粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月… 粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月17日)は、日本の実業家。文献収集家。ゲーテ研究家。ドイツの文豪・ゲーテの書籍や関連文献を生涯にわたって集めて、東京ゲーテ記念館を開館させた人物として知られている。 現在の茨城県水戸市開江で生まれた。父親は地元の村長で、忠は4人兄弟の長男として生まれた。1923年に茨城師範学校へ入学。この師範学校時代にゲーテの『ファウスト』を先輩に薦められたのがきっかけでゲーテを知る。1927年に師範学校を首席で卒業。しかし、その後は教職に就くことはなかった。その後、しばらく水戸と東京を往復する日々が続く。1928年に友人にゲーテについて聞かれてそれを調べていくうちに、ますますゲーテのとりこになり、いつかはゲーテの図書館を作ろうという決心をする。
土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 198… 土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 1989年8月7日)は、日本の作家。 東京生まれ。青山学院商科卒。銀行員のかたわらユーモア小説を書き、放送作家も務めた。山本周五郎の研究もしていた。埼玉県浦和市に住んでいた。 1980年参院選に埼玉県選挙区から無所属で出馬し、落選している。
玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998… 玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998年2月28日)は、日本の哲学者、岐阜大学名誉教授。 大阪府出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学文学部哲学科卒業。報知新聞や東亜研究所に勤務したのち、日本医科大学教授、岐阜農業専門学校教授を経て、1949年(昭和24年)岐阜大学教授、1971年(昭和46年)岐阜歯科大学教授、1981年(昭和56年)学長(途中で朝日大学に改名)、1989年退職。日本学術会議会員。
松平 勇雄(まつだいら いさお、1907年〈明治40年〉6月… 松平 勇雄(まつだいら いさお、1907年〈明治40年〉6月14日 - 2006年〈平成18年〉4月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。参議院議員、福島県知事を務めた。初代参議院議長などを務めた松平恒雄は叔父。東京都文京区の区議の松平雄一郎は孫。 1907年(明治40年)6月14日、伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男として福島県大沼郡高田町(会津高田町を経て現・同郡会津美里町)に生まれた。旧制目白中学校(現在の中央大学附属高等学校)を卒業し、1933年(昭和8年)に早稲田大学商学部を卒業した。 三菱商事社員、鉄鋼会社社長を経て、1951年(昭和26年)2月12日の参議院補欠選挙に福島地方区から立候補し初当選。
守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 199… 守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。岡山県出身。 岡山第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、同年に三菱航空機に入社した。1962年に三菱重工業取締役に就任し、常務、副社長を経て、1973年5月から1977年6月までに社長を務めた。 1976年から1984年までに日本産業機械工業会会長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1977年にイランからホマヨウン第3級勲章と日本政府から勲一等瑞宝章を受章した。 1990年7月24日呼吸不全のために死去。83歳没。
伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - … 伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - 1963年2月20日)は、元毎日新聞社記者、元プロレス解説者、元ラグビー選手(日本代表キャップ2)。
周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980… 周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980年2月28日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。 教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。
宮崎 正雄(みやざき まさお、1907年6月13日 - 19… 宮崎 正雄(みやざき まさお、1907年6月13日 - 1994年3月13日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。日本海新聞社長。 鳥取県出身。1941年東京文理科大学卒。東京高等師範学校講師、同助教授、石川県地方事務官、鳥取県立鳥取図書館長、同県教育長の他、日本海新聞社長、会長を歴任する。1959年の第5回参議院議員通常選挙で自由民主党公認で鳥取県から立候補したが、日本社会党公認で現職の中田吉雄に39票差で敗れて落選した。6年後の1965年の第7回参議院議員通常選挙で立候補して初当選。連続2期務めた。この間、第3次佐藤内閣農林政務次官、参議院運輸、文教の各委員長を歴任、1977年に引退した。
秋山 國三(あきやま くにぞう、1907年6月11日 - 1… 秋山 國三(あきやま くにぞう、1907年6月11日 - 1978年9月27日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 京都の地域史研究に取り組んだ。 京都市下京区出身。1932年京都帝国大学文学部史学科卒業。1934年から同志社専門学校講師、1944年に同志社外事専門学校教授。1949年に同志社大学教養部教授となり、1951年に経済学部・1954年に文学部に配置換え。1977年に退職して名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
任 文桓(イム・ムンファン、イム・ムナン、朝鮮語: 임문환、… 任 文桓(イム・ムンファン、イム・ムナン、朝鮮語: 임문환、日本名豊川文夫、1907年6月11日 - 1993年6月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家、実業家。本貫は豊川任氏。 東京帝国大学を卒業した後、高等試験に合格して、朝鮮総督府のキャリア官僚として勤務した。独立後の韓国でも次官や閣僚など要職を歴任し、後に企業経営者に転じて全経連副会長を務めた。 2008年に発表された民族問題研究所の親日人名辞典収録予定者名簿の中の官僚部門に選ばれた。 回顧録である「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」(朝鮮語版1974年、日本語版2011年)を残した。 1960年代初めに生地の錦山の困窮学生のために奨学金を創設した。
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6… 瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。 1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。
阿部 襄(あべ のぼる、1907年6月10日 - 1980年… 阿部 襄(あべ のぼる、1907年6月10日 - 1980年4月22日)は、山形県出身の動物学者・生態学者。山形大学名誉教授。理学博士。 1907年、山形県飽海郡松山町生まれ。阿部富太郎とゆきの長男である阿部一郎の長男。叔父(父の弟)に、哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也、動物学者の阿部余四男、日本史学者の竹岡勝也らがいる。 旧制山形高等学校を経て、1931年に東北帝国大学理学部生物学科卒業。1941年に「潮間帯ならびに浅海にすむ数種の無脊椎動物に関する生態学的研究」で東北帝国大学より理学博士の学位を授与。師道大学教授、山形県立農林専門学校教授、山形大学農学部教授を歴任。 戦前、日本学術振興会研究員として「パラオ熱帯生物研究所」に派遣されてサンゴなどの研究を行なった生物学者・生態学者であり、戦時中は満州産ドブガイなどの研究を行ない(阿部襄 1943)、終戦を吉林市で迎え(阿部襄 1970)、のちに山形大学農学部応用動物学研究室教授、山形大学名誉教授となった。
申 性均(シン・ソンギュン、朝鮮語: 신성균、1907年6月… 申 性均(シン・ソンギュン、朝鮮語: 신성균、1907年6月8日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家。谷城面長、制憲韓国国会議員。 全羅南道谷城郡出身。谷城公立小学校、行橋県立中学校、早稲田大学専門部法科卒。谷城面長を経て、光復後は谷城郡建国準備委員会委員長、韓国独立党全州特別党委員長・全羅北道党委員長・中央部財務部長兼秘書部長、新韓正義社全州支社社長、建国消費組合理事、無所属の国会議員、国会内務治安委員会委員長を務めた。朝鮮戦争の際、北朝鮮に拉致された。
平井 豊一(ひらい とよいち、1907年(明治40年)6月7… 平井 豊一(ひらい とよいち、1907年(明治40年)6月7日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の英文学者。法政大学名誉教授。 1907年(明治40年)6月7日、新潟県で生まれる。 1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業し、1933年(昭和8年)に法政大学法文学部英文学科を卒業する。 1993年(平成5年)10月22日、心不全により死去、86歳。 ウィリアム・シェイクスピアとジェイムズ・ジョイスを専門としており、その膨大な蔵書が法政大学図書館に平井豊一文庫(和書3702冊、洋書10320冊)として収められている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
柏村 信雄(かしわむら のぶお、1907年〈明治40年〉6月… 柏村 信雄(かしわむら のぶお、1907年〈明治40年〉6月5日 - 1989年〈平成元年〉1月16日)は、日本の内務・警察官僚。第三代警察庁長官として60年安保時代の治安対策責任者であった。 福島県会津若松市出身で、1925年(大正14年)会津中学を卒業した。中学時代の同級生には星冬四郎東大教授、星光一北大教授、終戦時の第11方面軍参謀などがいた。柏村は静岡県での代用教員を経て、1928年(昭和3年)旧制静岡高校に進む。1934年(昭和9年)東京帝大を卒業。在学中に高等文官試験に合格しており、内務省に入省した。 官歴は京都府属に始まる。戦前の警察関係の履歴としては、警保局に2度配属されたほか岩手県特高課長職があるが、同職からは短日間で地方局へ転任し、警察経験は少なかった。
夏目 純一(なつめ じゅんいち、1907年6月5日 - 19… 夏目 純一(なつめ じゅんいち、1907年6月5日 - 1999年2月21日)は、日本のヴァイオリニスト。 夏目漱石の長男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。暁星小学校在学中、父・漱石からフランス語の手ほどきを受けた。しかし物覚えが悪いとの理由で、父から苛烈なしごきを受けた。1916年12月に父漱石を亡くす。この翌年、「漱石先生追慕号」として、第3次『新思潮』の最終巻が出版されるが、この号の題字を書き、落款(漱石所用の印を使用)を押したのは純一である。 脚気により学業を中途で廃し、ヴァイオリンを宮内省管絃楽部の山井基清に、ドイツ語を内田百閒に師事する。亡父の潤沢な印税を背景として、1926年、5か年の予定でベルリンに留学する。
鶴岡 千仭(つるおか せんじん、1907年6月2日 - 19… 鶴岡 千仭(つるおか せんじん、1907年6月2日 - 1987年7月8日)は、昭和時代の日本の外交官。 千葉県出身。1931年高等文官試験の外交科に合格。 翌年、東京帝大法学部法律学科卒業後、外務省入省。 外交官補としてパリ在勤後、本省欧亜局、スイス公使館とトルコ、フランス大使館の各書記官を務めた。1946年から条約局法規課長、外務省研修所指導官、法務総裁官房渉外課長、法務省入国管理局次長、外務大臣官房審議室参事官を歴任。 1956年バチカン公使、58年には同大使に就任し、59年国際連合局長、外務大臣官房審議官を経てスウェーデン、スイス駐在大使。1967年国連駐在大使に就任、6日戦争戦後に安全保障理事会の議長として活躍した。
丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 198… 丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 1984年1月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。学習院大学名誉教授。 旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業後、フランスに留学。留学中の友人に岡本太郎がおり、横光利一の通訳、伊藤述史の長男の家庭教師などもつとめている。妻の山崎明子もパリ時代に一緒であった。国民精神文化研究所の「思想対策に関する調査」の嘱託員も務めた。 帰国後、ヴォルテールの邦訳紹介を行うかたわら、白秋ゆかりのアルスから悪名高い『戦争文学論』を公刊。これはホメーロスや『ロランの歌』、タッソーの『解放されたエルサレム』などといった戦争をテーマとする叙事詩の中に文学の本質を見ようとするものであるが、一般読者には戦争礼賛、ナチス支持の文脈の中で受け取られたので、戦後しばらくは隠棲に近い生活を余儀なくされることとなった。
高砂 政郎(たかすな せいろう / まさろう、1907年(明… 高砂 政郎(たかすな せいろう / まさろう、1907年(明治40年)6月1日 - 1989年(平成元年)10月9日)は、昭和期の政治家。塩尻市長(第2代)。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 長野県東筑摩郡塩尻町(現:塩尻市)生まれ。1925年(大正14年)3月、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業。1947年(昭和22年)塩尻町議会議員、1959年(昭和34年)4月、塩尻市議会議員に当選し1967年(昭和42年)4月まで連続2期在任。同年4月に前市長の小松多喜雄を2328票差の1万3170票で破り、塩尻市長に当選。全国初の日本共産党籍をもつ市長として注目された。前市長のワンマン体制への批判の他、高度経済成長下で、道路・交通問題、下水道や不足する住宅の整備、特別養護老人ホームの建設、公害対策など福祉や市民生活に直結した問題に取り組み支持を得た。
今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 -… 今城 誼子(いまき よしこ、1907年〈明治40年〉6月 - 1993年〈平成5年〉2月12日)は、日本の華族。香淳皇后付の女官。今城定政子爵の長女。 女子学習院高等科卒業、1929年より当時の皇太后(貞明皇后)に出仕、「浜菊掌侍」という源氏名で呼ばれた。皇太后は宮中祭祀に熱心で、旧来の皇室の慣習を厳格に守る人物であり、今城は出仕中に強くその考えに傾倒したものと思われる。1951年の皇太后の崩御後、当時の侍従次長・甘露寺受長の紹介で香淳皇后に出仕することとなった(女官昇任は1953年4月10日)。皇后の信頼が極めて厚くなり、それを背景に宮中で強い影響力を振るうに至ったが、入江相政(1969年〈昭和44年〉 - 1985年〈昭和60年〉まで侍従長)ら昭和天皇付の側近と対立、最終的には昭和天皇の支持を得た天皇側近たちによって、1971年(昭和46年)、自主退職に追い込まれる。
菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月-1981年1月2… 菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月-1981年1月25日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。千葉県議会議長。千葉県議会議員(5期)。位階は正四位。勲等は勲二等。
出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1… 出口 神暁(でぐち しんぎょう 1907年5月30日 – 1985年3月9日)は、日本の蔵書家、郷土史家。 岸和田市の称名寺の長男として生まれる。平安中学校卒業。岸和田市役所書記等を勤めたのち、1947年、称名寺住職を継ぐ。市役所勤務のころから、郷土資料の収集・研究を行い、のちに反町茂雄から「異常に熱心な郷土資料の蒐集家」と評された。1943年4月に蔵書をもとに鬼洞文庫を設立。蔵書は、現在は関西大学図書館や大阪歴史博物館などに収められている。1949年には和泉文化研究会を設立し、機関誌として『流木』(のち『和泉志』と改題)を創刊し、また和泉文化研究会図書館の館長も務めた。その他に「鬼洞叢書」や「和泉史料叢書」として史料集の編纂刊行を行った。
中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(… 中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(明治40年)5月29日 - 1991年(平成3年)12月18日)は、三重県出身の政治家。三重県上野市(現在の伊賀市)の市長だった。日本社会党に所属して衆議院議員を6期務めた。長男の中井洽も衆議院議員となった。 三重県立上野中学校、第八高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験合格。 満洲にわたり全満洲の電気供給事業を統制して電力・電燈の供給事業を独占的に行う満洲電業株式会社に入社。企画主計課長、文書課長を歴任した後、長男の洽が満洲で誕生した。終戦で三重県に引揚げた。 1947年(昭和22年)に全国で最初の日本社会党の公認候補者として三重県上野市長に当選し、以後2期、革新的な市政を行った。
中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - … 中道 益平 (なかみち ますへい、1907年5月29日 - 1978年5月18日)は、日本の障害者福祉活動家。光道園創設者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28… 坂口 昇(さかぐち のぼる、明治40年(1907年)5月28日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。米子市会議員を務めた。 実業家2代坂口平兵衛の義弟。 昭和5年(1930年)、東京帝国大学法学部卒業。日本製糸株式会社の取締役を経て、戦時中に三菱軽合金株式会社の資材課長に就いていたが、坂口合名会社を設立し、代表社員となる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1… 岡田 修一(おかだ しゅういち、1907年5月27日 - 1971年11月29日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(1期、自由民主党)。 東京都出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年東京帝国大学法学部政治学科卒。逓信省に入り、姫路郵便局長、朝鮮総督府逓信局海事課長、逓信省竿船局沿岸課海務員、運航部港運、第一輸送各課長、大東亜省南方事務局交通産業課長、企画院書記官、運輸省海運総局総務企画課長、神戸海運局(現神戸運輸監理部)管理部長、同局長、運輸省海運局長などを歴任する。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。1960年の第29回衆議院議員総選挙において兵庫3区から自由民主党公認で立候補して当選した。
金森 九郎(かなもり くろう、1907年(明治40年)5月2… 金森 九郎(かなもり くろう、1907年(明治40年)5月26日 - 1977年(昭和52年)6月23日)は、日本の実業家。富士製鉄常務取締役、日本原色押花協会会長を務めた。位階は正四位。勲四等旭日小綬章。 姪・和子の長男は、第28代自由民主党総裁・第102代内閣総理大臣の石破茂である。 東京都渋谷区出身。牧師・金森通倫の四男。5歳の時に母が亡くなり、長姉の三寿子が母代わりとなる。 1925年、旧制東京高等師範学校附属中学校を卒業した。その後、旧制静岡高等学校を卒業した。1932年、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。日鉄、八幡製鉄所に入り、広畑製鉄所研究所各勤務の後、1942年に東京帝国大学第二工学部冶金学科助教授となり、1945年には教授に就任する。
根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 -… 根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 - 1990年3月19日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章。 自由民主党衆議院議員。秋田県大曲市(現在の大仙市)出身。 秋田県立秋田農業学校(現秋田県立大曲農業高等学校)を経て、1932年京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。満州国に渡り、役人を経て、建国大学の助教授を務めた。終戦で日本に引き上げ、1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧秋田2区から秋田県民主党より立候補し当選する(当選同期に鈴木善幸・中曽根康弘・中山マサ・松野頼三・倉石忠雄・石田博英・園田直・櫻内義雄・中村寅太など)。 その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄、幣原喜重郎、原健三郎、佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂の自由党に入党する。
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25… 三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
宮本 晃男(みやもと てるお、1907年5月25日-1992… 宮本 晃男(みやもと てるお、1907年5月25日-1992年)は、飛行機・自動車の技術者、評論家。 1930年東京市立深川工業学校(後の東京都立本所工業高等学校)自動車専修科卒。1932年東京帝国大学造兵学科委託研究生修了。逓信省航空局技術課勤務。一等整備士、航空機関士。運輸省自動車局車両課勤務(運輸技官)。日本自動車連盟事業部長。1970年自動車問題研究会を設立、初代会長となる。自動車ジャーナリスト協会顧問。自動車技術会顧問。1982年勲五等瑞宝章受勲。
四方 実一(しかた じつかず、1907年5月25日 - 19… 四方 実一(しかた じつかず、1907年5月25日 - 1997年1月22日)は、日本の教育心理学者。 京都府出身。東京文理科大学心理学科卒、1961年「算数問題解決の教育心理学的研究」で東京教育大学文学博士。京都学芸大学助教授、教授。1966年校名変更で京都教育大学教授。71年定年退官、名誉教授。
川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日(光緒33… 川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日(光緒33年4月12日) - 1948年3月25日)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。 8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャブと結婚式をあげた。カンジュルジャブは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた。
影山 光洋(かげやま こうよう、本名:影山 正雄、1907年… 影山 光洋(かげやま こうよう、本名:影山 正雄、1907年5月23日 - 1981年3月1日)は、日本の報道写真家である。 静岡県浜松市に生まれ、若い頃から写真撮影に親しむ。浜松商業卒業後、画光舎に勤める。その後、東京高等工芸学校(現・千葉大学)に進み(一期生)、卒業後朝日新聞社写真部に勤める。報道写真を中心に、戦前から戦後にかけて、日本の世相を写し続けた。作品の対象となった事件性のある出来事としては、例えば、二・二六事件、南京陥落、山下・パーシバル会談などを挙げることができる。写真の記録性を著しく重視し、その点を徹底したことから「記録の鬼」と呼ばれ、戦後はフリーカメラマンとして活動した。
坂本 浩(さかもと ひろし、1907年5月21日 - 198… 坂本 浩(さかもと ひろし、1907年5月21日 - 1988年1月17日)は、日本近代文学研究者。成城大学名誉教授。 熊本県生まれ。1932年東京帝国大学国文学科卒業。1978年まで[要出典]成城大学教授。国木田独歩、夏目漱石などを研究した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
小林 倭文(こばやし しずり、1907年5月21日 - 20… 小林 倭文(こばやし しずり、1907年5月21日 - 2005年1月17日)は、日本の女性教育者。長野県長野市に本部のある学校法人長野家政学園創設者で、当学園設置の長野女子高等学校初代校長、および長野女子短期大学初代学長を務めた。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市八幡)にて、小川今朝治(倭文の後年の回想では「区長のような役を務めていた」とある)と妻の和佐の長女(兄が2人いた)として生まれる。当時の八幡村は、武水別神社の門前として栄えていた。縄文人が植物の表皮を爪ではがして織った倭文織にちなんで倭文(しずり)と名付けられる。 小さい頃より父親より、実践女子大学の創立者下田歌子や共立女子大学の創立者鳩山春子の話を聞いて育ったため、徐々に女子教育に興味を持つようになる。
江沢譲爾(江澤譲爾、えざわ じょうじ、1907年5月20日 … 江沢譲爾(江澤譲爾、えざわ じょうじ、1907年5月20日 - 1975年1月23日)は、日本の地理学者。専門は経済地理学。学位は、経済学博士(一橋大学・論文博士・1955年)。経済地理学会初代会長。江澤譲爾とも表記される。
渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2… 渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2002年11月4日)は日本の実業家。味の素社長を1973年から8年務めた。敬虔なクリスチャンとしても知られ東京女子大学理事長などを務めた。食品産業功労賞。
谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990… 谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990年5月28日)は、日本の流体力学者。
谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990… 谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990年5月28日)は、日本の流体力学者。 東京府生まれ。1924年府立一中卒。1927年旧制一高卒。1930年東京帝国大学工学部航空学科卒。1943年「層流境界層ニ関スル研究」で工学博士の学位を取得。 東京帝国大学工学部講師から、1933-1944年航空研究所兼務、1942年第二工学部助教授。その間、特攻兵器「桜花」開発のため、木村秀政助教授の風洞実験用の木型設計を基に空気力学の実験に携わる(桜花 (航空機)#歴史参照)。 1951年東京大学生産技術研究所助教授、1952年東大理工学研究所教授、1958年東大航空研究所教授、1964年東大宇宙航空研究所教授、68年定年退官、名誉教授。
佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19… 佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19日 - 1988年(昭和63年)7月7日)は、日本の第22代日本銀行総裁。 父の任地、仙台市で誕生。釜山中学校(現釜山高等学校)、東京府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業(本位田祥男ゼミ)。日本銀行入行。戦前は総力戦研究所にも出向し,模擬内閣で日銀総裁役を務めた経験もある。 戦後、“日銀のプリンス”と称され、日銀総裁の座が近づいた時、池田勇人や、時の田中角栄蔵相らの意向で市中銀行(三菱)出身の宇佐美洵に総裁の座をさらわれ、日銀もすっかり大蔵省による金融行政の脇役に収まっていた。日銀副総裁時代には山一證券の破綻時、田中角栄の意向で日銀特別融資で乗り切り、さらに田中角栄内閣時代には日銀総裁を務めた。
秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 198… 秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 1985年3月17日)は、日本演劇学者。永井荷風研究で著名である。 東京府東京市深川区生まれ。1930年東洋大学支那哲学文学科卒業。同大学在学中の1929年に江戸時代から明治時代にかけての文学や演劇、風俗の資料収集し『軟文学研究』を刊行。1937年に『東都明治演劇史』を刊行後、応召。陸軍少佐として従軍し、中国および南方を転戦する。戦時中、特にニューギニアでの体験談をまとめた『ニューギニアの戦い: 秋庭太郎遺稿』が秋庭の死後、鈴木元明監修によって発刊されており、奇跡的な生還だったとのこと。戦後復員し、1946年から日本大学図書館に勤務、館長を務めた。
小林 亦治(こばやし またじ、1907年〈明治40年〉5月1… 小林 亦治(こばやし またじ、1907年〈明治40年〉5月19日 - 1982年〈昭和57年〉8月10日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 山形県最上郡出身。1931年(昭和6年) 日本大学法律学科を卒業した。 1941年(昭和16年)司法官試補に任官し、判事として東京地方裁判所、仙台地方裁判所、青森地方裁判所の各地裁で勤務。1944年(昭和19年)山形市で弁護士を開業した。山形県農地相談所長、山形新聞論説委員、労農救援会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に山形地方区から日本社会党所属で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。この間、日本社会党山形県連会長、同顧問、参議院決算委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長などを務めた。
朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年… 朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。 1907年(明治40年)5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子(第6子)として誕生。15分先に生まれた敦子女王(清棲幸保伯爵夫人)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年(大正14年)に結婚し、朝融王妃となる。
村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18… 村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18日 - 1992年(平成4年)12月16日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 奈良県御所市出身。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三和銀行の前身である山口銀行に入行。1952年5月に取締役、1957年10月に常務、1961年11月に専務を経て、1971年4月から1976年4月までに頭取を務め、銀行間のオンライン提携の推進とJCBの設立などにより、消費者金融により力を入れ、加州三和銀行の設立などで国際業務にも力を入れた。 その一方で、日本銀行参与、全国銀行協会副会長、日本経済団体連合会常任理事、大阪銀行協会会長なども歴任。ローマ字の普及にも力を入れたことでも知られる。
清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18… 清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1936年〈昭和11年〉2月24日)は、日本の元皇族。伯爵清棲幸保夫人。伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子。旧名は、敦子女王(あつこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1907年(明治40年)5月18日午前10時30分、伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子(第5子)として誕生。15分後に生まれた知子女王(久邇宮朝融王妃)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。
塩見 俊二(しおみ しゅんじ、1907年(明治40年)5月1… 塩見 俊二(しおみ しゅんじ、1907年(明治40年)5月17日 - 1980年(昭和55年)11月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。参議院議員(4期)。自治大臣、厚生大臣。自由民主党高知県連会長。板垣退助先生顕彰会顧問。土佐市名誉市民。 1907年(明治40年)5月17日、塩見熊吉の二男として高知県高岡郡戸波村浅井(現土佐市)に生まれる。初代土佐市長の塩見俊雄は実兄。母は塩見良。 1921年(大正10年)4月、高知県立第一中学校(翌年「高知県立高知城東中学校」と改称。現高知県立高知追手前高等学校)に入学。この時の同期生に板垣退助の孫・乾一郎がいた。同校卒業後、旧制高知高等学校に進み、更に東京帝国大学法学部で学を修める。
小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 19… 小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 1993年1月6日)は日本の菌類学者。理学博士(東京帝国大学、1940年)。 熊本市生まれ。1931年に東京帝国大学を卒業し、東京文理科大学の助手、講師を務めた後、1941年から1945年まで満州国立中央博物館の薦任官を務め、1946年から2年間、長春大学の教授を務めた。1948年から国立科学博物館の植物研究部員として働き、後に研究部長となった。 菌類の分類学的研究の他に、南方熊楠が残した菌類図譜稿本を整理し、1987年に「南方熊楠菌誌」を出版した。1970年に南方熊楠賞の第1回の受賞者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
雷山 勇吉(らいざん ゆうきち、1907年5月17日 - 1… 雷山 勇吉(らいざん ゆうきち、1907年5月17日 - 1973年1月7日)は、東京都荒川区出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は豊田 光三。身長167cm、体重101kg。最高位は東前頭12枚目(1933年5月場所)。引退後は一時期年寄として後進の指導につとめた。 伊勢ノ海部屋に入門して、1923年1月場所初土俵を踏む。出世は遅く、三段目から序二段に陥落したり、幕下から三段目に陥落したこともあったが、1931年5月・10月と三段目上位で好成績を残し(10月場所は全勝して三段目優勝をとげた)、1932年1月に幕下に復帰したところに、春秋園事件で大量の脱退者が出たため、2月場所では繰り上がって幸運な新十両昇進となった。
牧屋 善三(まきや ぜんぞう、1907年5月17日 - 19… 牧屋 善三(まきや ぜんぞう、1907年5月17日 - 1977年5月11日)は、日本の作家。本名・岡田五郎。作家岡田三郎の弟。第2代小樽区長山田吉兵衛は伯父。 北海道松前町生まれ。明治学院高等部在学中、三・一五事件で退学。大宅壮一の下で『千一夜物語』を翻訳、浅草の軽演劇団で脚本を執筆。1940年丹羽文雄の推薦で『文学者』に小説を発表、41年青年芸術派同人となる。
杉本 勲(すぎもと いさお、1907年5月16日 - 199… 杉本 勲(すぎもと いさお、1907年5月16日 - 1991年4月28日)は、日本の歴史学者。 東京府豊多摩郡大久保村(現・東京都新宿区)生まれ、岐阜県出身。1932年東京帝国大学文学部国史学科卒。宮内省図書寮編修員、日本大学助教授、教授、九州大学九州文化史研究施設教授を経て、1969年九大文学部教授、1971年定年退官、名誉教授、高知県立大学教授、武蔵工業大学教授を務めた。近代日本技術史が専門。 1991年4月28日、脳梗塞のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。