貝塚 爽平(かいづか そうへい、1926年10月18日 - … 貝塚 爽平(かいづか そうへい、1926年10月18日 - 1998年11月13日)は、日本の地理学者。出身は三重県桑名市(旧桑名郡桑名町)。専門は地形学・第四紀学。(旧)東京都立大学名誉教授。理学博士。位階勲等は正四位勲三等旭日中綬章。 地形発達史研究や、活断層研究などが専門である。この分野に興味を持ったのは、旧制桑名中学校(現・三重県立桑名高等学校)時代に桑名駅西口から桑名中学へ至る地域に細長い丘の列があることを発見し、その成因が気になったことがきっかけである。研究者になった貝塚は自らこの謎に挑み、「桑名市西部の断層地形」の題名で地理学評論に論文を発表した。 戦後の日本における第四紀学、地形学の指導的な役割を果たした。
岡野 眞治(おかの まさはる、1926年10月18日 - 2… 岡野 眞治(おかの まさはる、1926年10月18日 - 2019年1月3日)は、日本の科学者。理学博士。 1926年、神奈川県鎌倉市出身で、鎌倉市に在住していた。 1945年に入学した電波科学専門学校(後の東海大学)は、日本の現代物理学の父と呼ばれる仁科芳雄が校長を務めており、卒業後は仁科が率いていた科学研究所(現理化学研究所)に入所する。 日本における放射線研究の第一人者であり、科学技術庁長官賞を2度にわたって受賞。 理化学研究所在籍時代には1954年には水素爆弾実験で第5福竜丸が被爆したビキニ事件では日本政府による調査団の一員としてビキニ環礁へ赴いたり、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生したウクライナ・プリピャチ周辺、東京電力福島第一原発事故が発生した福島県各地等、あらゆる場所で放射線状況を詳しく調査・測定している。
田中 融二(たなか ゆうじ、1926年10月18日 - 19… 田中 融二(たなか ゆうじ、1926年10月18日 - 1998年5月12日)は、日本の翻訳家。東京・千駄ケ谷生まれ。 大学予科から海軍予備学校生徒となり、東京大空襲で父を、広島の原爆で母を失い、敗戦後に一橋大学卒業。 1952年日本新聞協会、1963年ダイヤモンド・タイムに勤務。さまざまな職業に就きつつ翻訳をし1953年「ソビエト無銭旅行」で翻訳家としてデビュー。1957年沼田茂の名で「或る遺書」により文学界新人賞受賞。小説は翌年「鶏」を『文學界』に発表したのみで、以後翻訳家として生計を立てる。推理もの、SF、ビジネスものなど多数を翻訳、E・S・ガードナー、レン・デイトンなどが多かった。 最後はがんを宣告され、北海道の小樽で自動車に排気ガスを引き込んで自殺した。
前田 宏(まえだ ひろし、1926年10月17日 - 201… 前田 宏(まえだ ひろし、1926年10月17日 - 2017年12月25日)は、日本の弁護士(登録番号:21882)。元検事総長。日本テレビホールディングス株式会社・日本テレビ放送網株式会社社外取締役。 東京府生まれ。旧制東京高校から東京帝国大学法学部を経て、軍隊に応召されて入隊するも、敗戦後に復員。1951年に検事に任官。その後、内閣法制局参事官、法務省刑事局刑事・総務各課長、大臣官房人事課長、甲府地検検事正、法務大臣官房長、刑事局長、法務事務次官、東京高検検事長を歴任。1985年には次官として検察庁事務章程(昭和60年4月6日法務省令1号)の設置を推進し検察官の権限を拡大した。 1988年3月24日に検事総長に就任。
林 輝太郎(はやし てるたろう、1926年10月17日-20… 林 輝太郎(はやし てるたろう、1926年10月17日-2012年2月28日)は日本の相場師。商品先物取引で名を上げ、一般投資家教育にも尽力した。酒田罫線法を中心に相場技術に詳しく、その著書は証券会社の講習などにも使われる。 陸軍士官学校第61期生。法政大学経済学部および文学部卒業。 幾度も小豆での成功と失敗を繰り返した後、技法を中心とした取引に転換する。ヤマハ通商での事業は成功させることができなかった。その際、林は「相場の世界は実に単純なんです。値動きは激しいし、生き馬の目を抜く世界ですが、すべてが規格化されていて価格の交渉や仕入れ、販売ルートをつくる努力とか、そんなものは不要です。だが相場の世界でうまく立ち回れるからといって、いわゆる商売が上手にできるということではありません」と述べている。
武重 千冬(たけしげ ちふゆ、1926年10月16日 - 2… 武重 千冬(たけしげ ちふゆ、1926年10月16日 - 2001年3月3日)は、日本の医学者。昭和大学(現・昭和医科大学)学長を務めた。医学博士(1956年、千葉大学)。 長野県小諸市出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、昭和27年(1952年)昭和医科大学医学部卒業。同31年(1956年)母校講師、同32年(1957年)助教授。同35年(1960年)から4年間ペンシルベニア大学留学。同47年(1972年)昭和大学医学部第一生理学教室主任教授、同62年(1987年)医学部長、平成6年(1994年)学長。同11年(1999年)昭和大学医療短期大学学長を併任。 著書に「生活習慣がつくる病気」(川口毅と共著)がある。
奥田節夫(おくだ せつお、1926年10月16日 - 201… 奥田節夫(おくだ せつお、1926年10月16日 - 2017年6月2日)は、日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。 岡山県出身。1948年大阪大学理学部卒業後、高校講師や岡山大学理学部助教授などを務めた。 その後、1963年より京都大学防災研究所で助教授、1964年1月に教授となる。陸水学、地球物理学的見地から防災や環境について研究を行った。奥西一夫、諏訪浩らと進められた焼岳における土石流の観測の研究は国際的に高い評価を得ている。1985年から1987年まで同所長を務めた後、定年を待たずに1988年に退官した。 その後、岡山理科大学に移り研究を続けた。岡山理科大学定年後は、NPOで河口、沿岸海域の調査研究を進めた。
山口 光朔(やまぐち こうさく、1926年10月16日 - … 山口 光朔(やまぐち こうさく、1926年10月16日 - 1993年8月20日)は、日本の歴史学者。神戸女学院大学名誉教授。 兵庫県神戸市主まれ。神戸YMCAの主事だった山口一郎の長男として生まれた。御影教会で受洗。海軍兵学校在籍中に江田島から原爆投下された広島へ救援に行き二次被爆。 戦後すぐに京都教会に移り、その夏教会のキャンプで妹、鼎(かなえ)が水死。青年会の責任者であった竹中正夫と光朔は遺体を挟んで無言で一夜を過ごした。これが2人の最初の出会いであったという。京都大学大学院在学中に、豪僧といわれた八代斌助日本聖公会総裁主教の次女、洋子と結ばれる。八代主教の桃山学院大学設立を手伝い、主教の死後、神戸女学院大学に移った。
荒川 幾男(あらかわ いくお、1926年10月15日 - 2… 荒川 幾男(あらかわ いくお、1926年10月15日 - 2005年1月1日)は、日本の哲学者。東京経済大学名誉教授。専攻は、現代ヨーロッパ・日本近代思想史。 1926年、兵庫県神戸市で生まれた。東京大学文学部哲学科で学び、卒業。 卒業後は平凡社に入社し、『世界大百科事典』編集部などで勤務。その後、東京経済大学助教授に転じた。1969年に教授昇格。1988年、東京経済大学第3代学長に就任。1998年に東京経済大学を定年退任し、名誉教授となった。
木原 信敏(きはら のぶとし 1926年(大正15年)10月… 木原 信敏(きはら のぶとし 1926年(大正15年)10月14日 - 2011年(平成23年)2月13日)は、日本の技術者、実業家。元ソニー専務。元ソニー木原研究所会長。創業者井深大に見出され、ソニー創成期の基礎技術を確立させる。東京通信工業時代からのソニー創成期メンバーの一人。 東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区)生まれ。東京府立第二中(現東京都立立川高等学校)を経て早稲田大学専門部工科機械科を卒業後、1947年東京通信工業(現:ソニー)に新卒採用1期生として入社。 1950年に日本最初のテープレコーダー、1964年にビデオテープレコーダー国産第一号機やベータ方式のVTR「ベータマックス」を開発。
田丸 仁(たまる ひとし、 1926年10月14日 - 19… 田丸 仁(たまる ひとし、 1926年10月14日 - 1993年2月2日)は、神奈川県川崎市出身の元野球選手(内野手)・コーチ・監督。 旧制立正中から法政大学に進学するも、アキレス腱断裂の重傷を負ったため選手を断念。 卒業後は法政二高の監督に就任し、バントとヒットエンドランを多用する戦術で1960年の甲子園大会、1961年の選抜大会を連覇。1961年に母校・法大の監督となった。1964年退任。同年12月22日に東京オリオンズへの入団と同球団の二軍監督への就任が発表された。 本堂保次監督の代理として指揮を執っていた濃人渉の後任に、当初鶴岡一人を招聘しようとしたのが頓挫したことから。1966年の1シーズンだけ一軍の監督を務めた。
辻 敬一(つじ けいいち、1926年10月14日 - 199… 辻 敬一(つじ けいいち、1926年10月14日 - 1990年2月24日)は、日本の大蔵官僚。元行政管理事務次官。 東京府出身。東京大学法学部政治学科卒業。1948年3月 大蔵省入省。大臣官房文書課配属。1951年6月16日 沼津税務署長。1952年9月1日 甲府税務署長。以降、主計局中心のキャリアを歩み、総務課長補佐、主計官補佐(社会保険、労働係)、同(厚生係)などを務める。1966年8月1日 主計局主計官(厚生・労働担当)。1969年8月15日 主計局法規課長。1970年6月25日 大臣官房文書課長。1971年6月28日 東海財務局長。1972年6月27日 主計局次長(末席)。1973年6月26日 同(次席)。
寺田 雷太(てらだ らいた、1926年10月13日 - )は… 寺田 雷太(てらだ らいた、1926年10月13日 - )は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
宇尾 淳子(うお じゅんこ、1926年10月12日 - 20… 宇尾 淳子(うお じゅんこ、1926年10月12日 - 2006年9月11日)は、日本の生物学者(専門は昆虫生理学、内分泌学)。 大阪府大阪市出身。男爵・西五辻光仲の三女。夫は核融合の研究で知られる宇尾光治。 1948年奈良女子高等師範学校卒業。1951年京都大学理学部動物学科卒。1952-1953年純心女子短期大学(長崎)講師。1957年京都大学大学院(旧制)修了。1961年「鱗翅目昆虫の神経分泌系の電子顕微鏡的研究」で理学博士。1955-1964年海星女子学院短期大学助教授、教授、1962-1967年アメリカ・プリンストン大学研究員、西ドイツ・ミュンヘン大学助手、イギリス・オックスフォード大学研究員、1967-1985年塩野義製薬研究所主任研究員、1975年オーストラリア・アデレード大学客員教授。
辻村 明(つじむら あきら、1926年10月12日 - 20… 辻村 明(つじむら あきら、1926年10月12日 - 2010年8月20日)は、日本の社会心理学者、東京大学名誉教授。日本行動学会理事長。 1926年、静岡県浜松市生まれ。東京大学文学部社会学科で学び、1951年に卒業。 1964年、東京大学文学部社会学科助教授に就任。1972年、同教授に昇格。社会学科で社会心理学研究室の講座を担当した。1985年、学位論文『戦後日本の大衆心理:新聞・世論・ベストセラー』を東京大学に提出して社会学博士の学位を取得。1986年、静岡県立大学が設立されるのに伴い、準備会座長を務めた。1987年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、静岡県立大学国際関係学部教授となり、副学長に就いた。
土谷 武(つちたに たけし、1926年10月11日 - 20… 土谷 武(つちたに たけし、1926年10月11日 - 2004年10月12日)は、昭和後期から平成初期の日本の彫刻家の一人。 彼は主に、鉄や石といった素材を用いた作品を残している。1980年代以降は、「かたち」に注目し、そういった固い素材を使っているにもかかわらず『歩く鉄』や『開放 I』等、動きのある表現をしている作品が多い。 土谷 武『TSUCHITANI TAKESHI―土谷武作品集』美術出版社、1997年。ISBN 978-4568103137。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
和巻 耿介(わまき こうすけ、1926年10月11日 - 1… 和巻 耿介(わまき こうすけ、1926年10月11日 - 1997年10月14日)は、日本の作家、翻訳家。 兵庫県(大阪府)生まれ。本名・義一。1953年明治学院大学文学部英文科卒。役所勤務、教師などを経て文筆家。新鷹会会員。時代小説や怪奇ものを書き、翻訳した。 1972年池内祥三文学奨励賞受賞。
井上 宗雄(いのうえ むねお、1926年10月10日 - 2… 井上 宗雄(いのうえ むねお、1926年10月10日 - 2011年3月18日)は、日本の国文学者。専攻は、中古・中世和歌史。学位は、文学博士(立教大学・論文博士・1966年)(学位論文「中世歌壇史の研究 南北朝期」)。立教大学名誉教授。 東京生まれ。1949年第二早稲田高等学院(文科)修了後、学制改革により早稲田大学第一文学部国文学専修に編入、1951年同学科卒業。1953年早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻修了。1953年早稲田大学高等学院教諭、1962年立教大学専任講師、1965年同大学助教授。1966年「中世歌壇史の研究 南北朝期」で立教大学より文学博士の学位を取得。1971年立教大学教授。
将積 茂(しょうじゃく しげる、1926年10月9日-201… 将積 茂(しょうじゃく しげる、1926年10月9日-2014年1月22日)は、日本の哲学研究者。愛知教育大学名誉教授。 愛知県豊橋市出身。旧姓・高柳。1951年、名古屋大学文学部哲学科卒業。愛知学芸大学助教授、愛知教育大学教授。1989年7月1日から1995年6月30日まで同大学学長を務めた。同大学名誉教授。専門はヘーゲルだが、ヒトラーの『わが闘争』の翻訳で知られる。
角田忠信(つのだ ただのぶ、1926年10月8日 - )は、… 角田忠信(つのだ ただのぶ、1926年10月8日 - )は、日本の医学者、東京医科歯科大学名誉教授。『日本人の脳』は日本人の特殊性を説明する日本人論の一つとしてマスコミに多く取り上げられたが、批判もある。 1926年、東京府(現中野区)生まれ。府立六中卒(現新宿高校)、1949年、東京医科歯科大学卒(耳鼻咽喉科)。1951年に同大学助手、1957年に講師、同年に「鐙骨固着度の検出法」で東京医科歯科大学にて医学博士。1958 - 70年に国立聴力言語障害センター職能課長。1978年に東京医科歯科大学難治疾患研究所教授、『日本人の脳』を出版。1986年に『脳の発見 - 脳の中の小宇宙』で新潮社の日本文学大賞(学芸部門)受賞。
筧田 知義(といた ともよし、1926年10月8日 - 20… 筧田 知義(といた ともよし、1926年10月8日 - 2004年8月15日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授、富山県立大学名誉教授。教育学博士(京都大学、1981年)。旧制高等学校や幼児教育について研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
和泉 清(いずみ きよし、1926年(大正15年)10月8日… 和泉 清(いずみ きよし、1926年(大正15年)10月8日 - 2015年(平成27年)1月17日)は、昭和から平成時代の政治家。高知県土佐清水市長。 土佐清水市出身。陸軍航空学校卒業。卒業後は兵役に就く。戦後は船員となり、内海航路船長となる。1967年(昭和42年)和泉海事、和泉船舶興業を設立し、各代表となる。1979年(昭和54年)協同生コンを設立し、同代表となる。 1974年(昭和49年)土佐清水市議会議員に当選。3期務める。自由民主党土佐清水支部長を経て、1986年(昭和61年)土佐清水市長に当選。3期務め、1996年(平成8年)引退した。 2015年(平成27年)1月死去、88歳。
堀 淳一(ほり じゅんいち、1926年〈大正15年〉10月6… 堀 淳一(ほり じゅんいち、1926年〈大正15年〉10月6日 - 2017年〈平成29年〉11月15日)は、日本の物理学者、随筆家。北海道大学名誉教授。専門は理論物理学であるが、地図に関するエッセイを多く著した。 1926年、物理学者の父・堀健夫と母・志づの長男として京都府京都市に生まれる。弟妹が6人いる。経済学者で関西学院大学学長を務めた堀経夫は伯父、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は母方の叔父にあたる。父の北大着任に伴い、1935年(昭和10年)から北海道札幌市に在住。小学校の頃から地図の魅力に魅せられた。札幌一中(現・北海道札幌南高等学校)を経て、1950年に北海道大学理学部物理学科を卒業。
力石 定一(ちからいし さだかず、1926年10月6日 - … 力石 定一(ちからいし さだかず、1926年10月6日 - 2016年1月22日)は、日本の経済学者、社会工学者。法政大学名誉教授。 広島県尾道市生まれ。旧制三高から旧制東京大学経済学部に進み、学生運動に身を投じる。東大共産党細胞において渡邉恒雄らとの路線闘争を繰り広げ勝利。1948年には武井昭夫、沖浦和光らと全学連(全日本学生自治会総連合)を結成。全学連の理論面での指導者とされた。翌年6月3日に東大で学生大量処分に抗議する公聴会が開かれたとき、処分理由を説明する矢内原忠雄経済学部長に「キミはファシストだ」と難詰した(キミ、ボク論争)。 東大卒業後、国民経済研究所研究員を経て、法政大学工学部経営工学科教授(社会工学)。
大熊 輝雄(おおくま てるお、1926年10月6日 - 20… 大熊 輝雄(おおくま てるお、1926年10月6日 - 2010年9月15日)は、日本の精神医学者。 岡山県岡山市生まれ。1949年東京大学医学部卒、1956年「人間の大腦皮質および皮質下部の腦波について」で医学博士。カリフォルニア大学、ハーバード大学に学ぶ。順天堂大学助教授、鳥取大学教授、東北大学医学部教授を務め、名誉教授、1985年国立精神・神経医療研究センター副所長、同武蔵病院長、総長を経て名誉総長。
清水 汪(しみず ひろし、1926年(大正15年)10月5日… 清水 汪(しみず ひろし、1926年(大正15年)10月5日 - 2014年(平成26年)4月18日)は、日本の大蔵官僚。環境事務次官。 1944年(昭和19年)、静岡県立静岡中学校卒業。陸軍士官学校在学中に敗戦を迎え、戦後、旧制静岡高等学校を経て、東京大学法学部政治学科を卒業。大学在学中の1950年(昭和25年)10月、国家公務員6級職試験(行政職、法律職)に合格。 1951年(昭和26年)4月、大蔵省に入省。大臣官房文書課に配属。1953年(昭和28年)8月、日本橋税務署長。大蔵省大臣官房参事官、大蔵省銀行局銀行課長、大蔵省銀行局総務課長、内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長等を経て、1980年(昭和55年)6月、 大蔵省関税局長。
松居 直(まつい ただし、1926年10月5日 - 2022… 松居 直(まつい ただし、1926年10月5日 - 2022年11月2日)は、日本の編集者、出版事業家、児童文学者。 京都府京都市生まれ。生家は近江商人の家系で、6人姉兄弟で長姉は1914年生まれ。幼時より上村松園や竹内栖鳳などの作品に接して育つ。 洋画家の須田国太郎は叔父で、若いころ彼のアトリエに入り浸っていたこともある。また国太郎の息子で東海旅客鉄道元社長の須田寬とは親戚にあたる。 同志社大学法学部政治学科を卒業する直前、24歳のとき、自宅に下宿していた佐藤身紀子と恋仲になったことがきっかけで、身紀子の父佐藤喜一の経営する福音館書店の編集者となった。のち身紀子は妻となる。 このとき実験的に作った「福音館小辞典文庫」シリーズが成功を収めたため、翌1952年2月、佐藤と共に正式に福音館書店を発足させた。
島袋 宗康(しまぶく そうこう、男性、1926年10月5日 … 島袋 宗康(しまぶく そうこう、男性、1926年10月5日 - 2022年12月9日)は、日本の政治家。沖縄社会大衆党名誉顧問。元参議院議員(2期)・沖縄社会大衆党委員長。姓は琉球語読み(沖縄の名字)で、日本語読みは「しまぶくろ」とも。 1969年、那覇市議会議員に当選し4期務めた。 1984年、沖縄県議会議員に当選し2期務めた。 1989年から約15年間、沖縄社会大衆党委員長を務めた。 1992年の第16回参院選では第二院クラブ公認で革新共闘の統一候補として沖縄県選挙区に立候補し、PKO法反対などを訴え、341票の僅差で自民党の大城真順を破り初当選。1人区では唯一の野党が獲得した議席となった。
千葉 利雄(ちば としお、1926年10月4日 - 2009… 千葉 利雄(ちば としお、1926年10月4日 - 2009年2月5日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)副委員長。宮田義二鉄鋼労連委員長の政策ブレーン。 東京生まれ。1945年武蔵高等学校卒業、東京帝国大学経済学部に入学。文学青年であったが在学中に左傾化し、全日本石炭産業労働組合(全石炭)の工作員として石炭復興会議の事務局に勤務。1949年東京大学経済学部卒業。4月に共産党の指示もあって人事院事務官となるが、レッド・パージにあい退官。10月に共産党の指示で日本労働組合総同盟(総同盟)書記局調査部に入るが、総主事の高野実に傾倒して次第に共産党と距離をとった。
三和 完児(みわ かんじ、1926年〈大正15年〉10月4日… 三和 完児(みわ かんじ、1926年〈大正15年〉10月4日 - )はタレント、作詞・作曲家、音楽評論家。 本名は松岡寿夫(まつおか かずお)。ペンネーム:佃清風(つくだ せいふう)。 神奈川県横浜市出身。 東京府南葛飾郡吾嬬町(のち東京市向島区、現墨田区立花)にて鉄筋業 松岡工業(廃業)を経営していた松岡滋忠の子として、9人兄弟の長男として生まれる。 「司会の神様」の異名を持っていた。 1945年旧制日本大学第一中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業。 1946年東邦楽劇団バンドマスターを経て、美空ひばり、江利チエミ、藤山一郎等の専属司会者として活動を始める。 1953年最初の民放テレビ「私も出まショー」のレギュラー司会となる。
久松 定成(ひさまつ さだなり、1926年10月4日 - 2… 久松 定成(ひさまつ さだなり、1926年10月4日 - 2008年4月3日)は、日本の農学者、昆虫学者。甲虫類の分類学的研究を主とし、愛媛大学農学部の講師・教授等を務めた。退官後は靖国神社崇敬奉賛会会長などを務めた。 東京府(現・東京都)生まれ。 成蹊小学校(23回生)、陸軍幼年学校(45期)、陸軍予科士官学校(60期)を卒業し、陸軍航空士官学校在学中に終戦を迎える。1952年、学習院大学文政学部政治学科、愛媛県立松山農科大学農学科(現愛媛大学農学部)を卒業。 愛媛大学農学部教務員、文部教官助手、講師、1991年10月より同学部環境昆虫学研究室第4代教授を歴任し、1992年3月定年退官。1991年12月、東京農業大学 農学博士 「Revisional Studies on the Family Eucnemidae of Japan(日本産コメツキダマシ科の分類学的研究) 」。
西島 和彦(にしじま かずひこ、1926年〈大正15年〉10… 西島 和彦(にしじま かずひこ、1926年〈大正15年〉10月4日 - 2009年〈平成21年〉2月15日)は、日本の物理学者。東京大学名誉教授。京都大学名誉教授。茨城県土浦市生まれ。 大阪市立大学時代、中野董夫、マレー・ゲルマンら(独立)と素粒子の新しい規則性となる中野・西島・ゲルマンの法則を発見する。そのほかにも、多くの業績がある。生前、1960年と1961年、1964年、1966年 - 1970年にノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 西嶋と中野は、それ以前から知られていた量子数(素粒子の特性)である電荷とバリオン数のほかに新しい量子数であるストレンジネスをもつことを示した。
牛尾 鋭之助(うしお えいのすけ、1926年10月3日 - … 牛尾 鋭之助(うしお えいのすけ、1926年10月3日 - )は、日本の実業家。 牛尾卯三の三男として福岡県に生まれる。1945年福岡県中学修猷館(第5学年卒業)を経て、1951年東京大学経済学部商業学科(現・経営学科)を卒業。 1951年三菱銀行に入行。茨木支店長、池袋支店長、経営相談所長、本店営業第一部長などを経て、1981年6月取締役に就任。同年7月日本橋支店長、1983年1月地方監督役となる。 1983年3月三菱油化(現・三菱ケミカル)常務となり、1988年3月専務に就任。1990年6月営業総括兼関連事業部担当となる。 1992年6月三菱油化ビーシーエル(現・LSIメディエンス)社長に就任。
藤永 保(ふじなが たもつ、1926年10月2日 - 201… 藤永 保(ふじなが たもつ、1926年10月2日 - 2016年1月21日)は、日本の発達心理学者。専門は幼児心理。お茶の水女子大学名誉教授。 山口県下関市に生まれる。神奈川県立横浜第一中学校卒、1948年第一高等学校卒、1952年東京大学文学部心理学科卒業。1954年東京大学大学院中退、東京外国語大学教務補佐員、1955年東京女子大学心理学科助手、1956年専任講師、1960年助教授、1967年教授、1968年お茶の水女子大学助教授、1970年教授、1992年定年退官、名誉教授、国際基督教大学特任教授、1997年定年退任、2006年~9年日本教育大学院大学学長、NPO法人保育子育てアドバイザー協会理事長。
鈴木 通夫(すずき みちお、1926年10月2日 - 199… 鈴木 通夫(すずき みちお、1926年10月2日 - 1998年5月31日)は、日本の数学者。イリノイ大学教授。専門は群論。鈴木群(英語版)で知られる。 1926年10月2日 千葉県千葉市生まれ。1942年 旧制第三高等学校入学、1945年 東京大学数学科に進学。1948年から1951年まで国の特別奨学金を受け、東京大学大学院で研究。指導教員は彌永昌吉であったが、岩澤健吉からも影響を受ける。1951年4月東京教育大学講師。1952年 イリノイ大学の奨学金を得て渡米。渡米後に東京大学から博士号を受ける。1952年夏、ミシガン大学のブラウアーの下に2月間滞在、1952年9月イリノイ大学ポスドク研究員。
和田 静夫(わだ しずお、1926年(大正15年)10月1日… 和田 静夫(わだ しずお、1926年(大正15年)10月1日 - )は、日本の労働運動家、政治家。元参議院議員(3期)、元衆議院議員(1期)。 石川県金沢市生まれ。金沢一中、専修大学法学部を経て、1957年(昭和32年)同大大学院法学研究科私法学専攻を修了。東京都庁に入り新宿区役所に勤務。全日本自治団体労働組合組織部長などを経て、1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙で日本社会党から全国区に立候補し初当選(以後10回・12回と連続3選)。以降3期目の任期終了直前まで務めた。1970年(昭和45年)11月には参議院決算委員会で、自民党と産経新聞の癒着について質している。 1986年(昭和61年)7月6日執行の衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補。
森塚 敏(もりつか びん、1926年〈大正15年〉10月1日… 森塚 敏(もりつか びん、1926年〈大正15年〉10月1日 - 2006年〈平成18年〉6月19日)は、日本の俳優。本名と漢字は同じだが、もりつか としと読む。 東京市下谷区(現・東京都台東区)出身。慶應義塾大学専門部国文科卒業。劇団青年座に所属していた。 1947年に劇団俳優座に入団。 1954年、山岡久乃、東恵美子、初井言榮、成瀬昌彦ら若手メンバーと劇団青年座を結成。劇団の座長として、西田敏行、津嘉山正種、高畑淳子などを育てる。 穏やかな性格と人望から、日本劇団協議会会長や芸術家会議副会長、日本俳優連合の常任顧問などの要職も務めた。 私生活では1956年に同じく青年座の創立メンバーだった山岡久乃と結婚したが、1971年に離婚。
内田 英治(うちだ えいじ、1926年10月1日 - 199… 内田 英治(うちだ えいじ、1926年10月1日 - 1993年10月11日)は、日本の気象学者。 東京市(現荒川区)出身。1949年東京大学理学部地球物理学科卒、1968年「雲核の物理的化学的研究」で東北大学理学博士。1951年気象研究所に入り、物理気象研究部第二研究室長、1971年下関地方気象台長、1973年札幌管区気象台技術部長、1974年気象庁長期予報課長、1976年予報課長、1978年気象研究所予報研究部長、1981年気象庁観測部参事官、1983年大阪管区気象台長、1984年気象庁予報部長、1985年気象庁長官。1987年退官。プロテスタント信徒。
柴田 三千雄(しばた みちお、1926年(大正15年)10月… 柴田 三千雄(しばた みちお、1926年(大正15年)10月1日 - 2011年(平成23年)5月5日)は、日本の西洋史学者。専門はフランス革命史。東京大学名誉教授。 1926年10月1日、京都市で生まれた。東京大学文学部西洋史学科で学び、1948年に卒業。 1957年に東京大学文学部西洋史助教授に就いた。1968年に教授昇格。在任中は同大学文学部学部長も務めた。1987年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後はフェリス女学院大学教授を務めた。学界では史学会理事長を務めた。2011年5月5日、肺炎のため死去。84歳没。 専門は西洋史で、フランス革命の研究を中心とする社会史、政治史。高校教科書『世界の歴史』『新世界史』『現代の世界史』の編集執筆者でもあった。
小倉 襄二(おぐら じょうじ、1926年(大正15年)10月… 小倉 襄二(おぐら じょうじ、1926年(大正15年)10月1日 ‐ 2014年(平成26年)12月7日)は、日本の社会政策学者。同志社大学名誉教授。社会問題・社会保障論・社会福祉体系・公的扶助論専攻。元日本社会福祉学会理事。 京都府京都市生まれ。同志社大学卒業。同志社大学文学部社会学科助教授、教授、文学部長、1997年定年退職、名誉教授、新島学園女子短期大学学長、2001年大阪人間科学大学特任教授。 2014年12月7日、慢性腎不全のため死去。
朝倉 剛(あさくら かたし、1926年 <大正15年> 9月… 朝倉 剛(あさくら かたし、1926年 <大正15年> 9月29日 - 2000年 <平成12年> 5月9日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 横浜市生まれ。1950年東京大学文学部仏文科卒業。同大学院をへて、名古屋大学講師、愛知県立女子短期大学助教授、東京外国語大学助教授、教授、1992年定年退官、名誉教授。 1993年から1997年日本フランス語フランス文学会会長。専攻は17世紀フランス文学で、多くの翻訳をなした。2000年死去。死没日付をもって正四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石坂 照子(いしざか てるこ、1926年9月28日 - 20… 石坂 照子(いしざか てるこ、1926年9月28日 - 2019年6月4日)は、日本の免疫学者。ジョンズ・ホプキンズ大学教授などを歴任、在米時代の愛称はテリー (Terry)。フルブライトフェロー。 夫の石坂公成とともに免疫グロブリンEの機序を解明、発表した。夫妻の功績を記念し毎年2月20日を「アレルギーの日」に、またその週は「アレルギー週間」に指定された。 旧姓松浦、1944年3月旧山形第一高等女学校卒業、東京女子医学専門学校(東京女子医科大学の前身)に進む。1949年に卒業し1957年月3月22日、東京大学で医学博士号を授与される。大学卒業後の1951年から1957年にわたり国立予防衛生研究所(国立感染症研究所の前身)で血清の研究を進め、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国カリフォルニア工科大学へ研究留学するのは1957年から1959年までである。
六代目 清元 延寿太夫(ろくだいめ きよもと えんじゅだゆう… 六代目 清元 延寿太夫(ろくだいめ きよもと えんじゅだゆう 大正15年(1926年)9月27日 - 昭和62年(1987年)2月5日)は東京都出身。本名、岡村清道。父は若くして死去した、四代目清元榮壽太夫。祖父は「高輪の家元」、「孤高の名人」と言われた五代目清元延寿太夫 正式表記は旧字の延壽太夫。 早くに父、祖父を亡くしたので苦労が多かったが、三味線の清元榮壽郎らが、彼を補佐した。 妻は六代目尾上菊五郎の次女の多喜子。長男が七代目清元延寿太夫。孫は三味線方の清元昴洋と歌舞伎役者の二代目尾上右近。七代目尾上梅幸と二代目尾上九朗右衛門と十七代目中村勘三郎は義兄(十七代目勘三郎とは夫人同士が姉妹)、二代目大川橋蔵は義弟にあたる。
川島 弘三(かわしま こうぞう、1926年9月26日 - )… 川島 弘三(かわしま こうぞう、1926年9月26日 - )は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。 スキーの名門旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)入学時は野球の選手で1年からセカンドのレギュラーとなったが、3年の冬にスキー部へ移り本格的にジャンプを始める。戦後明治大学に進学し、1948年の全日本学生スキー選手権大会(インカレ)で優勝、1952年のオスロオリンピック代表(42位)。
田中 義巳(たなか よしみ、1926年9月26日 - 201… 田中 義巳(たなか よしみ、1926年9月26日 - 2013年7月11日)は、日本の経営者。和歌山県日高郡美浜町出身。 1950年に東京商科大学経済学部を卒業し、同年に日綿実業に入社。 1975年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1989年6月に社長に就任した。1994年6月に会長に就任した。 1992年に藍綬褒章を受章し、1999年に勲二等瑞宝章を受章した。 2013年7月11日心不全のために死去。86歳没。
原 昌三(はら しょうぞう、1926年9月26日 - 201… 原 昌三(はら しょうぞう、1926年9月26日 - 2018年6月9日)は、日本の造船技術者、アマチュア無線家、馬術選手。日本アマチュア無線連盟や日本馬術連盟の会長を務めた。 岳父(妻の父)は入江相政。母方の祖父は坂本俊篤。伯父(母の兄)は坂本大造。塩野季彦は大叔父(父方の祖母の弟)。塩野宜慶は従叔父。 長崎県に生まれる。小学生(学習院初等科)の頃に鉱石ラジオを作る。そこで耳にした英語の電波について尋ねたことから、アマチュア無線の存在を知る。学習院中等科の頃に自宅からほど近い場所にアマチュア無線のアンテナを構えた民家があるのに気づき、そこを訪ねたところ、学習院高等科の先輩で、その先輩と親しくなって短波受信機も自作した。
四方 英四郎(しかた えいしろう、1926年9月25日 - … 四方 英四郎(しかた えいしろう、1926年9月25日 - )は、日本の農学者(植物病理学・ウイルス学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(北海道大学・1961年)。北海道大学名誉教授、石河子農学院名誉教授、一般社団法人日本植物病理学会名誉会員、日本ウイルス学会北海道支部名誉会員、日本学士院会員。 北海道大学農学部教授、北海道澱粉工業協会参与、株式会社北海道グリーンバイオ研究所所長などを歴任した。 北海道出身の農学者である。植物病理学やウイルス学を専攻しており、虫媒性植物ウイルスが昆虫体内で増殖することを証明するとともに、ウイルスゲノムの分子構造と機能を解明したことで知られる。さらに、日本のホップや果樹に被害を与えるウイロイドを発見し、その病原性と発生生態を解明した。
川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年〈大正15年〉9月2… 川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年〈大正15年〉9月25日 - 2014年〈平成26年〉11月5日)は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター。日本放送協会(NHK)の第16代会長。 東京で出生、鹿児島県川辺郡川辺町(現・南九州市)育ち(関東在住の南薩出身者で構成される興南会会長も歴任)。 生後間もなく父が死去したため、1929年に母と別れて鹿児島県川辺郡川辺町に移住し祖母らに育てられる。 旧制県立四中(現・県立川辺高校)、旧制七高を経て、東京大学文学部卒業後、1950年NHKに入局。俳優天本英世は旧制七高・東大の同窓生。 初任地は福岡放送局。その後、演芸畑を歩む。入局直後の1951年に放送された『第1回NHK紅白歌合戦』をラジオで聞いた川口は、『NHK紅白歌合戦』が将来大きくなることを予想したという(この時、紅白が長寿番組化することを予想していたスタッフはいなかった)。
能勢 信子(のせ のぶこ、1926年9月25日 - 1998… 能勢 信子(のせ のぶこ、1926年9月25日 - 1998年7月28日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。 兵庫県神戸市出身。1947年大阪経済専門学校(現大阪経済大学)卒業。1950年神戸経済大学(現神戸大学経済学部)卒業、在学中は新庄博ゼミに所属した。1952年に同大学研究科を終了し同年神戸大学経済経営研究所助手、1956年同助教授、1967年同教授。この間1962年に日本会計研究学会の上野・太田賞を受賞。1965年には神戸大学より経営学博士の学位を取得。学位論文は「社会会計論 : 社会会計の本質および適用に関する研究」 。 1990年神戸大学を停年退官、名誉教授となる。同年より姫路獨協大学教授を務めた。
三枝 孝弘(さいぐさ たかひろ、1926年9月25日 - 没… 三枝 孝弘(さいぐさ たかひろ、1926年9月25日 - 没年不詳)は、日本の教育学者、名古屋大学名誉教授。 長野県松本市出身。東京教育大学教育学部卒業、同大学院教育学研究科教育学専攻修士課程修了。岡山大学教育学部助教授、名古屋大学教育学部教授。同名誉教授、埼玉大学教授、白鷗大学教授。2005年瑞宝中綬章受勲。