鎌田 正三(かまた しょうぞう、1913年9月 - 1997… 鎌田 正三(かまた しょうぞう、1913年9月 - 1997年)は、マルクス経済学者。北海道大学名誉教授。 北海道小樽市生まれ。1936年小樽高等商業学校卒業。東北帝国大学法文学部経済学科に入学。経済学科の同年の入学者には内藤知周、一柳茂次、浅野正明、中野正、志賀金吾、大島清(新潟高校中退)、大島清(小樽高商卒業)らがいた。斎藤晴造、2人の大島清、一柳茂次、志賀金吾、大友福夫、内藤知周らは下宿に集まって資本論について議論をする仲間だった。宇野弘蔵、末永茂喜などから経済学を学ぶ。 1940年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。同じく小樽高商出身の大島清とともに財団法人三菱経済研究所に入所。1941年大島とともに財団法人東亜研究所に移り、新設の欧米部門のイギリス班に所属。
城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 198… 城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 1985年12月21日)は、敗戦後中国共産党と戦い禁錮刑を受けた陸軍軍人で、のち評論家。 長崎県西山町生まれ。東京府立四中、第八高等学校卒、1938年東京帝国大学法学部政治学科卒業、野村合名会社調査部に入社、同年徴兵され中国へ渡る。41年陸軍中尉、第1軍参謀部。河本大作の知遇を得て、山西省政府顧問補佐官となる。1945年の日本の敗戦後も、祖国復興・山西独立を掲げ、山西の独裁者閻錫山と手を結び、李誠の名で毛沢東が率いる中国人民解放軍と戦う。49年捕虜となり禁錮18年の刑を受ける(中国山西省日本軍残留問題、撫順戦犯管理所)。 1964年解放され帰国。
夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 -… 夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 - 1987年7月16日)は、日本の俳優。 1913年(大正2年)8月31日、斎藤大二郎として東京市芝区桜田本郷町(現在の東京都港区西新橋)に生まれる。 1919年(大正8年)に映画芸術協会製作の『生の輝き』に姉の夏川静枝と共に夏川大吾の芸名で子役で出演した。 1933年(昭和8年)日活太秦撮影所に監督見習いとして入社、その後、俳優に転向し1934年(昭和9年)に日活映画でデビューした。 1940年(昭和15年)五所平之助監督『木石』などに主演。 戦後は脇役として、1946年(昭和21年)『瀧の白糸』、1949年(昭和24年)『透明人間現わる』などに出演した。
大野 茂男(おおの しげお、1913年8月30日 ‐ 200… 大野 茂男(おおの しげお、1913年8月30日 ‐ 2004年1月6日)は、日本の国文学者。江戸文学から明治大正期の文学まで、幅広く研究した。 千葉県千葉市生まれ。旧制千葉県立千葉中学校(現県立千葉高校)、静岡高等学校を経て、1938年、東京帝国大学文学部国文科卒業。県立千葉高等女学校教諭、文部省内日本語教育振興会研究員を経て、1943年、清水高等商船学校教授。同校在籍のまま、歩兵第二補充隊に応召され、後に第三十一飛行場中隊に転属。1946年復員。1947年千葉師範学校教授、1950年千葉大学文理学部助教授、1966年同教授、1968年千葉大学教養部教授(人文学部兼担)。1979年、停年退職して名誉教授、東洋大学文学部教授。
川原 幸男(かわはら ゆきお、1913年〈大正2年〉8月30… 川原 幸男(かわはら ゆきお、1913年〈大正2年〉8月30日 - 1985年〈昭和60年〉9月24日)は、昭和期の地方公務員、政治家。東京都港区長(3期)。 東京に生まれる。1937年(昭和12年)に法政大学専門部経済科を卒業する。 1935年(昭和10年)に東京市芝区役所に入り、港区総務部長、教育長、助役を務めた。1975年(昭和50年)に初の区長公選で港区長に当選する。三期連続当選するも、任期中の1985年(昭和60年)9月24日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
田崎 潤(、1913年〈大正2年〉8月28日 - 1985年… 田崎 潤(、1913年〈大正2年〉8月28日 - 1985年〈昭和60年〉10月18日)は、日本の俳優。本名は田中 実。新東宝入社前は舞台俳優として、本名のまま、または月波洋三郎、毛利賢二の芸名を使っていた。青森県青森市出身。 父は公務員。地元の小学校から県立青森商業に進学し、1932年に卒業。1933年、地方巡業の役者となり各地を回る。1935年、森川信らのレヴュー劇団ピエル・ボーイズに入団。この時、月波洋三郎や月波貫一の芸名を名乗る。1936年に退団後は中華民国だった上海にわたり、劇場の踊りの振付師を務める。1937年、帰国して名古屋の劇団に身を寄せるが、まもなく応召。1938年に除隊し、1939年に毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。
阿閉 吉男(あとじ よしお、1913年8月28日 - 199… 阿閉 吉男(あとじ よしお、1913年8月28日 - 1997年8月20日)は、日本の社会学者。名古屋大学名誉教授、創価大学名誉教授。 東京出身。府立六中(現都立新宿高等学校)を経て1937年東京帝国大学文学部社会学科卒。名古屋大学文学部助教授、1960年教授、1977年定年、創価大学教授。1993年退職。 ジンメル、マックス・ヴェーバーを研究。1970年日本社会学会会長。1980年「ジンメル社会学の方法」で日本学士院賞受賞。
中島健一(なかじま けんいち、1913年8月28日 - 没年… 中島健一(なかじま けんいち、1913年8月28日 - 没年不詳)は、日本の歴史地理学者。 山口県出身。早稲田大学文学部地理学科卒、同大学院、東亜研究所をへて、早大教育学部助教授、教授。84年定年、名誉教授。83年「灌漑農法と社会=政治体制 気候変動と歴史の構造変化に関する歴史地理学的研究」で文学博士。専門は歴史地理学。
並木 高矣(なみき たかし、1913年〈大正2年〉8月27日… 並木 高矣(なみき たかし、1913年〈大正2年〉8月27日 - 2003年〈平成15年〉)は、日本の経営学者。 群馬県甘楽郡下仁田町本宿出身。旧制高崎中学校、旧制第二高等学校を経て、1938年東京工業大学機械工学科卒。同年立川飛行機に入社。戦後、日本能率協会に入る。東京商工指導所工業診断課長、玉川大学工学部教授を務め、84年定年。1973年黄綬褒章受章。
宇野 脩平(うの しゅうへい、1913年8月21日 - 19… 宇野 脩平(うの しゅうへい、1913年8月21日 - 1969年4月24日)は、日本の歴史学者。 和歌山県那賀郡粉河町生まれ。1931年、和歌山県立粉河中学校卒業。1940年、東洋大学文学部国文学科卒業。同年、財団法人龍門社渋沢栄一伝記資料編纂所に編纂員として勤務し、土屋喬雄の指導を受ける。1943年、東京外国語学校連成科蘭語科修了。その後兵役につき、シベリア抑留を経験後、1947年に復員。1948年、財団法人水産研究会研究員。1949年、日本常民文化研究所常任理事。1951年東洋大学講師、1957年東京女子大学文学部助教授、1962年同教授。
増山 太助(ますやま たすけ、1913年8月20日 - 20… 増山 太助(ますやま たすけ、1913年8月20日 - 2007年5月27日)は、日本の社会運動家、社会運動研究家である。 東京・日本橋新堀町生まれ。開成中学を1931年3月に卒業。翌4月成城高等学校に入学、2学年のとき自由主義教育の理念を掲げる小原國芳主事の解雇反対運動(成城事件)で生徒側の闘争委員を務めた。1935年4月京都帝国大学経済学部に入学、農業経済を専攻しのち地代論を学んだ。在学中、新村猛・中井正一らの『世界文化』の発行に呼応し、反ファシズム人民戦線運動の一環として、1936年5月『学生評論』を創刊した。1938年9月「日本共産主義者団」の事件に連座して検挙されたが、同年12月不起訴で釈放され、1939年3月大学を卒業した。
柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> … 柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> 8月19日 - 2000年 <平成12年> 1月16日) は、日本の実業家。六代目秩父鉄道社長。日本民営鉄道協会副会長。位階は正五位。 秩父市で秩父鉄道4代目社長・柿原亀吉の6人兄弟の長男として生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1937年、東京商科大学卒業。謙一自身はこれで学校は終わりだと思っていたが、陸軍経理学校に入学させられた。 大学卒業後、一年半ばかり家業を手伝っていたが、1934年に補充兵で応召。その後9年間兵役に従事。大尉となる。 戦後、秩父鉄道に入社。1947年に取締役経理部長となり常務取締役を経て、1969年に六代目社長に就任。
古川 進(ふるかわ すすむ、1913年8月19日 - 199… 古川 進(ふるかわ すすむ、1913年8月19日 - 1991年10月23日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。佐賀県佐賀市出身。 1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村銀行(のちの大和銀行。統合により現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1961年11月に取締役に就任し、1963年4月に常務、1966年11月に専務、1968年11月に副頭取を経て、1973年4月からは大和銀行頭取を務め、1977年4月からは会長、1987年6月からは相談役を歴任した。 その一方で、1981年12月から1985年12月までに大阪商工会議所会頭を務め、海外交流に力を入れた。日本商工会議所副会頭、大阪銀行協会会長、全国銀行協会連合会副会長、関西経済同友会代表幹事なども歴任した。
小森 英夫(こもり ひでお、1913年8月19日 - 199… 小森 英夫(こもり ひでお、1913年8月19日 - 1996年9月9日)は、日本の経営者。同和鉱業社長を務めた。新潟県新潟市出身。位階は正四位。 1934年に横浜商業専門学校を卒業し、1946年2月に同和鉱業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1966年5月に常務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1981年6月には会長を経て、1987年6月には相談役に退いた。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1996年9月9日急性心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年)8月18日… 太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年)8月18日 - 1982年(昭和57年)11月24日)は、滋賀県出身の歌人、作家。太宰治の愛人の一人。『斜陽』に材料を提供したことで知られている。 作家の太田治子は、太田静子と太宰治の娘。 滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町愛知川)にて、開業医太田守・きさの四女として誕生。実家は九州の大名の御典医の家系。叔父(きさの弟)は大和田悌二(逓信省次官で、退官後日本曹達社長、日本電信電話公社経営委員長)。愛知高等女学校(現:滋賀県立愛知高等学校)卒業後、東京の実践女学校家政科に進む。直後から口語短歌を作り、逗子八郎が主宰する「短歌と方法」に入る。1934年(昭和9年)、口語歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行。
松浪 信三郎(まつなみ しんざぶろう、1913年8月18日 … 松浪 信三郎(まつなみ しんざぶろう、1913年8月18日 - 1989年9月2日)は、フランス哲学の研究・翻訳者。サルトル『存在と無』の翻訳で知られる。
権田 銈次(ごんだ けいじ、1913年8月17日 - 197… 権田 銈次(ごんだ けいじ、1913年8月17日 - 1978年1月26日) は、日本の実業家。第3代株式会社豊田自動織機製作所(現在の株式会社豊田自動織機)代表取締役社長。 勲章は勲三等旭日中綬章(旭日章)、藍綬褒章(褒章)、チェコスロバキア功労銀章。繊維不況の中、繊維機械一筋できて苦境にあった豊田自動織機を経営の多角化により建て直し現在の豊田自動織機の礎を築いた。 1913年(大正2年)8月17日、愛知県碧海郡小垣江(現在の刈谷市)生まれ。1932年3月 愛知県岡崎市立商業学校(現在の愛知県立岡崎商業高等学校)卒業。家は米屋で、9人兄妹の次男。曾祖父は、名古屋医学校(現在の名古屋大学医学部)創立に中心的に携わった権田錘 御用医師。
山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - … 山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - 2006年5月6日)は、元静岡県知事。参議院議員。静岡県出身。
福士 文知(ふくし ぶんち、1913年(大正2年)8月16日… 福士 文知(ふくし ぶんち、1913年(大正2年)8月16日 - 2003年(平成15年)5月1日)は、昭和から平成時代の政治家。医師。青森県弘前市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。曾祖父は、尾上銀行頭取清藤盛美。 弘前市出身。1966年(昭和41年)岩手医学専門学校卒業。1975年(昭和50年)弘前市医師会長を経て、1976年(昭和51年)から市長に4選。1992年(平成4年)2月に引退した。 2003年(平成15年)5月1日、急性肺炎のため弘前市の病院で死去した。
篠原 弘道(しのはら ひろみち、1913年〈大正2年〉8月1… 篠原 弘道(しのはら ひろみち、1913年〈大正2年〉8月15日 - 1939年〈昭和14年〉8月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少尉。通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」。 日本陸軍のトップ・エースの一人として総撃墜数58機を誇り、これは1939年5月27日の初陣から同年8月27日に戦死するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1回の空戦で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。 1913年8月15日栃木県河内郡雀宮村大字東谷(現:宇都宮市東谷町)生まれ。父庄蔵、母はる。雀宮尋常小学校東校(現:宇都宮市立雀宮東小学校)を経て1931年(昭和6年)下野中学校卒業後、12月に騎兵の現役志願兵として羅南の騎兵第27連隊に入営。
石橋 湛一(いしばし たんいち、1913年(大正2年)8月1… 石橋 湛一(いしばし たんいち、1913年(大正2年)8月15日 - 2003年(平成15年)9月7日)は、日本の教育者。内閣総理大臣を務めた石橋湛山の長男。三菱銀行に勤務していた。
黒岩 一郎(くろいわ いちろう、1913年8月14日 - 1… 黒岩 一郎(くろいわ いちろう、1913年8月14日 - 1995年6月7日)は、日本の国文学者、保守思想家。 兵庫県姫路市生まれ。東京帝国大学国文科卒。修齊女学院講師。大陸に出征。帰国後姫路高等学校(旧制)教授、戦後合併により神戸大学助教授、教授。1962年、「香川景樹の研究」で東大文学博士。1977年、定年退官。棠舟の号をもつ、反共思想家。1995年6月7日、肺癌のため死去。
武士 桑風(たけし そうふう、1913年〈大正2年〉8月13… 武士 桑風(たけし そうふう、1913年〈大正2年〉8月13日 - 2008年〈平成20年〉12月17日)は、日本の書家。本名、今治(いまじ)。 群馬県佐波郡上陽村(現・玉村町)に生まれる。群馬県師範学校卒。教員となり県内で勤めた後、1939年に上京し都内の小中学校で教壇に立った後1973年に退職。書道は半田神来・比田井神来に師事、前衛書道(墨象)の分野で新境地を開拓する。戦後いち早く毎日書道展等の設立に参加し、現代書作家協会代表、全日本書道連盟顧問などを務めた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
竹中 信常(たけなか しんじょう、1913年(大正2年)8月… 竹中 信常(たけなか しんじょう、1913年(大正2年)8月12日 - 1992年(平成4年)6月11日)は、宗教学者。大正大学教授。専門は宗教心理学、宗教儀礼の研究。 東京生まれ。1936年 大正大学宗教学科を卒業後、1960年『比較宗教学より見たる儀礼の理論と様態』により文学博士(大正大学)。東京大学、淑徳大学、佛教大学講師を経て大正大学教授となる。大正大学宗教学研究室主任、日本宗教学会常務理事、浄土宗総合研究所長等を歴任。
島村 喜久治(しまむら きくじ、1913年8月11日 - 1… 島村 喜久治(しまむら きくじ、1913年8月11日 - 1997年11月28日)は、日本の医師。結核対策に尽くした。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、東京大学医学部卒業。39歳で東京の国立療養所清瀬病院の院長に就任、1953年『院長日記』で日本エッセイストクラブ賞受賞。清瀬病院が統合された国立療養所東京病院院長を務め、のち名誉院長。長男は地震学者・武蔵野学院大学特任教授の島村英紀。ピアニストの妻千枝子の叔母(母の妹)が吉行あぐり。
高安 国世(たかやす くによ、男性、1913年8月11日 -… 高安 国世(たかやす くによ、男性、1913年8月11日 - 1984年7月30日)は、日本の歌人、ドイツ文学者、翻訳家。専門はリルケで、多くの作品を翻訳している。短歌結社「塔」の創設者。 父高安道成は医師、母やす子はアララギの歌人。三男高安醇は画家。伯父に高安月郊。作曲家・弘田龍太郎はいとこの夫。 大阪府大阪市道修町出身。 母の影響を受けて短歌を志し、アララギに入会、土屋文明に師事。1954年に『塔』を創刊する。 リアリズムに基礎を置きながらも、現実には存在しないものを表現の対象に求めるなど、常に新しい表現を求め続けた。 京都大学短歌会の顧問もつとめ、永田和宏や栗木京子を育てた。
岡路 市郎(おかじ いちろう、1913年(大正2年)8月11… 岡路 市郎(おかじ いちろう、1913年(大正2年)8月11日 - 2003年(平成15年)4月11日)は、日本の心理学者・俳人。専門は教育心理学。元・北海道教育大学学長。 滋賀県出身。1946年広島文理科大学 (旧制)心理学科卒。その後、1947年北海道大学法文学部助教授、1950年同法経学部助教授を経て、1952年(昭和27年)北海道学芸大学助教授に就任。1959年(昭和34年)同教授。1975年(昭和50年)北海道教育大学7代学長。1983年(昭和58年)北海道教育大学退官。同名誉教授。北星学園大学文学部教授。1988年(昭和63年)北星学園大学定年退職。駒澤大学保育専門学校招聘講師(1992年まで))。
齋藤 美洲(さいとう びしゅう、1913年8月10日 - 1… 齋藤 美洲(さいとう びしゅう、1913年8月10日 - 1997年8月26日)は、英文学者、東京教育大学名誉教授。 東京文理科大学卒。東京教育大学助教授、教授、1977年定年退官、名誉教授。大妻女子大学教授も務めた。 1997年8月26日、肺炎のため死去。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937… 北井 正雄(きたい まさお、1913年8月7日 - 1937年8月7日)は、草創期のプロ野球選手。阪急の初代エース。投手。島根県出身。
浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 -… 浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 - 1996年〈平成8年〉9月21日)は、日本の日本語学者。京都大学名誉教授。 浜田耕作の子として京都に生まれる。 1939年に京都帝国大学文学部卒。新村出に師事。戦後に大阪市立大学助教授となるが、1956年に京都大学文学部助教授となり、1969年より国語学主任教授を1977年まで務めた。 1996年に心不全のため死去。 国語学で扱う主要テーマはほぼ全て網羅していたが、中心は上代日本語・中古日本語・中世日本語であった。音韻に関しては、その歴史的変遷を辿ることによって、日本語の音韻の歴史を明らかにするという方向であり、音韻体系そのものではなく、音韻体系の外側にあった音(あるいは体系の外側に生まれてきた音)について綴った。
岡田 一幸(おかだ かずゆき、1913年8月6日 - 198… 岡田 一幸(おかだ かずゆき、1913年8月6日 - 1982年1月24日)は、日本の経営者。北海道出身。 1936年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、同年に日本石油に入社。1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1978年6月に社長に昇格した。1980年から相談役を務めた。 1982年1月24日肝不全のために死去。68歳没。
洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 … 洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産業組合幹部、教育者、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は南陽洪氏。実業家・社会運動家で親日派の洪鍾轍(朝鮮語版)は父、元国会議員の洪永杓(朝鮮語版)は甥(弟の息子)。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。明治大学法科卒。高敞産業組合常務理事、高敞面協議会議員、高敞郡学校評議会員、高敞東中学校理事、高敞女子中学校理事、高敞産業組合長、全北人事処長署理、民主党高敞乙区党委員長・政策委員・中央委員を務めた。1958年の第4代総選挙で民主党の候補として国会議員に当選し、対自由党闘争の闘士として活動したが、在任中に自由党に移籍したため非難を受けた。
面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 19… 面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 1985年12月28日)は、日本の歴史学者。鹿児島大学名誉教授。専門は西洋史で、門割制度など薩摩藩についての研究もおこなった。 鹿児島県の加世田生まれ。加世田武田(川辺郡加世田村武田、川辺郡加世田町武田、加世田市武田、南さつま市加世田武田)出身。1931年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)卒業、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業、1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。神奈川県史跡調査員となるが、戦争に応召され負傷し療養中に終戦。母校の旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその後身鹿児島県甲南高等学校で教諭を務めた後、1949年鹿児島大学鹿児島師範学校教授に就任。
中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981… 中村 登(なかむら のぼる、1913年8月4日 - 1981年5月20日)は、東京府東京市下谷区上根岸(現東京都台東区根岸)出身の映画監督。 歌舞伎作者榎本虎彦の次男として誕生。父と死別後、母は清元の家元と再婚、花柳界に育つ。1936年に東京帝国大学文学部英文科を卒業後、松竹蒲田から移転し間もない松竹大船撮影所(第1期)に助監督として入社。斎藤寅次郎、島津保次郎、吉村公三郎に師事。1941年に文化映画『生活とリズム』で監督デビュー。戦後、オールスター映画『我が家は楽し』(1951年)が出世作となる。 1960年代に入り、『紀ノ川』などの文芸大作に手腕を見せ、松竹大船を支える巨匠として活躍した。『古都』、『智恵子抄』で2度のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。
武藤 一雄(むとう かずお、1913年8月2日 - 1995… 武藤 一雄(むとう かずお、1913年8月2日 - 1995年6月27日)は、日本の宗教哲学者。京都大学名誉教授。キェルケゴールを専門とした。 1913年、長崎県長崎市で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、田辺元に師事した。 1946年、第三高等学校教授に就いた。1950年、京都大学教養部助教授となり、1957年に文学部助教授に配置換え。1962年、学位論文『神学と宗教哲学との間』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同年11月に同教授昇格。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西学院大学教授として教鞭を執った。同大学を退任後は、龍谷大学教授を務めた。
岩松 茂輔(いわまつ もすけ、1913年8月2日 - 200… 岩松 茂輔(いわまつ もすけ、1913年8月2日 - 2008年2月26日)は、日本の経営者。日立運輸、東京モノレール各社長を務めた。愛知県出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日立製作所に入社した。常務、専務を経て、1979年に日立運輸東京モノレール副社長に就任し、翌年に社長に昇格した。1981年に子会社として東京モノレールが設立した際には、日立運輸、東京モノレール各社長に就任した。 2008年2月26日死去。94歳没。
古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日… 古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日 - 2000年(平成12年)3月2日)は、俳人。本名は古沢 太保(ふるさわ たもつ)。「道標」主宰、新俳句人連盟会長、現代俳句協会顧問を歴任。第12回多喜二・百合子賞受賞。 富山県上新川郡大久保町(現・富山市)生まれ。生家は料理屋兼芸妓置屋。幼くして父を失い、一家は東京から横浜へ。法政大学商業学校(現在の法政大学中学校・高等学校)を経て、1938年、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科ロシヤ語学科卒業。その後結核のため療養生活に入る。療養所で俳句を勧められ、1940年、「馬酔木」を購読。のち加藤楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。
山田 正男(やまだ まさお、1913年8月1日 - 1995… 山田 正男(やまだ まさお、1913年8月1日 - 1995年)は日本の都市計画家。土木技術者。1930年代から1970年代の30年以上にわたり、東京都の道路計画の策定などに携わった。戦後の首都高速道路・東京外環自動車道の立案・設計に積極的に関与し、一時は「山田天皇」と呼ばれるほどの権勢を誇った。東京都建設局長・東京都首都整備局長・首都高速道路公団理事長などを歴任。 今日の東京の自動車専用道路網構築の立役者とも言え、東京都市計画史上では石川栄耀に次いで重要な人物とみなされている。 1937年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、4月から内務省都市計画東京地方委員会に勤務した。当時の上司は石川栄耀だった。
堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31… 堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31日 - 1981年(昭和56年)11月3日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 徳島県出身。京都帝国大学経済学部卒。同助教授を経て、1947年京都大学教授、1956年「明治維新の社会構造」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1976年定年退官、名誉教授、名城大学教授。西欧と日本の資本主義発達史を専門とし、戦後の経済史学会の中心であった。
常木 実(つねき みのる、1913年7月31日 - 2005… 常木 実(つねき みのる、1913年7月31日 - 2005年1月31日)は、日本のドイツ文学者。 千葉県生まれ。1938年東京帝国大学文学部独文科卒。外務省嘱託、旧制山形高等学校教授、旧制浦和高等学校教授。戦後東京大学教養学部助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、帝京大学医学部教授、94年退職。
新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30… 新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数こそ多くないがごん狐が小学校の国語教科書に継続的に採用されており、近年でもアニメーション制作が実施されたり学芸会の演目になることも多いので現在でも一定の国民からの知名度を持つ。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 199… 岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 1990年2月6日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中世小説研究序説」)。京都女子大学教授・関西大学教授・中京大学教授を歴任。 東京生まれ(本籍は秋田県)。父は岡見宇一。1923年に大阪へ転居、浪速高等学校 (旧制)卒、1936年に京都帝国大学文学部国文科卒、大学院入学。 1939年に天理外国語学校 (旧制)(現:天理大学)教授、1943年に京都府立京都第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校)教諭、1948年に京都府立桃山高等学校教諭、1949年に京都市立日吉ヶ丘高等学校教諭、1954年に京都女子大学教授、1961年に関西大学教授、1962年「中世小説研究序説」で京都大学より文学博士の学位を取得。
堀 多恵子(ほり たえこ、1913年(大正2年)7月30日 … 堀 多恵子(ほり たえこ、1913年(大正2年)7月30日 - 2010年(平成22年)4月16日)は、日本の随筆家。 静岡県出身。堀辰雄の妻。旧名・加藤多恵。父は日本郵船の駐在員で、香港、広東で育つ。東京女子大学卒。1937年弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に行く。辰雄の婚約者・矢野綾子の死後、山下三郎(山下汽船)の弟の波郎に辰雄を紹介され、1938年室生犀星の媒酌で堀辰雄と結婚。1953年に辰雄が死去、以後信濃追分にある辰雄の家(その後堀辰雄文学記念館となる)を守り、彼の思い出などを書いて半世紀生きた。
木村 睦男(きむら むつお、1913年〈大正2年〉7月29日… 木村 睦男(きむら むつお、1913年〈大正2年〉7月29日 - 2001年〈平成13年〉12月7日)は日本の政治家、運輸官僚。位階は正三位。参議院議員、参議院議長、運輸大臣を歴任。 岡山県阿哲郡千屋村(現・新見市千屋)出身。東京帝国大学法学部卒業。 田中派に属し、ロッキード事件では公判に証人として立ち田中角栄を擁護した。1987年7月4日、竹下登、金丸信らによる新派閥「経世会」が結成され、田中派が竹下派、二階堂グループ、中立系の3派に分裂した際は二階堂グループにはついていかず、中立系に属した。 自民党系の改憲団体で、「自主憲法期成議員同盟」(現・「新憲法制定議員同盟」)の関連団体である「自主憲法制定国民会議」(現・「新しい憲法をつくる国民会議」)会長をつとめ、憲法改正私案を発表するなど改憲論者であった。
松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26… 松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26日 - 1979年〈昭和54年〉12月24日)は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。最終階級は少佐、2等陸佐。第3代秋田駐屯地司令、第3代山梨地方連絡部長を務めた。 静岡県五和村出身。陸軍中将松田巻平の長男。1934年3月17日、予科卒業(12期、第2中隊第5区隊)歩兵第79連隊に配属され、本科48期卒(第2中隊第3区隊)。日中戦争に従軍し、本部作戦主任を経て1939年6月、第1大隊第1中隊長。 中隊長在任中の部下にのち韓国陸軍中将・駐日大使の崔慶禄がおり、士官学校への入学を推薦したほか、演習を視察で訪れた小野武雄中佐とも引き合わせた。 久留米第一予備士官学校歩兵生徒隊中隊長、西部軍教育隊中隊長を経て、郷里静岡で編成された第143師団(長:鈴木貞次中将)参謀として終戦を迎える。
吉田 徳之助(よしだ とくのすけ、1913年7月25日 - … 吉田 徳之助(よしだ とくのすけ、1913年7月25日 - 2010年2月10日)は、日本の数学者。教育者。 1913年(大正2年)京都府に生まれる。1933年(昭和8年)京都師範学校、1936年(昭和11年)東京高等師範学校を卒業後、東京文理科大学数学科に入学。1939年(昭和14年)に卒業後、東京高等師範学校講師を務める。第二次世界大戦中は岡村博を責任者とした航空力学の研究にも携わった。 1945年(昭和20年)京都工業専門学校教授、1952年(昭和27年)京都工芸繊維大学教授、後に大阪工業大学教授を経て1978年(昭和53年)京都工芸繊維大学学長に就任。 兄の吉田梅次郎は、半導体工学の第一人者として芝浦工業大学教授などを務めた。
坂本 昭(さかもと あきら、1913年《大正2年》7月24日… 坂本 昭(さかもと あきら、1913年《大正2年》7月24日 - 1978年《昭和53年》12月2日)は、日本の医師、政治家。旧姓・傍士 高知県選挙区選出の参議院議員で、1956年(昭和31年)から1962年(昭和37年)まで務めた。第24・25・26代高知市長も務め、在任期間は1967年(昭和42年)から1978年(昭和53年)10月まで。 三重県宇治山田市曽根町(現伊勢市)で、中学校英語教師・傍士龍治、茂登恵の長男として生まれた。母方の姓を継ぎ坂本に改姓。
河辺 三郎(かわべ さぶろう、旧字体: 河邊 三郞、1913… 河辺 三郎(かわべ さぶろう、旧字体: 河邊 三郞、1913年〈大正2年〉7月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(男爵)、神職。 大正2年(1913年)7月24日、河辺博長の三男として、東京都に生まれる。 昭和5年(1930年)4月4日に父博長が帰幽すると、同年7月1日に17歳で家督を継承、男爵となった。昭和11年(1936年)國學院大學付属神道部を卒業すると、同年大洗磯前神社・酒列磯前神社主典に就任、昭和15年(1940年)には伊豆山神社主典に転じた。昭和18年(1943年)からは実業界にて活躍した。昭和23年(1948年)3月28日には長男慶三郎が誕生した。 昭和37年(1962年)、下鴨神社禰宜に就任した。
塚本 重頼(つかもと しげより、1913年〈大正2年〉7月2… 塚本 重頼(つかもと しげより、1913年〈大正2年〉7月24日 - 1992年〈平成4年〉4月10日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者(英米法・労働法)。中央大学名誉教授。元最高裁判所判事。藍綬褒章、勲一等瑞宝章受章。岐阜県出身。 1936年中央大学法学部卒業。1937年高等試験司法科試験合格。8年間裁判官生活を送っていたが、1947年に弁護士に転身。昭和電工事件や造船疑獄などを担当。 1949年母校である中央大学法学部専任講師。1951年中央大学法学部教授に就任。1954年中央大学選任評議員。1958年法学博士の学位を取得。1979年3月中央大学依願退職。 1979年4月に最高裁判事となる。