矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日… 矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日 - 1956年(昭和31年)4月13日)は、日本の女流歌人である。本名はたか。 兵庫県の篠山町(現在の丹波篠山市)にて、篠山藩士だった矢沢一貫とその妻のてるとの間に長女として生まれた。幼くして父から漢詩や和歌を学び、大阪府立堂島高等女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)に入学する。その後中退し、1893年(明治26年)に留学のため上海に移住し、東洋学館にて英語等を学んだ。その後帰国し、1896年(明治29年)には20歳の若さで妻の父の次男と結婚した後に小学校の教員として活動する。 教職を引退した直後に新潮社に入社し、自身が詠んだ歌を同社が出版する「スバル」に寄稿し発表した。
平子 鐸嶺(ひらこ たくれい、1877年5月4日 - 191… 平子 鐸嶺(ひらこ たくれい、1877年5月4日 - 1911年5月10日)は、日本の美術史家である。本名は平子 尚(ひらこ ひさし)。「鐸嶺」の号は、郷里である鈴鹿の嶺に由来するものである。ほかに昔瓦・鈴岱子・古柏艸堂主人・古柏陳人・塵庵といった号をもった。 1877年(明治10年)5月4日、三重県津町片浜町(現在の津市東丸之内近辺)に長子として生まれる。父の尚次郎は「津の断髪三人男」とも呼ばれた開明的な人物で、横浜で生糸貿易商を営み、帰郷ののちは弁理士、米穀商、妓楼の運営、参宮鉄道の建設などに参画した。母のかうは津の呉服商・伊阪屋の長女で藩主・藤堂家の奥向として仕えた。 津市立養正小学校を経て、1889年(明治22年)に旧津藩士のための私塾である励精館に入学。
森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 … 森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 - 1939年(昭和14年)7月12日)は、日本の教育者。 石川県金沢市に岐阜訓盲院創設者森巻耳の長男として生まれた。第四高等学校を経て、1904年(明治37年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。第一高等学校嘱託として、清国留学生の英語授業を担当した。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任し、1922年(大正11年)から翌年にかけて欧米に在留した。1927年(昭和2年)、松本高等学校校長となり、1929年(昭和4年)には第一高等学校校長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、法政大学文学部長・同高等師範部長を務めた。
倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)… 倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)4月28日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 長野県小県郡本原村(現・上田市真田町本原)出身。1898年(明治31年)陸軍士官学校第10期卒業。 1922年(大正11年)2月に麻布連隊区司令官を経て、同年4月に陸軍歩兵大佐に昇進。その後、1923年(大正12年)8月に歩兵第69連隊長、1925年(大正14年)5月に富山連隊区司令部附、同年8月に第9師団司令部附・金沢医科大学服務を経て、1927年(昭和2年)3月に陸軍少将・歩兵第4旅団長に補任。翌年の1928年(昭和3年)8月10日に待命、同年8月29日に予備役に編入した。
碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年)4… 碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年)4月27日) - 昭和9年(1934年)4月12日)は日本のジャーナリスト。 婦人運動家碧川かたの夫、映画カメラマン碧川道夫の父。 福岡県企救郡小倉町(後の小倉市、その後北九州市小倉区を経て現在は分区により小倉北区)に長崎裁判所小倉区裁判所長碧川真澄、みねの二男として生まれた。父真澄は、もと伊予新谷藩の下級武士。 米子の角盤高等小学校、鳥取中学(現在の鳥取西高等学校)を経て東京専門学校英語政治科(現在の早稲田大学)を卒業。北海道集治監釧路分監出張所(現在の網走刑務所)に行き、そこで一年間生活をした 明治35年(1902年)『小樽新聞』の論説記者になる。
藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年… 藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 1966年(昭和41年)7月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 福島県士族の三男である。会津中学を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第15連隊大隊長、歩兵第59連隊附、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。
伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治… 伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)は、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。 伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年(明治24年)頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始める。明治28年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いた。 1898年(明治31年)には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けている。
廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 19… 廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 1925年8月20日)は、清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では容共左派の指導者として知られる。仲愷は字で、名は恩煦。別名に夷白。筆名に屠富、淵実。祖貫は広東省恵州府帰善県。兄は廖鳳書。妻は何香凝。子は廖夢醒、廖承志。 アメリカ合衆国サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれる。1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した。翌1897年(光緒24年)10月に何香凝と結婚している。1902年(光緒28年)に日本へ留学し、早稲田大学経済予科を経て中央大学政治経済科に入学した。
田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月… 田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月20日 - 1944年(昭和19年)3月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・関原。 群馬県群馬郡新波村(現:高崎市)で関原家に生まれ、田中敬造の養子となる。1899年、群馬県尋常中学校を卒業し、その後、同志社で学ぶ。同志社在学中、日露戦争時に基督教青年会軍政慰問部主事として満州に赴任し慰問事業に二年間従事した。 1907年4月、北海道に移り製材事業を経営。(株) 田中木工場社長、北海興業取締役、北海工業取締役、旭川曲木工芸取締役、北海石炭取締役、昭南電燭取締役などを務めた。 政界では、旭川区会議員、同市会議員、同副議長、同議長、北海道会議員を歴任。
神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月… 松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月17日 - 1949年(昭和24年)11月14日)は、日本の外交官、政治家。
辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月… 辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与し、実証的な日本仏教史を確立。 1877年(明治10年)4月、兵庫県姫路元塩町(現在の兵庫県姫路市元塩町)に生まれる。父は善次郎。母はつね。神童の誉たかく、小学校・中学校と抜群の成績であった。1893年(明治26年)に姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入。翌1894年(明治27年)に学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、他の高校に転属を余儀なくされたが、第一高等学校に転校することができた。
小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月1… 小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月14日 - 1949年〈昭和24年〉9月27日)は、日本の政治家、学校経営者。衆議院議員、第11代神戸市長。博士(Doctor of Civil Law、 コロンビア大学)。 1877年旧三田藩士・小寺泰次郎の長男として神戸市生田区(現中央区)所在の小寺邸(現相楽園)に生まれる。1894年(明治27年)兵庫県立神戸商業学校 卒業、1896年(明治29年)杉浦重剛の称好塾に学んだのち、1897年(明治30年)米国に留学し、コロンビア大学で法律を、ジョンズ・ホプキンス大学で政治学を学び、更にヨーロッパのハイデルベルク大学、ウィーン大学、ジュネーブ大学で政治・法律学を修めた。
伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 19… 伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者。東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動(欧米では「新教育運動」)を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者として知られる。 明治10年(1877年)4月13日、長野県諏訪郡四賀村五八五七番地(現・諏訪市四賀普門寺)で、富農の伊藤孫右衛門の三男として生まれる。母は河西兵四郎の長女・りか。長七が3歳のときに母が死去したため、祖母のなかに育てられた。 幼少より神童と囃され、入学年齢よりも1年早く就学した。上桑原学校初等科を経て、1888年、郡立諏訪高等小学校3年に編入。
瀬田 熊太郎(せた くまたろう、1877年〈明治10年〉4月… 瀬田 熊太郎(せた くまたろう、1877年〈明治10年〉4月12日 - 1945年〈昭和20年〉11月6日)は、日本の政治家、実業家、商人(農具商)、精米業者、地主。 物品貸付業、農具商、精米業、農業などを営んだ。エステー自動車商会長、東京ガレージ常務取締役、伊豆水産、日本住宅各取締役、東京府北豊島郡上板橋村会議員、同村青年団名誉団員、同村在郷軍人分会名誉会員、同村学務委員、北豊島郡町村組合会議員、同村消防組委員などをつとめた。 1945年11月6日に死去。行年69才。東京都豊島区雑司が谷の霊園に墓がある。 板橋町大山の質商・瀬田文次郎の弟、瀬田醻一の叔父である。住所は上板橋村字宿(現・板橋区弥生町)、上板橋一丁目。
内ヶ崎 作三郎(うちがさき さくさぶろう、1877年(明治1… 内ヶ崎 作三郎(うちがさき さくさぶろう、1877年(明治10年)4月8日 - 1947年(昭和22年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員を通算7期務めた。 1877年(明治10年)、宮城県黒川郡富谷村(現・富谷市)に生まれた。第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科を卒業。オックスフォード大学へ留学。帰国後、早稲田大学教授。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に宮城4区から立候補して初当選。1928年(昭和3年)、第16回総選挙に宮城1区から立候補して当選。1929年(昭和4年)、濱口内閣内務参与官に就任。1930年(昭和5年)、第17回総選挙に宮城1区から立候補するも次点で落選。
太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月… 太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月7日 - 1966年〈昭和41年〉2月15日)は、日本の電気技術者。工学博士。東京電燈研究所長・技師長・工務部長・常務取締役、東京電力顧問。電気学会名誉員。 新潟県古志郡長岡表五ノ町(現 長岡市表町4丁目)の薬種商・太刀川善蔵の四男として出生。 新潟県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)7月に第一高等学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。 1902年(明治35年)7月に逓信省電気試験所に技手として入所、1903年(明治36年)12月に一年志願兵として陸軍歩兵第1連隊に入隊、日露戦争に応召、1905年(明治38年)6月に陸軍歩兵少尉に任官、戦後、逓信省を退官。
大河戸 宗治(おおこうど むねはる/おおかわど そうじ、18… 大河戸 宗治(おおこうど むねはる/おおかわど そうじ、1877年(明治10年)4月5日 - 1960年(昭和35年)1月15日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚、逓信官僚。 山口県に生まれる。1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に入り、1907年(明治40年)鉄道庁第一期留学生として欧米諸国へ橋梁工学を学びに渡る。東京改良事務所長を経て、鉄道省東京第一改良事務所長となり、山手線の建設改良に従事。ついで1929年(昭和4年)鉄道省工務局長を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学教授となり、コンクリート構造を教えた。ほか、攻玉社の高等工学校長および同短期大学教授を務めた。
島峰 徹(しまみね とおる、1877年(明治10年)4月3日… 島峰 徹(しまみね とおる、1877年(明治10年)4月3日 - 1945年(昭和20年)2月10日)は、日本の大正から昭和前期における医学博士・歯科医・東京高等歯科医学校(旧東京医科歯科大学(現東京科学大学)の母体)の創立者・同附属医院長。日本における近代歯科学の確立と歯科医師の地位向上に努めた。新潟県出身。 島峰徹の姓は、父恂斎碑文及び墓所銘や一部資料・書籍において島峯が用いられているが、大学名簿・官報等公文書では島峰が用いられていることから、本稿においても島峰を用いた。 島峰家は越後長岡藩の藩医を代々勤め、祖父伝庵は十三人扶持(長岡藩上士槙家記録)、または75石取りと記録されている。戊辰戦争当時、祖父伝庵は63歳・父恂斎は22歳で既に家督を継ぎ、戊辰戦争における長岡藩内の記録「士分賞罰留」において恂斎は勤労の功を賞され二両二分を下され、また負傷した河井継之助を会津で同僚藩医と共に治療を行ったとされる。
西山 泊雲(にしやま はくうん 1877年4月3日 - 19… 西山 泊雲(にしやま はくうん 1877年4月3日 - 1944年9月15日)は、兵庫県出身の俳人。本名亮三。 兵庫県竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り家出や自殺未遂を経験。また家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名し、「ホトトギス」に何度も広告を出して再興を助けた。 鈴木花蓑と並び「ホトトギス」沈滞期を代表する作家で同誌巻頭を28回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている(『定本現代俳句』「鈴木花蓑」の項)。
岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)… 岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)4月2日 - 大正5年(1916年)10月27日)は、大阪の株式仲買人。大阪市中央公会堂の寄付者として知られる。 大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本 栄蔵の次男として、大阪市南区安堂寺橋通2丁目(現在の大阪市中央区南船場2丁目付近)に生まれる。市立大阪商業学校、大阪清語学校及び明星外国語学校で、商業学及び外国語(英語、フランス語、清語)を修める。1904年日露戦争に出征して陸軍中尉となり、凱旋後、従七位に叙し勲六等単光旭日章を授けられる。 明治39年(1906年)3月、栄之助は早死にした兄に代わり、父・栄蔵の家督を相続し、株式仲買人となる。
岡 順次(おか じゅんじ、1877年〈明治10年〉4月2日 … 岡 順次(おか じゅんじ、1877年〈明治10年〉4月2日 - 1964年〈昭和39年〉10月14日)は、日本の政治家、実業家。徳島県鳴門市出身。位階は従七位。勲等は勲四等瑞宝章。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。公友会派に属した。1911年(明治44年)10月1日から板野郡選出の徳島県会議員を務めた。また、1915年(大正4年)10月12日から1918年(大正7年)12月25日まで第24代同副議長を、同日から1919年(大正8年)9月30日までと、同年10月14日から1920年(大正9年)5月11日まで第22・23代同議長を務めた。その他、大津村長、徳島倉庫取締役、徳島民報社取締役会長、徳島毎夕新聞社長などを務めた。
鎌田 弥彦(かまだ やひこ、1877年〈明治10年〉4月1日… 鎌田 弥彦(かまだ やひこ、1877年〈明治10年〉4月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれた。1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 1920年(大正9年)8月、北京駐屯歩兵隊長に就任。1921年(大正10年)7月、歩兵大佐に昇進し神戸連隊区司令官となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第39連隊長に異動。1926年(大正15年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第32旅団長に就任。 1927年(昭和2年)7月、第11師団司令部付となり、1930年(昭和5年)8月、台湾守備隊司令官に移るが、セデック族の反乱(霧社事件を指す)を鎮圧した。
江部 敦夫(えべ あつお、1877年4月 - 1923年12… 江部 敦夫(えべ あつお、1877年4月 - 1923年12月4日)は、日本の教育者。旧制高知高等学校(現・高知大学)の初代校長を務めた。 新潟県北蒲原郡嘉山(現・新潟市北区)で生まれる。尋常小学校卒業後寺院に入ったが、後に京都市の真宗大学(現・大谷大学)に進学した。 1898年、早稲田中学校に転学、5年生に編入される。第一高等学校に進み、卒業時は川田順と同窓であった。1902年、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)社会学科に入学した。 東京帝大卒業後は文部省に入省、第五高等学校 (旧制)の教授や督学官などを歴任した後、1922年に創立(開校は翌年)した高知高等学校の初代校長に就任した。当時満46歳だった江部は、全国で最年少の高等学校長だった。
野坂 康二(、明治10年(1877年)4月 - 没年不明)は… 野坂 康二(、明治10年(1877年)4月 - 没年不明)は日本の実業家。ゼオライト工業(株)社長。米子製鋼所、日本信号各取締役。鉄道省嘱託。大阪鉄道学校理事長。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元鳥取県米子市長野坂寛治の叔父。 鳥取県米子市法勝寺町出身。商家の生まれである。屋号は油屋。野坂與八郎の六男。 明治35年(1902年)東京帝国大学工科機械科を卒業。大正14年(1925年)、甥寛治方より分家す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 春二(なかむら はるじ、1877年(明治10年)3月3… 中村 春二(なかむら はるじ、1877年(明治10年)3月31日 - 1924年(大正13年)2月21日)は、明治末期から大正期の教育者にして成蹊学園の創立者。
李 堈(り こう、朝鮮語: 이강〈イ・ガン〉、1877年3月… 李 堈(り こう、朝鮮語: 이강〈イ・ガン〉、1877年3月30日 - 1955年8月16日)は、大韓帝国の皇族(王)、のち大日本帝国の公族。朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。 朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏(出産当時は承恩尚宮だった)。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。幼名は平吉(ピョンギル)。朝鮮王朝の慣例では、国王の庶子は世子が10歳になるまで宮中に入ることはできなかったため、哲宗の女婿朴泳孝のもとで育てられた。その後も興宣大院君の反対でなかなか王子として認知されず、庶民的な生活を強いられた。素行は荒れ、市中の無頼とも付き合うようになったという。
溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3… 溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3月30日 - 1933年(昭和8年)11月25日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 溝手直次郎の長男として岡山県都宇郡早島村(現都窪郡早島町)に生まれる。一時直次郎の兄の養嗣子となるが、のち復籍し、9歳にして家督を相続する。1896年(明治29年)1月、早島、倉敷の地主、佐藤、綱島、大橋らと共に中備銀行を創立し頭取に就任した。早島随一の大地主として120町歩の小作地を経営し、その収入を株式や公債に当て利殖を図る。1910年(明治43年)韓国併合を契機に韓国にも180町歩の土地を購入、農場経営に着手した。
井野 次郎(いの じろう、1877年〈明治10年〉3月25日… 井野 次郎(いの じろう、1877年〈明治10年〉3月25日 - 1952年〈昭和27年〉10月25日)は、日本の内務官僚、政治家。官選沖縄・宮城県知事、東京市助役、長崎市長。正四位勲三等。 群馬県群馬郡徳丸村(後東群馬郡、勢多郡下川淵村を経て現・前橋市徳丸町)に、井野寿平の次男として生まれる。東京高等師範学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学英法科を卒業。1912年(大正元年)11月、文官高等試験行政科試験に合格[要出典]。内務省に入省し群馬県属となる[要出典]。 以後、東京府郡長、熊本県理事官、神奈川県理事官、長崎県警察部長、広島県警察部長、佐賀県内務部長、和歌山県内務部長、宮城県内務部長、北海道庁土木部長を歴任した。
池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3… 池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3月24日 - 昭和29年(1954年)3月6日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲、澤田 三治。 1877年(明治10年)3月24日、大分県下毛郡大幡村の村長池永為策の三男として生まれる。兄は隆二で、父の跡を継ぐ。 当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男(山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。 1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助の横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)… 青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)3月20日 - 1930年(昭和5年)8月18日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡下新入村(のち鞍手郡新入村、現:直方市下新入)で生まれる。1906年、早稲田大学法律科を卒業。農業を営む。 新入村会議員、鞍手郡会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、帝国農会議員、鞍手郡農会顧問、鞍手育英会評議員などを歴任。農業視察のためアメリカ合衆国に渡航している。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第十区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回、第17回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 191… 磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 1918年1月31日)は、明治・大正期の新聞記者。NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』(1986年前期作品)の主人公のモデルともなった。長男は、国際東アジア研究センター名誉所長や東洋大学学長などを務めた磯村英一(1903- 1997)。 1877年(明治10年)、小泉伊助とカツの長女として、福島県相馬郡中村町(現・相馬市)に生まれる。 宮城女学校(現・学校法人宮城学院)に入学。母校は1886年(明治19年)に創立されたばかりのキリスト教系の学校で、日本のキリスト教者の押川方義牧師等がアメリカ合衆国の改革派教会宣教師ウィリアム・E・ホーイと開いた。
京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月… 京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月15日 - 1928年(昭和3年)10月30日)は、浪曲師。広島県尾道生まれ。本名・吉田松吉。京山小圓とも表記する。 幼いころから義太夫語りになるため修行を積む。浪曲師で京山派の始祖・2代目京山恭安斎の弟子となる。余技に義太夫を得意とし、息の長い重厚な小円節を創り上げた。1908年上京、京橋新富座で独演会を開くと“関西にこの人あり”と評判を呼んだ。桃中軒雲右衛門の武士道鼓吹に対して、人道鼓吹とも称し、巧みな会話と俗に三段流しといわれる息の長さと低音の関西節に聴衆は酔いしれたという。明治末期から大正期にかけて雲右衛門、二代目吉田奈良丸と共に、三巨頭とも称され第1期の浪曲黄金時代を創り上げた元老の一人である。
金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月1… 金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月13日 - 1955年〈昭和30年〉3月5日)は、日本の政治家、実業家。拓務大臣(第16代)、厚生大臣(第7代)。衆議院議員(9期)。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。 経済企画庁長官を務めた佐藤一郎及び通産事務次官を務めた熊谷典文は女婿、佐藤の長男で衆議院議員を務めた佐藤謙一郎は孫にあたる。 大分県宇佐郡高家村(現:宇佐市)生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1910年(明治43年)に太陽生命保険に転じて支配人となり、1913年(大正2年)に独立して大正生命保険(現:プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)の社長となる。
河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日… 河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日 - 1942年(昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派の女形俳優。大正期には、伊井蓉峰・喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。 本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京府京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。 下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。 山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。
島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年… 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。
板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月… 板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月12日 - 1949年(昭和24年)12月20日)は、貴族院勅選議員、衆議院議員、参議院議員。研究会所属。旧姓・山田。 新潟県出身。山田六右衛門の息子として生まれ、初代・板谷宮吉の養子となる。慶應義塾大学卒業後、明治45年(1912年)板谷商船副社長、小樽商業会議所顧問、北海道農友会会頭、札幌電気軌道、渡島海岸鉄道、沙流鉄道、洞爺湖電気鉄道、帝国自動車工業各社長。樺太銀行、平和生命、十合百貨店、日本電気冶金、羽田精機各取締役。 昭和2年(1927年)に栗林五朔急死に伴う北海道5区の補欠選挙において政友会は室蘭から適当な候補者を絞れず小樽の板谷が推薦されることになり、民政党の候補者と争い衆議院議員に当選した。
堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日… 堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日 - 1955年(昭和30年)1月5日)は、日本の実業家・政治家。 堀祐織物創業者。桐生体育協会初代会長。桐生市議会議員(4期)を務めた。 長野県上高井郡井上村(現在の須坂市)出身。20歳の頃、群馬県山田郡桐生町(現在の桐生市)に移住し機業を営む。緯糸に人造絹糸、経糸に絹糸を使用したリボン織を考案し、人絹織物の商品化に成功した。 1925年(大正14年)5月10日、桐生市会議員に当選。1928年(昭和3年)4月1日、群馬県体育協会理事に就任。同年11月3日に桐生市体育協会長に就任。新川運動場(後の桐生新川球場、現在の新川公園)の建設を推進し、市内の体育施設の整備に尽力した。
小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日… 小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日 - 1936年(昭和11年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争では第三軍の一員として戦い、のち歩兵第十六連隊長を務めた陸軍少将である。 旧会津藩藩士小山満峻の長男として宇都宮に生まれる。満峻は戊辰戦争後に栃木県に勤務した。小山は陸軍士官学校9期で、稚松会創立会員の一人。陸士同期では武川寿輔などが同様であった。小山の原隊は歩兵第十五連隊(高崎)、兵科は歩兵であり、1898年(明治31年)6月に歩兵少尉へ任官している。中尉時代に日露戦争に出征し、旅順で二〇三高地の攻略戦に加わった。1904年(明治)37年8月大尉に進級し、奉天会戦では田義屯の戦いに功績があった。
村上 隆吉(むらかみ りゅうきち、1877年(明治10年)3… 村上 隆吉(むらかみ りゅうきち、1877年(明治10年)3月7日 - 1934年(昭和9年)12月15日)は、日本の農商務官僚。帝国水産会会長。男爵。
森 俊六郎(もり しゅんろくろう、1877年(明治10年)3… 森 俊六郎(もり しゅんろくろう、1877年(明治10年)3月6日 - 1957年(昭和32年)3月19日)は、日本の大蔵官僚・銀行家。理財局長を最後に退官し、台湾銀行副頭取、南満州鉄道理事を歴任した。妻は烏山藩主・大久保忠順の娘・朝子。子爵・貴族院議員の大久保忠春は義弟。 福島県出身。会津中学を経て、二高第一部法科を首席で、1902年(明治35年)7月に東京帝大法学部政治学科を卒業。松平恒雄が大学時代の同級生である。大蔵省に入省し、同年11月文官高等試験に合格した。席次は41名中8番で首席は帝大同期の西野元であった。翌年主計局司計課長となり、参事官を兼任。1906年(明治39年)には大蔵大臣・阪谷芳郎の秘書官を務めた。
永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5… 内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5日 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県加西郡、のちの多加野村(現加西市)で生まれた。1897年(明治30年)東京帝国大学農学科卒。日露戦争に参加、陸軍騎兵中尉に進む。兵庫県立農学校、同赤穂農学校教諭兼校長を歴任し、兵庫県会議員、同参事会員、村長を務める。また、加西郡農会副会長、同畳表同業組合長、同畜産組合長、播州紡績、北播水力電気、日本製棉製紙、播磨縄莚各(株)取締役、播州石粉、播州算盤各(株)社長、中播電気、播州水力電気、北条銀行、関西土木電気興業各(株)監査役となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において兵庫9区から憲政会公認で立候補して当選する。
岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - … 岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - 1951年〈昭和26年〉9月7日)は、歌人、書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名・三郎。書号・三谷(さんこく)、俳号・傘谷(さんこく)。 徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく、17歳のとき香取秀真に一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのはこれまで自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。
本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日… 本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日 - 1970年(昭和45年)2月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 山形県出身。酒田本間家の一族、本間東三郎の長男として生まれる。東京外国語学校を経て第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し大学院に進んだ。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 以後、富山県事務官、同理事官、島根県警察部長、愛媛県警察部長、広島県警察部長、警視庁官房主事、同高等警察課長、兵庫県内務部長などを歴任。 1922年10月、長野県知事に就任。ブラジル移民の推進、郡制廃止への対応、中等学校の整備、道路網の改良などを推進。
丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日… 丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日 - 1932年(昭和7年)3月9日)は、日本の大蔵官僚、実業家。 東洋葉煙草社長。協立煙草、東洋錫紙(現・UACJ製箔)各取締役。 族籍は青森県士族。従四位勲四等。 長男は京都製作所元会長の丸瀬雄一郎。孫は丸紅会長・朝田照男の妻にあたる。 青森県士族・元郡長の丸瀬正果の長男として生まれ、1925年(大正14年)家督を相続する。 1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年、文官高等試験(第11回)に合格し、大蔵省専売局に配属され、煙草専売局属、同事務官、同三次、同監査課長等を歴任。その後、同総務課長かつ臨時議院建築局理事を最後に、1924年(大正13年)10月、退官。
杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 … 杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 - 1943年(昭和18年)7月6日)は、日本の教育家である。 神奈川県に生まれ、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に入学する。卒業後は留学のため渡米し、カリフォルニア大学にて教育学および心理学を学んだ。帰国後は静岡師範学校(後の静岡第一師範学校、現在の静岡大学教育学部)で教鞭を執り、1916年(大正5年)には長野師範学校(現在の信州大学教育学部)に転勤する。 翌1917年(大正6年)には同学校附属の小学校の研究学級の教師にあたり、実験心理学を元に新教育の促進に携わった。これによって1925年(大正15年)には新教育の研究会から「研究学級の経営」として杉崎が研究した成果の発表にあたった。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
目黒 孝平(めぐろ こうへい、1877年(明治10年)3月2… 目黒 孝平(めぐろ こうへい、1877年(明治10年)3月2日 - 1919年(大正8年)10月10日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡須原村長。号・皆水。 新潟県魚沼郡、のちの北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、大地主・目黒徳松の長男として生まれる。1899年(明治32年)12月、家督を相続した。慶應義塾を経て、同志社に進み政治経済を学んだ。 帰郷して須原村長に2回選出された。公共事業などに私財を投じて信望があった。日本赤十字社特別社員、東洋調帯取締役、戦友共済生命保険(のち東邦生命保険)取締役なども務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙に新潟県郡部で立憲国民党から出馬して初当選。