星野 仙蔵(ほしの せんぞう、1870年2月15日〈明治3年… 星野 仙蔵(ほしの せんぞう、1870年2月15日〈明治3年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉8月26日)は、日本の実業家、政治家、剣道家。 星野家の当主は代々星野仙蔵を名乗っており、10代目に当たる。別名は星野安大郎。家業は回漕問屋「福田屋」。埼玉県会議員、衆議院議員を務め、東上鉄道(現、東武東上線)建設に尽力した。また、大日本武徳会の剣道家としても有名で、中等学校への剣道採用請願運動を推進し、大日本帝国剣道形制定委員も務めた。 武蔵国入間郡福岡村(現埼玉県ふじみ野市)生まれ。新河岸川の舟運で栄える福岡河岸で回漕問屋「福田屋」を営み、米穀取引所監査や川越商業銀行頭取、黒須銀行を経て、1899年(明治32年)に埼玉県会議員になる。
昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1… 昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1月13日) - 1946年(昭和21年)10月)は、日本の内務官僚。官選県知事、樺太庁長官。 美作国津山城下(現岡山県津山市)出身。津山藩士・昌谷千里(端一郎)の長男として生まれる。東京英語学校、第一高等中学校を経て、1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省に入省し土木局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1897年4月、宮崎県参事官・内務部第三課長兼第二課長に就任。以後、三重県参事官、神奈川県参事官・第四課長兼官房外出係、滋賀県書記官、福井県事務官・第一部長兼第二部長、静岡県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、京都府事務官・内務部長などを経て、1910年7月、東京府事務官・内務部長に就任。
北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年… 北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年2月12日) - 大正11年(1922年)1月12日)は、日本の海洋学者、水産学者。日本における水産行政、水産学研究、海洋測器開発の先駆者として知られる。 明治3年(1870年)、美濃国山県郡北野村(現在の岐阜県岐阜市三輪)の各務家において生まれる。幼い時に父を亡くした後、岐阜中学を経て青山学院へと進むが、その間は学費の捻出の為に学僕を務めた苦学生であった。明治27年(1894年)7月に東京帝国大学理科大学動物学科選科を卒業する。在学中は箕作佳吉の指導により、霞ヶ浦の水族調査を行っている。また、明治26年(1893年)にはウシモツゴの和名の基となった岐阜市での方言名「う志もろこ」の名を初めて報告した。
山本 悌二郎(やまもと ていじろう、1870年2月10日〈明… 山本 悌二郎(やまもと ていじろう、1870年2月10日〈明治3年1月10日〉- 1937年〈昭和12年〉12月14日)は、日本の政治家、実業家。農林大臣。外務大臣の有田八郎は弟。号は二峯。 佐渡国(後の新潟県佐渡郡、現・佐渡市)に、漢方医・山本桂の二男として生まれる。1882年(明治15年)に上京し、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現:獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。1886年(明治19年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。1894年(明治27年)、帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、1900年(明治33年)には台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3… 杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3年1月6日〉- 1928年〈昭和3年〉6月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系府県知事、衆議院議員。 越後国蒲原郡島潟村出身。大庄屋役・小川右平太の四男[要出典]として生まれ、1894年(明治27年)に大蔵省官吏・杉山叙(松本藩士・杉山叙主の次男[要出典]。明治維新後官界に入り、丸亀税務監督局長を務めた)の養子となる。開成中学、第一高等学校を経て、1894年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、内務省に入り、愛知県属として内務部第一課長に発令された。1895年(明治28年)11月、高等文官試験行政科試験に合格した。 1896年(明治29年)1月、内務属となり土木局に配属された。
大崎 二六郎(おおさき にろくろう、明治3年〈1870年〉2… 大崎 二六郎(おおさき にろくろう、明治3年〈1870年〉2月6日 - 大正14年〈1925年〉7月20日)は、日本の政治家。新潟県長岡市出身。21歳で入東谷村(現、新潟県長岡市)の村長となり、30歳で県会議員に当選。村長となること三期、県会議員当選4回、郡会議員当選3回、政治家として活躍した。大崎家十四代当主。 大崎二六郎は、大崎彦助の長男として明治3年(1870年)2月6日、新潟県古志郡来伝村(現、新潟県長岡市来伝)で生まれる。父・彦助は、旧長岡藩家老・河井継之助の従者であり、長岡藩領来伝村の割元(大庄屋)であった。幼少の頃は、祖父・津右衛門邦常と起居を共にし、大いにその感化を受けた。 二六郎は、歌人(俳号は「梅渓」)として、また、尺八の名手としても活躍し、小学校のピアノ開きに六段や越後獅子の曲を琴と合わせて演奏した。
吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 19… 吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本の教育者、元広島文理科大学学長。
中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年… 中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年1月1日) - 1935年(昭和10年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院部長判事。 中西用亮の子としてのちの三重県に生まれる。普通学を修めたのち1892年(明治25年)法科大学に入り、1895年(明治28年)同大を卒業し法学士の称号を得た。1897年(明治30年)栃木区裁判所検事に任じ、同年判事に転じた。浦和地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、同部長判事を経て、1902年(明治35年)東京控訴院判事に就任する。その後、東京、大阪各控訴院部長判事、京都、大阪各地方裁判所所長、長崎控訴院長を歴任し、1928年(昭和3年)大審院部長となった。
志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年… 志々目 藤彦(ししめ ふじひこ、1870年2月1日(明治3年1月1日)- 1927年(昭和2年)6月7日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、鹿児島県会議長。政治活動に全財産を用いた「井戸塀政治家」として知られた。 薩摩国揖宿郡、のちの鹿児島県揖宿郡喜入村(喜入町を経て現鹿児島市)で、志々目真幸の長男として生まれる。1879年(明治12年)1月、家督を相続した。普通学、和漢学を修め、1892年(明治25年)明治法律学校(現明治大学)を卒業した。農業を営む。 1897年(明治30年)鹿児島県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務め、1908年(明治41年)11月、県会議長となった。
野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年… 野村 茂久馬(のむら もくま、1870年1月30日(明治2年12月28日) - 1960年(昭和35年)2月11日)は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。財団法人板垣会第12代会長。坂本龍馬先生銅像建設会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。 近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。現在のとさでん交通の前身会社の一つである高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:昭和49年(1974年)の建設なども手掛けた。
北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月2… 北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月29日(明治2年12月28日)- 1935年(昭和10年)9月22日)は、明治から昭和期の税関官吏、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・園池。幼名・楢麿。 山城国京都で奈良県知事・園池公静の三男として生まれ、1895年(明治28年)8月、男爵・先代北大路公久の死去後に養子となり、同年9月28日に男爵を襲爵。同年10月9日、実信に改名した。 学習院、東京高等商業学校を修了。1895年、税関属に任官。その後、同事務官補などを務め、東京築港に関する貨物調査嘱託となった。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年1… 牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。ジャポニズムブームに乗り、1910年代にロンドン社交界の寵児となった。挙母藩(現:愛知県豊田市)出身。「霧の画家」と評される。 挙母藩士・牧野利幹と葛(西尾藩士・遠山内記の娘)の次男として誕生する。宣教師が設立した名古屋英和学校に学び、1890年に東京職工学校機械科を卒業した。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航でアメリカを訪れた。渡米した当初は画家か文筆家かで迷っていたが、アメリカ総領事の珍田捨巳の助言でサンフランシスコの美術学校に通った。
林 茂政(はやし もせい、本名:しげまさ、1870年1月26… 林 茂政(はやし もせい、本名:しげまさ、1870年1月26日(明治2年12月25日)- 1940年(昭和15年)1月15日)は、日本の政治家。最後の鶴岡町長、初代鶴岡市長、山形県会議員、羽前輸出織物同業組合組合長、勲六等。別名・半次郎。 庄内藩士・林茂明の長男として鶴岡鷹匠町(現・山形県鶴岡市)に生れる。西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業。鶴岡英学会に入会し英語などを学び、角田俊次に文章及び漢学の指導を受ける。 1887年(明治20年)福島県会津郡の小学校に勤務。1892年(明治25年)朝暘学校訓導に転じた。 1901年(明治34年)鶴岡町長に就任し、1924年(大正13年)10月、市制施行に伴い初代鶴岡市長に就任し、1927年(昭和2年)まで在任した。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
豊増 竜次郎(とよます りゅうじろう、1870年1月25日(… 豊増 竜次郎(とよます りゅうじろう、1870年1月25日(明治2年12月24日) - 1941年(昭和16年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。族籍は佐賀県平民。 肥前国養父郡旭村(現在の佐賀県鳥栖市)出身。豊増清作の二男。1889年(明治22年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した後、佐賀市で弁護士を開業した。佐賀市弁護士会副会長、同会長を歴任。また佐賀市会議員に選ばれ、議長も務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、佐賀毎日新聞社社長、佐賀瓦斯株式会社取締役などを務めた。
稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明… 稲村 辰次郎(いなむら たつじろう、1870年1月21日(明治2年12月20日) - 1917年(大正6年)8月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国印旛郡平岡村(千葉県印旛郡木下町、印西町を経て現印西市)で、農業・稲村巳之助の長男として生まれた。1903年、東京法学院(現・中央大学)卒。印旛郡会議員、千葉県会議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において千葉県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1917年に死去した。
内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月2… 内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月20日 – 1928年(昭和3年)12月29日)は、日本の裁判官。 1870年、熊本県山本郡山本村(現・熊本市北区植木町)にて出生。 明治法律学校卒業後、佐賀、名古屋、京都などの地方裁判所検事を経て、松江、福井、鹿児島の各地方裁判所検事正を歴任。後に大審院検事となる。 1928年、死去。59歳。
白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年… 白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年12月18日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・貞蔵。1913年(大正2年)5月、博之に改名。 白河県磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村大字上小川、小川町を経て現いわき市小川町上小川)で、実業家白井遠平の長男として生まれる。郷里の小学校を卒業し、同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学、数学を学んだ。1885年(明治18年)11月に上京し、東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)で英語、数学を学び1887年(明治20年)7月に修業。東京農林学校に進んだが病のため1888年(明治21年)3月に中退し帰郷した。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明… 小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明治2年12月10日) - 1943年(昭和18年)7月26日)は、日本の新派俳優である。本名は西巻行蔵。 新潟県柏崎市に生まれる。後に上京し1891年(明治24年)に川上音二郎一座に加入し、立役が認められた後に同座が経営する劇場において初舞台を踏んだ。1896年(明治29年)には同じ新派俳優だった高田実や初代喜多村緑郎らと共に、成美団の結成に携わり大阪にあった角座および朝日座等で舞台を踏む。 1907年(明治40年)には高田および伊井蓉峰が所属した一座に加入し、再度東京で舞台を踏みその座長も務めた。1913年(大正2年)には河合武雄らが結成した公衆劇団にも加入し、新劇運動に尽力する。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈… 西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈1870年1月7日〉 - 明治38年〈1905年〉7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め日露戦争で勇戦、樺太の戦いに於いて戦死を遂げた。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子として肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現佐賀市)に生まれる。兄は西久保弘道。明治7年、父に従い東京へ移住。明治8年8月から東京芝区巴町の第一番小学鞆絵学校(後の港区立鞆絵小学校。平成3年3月閉校し現在は港区立御成門小学校)に入校する。明治10年10月に佐賀の日新小学校に転校。明治12年4月には再び父の転勤の為三重県津市養正小学校に転校する。
美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(187… 美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 1945年(昭和20年)9月26日)は、日本の農商務及び大蔵官僚、銀行家、実業家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁。 兵庫県加古郡高砂町内材木町(現高砂市材木町)で美濃部秀芳の長男として生まれる。美濃部家は代々医業の家系で、父は姫路藩の御典医でもあった漢方医だが、町内の子供たちに習字や漢字を教えて主にその月謝で生活していたため、あまり豊かでなく、母はとても知識と教養をもっており、夫の代わりに診察したり書や漢書を教えていた。美濃部はいずれ上京して勉学に励みたいと考えていたが家計の事情を抱えていたとき、彼の俊才が見込まれて援助をしてくれる素封家が4人現れたことにより、小学校、小野田中学校を経て、1885年(明治18年)上京、第一高等中学校予科に入り、医学を志してドイツ語を学ぶが第一部本科に転じて1年の英語研究をした後、帝国大学法科大学政治科入学、1893年(明治26年)7月卒業(法学士)、第百銀行へ入行しようと池田謙三に会うも曖昧な反応で、返事を待っているうちに結局、同年8月農商務省に入り商工局配属、後に同工務課長となる。
竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12… 竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1946年(昭和21年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。
鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年1… 鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1947年(昭和22年)6月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。東京高等商業学校を矢野二郎排斥事件により中退。日本海員掖済会理事兼横浜支部長、共同火災保険(株)名古屋支店長、横浜生命保険(株)支配人、硫酸販売、関東機械ナット、東京リベット製造各(株)取締役、保土ヶ谷化学電気(株)常任監査役、東京硫酸(株)常務監査役となる。また、朝鮮政府に招かれ、法規編纂に従事する。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では茨城7区から立候補して再選する。
甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月… 甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1923年1月9日)は、山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身で立川部屋、中村部屋、再度立川部屋に所属した力士。本名は五味 安吉。6代立川。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。 1893年1月初土俵、1897年5月十両昇進。1903年1月新入幕、1909年から二枚鑑札、1913年1月に力士を引退。1911年から引退までは最年長幕内力士だった。 甲→甲斐ノ山→甲→兜→甲→立川
伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日… 伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日(明治2年12月3日) - 1923年(大正12年)4月4日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸中国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡根子村(花巻川口町、花巻町を経て現花巻市)で、伊藤弓太の長男として生まれる。1893年、札幌農学校農学科を卒業した。その後、北海道空知郡奈江村(現奈井江町)の土地50万坪を借りて開墾に従事。1895年、夕張郡角田村(現栗山町)に移り、水田の開墾に尽力し、同村を北海道水田の模範地となした。角田村会議員、同村農会長、夕張郡農会長、北海道農会副会長を歴任。 1919年11月、資本金百万円で北海道殖産銀行を設立し頭取に就任。
町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年… 町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年1月3日) - 昭和6年(1931年)7月13日)は、日本の農学者・水産学者。東京帝国大学名誉教授(元農学部長)。農学博士。専門は、農芸化学、水産物利用学・水産製造学・水産化学。 鹿児島県出身。鹿児島市皷川町生まれ。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業し、助手を務めた。1893年(明治26年)より農事試験場技師を務め、1906年(明治39年)に統監府勧業模範場技師に転じた。また、農事試験場では、農芸化学部主任も務めた。 1908年(明治41年)より水産製造学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学した。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学農科大学(のち農学部)教授に任じられ、水産学第三講座を担当する。
豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年… 豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。岡山県美作市出身。 岡山県英田郡栗広村(現:美作市)出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京専門学校及び哲学館で学ぶ。農業と林業を営む。粟広村(現・美作市)会議員、英田郡会議員、所得税調査委員となる。また、倉庫業を経営し、勝英銀行、勝英貯蓄銀行各頭取、播美軽便鉄道(株)社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において岡山県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年1… 小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉- 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民。 衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)、弁護士となり、1901年(明治34年)には近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。 1903年(明治36年)、衆議院総選挙に出馬し当選、以来当選10回。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。
松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1… 松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1月〈明治2年12月〉 - 1931年〈昭和6年〉11月29日)は、日本の獣医師、実業家、融和運動家。大和同志会会長。親族には陸軍少将の松井源之助がいる。 奈良市西之阪の精肉商を営む家に生まれる。哲学館に学ぶ。1902年(明治35年)、東京帝国大学農科大学卒業。獣医となる傍ら、車挽業などの経営でも蓄財し、士族籍を買得して改姓した。1931年(昭和6年)11月29日、死去。 1912年(大正元年)、大和同志会を結成し、松井は初代会長に選ばれる。機関誌『明治之光』を発刊し、部落差別事件の糾弾、融和運動を行う。 松井はこれを全国規模の運動に拡大しようと考え、最初、山口県の有志らと会合を開く。
猪俣 松五郎(いのまた まつごろう、1870年 - 1943… 猪俣 松五郎(いのまた まつごろう、1870年 - 1943年)は、日本の政治家、教育者である。 大住郡金目村の名主与右衛門の次男として生まれる。三郡共立学校(神奈川県立秦野高等学校と神奈川県立平塚農業高等学校の前身)を経て、東京神田の共学院で学ぶが、長男の死亡により、帰郷し、家督を継いだ。その後、1898年(明治31年)、金目村役場書記、1900年(明治33年)、収入役を経て、1905年(明治38年)、金目村村長に就任した。以後、1918年(大正7年)から1935年(昭和10年)まで4期村長を務めた。この間、金目村村会議員を6期、中郡会議員を2期務め、また金目村農会長、金目村耕地整理副組合長、中郡農会副会長、会長を歴任した。
一條 慎三郎(いちじょう しんざぶろう、1870年 - 19… 一條 慎三郎(いちじょう しんざぶろう、1870年 - 1945年)は、日本の音楽教育者。 信濃国松代城下に松代藩士の子として生まれる。東京音楽学校を中途退学し、音楽教師として立教学院や山形師範学校で教鞭を執る。伊沢修二の招聘により台湾に渡り、台湾総督府国民学校助教授のち、台北師範学校教授となる。爾来、台湾独自の唱歌の制作に励行し、「公学校唱歌集」の編纂にあたり、全46曲中15曲を作曲した。また台湾放送協会に台北放送局(JFAK)楽団を設立し、師範学校の学生合唱団を組織し、各地で演奏会を開催した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
角 弥太郎(角 彌太郎、かど やたろう、1870年〈明治3年… 角 弥太郎(角 彌太郎、かど やたろう、1870年〈明治3年〉 - 1967年〈昭和42年〉)は、日本の実業家。日立鉱山の初代庶務課長および同第4代所長を歴任し、日立鉱山の煙害問題に取り組んだ。息子は洋画家の角浩。孫は角章。 1870年(明治3年)、広島県芦品郡木野山村(合併後は大正村、現・府中市木野山町) に生まれた。17歳で大正村の収入役、法曹界を志して和仏法律学校(現・法政大学)に入学し、卒業後は宮内省御料局に勤務した。 1900年(明治33年)、上司より小坂鉱山からの求人依頼を受けたが適任者が見つからず、裁判官になる夢を捨てて自ら小坂に赴き庶務課助役として勤務した。1907年(明治40年)、久原鉱業所に入社し、日立鉱山に移り、初代庶務課長(後に第4代所長に就任)に着任した。
中根 中(なかね なか、1870年 - 1954年)は、日本… 中根 中(なかね なか、1870年 - 1954年)は、日本人の黒人運動指導者、または日本の対米諜報員。黒龍会の会員でもあった。第二次世界大戦以前のアメリカで主に活動した。アメリカ当局には、サトカタまたはサトハタ・タカハシ(Satohata Takahashi)などという名前でマークされていた。 現在の大分県杵築市に生まれる。関西学院に進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃は浪費癖がひどく、教会も除名された。日本の妻の他に愛人もいたといわれる。大借金を残してカナダへ渡り、白人女性と結婚する。後にアメリカのタコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻し、再び借金を残して失踪する。 1932年に白人に比して差別され不利な立場にある有色人種を糾合する組織として東方世界平和運動(英語版)がシカゴで結成されると中根もこれに加わり、翌1933年にデトロイトへ移り黒人街で活動を始める。
伊藤 恭太郎(いとう きょうたろう、1870年 - 1929… 伊藤 恭太郎(いとう きょうたろう、1870年 - 1929年11月)は、日本の医師、政治家、開業医、西田川郡医師会2代会長、鶴岡市医師会初代会長、鶴岡市会議員。
鈴木 たま(すずき たま、明治3年〈1870年〉 - 195… 鈴木 たま(すずき たま、明治3年〈1870年〉 - 1958年〈昭和33年〉12月3日)は、日本の教育者。群馬県における女子教育の先駆者のひとり。明治裁縫学校創設者。名は多満子とも。 明治3年(1870年)、前橋に生まれる。 前橋藩士の家柄で、祖父は祐筆を勤めた。父・鈴木福次郎は西南戦争に抜刀隊として従軍して田原坂の戦いで戦功を挙げ、その後は東群馬・南勢多合同郡役所に勤務した。母の名はトワ。 13歳のときに父をチフスで亡くし、さらに母や弟も病死。15歳から前橋の仕立屋で修業ののち、川越に移り裁縫の技術を修練した。また前橋に仙台の松操女学校(現・仙台大学附属明成高等学校)分校ができたため同校で学ぶ。
青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 19… 青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 1964年3月10日)は日本の牧師、教育者である。 1870年(明治3年)に武蔵国岩槻(現・埼玉県さいたま市岩槻区)に生まれる。明治学院と同志社神学校で学び、渡米してプリンストン神学校、ノースウェスタン大学に留学する。 1902年(明治35年)同志社神学校旧約聖書担当教授になり、同志社女学校教頭を兼任する。当時、同志社神学校での日本人教授は青木と日野真澄の2人であった。1904年(明治37年)に神戸日本基督教会の牧師になり、直接伝道を始めた。 1919年(大正8年)には神戸教会は独立教会になり、神戸イエス・キリスト教会になり、青木は按手礼を返上して一信徒になり、文書伝道など独自の伝道を始めた。