堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(185… 堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(1858年6月10日) - 大正4年(1915年)12月20日)は、日本の衆議院議員(進歩党→憲政党→憲政本党)。農商務官僚。 信濃国埴科郡松代(現在の長野県長野市)出身。開拓使学校を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部採鉱冶金学科を卒業。1882年(明治15年)、三菱会社に入り、1896年(明治29年)に退社するまで鉱山長、支配人を務めた。1897年(明治30年)、農商務省に入って鉱山技監となり、足尾鉱毒事件に対する予防工事の設計・監督を担当した。その後、製鉄所長官心得、鉱山局長心得を歴任した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙(東京府第10区)で当選。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4月25日) - 1909年(明治42年)6月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(6期)。醤油醸造家、実業家。諱・尚正。 三河国宝飯郡前芝村(現・愛知県豊橋市前芝町)で、豪商にして代々郷士の加藤家当主・加藤六蔵正文の長男として生まれる。豊橋で漢籍を修めた後、1875年(明治8年)東京に出て慶應義塾に学び、愛知県第二中学校、宝飯郡教育会議長、尾三農工銀行、宝飯銀行各取締役、豊橋米麦取引所理事長、豊橋商業会議所会頭、ほか鉄道等の設立に関わる。 政治面では宝飯郡連合村会議員、同郡会議員、同郡農会長、所得税調査委員、愛知県会議員を経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙において愛知県第10区から大成会で立候補して当選する。
宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政… 宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政5年4月20日) - 1896年(明治29年)12月23日)は、明治時代の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 薩摩国伊佐郡宮之城郷(鹿児島県南伊佐郡宮之城村、薩摩郡宮之城町を経て現さつま町)に生まれる。藩校ついで私学校で学び、西南戦争への従軍を経て上京し、中村敬宇の門に入って英学を修める。盈進館にて教鞭を執ったのち、上海亜細亜学館教頭兼学生監、埼玉県発陽学舎教授、第一高等中学校、東京英語学校、官立農林学校予備校各教授などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第4区から出馬し、当選。弥生倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた。
西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安… 西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日)は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった。
秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年… 秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年4月18日) - 1934年(昭和9年)2月20日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。總持寺貫首、曹洞宗管長。別号・大忍。黙照円通禅師。 1858年(安政5年)、遠江国相良(現・静岡県牧之原市)に秋野新七の三男として生まれる。静岡・長興寺で出家し、1872年(明治5年)伊藤慶道について得度。曹洞宗大学専門本校(のち駒澤大学)卒業。 1880年兄弟子の加藤玄裔に嗣法。西有穆山に師事し「正法眼蔵」を研究。總持寺、天徳寺、大洞院を経て、1892年(明治25年)曹洞宗大学林学監、1900年教頭、1902年総監となる。
玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安… 玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安政5年4月17日) - 1915年(大正4年)6月27日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。 大和国添上郡奈良町(現・奈良県奈良市)生まれ。弁護士試験に合格し、その業務に従事する。奈良市会議員、同参事会員、同議長、奈良県会議員、宅地貸借価格調査委員、大阪電気軌道(株)取締役となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において奈良1区から自由党所属で立候補するが次点で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で独立倶楽部から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して落選した。
須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4… 須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4月15日)- 1925年(大正14年)12月11日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡嶺村(群馬県碓氷郡嶺村、原市町大字嶺村、安中町を経て現安中市嶺)で、名主、養蚕・蚕種農家、須藤仲造、たに の長男として生まれた。安中藩士・池田豊與知重に師事して漢籍を修めた。1889年(明治22年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)の在外生として法律学を研究した。同年9月、家督を相続。農業、製糸業を営んだ。 嶺村副戸長、碓氷郡書記、群馬県収税属を歴任。原市町会議員を務め、1892年(明治25年)3月、群馬県会議員に選出され連続4期在任し、同常置委員、同副議長、同参事会員も務めた。
大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月… 大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月11日〉- 1932年〈昭和7年〉5月22日)は、日本の看護師である。 下野の黒羽藩の国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる。明治維新後、父は辞職し帰農を試みるがかなわず、一家あげて東京へ移り住み、そこで和は成長する。年頃を迎えると国元から縁談話が舞い込むようになり、1876年(明治9年)、和が19歳のとき、黒羽藩の次席家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進(豊綱)と結婚し、やがて一男一女をもうけた。しかし、福之進と妾()の関係が清算されなかったことから離婚にいたって東京の実家へ戻る(上京は1881年〈明治14年〉のこと)。
渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(… 渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(安政5年4月8日) - 1939年5月24日)は、日本の司法官、政治家。貴族院議員。旧佐倉藩士。
荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政… 荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政5年4月8日)- 1911年(明治44年)5月9日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国鹿島郡大船津村(茨城県鹿島郡豊津村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の糟谷清兵衛の次男として生まれ、のち同郡中野村大字荒野(大野村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の荒野清右衛門の養子となる。農業を営んだ。 1898年(明治31年)茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月5日から1899年(明治32年)1月12日まで在任。同年4月18日、補欠選挙で互選され、1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政… 神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政5年4月7日) - 没年不明)は、日本の実業家。志賀銀行頭取。北佐久肥料社長。佐久鉄道取締役。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡志賀村(現・長野県佐久市志賀)出身。神津重三郎の長男。1883年、家督を相続する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡志賀村。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年… 中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年3月29日) - 1943年(昭和18年)10月12日)は、明治から大正時代の日本の応用化学者。帝国学士院会員。工学博士。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長を務めた。大学教授のほか、官庁の役職や民間企業の顧問も務め、官民学で黎明期の日本の無機化学工業(主に酸・アルカリ工業やガラス工業)を指導し、発展に寄与した。また、日本の近代窯業の育ての親であるワグネルのもとで陶芸の染料研究に従事したほか、自らも趣味で日本画を描き美術展の審査員を務めるなど、化学者である一方美術工芸にも深い関わりを持ち、日本の美術工芸の近代化・発展に功績を残した。
高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3… 高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3月25日)- 1934年(昭和9年)5月14日)は、明治から昭和初期の日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡、のちの愛媛県越智郡近見村を経て現今治市)で、農業・高須吉一郎の四男として生れた。農業を手伝い、漢学塾で学ぶ。1878年(明治11年)大阪の難波学舎で学び、1879年(明治12年)慶應義塾に転じ政治学、経済学を修め、1882(明治15年)に帰郷。代言人(弁護士)となった。 1883年(明治16年)愛媛県会議員の越智郡選出議員の欠員により繰上当選し、以後、連続3期在任した。当初、代言人の藤野政高と親交を持ったが、藤野らが松山士族中心の党派形成を行ったことに反発し、小林信近、井上要らと改進党の組織を設け、井上とは共同法律事務所を設置するなど、終生親交を保った。
北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5… 北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5年3月23日) - 1929年(昭和4年)4月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。号は廓堂。 旧制山口高等学校、旧制第四高等学校、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任した。 1858年(安政5年)、加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)で金沢藩士の次男として生まれた。幼名は粂次郎(くめじろう)。生家は鎌倉北条氏の末裔を称した。金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を学び、県から将来を嘱望されて、給付生として東京へ留学を命じられた。東京帝国大学理学部数学科に入学して学び、1885年(明治18年)に卒業。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858… 楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858年4月28日〈安政5年3月15日〉- 1927年〈昭和2年〉10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。 土佐国土佐郡高知城下南奉公人町(現:高知県高知市)で、土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。 1894年(明治27年)11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年(明治28年)10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年(明治29年)1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年… 鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年3月12日) - 1939年(昭和14年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。関西法律学校創立者。 日光(現栃木県日光市)に生まれる。1876年(明治9年)県の貢進によって司法省法学校に入学し、1884年(明治17年)同校卒業と同時に司法省御用掛を拝命する。1886年(明治19年)大阪始審裁判所判事補となり、同年6月、判事に、1890年(明治23年)には部長判事に進む。1895年(明治28年)長崎控訴院判事に転じるまで在阪する。この間、関西法律学校創立に関与し初代学監としてフランス民法を講じた。1899年(明治32年)大審院判事となり、1922年(大正11年)まで務めた。
後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4… 後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4月19日) - 昭和4年(1929年)3月6日)は播磨国(兵庫県)生まれの実業家。後藤毛織製造所(後に東京毛織)の創立者であり、明治から昭和初期にかけて活躍した。 播磨国揖東郡網干村(現・兵庫県姫路市)生まれ。明治8年(1875年)に清国公使として赴任した森有礼に随行し、北京で毛織染色法を学んだ。日本に帰国後、明治12年(1879年)本郷で小工場を設立しなめし革、毛糸紡績を行ったがこれは失敗し、じゅうたんなどの製造を始めた。明治13年(1880年)芝区白金台(現東京都港区)に民間としては日本初の毛織物工場である後藤毛織製造所を設立、明治25年(1892年)には大井町(現品川区)にも工場を進出させて生産基盤を強化し、日清戦争、日露戦争期には業績を躍進させた。
渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3… 渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3月5日) - 1938年(昭和13年)10月26日)は、日本の慈善家・女性活動家。名前は多満、玉子あるいは多満子とも。明治後期 - 昭和初期の横浜市において、多くの慈善事業団体の立ち上げや運営に関わった。正六位。 現在の群馬県碓氷郡松井田(現安中市)に、回送業を営む大河原太右衛門の次女として生まれる。大河原家は地元の名家であり、代々総社の神官を務めていた。 父太右衛門の兄新次郎は江戸の海産物商明石屋七代目渡辺治衛門に見込まれ、渡辺家の入り婿となり、八代目を襲名していた。太右衛門も明石屋との関係を深め、7代目明石屋治右衛門とともに開港にともなって、主に石炭を商うために出店した横浜の明石屋(明石屋平蔵商店、後に石福商店)の経営に当たった。
鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(… 鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(安政5年3月3日) - 1931年3月8日)は、明治時代の政治家。福島町(現福島市)町長、名誉市長、福島県会議員、衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。私財を投じて水道敷設事業や明治14年の福島大火(約1800戸焼失)の復興、福島市の駅前開発などに尽力した。また、福島県庁を郡山市に移転させるという動きがあった際には、福島市の代表として上京し陳情、移転を阻止した。再三の衆議院議員立候補要請を断り続け、晩年は廃寺を買い取って隠居。馬巌(ばがん)という俳号を持ち、風流に興じる一面も持っていた。 鐸木三郎兵衛は安政5年3月3日(1858年4月16日)、宮城県刈田郡白石本郷桜小路(現白石市)の金谷武功の次男・金谷正足として生まれた。
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月2… 森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月21日〉 - 1894年〈明治27年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧3期。 上原勇作元帥・楠瀬幸彦中将と共に、「陸士旧3期の三羽烏」と呼ばれた秀才であったが、留学先のイタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 会津藩士・森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事である松平容大の嘉賞を受けた。柴五郎(のち陸軍大将)と共に青森県庁の給仕となり、上京する機会をうかがっていた。上京を果たした森は、陸軍幼年学校生徒に合格した。1879年(明治12年)に陸軍砲兵少尉に任官し、翌年に陸士旧3期を卒業。
西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2… 西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2月17日)- 1903年(明治36年)3月30日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 肥前国彼杵郡矢上村(長崎県東彼杵郡矢上村、東長崎町を経て現長崎市)で牟田逸馬の二男として生まれる。1877年(明治10年)西村或之助の養子となる。漢籍を修めた。1877年(明治10年)長崎英語学校普通科を卒業。その後上京して、津田仙の学農社で学び、1880年(明治13年)に卒業した。1886年(明治19年)1月、家督を相続。農業、酒造業を営む。西村製糸場を経営し、諫早銀行頭取、矢上教育銀行監査役、大成社取締役なども務めた。
湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年… 湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治から昭和戦中期にかけての聖書学者・図書館学者・詩人。雅号の半月(はんげつ)で知られる。兄は衆議院議員を務めた湯浅治郎。同志社大学、国際基督教大学の総長を務めた湯浅八郎は甥(治郎の子)に当たる。 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて、味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の四男として生まれる。明治5年(1872年)、家業を継いだ兄・治郎が作った私立図書館「便覧舎」の設置を手伝い、後に同郷の新島襄の影響を受けて兄とともにキリスト教の洗礼を受けた。1877年(明治10年)に新島が京都に創設した同志社英学校に入学し、1885年(明治18年)に同校普通科ならびに神学科を卒業する。
和井内 貞行(わいない さだゆき、安政5年2月15日(185… 和井内 貞行(わいない さだゆき、安政5年2月15日(1858年3月29日) - 大正11年(1922年)5月16日)は、秋田県十和田湖開発の先駆者である。幼名は吉弥。 1858年、南部藩領陸奥国鹿角郡毛馬内村(現:秋田県鹿角市)に生まれた。和井内家は、南部藩重臣で毛馬内陣屋(柏崎新城)城代桜庭氏の筆頭家老職を代々務めていた。1866年、儒学者の泉沢恭助(修斉)の私塾に通った。1874年、毛馬内学校(現:鹿角市立十和田小学校)に助教員として採用され、1881年、工部省小坂鉱山寮に吏員として採用されて小坂鉱山に赴任する。1884年、十和田湖にはじめて鯉600尾を放流する。十和田湖への魚類放流は、貞行が6人目で、鯉の放流も3人目だった。
新関 善八(にいぜき ぜんぱち、1858年3月26日〈安政5… 新関 善八(にいぜき ぜんぱち、1858年3月26日〈安政5年2月12日〉 - 没年不明)は、明治時代の政治家。山形県山形市長(第5代)。 先代新関善八の長男としてのちの山形県山形市肴町に生まれ、高等商業学校(現一橋大学)に進学した。肴町出身の後輩に会計学者の鹿野清次郎がいた。山形県多額納税者に列し、山形商業会議所特別議員を務めた。ほか、山形市農会議員、山形県会議員、山形商業銀行監査役、山形市参事会員を歴任した。1906年(明治39年)12月、山形市長に就任。前市長の菱田義民に懲りた市会が土着のものからという基準で最適任者として市長の座に就いたが、誠実一点張りで市政の舵取りに不慣れなうえ、助役の木口市之助が事務の人でなかったため、助役二名説が議論された。
杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25… 杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25日 - 1936年)は、日本の教育者。 柳河藩納戸役杉森憲正の長男として、柳川奥州町に生まれる。妹のシカは杉森女紅会(現・福岡キャリアi高等学校)の創立者、日本郵船社長を務めた白仁武は従兄弟。 1874年熊本洋学校に入学、在学中はL.L.ジェーンズから英語を学んでいる。1877年柳河師範学校を経て、1884年東京一致英和学校(後の明治学院)高等普通学科を卒業し、英和予備校英文解釈教員となる。 1885年明治学院助教授、1890年同教授となり、1894年福岡県立尋常中学修猷館教諭、1896年茨城県尋常中学校教諭、1897年山口高等学校教授、1898年第四高等学校教授を経て、1902年新設された広島高等師範学校教授に就任。
小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政… 小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政5年2月8日) - 1936年(昭和11年)2月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県遠敷郡松永村長。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の長男として生まれた。1894年(明治27年)家督を相続した。漢学、算術を修めた。 1876年(明治9年)敦賀県属となり地租改正を担当し、滋賀県でも担って1881年(明治14年)に退官。若狭国敦賀郡人民総代となり復県の誓願を行う。福井県属となり勧業事務を担当し、養蚕、製糸、羽二重製造を奨励した。1890年(明治23年)農商務省に転じて大日本蚕糸会の設立に尽力し、同会幹事を務め、1894年(明治27年)に退官した。
友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7… 友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7日(1858年3月21日)- 大正14年(1925年)10月26日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、親和中学校・親和女子高等学校の基礎を築いた。摂津国八部郡東須磨村(現在の兵庫県神戸市須磨区)出身。 代々庄屋をつとめる大地主の豪農の家に生まれる。祖父甚左衛門は和漢の学に通じ、俳諧にも造詣が深かった。 8歳ごろから7歳年上の姉いわと一緒に村内の儒者であり医師でもある小松春徳の私塾に通った。祖父の影響を受けたのか晴子は学問好きになり、男子と一緒に実語教・童子教などの教科書をスラスラと読み上げたと伝えられている。
池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日(安政… 池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日(安政5年2月7日) - 1934年5月17日)は、能楽研究家。 伊予国松山(現・愛媛県松山市)で、松山藩の剣術監である池内信夫(荘四郎政忠)、リウ夫妻の3男として松山城下の長町新丁(現、港町4丁目)に生まれる。幼名、嘉源次、後に号を如水・如翠とした。6男の清は後年高浜家を継いだ(俳号虚子)。松山は能が盛んな所だった。 1869年(明治2年)旧浩久松家の東京移住に付き、献能の催しがあり、初めて能楽「安宅」の判官と 「皇帝」の子方を勤めた。能楽に足を踏み入れた発端であるという。 1874年(明治7年)秋、家禄奉還に伴い、父に従い、風早郡別府村大学柳原の町外れ字西の下に郷居し農業に従事する。
相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2… 相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月18日)は、日本の医師。宮中顧問官。 東京府出身。小柴家に生まれ、相磯格堂の養子となった。のち格堂の娘・正子と結婚。1882年(明治15年)、東京大学医学部を卒業し、岐阜県立医学校長・附属病院長ののち、ドイツに留学。1888年(明治21年)に侍医となった。専門は産婦人科。1924年(大正13年)に侍医を辞し、宮中顧問官に就任した。 食品微生物学者の相磯和嘉、永井荷風の側近の相磯凌霜は、義理の甥に当たる。
富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(185… 富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(1858年3月19日) - 大正13年(1924年)10月23日)は、日本の茶人、政治家。余子村長(初代)、余子村会議員。 竹内村(のち鳥取県境港市竹内町)出身。父喜七郎は醤油醸造をはじめ手広く事業をやっており、元治元年(1864年)の外江大火には醤油を見舞ったという。また村役人を務めた記録もある。 千太郎は初代村長として余子尋常小学校を開校し、明治23年(1890年)竹内村津山長四郎宅に役場を移転した。 いつのころか家業に失敗し、その後は煮干鰮製造や養鶏等を手掛けた。 またお茶やお花の宗匠でもあり、この道を海外で広めようと渡米したが、時期尚早で目的成らず帰国した。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
山口 定省(やまくち さだみ、やまぐち ていせい、1858年… 山口 定省(やまくち さだみ、やまぐち ていせい、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1926年(大正15年)1月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 若狭国遠敷郡和久里村(のち福井県遠敷郡今富村、現・小浜市)に小浜藩士山口甚太夫の子に生まれる。農業を営み、学務委員、和久里村戸長、今富村長、福井県会議員、同参事会員、遠敷郡会議員、同参事会員、福井農工銀行取締役、若越新聞社長となる。また、朝鮮で貿易業に従事する。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において福井4区から憲政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1926年に死去した。
肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月… 肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月3日) - 1924年(大正13年)8月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。曽於郡志布志郷の後の東志布志村(志布志町を経て現志布志市の一部)に生まれる。薩摩藩藩校造士館に学ぶ。囎唹郡東志布志村長、鹿児島県会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1924年に死去した。
折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年… 折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年1月26日) - 1923年(大正12年)6月5日)は、明治から大正期の政治家・実業家。衆議院議員(4期)。 薩摩国給黎郡知覧郷(鹿児島県給黎郡知覧村、川辺郡知覧村、知覧町を経て現南九州市)で、神職・折田丹江の長男として生まれた。1882年(明治15年)2月、家督を相続する。私学校に学ぶ。和漢学、英学を修めた。1882年(明治15年)熊本に九州進歩党を創立した。ほか、学務委員、徴兵参事員、衛生会委員、県教育会副会長などを歴任した。 1883年(明治16年)7月、鹿児島県会議員に選出され、1887年(明治20年)6月、県会副議長、1888年(明治21年)3月、第6代県会議長に就任し、同常置委員も務めた。
池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10… 池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1926年(大正15年)4月13日)は、明治から大正時代の医師。宮中顧問官。旧姓は渡邊。子孫に香川京子と池辺晋一郎がいる。 渡邊建節の二男として豊後国(現大分県)に生まれ、1888年(明治21年)5月、池辺田村の養嗣子となり家督を相続する。1871年(明治4年)加藤賢成の門に入り漢学を修め、1873年(明治6年)大分町英学校、豊前中津において英語を研鑽したのち上京しドイツ人・ヒュルゲルマイステルに従いドイツ語を修めた。同年9月、東京外国語学校に進んだのち、翌年3月、帝国大学医学部に入り、1886年(明治19年)10月に卒業し、医学士の称号を得た。
御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政… 御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日) は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。 志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年… 田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日)は、日本の教育者。 美作国勝山(岡山県真庭市)出身。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した。 長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる。
乾 亀松(いぬい かめまつ、1858年3月7日〈安政5年1月… 乾 亀松(いぬい かめまつ、1858年3月7日〈安政5年1月22日〉 - 1925年〈大正14年〉12月23日)は、日本の政治家(衆議院議員、大阪府郡部選出、当選1回、立憲政友会)、篤農家。 河内国高安郡恩智村(大阪府中河内郡南高安村大字恩智、高安村を経て現八尾市)出身。喜一の長男。18歳の時に父が病没し、家督を相続する。 恩智村総代役、同村会議員、高安村会議員、中河内郡会議員、大阪府会議員・同議長、同参事会員、郡部会副議長に挙げられる。また水利築留樋連合会議員、学事委員、地押調査掛、地方森林会議員等となる。 1902年、八尾銀行監査役に就任。1909年、八尾銀行取締役に就任。住所は大阪府中河内郡南高安村大字恩智。
六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日… 六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日(1858年3月5日) - 1931年(昭和6年)3月25日)は、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)出身の漁業者・地方自治功労者。佐久島村漁業組合の設立に尽力し、1908年(明治41年)には佐久島村長を務めた。 安政5年1月20日(1858年3月5日)、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)西側97番地に生まれた。藤井佐次兵衛の長男である。幼名を覚三郎といい、やがて六代目藤井佐次兵衛を襲名した。 四番組長、学務委員、地積取調委員、戸長、佐久島村会議員などを歴任した。農事改良、金融の利便向上、防波堤の築造などに力を注ぎ、1903年(明治36年)2月1日には筒井新次郎、筒井由次郎、筒井金兵衛、筒井浅次郎らと協力して佐久島村漁業組合を設立した。
春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1… 春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1月18日) - 1929年(昭和4年)11月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 愛知県出身。1874年、愛知県養成学校小学教科卒。小学校訓導、南麻績村戸長、実田村長、中島郡会議員、同参事会員、愛知県会議員となる。また、破産管財人、愛知県教育会、同県農会各評議員、日光川倉庫銀行取締役を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙で再選した。1915年の第12回衆議院議員総選挙では51票差で落選した。1929年に死去した。
元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日〈安政5年1月… 元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日〈安政5年1月15日〉- 1938年〈昭和13年〉10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。立憲政友会の長老。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。杵築藩(大分県)の儒学者の養子。 豊後国国東郡来浦(現在の大分県国東市国東町来浦)に医師・猪俣栄造の子として生まれる。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。1880年(明治13年)、東京大学法科を卒業。弁護士となる。第1回衆議院議員総選挙に当選し、以後当選16回、議員生活は40有余年に渡った。当初は大成会・国民協会・帝国党に所属した後に立憲政友会の結成に参加、衆議院副議長に3度選出された他、第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣、原内閣の鉄道大臣(初代)として入閣している。
田中 省三(たなか せいぞう、1858年2月20日(安政5年… 田中 省三(たなか せいぞう、1858年2月20日(安政5年1月7日)- 1925年(大正14年)6月29日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大隅国囎唹郡福山郷福山村小廻(現鹿児島県霧島市福山町福山)で生まれる。町田実有から漢学を学んだ。1876年(明治9年)福山小学校を卒業。1876年(明治9年)西南戦争で西郷軍に加わり、宮崎で官軍に捕らえられ細島に流罪となった。その後赦免されて帰郷し、1882年(明治15年)鹿児島師範学校を卒業。福山小学校の教師を務め、1885年(明治18年)同郷で当時石川県庁勤務の川上親晴の推薦で能登半島の小学校長に就任。1年ほどで辞職して、奈良県五条の看守長、大阪地方裁判所書記などを歴任。
三谷 軌秀(みたに のりひで、1858年2月18日(安政5年… 三谷 軌秀(みたに のりひで、1858年2月18日(安政5年1月5日) - 1934年(昭和9年)3月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は五市。 1858年2月18日(安政5年1月5日)、土佐国長岡郡粟生村(現在の高知県大豊町)に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現在の法政大学)を卒業する。 1887年(明治20年)に公証人試験に合格するが、同年保安条例に触れ、三里以外の地に退去を命じられる。 1889年(明治22年)に大阪で公証人となり、1891年(明治24年)に大阪商業会議所の特別会員となる。 1893年(明治26年)に片岡直温らとともに帝國物産を設立し、その顧問に就任し、1894年(明治27年)に日本時計製造の設立に参加し、その監査役に就任する。
工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2… 工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉1月20日)は、明治から昭和戦前期にかけての日本の政治家・実業家。長野県小県郡丸子町(現・上田市)の人物で、政界では長野県会議員や衆議院議員(当選2回)などを歴任し、実業界では蚕種業・製糸業を営み銀行・鉄道会社にも関係した。 工藤善助は、安政5年1月5日(新暦:1858年2月18日)、信濃国小県郡上丸子村(後の小県郡丸子町、現・上田市)に工藤伝五郎の次男として生まれた。1874年(明治7年)12月に分家。1876年(明治9年)より宗家にならって蚕種の製造・販売業を始めた。蚕の繭を得る養蚕業ではなく蚕の卵(蚕卵紙)を製造・販売する蚕種業は幕末以降丸子地区で盛んであった。
三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政… 三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政5年1月2日) - 1906年(明治39年)3月16日)は、日本の政治家、官僚、銀行家。衆議院議員、貴族院議員、横浜正金銀行副頭取。 1858年(安政5年1月2日)2月15日、讃岐国丸亀に生まれる。東京大学法科を卒業し、忠愛社に入り、『明治日報』記者となる。1884年(明治17年)に外務省御用掛となり、外務省書記官として米国公使館駐在、さらに公使館書記官としてワシントン駐在、次いで外務省参事官を務める。 その後、京都で『中外電報』で論説を執筆、弁護士業などを経て、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙で香川県から出馬し、衆議院議員に当選する(以後4回連続当選)。
伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2… 伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2月11日) - 昭和5年(1930年)5月14日)は、旧米沢藩士で山形県の漢学者・歴史家・史料収集家。 米沢藩(山形県置賜地方)の藩士の子として誕生。米沢藩藩校の興譲館で漢学を修める。 旧米沢中学校(山形県立米沢興譲館高等学校)で教鞭を執り、明治14年(1881年)からは山形県師範学校(後の山形大学教育学部、現在は山形大学地域教育文化学部に改組)、明治23年(1890年)からは上杉家記録編纂所の総裁となる。 明治41年(1908年)に財団法人米沢図書館を設立、翌年に開館した(後の市立米沢図書館)。旧藩時代の文書や興譲館の蔵書などの貴重書保全に務めた。
水上 長次郎(みずかみ ちょうじろう、1858年2月10日(… 水上 長次郎(みずかみ ちょうじろう、1858年2月10日(安政4年12月27日)- 1936年(昭和11年)4月3日)は、日本の判事、検事、貴族院勅選議員。 近江国彦根出身。1884年(明治17年)、司法省法学校を卒業。徳島始審裁判所・大阪始審裁判所・大阪控訴院で判事を務め、京都地方裁判所部長・福井地方裁判所所長・岐阜地方裁判所所長を歴任した。1898年(明治31年)、大阪地方裁判所検事正となり、広島控訴院検事長・長崎控訴院検事長・大阪控訴院検事長を歴任した。その間、日露戦争の際には佐世保で捕獲審検所検察官を務めた。1913年(大正2年)、名古屋控訴院長に就任し、のち大阪控訴院長に転じた。1921年(大正10年)6月14日、貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属して死去するまで在任した。