玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 -… 玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 - 1975年10月25日)は、和歌山県海南市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名山村 佐太郎(やまむら さたろう)。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重105kg。得意手は押し。 1920年1月場所初土俵、1925年1月に十両昇進、一時幕下に陥落したが、1928年3月新入幕をはたした。横綱・宮城山福松に強く、金星を3個獲得している。1932年1月、春秋園事件で脱退。1937年末の関西協会の解散まで現役を続けた。 徹底した押し相撲で、指が変形したほど稽古に打ち込んだ。生涯四つ相撲になったのが二番、打っ棄りを食らったことは一度もなく、「相撲の神様」と呼ばれた幡瀬川が絶賛していた。
王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 199… 王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 1995年8月19日)は、日本の精神医学者。 福岡県議会議長、福岡市議会議長などを歴任した牛乳商・王丸代吉の長男として、福岡県久留米市に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制第六高等学校を経て、1926年、九州帝国大学医学部を卒業し下田光造教授の精神科に入局する。 1929年10月、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)神経精神医学講座開設に際して初代教授に就任し、1946年3月久留米医科大学教授、1950年4月久留米大学医学部教授となり、後に久留米大学医学部長を2期務めている。日本精神神経学会会長、日本精神分析学会会長、九州精神神経学会会長を歴任する。
佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)… 佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)3月27日 - 1943年(昭和18年)5月24日)は、日本の翻訳家。 石川県小松市生まれ。小松中学校を経て金沢第一中学校に転じ、四年修了で第四高等学校に進む。1925年、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。同大学院を経て、日本大学で短期間教える。 1931年9月から1932年11月にかけて第一書房より刊行された『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を訳出。ポーの本格的翻訳として注目を浴びる。その他、ロバート・ルイス・スティーヴンスン『宝島』『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』、チャールズ・ディッケンズ『二都物語』などの訳書がある。肺炎で急死。
佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治… 佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。7年8か月の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された。ノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。吉田学校の代表格。
小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 196… 小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 1969年8月18日)は、日本の経営学者、会計学者。 神奈川県横浜市生まれ。1928年慶應義塾大学経済学部卒、1929年同助手となり、欧米留学を経て1937年助教授、1939年教授、1948年「企業に於ける資本計算制度の発展」で経済学博士の学位を取得。1963年商学部長。1969年定年となり、名誉教授。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23… 寿原 九郎(すはら くろう、1901年(明治34年)3月23日 - 1983年(昭和58年)5月21日)は、日本の実業家、銀行家。寿原産業、北洋相互銀行(現在の北洋銀行)社長を務めた。 石川県出身。1924年に小樽高等商業学校を卒業。1925年に三井銀行に入行。 1947年に寿原産業社長に就任し、1957年から1971年まで北洋相互銀行社長を務めた。 1983年5月21日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - … 福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - 1977年6月13日)は、日本の出版実業家、作家。 北海道小樽市生まれ。松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学社会学科卒。 報知新聞記者などを経て、1943年3月に『日本読書新聞』の発行元であった日本出版文化協会から改組された出版統制組織「日本出版会」の総務部次長兼編集室長となる。同紙は敗戦を待つまでもなく物資の不足と編集部員の応召などにより、1945年5月に休刊した。同年3月には出版用紙の確保のために一括して用紙を荷受する機関として「日本出版助成株式会社」が設立され、同社専務に就任。1946年、同社を日本出版協同株式会社に改組した後に社長に就任した。
吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21… 吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の大正・昭和期の社会主義運動家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、東京外国語学校ロシア語科を中退した。在学中、社会問題研究会を創立、学生連合会に加盟。またML会に入会する。中退後は静岡で青年運動に身を投じる。 1925年(大正14年)、無産政党組織準備静岡県協議会常任書記となる。1927年(昭和2年)、全日本無産青年同盟中央常任書記となり、また日本共産青年同盟に加入した。1928年(昭和3年)三・一五事件で検挙され懲役3年に処せられた。
永井 健三(ながい けんぞう、1901年〈明治34年〉3月2… 永井 健三(ながい けんぞう、1901年〈明治34年〉3月21日-1989年〈平成元年〉7月17日)は、宮城県出身の通信工学者。昭和11年母校東北帝大の教授となり、31年東北大電気通信研究所長。39年東北学院大学教授。テレビの伝送機器、磁気記録機器の研究で知られる。学士院会員。紫綬褒章。 録音技術、交流バイアス方式を発明し、五十嵐悌二とともに国産初のテープレコーダーを開発。交流バイアス法は、データを再生した際の雑音やひずみを抑えることができ、これによって、音声データの長時間録音は実用段階となった。 1925年、東北帝国大学工学部電気工学科を卒業。同時に同大学講師に就任し、抜山平一教授に師事。任官以降、39年にわたって大学在職、その間29年教授、大学附置の電気通信研究所にも30年余兼務。
吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1… 吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1980年2月27日)は、日本の銀行家。近畿銀行社長を務めた。 栃木県宇都宮市出身。1927年に法政大学専門部法科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1944年に近畿無尽に転じ、1945年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1967年4月に会長を経て、1972年には相談役に退いた。 1964年に黄綬褒章を受章し、1971年に勲四等瑞宝章を受章。 1980年2月27日、脳動脈硬化症のために死去。78歳没。
中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 19… 中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 1996年3月30日)は、日本の英文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、1921年早稲田大学高等師範部英語科卒業。早稲田中学校専任教諭となり、46年まで務める。戦後47年母校講師、48年助教授、49年早大教育学部教授、71年定年退任、名誉教授。多くの翻訳をおこなった。
島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20… 島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20日 - 1993年(平成5年)4月20日)は、日本の比較文学者、英米文学者。文化功労者。日本学士院賞受賞。 1901年、東京府で生まれた。東北帝国大学英文科で学び、卒業。 卒業後、英文学者の矢野峰人に見込まれて、台北帝国大学講師となった。講師の期間は17年に及んだ。若き日は英国詩を専門としたが、他のヨーロッパの国々や日本の詩歌に関心を深めていった。 戦後の引き揚げ後は、第一高等学校教授に就いた。1949年の新制大学移行後は、東京大学教養学部教授。新設された大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり、平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。
高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月… 高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月19日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、最後の官選長崎県知事。 静岡県出身。高橋栄蔵の養子となる。第二高等学校を卒業。1924年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、内務省に入省し京都府書記となる。 以後、京都府社会課長、鳥取県警察部保安課長、同特別高等課長、熊本県学務課長、同庶務課長、神奈川県庶務課長、愛媛県書記官・警察部長、静岡県書記官・経済部長などを歴任し、1942年10月31日、陸軍司政官に就任。1943年3月から1944年12月まで第16軍軍政監部付・スラバヤ市長を務めた。
中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1… 中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日)は、日本の政治家、弁護士、第57代衆議院議長(在任期間、1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖。 東京府北豊島郡下練馬村(現、練馬区練馬)出身。農家の次男に生まれる。 1923年、法政大学専門部法科を卒業。大学在学中は法政大学弁論部に所属していた。三木武吉法律事務所で弁護士修業を始めたのが政治に関わるきっかけとなる。1928年に東京府会議員、1936年に立憲民政党から衆議院議員に初当選。以後通算当選12回。三木武吉の直系として行動を共にする。 1946年から1951年まで公職追放。
岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - … 岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - 1982年10月17日)は日本の教育家。戦後新制中学発足時に活躍した。「火の国旅情」を作詞作曲した岩代浩一は長男、現在活躍中の作曲家岩代太郎は直系の孫(浩一の長男)で、元日本テレビアナウンサーで現フリーアナウンサーの松本志のぶは太郎の妻にあたる。 1901年、熊本県南阿蘇の素封家の二男に生まれた。父一吉は漢学者、郡会議員も務める。1916年熊本第二師範学校入学,阿蘇郡長陽小学校訓導をへて、1924年東京高等師範学校入学。熊本県立人吉中学校教諭、その後旧大阪府立今宮中学教諭を経て、大阪府立汎愛中学校教頭になった。1945年、熊本に帰郷。熊本県立第二高等女学校、女子師範学校教頭をへて、1946年小国高等女学校校長。
田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3… 田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県那賀郡今市村丸原(現浜田市旭町丸原)で、酒造業・田中勝聴の長男として生まれる。島根県立浜田中学校を経て、1923年(大正12年)鹿児島高等農林学校を卒業。その後、家業を継いだ。今市村会議員を務めた。日中戦争で応召して足かけ4年間従軍し、陸軍歩兵中尉に昇進した。 1942年(昭和17年)3月、島根県会議員に当選し、帝国在郷軍人会那賀郡連合会分会長も務めた。同年4月、第21回衆議院議員総選挙に非推薦で島根県第2区から出馬して当選し翼賛政治会に参加。
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日… 光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。 当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3… 小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3月14日 - 1946年(昭和21年)2月10日)は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。本名:小栗 栄次郎(おぐり えいじろう)。東京都千代田区外神田出身。 漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー(衒学趣味)的作風で著名。代表作は、デビュー作『完全犯罪』、推理小説の三大奇書の一つといわれる『黒死館殺人事件』、秘境探検小説の連作『人外魔境』など。 1901年3月14日、東京市神田旅籠町(現・東京都千代田区外神田)で生誕。生家は代々の酒問屋の小田原屋の分家であった。父親は1911年に死去しているが、本家からの仕送りや貸家の賃貸収入のため生活には困らなかった。
松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 1976年4月15日)は、日本の評論家、英文学者である。 東京生まれ。青山学院英語師範科卒業。1927年、平凡社に入社し、『新興文学全集』の編集を通じてプロレタリア文学運動に接近。日本プロレタリア作家同盟やプロレタリア科学研究所に参加してアメリカ文学の紹介をすると共に、『プロレタリア英語入門』(鉄塔書院、1932年)などを著した。 のち日本評論社に移るが、1944年横浜事件で逮捕され、敗戦後釈放される。戦後は、日本民主主義文化連盟の創設に参加、日本ジャーナリスト会議副議長をつとめた。回想記『過去と記憶』(光和堂)で、多喜二・百合子賞を受賞した。
入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 19… 入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 1991年)は、日本の英文学者、翻訳家。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高校)旧制第六高等学校を経て、六稜学舎では詩人でもある山宮允に学び、1938年東京帝国大学卒業、市河三喜に学ぶ。アルフレッド・テニスン、ウォルター・スコットなどの翻訳で知られる。1962年まで法政大学教授、その後神奈川大学教授。1989年まで創価大学教授を務めた。
西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1… 西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1977年)は、昭和期の雑誌編集者。大日本雄辯會講談社(現・講談社)「少年倶楽部」の編集長を務め、のち常務、顧問を歴任。八王子市の曹洞宗信松院住職を務めた。 東京都生まれ。曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大日本雄辯會講談社入社。 「婦人倶楽部」などの編集を担当し、「少年倶楽部」の編集長を務めた。1956年1月31日、取締役就任。1964年1月28日に取締役(元常務)を退任し顧問。 1971年、児童文化功労者(日本児童文芸家協会)。1968年「追想の広川弘禅」(私家版)の編集を務めた。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3… 中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1970年〈昭和45年〉3月6日)は、日本の実業家。大洋漁業副社長。大洋漁業創業者中部幾次郎の三男。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の三男。1924年、神戸高等商業学校を卒業。中部農事、林兼商店各監査役、大洋捕鯨取締役、林兼商店、林兼工業各常務、林兼造船副社長同社長を経て1951年、大洋漁業副社長。1955年、林兼産業社長。1963年、長崎放送社長。1964年、藍綬褒章・紺綬褒章を受章。 宗教は浄土宗、仏教。趣味はゴルフ、将棋。住所は山口県下関市上田中町3丁目、同町1丁目、同市竹崎町、兵庫県明石市東魚町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月… 浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1981年〈昭和56年〉1月11日)は、日本の東洋史学者。 1901年、高知県で生まれた。東京帝国大学文学部で学び、1929年に卒業。 1930年、東北学院講師に就いた。1932年に東方文化学院東京研究所所員となり、東京帝国大学助教授に就いた。1943年より満鉄調査局嘱託。 戦後の1950年、山梨大学教授となった。1962年、学位論文『唐法上の賎民に関する基礎的研究』を京都大学に提出して法学博士号を取得。1966年に山梨大学を定年退官し、名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3… 伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3月10日 - 1981年〈昭和56年〉6月12日)は、日本の運輸官僚・政治家。運輸事務次官に任じられたのち国政に転身し、参議院議員となり、防衛庁長官などを歴任した。 千葉県佐原町(現在の香取市)川岸に生まれる(ただし、本籍は同県中山村北方(現在の市川市北方)にあった)。 第四高等学校・東京帝国大学英法学科を経て、1926年(大正15年)に鉄道省入省(東鉄局書記)、1935年(昭和10年)より在外研究員として欧米各国の交通事情を調査、帰国後の1939年(昭和14年)には鉄道監察官に任じられる。 その後、1943年(昭和18年)運輸通信省書記官兼大臣官房文書室長、翌年には門司鉄道管理局長を歴任、戦後には運輸省鉄道総局長官となった。
沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 198… 沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 1982年4月)は、土木工学者、土木技術者、都市計画家。 大学卒業で即講師に任用されるなど頭脳明哲、豪放磊落、趣味も野球、ゴルフなどと多彩。昭和19年(1944年)蒙古聯合自治政府交通部次長として大同に赴任。その後同政府の技監、総務庁次長を経て昭和20年(1945年)には同政府総務庁長に就任、つまりこの時点で技術者出身で日本史上初の「一国の長」となっている。満州国や蒙古聯合自治政府の高官としてこれら地域の開発に尽力した功績は大きく、また面長な顔は当時「満洲三名馬」の一人に数えられた。 明治34年(1901年) 3月、文学博士沼田頼輔の次男に生まれる。
結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 196… 結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 1968年11月20日)は、日本の外交官。東京帝国大学法学部政治科卒業。外務省アメリカ局第一課長・同第三課長、通商局第三課長、スウェーデン公使、セイロン(現スリランカ)大使、トルコ大使などを歴任。日米交渉時の来栖三郎特命全権大使の随行員として渡米し、英米への日本側の情報漏洩元として名が挙がったことで知られる。 息子は結城弘隆。娘は結城美栄子。孫は岩城滉一の妻・結城アンナ。(結城美栄子は結城アンナの叔母) 福島県奥川村の農業・熊八の四男として生まれ、大正15年に高等試験外交科試験に合格し、昭和2年に東京帝国大学法学部政治科卒業後、外務書記生として英国、外交官補としてドイツに赴任、国際連盟の日本帝国代表者随員を務め、満州国、ポーランド在勤を経て、昭和15年末に外務書記官・叙高等官4等として外務省アメリカ局第一課長に就任、翌年10月には通商局第三課長、同11月に日米交渉のため急遽渡米した来栖三郎特命全権大使の随行員としてワシントンの日本大使館で事務方作業にあたった。
木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日… 木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日 - 2001年(平成13年)11月9日)は、大正から平成時代の日本画家。 16歳で松本楓湖に師事する。松本の没後は、荒木十畝の読画会に所属する。昭和4年に帝国美術院展覧会で入選し、昭和8年には「秋林」が特選を受賞する。荒木は昭和19年に没する。その後、伊東深水から鎌倉にあった自宅に招かれ、自身が顧問を務める日月社への入会を勧められるが、所属していた読画会を離れなかった。 東京都世田谷区に居住していた。
蔭山 如信(かげやま ゆきのぶ、1901年〈明治34年〉3月… 蔭山 如信(かげやま ゆきのぶ、1901年〈明治34年〉3月6日 - 1977年〈昭和52年〉8月25日)は、日本の経営者。徳山曹達(現在のトクヤマ)社長を務めた。 東京都出身。1919年に大倉商業学校を卒業し、同年4月に岩井商店に入社。 1934年9月に徳山曹達に転じ、1939年5月に取締役に就任し、1943年10月に常務を経て、1946年7月に社長に就任。1974年5月に会長を経て、1976年6月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟理事、山口放送取締役、RKB毎日放送監査役なども歴任した。 1962年5月に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月25日、心不全のために死去。
橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 … 橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、運輸大臣(第40代)、建設大臣(第19代、第26代)、内閣官房長官(第27代、第28代)、自由民主党幹事長(田中内閣)、自由民主党総務会長(佐藤内閣)などを歴任した。 茨城県行方郡潮来町(現:潮来市)の回送問屋の家に生まれた。当初父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)から、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、「闘将」と称された。 1927年(昭和2年)に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。
伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955… 伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の海軍軍人、工学者、無線技術者。ドレスデン工科大学Doctor、東京帝国大学工学博士。最終階級は海軍技術大佐。 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった。旧制第一高等学校を卒業後、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた。
渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈… 渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈明治34年〉3月5日 - 1947年〈昭和22年〉4月29日)は、日本の実業家。渋沢栄一 の孫にあたるが、 父・渋沢篤二が1913年に廃嫡されたため、本家とは別に分家筋として育った。兄に渋沢敬三(栄一の後継者)、次兄に渋沢信雄がいる。 1901年、3月5日に子爵・渋沢栄一の嫡男・篤二と妻・敦子の三男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉に生まれる。 敦子の父(智雄の母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。子爵・渋沢敬三と渋沢信雄の弟にあたる。。 幼少期から身体が弱く、しばしば療養を要したと伝えられている。
澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 … 澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月24日)は、日本の実業家。日本交通の創業者。 1901年(明治34年)3月、鳥取県岩美郡大岩村大谷(現在の岩美町大谷)に生まれる。1914年(大正3年)3月[要出典]、大岩小学校(現・岩美西小学校)を卒業する。春蔵は就学前に足を痛めていたため、自動車で自分の未来を開拓しようと考えた。その頃、日本国内にも自動車の数は少なく、鳥取県内では更に珍しいものだった。春蔵の得た運転免許は鳥取県内第3号であった。 1919年(大正8年)18歳の春蔵は1台のトラックで運送業を始めた。春蔵の事業は先進的だったが、閉鎖的な風土や不便な道路事情などにより、運送業としての見通しが立たなかった。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 200… 真井 耕象(まない こうぞう、1901年3月3日 - 2000年2月16日)は、日本の土木工学者。北海道大学名誉教授。
神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 19… 神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。豊田通商社長を務めた。岡山県出身。 1925年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に豊田紡織に入社。豊田製鋼(現在の愛知製鋼)取締役、豊田自動織機製作所取締役、豊田製鋼常務を経て、1948年に日新通商(現在の豊田通商)常務に就任し、1950年に専務を経て、1961年11月に社長に就任した。1968年から相談役を務めた。 1985年10月5日、心筋梗塞のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡副 鉄雄(おかぞえ てつお、1901年〈明治34年〉3月2… 岡副 鉄雄(おかぞえ てつお、1901年〈明治34年〉3月2日 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の板前、実業家。金田中、岡半各会長。新橋演舞場、演舞場サービス各社長。 三重県津市出身。片田小学校を卒業する。料理店見習い後、割ぽう鶴屋を開店する。大正時代創業の金田中を、当時の経営者からの願いで譲り受け、1945年に新たに開店する。1959年、新橋演舞場専務に就任。 趣味は書画、ゴルフ、俳句、絵画。住所は東京都中央区銀座7丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 195… 菊川 忠雄(きくかわ ただお、1901年3月1日 - 1954年9月26日)は、日本の労働運動家・政治家。全日本労働総同盟本部総主事・日本労働組合総同盟総主事・衆議院議員(3期)を歴任した。 愛媛県越智郡波方村(現・今治市)に、魚問屋の長男として生まれる。旧制愛媛県立今治中学校を卒業後、商社勤務を経て、1920年、旧制第一高等学校に進学。一高在学中に、社会主義思想に触れ、社会主義運動に身をささげる決意をした。1923年に東京帝国大学経済学部に進学。学内で、学生自治権拡大運動や関東大震災の被災者救援運動などを組織した。新人会会員。 1926年、東大卒業後、日本労働総同盟(総同盟)に就職。以後、労働運動の指導に従事し、1934年の第18回国際労働会議・第1回アジア労働組合会議には日本労働代表として参加した。
佐藤 哲郎(さとう てつろう、1901年〈明治34年〉3月1… 佐藤 哲郎(さとう てつろう、1901年〈明治34年〉3月1日 - 1995年〈平成7年〉1月4日)は、日本の政治家。元岩手県水沢市(現・奥州市)長(3期)。 岩手県胆沢郡水沢町(のち水沢市、現・奥州市)出身。1920年(大正9年)、岩手県師範学校(現・岩手大学教育学部)卒。岩手県内の小学校の訓導や校長を経て、戦後、中学校校長となる。岩手県社会教育主事、水沢町教育長となった。 1956年(昭和31年)、水沢市長に立候補して新人1人を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年1月29日に就任した。 1960年(昭和35年)の市長選も新人1人との争いになったが、これを破って再選を果たした。
平井 参次(ひらい さんじ、1901年〈明治34年〉3月1日… 平井 参次(ひらい さんじ、1901年〈明治34年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。 兵庫県印南郡志方町(現・加古川市)出身。高等小学校を卒業。1924年、食肉卸業開業。 印南郡食肉卸組合長、同郡家畜商組合長、日本食肉協会理事、兵庫県食肉衛生組合副理事長、兵庫県家畜商業協組理事、兵庫県食肉輸入共同組合副理事長、志方食肉卸小売組合名誉会長、兵庫県食肉卸組合連合会会長、兵庫県食肉環境衛生同業組合・同食肉協同組合相談役、志方町教育委員などをつとめる。 趣味は碁、乗馬。宗教は浄土真宗。住所は兵庫県印南郡志方町志方。家族は妻、次男、次女、孫がいる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年… 永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将[3]。広島県出身。
植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月2… 植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月28日 - 1977年(昭和52年)11月16日)は、ジャーナリスト・政治家。第16 - 18代八王子市長を務めた。 1901年(明治34年)2月28日東京府八王子町元子安(現八王子市子安町)で三男として生まれる。町立第三尋常小学校(現八王子市立第三小学校)、攻玉社中学校、早稲田高等学院を経て1927年(昭和2年)早稲田大学政治経済学部を卒業。在学中に高等文官試験行政科に合格するも東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。1936年(昭和11年)には整理部長、1948年(昭和23年)には毎日小学生新聞部長、1954年(昭和29年)には地方部長兼地方版編集長となり1956年(昭和31年)定年退職。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月2… 清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月28日 - 1975年〈昭和50年〉11月2日)は、日本の鳥類学者。位階は正五位。宇都宮大学教授。 東京帝国大学卒業。学位は理学博士(京都大学)。 爵位は伯爵。位階は正五位。伊達政宗の男系子孫である。旧姓・真田(真田伯爵家)。清棲家は、2代当主が幸保である。 幸保は、鳥類の渡り、繁殖、食性、日本アルプス、中国、朝鮮などの鳥の生態を研究、特に野鳥の写真を撮影し、貴重な資料とした。日本における野鳥撮影の第一人者である。14年をかけたて完成させた「清棲図鑑」と呼ばれる『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』は戦後最高の鳥類図鑑で名著と名高く、黒田長禮による『鳥類原色大図説』、山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、多くの鳥類学者に影響を与えた。
滝 清彦(たき きよひこ、1901年2月28日 - 1972… 滝 清彦(たき きよひこ、1901年2月28日 - 1972年7月27日)は、日本の経営者。 東京都出身。1925年に行文行政科に合格し、1930年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。東京鉄道管理局総務部長、勤労部長、東京鉄道管理局局長などを歴任し、1946年に退官。その後は鉄道弘済会会長を務めた 1971年に勲二等瑞宝章を受章。 1972年7月27日心筋梗塞のために死去。71歳没。墓所は多磨霊園。
池崎 勇(いけざき いさむ、1901年 <明治36年> 2月… 池崎 勇(いけざき いさむ、1901年 <明治36年> 2月28日 - 1976年 <昭和51年> 7月10日)は、日本の経営者。日魯漁業社長を務めた。 熊本県出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日魯漁業に入社。 1955年に取締役に就任し、1957年1月に常務、1960年4月に専務、1964年1月に副社長を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1974年1月までに会長を務めた。 1971年5月に藍綬褒章を受章。 1976年7月10日、尿毒症のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。