小山 省二(こやま しょうじ、男性、1906年(明治39年)… 小山 省二(こやま しょうじ、男性、1906年(明治39年)8月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、東京府(現・東京都)出身の政治家、実業家。元衆議院議員(4期)。 現在の町田市小山町(おやままち)に生まれる。1924年(大正13年)東京府立繊染学校(現・東京都立八王子桑志高等学校)を卒業後、八王子市内において。戦後は1949年(昭和24年)から1955年(昭和30年)まで八王子織物工業協同組合の第9代理事長を務めた。1968年(昭和43年)藍綬褒章受章。 戦後より政治活動に進出し、1947年(昭和22年)に東京都議会議員選挙に八王子選挙区から立候補し当選、以後5期連続当選を重ね、1963年(昭和38年)には都議会議長に就任する。
石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月1… 石本 秀雄(いしもと ひでお、明治39年(1906年)8月18日 - 昭和40年(1965年)10月5日)は、日本の映画撮影技師である。本名:藤井 秀雄(ふじい ひでお)。 1906年(明治39年)8月18日、淡路島の洲本に生まれる。旧制滝川中学校中退。 1922年(大正11年)、牧野教育映画製作所(等持院撮影所)撮影部に入社する。田中十三らの助手をつとめ、1923年(大正12年)のマキノ映画製作所への改組、1924年(大正13年)7月の東亜キネマへのマキノの吸収合併を経ても等持院撮影所で撮影助手をつとめる。 1925年(大正14年)6月のマキノ・プロダクションの設立に際して、新設の御室撮影所にともに移る。
山本秀祐(やまもと ひですけ、1906年8月17日 - 19… 山本秀祐(やまもと ひですけ、1906年8月17日 - 1981年10月27日)は、日本の工業技術者、実業家。富士工業所(現フジコー)創業者。 福岡県出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部冶金工学科卒業。当時、修理不可能と言われた溶損した鋳型の修理に世界で初めて成功し、事業化する。「特殊鋳かけ肉盛法」の技術開発が認められ、黄綬褒章を受章した。
曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月… 曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月16日 - 2013年(平成25年)11月27日、旧姓:山本)は、日本の教育者、教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。 福岡教育大学教育学部教授、韓国社会事業大学(現大邱大学校)教授・大学院長、社会福祉法人しいのみ学園理事長兼園長を歴任。関西大学法学士、広島文理科大学文学博士、九州大学医学博士。福岡教育大学名誉教授、韓国・建陽大学校名誉教授、中国・長春大学名誉教授、上海・華東師範大学名誉教授、モスクワ心理教育大学名誉教授。大韓民国国民勲章受章、ペスタロッチー教育賞受賞。吉川英治文化賞受賞。
花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月1… 花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月16日 - 1987年〈昭和62年〉3月5日)は、日本の内務・厚生官僚。位階は従四位。中高年齢者福祉協会(現:中高年齢者雇用福祉協会)理事長、船員保険会常務理事、厚生省保険院保険局年金課長などを歴任した。勲三等瑞宝章受章者。 花澤徳蔵の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和5年)東京外国語学校を経て、1928年(昭和3年)高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部卒業後、保険院社会局に入る。戦時色強まる1940年(昭和15年)の秋、厚生年金(当時は労働者年金保険)の創設を発表した。労働者年金は1942年(昭和17年)に創設し、2年後に厚生年金と名称を変えた。
池田 寿夫(いけだ ひさお、1906年〈明治39年〉8月15… 池田 寿夫(いけだ ひさお、1906年〈明治39年〉8月15日 - 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のプロレタリア文学評論家。本名は横山 敏男(よこやま としお)。 新潟県新潟市旭町通2番町出身。1913年(大正2年)4月に新潟尋常高等小学校に入学、坂口安吾は同級生、1920年(大正9年)4月に新潟中学校に入学、坂口安吾は同級生、1924年(大正13年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)。 1924年(大正13年)4月に新潟高等学校に入学、左傾化、1927年(昭和2年)3月に卒業、4月に東京帝国大学農学部農業経済学科に入学、駒場社会科学研究会に入会、帝大同人雑誌連盟を結成、1928年(昭和3年)7月に『大學左派』を創刊。
高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月1… 高橋 哲雄(たかはし てつお、1906年(明治39年)8月15日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、広島県広島市出身の元日本のバレーボール選手、元バレーボール全日本選手。指導者、元日本バレーボール協会副理事長・名誉副会長。元大阪府バレーボール協会会長。広島高等師範附属中学校(現広島大学附属高校)~神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業(1928年)。「黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会」を創設する等、日本のバレーボールの草分け時代に、選手、指導者として、日本のバレーボール発展の礎を築いた。 多田徳雄監督下で日本バレーの草分けとなった神戸高商の中心選手として最強時代に貢献。在学中の1927年、当時唯一の国際大会だった極東選手権競技大会の第8回上海大会に神戸高商単独チームの主将として参加。
西田 政善(にしだ まさよし、1906年8月15日 - 故人… 西田 政善(にしだ まさよし、1906年8月15日 - 故人)は、日本の農学者。専門は林学と造園学。鹿児島大学名誉教授、九州学院大学学長。 宮崎県出身。1927年鹿児島高等農林学校林学科(現鹿児島大学農学部)卒業。鹿児島高等農林学校助手を経て、1934年助教授。1944年鹿児島青年師範学校(現鹿児島大学教育学部)教授。学制改革により1949年鹿児島大学助教授、1961年鹿児島大学教授(教育学部所属)。後に南九州大学教授を経て、九州学院大学(現第一工科大学)教授。九州学院大学学長代行を務めた後、1977年九州学院大学学長に就任。 1988年上原敬二賞受賞。西田は鹿児島や沖縄の庭園研究や修験道の庭園の研究で知られ、鹿児島の志布志麓庭園(平山氏庭園、昭和31年鹿児島県指定名勝)を高く評価。
小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 … 小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。 1906年、東京・神田で生まれた(広島県呉市出身)。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。 アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。 1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学、九州大学、京都大学などで非常勤講師を務めた。
副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 19… 副島 吉雄(そえじま よしお、1906年8月14日 - 1974年6月9日)は、日本の機械工学者。大阪大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。大阪工業大学工学部機械工学科元教授。 専門は、精密工学・光流体工学、応用物理学・分光学。 京都府出身。祖父は軍医の副島吉謙、父は京都帝国大学医学部教授・副島豫四郎。1931年京都帝国大学理学部物理学科卒業(分光学の権威である理化学研究所の木村正路の指導。1940年広島高等工業学校教授。1941年に召集され、陸軍工兵少尉として応召。1944年理学博士(京都帝国大学)。1947年神戸大学工学部教授、1959年大阪大学工学部精密工学科教授、第6講座(科学機器)を担当。
飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日 - 1… 飯守 重任(いいもり しげとう、1906年8月13日 - 1980年11月5日)は、日本の裁判官。最高裁判所長官を務めた田中耕太郎の弟。 佐賀県出身。1930年東京帝国大学独法科卒業後、裁判官生活に入る。 1930年代に満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した。戦後、中国から戦犯に問われ、撫順収容所で「熱河粛正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」と手記に書いたが、日本帰国後はこれを否定した。 戦後、シベリアや中国・撫順戦犯管理所に抑留されて、1956年8月に帰国し、東京地裁判事に復職した。
村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年… 村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年8月12日 - 1999年5月4日)は、兵庫県出身のプロ野球監督、実業家。 小学校時代の友人に、関西大学野球部監督、大阪タイガース二軍監督などを歴任する森田忠勇がいる。旧制天王寺中学で三塁手を務める。 慶應義塾大学野球部マネージャを経て、1932年にに阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄)に入社する。1936年にはプロ野球球団阪急軍の創設に尽力する。球団代表に就任して25年間球団経営に携わった。 1937年には、秋季シーズンの監督を務める。初代阪急軍の監督である三宅大輔がこのシーズンも指揮を執るはずであったが、三宅の一切の妥協を許さぬ厳格な姿勢が選手達からの猛反発を受けてしまい、三宅は解任に追い込まれたために4試合目からの途中就任であった。
星野 茂雄(ほしの しげお、1906年8月10日 - 197… 星野 茂雄(ほしの しげお、1906年8月10日 - 1971年6月26日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長を務めた。 群馬県出身。1930年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。日本碍子での勤務を経て、1936年10月に日本特殊陶業に転じ、取締役、常務を経て、1956年11月に専務に就任し、1966年11月には社長に昇格 1971年6月26日、急性心不全のために在任中に死去。64歳没。
浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975… 浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975年2月9日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 岡山県総社市出身。1928年に東京高等工業学校工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年11月に三菱自動車販売取締役を経て、1968年11月に社長に就任し、1970年1月にキャタピラー三菱社長に就任。 1975年2月9日、激症肝炎のために死去。68歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中千代(たなか ちよ 1906年8月9日 - 1999年6… 田中千代(たなか ちよ 1906年8月9日 - 1999年6月28日)は、教育者、服飾デザイナー。昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。民族衣装の研究・収集家でもあった。
飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8… 飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8月7日 - 1975年(昭和50年)5月8日)は、昭和時代の土木工学者、実業家。 神奈川県に生まれる。1930年(昭和5年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、間組に入社。各出張所次長、土木部次長、取締役、常務および専務をへて1967年(昭和42年)副社長、1969年(昭和44年)社長に就任した。この間、大井川千頭堰堤や久野脇発電所の建設、羽田飛行場の拡張工事などに携わり、1952年(昭和27年)大井川水系の開発が始まると井川ダム、奥泉ダム、畑薙ダム(第一、第二)などを次々と完成させた。 ほか、日本土木工業協会・日本建設業連合会・日本経済団体連合会・海外建設協会などの理事、日本建設機械化協会・土木学会各会長などを歴任した。
大倉 重作(おおくら じゅうさく、1906年〈明治39年〉8… 大倉 重作(おおくら じゅうさく、1906年〈明治39年〉8月4日 - 1982年〈昭和57年〉5月7日)は、日本の政治家。位階は従五位。勲等は勲四等。 静岡県小笠郡千浜村議会議員、静岡県小笠郡千浜村助役、静岡県小笠郡千浜村長、静岡県小笠郡大浜町長、静岡県小笠郡大東町長(初~第3代)などを歴任した。 静岡県出身の政治家であり、静岡県小笠郡にて千浜村の村長を経て、大浜町の町長や大東町の町長を務めた。大東町においては全町農業構造改善事業を提唱し、全国的な注目を集めた。企業誘致や教育機関の整備などを積極的に推し進めたが、町長在任中に死去した。 1906年(明治39年)8月4日、静岡県小笠郡千浜村にて生まれた。
戸川 安章(とがわ あんしょう、明治39年(1906年)8月… 戸川 安章(とがわ あんしょう、明治39年(1906年)8月3日 - 平成18年(2006年)12月12日)は、日本の民俗学者。山形県民俗研究協議会会長。日本山岳修験学会顧問。致道博物館顧問、荘内文化財保存会理事。鶴岡女子専門学校校長。栄典・称号は、勲五等双光旭日章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 … 松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。
戸川 安章(とがわ あんしょう、1906年8月3日 - 20… 戸川 安章(とがわ あんしょう、1906年8月3日 - 2006年12月12日)は、日本の民俗学者。山形県民俗研究協議会会長。日本山岳修験学会顧問。致道博物館顧問、荘内文化財保存会理事。鶴岡女子専門学校校長。栄典・称号は、勲五等双光旭日章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 日本民俗学の第一人者で、特に出羽三山山岳修験道の研究で知られる。 母方で備中庭瀬藩戸川家の分家である帯江戸川家の家系。母方の祖父は帯江戸川家8代戸川安愛の弟の戸川最兎女(もとめ)栄秀。父の島津伝道は荒沢寺住職として、羽黒山修験本宗を天台宗から独立させた。安章は戸川家を継ぎ戸川姓となった。甥(妹の息子)に東京創元社の編集者の戸川安宣。
高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日… 高瀬 侍郎(たかせ じろう、1906年〈明治39年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉5月27日)は、日本の外交官。第14代拓殖大学総長。正四位勲二等旭日重光章。群馬県出身。 日独伊三国同盟を推進した責任から、終戦とともに外務省を辞職。戦後は東京都外務室長として勤務。
立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4… 立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4月13日)は、大分県知事(1971年 - 1979年)。官選も含めると第45・46代、公選のみでは第7・8代にあたる。 福岡県京都郡行橋町(※現在の行橋市、本籍は大分県大分市坂ノ市)出身。旧制大分中学校(現大分上野丘高校)、旧制第三高等学校を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、東京市社会局、京城府の小林鉱業に勤務。 終戦後に大分市役所に入り、1953年に大分県庁に移る。1955年に木下郁が県知事に当選すると、総務部長に抜擢され、総務部長、出納長、副知事として16年間の木下県政の女房役を務めた。 1971年に木下が引退すると、その後を継いで大分県知事に初当選。
徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1… 徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1日 - 没年不明)は、日本の女優。日活向島・帝国キネマ・新興キネマにそれぞれ所属した。 愛知県名古屋市出身。椙山高等女学校卒業後、1923年(大正12年)に日活向島からデビュー。1930年(昭和5年)に帝国キネマに移籍、新興キネマをへて1935年(昭和10年)まで活躍した。 その後は満洲に渡ったとされるが、詳細は不明。
耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1… 耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1月6日)は、日本の小説家・詩人。本名の姓は「たがやす」と読む。 熊本県八代市生まれ。明治学院英文科卒業。千家元麿に師事して詩作を始め、1930年(昭和5年)『耕治人詩集』を上梓する。 戦前の1937年(昭和12年)から川端康成を頼り、1939年(昭和14年)7月には、『文學界』に初めての小説を載せてもらうなど世話になっていた。 戦中の1945年(昭和20年)3月に、左翼思想犯として逮捕される。 戦後、主として私小説を書き始め、長く不遇だったが、1970年(昭和45年)に『一条の光』で読売文学賞、1972年 (昭和47年に『この世に招かれてきた客』で平林たい子文学賞受賞。
緒方 信一(おがた しんいち、1906年〈明治39年〉7月2… 緒方 信一(おがた しんいち、1906年〈明治39年〉7月29日 - 1990年〈平成2年〉8月22日)は、日本の文部事務次官。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 熊本県出身。1929年高等文官試験に合格。翌1930年東京帝国大学法学部政治学科卒業。大阪府属、学務部勤務、山形、青森各県警視、三重県特高課長、内務事務官、警保局勤務、警視庁警視、外事課長、三重県経済部長、1942年昭南特別市警察局長、1943年陸軍司政官、戦後、公職追放を受ける。追放中は東京都自家用自動車組合専務理事、追放解除後は宮崎県総務部長、1953年文部省初等中等教育局長、1956年同大学学術局長、1960年文部事務次官、1962年退官、退官後は日本育英会理事長、のち同会長、1976年勲二等旭日重光章を受章。
黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、190… 黄 慶秀(ファン・ギョンス、朝鮮語: 황경수/黃慶秀、1906年7月27日または1907年7月27日 - 1987年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 京畿道平沢郡(現・平沢市)出身。中東学校(現・中東高等学校)卒、1927年早稲田大学政外科修了。1930年に平沢郡協同組合組合長、1944年に朝鮮商工会平沢郡出張所長を務めて、平沢郡農会議員、平沢郡国民会長、生活必需品商業組合理事長、平沢畿湖水利組合組合長、平沢中学院設立者・院長、朝鮮紡績理事・重役、世界食糧農業機関韓国支部副会長、京南水利組合組合長、テドン産業会長、第3代国会農業資金特別対策委員会委員長・水害対策委員会委員長、民主共和党政策委員を務めた。
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月… 坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。「直行」を音読みした「ちょっこう」で知られる。 討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。
稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1… 稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1987年10月30日)は、日本の俳人、茶道教授であり、元女優である。女優時代の芸名は若葉 信子(わかば のぶこ)、旧芸名露原 桔梗(つゆはら ききょう)、出生名は野口 キクノ(のぐち きくの)、俳優の宮島啓夫との婚姻時には、本名を宮島 公子(みやじま きみこ)とした。 1906年(明治39年)7月26日、神奈川県愛甲郡厚木町(現在の同県厚木市)に生まれる。生年月日および生地については、『現代俳句大系 第12巻 昭和34年-昭和43年』(角川書店)、『日本人名大辞典』(講談社)、『CD - 人物レファレンス事典 日本編』(日外アソシエーツ)等、俳人「稲垣きくの」を紹介する記事においては上記あるいはそれに準じた記述があるが、女優「若葉信子」を紹介する『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)、『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)では、「1908年(明治41年)7月23日」に「福井県福井市」で生まれたとする記述がある。
津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - … 津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - 1991年9月20日)は、島根県松江市出身の日本の陸上競技選手(長距離)。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックでマラソンに出場し、連続して入賞を果たした。 旧制松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て関西大学予科に進学する。旧制中学時代から陸上競技を始めたが、当時は県内大会に出場する程度のレベルであった。 しかし、「なぜ日本のマラソン選手はオリンピックで勝てないのか」という疑問を抱くようになり、親交のあった大阪毎日新聞や大阪朝日新聞の運動記者から資料を得て、研究を行うようになる。その中で、ハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミをはじめとするフィンランドの長距離選手の強さに着目し、彼らのようなトラックでのスピードをつけることがマラソンで勝つために必要だと考えるに至る。
下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月… 下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月25日 - 2011年〈平成23年〉3月11日)は、日本の陸上競技選手。 観光ジャーナリストの千葉千枝子は外孫。 現在の岩手県陸前高田市で農家を営む家の次男として生まれる。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業後、岩手県内の複数の学校で体育教師を勤めた。第二次世界大戦の開戦直前、新設校への赴任に伴い釜石市に移住。岩手県立釜石高等学校では教頭職に就いた。 本格的に陸上競技を始めたのは50代の頃で、98歳からはマスターズ陸上を始める。100歳を超えて記録した砲丸投5m11cm、やり投12m42cm、円盤投10m72cmはいずれも世界記録。
岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1… 岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1982年1月25日)は、日本の経営者。三重県出身。 1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年4月にダンロップ護謨に入社。1955年12月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1964年5月に専務を経て、1968年11月には社長に就任。1973年11月から会長を務めた。 1982年1月25日呼吸不全のために死去。75歳没。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年… 李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年3月?)は、日本統治時代の台湾および中華民国の法律家。台湾苗栗県竹南鎮出身。二・二八事件で失踪している。 1926年、李瑞漢は台中一中卒業後、日本内地の中央大学法学部に留学し、在学中に弁理士試験に合格している。1929年に中央大学卒業後も大学に留まり研究を続け、翌年高等試験司法科に合格している。その後台湾に戻った李瑞漢は台北市永楽町で弁護士事務所を開業している。 1945年の日本の降伏により、台湾は国民党率いる中華民国に接収された。李瑞漢は台北市律師公会会長に選出された。1947年に二・二八事件が勃発すると、李瑞漢は3月初に台北市律師公会課会議を招集し、台湾行政長官であった陳儀に対し改革を具申し、同時に強烈な政府批判を行った。
西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1… 西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1989年4月19日)は、洋画家、日本芸術院会員。 福井県鯖江市出身。福井師範学校(現・福井大学教育地域科学部)卒。鈴木千久馬、辻永に師事。1931年帝展初入選。人物画で出発し、戦後のパリ留学時代に風景画に転換。1980年日本芸術院賞受賞。1984年日本芸術院会員。光風会常任理事。『西山真一画集』(六芸書房、2000)がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
遠山 景光(とおやま かげみつ、1906年〈明治39年〉7月… 遠山 景光(とおやま かげみつ、1906年〈明治39年〉7月16日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日 )は、日本の政治家。東京都議会議員、東京都千代田区長などを務めた。千代田区名誉区民。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 弟にアールエフラジオ日本会長を務めた遠山景久がいる。 父親は京浜実業家名鑑 寄与者:遠山景澄。 神田神保町出身。1924年に神田三崎町の旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)卒業。1936年中央大学専門部商科卒業。その翌年に東京市神田区議会議員に当選。2期務め、区議会副議長にも就く。1947年に東京都議会議員・千代田区議会議員に当選。 1960年5月20日、第4代官選千代田区長に就任。
市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17… 市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)、後藤聿古(いつこ)とも名乗っていた。端唄や小唄では江戸小歌市丸(えどこうた いちまる)の名前で活動した。江戸小歌中村派17世家元。近衛文麿の愛人でもあった。 明治39年(1906年)7月16日、長野県松本市で生まれる。本名、後藤まつゑ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、蝶々と名乗った。客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京。大正15年(1926年)6月18日、浅草の一松家から市丸の名で芸者お披露目し、清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた。
小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年… 小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年2月20日)は、北海道白老郡白老町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道庁立札幌第一中学校(現:北海道札幌南高等学校)を経て、1927年に中央大学法学部英法科に入学。在学中に札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部した。 1933年に大学を卒業し、1935年より日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、JFA)代議員に就任し、同年の第1回日満親善蹴球大会では選手団団長。1936年のベルリンオリンピックでは日本代表に帯同し総務全般を担当した。 1951年、JFA常務理事に就任し総務・財務といった実務を担当。1974年からはJFAの財団法人化に伴い専務理事に就任した。
田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14… 田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14日 - 1982年(昭和57年)1月16日)は、日本の法学者。専門は行政法、租税法。東京大学名誉教授。兵庫県出身。1964年 - 1973年最高裁判所判事。1976年日本学士院会員、1980年文化功労者。位階は従二位。美濃部達吉門下。弟子に塩野宏、雄川一郎、藤田宙靖など。
福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989… 福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989年12月14日)は、昭和・平成期の法制史学者・弁護士。社会主義法学・比較法学・日本近代法制史などの研究において業績を残した。 静岡県磐田郡見付町(現在の磐田市)出身。東京府立第五中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科に入る。穂積重遠・末弘厳太郎の指導を受け、1928年には在学のまま高等文官試験行政科に合格。 1929年(昭和4年)の卒業後は日本不動産に入社しながら学問を続け、1931年には高等文官試験司法科にも合格し、翌年には弁護士登録を行う。ところが、1934年(昭和9年)に日本共産党に資金提供をしていたとして治安維持法違反で摘発されたために会社を退社に追い込まれ、同年東京帝国大学大学院に再入学、我妻栄の下で土地法の研究を行う。
中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 197… 中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 1972年10月14日)は、日本の新聞記者、軍事史研究者、翻訳家。 東京府出身。東京帝国大学卒業後、東京朝日新聞に入社。太平洋戦争開戦当時はニューヨーク特派員を務めており、アメリカ政府により抑留される。開戦の翌1942年に交換船により帰国した。帰国後の1943年に『祖国に還へる』を公刊し、開戦直前から帰国に至る経緯で、アメリカ政府への最後通告遅延問題に関し議論の対象となる新庄健吉陸軍大佐の葬儀に出席した模様が記されている。 占領下の1948年に朝日新聞を退社。以降は第二次世界大戦を中心とした軍事関係の著述家・翻訳者となる。1972年に死去。 加藤哲郎によると、戦前に偽名を使って日本で活動していた労農赤軍本部のスパイであるアイノ・クーシネンが著書で「中野男爵」と記している人物は、中野のことであるとみられる。
兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日… 兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、日本のヴァイオリニスト。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1930年東京音楽学校卒業。安藤幸子らに師事しヴァイオリンを習う。1937年母校助教授。1947年教授。弦楽科主任・管弦楽部長となる。室内楽の研究と演奏活動の傍ら、付属音楽高等学校校長も兼務。1974年退官して東京芸術大学名誉教授。後に昭和音楽大学副学長となる。 大谷康子、澤和樹、篠崎功子、島根恵、海野義雄、向島ゆり子など多くの門下生がいる。全日本学生音楽コンクールや日本音楽コンクールなど多くのコンクールでも審査員を務め、彼の死後の1989年には全日本学生音楽コンクールのヴァイオリン部門の一位におくられる賞が兎束賞と名付けられた。
刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年… 刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年12月18日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 新潟県出身。1931年に東京帝国大学火薬科を卒業し、同年に旭化成に入社。1946年に旭化成に転じ、1947年に常務を経て、1963年7月から1975年5月までに副社長を務め、1975年5月には蝶理社長に就任。1978年6月から常任相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月18日慢性呼吸不全のために死去。97歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 197… 長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 1973年12月16日)は、日本の詩人・作家・ロシア文学者。 父・清(後に淑夫に改名)と母・ユキの三男として函館市元町に生まれる。1925年、函館中学を卒業すると、兄海太郎の勧めもあって4年の間漁船に乗った。1932年、大阪外国語学校露語科を卒業し、満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(後の大同学院)に入る。大同学院を一期生として卒業し、満州国外交部を経て、満州映画協会に勤務する。1938年、北村謙次郎や仲賢礼らと雑誌『満州浪曼』を発刊する。1941年3月1日、満映の映画人養成所を開業し、同年11月には株式会社満州電影総社を設立する。この頃、ニコライ・バイコフの「偉大なる王」を文藝春秋から翻訳する。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 199… 藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 1994年6月12日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は、近世から近代に至る日本思想史。 山口県下関市の神職の家に生れた。1924年に旧制唐津中学校を卒業。國學院大學に進学し、折口信夫の門下で学んだ。1929年に国史学科卒業。 卒業後は維新史料編纂事務局編纂事務嘱託に採用された。維新史料編纂官補として勤務し、1938年から維新史料編纂官。しかし、1942年の官制廃止にともない退職。1943年からジャカルタ医科大学教授となるが、敗戦により帰国。 復員後は、1946年から帝国図書館・国立国会図書館に勤務。1951年、学位論文『明治初世に於ける国学の展開』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。
今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月… 今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月4日 - 1995年(平成7年)1月28日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安積郡桑野村(現郡山市)で、農家の7人兄弟の末子として生まれた。小学校卒業後、進学を希望していたが家庭の経済状況が許さず、上京して丁稚奉公を行う。奉公先の好意で夜間学校に通学し、種々の職業を経ながら1929年(昭和4年)日本大学専門部工科機械科を卒業した。 三共に入社しオートバイ部門で勤務。その後、中島飛行機荻窪工場社員、新田 (株) 昭和内燃機製作所工場長を歴任。中野友禮の資金援助を受けて1938年(昭和13年)今泉精機を東京葛飾に設立し、白河分工場も設けたが終戦に伴い閉鎖して帰郷した。
広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、190… 広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、1906年7月3日 - 1980年12月3日)は、日本の政治家。日田市長、衆議院議員(自由民主党所属)。 佐藤内閣郵政大臣。
國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - … 國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - 1986年12月20日)は、鹿児島県姶良郡(現・霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は中馬 源逸(ちゅうま げんいつ)。現役時代の体格は身長170cm、体重109kg、得意手は押し。最高位は西前頭5枚目(1932年2月場所、3月場所)、血液型はB型。 同郷の9代井筒(第25代横綱・西ノ海嘉治郎 (2代))の勧めで入門、1923年5月場所初土俵。1924年5月場所序二段。病気のため1926年5月場所一旦序ノ口に陥落したが、その後は順調に昇進した。1928年10月場所、三段目で6戦全勝の優勝同点の成績を挙げて幕下入り。1931年5月場所は幕下筆頭で4勝4敗の五分、10月場所は3勝3敗のこれまた五分の成績だったが、1932年1月の春秋園事件で協会に残ったために2月場所でラッキーな新入幕を果たした。
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。