだ。1928年(昭和3年)[要出典]に長男英蔵が屑鉄・スクラップ業の小宮山商店を創業し、英蔵は常務取締役として、のちの平和相互銀行を中心とする「小宮山コンツェルン」の基礎を築いた[要出典]。 機械製造販売業も営み、足立鋼管社長、足立産業社長、昭和鋼管社長、協同証券重役、小島特殊機械製作所重役、大洋観光重役、京浜ホテル重役、日本金銀糸工業重役などを務めた。
林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉1… 林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉10月17日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、南洋協会理事長。 栃木県下都賀郡壬生町生まれ。同期11名中9位の成績で外務省に入省。同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、池邊龍一(のちに東洋拓殖総裁)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、尾崎洵盛(のちに男爵)ら。 奉天総領事着任直後に関東軍の謀略により張作霖爆殺事件が起こると、当時外相であった幣原喜重郎に関東軍が陰謀を目論んでいる旨の電報を打電するなど、軍部の行動を批判し平和的解決に努めた。
室木 弥次郎(むろき やじろう、1882年(明治15年)10… 室木 弥次郎(むろき やじろう、1882年(明治15年)10月16日 – 1973年(昭和48年)10月30日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。弁護士。弁理士。 石川県鹿島郡西岸村(現在の七尾市)に衆議院議員室木弥八郎の二男として生まれる。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補、大阪区裁判所判事、大阪地方裁判所判事、大阪控訴院判事代理を歴任した。1913年(大正2年)、官を辞して弁護士を開業した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙で再選を果たした。 その他、熊木銀行取締役、能登銀行監査役、小田製糸株式会社社長を務めた。
高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15… 高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15年〉10月16日 - 1964年〈昭和39年〉11月17日)は、日本の実業家、政治家、著述家、詐欺師。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、翠崖(-すいがい)、鬼外(-きがい)などがある。 実業家としては「鉄道に賭けた男」、「通販史上に輝く巨星」、「今でいう企業再生ファンドのような・・・」などと、その創造力や先見性が注目された。その一方で、蓄財書を出版して投資家を集めるなか池上電気鉄道事業で詐欺・横領などの容疑で逮捕され、「貯金魔」「虚業家」などと呼ばれた。 1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市小幡)に生まれる。同村の旧制要小学校(後の行方市立要小学校)を卒業し、茨城県立尋常中学校(旧制茨城県立水戸中学校→茨城県立水戸第一高等学校)に入学。
野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月1… 野村 胡堂(のむら こどう、1882年(明治15年)10月15日 - 1963年(昭和38年)4月14日)は、日本の小説家・人物評論家。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびすとも。本名:野村 長一(のむら おさかず)。娘は作家の松田瓊子。 1938年発行の『レコード音楽』昭和13年3月号に、読者からの投書に答える形で、次のように述べている。 「ところで震災の前の年から私は美術と音楽のことも書くやうになつた。さうなると胡堂といふ名では少々堅苦しい感じがあるので、何か他の名を考へることにしたのが抑々あらえびすの名の出来るきつかけだつた。有名な浄瑠璃の「袖萩祭文」の中で「奥州のあらゑびす……」云々と阿倍貞任が威張るくだりがあるが、胡堂の胡がそのあらゑびすに相当するので(ゑびすに「にぎゑびす」即ち熟蛮と「あらゑびす」即ち生蛮の二種がある、その荒つぽい方なのである)ゑはえに変えて、斯くして茲にあらえびすの名が誕生を見た次第だ。
半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月… 半田 神来(はんだ しんらい、1882年〈明治15年〉10月15日 - 1956年〈昭和31年〉)は日本の書家。本名は半田時之進。 半田丑松とチイの長男として[独自研究?]、栃木県河内郡野澤村(現・宇都宮市野沢)に生まれる。旧制宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。 旧制宇都宮商業、佐野中学校、花巻高等女学校に在職。1926年(大正15年)群馬師範学校に転任し1932年(昭和7年)まで勤務。退職後は桐生に在住し、晩年に郷里宇都宮に戻った。叙従七位。 書は岩田鶴皐、近藤雪竹、比田井天来に学ぶ。天来の書学院教授も務めた。天来の死去の際は、葬儀委員長を仰せつかっている。月刊誌『大成』を刊行して後進を指導した。
玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1… 玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1969年1月11日)は、日本の国文学者。 1905年、新潟師範学校卒、1909年、東京高等師範学校国語漢文科卒。 1950年、「更級日記錯簡考」で東洋大学・文学博士。 1910年、東京高等師範学校助教諭兼訓導、1915年同校教諭、1925年教授。1946年定年退官し、日本女子専門学校教授、1962年昭和女子大学長に就任。 専門は、平安鎌倉女流日記文学。
東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日… 東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日 - 1963年1月24日)は、沖縄の歴史学者・郷土史家・沖縄史家。東京帝国大学卒業。旧制府立高等学校、法政大学、拓殖大学各教授、拓殖大学図書館長、拓殖大学第一高等学校四代校長。沖縄県那覇出身。 1882年10月14日、新参慎氏の父東恩納寛裕母真呉勢の四男として沖縄県那覇東町に生まれる。沖縄県中学校(現・沖縄県立首里高等学校)、第五高等学校文科(現・熊本大学)を経て、1908年に東京帝国大学文科大学史学科卒業。東京府立一中教諭、高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員、府立高等学校や法政大学、拓殖大学等の教授を務めた。死後、琉球新報社によって「東恩納寛惇賞」が創設された。
大平 得三(おおひら とくぞう、1882年10月12日 - … 大平 得三(おおひら とくぞう、1882年10月12日 - 1962年1月15日)は、日本の医学者、衛生学者。九州大学名誉教授、鹿児島県立大学初代医学部長・初代学長・名誉教授、医学博士。 山形県飽海郡酒田町(後の酒田市)本町生まれ。医師大平楨作(山形県済生館医学校元教授)の長男。1900年に旧制荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校および山形県立致道館中学校・高等学校の前身)を卒業。1904年に旧制第一高等学校(東京大学教養学部前期課程の前身)から、京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医科大学、九州帝国大学医学部、九州大学医学部)に2期生として入学。1908年12月に京都帝国大学福岡医科大学を卒業し、衛生学教室の助手となる。
水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月… 水谷 竹紫(みずたに ちくし、1882年(明治15年)10月8日 - 1935年(昭和10年)9月14日)は日本の劇作家、演出家、編集者。第2次芸術座の中心人物として活動した。 女優の水谷八重子は義妹。 長崎県長崎区(現・長崎市)出身。岡山尋常中学(現・岡山県立朝日高等学校)、県立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)を経て、1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学。本科では早稲田大学文学部哲学科。同級に詩人の相馬御風が居た。 1906年(明治39年)、早稲田大学を卒業し、姫路連隊に一年志願兵として入隊。翌年には神楽坂の名妓と結婚するが、この夫人の妹が後の水谷八重子である。
田口 弼一(たぐち すけいち、1882年(明治15年)10月… 田口 弼一(たぐち すけいち、1882年(明治15年)10月8日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の官僚、政治家。法学博士。 昭和前期に1930年から8年にわたり衆議院書記官長を務め、藤沢幾之輔、中村啓次郎、秋田清、浜田国松、冨田幸次郎、小山松寿の6代の議長を補佐し、議会振粛のために尽力した。この期間は、濱口内閣から第1次近衛内閣までに当たり、民政党・政友会の二大政党による政党内閣とその終焉(五・一五事件、1932年)、満洲事変・満州国建国(1931年~1933年)、二・二六事件(1936年)、斎藤隆夫の粛軍演説(1936年5月7日)、帝国議会議事堂の竣工(1936年11月7日)、日中戦争の勃発(1937年)があった時期である。
大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1… 大曲 駒村(おおまがり くそん、1882年10月8日 - 1943年3月24日)は、日本の美術評論家、川柳研究家。本名・省三。 福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)に生まれる。1892年、小高小学校を卒業し、福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)へ入学するも病気退学。 1900年、小高銀行に就職。1901年、友人の鈴木余生と俳句グループ「渋茶会」を結成し、俳句を始める。1906年、余生が死ぬと新たに「浮舟会」を結成し、明治20年から30年代に正岡子規と一門らが始めた俳句・短歌の一大革新運動にも参加。1911年、福島県に関連する句を選び出した『雙巌集』を刊行。小高俳壇草創期のリーダーであった。 1917年、小高銀行が倒産して失職する。
滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 19… 滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 1924年10月13日)は、明治・大正期の飛行家である。父・滋野清彦の男爵を襲爵。「欧州の空で戦った侍飛行家」とも評され、フランス陸軍航空隊のエース部隊のパイロットとして活躍しレジオン・ドヌール勲章、クロワ・ドゥ・ゲール勲章を受勲。通称をバロン滋野。 1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋に生まれた(東京生まれとも)。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。父の軍功に応えるべく、学習院を中退して広島陸軍地方幼年学校に入学するが、生来芸術家肌であったために神経衰弱を患って中退する。千葉県安房郡館山町上須賀の別荘で遊興したのち、家庭教師だった山田耕筰の勧めで上野の東京音楽学校予科に入学し、本科器楽科でコルネットを習得した。
原 志免太郎(はら しめたろう、1882年〈明治15年〉10… 原 志免太郎(はら しめたろう、1882年〈明治15年〉10月4日 - 1991年〈平成3年〉6月18日)は、日本の医師。100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで聴診器を持ち、108歳で死去した時点では男性長寿日本一だった。 1882年10月4日に、原田種紀・トエの四男として生まれ、父は黒田藩に仕える武士であったが明治維新を体験、県庁の役人、しかし失業と不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが戸籍係の間違いか「郎」が足され「志免太郎」になった。 高等小学校卒業後、親元を離れ福岡市大浜三丁目(現・博多区大博町)の原三信の医学生となり、独学。(後に原一族の女婿となる。)検定資格を取り京都府立医専(現・京都府立医科大学)に入り、卒業。
江原 小弥太(えはら こやた、1882年10月4日〜1978… 江原 小弥太(えはら こやた、1882年10月4日〜1978年4月2日)は、作家。新潟県柏崎生まれ。1900年新潟県立高田師範学校卒。小学校教員ののち、1903年東京物理学校入学。キリスト教に接近し、江原書店を経営するなどしたのち、1921年『新約』を刊行しベストセラーとなる。以後戦時下まで作家として活動。
片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年10月3日 - 1… 片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年10月3日 - 1945年1月31日)は、戦前の広告業界で活躍したコピーライター(当時の呼び名で「アドライター」)の第一人者。「天才」と謳われた。静岡県焼津市出身。 旧制開成中学校卒業[要出典]後、海軍兵学校を目指すも叶わず、静岡中学校を卒業。泉鏡花に師事して文筆家を目指すが挫折。1906年、シャム公使館に勤務。1909年から1912年まで渡航。広告業界に足を踏み入れるきっかけは本人曰く「たまたま見た森永(製菓)の広告がまるでダメで、これなら俺の方がよいものができる」と思ったからだという。帰国後の1913年、日本電報通信社(現・電通)に入社するも、翌年には、その森永製菓に広告部長として招かれ、ヒット広告を次々と打ち出す。