伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - … 伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - 1983年2月5日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長を務めた。東京都出身。 1933年に明治大学法学部政治学科を卒業し、1935年4月に千代田火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1965年6月に専務、1969年6月に副社長を経て、1977年7月から1980年7月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1983年2月5日に急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月1… 植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月15日 - 2006年(平成19年)6月22日)は、日本の郷土史家。山梨県の郷土研究を行う。位階は従六位。 山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市須玉町)に生まれる。山梨県師範学校本科一部・同校専攻科を卒業後、西八代郡高田村(現・市川三郷町)の高田小学校、山梨県女子師範学校附属小学校に勤務し初等教育に携わり、1948年(昭和23年)には東山梨郡後屋敷村(現・山梨市)の後屋敷小学校、塩山市立北小学校、山梨市立八幡小学校において教頭職を務め、1966年(昭和41年)に東山梨郡牧丘町の牧丘町立牧丘第二中学校(現在・山梨市立牧丘第二中学校)校長で退職。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8… 林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8月6日)は、日本のアメリカ文学者。 千葉県出身。1935年東北帝国大学文学部英文科卒。旧・東京都立大学助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、創価大学文学部教授。92年定年、名誉教授。
真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -198… 真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -1987年10月30日)は、日本の小説家、文芸評論家。大衆文学研究会会員。 愛媛県宇摩郡関川村(現・四国中央市)出身。1931年、広島高等師範学校(現・広島大学)国文科中退。上京して日本プロレタリア作家同盟に加入するが、後に脱退。1939年博文館に入社し、勤務の傍ら時代小説を執筆。戦後は数年間、新小説社の『大衆文芸』の編集をし、自ら「炎風」を連載。1958年『炎風』で新鷹会賞特別奨励賞を受賞。その後は実作及び評論を手がける。
花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 19… 花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 1984年6月12日)は、日本の女優である。出生名は瀧川 幾代(たきがわ いくよ)、結婚後本名は松崎 幾代(まつざき いくよ)。1920年代末の松竹蒲田撮影所の喜劇女優として知られ、戦後は新東宝に所属、脇役俳優として映画に多く出演した。 1910年(明治43年)9月11日、静岡県静岡市寺町(現在の同県同市葵区駿河町)に生まれる。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』(蒲田雑誌社)には「1911年9月1日出生」との旨の記述がみられる。 旧制小学校卒業後、旧制・静岡精華高等女学校(現在の静岡大成高等学校)に進学、1928年(昭和3年)3月、同校を卒業する。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉… 平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉9月10日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の作曲家。本名、平井 保喜(ひらい やすき)。 高知県吾川郡伊野町(現:いの町)出身。父親・惣太郎の影響で、家にはオルガンや蓄音器がある等、音楽的に恵まれた環境で育った。伊野小学校から、1923年(大正12年)に旧制土佐中学校(現:土佐中学校・高等学校)入学。土佐中学校在学中に当時の校長:三根円次郎(ディック・ミネの父)が生徒向けに用意していた蓄音機で音楽を聴き、独学でヴァイオリンを練習したことがNHKのラジオ番組で息子の平井丈一朗によって語られた。1929年(昭和4年)に東京音楽学校(現:東京藝術大学音楽学部)ヴァイオリン科に進学し、ローベルト・ポラックに師事して1934年(昭和9年)に卒業。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 -… 森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。
児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9… 児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9日 - 平成3年(1991年)7月15日)は鳥取ガス株式会社の第3代社長。昭和52年(1977年)に黄綬褒章受章。 鳥取県の文化活動の中心として活躍した実業家。文化人。著書『黙堂閑話』。鳥取市出身。 昭和7年(1932)合名会社児嶋商店を継ぐ。昭和28年(1953)に鳥取ガス株式会社代表取締役社長、同年鳥取ガス産業株式会社代表取締役社長に就任し、ガス供給事業に尽力。昭和49年(1974)に日本ガス協会理事に就任し、ガス業界の発展に寄与した。昭和50年(1975)に君司酒造株式会社、昭和62年(1987)に鳥取ガス株式会社、昭和63年(1988)に鳥取ガス産業株式会社のそれぞれ代表取締役会長に就任。
黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 200… 黒柳 朝(くろやなぎ ちょう、1910年9月6日 - 2006年8月16日)は、日本の随筆家である。タレントの黒柳徹子の母親。
竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1… 竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1959年11月9日)は、日本のアナウンサー。 新潟県出身とされる一方、戸籍謄本には「富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)生まれ」と記載されている。 もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。 青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1934年にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格し、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後の養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。
頼 桃三郎(らい ももさぶろう、1910年〈明治43年〉9月… 頼 桃三郎(らい ももさぶろう、1910年〈明治43年〉9月4日 - 1992年6月)は、日本の国文学者、広島大学名誉教授。竹原頼家の子孫である。 広島県賀茂郡竹原町(現竹原市)に生まれる。竹原町の富豪で製塩業・頼俊直の三男。第三高等学校を経て、1933年、東京帝国大学文学部国文科卒業。 1939年から1945年まで日本放送協会勤務。1946年、三原高女、県師範女子部、1949年、広島大学教育学部分校の教師。1953年から1963年まで三原分校付属校長。その後広島大学教授となり、1974年、退官、名誉教授、安田女子大学教授。 頼山陽の叔父頼春風の玄孫である。近世浄瑠璃を専門とした。趣味は柔道。住所は広島市南区比治山町、広島市牛田本町6丁目。
宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1… 宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。本名は宇治山哲夫。 明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。 1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。
金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910… 金 徳烈(キム・ドギョル、朝鮮語: 김덕열/金德烈、1910年9月2日 - 消息不明)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 京畿道楊州郡州内面維楊里(現・楊州市維楊洞)出身。中央高等普通学校(現・中央高等学校)を卒業した後、1930年に京城法学専門学校(現・ソウル大学校)、1933年に普成専門学校(現・高麗大学校)法科にそれぞれ入学した。1936年に卒業後、渡日し中央大学法学部に入学し、1940年に卒業した。光復後は米軍政庁で管財処の監察官、楊州郡の州内面長などを務めた。1948年5月の初代総選挙に無所属で楊州郡甲区より立候補して当選し、制憲国会議員となった。当選後の6月に無所属倶楽部に参加し、常任委員会の産業労農委員会に所属した。
水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 19… 水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 1984年8月29日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(外野手)、野球指導者(プロ野球監督)。
宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980… 宇佐美 淳(うさみ じゅん、1910年9月1日 - 1980年5月9日)は、日本の俳優。宇佐美 淳也、宇佐美 諄の芸名でも活躍した。本名:駒木 五郎。 岩手県二戸郡姉帯村出身。東京農業大学中退後に明治大学を卒業。その後は松尾自動車会社に就職。1937年、親類である作家の北村小松の紹介で新興キネマに入社。映画役者として端役からキャリアを積み、二枚目スターとしての地位を確立。 新興太泉への入社時に付けた芸名「宇佐美諄」は宇佐美が理想の青年像と考えていた菊池寛の小説「心の日月」の登場人物「宇佐美慎介」にあやかったものだが、これをそのまま拝借しようとしたところ新興の宣伝部長に「慎介という名前は現代青年らしくない」と反対されたため、一字名の「諄」にしたという。
近藤 ミネ(こんどう ミネ、1910年〈明治43年〉9月1日… 近藤 ミネ(こんどう ミネ、1910年〈明治43年〉9月1日 - 2025年〈令和7年〉5月20日)は、日本の農家、スーパーセンテナリアン。愛知県額田郡幸田町在住の長寿の女性。2025年4月26日から死去まで国内最高齢であった。 愛知県東加茂郡旭村大字伊熊(現:豊田市伊熊町)に生まれた。結婚後は農家として働き、明るい性格で周囲から好かれていた。 2023年3月に愛知県最高齢者となり、2024年12月に日本で2番目の長寿者となった。9人の子をもうけ、孫が16人、ひ孫が33人、玄孫が11人いる。「うまい、うまい」が口癖であるという。長生きの秘訣は好き嫌いなくなんでも食べること。また「よく外に出かけていたこと」も秘訣とされ、毎年豊田市の香嵐渓を訪れ、うどんや五平餅を食べていた。
吉田 四郎(よしだ しろう、1910年9月 - 1997年1… 吉田 四郎(よしだ しろう、1910年9月 - 1997年12月18日)は、日本の実業家・技術者。旭硝子株式会社(現・AGC株式会社)で常務取締役を務め、戦後のブラウン管テレビ用ガラスの国産化および量産体制の確立に貢献。日本の高度経済成長を支えた素材産業の技術系経営者の一人である。 鳥取県八頭郡安井宿(現八頭町)に生まれ、鳥取県立鳥取中学校(旧制)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。 卒業後、旭硝子株式会社(現・AGC)に入社し、技術者としてガラス製造現場に携わる。1950年代、白黒テレビの急速な普及を背景に、テレビ用ブラウン管ガラス(バルブ)の国産化プロジェクトに参画。
江津 萩枝(えづ はぎえ、1910年9月 - 2008年3月… 江津 萩枝(えづ はぎえ、1910年9月 - 2008年3月27日)は、日本の小説家。 東京・京橋出身。沢村貞子の紹介で築地小劇場内の移動劇団「メザマシ隊」に参加し、小杉てるの芸名を名乗った。小説家としては、原爆文学として知られる『桜隊全滅』や築地小劇場を描いた『メザマシ隊の青春』など、太平洋戦争の時代とそれに翻弄された演劇集団を描きだした著作がある。 『桜隊全滅』は1988年、新藤兼人の脚本・監督により「さくら隊散る」の題名で映画化された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐野 嘉吉(さの かきち、1910年(明治43年)8月30日… 佐野 嘉吉(さの かきち、1910年(明治43年)8月30日 - 1993年(平成5年)3月7日)は、日本の元政治家。元自由民主党衆議院議員(3期)。
上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8… 上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8月29日 - 2011年(平成23年)12月27日)は、日本の内務官僚、建設官僚、政治家。参議院議員(2期)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。旧制高鍋中学校卒。1936年に宮崎県庁に入り、1941年に内務省に転じる。1945年、内務省国土局内務理事官。1957年、国土地理院総務部長になる。建設省大臣官房福利厚生課長を経て、1965年、建設大学校校長。退官後、全国建設研修センター理事長、日本道路公団顧問を経て、1974年の参院選で宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。2期務めた。この間、1977年から1978年まで科学技術政務次官、1981年から1982年まで参議院地方行政委員長に就任。
中田 乙一(なかた おとかず、1910年(明治43年)8月2… 中田 乙一(なかた おとかず、1910年(明治43年)8月29日 - 1999年(平成11年)12月28日)は、日本の実業家。元三菱地所社長。位階は正四位。 北海道小樽市出身。庁立小樽商業学校を経て、1932年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。 大蔵省勤務を経て、1939年三菱地所に転じる。総務部長・取締役・常務・副社長などを経て、1969年に社長に就任。在任中は、数多くのニュータウン事業を手がけた他、横浜市の「みなとみらい21」構想を策定するなど、宅地開発・都市再開発事業を積極に推し進め、それまで東京・丸の内の貸ビル事業が主体であった同社を、総合デベロッパーとして発展させる基を築いた。
藤本 幸邦(ふじもと こうほう、1910年8月29日 - 2… 藤本 幸邦(ふじもと こうほう、1910年8月29日 - 2009年12月4日)は、曹洞宗の僧、福祉事業家。 長野県長野市出身。曹洞宗円福寺住職。駒澤大学仏教学科卒。渡辺薫美に師事。戦後、長野市篠ノ井地区に篠ノ井文化協会を設立し、劇団「たんぽゝ」などの文化活動を始める。1948年養護施設円福寺愛育園を設立、「一寺院一孤児」を提唱する。曹洞宗大本山布教師、同北信越管区教化センター統括。アジア難民救済事業も行いカンボジアに小学校校舎を寄付した。1984年仏教伝道文化賞受賞。
門脇 吉一(かどわき よしかず、1910年8月28日 - 1… 門脇 吉一(かどわき よしかず、1910年8月28日 - 1978年7月12日)は、日本の経営者。香川県出身。 1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年に日本麦酒(のちのサッポロビール)に移り、1958年に人事部長に就任し、経理部長、取締役、常務、専務を経て、1973年に社長に就任。1978年には会長に就任した。 1978年7月12日胃がんのために死去。67歳没。
水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治… 水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治43年)8月25日 - 2003年(平成15年)4月8日)は脚本家。映画監督の谷口千吉は元夫。1913年(大正2年)生まれを自称していた。
尾原 佐七(1910年8月25日 - 没年不明)は、日本の実… 尾原 佐七(1910年8月25日 - 没年不明)は、日本の実業家。尾原呉服店、山陰ゴム卸(株)各社長。島根県衣料品商業協同組合会理事長。島根倉庫(株)取締役、島根県信用保証協会理事。松江商工会議所常議員。松江商店会会長。旧名一義。 島根県松江市白潟本町出身。先代佐七の長男。旧名一義、佐七を襲名した。1935年尾原呉服店の専務となり、1947年同社長に就任した。 宗教は真宗。菩提寺は明宗寺。
一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2… 一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2010年10月1日)は、北海道小樽市に居住していた版画家。モノタイプ手法を用いた特異な作風で、国際的にも名高い。また、俳人・登山家としても知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
富澤 政鑒(とみざわ まさみ 1910年(明治43年)8月2… 富澤 政鑒(とみざわ まさみ 1910年(明治43年)8月23日 - 1980年(昭和55年)2月7日)は、日本の政治家。初代多摩市長である。 1910年に多摩市の連光寺に生まれる。祖父は富澤政賢。 1959年に多摩村の村長になった。 1964年に多摩村の町政執行により、初代町長、唯一の町長になった。 1971年に多摩町の市政執行により、初代市長になった。 聖蹟桜ヶ丘の高級分譲住宅地を中心に住宅都市化を推進した。公団による多摩ニュータウン開発を受け入れた。 1979年に選挙で臼井千秋に敗れ、市長を辞める。 その約1年後の1980年に死去。
古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 19… 古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 1993年8月)は、日本の看護教育者。戦後の看護教育の基礎を築くとともに、看護学校の大学化への運動を行った。歌人として八代 かの江の筆名も用いた。 山梨県東八代郡御代咲村(現・笛吹市)に生まれる。両親はともに小学校教員で、父盛治は校長を務めたが結核に罹患し47歳で他界した。 1930年に山梨県女子師範学校本科第一部を卒業し、1930年4月から1934年3月まで山梨県御代咲小学校教員を務める。1934年4月に日本赤十字社中央病院看護婦養成所(甲種)に入学、1937年3月に卒業し、成績優秀により橋本記念賞受賞。同年4月、日本赤十字社山梨支部診療所に勤務。
近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 19… 近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 1978年8月16日)は、愛知県豊橋市中柴町出身の教育者・郷土史家。文学博士(東洋大学、1972年)。 1910年に豊橋市中柴町に生まれた。建具商である近藤宇一の長男であり、生家は大手通りから諏訪神社に曲がる角にあった。松山尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)、愛知県豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。教員志望だったため、1928年(昭和3年)には東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学し、1931年(昭和6年)に卒業した。 1934年(昭和9年)に花田尋常小学校(現・豊橋市立花田小学校)代用教員となったのが教職の始まりである。豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、豊橋市立工業学校(現・愛知県立豊橋工業高等学校)、愛知県立時習館高等学校の教員を務め、1971年(昭和46年)に時習館高校で定年を迎えた。
玉木 泰男(たまき やすお、1910年8月22日 - 200… 玉木 泰男(たまき やすお、1910年8月22日 - 2007年3月21日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長、会長を務めた。東京都出身。 1935年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1963年3月に横浜ゴムに転じ、1963年8月に取締役に就任し、1965年8月に常務、1967年8月に専務、1971年8月に副社長を経て、1977年12月に社長に就任。1981年3月に会長に就任し、1983年3月に取締役相談役を経て、1985年に相談役に就任。 1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2007年3月21日、心不全のために死去。96歳没。
金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 197… 金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 1977年11月30日)は、日本の実業家、鬼怒川温泉ホテル元代表取締役社長、日本旅行協定旅館連盟元会長、日本ホテル協会元理事長、内閣観光政策審議会元専門委員。 1910年8月22日、日光金谷ホテル創業者、金谷善一郎の長女・金谷多満と婿養子・正生の長男として栃木県日光で誕生する。 1934年、立教大学卒業。大学在学中は、アイスホッケー部の金谷三兄弟の長兄として活躍する。 箱根富士屋ホテル、帝国ホテルで修業した後、金谷ホテル・日光物産商会取締役に就任。 1953年、父・正生が初代館長に就任していた鬼怒川温泉ホテルを日光金谷ホテル(本店)より独立し、鬼怒川温泉ホテル株式会社を設立、初代社長に就任。
鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉… 鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉5月8日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(3期)。位階は正六位。 山形県南村山郡上山町十日町出身。旧制山形中学校(現山形東高校)、早稲田大学中退。1931年に兄の死去に伴い上山町に帰郷。太平洋戦争に応召。1945年終戦は台湾の屏東で迎えた。復員後、山形県に奉職。山形県知事室秘書課長、文書課長、統計課長、東京事務所長、最上事務所長、東南村山地方事務所長を歴任。 1959年より松本長兵衛市長のもと上山市助役を2期務めた。 1971年7月に上山市長選に出馬し、雨谷憲作との一騎打ちを制して初当選。(鈴木啓蔵13,549票、雨谷憲作9,204票) 1975年6月の市長選では、無投票当選し2選。
佐々木 一義(ささき かずよし、1910年8月19日 - 1… 佐々木 一義(ささき かずよし、1910年8月19日 - 1978年7月11日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市生まれ。1934年東京帝国大学文学部倫理学科卒、文部省に入省。1961年「ハイデッガーの実存論的空間性論について」で九州大学文学博士。1940年小樽高等商業学校教授、1944年久留米工業専門学校教授、1949年九州大学第三分校助教授、51年第二分校助教授、53年教授、63年教養部教授、70-71年教養部長、75年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。 1978年7月11日、すい臓がんのため神奈川県相模原市の北里大学病院にて死去。67歳。
菊池 喜充(きくち よしみつ、1910年8月19日 - 19… 菊池 喜充(きくち よしみつ、1910年8月19日 - 1984年10月31日)は、日本の電子工学者。電気音響工学、超音波工学の専門家で、魚群探知機、超音波探傷法の実用化、フェライトによる磁歪材料の開発などに貢献した。紫綬褒章受章。朝日賞等受賞。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8… 内藤 正之(ないとう せいし、1910年 <明治43年> 8月18日 - 1996年 <平成8年> 10月31日)は、日本の経営者。日立電線社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1935年に大阪帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1956年10月に日立電線に転じ、1961年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1968年11月に専務を経て、1970年5月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1979年6月に会長を経て、1983年6月から相談役を務めた。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1996年10月31日呼吸不全のために死去。86歳没。
中島 栄次郎(なかじま えいじろう、1910年(明治43年)… 中島 栄次郎(なかじま えいじろう、1910年(明治43年)8月18日 - 1945年(昭和20年)5月27日)は、日本の文芸評論家、詩人、哲学者。 京都帝国大学教授の田辺元のもとで、ニーチェの研究などに携わり、毎日新聞に文芸評論を書いた(その際の担当記者が井上靖)。 大阪高等学校 (旧制)の同級生を中心に文芸同人誌『コギト』の創刊メンバーである。はじめ沖崎猷之介の筆名を用い、第16号(昭和8年9月号)以後は本名で主に評論を、また詩、小説を発表した。また、文芸同人誌『日本浪漫派』の創刊メンバーである。その創刊号の巻頭に「浪漫化の機能」を執筆した。同人には第二号から太宰治、檀一雄、第三号からは伊東静雄、大山定一らが加わった。
土橋 醇一(どばし じゅんいち、1910年(明治43年)8月… 土橋 醇一(どばし じゅんいち、1910年(明治43年)8月17日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は日本の洋画家。別名、土橋 醇(どばし じゅん)。 東京市小石川区に生まれ、1938年東京美術学校油画科卒業、1946年光風会会員、1952年光風会展特賞1953年から1973年まで渡仏、20年間パリで制作活動を送る。作品は東京国立近代美術館、パリ国立近代美術館等に収蔵されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
前田 弘邦(まえだ ひろくに、1910年8月17日 - 19… 前田 弘邦(まえだ ひろくに、1910年8月17日 - 1995年3月11日) は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。元繊維学会会長。 東京生まれ。陸軍少将前田吉平の子で、東京工業大学工学部電気化学科卒業後、「人造繊維製造ニ関スル研究」により1945年に東京工業大学より工学博士の学位を取得。東京工業大学繊維化学研究室教授を経て、東京工業大学名誉教授。1969年繊維学会副会長。1970年繊維学会会長。第1回(昭和54年度)繊維学会功績賞受賞。墓所は多磨霊園。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
今 治彦(こん はるひこ、1910年(明治43年)8月17日… 今 治彦(こん はるひこ、1910年(明治43年)8月17日 - 没年不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京生まれ。早稲田大学出身。日本のフィールドホッケーチームのメンバーで、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。フォワードとして2試合出場した。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月1… 富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月15日 - 没年不明)は、新潟県糸魚川市出身の陸上競技(中距離走)選手。1936年ベルリンオリンピックに800メートル競走と1500メートル競走で出場した。 新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現在の糸魚川市大町)出身。糸魚川小学校を経て、糸魚川中学校(現在の新潟県立糸魚川高等学校)卒業。明治大学に進学。 明治大学体育会競走部に所属し、1931年・1932年には日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)800m走で優勝。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には1931年の第12回大会から1935年の第16回大会まで4回出場している(1934年の第15回には出走していない)。
今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997… 今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997年10月13日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。本名は、今村義雄。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東洋大学専門部東洋文学科修了、1933年法政大学文学部哲学科中退。簡易保険局勤務を経て、日本文学報国会事務局長を務めた。戦後、鎌倉文庫勤務を経て、文芸美術国民健康保険組合発足から運営に従事し常務理事を務めた。1975年藍綬褒章受章。
中畑 義愛(なかはた よしちか、1910年(明治43年)8月… 中畑 義愛(なかはた よしちか、1910年(明治43年)8月15日 - 1991年(平成3年)7月14日)は日本の実業家。元電通代表取締役社長、元日本広告業協会会長。奈良県吉野郡十津川村出身。
潮 寒二(うしお かんじ、1910年8月15日 - 1981… 潮 寒二(うしお かんじ、1910年8月15日 - 1981年)は、日本の小説家、推理作家。 本名:飯田実。東京市西新宿十二社生まれ。父は西新宿の大地主であった。法政大学法文学部文学科英文学主攻中退。戦前には逓信省に勤めていたが、戦時中に横浜の高射砲部隊(高射砲第117連隊)に一兵卒として入隊。これを機に以降、軍需産業に勤使し、30代で課長となり名古屋に転勤している。 作家としては、1932年に「逃亡した死体」を『漫談』誌に発表。これがデビュー作となる。デビュー後5年間は少年小説などを執筆するが、戦時中には筆を折る。戦後、「猿人の血型」(1949年)で復活。1952年、『富士』誌に掲載された「義賊の春」が、「流転」のタイトルでラジオ・ドラマ化され、ニッポン放送系から4夜連続で放送された。
東 一雄(あずま かずお、1910年8月14日 - 2000… 東 一雄(あずま かずお、1910年8月14日 - 2000年10月5日)は、日本の洋画家。富山県富山市出身。紺綬褒章、元亜細亜美術交友会理事、元旺玄会会員。愛称は「カラス」。 水彩、水墨の作品もあるが中でも初期の代表的な木版画は陰刻法で戦後富山の版画の礎となる。その後、油彩でも本質や風土性は青や黒の作品が多く、海のテーマが多い。青をよく使うのは、「その色が好きだからということ、性格や体質からきたもので無意識だ」と語っている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
石原 省三(いしはら しょうぞう、1910年8月10日- 1… 石原 省三(いしはら しょうぞう、1910年8月10日- 1993年7月19日)は、日本の元スピードスケート選手・指導者。第二次世界大戦前にオリンピック出場2回。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会では500mで4位入賞を果たした。 満洲安東県(現在の中国遼寧省丹東市東港市)に生まれ育つ。南満洲鉄道(満鉄)がスケートを奨励したこともあり、満洲は大日本帝国の勢力圏において「スケート王国」と評され、スケート競技では内地を圧倒していた。スピードスケートにおいては、満鉄の仲介でハルピン在住ロシア人スケーター、ルシチャイがコーチとして指導にあたっていた。1931年には満鉄の岡部平太監督のもと石原らがヘルシンキの世界選手権大会に出場している。