小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 20… 小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 2004年10月12日)は、日本の映画監督、脚本家、占い師、山伏。 戦後、日本映画の最盛期に娯楽性の高い作品を世に数々送り出し、職人監督と評されている。長野県東筑摩郡四賀村出身。 易者・山伏名:小沢 宏瑞(おざわ こうずい)、本名:小沢 茂美(おざわ しげよし)。 少年時代は松本市で上映される無声映画を頻繁に見ていた。1930年に旧制松本中学に入学。日本大学芸術科専門部映画科へ入学し、演劇科には三木のり平、映画科には沼田曜一がいた。在学中の17歳に映画研究会を作り、熊谷久虎・マキノ正博らに講演依頼をしたのが縁で、やがて正博の家に居候をし、薫陶を受ける。
宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27… 宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の政治家。第75代内閣総理大臣。位階は従二位。勲等は勲一等。俳号は犂子(れいし)。 滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第42代)、外務大臣(第110代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。 1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に父・宇野長司と母・民子の間に長男として生まれる。
鈴木 一雄(すずき かずお、1922年(大正11年)8月26… 鈴木 一雄(すずき かずお、1922年(大正11年)8月26日 - 2002年(平成14年)5月19日)は、日本文学者。元十文字学園女子短期大学・十文字学園女子大学学長。勲三等旭日中綬章(2000年)。正四位(2002年6月)。 東京市本郷区田町に、8人姉弟の7番目の長男として、大工の棟梁の家に生まれる。文京区立礫川小学校、東京府立第五中学校を経て、1946年(昭和21年)、東京文理科大学文学部国語国文学科卒業。専攻は平安時代文学、とくに物語文学・日記文学。 東京都立九段高等学校、東京教育大学附属中学校・高等学校の教官、東京教育大学文学部助教授。金沢大学法文学部助教授・教授、同文学部学部長。明治大学教授を経て、1991年に十文字学園女子短期大学学長(第3代)に就任、1996年からは十文字学園女子大学初代学長を務め、大学を創設した功績により叙勲を受けた。
角 五郎(かど ごろう、1922年8月26日 - 1990年… 角 五郎(かど ごろう、1922年8月26日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。北海道文化放送社長、会長を務めた。 北海道室蘭市出身。1942年に名古屋高等商業学校を卒業し、1945年10月に北海道新聞社に入社。1977年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1982年に道新通信社社長に就任。1984年に北海道文化放送社長に就任し、1988年6月には会長に就任。 1990年7月24日に肝不全のために死去。67歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山川 武範(やまかわ たけのり、1922年8月25日 - 1… 山川 武範(やまかわ たけのり、1922年8月25日 - 1981年11月9日)は、長崎県出身のプロ野球選手(内野手)。1951年途中までは山川 喜作 。 石本秀一の秘蔵っ子で、金鯱・大洋軍などでプレー後、1942年に応召される。 戦後の1946年に東京巨人軍に入団しプロ野球に復帰する。堅実な守備とシュアな打撃を買われて二番・三塁手のレギュラーを掴み、チームトップの70得点を記録した。同年8月21日の対中部日本戦では、1,3,4,5,6回と5打席連続四球(1試合最多四球の一リーグ記録)を選ぶと、6回の打者一巡後の打席で二ゴロ失策で出塁し、9回には二塁打を打って、1試合7打席7出塁の珍しい記録を作り、5得点を記録している。
山崎 正雄(やまざき まさお、1922年(大正11年)8月2… 山崎 正雄(やまざき まさお、1922年(大正11年)8月25日 - 没年不詳)は、日本の政治家。青梅市長(3期)。 現在の東京都青梅市生まれ。山梨高等工業学校(現・山梨大学工学部)卒。醤油会社に入り、専務、社長となる。青梅商工会議所議員、青梅市議会議員、同副議長、同議長となる。市議時代には全国市議会議長会評議員、関東市議会議長会副会長などを歴任した。1975年(昭和50年)石川要三が辞職。これに伴う市長選挙に立候補し、当選する。1979年(昭和54年)に再選、1983年(昭和58年)に三選した。青梅市長は3期務め、1987年(昭和62年)に退任。翌年青梅商工会議所会頭に就任。1992年(平成4年)に勲三等瑞宝章を受章した。
阿久津 善治(あくつ ぜんじ、1922年8月24日 - 19… 阿久津 善治(あくつ ぜんじ、1922年8月24日 - 1988年2月1日)は、日本の歌人。晩年の前田夕暮に師事し、直系中の直系として純粋で源泉的な生き方と作風を貫いた。1946年2月から1948年10月までの2年3か月にわたり、福島県郡山市から『詩歌』(白日社)の戦後復刊の編集刊行にあたった。1956年、ケルン短歌会を創設し、主宰となる。生涯で幾たびかの生死を分ける病魔との戦いを経て、人生の多くを病床で過ごす傍ら、自然主義歌人として身近な自然と人生の厳しさと温かさを透明な視点の中に収めつつ、高く深い立場から人間と自己を見つめ続けた。 福島県郡山市に生まれる。1928年、6歳の時に、商家を営む伯父の阿久津藤七・クニ夫妻の養子となる。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1922年8月24日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1922年8月24日 - 2012年1月25日)は、日本の実業家。味の素創業者二代目鈴木三郎助の孫で、同社会長や名誉会長、日本食品添加物協会会長等を歴任した。 東京都港区出身。旧名鈴木重明。学習院高等科を経て、1946年東北大学法文学部卒業。1949年味の素入社。1961年取締役に昇格。1965年常務取締役。1969年専務取締役。1973年取締役副社長、日本油脂協会会長。1974年紺綬褒章受章。1975年取締役会長。1982年日本食品添加物協会会長。1988年レジオン・ドヌール勲章受章、全日本広告連盟理事長、日本宣伝クラブ理事長。1989年東京広告協会理事長。
金森 茂一郎(かなもり しげいちろう、1922年(大正11年… 金森 茂一郎(かなもり しげいちろう、1922年(大正11年)8月24日 - 2004年(平成16年)10月19日)は日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長(11代目)・会長のほか、大阪近鉄バファローズのオーナー、学校法人・帝塚山学園名誉理事長、日本民営鉄道協会会長も務めた。 祖父は近鉄の前身である大阪電気軌道・参宮急行電鉄元社長、実質的な創業者の一人でもある金森又一郎。父は近鉄の元会長である金森乾次で、又一郎の二男。また、実弟は大阪大学元総長の金森順次郎である。 大阪市で生まれる。1944年に東京帝国大学法学部を卒業し、京阪神急行電鉄(現在の阪急阪神ホールディングスおよび阪急電鉄)に入社した。
高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月2… 高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月23日 - )は岐阜県出身の元プロ野球選手。
中谷 瑾子(なかたに きんこ、1922年8月23日 - 20… 中谷 瑾子(なかたに きんこ、1922年8月23日 - 2004年6月23日)は、日本の法学者。専門は刑法。学位は博士(法学)(慶應義塾大学・論文博士・2001年)(学位論文「21世紀につなぐ生命と法と倫理:生命の始期をめぐる諸問題」)。慶應義塾大学名誉教授、大東文化大学名誉教授。山形県酒田市出身。 長男は慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)特任教授で前WHO(世界保健機関)執行理事会議長を務めた中谷比呂樹(慶應義塾大学医学部卒業)。 1970年4月から翌年3月まで、ヨーロッパ諸国の大学、矯正施設を視察。厚生労働省の諮問機関「厚生科学審議会」の委員として医療法分野での功績の他、公安審査委員会委員としてオウム真理教の破壊活動防止法適用の審査(オウム真理教破壊活動防止法問題)を行った。
緋縅 力弥(ひおどし りきや、1922年8月22日 - 19… 緋縅 力弥(ひおどし りきや、1922年8月22日 - 1970年1月2日)は、秋田県南秋田郡昭和町(現役当時、現・同県潟上市)出身で錦嶋部屋に所属した大相撲力士。本名は鎌田 全吉(かまた ぜんきち)。得意手は左四つ、寄り、吊り。現役時代の体格は179cm、120kg。自己最高位は、東前頭10枚目(1954年1月場所)。 18歳の時に上京して錦嶋部屋へ入門し、1941年1月場所で初土俵を踏んだ。 当初の四股名は、若大蛇(わかおろち)。間も無く、緋縅(ひおどし)と改名した(下の名は初めは新太郎、のち、力弥)。 序ノ口に付いてから、1度も負け越す事無く、1946年11月場所で十両昇進を果たした。 その後、1950年1月場所にて新入幕。
熊木 令次(くまき れいじ、1922年(大正12年)8月22… 熊木 令次(くまき れいじ、1922年(大正12年)8月22日 - 2015年(平成27年)10月24日)は、日本の地方公務員、政治家。東京都東村山市長(4期)。 東京府北多摩郡東村山村(東村山町を経て、現・東村山市)生まれ。旧制東亜商業学校(現東亜学園高等学校)を経て、脇田簿記学校卒。戦後、東村山町役場に入る。役場では収入役、総務課長、助役を務め、助役時代の1964年(昭和39年)に東村山町は市制施行により東村山市となった。市制施行後も助役として初代市長の小山林平を補佐した。 1967年(昭和42年)東村山市長選挙で当選。市内に都立高校の設置、保健所や税務署の誘致、水道事業を都に一元化させ、都市基盤と生活環境の整備、福祉の充実と、市民の健康増進、教育文化の向上などに積極的に取り組んだことにより、市民の信頼を得た。
大井 道夫(おおい みちお、1922年8月21日 - 200… 大井 道夫(おおい みちお、1922年8月21日 - 2007年5月2日)は、昭和後期の日本の環境官僚。農学博士(東京大学、1978年)。官僚時代は尾瀬国立公園の指定や東海自然歩道の制定に発案、関与したことで知られる。 「『身近な自然』論」を唱えた。 新潟県出身。入学した東京帝国大学農学部林学科では森林利用学を、卒業後に進学した同大学大学院で造園学・風致工学を、それぞれ専攻した。 1948年に厚生省国立公園部に入省し、1965年より計画課長となる。1971年の環境庁発足後は自然保護局の勤務となる。環境庁では長官官房参事官や公害研修所長(1974年より)を務めた。 在職中に、以下の施策の発案、策定に関与した。
阿久津 哲造(あくつ てつぞう、1922年〈大正11年〉8月… 阿久津 哲造(あくつ てつぞう、1922年〈大正11年〉8月20日 - 2007年〈平成19年〉8月)は、日本の医学者。医学博士(名古屋大学)。ミシシッピ州立大学(英語版)医学部教授。テキサス・ハート・インスティテュート教授。国立循環器病センター研究所副所長。テルモ社長。日本人工臓器学会名誉会長。世界で初めて人工心臓を開発し、人工心臓の父と呼ばれる。 1957年、クリーブランド・クリニック(アメリカ・オハイオ州)に留学。そこで、人工心臓の開発に取り組み、1958年、ウィレム・コルフ博士とともに、世界で初めて開発した人工心臓を使って、イヌを約1.5時間生存させることに成功した。その後、ニューヨーク州立大学、ミシシッピ州立大学、テキサス・ハート・インスティテュートで研究開発、改良を進め、動物実験での生存記録更新等成果を出した。
八戸 芳夫(はちのへ よしお、1922年8月20日 - )は… 八戸 芳夫(はちのへ よしお、1922年8月20日 - )は、日本の農学者、北海道大学名誉教授。 北海道生まれ。北海道帝国大学農学部畜産学科卒、1956年「蜜蜂の口吻長に関する研究」で農学博士。農林省畜産試験場に勤め、1962年北海道大学農学部助教授となり、1964年教授。1986年定年退官、名誉教授となる。養蜂が専門。
近藤 富枝(こんどう とみえ、1922年8月19日 - 20… 近藤 富枝(こんどう とみえ、1922年8月19日 - 2016年7月24日)は、日本の作家、エッセイスト。旧名:水島富枝。夫は軍事史研究家の土門周平。 東京府東京市日本橋区矢ノ倉町(現:東京都中央区東日本橋一丁目)の袋物問屋に生まれる。1929年に、父の破産で一家離散となり、一人で父方の祖父母の家にひきとられ、東京市田端で育つ。祖父・水島辨治郎は、日本橋の金襖問屋・増見屋の8代目水島三右衛門の次男だった。 東洋高等女学校卒業。東京女子大学国語専攻部に在学中に演劇に熱中し、1942年新劇団「芸術小劇場」(北村喜八・村瀬幸子が主催)の研究生、のち文学座の研究生となる。1943年に大学卒業後、文部省教学局国語課勤務。
橘博(たちばな ひろし、1922年8月19日 - 2005年… 橘博(たちばな ひろし、1922年8月19日 - 2005年8月8日)は、日本の経営学者。 大阪府枚方市出身。別名・田村二郎。1949年大阪商科大学卒。1977年「工場経営と作業分析」で大阪市立大学経営学博士。大阪市立大学商学部助教授、教授。86年定年退官、名誉教授、阪南大学教授、93年退任。98年勲三等瑞宝章受勲。
中埜 政一(なかの まさかず、1922年8月19日 - 20… 中埜 政一(なかの まさかず、1922年8月19日 - 2002年5月19日)は、日本の経営者。ミツカングループ本社社長を務めた。7代目中埜又左エ門。 愛知県出身。1946年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に中埜商店(のちのミツカングループ本社)に入社。1953年9月に社長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2002年5月19日肺炎のために死去。79歳没。
角田 豊(すみだ ゆたか、1922年8月19日 - 1978… 角田 豊(すみだ ゆたか、1922年8月19日 - 1978年9月7日)は、日本の法学者。 神奈川県逗子生まれ。第一高等学校、1944年東京帝国大学法学部政治学科卒、同大学院、1943年徴兵、ポツダム中尉。1946年中央労働学園調査部職員、1948年同専門学校助教授、1949年中央労働学園大学助教授、1951年静岡大学文理学部助教授、1964年同志社大学教授。
羽藤 一志(はとう かずし、1922年(大正11年)8月18… 羽藤 一志(はとう かずし、1922年(大正11年)8月18日 - 1942年(昭和17年)9月13日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争のエース・パイロット。戦死による特進で最終階級は二等飛行兵曹。 1922年8月18日、愛媛県今治市(旧越智郡玉川町)に生まれる。生後、父親の仕事で今治市常盤町に転居。父親が早くに亡くなり、母親が再婚、異父兄弟の妹と弟がいたが、兄弟仲は良かった。 1938年(昭和13年)6月、海軍飛行予科練習生乙飛9期生として入隊。同期の本間猛は、羽藤は予科練時代から温和な優男であり、級友は羽藤が戦闘機に行ったというので「羽藤が戦闘機にねえ」と言ったが、ひとたび戦場に出るや、闘志満々、戦意旺盛、零戦を駆って縦横無尽の活躍をして敵機十数機を撃墜したと語っている。
岩井 忠熊(いわい ただくま、1922年〈大正11年〉8月1… 岩井 忠熊(いわい ただくま、1922年〈大正11年〉8月17日 - 2023年〈令和5年〉11月4日)は、日本の歴史学者。専攻は日本近代史。立命館大学名誉教授。 熊本県熊本市出身。名前の「忠熊」は熊本生まれに因む。京都大学文学部卒業。立命館大学教授・副学長を歴任。 京都大学から学徒出陣した、特攻艇・震洋の元特攻隊員である。しかし、石垣島へ移送中に敵軍の魚雷攻撃を受けて船が沈没。3時間泳いだ末に救助され、特攻せずに存命したまま終戦を迎えた。元特攻隊員であることは晩年になってから明かしたことで、明かした理由は「特攻を公然と賛美する動きに腹が立ったからです」と語っている。 2歳上の兄・忠正も慶應義塾大学在学中に学徒出陣し、伏龍・回天の元特攻隊員であった。
平田 清明(ひらた きよあき、 1922年8月17日 - 1… 平田 清明(ひらた きよあき、 1922年8月17日 - 1995年3月1日)は、日本の経済学者。専門は、経済史・マルクス経済学。京都大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。高島善哉ゼミ出身。 市民社会論を展開。元経済理論学会全国幹事。京都西山の自然と文化を守る会会長、フォーラム90s呼びかけ人、トロツキー50周年実行委員会世話人等も務めた。 杉本苑子が直木賞を受賞した「孤愁の岸」で描いた宝暦の木曾三川の大治水普請(宝暦治水事件)の総奉行、薩摩藩家老平田靱負の末裔。 名大時代の弟子に山田鋭夫名大教授、八木紀一郎京大教授、植村邦彦関西大名誉教授、若森章孝関西大名誉教授が、斉藤日出治大阪産業大名誉教授、神奈川大学時代の弟子に丹野清人東京都立大学教授がいる。
佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月… 佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月16日 - 2006年 <平成18年> 1月24日)は、日本画家、日本芸術院会員。岩手県出身。日展理事。名古屋芸術大学教授。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描いた。位階は正五位。 岩手県九戸郡野田村出身。1946年東京美術学校日本画科首席卒業、同年第31回院展初入選。1948年に髙山辰雄らの日本画研究団体一采社に参加。1949年日展初入選。1951年から山口蓬春に師事。1954年、第10回日展で「冬」が特選・白寿賞を受賞。1959年第2回新日展「津軽の浜」が特選・白寿賞となり、1962年第5回新日展「夕凪」で菊華賞を受賞。
桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、… 桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、1922年8月16日 - 1983年9月4日)は、昭和期の俳優・演出家。元劇団民衆舞台所属。2男1女あり、長男は桑山正道(舞台監督・舞台プロデューサー)、次男は桑山和之(映画プロデューサー)。 東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。1943年に日本映画学校演技科を卒業し、戦争中は砲兵隊に所属して終戦時には仏領インドシナ(現ベトナム)で武装解除になり捕虜となる。戦後、帰国後しばらく自由労働者をした後、木下順二が主宰する劇団「ぶどうの会」に参加。劇団の創立メンバーとして、看板女優・山本安英の主演による『夕鶴』の与ひょう役をはじめ数々の舞台に出演した。
小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不… 小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不詳)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)。 長野商業では、1939年の夏の甲子園に出場し、ベスト4まで進むが準決勝で下関商業に敗れた。 1941年に東京巨人軍に入団するが、同年はわずか4試合の出場に留まった。1942年に主将の水原茂が9月初旬に応召を受け離脱したため、正三塁手がいない状況となる。1ヶ月ほど強肩を買われて青田昇が三塁手を務めるが暴投を乱発して外野手に戻ったことから、小池が後釜の三塁手を務める。この年は50試合に出場するが、5月半ばから10月半ばの5ヶ月に亘って43打席連続無安打に抑えられるなど、シーズンでわずか7安打しか打てず.077の低打率に終わった。
堀田 勝二(ほった かつじ、1922年8月15日 - 200… 堀田 勝二(ほった かつじ、1922年8月15日 - 2001年11月13日)は、日本の弁護士。 1954年に東京大学法学部法律学科卒業。1956年に弁護士登録。 司法研修所教官、第一東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長を歴任した後、1992年に公安審査委員会委員長に就任。公安審査委員会委員長時代にオウム真理教事件が発覚し、オウム真理教破壊活動防止法問題に携わった。オウム問題対処後に公安審査委員会委員長を辞任した。 2001年11月12日に心不全で死去した。
橋本 不美男(はしもと ふみお、1922年8月15日 - 1… 橋本 不美男(はしもと ふみお、1922年8月15日 - 1991年12月25日)は、日本の国文学者。王朝和歌が専門。早稲田大学名誉教授。 東京生まれ。1944年9月日本大学法文学部国文科卒業。宮内庁書陵部図書調査官、早稲田大学教授。1990年定年退任。王朝和歌が専門。 『宮内庁書陵部蔵 御所本 三十六人集 全36巻』(橋本不美男 編)新典社、1970年。
森川 達也(もりかわ たつや、1922年8月14日 - 20… 森川 達也(もりかわ たつや、1922年8月14日 - 2006年5月5日)は、日本の文芸評論家、僧侶。 兵庫県出身、本名は三枝洸一。京都大学文学部卒。1951年作家の三枝和子(結婚後の姓)と結婚、ともに同人雑誌『文藝人』を創刊。1963年兵庫県の実家の寺を継ぐ。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野澤 清志(のざわ きよし、1922年8月14日 - 201… 野澤 清志(のざわ きよし、1922年8月14日 - 2010年12月28日)は、日本の実業家。日本原燃の初代社長を務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1947年東京大学経済学科卒業、関東配電を経て1951年に東京電力入社。群馬支店次長、原子力部長代理、原子力建設部長代理、送変電建設本部副本部長、常務取締役などを歴任。1985年に電気事業連合会副会長。日本原燃産業社長などを経て1992年から日本原燃初代代表取締役社長を務め、相談役、顧問を経て2002年に退任。1997年に勲二等瑞宝章受章。1998年にフランスレジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章。
清野 静男(せいの しずお、1922年8月14日 - 197… 清野 静男(せいの しずお、1922年8月14日 - 1977年8月28日)は、将棋棋士。新潟県北蒲原郡(現・阿賀野市)出身。木村義雄十四世名人門下。棋士番号47。 1936年に木村義雄十四世名人門下に入門。1949年に三段で順位戦に参加しC級2組で全勝、翌1950年にC級1組昇級して六段に飛び級。四段の経験がないプロ棋士は、清野の他にはプロ編入時に五段の花村元司がいる。 1959年、第9期王将戦の二次予選で山田道美、坂口允彦に連勝し挑戦者決定リーグ入り。1965年、第6期(1965年前期)棋聖戦 決勝トーナメント出場。1972年、新たに創設された第1回(1972年後期)早指し将棋選手権で予選を勝ち抜き、本戦トーナメントに出場。
山崎 敏夫(やまさき としお、1922年 <大正11年> 8… 山崎 敏夫(やまさき としお、1922年 <大正11年> 8月13日 - 2000年 <平成12年> 6月7日)は日本の外交官。駐英特命全権大使。位階は正三位。勲一等瑞宝章。駐シンガポール大使や駐スウェーデン大使を歴任した山崎純は息子で、駐フランス大使や内閣法制局長官を歴任した小松一郎は義理の息子。 大阪府出身。東京大学法学部を卒業。1946年に外務省に入省。官房長やアメリカ局長、駐エジプト大使、駐南イエメン大使、駐インドネシア大使、駐英大使を歴任した。 1988年10月から公安審査委員会委員を務める。在任中の1995年3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生して一連のオウム真理教事件が注目されたことにより、公安調査庁がオウム真理教について破壊活動防止法が規定する解散請求を公安審査委員会に行なったことから、公安審査委員会委員の1人としてオウム真理教破壊活動防止法問題の審査にあたった(1997年1月に解散請求は棄却となった)。
横井正美(よこい まさみ、1922年8月12日 - 2000… 横井正美(よこい まさみ、1922年8月12日 - 2000年2月11日)は日本の大蔵官僚。国税庁次長、大阪万博記念協会理事長などを務めた。 香川県出身。京都帝国大学法学部卒業。京都大学大学院を中退し、1948年9月 大蔵省入省。給与局第四課配属。1949年6月 主計局共済課。1950年4月 横浜税関監視部。1951年6月 米国出張(留学)(〜1953年3月)。1953年5月 徳山税務署長。1954年7月 造幣局総務部総務課長。その後は主税局税関部、管財局総務課、理財局証券部、証券局などで課長補佐として勤務。1964年7月 東京税関総務部長。1969年8月:東京国税局総務部長。1971年6月 国税庁長官官房総務課長。
賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990… 賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990年3月6日)は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手。 神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)を経て、1948年に田辺製薬サッカー部に入団。全日本実業団サッカー選手権大会で6連覇を含む7回の優勝を遂げた田辺製薬の黄金期を支えた一人だった。同時期の天皇杯全日本サッカー選手権大会には大阪クラブの選手として出場し、1951年から3年連続で準優勝している。 日本代表としてもワールドカップ・スイス大会予選など、国際Aマッチ5試合に出場した。 2006年に第2回日本サッカー殿堂入りした。サッカーライターの賀川浩は実弟である。
紀野 一義(きの かずよし、1922年8月9日 - 2013… 紀野 一義(きの かずよし、1922年8月9日 - 2013年 12月28日)は、日本の仏教学者、宗教家。真如会主幹。
石田 尚豊(いしだ ひさとよ、1922年(大正11年)8月9… 石田 尚豊(いしだ ひさとよ、1922年(大正11年)8月9日- 2016年(平成28年)7月29日)は、日本の美術史学者。専門は日本仏教美術史。 東京都出身。1950年東京大学文学部国史学科卒。1952年東京国立博物館資料課、1970年文化庁美術工芸課文化財調査官、1976年東京国立博物館資料課長。1978年『曼荼羅の研究』で東大文学博士、日本学士院賞受賞。1981年東京国立博物館を退職して青山学院大学教授、1991年聖徳大学教授。
平野 時男(ひらの ときお、1922年8月6日 - 1993… 平野 時男(ひらの ときお、1922年8月6日 - 1993年7月27日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 皇宮警察や綜合警備保障の柔道師範を務めたほか、欧州各国で柔道指導を行いアントン・ヘーシンクやウィレム・ルスカ等の世界チャンピオンを育てた事で知られる。 淡路島の洲本市に生まれ、旧制・洲本中学校に入学した直後の1935年4月より柔道を始めた。2年生で初段位を取得すると推薦により平安中学校へ転校し、大日本武徳会武道専門学校師範を務める福島清三郎8段(のち9段)の義方会塾に住みこんで4段・5段の猛者を相手に修行に励んだ。平安中学主将となった平野は1939年に全国中等学校大会で優勝すると、同年秋に講道館で開催された明治神宮国民体育大会(中学校の部)に団体戦の京都府代表として出場し、優勝に貢献。
小池 勇二郎(こいけ ゆうじろう、1922年〈大正11年〉8… 小池 勇二郎(こいけ ゆうじろう、1922年〈大正11年〉8月6日 - 2013年〈平成25年〉5月24日)は、日本の実業家。長女は東京都知事の小池百合子。 兵庫県神戸市生まれ。宮城県・小池喜兵衛、兵庫県・かつの二男。1944年(昭和19年)、中央大学専門部商学科卒業。1947年(昭和22年)、立川医薬品工業営業部長。第二次世界大戦中は海軍中尉となり満洲国有鉄道経理部に所属した。(詐称疑惑あり) 終戦後はペニシリンなどを扱う闇市で財を成し、石油を扱う貿易会社を複数経営したほか、関西経済同友会の幹事を歴任した。その際にエジプト、サウジアラビア、クウェートなどのアラブ諸国の指導者層との人脈を形成する。
菱刈 隆永(ひしかり たかなが、1922年8月6日 - 20… 菱刈 隆永(ひしかり たかなが、1922年8月6日 - 2022年8月18日)は、日本の教育者。東京都立八王子東高等学校第2代校長。東京都出身。父は菱刈隆。専門分野は日本史。 1940年4月に東京府立第一中学校を卒業し、1941年4月に旧制第一高等学校に入学。大東亜戦争(太平洋戦争)の影響で一高を1943年9月に卒業。同年10月に東京帝国大学文学部国史学科に進む。この時の同級生に色川大吉、土田直鎮、虎尾俊哉、尾藤正英、高橋昌郎らがいる。学徒出陣の最中であったが、肺浸潤のため兵役を免れる。大学に残ったものの、終戦までの2年間は農村や軍需工場に向かわせられることが多かった。東京大学文書館には彼によるこの記録『第一軍需工廠配属 東京帝国大学文学勤労報国隊報告書』が残されている。
福光 尚次(ふくみつ しょうじ、1922年8月5日 - 19… 福光 尚次(ふくみつ しょうじ、1922年8月5日 - 1996年9月20日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。福岡県出身。 1947年(昭和22年)に慶應義塾大学経済学部を卒業し、翌年に阪急百貨店に入社。阪急電鉄からの分離後第一期生だった。 入社後、当時あった電気器具売場へ配属となり、仕入れの工夫で照明器具を市場価格の2割引きで販売したことで当時の清水雅社長に注目され、秘書室へ異動となった。1967年には宣伝部長として、百貨店で先例の少なかったプロ野球優勝セールとして「阪急ブレーブス優勝セール」を考案・実施した。 1972年(昭和47年)11月に取締役に就任し、1976年6月に常務を経て、1981年6月には専務に就任し、専務・営業副本部長時代には新規出店された大丸梅田店との競争に挑んだ。
石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010… 石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本のシャンソン歌手、エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業、東京音楽学校声楽専科卒業。 政治家・石井光次郎の次女として生まれ、母の勧めにより6歳からピアノを習う。ただ、歌は好きだがピアノは好きになれなかったという。ピアノを教えていた岡本たま(音楽家岡本敏明の妻)は、そんな好子にピアノを無理強いすることなく、ただ好きな歌を歌うよう勧めた。
朴 炫洙(パク・ヒョンス、박현수、1922年8月4日 - 2… 朴 炫洙(パク・ヒョンス、박현수、1922年8月4日 - 2009年11月14日)は、大韓民国の軍人。最終階級は陸軍少将。 全羅南道出身。上智大学在学中、学徒出陣して陸軍航空隊に配属。終戦時少尉。 帰国後、軍事英語学校を卒業し、参尉に任官(軍番105番)。1951年3月、第35連隊長。砲兵戦力の強化人員として「16人の砲兵将星」の一人に選抜され、光州砲兵学校で3か月の基礎訓練を受けたのち米国に留学、帰国後は首都師団砲兵団長を経て第2軍団砲兵団長、第2師団長。1955年6月より再度渡米し、米陸軍指揮幕僚大学に留学。帰国後は連合参謀本部第1部長、第20師団長、第6軍団(朝鮮語版)副司令官、第1軍管区司令官、第5軍管区司令官を経て1960年、朴正煕の後任で釜山の陸軍軍需基地司令官になった。
柿崎 実(かきざき みのる、1922年(大正11年)8月3日… 柿崎 実(かきざき みのる、1922年(大正11年)8月3日 - 1945年(昭和20年)5月2日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争(第二次世界大戦)の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1922年(大正11年)8月3日に山形県酒田市で生まれる。旧制酒田中学校を経て海軍兵学校に入校する。性格は温厚・無口で、あまり感情を表に出さなかったとされる。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校(72期)を卒業後、同日中に空母「瑞鶴」へ乗り組んで実習を続けるが、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校学生の発令を受け、そのまま人間魚雷「回天」搭乗員に転じた。
仁科 栄三(にしな えいぞう、1922年8月3日 - )は兵… 仁科 栄三(にしな えいぞう、1922年8月3日 - )は兵庫県出身の元プロ野球選手。
中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日… 中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の実業家。ダイエー創業者。 戦後の日本におけるスーパーマーケット (GMS) の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。 ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務め、教育者としての一面もあった。 名前の正式な用字は「功」ではなく「㓛」(「工+刀」、㓛:U+34DB)。
中内 功(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日… 中内 功(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は日本の実業家。ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長、理事長と、財団法人中内育英会理事長を歴任した。
松田 九郎(まつだ くろう、1922年8月1日 - 2015… 松田 九郎(まつだ くろう、1922年8月1日 - 2015年2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。長崎県議会議長、自民党国対副委員長、宗教政治研究会事務局長などを務めた。長男は元長崎県議会議員の松田正民。 長崎県北松浦郡佐々町出身。1943年法政大学専門部法科卒業。長崎県議会議員、同議長を経て、1983年12月の第37回衆議院議員総選挙で当選。河本派に所属。自治政務次官となった。2期連続当選したが、1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で落選した。 1993年の第40回衆議院議員総選挙にも出馬したが落選。 1995年の第17回参議院議員通常選挙では、無所属で一人区の長崎県選挙区に出馬して自民党公認の新人宮島大典と共倒れとなり、落選後は新進党に移籍。
永岡 慶之助(ながおか けいのすけ、1922年7月30日 -… 永岡 慶之助(ながおか けいのすけ、1922年7月30日 - 2021年5月12日)は、日本の歴史小説作家、時代小説作家。 本名同じ。福島県会津坂下町生まれ。群馬県藤岡市在住。東洋大学文学部卒業。 1946年(昭和21年)、友人の赤田哲也と故郷を出て中山義秀邸を訪問、知遇を得る。当時の仲間には吉田健一、国木田虎雄、清水崑、清水基吉らがいた。公友社、河出書房の雑誌編集者を経て、作家活動に入る。1960年(昭和35年)、出身地の会津藩を題材に取った『斗南藩子弟記』でデビュー。翌年の第45回直木賞候補となる。また同賞には1969年(昭和44年)の『紅葉山 富岡製糸場始末』も候補に推された(第62回)。
真山 美保(眞山 美保、まやま みほ、1922年7月30日 … 真山 美保(眞山 美保、まやま みほ、1922年7月30日 - 2006年3月12日)は、劇作家、演出家。新歌舞伎で著名な劇作家真山青果の長女。本名は美保子。東京都出身。牛込生まれ小石川育ち。夫は俳優の槙村浩吉。孫(養子・真山正治の養子であり、血はつながっていない)の眞山蘭里(らんり)は、美保死去後の新制作座の理事長。 新制作座文化センター主宰(理事長)。日本演出家協会・国際演劇協会日本センター会員。 東京文化会館及び東京芸術劇場の運営審議委員。文部省・視学委員であった。 1943年日本女子大学国文科卒。1943年に晩年の父と離反し、女優として前進座に入団。1947年新協劇団に転じ、1950年、槙村浩吉らと劇団新制作座を設立。
福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 … 福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 - 1995年6月3日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(1940年3月卒)、第七高等学校造士館 (旧制)文科(1944年9月卒)、京都大学法学部(旧制)(1949年3月卒)をそれぞれ卒業。1949年4月に京都大学法学部大学院特別研究生となった後、1950年4月に京都大学助手に、1953年1月に神戸商科大学助教授に就任する。1957年4月に京都大学法学部助教授に就任し、1962年5月に同教授へ昇任し、1986年3月31日の定年まで務め、同年4月1日付けで名誉教授となる。京都大学法学部教授在任中、法学部長(1976年10月22日~1978年10月21日)や評議員(1972年3月19日~1974年3月18日)も務めた。