長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 200… 長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 2003年4月28日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 参議院議長(第19代)、科学技術庁長官(第34代)、自由民主党参議院議員会長(第16代)、参議院予算委員長、参議院議員(4期)等を歴任した。元参議院議員の佐藤泰三は縁戚にあたる。 千葉県出身。東京府立第四中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1939年、逓信省(後の郵政省、現総務省)に入省。企画課属。経理局担当審議官、経理局長、郵務局長などを経て、1966年7月1日より郵政事務次官。退官後、1968年の第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から出馬し、初当選した。
洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13… 洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13日 - 1986年7月13日)は、韓国の実業家、政治家。 本貫は南陽洪氏。号は維民(ユミン、유민)。日本名は徳山 進一。1940年に京城帝国大学法文学部法学科で学士号を取得して、その年の日本の高等文官試験に合格した。 李承晩政権に加わった後、洪璡基は1954年に法務部副長官、1958年に法務部長官を務め、1960年に内務部長官に就任した。1960年6月15日、尹潽善(第4代大統領)と張勉(第2代国務総理)が率いる第二共和国は、新憲法によって発足した。第二共和国発足の際、経済情勢には多くの問題があり、最終的には国家再建最高会議の下で軍事政権によって終結した。
森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13… 森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13日 - 1951年2月8日)は、日本の詩人。生前はまったく無名であったが、没後に評価されるようになった。 佐藤重男として、1917年(大正6年)3月13日、山形県米沢市に生まれる。1936年(昭和11年)、早稲田大学文学部哲学科に入学するも、1939年(昭和14年)に中退。1940年(昭和15年)、結婚。1941年(昭和16年)に召集され浜松の航空隊に入隊後、青森県三沢基地に転属、病気のため豊橋の陸軍病院に送還され、1943年(昭和18年)に召集解除。長男、次男が生れた後、1945年(昭和20年)の敗戦前に離婚。1946年(昭和21年)9月に総合雑誌『労農』を米沢で創刊(第3号で休刊)。
大塚 雅春(おおつか まさはる、1917年〈大正6年〉3月1… 大塚 雅春(おおつか まさはる、1917年〈大正6年〉3月12日 ‐ 2000年〈平成12年〉5月1日)は、日本の小説家、歌人。 高知県香美郡土佐山田町(現香美市)生まれ。本名は忠雄。1934年、高知県立高知工業学校(建築科)卒業。前職は大阪汽車会社社員。 1949年、大衆文芸賞受賞、長谷川伸主宰の雑誌『大衆文芸』でデビュー。主に歴史小説・時代小説を執筆。 妻は歌人の大塚布見子で、妻の主宰する歌誌「サキクサ」に参加した。孫は劇団アマヤドリの所属俳優・大塚由祈子。
内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 199… 内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 1997年1月30日)は、長崎県長崎市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
山崎 勲(やまざき いさお、1917年3月12日 - 199… 山崎 勲(やまざき いさお、1917年3月12日 - 1999年10月31日)は、日本の経営者、銀行家。関西相互銀行社長を務めた。 熊本県出身。1940年に神戸商業大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1967年11月に取締役に就任し、1972年1月から1974年5月までに常務を務めた。。銀泉社長、大和ハウス工業監査役を歴任し、1978年12月には関西相互銀行社長に就任。1986年6月に会長を経て、1994年6月には関西銀行相談役に就任。 1987年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1999年10月31日脳梗塞のために死去。82歳没。
新関 岳雄(にいぜき がくお、1917年3月11日 - 19… 新関 岳雄(にいぜき がくお、1917年3月11日 - 1986年10月20日)は、日本のフランス文学者。山形大学名誉教授。 山形県生まれ。旧制山形中学校、旧制山形高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部仏文科卒業、山形大学助教授、教授、81年定年退官、名誉教授、山形女子短期大学学長。郷里の先輩・阿部次郎についても研究した。
吉田 タキノ(よしだ たきの、1917年3月11日 - 20… 吉田 タキノ(よしだ たきの、1917年3月11日 - 2008年1月23日)は、日本の児童文学作家。「タキノおっぱ」と慕われた。岩手県宮古市鍬ヶ崎出身。岩手県立宮古高等女学校卒。
小島 慶三(こじま けいぞう、1917年(大正6年)3月11… 小島 慶三(こじま けいぞう、1917年(大正6年)3月11日 - 2008年(平成20年)8月30日)は、日本のエコノミスト、思想家、教育者、実業家、官僚、政治家、俳人。参議院議員(1期)。
原田 伴彦(はらだ ともひこ、1917年3月11日 - 19… 原田 伴彦(はらだ ともひこ、1917年3月11日 - 1983年12月8日)は、日本史学者、大阪市立大学名誉教授。
鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 19… 鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 1976年11月17日)は、日本の官僚、外交官。 1940年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省へ入省。外務省在外研究員としてアメリカ合衆国に渡るも、1941年に日米関係が悪化。同年11月に引き揚げ船として派遣された氷川丸に乗船して帰国した。1942年からタイ国に勤務し終戦を迎える。戦後は終戦連絡中央事務局に勤務し、1951年に在ワシントン在外事務所勤務。1953年に外務省アジア局五課長、1955年にジャカルタ領事となる。1951年、バンドン会議に出席。 その後は駐米公使、外務省経済局次長、外務省経済局長、経済協力開発機構日本代表部大使、外務審議官などを務めた。
浅山 浩三(あさやま こうぞう、1917年3月10日 - 2… 浅山 浩三(あさやま こうぞう、1917年3月10日 - 2008年10月19日)は、日本の経営者。福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)出身。 1939年に法政大学経済学部を卒業し、同年に福岡日日新聞社に入社。1943年に西日本新聞社を経て、1958年にテレビ西日本に転じ、1965年5月に取締役に就任し、1972年3月に常務、1973年5月に専務を経て、1975年5月に社長に就任。1979年6月に取締役相談役に就任し、フジテレビジョン取締役、日本民間放送連盟理事なども歴任した。 1979年4月に藍綬褒章を受章。
吉井 精三郎(よしい せいざぶろう、1917年3月9日 - … 吉井 精三郎(よしい せいざぶろう、1917年3月9日 - 1947年9月)は、日本の元バスケットボール選手である。 新潟県立新潟商業学校(現在の新潟県立新潟商業高等学校)に学び、強豪の籠球部(バスケットボール部)に所属した。 全日本の一員として1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1964年東京オリンピックバスケットボール日本代表監督の吉井四郎は2歳下の弟。
青栁 豊(あおやぎ ゆたか、1917年(大正6年)3月8日 … 青栁 豊(あおやぎ ゆたか、1917年(大正6年)3月8日 - 1942年(昭和17年)6月23日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍中尉。 日本陸軍のエース・パイロット。青栁惣吉(村会議員)の次男として福岡県三池郡高田村(現みやま市高田町)に生まれる。 少年飛行兵として1935年(昭和10年)11月に所沢陸軍飛行学校を卒業し、明野で戦技教育を受け、飛行第11連隊に配属された。 1939年(昭和14年)5月からノモンハン事件に参加。7月25日、不時着した篠原弘道准尉を救出しようと着陸したが、敵戦車の砲撃を受けて機体が炎上、腰に貫通銃創を受けるが、岩瀬孝一曹長に救出された。そしてハルピン陸軍病院に入院したが、停戦前に部隊に復帰。
荒木 道子(あらき みちこ、1917年〈大正6年〉3月6日 … 荒木 道子(あらき みちこ、1917年〈大正6年〉3月6日 - 1989年〈平成元年〉3月24日)は、日本の女優。元夫は文芸評論家の菊池章一。息子は俳優・歌手の荒木一郎。 1917年(大正6年)3月6日、東京府東京市神田区三崎町(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。父は文芸評論家の至文、母は青鞜社出身の作家の滋子で、兄が2人いた。 明化尋常小学校を経て1934年(昭和9年)、女子学院を卒業。YWCAの語学部職員、帝大図書館員を経て、1938年(昭和13年)に文学座研究所に入り、賀原夏子、青野平義、小山源喜らとともに第1回生として卒業。同年に勉強会『かりそめになすな恋』で初舞台を踏み、田中澄江作『はるあき』の柿沢てい子役で本格的にデビューする。
広田 慎吾(ひろた しんご、1917年(大正6年)3月6日 … 広田 慎吾(ひろた しんご、1917年(大正6年)3月6日 - 2014年(平成26年)1月17日)は日本の実業家、元東洋製缶社長・会長、東洋鋼鈑・東洋ガラス・東洋機械販売各取締役。 大阪府出身。趣味はゴルフ。 1937年(昭和12年)、大阪商科大学高等商学部卒業、東洋製缶入社。営業部長等を歴任し、1962年(昭和37年)同社取締役。1964年(昭和39年)同社常務取締役、1971年(昭和46年)同社専務取締役、1976年(昭和51年)同社代表取締役副社長。 1984年(昭和59年)藍綬褒章受章。 2014年1月17日、肺炎のため死去、96歳。 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
坂下 昇(さかした のぼる、1917年3月6日 - 没年不明… 坂下 昇(さかした のぼる、1917年3月6日 - 没年不明)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 鹿児島県生まれ。1943年東京帝国大学文学部卒。戦後通商産業省勤務を経て、1952年ニューヨーク大学大学院法学研究科修了、1965年までビジネスマンとして滞米。 淑徳短期大学教授を務め、メルヴィル全集を独自の訳語で翻訳、1983年日本翻訳文化賞を受賞した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 199… 砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 1990年9月24日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員、文部大臣、沖縄開発庁長官兼北海道開発庁長官などを務めた。父は自民党総務会長を務めた砂田重政。従弟は元衆議院議員の砂田圭佑。 兵庫県神戸市出身。暁星学園を経て、立教大学経済学部卒業。河野一郎の秘書を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に父・重政の後継者として旧兵庫1区から出馬し初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。以後2回連続当選後、3期目途中で議員を辞職し、1972年の神戸市長選挙に、自民党と袂を分かった現職の宮崎辰雄に挑む形で立候補したが落選。
石原 忠男(いしはら ただお、1917年3月4日 - 200… 石原 忠男(いしはら ただお、1917年3月4日 - 2006年3月25日)は、日本の経済学者。 東京出身。1940年中央大学経済学部卒業、東京芝浦電機調査課勤務、1942年から1944年まで中央大学大学院に在籍。1948年中央大学経済学部講師、1950年助教授、1955年教授、商学部教授。1987年定年、名誉教授。日本科学者会議の創立に参加し、全国幹事、のち参与。1975年から1979年まで経済理論学会代表幹事。1990年勲三等旭日中綬章受章。
中村 利次(なかむら としつぐ、1917年(大正6年)3月3… 中村 利次(なかむら としつぐ、1917年(大正6年)3月3日 - 1980年(昭和55年)9月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。位階は従四位、勲等は勲二等。 長崎県南高来郡南有馬町(現南島原市)で、船員の家の4人兄姉の末子として生まれた。1934年(昭和9年)長崎県立島原中学校卒業。 1938年に上京し、京王電気軌道入社。1942年、太平洋戦争の勃発にともなう配電統制令により、電力供給事業を関東配電(いわゆる国策会社)に譲渡したため会社を移る。徴兵され大村連隊に入隊し、日中戦争に従軍し戦傷を受けて日本に帰還し、広島の陸軍病院に入院した。 戦後、労働運動に加わり、1946年(昭和21年)電産都支部変電分会組織部長に就任。
生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 … 生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 - 1991年(平成3年)4月28日)は、日本の教育者、専門は比較文化論。元学校法人桐朋学園理事長。 宮城県石巻市生まれ。石巻市立石巻中学校、東京高等師範学校卒、1941年(昭和16年)病のため東京文理科大学史学科を中退(のち53年卒業)。 1941年石巻市立石巻中学校教諭となるが、43年応召で中国に渡る。復員後、48年から桐朋学園に勤務。桐朋女子部教務・事務主任のときの51年、音楽科を併設して小沢征爾らの人材を輩出させた。60年から桐朋幼稚園・桐朋小学校・桐朋女子中学校・高等学校の専任校長となり、通信簿廃止・入学時の筆記試験廃止など個性重視の教育を実践し、62年桐朋学園大学教授兼務、86年から桐朋学園理事長を務めた。
大島 康正(おおしま やすまさ、1917年3月2日 - 19… 大島 康正(おおしま やすまさ、1917年3月2日 - 1989年12月20日)は、日本の倫理学者・評論家。筑波大学名誉教授。 1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、助手となり京都学派の一員となる。戦後東京教育大学助教授、教授を経て筑波大学名誉教授、京都産業大学世界問題研究所長を務めた。日本ユネスコ国内委員会調査委員や中央教育審議会委員などを歴任。日本倫理学会常任評議員。 三島由紀夫は大島康正について、「きき捨てならぬのは、この大島氏が、高校社会科の指導要領の改定にあづかつて、教育基本法第九条の『公立学校では特定の宗教のための宗教教育をしてはならない』といふ条文から、文部省のしやくし定規に味方して、日本の親鸞も道元も、すつかり追ひ出してしまつて、何ら反省の色も見えぬことである。
宇知川 朝子(うぢがわ あさこ、1917年3月1日 - 没年… 宇知川 朝子(うぢがわ あさこ、1917年3月1日 - 没年月日不詳)は、日本の女優、昭和期の宝塚歌劇団花組主演男役のタカラジェンヌで宝塚歌劇団卒業生である。大阪府出身。 芸名は、母親が姓名判断に依って命名したものである。 本名は戸田 千恵(とだ ちえ、旧姓:宮地)。愛称はチエコさん、ミヤヂ(本名の千恵と旧姓の宮地から)。 1930年、香蘭女学校(現・香蘭女学校中等科・高等科)を中退して宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学して、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。宝塚歌劇団20期生の同期生に久美京子、尾上さくら、霧立のぼるらがいる。当時は「入学イコール入団」で学校と劇団は一体であった。
藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 19… 藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 1974年1月27日)は昭和期の歌手。 山口県萩市出身。東洋音楽学校本科声楽科卒業。 1937年(昭和12年)、「泣いて居る」でビクターレコードからデビュー。 柴田睦陸との「朝だ元気で」、小畑実との「勘太郎月夜唄」、「婦系図の歌(湯島の白梅)」、「小太刀を使う女」、竹山逸郎との「誰か夢なき」、「月よりの使者」など、男性歌手とのデュエットでヒットを飛ばす。 生涯独身で、晩年は横浜で暮らした。 昭和40年代の懐メロブームの際に再登場し、テレビ番組などで自身のヒット曲を披露していた。その際は、ソロで披露することが多く、特に不仲だったとされる竹山逸郎とは、決してデュエットしなかった。
山本 武(やまもと たけし、1917年(大正6年)3月1日 … 山本 武(やまもと たけし、1917年(大正6年)3月1日 - 1998年(平成10年)2月8日)は、日本の元学校経営者・元地方公務員。北海道出身。 北海道帝國大学農学部卒。1947年(昭和22年)北海道庁に入庁。その後、同農政部課長などを経て、1968年(昭和43年)同上川支庁長。1972年(昭和47年)同公営企業管理者。同年、北海道教育委員会教育庁教育長。1975年(昭和50年)北海道教育委員会学校教育局長。1977年(昭和52年)北海道庁停年退官。北海道文化財保護協会副会長。1978年(昭和53年)学校法人札幌学院大学理事。1983年(昭和58年)北海道文化放送番組審議会委員長。1987年(昭和62年)学校法人札幌学院大学副理事長。
宇留木 康二(、1917年3月1日 - 没年不詳)は、日本の… 宇留木 康二(、1917年3月1日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。別名は宇留木 耕嗣(読み同じ)、宇留多耕司、宇留木康三など。姓は「宇畄木」と略字体で表記される場合もある。山形県出身。 東宝の俳優で同じ山形県出身の中島春雄によれば、宇留木は赤湯温泉にある旅館の息子であった。戦時中は陸軍に所属して満州へ出征しており、復員後に東宝の専属俳優となる。 クレジットされる作品は少ないが、特撮映画を始め、ジャンルを問わず数多くの作品に出演した。1965年頃には芸名を宇留木 康二(読み同じ)に改名している。 1971年に東宝専属俳優の一斉解雇が行われた後は主にテレビに活動の場を移し、1970年代末まで俳優業を続けた。
田中 千鳥(たなか ちどり、1917年 <大正6年> 3月 … 田中 千鳥(たなか ちどり、1917年 <大正6年> 3月 - 1924年 <大正13年> 8月18日)は、日本の詩人。母親は大正時代、鳥取県下初の女性新聞記者となり女流作家としても活動した田中古代子。「大正時代の新しい女性」のひとり古代子の長女として生まれた千鳥だが、生来病弱で、わずか7歳半でこの世を去る。長女の死を悲しんだ母・古代子は、没後すぐに千鳥が書いた八十あまりの詩文を『千鳥遺稿』に編み残した。以来、千鳥の詩文は世紀を超えて読み継がれ、今に至る。 1917年(大正6年)、鳥取県気高郡正条村浜村に父・安治博道(あじ ひろみち)と母・田中古代子(たなか こよこ)の長女として生まれる。両親の不仲から、生後間もなく母に連れられて八頭町郡家の実家に戻る。
三野 剛嗣(大正6年(1917年)3月 - ?)とは、日本の… 三野 剛嗣(大正6年(1917年)3月 - ?)とは、日本の柔術家。 大正6年(1917年)3月生まれ。実父は漢学者の三野二山。 昭和4年4月(1929年)に高松中学(現・香川県立高松高等学校)入学と同時に柔道を始める。在学中の昭和8年(1933年)に大阪の浜寺で開催された全国中等学校柔道選手権大会(四帝大主催・大毎後援)に副将として出場し優勝した。 高中卒業後、慶應義塾大学経済学部に進学。その間も柴真揚流柔術の修練を重ねた。慶応義塾大学卒業後、大正14年満州牡丹江関東軍自動車第二連隊に幹部候補生で入隊し大正17年に陸軍中尉に任官、大正9年召集解除となった。 終戦後の昭和21年(1946年)3月に自宅に修盟館道場を開き、柴真揚流と柔道の指導を行った。
小島 要治(こじま ようじ、1917年2月28日 - 199… 小島 要治(こじま ようじ、1917年2月28日 - 1991年10月23日)は、日本の経営者。カゴメ社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1935年、旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、同年に愛知トマト製造(現在のカゴメ)に入社した。1949年に取締役に就任し、1962年に常務、1969年に副社長を歴任し、1979年から1982年までに社長を務めた。 1991年10月23日、心不全のために死去。74歳没。
中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年… 中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年(大正6年)2月28日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。位階は正六位。 鹿児島県薩摩郡上東郷村大字鳥丸(現在の薩摩川内市東郷町鳥丸)出身。父の姓は知敷。中馬は鹿児島県立川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)を卒業後、海軍兵学校へ進み、海兵66期として卒業した。海兵66期は、219名の同期生のうち143名が戦死し、戦死率は65.2%である。中馬と同様に特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、同日にマダガスカル攻撃で戦死した秋枝三郎は同期生であった。
亀山 信郎(かめやま のぶろう、1917年2月28日 - 2… 亀山 信郎(かめやま のぶろう、1917年2月28日 - 2000年11月17日)は、日本の運輸官僚。 静岡県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に逓信省に入省。1965年6月に運輸省海運局長に就任し、1967年3月から1968年6月までに海上保安庁長官を務めた。1974年に船舶整備公団理事長を経て、1984年12月から1985年12月までに運輸審議会会長を歴任した。 1987年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2000年11月17日、急性肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
海老原 直(えびはら すなお、1917年(大正6年)2月28… 海老原 直(えびはら すなお、1917年(大正6年)2月28日 - 1981年(昭和56年)5月29日)は、昭和時代の日本の作曲家。 宮崎県の生まれ。東京音楽学校卒業後、豊島師範(後の東京第二師範学校、現在の東京学芸大学学芸学部)を経て宮崎師範(現在の宮崎大学学芸学部)に移動後、学校で生徒に音楽を教える。小中学校の校歌を200曲以上作曲し、独唱曲を20曲以上作曲し、音楽の指導者として生涯を捧げた。また合唱の指導にも携わり、1950年(昭和25年)には故郷の宮崎県合唱連盟の理事長に就任した。 代表的な作品として『日向民謡による合唱曲集』などがある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
石井 正巳(いしい まさみ、1917年2月28日 - 199… 石井 正巳(いしい まさみ、1917年2月28日 - 1997年9月12日)は日本の実業家。元三井物産会長。クリスチャン。マレーシアタンスリ受章、スペインイサベル女王勲章上級エンコミエンダ章受章。 兵庫県出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。中尉、大尉として中支、サイゴン等で従軍。サイゴンで八尋俊邦(のちに三井物産社長・会長)との交友を得る。1946年5月に日本に帰国。 三井物産副社長等を経て、1982年三井物産副会長、経済同友会幹事、1984年三井物産会長、三越顧問。1985年三井業際問題研究所運営委員長。 マレーシア経済協議会会長を務め、1994年には日本・マレーシアの友好関係、経済の相互発展に功績があったとして、民間人に授与される最高勲章「タンスリ」をジャファール・アブドル・ラーマン国王から授与された。
和合 正冶(わごう しょうじ、1917年2月27日 - 20… 和合 正冶(わごう しょうじ、1917年2月27日 - 2004年3月7日)は、松本市長(11代:1976年3月 - 1992年3月)、全国市長会副会長、長野県市長会会長。
掛下 和男(かけした かずお、1917年(大正8年)2月27… 掛下 和男(かけした かずお、1917年(大正8年)2月27日 - 1975年(昭和50年)12月29日)は、日本の実業家。元東洋レーヨン(現東レ株式会社)取締役、同社監査役。 神奈川県で出生。旧制高千穂中学校(第23回)、1944年(昭和19年)9月 慶應義塾大学経済学部卒業。同年、東洋レーヨン入社。1963年(昭和38年)1月 企画部長を経て、1970年(昭和45年)11月 取締役に就任する。1972年(昭和47年)11月 監査役に選任され、1975年(昭和50年)12月29日まで務める。 1975年(昭和50年)12月29日 自宅にてガス自殺。満58歳没。
田中 良久(たなか よしひさ、1917年2月27日 - 19… 田中 良久(たなか よしひさ、1917年2月27日 - 1977年10月25日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 福岡県企救郡(現・北九州市)生まれ。福岡高等学校を経て、1941年東京帝国大学心理学科卒業。1944年まで大学院在籍、1943年から1946年まで副手嘱託。戦後1947年北海道大学法文学部助教授、1953年東京大学文学部心理学科助教授、1967年教授、1977年定年退官、名誉教授、成城大学教授。日本心理学会理事。スウェーデンのウプサラ大学見学中に倒れ死去(『心理学研究』1978年2月「田中良久氏追悼記」)。1977年11月 勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
茅野 健一(かやの けんいち、1917年2月25日 - 没年… 茅野 健一(かやの けんいち、1917年2月25日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手(外野手)。 台北州立台北工業学校(現:国立台北科技大学)時代は、1932年夏の甲子園に出場。チームメイトに漆原進、茅野秀三がいる。浅野中学校(現:浅野中学校・高等学校)、横浜高工、横浜金港クラブを経て、1950年に西日本パイレーツに入団。しかし全く活躍することはできず、同年シーズン終了後、チームの消滅と共に現役引退した。
中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )… 中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )は、日本の眼科医・キリスト教活動家。 愛媛県松山市生まれ。1942年9月東京慈恵会医科大学卒業。12月北京同仁医院(眼科)勤務。45年8月北京仁民医院(眼科)に留用。同時に日本人戦犯拘置所に一日おきに往診。1947年11月帰国。1948年3月衣笠病院眼科勤務。1953年2月白十字会村山療養園(現∶東京白十字病院・結核科)勤務。1972年7月特別養護老人ホーム白十字ホーム園長就任。89年3月園長退任。引き続き専任医師として勤務。93年7月白十字ホーム退職。キリスト者平和の会委員、安保反対キリスト者平和会議事務局長、日本友和会理事長及び理事、白十字会理事、アルヴィン学院理事、友愛の灯協会会長、全国老人福祉問題研究会会長などを歴任。
宮 英子(みや ひでこ、1917年2月23日-2015年6月… 宮 英子(みや ひでこ、1917年2月23日-2015年6月26日)は、日本の歌人。夫は宮柊二。別名・滝口英子(1953年 - 1986年)。 富山県富山市出身。旧姓・瀧口。実家は代々医家であった。美術評論家・詩人の瀧口修造の従妹にあたる。 東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒。尾上柴舟に学ぶ。1937年(昭和12年)、歌誌「多磨」に入会し、北原白秋に師事。同門の宮柊二と結婚し、1953年に「コスモス」創刊に参加。1970年、第一歌集『婦負野』で第16回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)受賞。1986年の柊二没後、後を継いで「コスモス」発行人となった。2005年『西域更紗』で第20回詩歌文学館賞受賞。
黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917… 黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917年2月22日 - 1997年3月4日または3月5日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、大韓民国の外交官、弁護士、学者、政治家。第3代韓国国会民議院副議長、第2・3・4・5代国会議員(第5代は参議員)、全羅南道知事を歴任した。 本貫は昌原黄氏。父は牧師の黄保翼で、制憲国会議員の黄斗淵は父方の叔父、呉錫柱は母方の叔父である。篤実なキリスト教徒である。 日本統治時代の全羅南道宝城郡宝城邑宝城里出身、本籍は平安北道である。平壌崇実中学校、崇実専門学校、明治学園を経て、1940年、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業。東京帝国大学(現・東京大学)文学部で研究を行った後、渡米しウェストミンスター神学校を卒業した。
久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 … 久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 - 1979年(昭和54年)2月16日)は、日本の政治家。岩手県久慈市長、岩手県議会議員(自由民主党所属)。 岩手県久慈市生まれ。1937年麻布獣医専門学校(現在の麻布大学)卒業。同4月農林省獣疫調査所(現在の動物衛生研究所)技手、1948年侍浜町農協組合長および侍浜町漁協組合長、1949年久慈市農業委員を歴任。1951年侍浜村議となり、1954年久慈市議会議員となる。1967年岩手県議会議員に当選する。 岩手県議3期を務めた後、1978年(昭和53年)に久慈市長選に自民党、社会党、公明党、民社党の推薦を得て立候補し、市制施行以来6期連続で市長を務めていた保守系無所属の現職、山内堯文を破り初当選した。
重枝 琢巳(しげえだ たくみ、1917年2月21日 - 20… 重枝 琢巳(しげえだ たくみ、1917年2月21日 - 2009年2月18日)は、昭和から平成時代の労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)書記長。 山口県生まれ。1943年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。九大では波多野鼎に師事。1946年三井化学工業に入社。同年日本労働組合総同盟(総同盟)九州連合会執行委員。1948年日本炭鉱労働組合連合会(炭労)事務局長。1951年9月加藤閲男、星加要、古賀専らと民主労働運動研究会(民労研)を結成、同会幹事。同年12月民主社会主義連盟(民社連)評議員。1953年2月全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)幹事。1954年全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)書記長兼総同盟副会長。
加藤 哲太郎(かとう てつたろう、1917年(大正6年)2月… 加藤 哲太郎(かとう てつたろう、1917年(大正6年)2月21日 - 1976年(昭和51年)7月29日)は、日本の元陸軍中尉・新潟の東京捕虜収容所第五分所長。英語塾経営者。東京に生まれる。父は作家・評論家の加藤一夫、母は加藤小雪。 父の一夫は神田豊穂らと春秋社を興し、日本初の『トルストイ全集』を刊行して成功を収めた。また、アナキズムに傾倒していた。 1923年9月1日、関東大震災が起こると、9月5日に一夫は巣鴨警察に留置され、9月7日、東京退去を条件にようやく釈放された。このため加藤一家は兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)への転居を余儀なくされた。 1928年、神奈川県横浜市に転居。 1940年、哲太郎は慶應義塾大学を卒業。
嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日… 嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日 - 2009年(平成21年)3月27日)は日本の教育者。元学校法人嘉悦学園学園長・理事長。 1917年(大正6年)2月、東京に生まれる。1943年(昭和18年)に嘉悦学園秘書課長、1946年(昭和21年)に同学園総務部長、1950年(昭和25年)に財団法人嘉悦学園理事長、1951年(昭和26年)に学校法人嘉悦学園理事長に就任する。1953年(昭和28年)に法政大学経済学部経済学科を卒業する。1966年(昭和41年)に日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、1972年(昭和47年)に嘉悦女子高校校長及び嘉悦女子中学校校長に就任する。
西脇 安(にしわき やすし、1917年2月20日 - 201… 西脇 安(にしわき やすし、1917年2月20日 - 2011年3月27日)は、日本の生物学者(放射線生物学)。勲等は勲三等。学位は医学博士(京都大学・1954年)、理学博士(京都大学・1962年)。東京工業大学名誉教授、ウィーン大学名誉教授。 大阪帝国大学理学部助手、大阪理工科大学助教授、大阪市立医科大学助教授、東京工業大学理工学部付属原子炉研究施設教授などを歴任した。 初期のキャリアにおいては原子核物理学実験を専門とし、第二次世界大戦中は核兵器開発研究にも関与したが、戦後連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)によって原子核の研究が禁止されたことを受けて、放射線生物学に転向した。 アメリカ合衆国が1954年にビキニ環礁で行った水爆実験「ブラボー実験」による被害の調査を行い、日本国外にも事件の情報を伝達した。
青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日… 青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日 - 2001年〈平成13年〉7月13日)は、元NHKアナウンサー。 青木一雄1968 / 野村泰治1968-1973 / 中江陽三1973-1976.3 / 加治章1976.4-1978.3 / 川野一宇1978.4-1981.3 / 松平定知1981.4-1984.3 / 吉川精一1984.4-1987.3 / 佐藤充宏1987.4-1988.3 / 徳田章1988.4-1989.3 / 佐藤充宏(再)1989.4-1990.3 / 徳田章(再)1990.4-1991.3
山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20… 山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20日 - 1998年〈平成10年〉3月27日)は、日本の小説家。非常に寡作な人物であり、代表作「あゝ野麦峠」で日本文学史にその名を刻んだ。 長野県東筑摩郡松本村(現・松本市)に農家の長男として生まれる。松本青年学校に通うが、1937年(昭和12年)に召集され近衛歩兵第3連隊に入る。終戦後は農業に従事し、31歳になってから上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となる。青年海外協力隊の専任講師も務めた。 松本市歴史の里に「山本茂実展示コーナー」がある。夫人山本和加子の回想記『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010年)がある。 1998年3月27日死去。
貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19… 貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 1998年〈平成10年〉7月14日)は日本の作曲家。 東京小石川茗荷谷で生まれる。父親は薩摩琵琶、姉は生田流の箏をよくした家庭であった。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)在学中、16歳の時に作曲したいという熱望から草川信に和声を学び始め、1934年、日本大学芸術科に入り、理論、作曲を小松耕輔、池内友次郎に、ピアノをジェームス・ダンに学び、1938年卒業。1938年11月、《交響曲の第1楽章》が第7回日本音楽コンクールに第2位入賞。翌年大学より芸術賞を受賞した。卒業後はしばらく療養生活を送り、創作を断ち、この間読書、音楽鑑賞などをしながら音楽観や作曲態度について思考する時間を持った。
峠 三吉(とうげ さんきち、1917年(大正6年)2月19日… 峠 三吉(とうげ さんきち、1917年(大正6年)2月19日 - 1953年(昭和28年)3月10日)は、日本の詩人。本名は、三吉(みつよし)。1951年(昭和26年)に自費出版した『原爆詩集』で知られる。 父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現・豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。 さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠)で被爆。
岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - … 岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - 1995年8月13日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取、会長を務めた。静岡県沼津市出身。 1941年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井銀行での勤務を経て、1949年に駿河銀行に転じ、1954年11月に取締役に就任し、1958年に常務、1963年に専務を経て、1964年8月には頭取に就任した。1981年3月に会長に就任。 1995年8月13日心不全のために死去。78歳没。