多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 198… 多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 1987年3月26日)は日本の政治家。 元衆議院議員(日本共産党公認、通算2期)。日本共産党北海道副委員長、道平和委員会副会長、道原水協副委員長、日朝協会道副会長などを歴任した。 北海道空知郡上砂川町生まれ。1942年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。その後、旧陸軍の樺太山砲隊に入隊した。戦後はシベリアに抑留される。1947年12月に帰国した。ソ連から帰国後の1948年、日本共産党へ入党。美唄、留萌の各地区委員長、道委員会常任委員などを歴任した。1972年の衆院選で北海道1区から出馬し初当選を果たした。1976年の衆院選では次点に終わる。1979年の衆院選で返り咲きを果たす。
塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 20… 塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 2020年5月4日)は、日本の日本近代文学研究者。京都女子大学名誉教授。筆名・黒田しのぶ。 日本領朝鮮(現・北朝鮮)生まれ。立命館大学大学院日本文学専攻修了。朝鮮京城梨花女子高等女学校教諭、帰国後は京都女子大学教授、1989年定年、名誉教授となる。樋口一葉、半井桃水を研究した。
大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没… 大内 照子(おおうち てるこ、1918年11月15日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名、大内 幸香(おおうち ゆきこ)。 1918年(大正7年)11月15日、愛媛県伊予郡砥部町大字原町に生まれる。4歳上の兄に俳優の大内弘(本名・大内一郎)がいる。 1936年(昭和11年)3月、愛媛県立松山高等女学校(現在の愛媛県立松山南高等学校)を卒業すると同時に、兄の在籍するマキノ正博の新会社マキノトーキー製作所に入社する(第二期入社)。同年4月29日に公開された根岸東一郎・マキノ正博共同監督による『加賀見山』に出演して、満17歳で映画界にデビューした。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や兄の大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、照子と同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくが、照子は、同社跡地に、甲陽映画から独立して今井理輔が設立した「今井映画製作所」に移籍した。
沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 … 沢田 広(澤田 廣、さわだ ひろし、1918年11月15日 - 2002年2月10日)は、日本の政治家。衆議院議員。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。 1941年(昭和16年)日本大学文理学部(高等師範)卒業。国鉄職員から国鉄労働組合役員、大宮市議会議員を経て、1959年から大宮市選出の埼玉県議会議員を4期務める。 1972年総選挙に日本社会党公認で旧埼玉1区から立候補するが落選。 旧1区から旧埼玉5区が分離独立した1976年総選挙では旧5区から立候補し、初当選を果たした。以後衆議院議員を6期務める。 この間1979年(昭和54年)11月に衆議院交通安全対策特別委員会理事・1989年(平成元年)に衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長を務める。
打吹 美砂(うちぶき みさ、本名:藤本 千栄子、旧名:知江子… 打吹 美砂(うちぶき みさ、本名:藤本 千栄子、旧名:知江子、旧姓:米本、1918年(大正7年)11月15日 - 2010年(平成22年))は、元宝塚歌劇団(元花組主演男役および娘役クラス、元花組組長。)の人物である。鳥取県倉吉市出身。芸名は同郷の上級生である高砂松子が故郷の打吹公園の名前をとって命名した。宝塚歌劇団時代の公称身長は160cm。宝塚歌劇団時代の愛称はヨネちゃん(旧姓の米本から)。改名前は打吹 たもとであった。 1931年、21期生として、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。当時は入学イコール入団で学校と劇団は一体であった。 1948年 - 1951年・1953年 - 1960年、花組組長。
村沢 夏風(むらさわ かふう、1918年11月14日 - 2… 村沢 夏風(むらさわ かふう、1918年11月14日 - 2000年11月29日)は、東京都出身の俳人。本名喜八郎。東京市京橋区生。保善商業学校卒。1942年、「鶴」に入会し石田波郷に師事。1958年鶴賞、1965年鶴散文部門賞受賞。1987年、村山古郷没後の「嵯峨野」を継承主宰。1989年、句集『独坐』により第29回俳人協会賞受賞。人物、作風ともに温雅であった。句集に『寒影』『山望』『彩雲』『独坐』『村沢夏風句集』など、研究書に『石田波郷の俳句』Ⅰ~Ⅳなどがある。また漫画家として『漫画 俳句入門』(共著)の著書がある。
西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - … 西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - 2006年7月1日)は、日本の外交官。外務省国際連合局長や、EC大使、国連大使を務めた。1991年勲一等瑞宝章受章、2006年叙正三位。 北海道函館市出身。旧制横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部の前身)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。大学では井藤半彌ゼミナールに所属。 大学在学中の1940年に外交官及領事官試験に合格。しかし成績が悪いのでは出世ができないと考え、翌年の再受験を考えていたところ、門脇季光人事課長(のちに駐ソ連大使)から、外務省では試験の成績は関係ないので、一刻も早く入省すべきだとの助言を受け、1941年外務省入省。
芦原 千津子(あしはら ちづこ、1918年11月14日 - … 芦原 千津子(あしはら ちづこ、1918年11月14日 - 2009年1月5日)は、松竹楽劇部(改名を経て、OSK日本歌劇団)娘役スター。 1918年(大正7年)生まれ。大阪府大阪市の住吉大社の近くで生まれ育つ。 1931年(昭和6年)、松竹楽劇部に入団。秋月恵美子によれば、芦原は「天才肌」であり、(稽古熱心だった秋月に比し)短時間で振付をマスターした。またダンスに専念する姿勢でファンに「愛想をしない人」であった。 1935年(昭和10年)、大阪劇場『アベック・トア』で秋月とのコンビで起用されるようになる。その後1937年(昭和12年)以降は、秋月が男役メインとなり、二人は男役・娘役ペアでコンビを組むようになった。
三浦 道雄(みうら みちお、1918年(大正7年)11月12… 三浦 道雄(みうら みちお、1918年(大正7年)11月12日-1993年(平成5年)10月6日)は日本の政治家、実業家。青森県議会議長(自由民主党)、南部鉄道社長、東北電力監査役。 1918年(大正7年)11月12日に青森県三戸郡五戸町に生まれる。1942年(昭和17年)、法政大学経済学部を卒業する。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。大湊海軍航空隊付となる。同年5月、大湊軍需部付兼経理部部員に転任。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、1945年(昭和20年)1月、大湊軍需部占守支部(北千島)に転じ、その後、小樽武官府で終戦を迎えた。
伊藤 孝次郎 (いとう こうじろう、1918年(大正7年)1… 伊藤 孝次郎 (いとう こうじろう、1918年(大正7年)11月12日 - 1992年(平成4年)5月10日)は、日本の地方政治家。東久留米市長を務めた。 山形県出身。早稲田大学専門部政経科に通い(1940年卒業)、1939年中外商業新報記者となる。翌年青島興亜新報支局長兼論説委員となる。戦後、東京タイムズに入り、社会部次長を経て、総理府公職訴願審査委員会事務局に勤める。その後、東京都久留米町議会(現・東久留米市議会)議員に当選。市制施行後に副議長に就任した。 1978年10月10日、東久留米市長の石塚政寿が汚職事件の責任をとり辞職。石塚の辞職に伴い11月26日に行われた市長選に社会党・共産党の推薦を得て立候補。
鳩山 威一郎(はとやま いいちろう、1918年〈大正7年〉1… 鳩山 威一郎(はとやま いいちろう、1918年〈大正7年〉11月11日 - 1993年〈平成5年〉12月19日)は、日本の政治家、大蔵官僚。正三位勲一等。 第52・53・54代内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の長男。祖父は第6代衆議院議長の鳩山和夫。母方の祖父は右翼団体玄洋社出身の貴族院議員寺田栄。鳩山由紀夫、鳩山邦夫は息子。井上和子は長女。指揮者の渡邉暁雄とは義兄弟に当る。 東京市小石川区(現・東京都文京区)出身。高等師範附属小(現・筑波大附属小)、旧制府立高等学校高等科文科甲類(後の旧・都立大学)を経て、1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業。高等試験行政科も1番で合格したと伝わっており、大蔵省に入省(専売局書記兼大臣官房文書課に配属)、同期に柏木雄介、加治木俊道など。
松井 栄造(まつい えいぞう、1918年(大正7年)11月1… 松井 栄造(まつい えいぞう、1918年(大正7年)11月10日 - 1943年(昭和18年)5月28日)は、昭和初期の旧制中等学校野球(現・高校野球)、大学野球の選手(投手、外野手)。左投げ左打ち。
赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 20… 赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 2012年5月18日)は、日本の精神科医。クリスチャンとして「医学と福音」をライフワークのテーマとし精神医学と神学の関係を研究した。また日本ルーテル神学大学や東京神学大学などの神学校で精神医学を講じた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1938年(昭和13年)第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1943年(昭和18年)東京大学医学部卒業。大槻外科入局、副手。医学博士。 1946年(昭和21年)、国立療養所清瀬病院外科医長。1953年(昭和28年)、東芝林間病院副院長兼外科医長。1961年(昭和36年)、浜松の社会福祉法人聖隷病院院長。1958年、シカゴ大学で「医学と宗教の関係」を研究。
村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1… 村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1989年11月20日)は、日本の政治家。自由民主党所属衆議院議員(3期)。福田派。
史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 - 2019… 史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 - 2019年9月20日)は、台湾の歴史家、台湾独立運動家。 中国国民党の弾圧を避けて日本に亡命し、『台湾人四百年史』を著した。台湾民主化後、帰国。台湾独立運動の指導者の一人で、「独立台湾会」の設立者。左目を失明している。本名は施朝暉(し・ちょうき、シー・ディアウフイ)。 1918年11月9日、日本統治時代の台北州士林にて出生。父の林済川は台湾の豊原出身で、若い頃に日本に留学して台湾文化協会の活動に関わり、また『台湾青年』の編集に携わる経験を持っていた。母は士林の富豪の施家の出身で、5人兄弟のうち史明だけが母の姓に従っている。 1937年に日本へ渡り、早稲田大学で政治学を学ぶ。
末永 隆甫(すえなが たかすけ、1918年 <大正7年> 1… 末永 隆甫(すえなが たかすけ、1918年 <大正7年> 11月8日 - 2004年 <平成16年> 1月25日)は、日本の経済学者。専門は経済学史。大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授。元神戸商科大学(現兵庫県立大学)学長。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)を経て、1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業。杉本栄一や高島善哉に師事した。同年から早川泰正とともに企画院嘱託として調査部で勤務した。1942年第54師団輜重兵部隊入隊。1946年大阪市立大学経済学部助手着任。1949年大阪市立大学経済学部助教授。1955年大阪市立大学経済学部教授。1962年大阪市立大学経済学博士。
酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8… 酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人、後にビジネスマン。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉。 徳島県阿波郡林村(現:阿波市)で、8人きょうだいの次男に生まれた。徳島県脇町中学校を経て1940年(昭和15年)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)した。同期生に豊田穣、広尾彰がいる。その後、日本海軍に入隊した。 太平洋戦争(大東亜戦争)における第一撃として、日本海軍は日本時間の1941年(昭和16年)12月8日、米領ハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊や周辺の軍事基地に対する奇襲(真珠湾攻撃)を実施。
村瀬 一三(むらせ いちぞう、1918年11月7日 - 戦死… 村瀬 一三(むらせ いちぞう、1918年11月7日 - 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手。
茅野 秀三(かやの しゅうぞう、1918年11月7日 - 没… 茅野 秀三(かやの しゅうぞう、1918年11月7日 - 没年不明)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。西日本パイレーツに在籍した茅野健一は実兄。 神奈川県で生まれ育ったが、父親の仕事の関係で台湾に移住。台北州立台北工業学校(現:国立台北科技大学)時代は、1932年夏の甲子園に出場。チームメイトに漆原進、茅野健一がいる。横浜高工、横浜金港クラブを経て、1947年に国民野球連盟の宇高レッドソックス(のちに熊谷レッドソックスに改名)に入団。夏季リーグ30試合制で打率.403の高打率をマークし、首位打者のタイトルを獲得した。 翌1948年に中日ドラゴンズに入団。4月4日の大陽ロビンスとの開幕戦(鳴海球場)に2番・中堅手で先発出場を果たした。
藤原 てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - 201… 藤原 てい(ふじわら てい、1918年11月6日 - 2016年11月15日)は、日本の作家。夫は作家の新田次郎(本名・藤原寛人)、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。エッセイストの藤原咲子は長女。孫はベーシストの村井研次郎。旧姓両角。 長野県茅野市出身。県立諏訪高等女学校(現、諏訪二葉高等学校)卒業。1939年、新田と結婚。1943年に新京の気象台に赴任する夫と共に満州に渡る。敗戦後の1945年、夫を一時残して子供3人を連れ満州より引き揚げ、1946年帰国、心臓を患い寝たきりで、精神にも変調をきたしていたらしく、しばらくして新田も帰国したが、すぐには夫と分からない状態だったという。 帰国後、遺書のつもりでその体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』はベストセラーとなった。
岡村 信夫(おかむら のぶお、1918年11月6日 - 没年… 岡村 信夫(おかむら のぶお、1918年11月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。 惟信中學校から1936年に名古屋軍へ入団。同年秋季リーグ後に退団。
大村 しげ(おおむら しげ、1918年(大正7年)11月6日… 大村 しげ(おおむら しげ、1918年(大正7年)11月6日 - 1999年(平成11年)3月18日)は、京都市祇園生まれの随筆家、京料理研究家。京都の食べ物や暮らし、お店などに関する記録の著作がある。障害、福祉のあり方をテーマにした随筆も出版している。 1918年(大正7年)11月6日、京都府京都市の祇園の仕出し料理店で長女として誕生する。仕出し料理店を営んでいた父の死後は、看板を汚さないためにも店の引継ぎを断っている。1935年(昭和10年)、京都女子専門学校(現・京都女子大学)国文科に入学、京都市中京区寺町姉小路に借家で一人暮らしを始める。以降没するまでここが本拠となった。1965年(昭和40年)に京都西陣少年ホーム(青年の家)に非常勤職員として入所。
三好 基之(みよし もとゆき、1918年(大正7年)11月6… 三好 基之(みよし もとゆき、1918年(大正7年)11月6日 - 1989年(平成元年)12月30日)は、日本の実業家。産経新聞社副社長、西友ストア社長、三島製紙社長。 政治家三好英之の長男として鳥取県米子市道笑町に生まれる。1941年東京帝国大学法学部卒。 戦後、経済同友会に勤務していた時に国策パルプ工業社長の水野成夫に認められ、1950年同社に入社。1958年総務部副部長。 1958年、水野が産経新聞社再建の社長として乗り込むと、三好もそれに従い、取締役として産経入りした。その後、常務、専務、副社長と昇進を果たす。水野が産経新聞を退陣する際、三好も行動を共にして退社する決意を固める。その機会を捉えて、西武百貨店の経営陣補強のため堤清二が水野に三好の貰い受けを打診し、水野は快諾。
清水 孝之(しみず たかゆき、1918年11月5日 - 19… 清水 孝之(しみず たかゆき、1918年11月5日 - 1994年3月1日)は、日本の国文学者。愛知県三河地方の小中高校の校歌を数多く作詞した。 1918年、愛知県岡崎市で生まれた。1936年、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を卒業。東京帝国大学文学部国文科に進み、1941年に卒業。 卒業後は、愛知第二師範学校講師に就いた。その後、安城女子専門学校(現・愛知学泉短期大学)講師。1951年、広島女子短期大学助教授となった。次いで高知女子大学助教授。1962年、学位論文『蕪村は画家か俳人か:その俳諧史的研究』を大阪大学に提出して文学博士号を取得。愛知県立芸術大学教授となり、在任中は同附属図書館長も務めた。
桜井 七之助(さくらい しちのすけ、1918年11月4日 -… 桜井 七之助(さくらい しちのすけ、1918年11月4日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、三塁手、外野手。 神奈川工業学校在籍中は、快速球とカーブを兼ね備えた好投手として知られており、1935年夏の大会の甲神静大会予選では準決勝の静岡中学戦でノーヒットノーランを達成。決勝の甲府中学戦で五味芳夫(のち金鯱)と投げ合い、4-5で惜敗して惜しくも甲子園出場は成らなかった。 翌1936年に大東京軍の結成に参加。1936年秋季シーズンでは開幕投手を務めるなど、ドロップやカーブを武器に、チームの主戦投手として活躍した。しかし、同シーズンの大東京は歴史に残る大不振で、5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)しか残せず、桜井自身も1勝10敗、防御率5.20と散々な成績に終わった(最多敗戦投手及びリーグワースト防御率〈規定投球回達成者19人中〉でもあった)。
趙 欣坡(チョ・フンパ、朝鮮語: 조흔파、1918年11月4… 趙 欣坡(チョ・フンパ、朝鮮語: 조흔파、1918年11月4日 - 1980年12月24日) は、大韓民国の小説家、放送作家。 本名は趙 鳳淳(チョ・ボンスン、조봉순)。本貫は漢陽趙氏。 日本統治時代の平安南道平壌に生まれ、1941年に専修大学法科卒業。1950年代初頭より文壇に登場した。1947年までソウル中央放送局アナウンサーを務め、そのほか京畿女子高等学校の教員、『現代女性』主幹、『国都新聞』『世界日報』『韓国経済新聞』の論説委員などを務めた。1960年公報室公報局長に異動後、国務院事務処公報局長とソウル中央放送局長などを務めた。また、1964年に発表した小説『ヤルゲ(ヤルゲ: 小憎らしい者の意)伝』で知られている。
折原 脩三(おりはら しゅうぞう、1918年11月4日 - … 折原 脩三(おりはら しゅうぞう、1918年11月4日 - 1991年2月28日)は、日本の思想や老い問題評論家。本名・伊東庫之助。 千葉県生まれ。東京商科大学(現・一橋大学)卒業。横浜正金銀行に勤務。 戦時中は陸軍二等兵として中国で従軍。 戦後、東京銀行に勤務するかたわら、評論活動を行っていたが、1973年に退職。 退職後は思想の科学研究会会長をつとめた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2… 立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2017年2月)は、日本の彫刻家。 長野県諏訪市出身。宮大工立川和四郎の末裔で、父は立川義清。彫刻師だった祖母や父の影響で彫刻家を志す。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科卒業。藤井浩佑に師事。日展や日彫展を中心に数多くの作品を発表した。1978年第一回日展会員賞受賞。日展審査員、日展評議員、日展参与などを務めた。東京都荒川区西日暮里に在住し、アトリエを構えていた(藤井浩佑の屋敷跡)。
小西 俊造(こにし しゅんぞう、1918年11月3日 - 2… 小西 俊造(こにし しゅんぞう、1918年11月3日 - 2012年10月27日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第6代目学長。医学博士(1950年、京都大学にて取得)。 兵庫県出身。1942年9月に京都大学医学部卒業。1950年「麻疹予防に関する研究」で同大学にて医学博士。1963年10月、山口県立医科大学教授に就任。1969年4月山口大学医学部附属病院長、1978年3月同大学学長となる。1984年2月同大学任期満了にて退官。同大学名誉教授となる。2012年10月、故郷の相生市にて多臓器不全のため93歳にて他界。
飯田 毅(いいだ たけし、1918年<大正7年>11月2日 … 飯田 毅(いいだ たけし、1918年<大正7年>11月2日 - 1989年<平成元年>12月6日)は、昭和時代の政治家。千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷町第2代町長、鎌ケ谷市初代市長。位階は従五位。 1918年11月2日、千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷村(現:鎌ケ谷市)中沢に飯田粲・いゐ夫妻の長男として生まれる。旧制東葛飾中学校卒業後、盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に進学し1939年(昭和14年)に卒業。1947年(昭和22年)4月、鎌ヶ谷村議会議員に就任し、以後鎌ヶ谷町議会議員・社会教育委員を務めた。 1967年(昭和42年)5月、鎌ヶ谷町長に初当選した。その後市制施行による初代市長就任を経て1983年(昭和58年)4月まで連続4期16年間にわたり首長を務めた。
佐々木 崑(ささき こん、1918年11月2日 - 2009… 佐々木 崑(ささき こん、1918年11月2日 - 2009年3月27日)は、日本の写真家。兵庫県神戸市出身。本名、幸一。 昆虫や小動物、花などのネイチャーフォトの草分け的存在。誕生や羽化の瞬間を撮り続け、「小さい生命」としてアサヒカメラ誌に23年間256回連載した。また、昭和を代表する写真家、木村伊兵衛の数少ない弟子の一人である。 1918年、中国・青島に生まれる。幼少期に神戸に移る。小学6年生の時、トーゴーカメラを購入し、写真の魅力を知る。同じ頃、セスナの遊覧飛行を体験し、飛行機の魅力にも惹かれた。 1936年、神戸村野工業学校(現 神戸村野工業高等学校)卒業後に上京、日本理科工業(現 大陽日酸)にて設計に従事する。
小野 義一郎(おの ぎいちろう、1918年〈大正7年〉11月… 小野 義一郎(おの ぎいちろう、1918年〈大正7年〉11月2日 - 2007年〈平成19年〉11月4日)は、日本の実業家、工学者、陸軍軍人。工学博士(京都大学・1970年)。小野測器創業者。 1918年、日本統治下の朝鮮半島平安北道新義州(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)に生まれる。旅順工科大学予科、旅順工科大学電気工学科卒業。1942年4月、陸軍兵技中尉任官。最終階級陸軍技術大尉で終戦を迎える。 戦後、1954年、小野測器製作所を設立。1957年、会社を株式会社に改組し社長に就任。1970年11月24日、京都大学工学博士(論文博士、機械工学科)。1983年、「微小角変位のディジタル変換とそのトルク計への応用」で、計測自動制御学会技術賞を受賞。
斎藤 公正(さいとう こうせい、1918年11月1日 - 1… 斎藤 公正(さいとう こうせい、1918年11月1日 - 1974年2月15日)は、池上通信機創業者。神奈川県出身。 慶應義塾大学経済学部卒業後、大日本帝国海軍主計科に入り、海軍経理学校でも学んだ。横須賀鎮守府、大湊海軍航空隊、滋賀海軍航空隊で主計長を務め、終戦時は主計少佐であった。 1946年、池上通信機材製作所(現・池上通信機)を設立。一代で一流メーカーに育て上げた。 1974年2月15日、神奈川県藤沢市の江の島ヨットハーバー前の駐車場を乗用車で二・三周した後、料金所脇から猛スピードで岸壁に衝突し、死亡した。労働組合の問題で悩んでおり、自殺ではないかとされている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
信州山 由金(しんしゅうざん よしかね、1918年11月1日… 信州山 由金(しんしゅうざん よしかね、1918年11月1日 - 1976年8月20日)は、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の同県諏訪市岡村)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は河西 由金(かわにし よしかね)。 現役当時の体格は179cm、92kgと、当時としては肩幅も広くがっしりとした体型であった。右を差しての思い切った攻め、頭を付ける堅実さを持ち合わせた取り口。 18歳の時に角界入りし、1937年5月場所で初土俵。1938年5月、19歳で序ノ口に付き、故郷の長野県諏訪郡に由来する「諏訪昇」を四股名とした。 その後、1942年5月場所より、郷里・長野県の旧称(信濃・信州)に因んだ「信州山」に改名。
丘美 丈二郎(おかみ じょうじろう、1918年〈大正7年〉1… 丘美 丈二郎(おかみ じょうじろう、1918年〈大正7年〉10月31日 - 2003年〈平成15年〉12月11日)は、日本の探偵小説作家、SF作家。『地球防衛軍』など東宝の特撮映画の原作者としても知られる。本職は航空自衛隊および民間航空会社のテストパイロット。 大阪府出身。本名は兼弘 正厚。 ペンネームは、俳優の岡譲司に似ていると言われたことと、海野十三を愛好していたことから、海野のペンネームの一つである丘 丘十郎と岡の名をもじったものである。旧表記は丘見丈二郎。書籍『東宝特撮映画全史』では昭和30年代に現在の筆名に改名したと記述していたが、丘美自身は「丘見」表記は誤字であるとしている。資料によっては、名前の読みを「たけじろう」と誤記しているものもあった。
多和 健雄(たわ たけお、1918年10月29日 - 200… 多和 健雄(たわ たけお、1918年10月29日 - 2007年6月)は、愛媛県出身の教育者、体育学者、サッカー選手、サッカー指導者。 選手として旧制兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校でプレーして、中央大学法学部を卒業した。 大学卒業後は、都立高校体育科教諭として東京都立大泉高等学校などに勤めた。その後、東京教育大学講師となり、1954年には蹴球部監督として関東大学サッカーリーグ戦1部で優勝した。後に教授に昇格し、大学の改編に伴い、筑波大学教授となる。筑波大学退職後は、青山学院大学で教鞭を執った。 主にサッカーの普及・研究において顕著な業績を残した。日本サッカー協会理事・普及指導部長、日本ミニサッカー連盟会長、FIFAコーチングスクール校長、日本幼少児健康教育学会名誉会員などを歴任した。
山田 實(やまだ みのる、1918年10月29日 - 201… 山田 實(やまだ みのる、1918年10月29日 - 2017年5月27日)は、日本の写真家。1977年、沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞。2000年、沖縄県文化功労者として表彰。兄は、詩人の山田有勝。 沖縄県那覇市東町出身。那覇市で育ち、戦前から沖縄の写真を撮りはじめる。 二・二六事件の直後に明治大学専門部商科進学のため上京。明治大学新聞高等研究科二部卒業後、日産土木株式会社に入社。その後勤務地であった満州で召集。ソ連軍との交戦中に沖縄壊滅の知らせをきく。 敗戦後シベリアに抑留され、飢えと過酷な労働に2年間耐えた後、生還。東京での養生を経た1952年、まもなく那覇市に「山田写真機店」を開業。経営の傍ら、沖縄を写真で記録し続ける。
遠山 景久(とおやま かげひさ、1918年〈大正7年〉10月… 遠山 景久(とおやま かげひさ、1918年〈大正7年〉10月28日 - 1999年〈平成11年〉7月13日)は、日本の実業家。アール・エフ・ラジオ日本(以下「RF」)の社長、会長を務めた。妻は遠山佐和子で、一時期は遠山夫妻でRFの半分以上の株式を持っていた。佐和子との間には子供がいるが、詳細は明らかにされていない。 東京府東京市神田区神田(現:東京都千代田区神田)出身。「遠山の金さん」こと江戸化政の町奉行・遠山景元の末裔にあたる。 幼少の頃、「京浜実業新聞」を運営し借財を抱えていた父と死別し、日本統治時代の台湾で判事を務めていた長兄・遠山景一の下で台北で育つ。一家の帰国で、台北一中から府立四中に転校。
町田 直(まちだ なおし 1918年10月28日-2003年… 町田 直(まちだ なおし 1918年10月28日-2003年7月2日)は日本の運輸官僚。運輸事務次官・新東京国際空港公団副総裁・日本航空副社長・日本貨物鉄道会長・日本気象協会会長等を歴任した。 新東京国際空港公団副総裁として成田空港開港に取り組んだ後、日本航空に招聘され、いずれは社長になると目されていた。しかし、1985年に発生した日本航空123便墜落事故の際、犠牲者の葬儀の席で扇子を使っているところを否定的に報道され、退職を余儀なくされた。元々汗かきであった町田にとっては自然な行動であったが、辞任した後も弁解はしなかったという。 妻は水田三喜男の妹。幼少の頃から俳句を嗜み、句集『華卯木』を刊行した。
中道昌喜(なかみち まさよし、1918年10月27日 - 2… 中道昌喜(なかみち まさよし、1918年10月27日 - 2007年1月15日)は、日本の実業家。中道機械株式会社および中道リース株式会社の創業者。 北海道函館市出身。後に北海道夕張市に移住し、幼少期を夕張で過ごした。夕張市立夕張第二小学校卒業。北海中学校を卒業する。 1945年機械販売と製作の中道兄弟商店を札幌に設立する。1950年1月19日株式会社に改組し、社名を中道兄弟機械株式会社と改称する。さらに、1963年1月社名を中道機械株式会社と改称。同社代表取締役社長。1963年札幌証券取引所に上場。1972年1月中道リース株式会社を設立し、リース部門に進出。同社代表取締役社長に就任。1985年中道リース代表取締役会長に就任。
鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月… 鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月26日 - 2000年〈平成12年〉8月14日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第66期)。第10代海上幕僚長、第9代統合幕僚会議議長。 鹿児島県川辺郡東加世田村(のち万世町、加世田市、現南さつま市)出身。旧制第一鹿児島中学四年修了後、海軍兵学校に入校。海軍時代は艦攻のパイロットであり、飛行学生を首席で卒業。開戦から約7ヶ月は空母「龍驤」に乗組み、ダッチハーバー空襲等の作戦に参加。しかし、その後は陸上勤務で、海軍航空技術廠ではテストパイロットとして水平爆撃用の照準器や反跳爆弾の研究を続け、最後は陸上攻撃機「連山」の開発にも加わった。
江川泰一郎(えがわ たいいちろう、1918年10月26日-2… 江川泰一郎(えがわ たいいちろう、1918年10月26日-2006年6月3日)は、日本の英語学者。 東京生まれ。1941年東京文理科大学英語英文科卒。小樽中学校教諭、1942年兵役、1947年復員、東京第一師範学校教官、1950年-1951年コロンビア大学大学院修士課程修了、1951年東京学芸大学助教授、1967年教授、1982年定年退官、名誉教授、日本大学教授、1988年定年退職。1992年春、勲三等旭日中綬章受勲。『英文法解説』など、大学受験の参考書としてよく用いられた。
高木 盛久(たかぎ もりひさ、1918年10月25日 - 2… 高木 盛久(たかぎ もりひさ、1918年10月25日 - 2000年8月12日)は、日本テレビ放送網最高顧問。兵庫県神戸市出身。陸軍少尉。趣味、特技はゴルフと読書。
皆川 盤水(みなかわ ばんすい、1918年10月25日 - … 皆川 盤水(みなかわ ばんすい、1918年10月25日 - 2010年8月29日)は、福島県出身の俳人。本名・正巳。 磐城(現いわき市)生。日本大学法学部卒。少年時代に兄・二樓、叔父・山田孤舟の影響で俳句をはじめる。戦後、「かびれ」同人を経て、1958年に「風」同人。1966年、「春耕」創刊・主宰。同誌では棚山波朗、山田春生、伊藤伊那男らを育てた。1993年、句集『寒靄』により第33回俳人協会賞受賞。 代表句に「月山に速力のある雲の峰」などがある。みちのくの風土に即した明るく男性的な句風で、「風」参加以後は即物具象に徹した。また歌人・斎藤茂吉に造詣が深くその影響も受けている。2008年、「春耕」名誉主宰に就任。
横地 千仭(よこち ちひろ、1918年〈大正7年〉10月25… 横地 千仭(よこち ちひろ、1918年〈大正7年〉10月25日 - 2024年〈令和6年〉8月4日)は、日本の解剖学者、医学博士。神奈川歯科大学名誉教授。『解剖学アトラス』の編著者として知られ、著作は世界23カ国語に翻訳され販売された。晩年は解剖学と芸術を融合させた「アナトミーアート」の提唱者としても活動した。 1918年、群馬県出身。1942年、日本医科大学卒業。1965年、神奈川歯科大学教授となる。1984年、同大学名誉教授に就任。2024年、死去。105歳歿。死後生前の意向により神奈川歯科大学に献体する。
正力 亨(しょうりき とおる、1918年(大正7年)10月2… 正力 亨(しょうりき とおる、1918年(大正7年)10月24日 - 2011年(平成23年)8月15日)は、日本の実業家。読売新聞グループ本社社主、読売ジャイアンツオーナーなどを務めた。実父の正力松太郎の別称である大正力(だいしょうりき)に対比して、小正力と呼ばれる。 正力松太郎の長男として、東京府で生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1942年に慶應義塾大学経済学部卒業。普通部では野球部で投手兼4番を務め、大学では、1年間選手を経験した後、マネージャーに転向している。 1944年10月、海軍主計大尉だった亨が乗り込んだ旗艦「南海」は、インドネシア・ボルネオ島沖のマカッサル海峡で敵潜水艦の魚雷により撃沈され、亨は重油の海を10時間漂う体験をもつことになった。
岡部 実(おかべ みのる、1918年10月23日 - 201… 岡部 実(おかべ みのる、1918年10月23日 - 2011年6月15日)は、日本の経営者。日本原子力発電社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に日本発送電に入社した。1951年6月に東京電力に転じ、1975年5月に取締役に就任し、1977年6月に常務を経て、1981年6月に日本原子力発電社長に就任。1992年6月に会長、1995年6月に取締役相談役、1997年6月に常任相談役を経て、2001年6月に顧問に就任。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1993年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2011年6月15日、脳梗塞のために死去。92歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
後藤 基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 - 19… 後藤 基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 - 1983年4月5日)は日本のジャーナリスト、朝日新聞社常務取締役。 大分県北海部郡佐賀関町生まれ。第三高等学校を経て1941年12月東京帝国大学法学部政治学科卒業、1942年1月朝日新聞社入社、翌2月陸軍東部第62部隊入営。主計少尉として中国湖北省で終戦を迎える(ポツダム宣言受諾後に主計中尉)。1946年2月に朝日新聞社に復職。同年6月東京本社政経部員、1950年1月政治部員、1956年10月アメリカ総局員、1958年2月再び政治部、1960年1月政治部次長、1963年2月ロンドン支局長、1966年6月論説委員、1967年1月論説副主幹、1969年12月東京本社編集局長、1973年9月取締役・大阪本社代表、1974年6月常務取締役、1978年12月総合企画室担当(東京本社)、1981年4月東京本社代表となり、在職中に脳出血のため死去。
安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1… 安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。
真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18… 真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1981年〈昭和56年〉1月10日)は、日本の法制官僚、裁判官、弁護士。内閣法制局長官。 福井市出身。弁護士・真田一夫、政乃夫妻の七男として生まれた。福井県立福井中学校、第三高等学校を卒業。大学在学中に高等試験司法科試験に合格。京都帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)1月、司法官試補となり東京地方裁判所判事に任官。召集され陸軍の戦車隊に配属されたが、海軍短期現役士官を志願し海軍法務官に転じ、終戦時は海軍法務中尉であった。 戦後、裁判官に復帰したが、1947年(昭和22年)法制局に転じ参事官となり、第二部長、第一部長、内閣法制次長などを歴任。