与良 松三郎(よら まつさぶろう、明治5年3月23日(187… 与良 松三郎(よら まつさぶろう、明治5年3月23日(1872年4月30日) - 昭和13年(1938年)10月17日)は、日本の実業家・教育者。名古屋新聞社主筆・社長。与良ヱの父。旧姓は上野。 長野県佐久郡小諸(現小諸市)生まれ。長野県師範学校を卒業すると、岩村田・小諸・上田の各小学校の訓導、南安曇郡視学を務めた。1902年文部省の推薦でウラジオストクに日本人小学校の校長として赴任するが、1904年の国交断絶により学校が閉鎖されたため、日露戦争にロシア語通訳官として従軍し、1906年帰国。同郷の小山松寿が名古屋新聞を経営するにあたり、その主筆に迎えられ、普選運動推進の論陣を張った。1930年に社長に就任した。
佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治… 佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治5年3月19日) - 1942年8月13日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 山形県山形市五日町出身。1889年、第二高等学校医学部、1893年、東京帝国大学卒。陸軍に入り、三等軍医から一等軍医に進み、日清戦争、日露戦争に参加。山形市会員、山形県会議員、同参事会員、山形市医師会長、山形県産婆試験委員、帝国在郷軍人会山形市連合分会長、専売局顧問医、鉄道嘱託医となる。 1898年、山形市八日町に佐々木病院を開業、院長となる。山形市内のはり師・きゅう師・あんま師らによって1913年に設立された私立山形盲学校の初代校長を勤め、1921年まで任に当たった(のち県立に移管され、山形県立山形盲学校となる)。
下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5… 下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5年3月16日〉 - 1946年〈昭和21年〉1月15日)は、明治後期から昭和にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 滋賀県長浜の旧家下郷家の10代目。米穀商を開いて財を成した下郷伝平(久道)の長男で、公的には父の名を継いで2代目の下郷 伝平(下鄕 傳平、しもごう でんべい)を名乗った。襲名前の名は寅吉。実業界では仁寿生命保険社長を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員や長浜町長に選ばれた。 下郷家は滋賀県長浜市(旧・坂田郡長浜町)の旧家である。家伝によると、賤ヶ岳の戦いに関係して豊臣秀吉から表彰された長浜城下の町人のうち下郷九左衛門を家祖とする(それ以前の系譜は不明瞭)。
東 基吉(ひがし もときち、明治5年3月15日(1872年4… 東 基吉(ひがし もときち、明治5年3月15日(1872年4月22日) - 昭和33年(1958年)4月20日)は、日本の教育者。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)出身。須川家に生まれ、東家の養子となった。1894年(明治27年)、和歌山県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後東京高等師範学校に入り、1899年(明治32年)に卒業した。同年、岩手県師範学校教諭・附属小学校主事となる。1900年(明治33年)に東京女子師範学校助教授に転じて幼稚園教育研究に従事し、1903年(明治36年)に教授に昇進した。 1908年(明治41年)から宮崎県師範学校校長、栃木県女子師範学校校長、三重県女子師範学校校長、大阪府池田師範学校校長、宮城県師範学校校長を歴任し、1925年(大正14年)に退官した。
錦戸 春吉(にしきど はるきち、1872年4月21日(明治5… 錦戸 春吉(にしきど はるきち、1872年4月21日(明治5年3月14日) - 1945年4月24日)は、愛知県豊川市赤坂町出身(当時は額田県赤坂町)で錦戸部屋に所属した力士。本名は吉澤 春吉(旧姓:大場)。5代錦戸。164cm、96kg。最高位は西前頭15枚目。 静岡県で草相撲をしていたが、1891年5月錦戸部屋に入門し初土俵を踏む。1901年5月、29歳で十両昇進。そして1909年6月、旧両国国技館が開館した場所に初土俵から18年、37歳にして新入幕を果たした。幕内在位は1場所のみで、その後幕下まで陥落。すでに二枚鑑札となっており、1911年6月に引退して、親方業に専念した。一時、招猫の四股名を名乗った。
釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年… 釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年3月13日) - 1947年(昭和22年)9月13日)は、日本の牧師、アメリカ南メソヂスト監督教会の最初の日本人監督。祈りの生涯を送った。関西学院との繋がりが強い。 大分県北海部郡海添村内畑(現臼杵市)に、釘宮伝四郎を父、シゲを母として生まれた。幼名は和作。父は役所で土木関係の仕事をしていたが、大分県での勤務を命ぜられ、大分へ移った。そして、転勤のために小倉県、福岡県、さらに対馬に引っ越した。1882年再び大分に戻り、父は別府浜脇の村役場に勤めた。1885年に父親が急死した。残された母と祖母と辰生の3人家族で貧しい生活を始めた。 明治18年(1885年)に大分尋常中学校が新設された。
水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年… 水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年3月11日) - 1919年(大正8年)4月10日)は、日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭。大阪府出身。 1872年(明治5年)に大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院(現・ 関西大学)で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで3番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか1年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。
香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4… 香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和15年(1940年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、医師。 富山県中新川郡西加積村(現在の滑川市)出身。1894年(明治27年)に第四高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学選科で学んだ。新潟県の小出病院で副院長を務めた後、帰郷して開業した。中新川郡医師会長、同衛生会副会長、富山県医師会長を歴任。さらに西加積村会議員、富山県会議員、同参事会員、同副議長に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立山鉄道専務取締役、立山製紙株式会社取締役、加積水力電気株式会社取締役、大岩電気株式会社監査役、滑川銀行監査役などを務めた。
斯波 忠三郎(しば ちゅうざぶろう、明治5年3月8日(187… 斯波 忠三郎(しば ちゅうざぶろう、明治5年3月8日(1872年4月15日) – 1934年(昭和9年)10月3日)は、日本の船舶工学者、東京帝国大学教授。貴族院男爵議員。 男爵斯波蕃の長男として生まれ、1907年(明治40年)3月18日に男爵を襲爵した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大学院に進み、1896年(明治29年)に同大学助教授となった。1899年(明治32年)からイギリス・フランス・ドイツに留学し、1901年(明治34年)に帰国。直ちに教授に任命され、後に3度にわたって評議員を務めた。1902年(明治35年)には工学博士号を取得。1906年(明治39年)から海軍大学校教授も兼ね、機関将校の育成に当たった。
奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4… 奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和19年(1944年)3月24日)は、日本の実業家・漁業家(オツタートロール漁業の先覚者、機船底曳網漁業の創始、角輪組設立)、政治家(衆議院議員、貴族院議員)。 第2回水産博覧会で朝鮮半島沿岸漁場とオッタートロールの知識を得、まず、オッタートロールに関し、1901年に鳥取県知事に山陰沖の漁業権許可を申請したが、反対運動が起きたため香川輝知事は拒否を決せずこれを握り潰した。他方、朝鮮半島沿岸漁場に関しては、1902年から1903年にかけて、韓国東北海岸漁業探検を実施、相当の漁獲をあげられることを確認した。1904年には寺田祐之知事の賛意を得てオツタートロール汽船海光丸を建造。
都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明… 都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明治5年3月7日) - 1959年(昭和34年)4月15日)は、日本の牧師である。都田恒太郎の父である。 鳥取県境港市に生まれる。叔父の門永尚一とバークレー・バックストンの協力者竹田俊造によって信仰を持つ。1892年(明治25年)クリスマスに境港の竹の内教会でバックストンより洗礼を受ける。1887年(明治20年)に恒太郎が生まれる。1902年(明治35年)東京に行き、中田重冶らの聖書学院の修養生として学ぶ。同郷の人物に米田豊らがいる。 1904年(明治37年)アグネス・グレンの元で働き信州の岩村沢教会に着任する。1918年(大正7年)利根川沿岸潮来の開拓をする。
下田 次郎(しもだ じろう、明治5年3月6日(1872年4月… 下田 次郎(しもだ じろう、明治5年3月6日(1872年4月13日) - 昭和13年(1938年)3月24日)は、日本の女子教育家。 1872年、広島県広島市上流川(現在の同市中区幟町付近)の生まれ。元広島浅野藩士多羅尾家に生まれるが1876年、陸軍少尉となっていた父が神風連の乱により熊本城内で戦死、幼少にして下田収蔵の養子となる。下田家も広島浅野藩の家臣の家系 。 広島県立中学(現・広島国泰寺高等学校)、第三高等中学校を経て1886年、帝国大学文科大学哲学科を卒業、引き続き大学院に入学して「教育の心理的基礎」について研究した。1899年女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授、1899年から1902年までイギリス、アメリカ、ドイツに留学。
鶴見 孝太郎(つるみ こうたろう、1872年4月12日(明治… 鶴見 孝太郎(つるみ こうたろう、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1930年(昭和5年)1月22日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(1期)。 父は出羽鶴岡藩領田川郡落野目村(山形県東田川郡豊栄村、八栄島村、藤島町を経て現在の鶴岡市)の豪農日向三右衛門と伝わる。生後間もなく同郡白山林村(西田川郡大泉村を経て現在の鶴岡市)の白山神社の社掌鶴見家の養子となった。1889年(明治22年)荘内中学校に入るが中退し、鶴岡の野沢鎌治について漢籍などを学ぶ。小学校の代用教員を経て大泉村役場に奉職し1894年(明治27年)大泉村消防組初代組頭を経て、1896年(明治29年)25歳にして村長に選ばれた。
野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治… 野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)3月9日)は、広島県三次郡三次町(後の三次市)出身の裁判官、政治家。関西法律学校(後の関西大学)卒業。正四位勲二等旭日重光章。 広島県三次町(後の三次市)の造り酒屋に生まれ、関西法律学校卒業後、明治法律学校を経て司法官試補となる。大津区裁を振り出しに神戸地方裁判所、大阪控訴院判事を歴任後、兵庫県神戸市で弁護事務所を開業した。1920年、後立憲民政党となる憲政会から出馬し衆議院議員初当選。しかし1924年の総選挙で落選し議員生活を離れる。このため若手弁護士グループに担ぎ出され神戸弁護士会会長に就任。
松村 松年(まつむら しょうねん、1872年4月12日(明治… 松村 松年(まつむら しょうねん、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)11月7日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。理学博士、農学博士。日本の近代昆虫学の基礎を築いた先覚者で、「日本昆虫学の祖」と称される。日本産昆虫の和名の命名法を創案するとともに、日本産昆虫約1,200種の命名者である。教育者としても多くの昆虫学専門家を育成し、1898年(明治31年)に著した『日本昆虫学』は、日本人による近代昆虫学の最初の単行書として知られる。 兵庫県明石郡大明石町(現在の明石市)に漢学者・松村如年(如屏)の3男として生まれる。兄に画家で発明家の松村竹夫、キリスト教伝道者の松村介石、叔父の孫に橋本関雪がいる。
菊川 惣吉(きくかわ そうきち、1872年4月11日(明治5… 菊川 惣吉(きくかわ そうきち、1872年4月11日(明治5年3月4日) - 1941年(昭和16年)6月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県、現在の姫路市で生まれた。姫路市会議員、兵庫県会議員、姫路商業会副会長、山陽毛織、帝国醤油醸造、播磨電化工業、山陽金融無尽各(株)社長、姫路瓦斯、明石瓦斯各(株)取締役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から立憲政友会公認で立候補したが落選した。1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫2区から立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1941年に死去した。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3… 板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、茨城県出身の、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。 日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。茨城県名誉県民。下館市名誉市民(合併により筑西市への移行に伴い、現在は筑西市名誉市民)。 日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。
北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5… 北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5年3月3日) - 1949年(昭和24年)2月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。 青森県津軽郡浅瀬石村(現黒石市)で北山長作の長男として生まれる。南津軽郡中学校を経て、1897年、東京専門学校政治科(現早稲田大学政治経済学部)を卒業。卒業後に帰郷し郡青年団を組織した。実業界では、リンゴ輸出商社・(株) 青浦商会社長、日出セメント (株) 取締役、(株) 青森映画劇場社長、青森商工会議所特別議員を務めた。 政界では、1900年に青森県会議員に選出され、県会議長を二度務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で青森県第一区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月… 八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月8日) - 大正5年(1916年)1月13日)は、日本の衆議院議員(中央倶楽部)、弁護士。家紋は丸に杏葉紋。 愛媛県伊予郡北伊予村(現在の松前町)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。翌年、静岡県浜松市に事務所を開き、1900年(明治33年)に東京市に移した。その後、東京市会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。 その他、藤枝競馬倶楽部理事を務めた。 大正5年1月13日没。戒名は泰雲院通義可海大居士。墓所は本所(墨田区)立川の新義真言宗・弥勒寺旧子院墓地。
寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦… 寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦明治5年3月1日〉 - 1937年〈昭和12年〉1月22日)は、日本のジャーナリスト、政治家。雅号は斗南(となん)。 合資会社静岡新報社での勤務を経て、株式合資会社静岡新報社主筆、静岡市会議員、静岡県会議員、静岡県会議長(第24代)などを歴任した。 静岡県出身のジャーナリストである。静岡新報社で主筆を務めるなど、地域の論壇で重きをなしていた。その傍らで、静岡市会議員や静岡県会議員など政治家としても活動した。 1872年(旧暦明治5年3月1日)、浜松県城東郡、のちの静岡県小笠郡佐束村に該当する地域で生まれた。 1901年(明治34年)2月1日に静岡新報社に入社した。
石田 孝吉(いしだ こうきち、明治5年2月30日(1872年… 石田 孝吉(いしだ こうきち、明治5年2月30日(1872年4月7日) - 1926年(大正15年)8月9日)は、日本の衆議院議員、勲四等旭日小綬章。 島根県邇摩郡波積本郷(波積村、江東村を経て現江津市)に生まれる。祖先は毛利公に仕えた家臣で石田量太郎の長男。1896年(明治29年)7月慶應義塾を卒業し島根県に帰郷。温泉津村(温泉津町を経て現大田市)に石見銀行を設立し頭取に就任した。 迩摩郡会議員、島根県会議員、島根県農会議員などを経て、1901年(明治34年)日本赤十字社特別社員に列せられ、1903年(明治36年)3月衆議院議員に当選。1904年(明治37年)帝国義勇艦隊建設の際の地方委員に嘱託。
俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月… 俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月28日) - 1958年(昭和33年)7月30日)は、日本の冶金学者。工学博士。東京帝国大学名誉教授。島根県平民。 島根県浜田市出身。上京後、共立学校などを経て、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科卒業。同大助教授、教授を経て、昭和7年(1932年)定年退官後は名誉教授となる。電気製鋼法にも通じた鉄鋼冶金学の権威で、金属顕微鏡を用いた金属組織研究で成果を残した。研究の一環としてたたら製鉄の科学的分析を行い『日本刀の科学的研究』などを著すなど、和鋼(たたら製鉄により生成される特殊鋼)と日本刀研究の第一人者であった。1940年(昭和10年)には、「治金学上ヨリ見タル日本刀ノ特色」と題して昭和天皇に進講を行った。
住吉 秀松(すみよし ひでまつ、1872年4月5日(明治5年… 住吉 秀松(すみよし ひでまつ、1872年4月5日(明治5年2月28日)- 1928年(昭和3年)10月8日)は、広島県出身の実業家。日本統治時代の台湾で土木建築請負業の住吉組を興したほか、当時の自治組織だった台南市協議会員を務めた。また、民間の消防団「台南消防組」で市内の防災に貢献したことから、現地では「台南消防の父」として知られている。 1872年、広島県賀茂郡広村(現在の呉市広地区)で出生。1900年(明治33)に台湾へ移り、鹿島組(現在の鹿島建設)で鉄道などのインフラ建設に従事、後年独立し、台南で住吉組を設立する。 1920年(大正9)、有限責任信用組合台南興信社(台南市白金町(中国語版))理事に就任するとともに、「台南土木建築請負業組合」の相談役(建設業公会顧問)となった。
岸田 光太郎(きしだ こうたろう、1872年〈明治5年〉4月… 岸田 光太郎(きしだ こうたろう、1872年〈明治5年〉4月 - 没年不明)は、台湾基隆に居住した日本人で、材木商人。岸田材木店創業者。 政治家の岸田文雄や宮澤洋一の曽祖叔父。岸田幾太郎は兄、岸田正記、岸田正次郎は甥にあたる。 岸田忠次郎の三男として広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)に生まれる。岸田家は代々農業を営んでいた。郷里の小学校に入って普通学を修め、父業を助けて郷里に暮らす。 日清戦争が終結し台湾が日本の領土に属すると、1897年(明治30年)3月に兄と共に台湾へ渡り、基隆市にて材木商を開業した。同商店の開業当時は微々たる一商舗に過ぎなかったが、後に基隆屈指の材木商となった。
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5… 島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5年2月17日〉 - 1943年8月22日)は、日本の詩人・小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。筑摩県木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。次男は画家の島崎鶏二、三男は同じく画家の島崎蓊助。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。
浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年… 浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年2月13日) - 1944年(昭和19年)3月8日)は、日本の英米文学者、教育者。同志社大学英文科教授、東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。 摂津三田藩(兵庫県三田市)出身。三田藩士の浦口長弘と千代の子として生まれる。12歳の時に神戸の川本恂蔵の家に寄宿し、キリスト教に感化を受けると、1884年(明治17年)に神戸教会において原田助(同志社第7代目社長)より受洗。 同志社普通学校に入学し、1890年(明治23年)に同志社を卒業。その後、英文学を志し神戸、東京、仙台、函館を転々とする生活を送る。 1894年(明治27年)夏に神戸にいた際には、ウォルター・ウェストンの日本アルプス登山に、H.J.ハミルトン(日本聖公会中部教区初代主教)とともに通訳として同行し、日本アルプス連山の初登頂に成功する。
矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年… 矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年2月12日) - 1947年(昭和22年)12月28日又は12月29日)は、日本の洋画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
武田 徳三郎(たけだ とくさぶろう、明治5年2月10日(18… 武田 徳三郎(たけだ とくさぶろう、明治5年2月10日(1872年3月18日) - 昭和25年(1950年)5月23日)は日本の政治家、新聞記者。衆議院議員(6期、立憲政友会) 1872年(明治5年)2月、新潟県東頸城郡大島村(現在の上越市)に生まれる。和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業し、福岡日日新聞記者となる、その後、日露戦争に従軍し、日本新聞記者を経て、高岡日報社を創立し、その主幹となる。また、関川電力・高岡ステンレス各取締役、頸城鉄道・中央電気各監査役などを歴任する。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選(以後6期当選)。山本悌二郎農林大臣の秘書官を務めた。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年… 西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年2月10日) - 1968年(昭和43年)2月29日)は、滋賀県長浜市生まれの宗教家・社会事業家、政治家。一燈園の創始者。参議院議員。本名は市太郎。 明治5年(1872年) 滋賀県長浜の紙問屋「玉屋」に生まれる。杉蔭塾で杉本善朗氏から漢籍、珠算等を習う。また長浜キリスト教会の堀貞一牧師から西洋史、英語等を習う。 明治19年(1886年) 長浜旧開知学校高等科を卒業する。翌20年に義母を亡くす。 明治24年(1891年) 父、保三の死亡により家督を継ぐ。同年結婚。小川のぶ(15歳)と結婚。青年団の幹事長に選ばれその後、二宮尊徳の信奉者であった県知事の大越亨に見込まれる。
黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年… 黒岩 淡哉(くろいわ たんさい、明治5年2月8日(1872年3月16日) – 昭和38年(1963年)3月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての彫刻家(彫塑家)。本名は高木倉吉(のちに黒岩家の養子となる)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田熊 常吉(たくま つねきち、1872年3月16日〈明治5年… 田熊 常吉(たくま つねきち、1872年3月16日〈明治5年2月8日〉 - 1953年〈昭和28年〉12月22日)は、日本の実業家、発明家。独自のボイラー(タクマ式ボイラー)を発明した。株式会社タクマ創立者。 1872年、鳥取県東伯郡大誠村(現北栄町)で生まれる。医師の下働きから商人を目指し、30歳すぎには材木商として成功を収める。30歳代後半に製材用のボイラー製造事業に出資するも失敗して多額の負債を負う。その後は独自にボイラーの研究を独力で進め、1912年にタクマ式ボイラーを発明。翌年には特許を取得。1914年4月に大阪で開催された第2回発明品博覧会に出品して金賞を取ると、事業化を図り外国製ボイラーの輸入に歯止めがかかる規模の成功を収めた。
石原 重俊(いしはら しげとし、明治5年2月3日(1872年… 石原 重俊(いしはら しげとし、明治5年2月3日(1872年3月11日) - 1944年3月1日)は、日本の郷土史家、教育者、小学校校長。 明治5年2月3日(1872年3月11日)鶴岡代官町に、石原多次馬重威の長男として生まれる。朝暘学校卒業、1892年(明治25年)荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業(初代卒業生)。朝暘小学校準訓導となり、1908年(明治41年)朝暘第二小学校校長、1918年(大正7年)西郷第一小学校校長。1926年(大正15年)同職を退任すると、図書館に勤務。郷土史研究に打ち込み、阿部正己らと共に本楯遺跡の調査をする。 1944年(昭和19年)3月1日死去。鶴岡の井岡墓地に墓がある。
吉田 恒三 (よしだ つねぞう、1872年3月11日(明治5… 吉田 恒三 (よしだ つねぞう、1872年3月11日(明治5年2月3日) - 1957年(昭和32年)5月16日)は、日本の声明研究者、作曲家。福井県出身。 明治5年(1872年)敦賀県遠敷郡小浜鹿島町(現在の福井県小浜市鹿島)に生まれる。 明治27年(1894年)、福井師範学校(現・福井大学)卒業。 東京高等師範学校附属音楽学校師範科卒業。明治30年(1897年)福井師範学校附属小学校訓導を経て教諭となる(音楽科担当)。 明治34年(1901年)京都師範学校(現・京都教育大学)教諭となり、30年勤続。 浄土宗立仏教専門学校(現・佛教大学)講師。昭和25年(1950年)比叡山延暦寺に音律研究所を設立。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1… 米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1872年3月10日(明治5年2月2日)- 1947年(昭和22年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・伊東、幼名・貞三。 新川県新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町)で、伊東次郎左衛門祐明の三男として生れ、1890年12月、同郡入善町入善の米沢家の養子となり与三次と改名した。1895年、専修学校(現・専修大学)理財科卒。農業を営み、入善町農会長、入善商工会長、下新川郡教育会副会頭、泊銀行、入善銀行各頭取、入善倉庫、富山水力電気各(株)社長、生地銀行、富山県模範織物工場、小川温泉各(株)取締役、越中銀行、茨木商店各(株)監査役となる。
篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年… 篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。
堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年… 堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日〈明治5年1月29日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月11日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。 後の宮崎県東諸県郡高岡村(現宮崎市)で、士族堀口貞由の長男として生まれる。1897年(明治30年)7月、第五高等学校を卒業。1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁属兼同警部となる。1901年(明治34年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・板橋警察署長、四谷警察署長、岡山県事務官、富山県事務官・第四部長、埼玉県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、福岡県港務長、栃木県事務官・内務部長、福岡県内務部長などを経て、1914年(大正3年)4月、熊本県内務部長に就任。
浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3… 浪越 鷹太郎(なみこし たかたろう、1872年〈明治5年〉3月5日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者。香川県三豊郡仁尾村長。南海舎密工業社長。仁尾塩田専務取締役。讃岐米肥料取締役。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)、浪越家の長男。1896年、村会議員に当選する。1898年、家督を相続する。農会長としてその創設当初より多年に及び郡農会代議員、評議員等を歴任する。1907年、仁尾村長に就任する。 農業を営み、傍ら会社の重役であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は香川県三豊郡仁尾町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1… 内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1月25日) - 1919年(大正8年)7月22日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。 明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業した。国史科の同期に、喜田貞吉・黒板勝美・笹川種郎・原勝郎・幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した。
比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1… 比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1月23日) - 1939年1月4日)は、日本の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。本名・鴻。雅号は天来、別号に画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)、象之(ぞうし)、淳風(じゅんぷう)も用いる。 長野県北佐久郡片倉村(現・佐久市)生まれ。幼名は常太郎。古碑法帖を多角的に研究し、古典臨書の新分野を開拓し、その集大成として『学書筌蹄』がある。俯仰法の解明をし、剛毛筆を使用して古典を分解再構築し、新しい造形世界を展開したその活動は、近代日本の書道界において新境地であったとされる。また、仁和寺伝来の三十帖冊子の橘逸勢筆の部分を看破したことでも有名である。
蟹江 義丸(かにえ よしまる、1872年(明治5年)3月 -… 蟹江 義丸(かにえ よしまる、1872年(明治5年)3月 - 1904年(明治37年)6月19日)は、日本の哲学者。 1972年、富山県富山市鹿島町に蟹江晟の子として生まれる。祖父の蟹江基徳は富山藩の重臣で、家老を務めた。1890年(明治23年)、第四高等中学校に入学し、翌年第一高等中学校に移った。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学したが、1年間の休学を経て哲学科に転じ、1897年(明治30年)に卒業した。その後体調を崩し、京都で静養の傍ら、真宗大学(現在の大谷大学)で講師を務めた。1年ばかりの後、東京帝国大学大学院に入り、カント及び以後のドイツ哲学を専攻し、さらに倫理学・東洋倫理学を専攻した。
千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5… 千葉 宮次郎(ちば みやじろう、1872年2月29日〈明治5年1月21日〉 - 1933年〈昭和8年〉5月6日)は、日本の政治家、実業家。 兵庫県津名郡野島村(現・淡路市)生まれ。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 実業家として、多数の企業の経営に参画し、淡路鉄道、淡路実業銀行、阿淡連絡汽船などの取締役、全淡自動車(後の淡路交通)の社長などを務めた。 野島村長、岩屋町長、津名郡会議員、同議長を歴任した。 1903年(明治36年)9月25日、津名郡選出の兵庫県会議員となった。最終的に1924年(大正13年)5月10日に辞職するまで務めた。この間、1920年(大正9年)12月から1923年(大正12年)9月まで第26代兵庫県会議長を務めた。
鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1… 鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1月20日〉 - 1946年〈昭和21年〉5月23日)は、日本の明治から昭和初期にかけて活躍した博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者だった。号は三枝。姓の「羽」は「羽」の旧字体だがJIS X 0208には収録されておらず、名の「藏」は「蔵」の旧字体であるため、新字体を用いて鳥羽 源藏、鳥羽 源蔵とも表記される。 明治5年1月20日(グレゴリオ暦1872年2月28日)に岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で清左衛門とアヤメの長男として生まれた。生家は「源氏屋」と呼ばれる名門であり、財産家であったともいわれている。
山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治… 山成 喬六(やまなり きょうろく、1872年2月27日(明治5年1月19日)- 1960年(昭和35年)8月31日)は、日本の銀行家。大蔵省主計局長~台湾銀行理事東京支店支配人、満州中央銀行副総裁等を歴任した。 岡山県後月郡芳井村大字簗瀬(現井原市芳井町)生まれ。芳井小学校を経て、興譲館中学校卒業後、従兄阪谷芳郎の書生となる<name=ito />。十代で脳溢血を経験。1890年に東京高等商業学校(現一橋大学)主計科を卒業後、大蔵省入省。 三十四銀行台湾支店長、台湾銀行神戸支店長、台湾銀行大阪支店長、台湾銀行総務部助役を経て、1913年から台湾銀行理事兼東京支店総支配人を務め、投資信託の開発に尽力し、その後投資信託創設のため法制審議会委員として台湾銀行法の改正にあたるなどした。
蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年… 蓮井 藤吉(はすい とうきち、1872年2月26日(明治5年1月18日)- 1941年(昭和16年)7月9日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 香川県寒川郡神前村(大川郡寒川村、寒川町を経て現さぬき市寒川町神前)で、蓮井吉平の長男として生まれた。 大川郡会議員、同郡参事会員となる。1898年(明治31年)香川県会議員に選出され、以後6期在任し県会議長、参事会員も務めた。1902年(明治35年)神前村会議員となり、6期務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に香川県第四区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 また、香川地方森林会議員、香川県水産組合長、屋島登山鉄道常務取締役、日本殖産監査役などを務めた。
佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明… 佐々木 安五郎(ささき やすごろう、1872年2月25日(明治5年1月17日) - 1934年(昭和9年)1月1日)は、日本の政治家、大陸浪人。衆議院議員(東京府第8区選出、当選4回)。号は照山。蒙古王の異名をとった。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡阿川村(現下関市)に生まれる。10代後半の時に政治に関心を持ち「点燈会」を作った。隣村の滝部村で小学校の代用教員をしていたが、熊本の九州学院に入学し中国語を学んだ。1894年(明治27年)に卒業し、日清戦争に陸軍の通訳として従軍、戦後は台湾総督府の吏員となった。しかし、乃木希典が総督を退くと総督府を辞職し、1898年(明治31年)には雑誌『高山國(たかさご)』を発刊した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(187… 渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す。 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』巻末の年表によると、以下の通りである。 明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。 明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。
坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2… 坂口 昂(さかぐち たかし、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和3年(1928年)1月28日)は、西洋史学者。 1872年、兵庫県有馬郡日西原村(現・神戸市)生まれ。1894年、帝国大学を卒業した。 1907年、京都帝国大学文学部助教授に就任。原勝郎とともに西洋史学講座を創設し、後進の育成にあたった。ドイツ、フランスに留学ののち、1912年に教授昇進。1924年からは文学部長をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年… 平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年2月23日〈明治5年1月15日〉 - 1979年〈昭和54年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛 倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。戸籍では「ひらくし」と濁らない。 写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人である。ゆかりの地で名誉市民とされているのは、故郷である岡山県井原市(1958年)、広島県福山市(1965年)、晩年を過ごした東京都小平市(1972年)。作品を所蔵する施設として井原市立平櫛田中美術館、小平市平櫛田中彫刻美術館がある。 107歳で亡くなった時点では男性長寿日本一の人物だった。