天沢 退二郎(あまざわ たいじろう、1936年7月31日 -… 天沢 退二郎(あまざわ たいじろう、1936年7月31日 - )は、日本の詩人、仏文学者、児童文学作家、翻訳家。宮沢賢治研究者。東京大学文学部仏文科卒業。明治学院大学文学部フランス文学科名誉教授。
1936年(昭和11年)生まれ:1,204人
天沢 退二郎(あまざわ たいじろう、1936年7月31日 -… 天沢 退二郎(あまざわ たいじろう、1936年7月31日 - )は、日本の詩人、仏文学者、児童文学作家、翻訳家。宮沢賢治研究者。東京大学文学部仏文科卒業。明治学院大学文学部フランス文学科名誉教授。
伊藤 宏見(いとう ひろみ、1936年7月31日 - 201… 伊藤 宏見(いとう ひろみ、1936年7月31日 - 2019年2月9日)は、日本の英文学者、詩人、歌人、劇作家、比較文化学者、東洋大学名誉教授。 横浜市生れ。1963年早稲田大学第一文学部英文学科卒業、65年同大学院修士課程修了。東京農業大学講師、助教授、東洋大学教授、2007年定年退任、名誉教授。日本歌人クラブ中央幹事。良寛会会長。沙羅短歌会主宰会長。W・B・イェイツ研究が専門。
髙山 剛(たかやま つよし、1936年7月30日 - 201… 髙山 剛(たかやま つよし、1936年7月30日 - 2015年4月7日)は、日本の実業家。第14代大同特殊鋼代表取締役社長。 広島市安芸区矢野町に6人兄弟の長男として生まれる。矢野小学校、矢野中学校から1955年広島県立広島国泰寺高等学校卒業。京都大学法学部卒業後、1960年に大同製鋼株式会社(現大同特殊鋼株式会社)に入社。1984年に販売第一部長。1990年に取締役営業本部大阪支店長。1992年に常務取締役営業本部大阪支店長。1994年に専務取締役。1996年に代表取締役副社長。1998年に代表取締役社長。2004年から代表取締役会長を務めた。2009年相談役。2015年ぼうこう腺がんで逝去。
牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- … 牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- )は佐賀県佐賀市出身の実業家。サッカーJ2サガン鳥栖を運営するサガンドリームスの元代表取締役社長。
池上 忠治(いけがみ ちゅうじ、1936年7月30日 - 1… 池上 忠治(いけがみ ちゅうじ、1936年7月30日 - 1994年6月28日)は、日本の西洋美術史学者。フランスの近世・近代美術が専門。 新潟県出身。東京大学文学部美学美術史学科卒、同大学院修士課程修了、東大助手、神戸大学文学部助教授、1981年教授。57歳で死去。
大下 静之(おおしも しずゆき、1936年7月29日 - )… 大下 静之(おおしも しずゆき、1936年7月29日 - )は、日本の経営者。フマキラー社長を務めた。熊本県出身。社長を務めた大下高明の義理の従弟に当たる。 1960年に鹿児島大学農学部農学科を卒業し、同年3月に大下回春堂(現在のフマキラー)に入社。 1980年2月に取締役に就任し、1983年2月に常務を経て、1985年2月には大下高明の後任として社長に就任。1991年2月に体調不良により、後任に大下高明の長男である大下俊明に譲り、自身は社長を退任。
清水 寛(しみず ひろし、1936年7月29日 - 2026… 清水 寛(しみず ひろし、1936年7月29日 - 2026年1月27日)は、日本の教育学者。知的障害児教育が専門。埼玉大学名誉教授。 東京生まれ。1960年東京教育大学教育学部特殊教育学科卒業、同大学院博士課程満期退学。埼玉大学教育学部講師、助教授、教授、2002年定年退官、名誉教授。全国障害者問題研究会委員長、顧問。2002年『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(編著)で第24回社会事業史学会文献賞受賞。2017年秋の叙勲で、瑞宝中綬章受章。
三浦 敏明(みうら としあき、1936年7月28日 - 20… 三浦 敏明(みうら としあき、1936年7月28日 - 2019年2月13日)は、日本の英文学者・英語学者・歌人。東洋大学名誉教授。 父の任地東京府(現・稲城市)生まれ。徳島県阿波市出身。1961年東洋大学文学部英米文学科卒業。67年同大学院文学研究科博士課程修了。東洋大学工学部助教授、教授、文学部教授。2007年定年退任、名誉教授。R・L・スティーヴンスンの研究、日本文体論学会、日本英語学会、国際異文化学会。湖笛会会員。
ひろさちや(本名:増原 良彦(ますはら よしひこ)、1936… ひろさちや(本名:増原 良彦(ますはら よしひこ)、1936年〈昭和11年〉7月27日 - 2022年〈令和4年〉4月7日)は、日本の宗教評論家。仏教思想家。 自称「仏教原理主義者」。多数の一般向けの解説書を執筆。 大阪府大阪市に生まれ、大阪府立北野高等学校を経て、東京大学で印度哲学、仏教学を学び、気象大学校で20年間教鞭を執る。教員生活の傍ら、「ひろさちや」のペンネームで平易な言葉で多数の入門書を執筆し、一般の人々に仏教を身近な物として再認識させた。自身は浄土宗の信者だった。
武久 堅(たけひさ つよし、1936年(昭和11年)7月27… 武久 堅(たけひさ つよし、1936年(昭和11年)7月27日 - )は、国文学者、関西学院大学名誉教授。 1936年、兵庫県武庫郡(現・芦屋市)で生まれた。1944年に強制疎開で奈良県へ転居。奈良県立五條高等学校を卒業し、関西学院大学文学部日本文学科に進学した。1960年に卒業。同大学大学院文学研究科に進み、1965年に博士課程を満期退学。 1962年、関西学院大学助手に採用された。1967年、広島女学院大学専任講師に就いた。1972年に助教授、1981年に教授昇格。1986年、関西学院大学文学部日本文学科教授に転じた。1990年、学位論文『平家物語成立過程考』を関西学院大学に提出して文学博士号を取得。
宮﨑 亨(みやざき とおる、1936年 <昭和11年> 7月… 宮﨑 亨(みやざき とおる、1936年 <昭和11年> 7月27日 - 2023年 <令和5年> 12月14日)は、日本の材料科学者。学位は、工学博士(東北大学・課程博士・1966年)。名古屋工業大学名誉教授・元副学長。元日本金属学会会長。正四位。 1960年名古屋工業大学工学部金属工学科卒業。1962年東北大学大学院工学研究科修士課程修了。1965年東北大学大学院工学研究科博士課程修了。1966年東北大学より課程博士として工学博士の学位を取得。東北大学金属材料研究所助手、名古屋工業大学金属工学科助教授、名古屋工業大学金属工学科教授、名古屋工業大学副学長を経て、1999年日本金属学会会長。2000年名古屋工業大学名誉教授。
古賀 正一(こが まさいち、1936年7月26日 - )は、… 古賀 正一(こが まさいち、1936年7月26日 - )は、日本の実業家、教育者。東芝では副社長まで昇進し、また父で市川学園創立者の古賀米吉の死後は学園理事長となった。 1936年に東京都で生まれた。市川中学校・高等学校を経て、東京大学工学部電気工学科を卒業後、東芝にエンジニアとして入社。1983年6月7日に当時市川学園の理事長と市川中学校・高等学校の校長を務めていた父が亡くなり、11日に理事長に就任した。2017年のインタビューによれば周囲に勧められてのことであり、当時の東芝の人事担当役員は1960年代に東芝を再建した社長の土光敏夫を例に挙げ、土光も母が創立した橘学苑の理事長をしていたのだからと理事長就任を勧めたのだという。
大川 恵子(おおかわ けいこ、1936年7月26日 - )は… 大川 恵子(おおかわ けいこ、1936年7月26日 - )は、日本の元女優。愛知県名古屋市出身。本名は加古 啓子(かこ ひろこ)。愛知県立刈谷高等学校卒業。 1955年に名鉄デパートに入社するが、月刊誌『平凡』主催「ミス平凡」に選ばれ、1956年に東映ニューフェイスの第3期生となる。同期には里見浩太朗・桜町弘子・大村文武らがいた。芸名は当時の東映社長の大川博が命名したものである。黄金期の東映時代劇でお姫様女優として活躍。『姫君一刀流』は唯一の主演作である。1962年、時代劇ブームの去る前にサラリーマンと結婚、引退し映画界を去る。以降、マスコミに出ることはない。 1959年(昭和34年)3月2日から6日まで開催された「ベルリン日本映画芸術の日」と3月6日から11日まで開催された「ミュンヘン日本映画見本市」に出席のため同3月1日、芦川いづみ(日活)、大空眞弓(新東宝)、小山明子(松竹)、司葉子(東宝)、若尾文子(大映)ら他の映画会社代表女優たちと共に東映代表女優としてドイツへ出発。
小山 勉(こやま つとむ、1936年7月26日 - 2012… 小山 勉(こやま つとむ、1936年7月26日 - 2012年7月2日 )は、日本の元バレーボール選手、指導者。1964年東京オリンピックバレーボール男子銅メダリスト。 香川県坂出市出身。坂出東部中学校から香川県立坂出商業高等学校に進学し、1953年の全日本高校選手権で攻守の要としてチームを全国優勝に導いた。関西学院大学でも全日本大学選手権制覇に貢献。 大学卒業後は実業団の富士フイルムに加入し、ここでもチームの全国制覇に貢献。全日本男子にも選出され、1964年の東京オリンピックでは銅メダル獲得に貢献。選手引退後は指導者に転じ、富士フイルム監督に就任。 1972年に松平康隆の後を引き継いで全日本男子監督に就任、モントリオールオリンピック日本代表チームを率いたが、準決勝でポーランドに敗れてオリンピック連覇を逸した。
上田 亮三郎(うえだ りょうざぶろう、1936年7月26日 … 上田 亮三郎(うえだ りょうざぶろう、1936年7月26日 - )は、愛媛県出身のサッカー指導者。現大阪商業大学サッカー部総監督。 1936年、愛媛県に生まれる。父の影響で松山南高でサッカーを始め、愛媛大学から東京教育大学に編入した。2学年後輩に勝澤要、3学年後輩に今西和男・坂田信久がいる。 1961年に、当時3部だった大阪商業大学サッカー部の監督となり、1965年には1部へ昇格させた。以降、同部を関西学生選手権優勝11回、同リーグ戦優勝18回、全日本大学選手権優勝4回、総理大臣杯優勝2回の強豪に育て上げた。 1969年、加茂周・大橋謙三・清水泰男・中村義喜らとともに、千葉県で行われた第1回FIFAコーチング・スクールに参加(サッカーに関するすべての理論と実技の教官はデットマール・クラマー)。
佐藤 敬典(さとう たかのり、1936年7月25日 - )は… 佐藤 敬典(さとう たかのり、1936年7月25日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手。 金足農業高校から1955年に大阪タイガースへ入団。1957年に退団した。
稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、… 稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、福岡県福岡市出身(満洲国新京生まれ)の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 父親が古河電工北京支店長で、満洲国新京で生まれ、小学3年までは中国北京で育った。少年時代は裕福であったが、9歳で終戦を迎え一変。中国軍に追い立てられて天津の収容所へ送られたが、そこで病に侵され生死をさまよった。父の背中から見た無数に横たわる病人の光景が強烈な記憶として残るが、その後は引揚船で佐世保に到着。初めて祖国の土を踏むが、引き揚げ後には母に「あなたを(中国に)置いていこうと思った」と告白されている。帰国後は父がサラリーマンであったため各地を回り、西南学院中学部時代には好投手として福岡県内で有名になった。
津曲 裕次(つまがり ゆうじ、1936年7月25日 - )は… 津曲 裕次(つまがり ゆうじ、1936年7月25日 - )は、障害者教育・福祉の歴史研究を専門とする研究・教育者。筑波大学名誉教授、高知女子大学名誉教授、長崎純心大学大学院教授を経て、現在、長崎純心大学客員教授。社会福祉法人滝乃川学園石井亮一・筆子記念館顧問。 本籍は鹿児島県。1961年東京教育大学教育学部特殊教育学科卒、1964年東京教育大学大学院教育学研究科修士課程修了、1966年東京教育大学大学院教育学研究科博士課程退学、奈良教育大学助教授、1972年東京教育大学講師、1975年東京教育大学助教授、1976年筑波大学助教授、1988年教授に就任。1996年筑波大学退官の後、1998年高知女子大学教授、2002年長崎純心大学大学院教授。
田原 博人(たばら ひろと、1936年〈昭和11年〉7月25… 田原 博人(たばら ひろと、1936年〈昭和11年〉7月25日 - 2025年〈令和7年〉5月30日)は、日本の宇宙物理学者。宇都宮大学名誉教授。宇都宮大学学長や日本天文学会理事長を務めた。 島根県益田市出身。実家は雑貨屋。1962年(昭和37年)立教大学理学部物理学科卒業。1968年(昭和43年)立教大学大学院理学研究科博士課程修了。日本学術振興会特別研究員を経て、1970年(昭和45年)東京大学東京天文台宇宙電波部助手。東京天文台職員組合執行委員長を経て、1973年(昭和48年)東京天文台職員組合闘争委員長。1974年(昭和49年)、宇都宮大学で電波天文学の新学部を設立するため、同大教育学部助教授に赴任し、宇都宮大学職員組合執行委員長に就任。
石井 一二(いしい いちじ、1936年(昭和11年)7月24… 石井 一二(いしい いちじ、1936年(昭和11年)7月24日 - )は、日本の政治家、実業家。株式会社ピコテック代表取締役。 兵庫県議会議員(3期)、参議院議員(3期)、環境政務次官(竹下改造内閣・宇野内閣)、外務政務次官(第2次海部内閣)、参議院農林水産委員長、自由民主党副幹事長、新進党参議院国会運営委員長、同参議院幹事長、同参議院副会長、自由連合幹事長、NPO法人日本紛争予防センター理事長、三共生興株式会社取締役、徳洲会特別顧問などを歴任。 ニックネームは、ワンツーさん。 兄は元自治大臣の石井一、父はタイヘイレコード元社長で、元兵庫県議会議員の石井廣治。甥に兵庫県議会議員の石井健一郎、民主党元衆議院議員、西宮市長の石井登志郎がいる。
久保 継成(くぼ つぐなり、1936年7月24日- )は、東… 久保 継成(くぼ つぐなり、1936年7月24日- )は、東京生まれの日本の宗教者、仏教学者で、霊友会元会長、在家仏教こころの会会長、在家仏教こころの研究所代表。
佐藤 敏直(さとう としなお、1936年7月24日 - 20… 佐藤 敏直(さとう としなお、1936年7月24日 - 2002年3月18日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市生まれ。山形県立鶴岡南高等学校、慶應義塾大学工学部電気工学科卒業。清瀬保二に師事。当初から師・清瀬ゆずりの民族的作風を示し、1959年、日本音楽コンクールに「ピアノのための三章」で入選した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
金子 國義(かねこ くによし、1936年7月23日 - 20… 金子 國義(かねこ くによし、1936年7月23日 - 2015年3月16日)は、日本の画家。
中野 孝憲(なかの たかのり、1936年7月23日 - 20… 中野 孝憲(なかの たかのり、1936年7月23日 - 2016年4月12日)は、元大阪フィルハーモニー交響楽団のチェロ奏者であり、津軽三味線の奏者。 チェロの弓の使い方(UPとDOWN)記号を一般的な三味線用に使われていた三線譜に取り入れ、初めて津軽三味線用の楽譜を作った人物。 演奏家としての活動と共に、津軽民謡・津軽三味線を後世に伝えるために生涯を捧げた。 孝憲が育てた代表的津軽民謡・津軽三味線の後継者には、「第57代青森県民謡王座」である次女・中野みち子がいる。 孝憲が初めての津軽三味線の楽譜を出版した1984年当時、津軽三味線は聴いて覚えるもので、習得には非常に年月がかかるものだった。しかし孝憲は、多くの人に津軽三味線を学んでもらいたいと、津軽三味線用初の楽譜を使った指導を始め、津軽三味線の習得方法に、旋風を巻き起こす。
伊藤 龍郎(いとう たつろう、1936年(昭和11年)7月2… 伊藤 龍郎(いとう たつろう、1936年(昭和11年)7月23日 - )は、日本の銀行家。あさひ銀行頭取を務めた。愛知県出身。 印刷業を営む家庭に生まれる。1959年名古屋大学経済学部卒業後、協和銀行入行。若かりし頃から将来の頭取候補として嘱望され、企画、人事など中枢部門を担い、2店の支店長も歴任した。埼玉銀行との合併の際には、常務企画本部長を務め交渉の初期段階からかかわり、合併後には大蔵省との折衝も務めた。あさひ銀行が発足後の3年目には、副頭取埼玉駐在として、自宅から通えないことはなかったが、あえて浦和市に居を定め行内融和を推進した。 1997年に頭取に就任。トップ在任時には金融再編の時代に翻弄される中、難しい経営の舵取りを迫られた。
中原 ひとみ(なかはら ひとみ、1936年〈昭和11年〉7月… 中原 ひとみ(なかはら ひとみ、1936年〈昭和11年〉7月22日 ‐ )は、日本の女優。本名:土家 里子。愛称は「バンビ」。東京市(現東京都台東区)出身。アズユー所属。夫は江原真二郎。長男は土家歩、長女は土家里織。 共立女子高等学校中退。東映ニューフェイス第1期生として、東映へ入社。同期には山本麟一・高田敏江・南原宏治らがいる。1954年、映画『魚河岸の石松 女海賊と戦う』でデビュー。 『純愛物語』で原爆の後遺症で短い生涯を閉じるヒロインを演じ、1957年のキネマ旬報ベストテン第2位に入った。1958年6月25日、世界三大映画祭の一つ第8回ベルリン国際映画祭に出席のためドイツのベルリンへ出発。
井上 恵博(いのうえ よしひろ、1936年7月22日 - 2… 井上 恵博(いのうえ よしひろ、1936年7月22日 - 2021年12月12日)は、日本の実業家。東証一部上場の自動車販売会社ケーユーホールディングス代表取締役会長兼社長。
中村 敏行(なかむら としゆき、1936年7月22日 - 1… 中村 敏行(なかむら としゆき、1936年7月22日 - 1979年12月7日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 赤穂高校では遊撃手として活躍。1953年秋季近畿大会県予選準々決勝に進むが、喜吉文雄(大映スターズ)を打線の中軸とする滝川高に9回サヨナラ負け。翌1954年夏の甲子園県予選では決勝に進むが、またもや滝川高に完封負けを喫し甲子園出場を逸する。 1955年に大洋ホエールズへ当初は投手として入団。当時の選手名鑑では速球、カーブが武器の投手と書かれていた。1年目から一軍に上がり、三塁手として6試合に先発。翌1956年は、6月から手塚耀朗に代わり三塁手の定位置を獲得。主にチャンスメーカーとして63試合に先発出場を果たし、打率.251を記録した。
日隈 威徳(ひぐま たけのり、1936年(昭和11年)7月2… 日隈 威徳(ひぐま たけのり、1936年(昭和11年)7月22日 - 2019年(平成31年)1月20日)は、日本の宗教研究者。「全国宗教人・日本共産党を支持する会」代表世話人、勤労者通信大学講師、アジア・アフリカ研究所所員。筆名の七里和乗(しちり わじょう)でも執筆した。
井原 幹雄(いはら みきお、1936年7月22日 - )は、… 井原 幹雄(いはら みきお、1936年7月22日 - )は、日本の俳優である。プロダクション・タンク所属。島根県出身。 日本大学芸術学部演劇科、東宝現代劇、劇団四季、劇団仲間劇団員を経て現在に至る。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
時子山 和彦(とこやま かずひこ、1936年7月22日 - … 時子山 和彦(とこやま かずひこ、1936年7月22日 - 1986年12月21日)は、日本の経済学者。元一橋大学経済学部教授。専門は計量経済学。東京府生まれ。父は早稲田大学第9代総長時子山常三郎。妻・ひろみは日本女子大学教授。 荒憲治郎門下で、20年間にわたり一橋大学経済学部において計量経済学・理論経済学の研究と教育に従事。指導学生に須賀晃一早稲田大学副総長など。 一定の消費構造において最大の効用を得るのは利潤率が等しいときであることを分析し、当時政策目標とされていた消費税導入の理論的支柱を目指した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 20… 工藤 正明(くどう まさあき、1936年7月21日 - 2011年5月13日)は、北海道出身のプロ野球選手。 北海高校では1953年選抜高校野球大会から4季連続で甲子園に出場した。 1955年に読売ジャイアンツへ入団。1959年に退団し、その後は地元の電電北海道でプレーした。
9代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、1936年7月… 9代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、1936年7月21日 - )は、茨城県鹿嶋市出身の落語家。落語芸術協会所属。本名:石上 吉男。出囃子:『勧進帳』。 茨城県立鹿島高等学校を卒業した。 1955年5月、8代目三笑亭可楽に入門、前座名「可津男」を名乗る。1958年9月、三遊亭とん馬とともに二ツ目昇進し「可勇」と改名。 1964年8月に師匠の8代目可楽が死去し、10月に兄弟子三笑亭夢楽門下に移籍した。 1969年9月、8代目都家歌六とともに真打昇進し「浮世亭写楽」に改名。1992年9月、9代目となる「三笑亭可楽」を襲名。1995年より落語芸術協会監事を務めた。 2025年の三遊亭円輔没後、落語芸術協会の落語家では最高齢となっている。
田名網 敬一(たなあみ けいいち、1936年7月21日 - … 田名網 敬一(たなあみ けいいち、1936年7月21日 - 2024年8月9日)は、日本のアーティスト、グラフィックデザイナー、イラストレーター、映像作家。 1936年、東京の服地問屋の長男として生まれる。1941年に日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると、田名網の生家は危険に晒される。1942年4月18日の東京初空襲の後、田名網は京橋を離れ、目黒の権之助坂付近にあった祖父の家に居を移す。1945年、9歳の時に東京大空襲を経験する。この時脳裏に焼き付いた数々の光景は、田名網が後に描き出す作品の主要なモチーフを占める事になる。轟音を響かせるアメリカの爆撃機、それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、そして祖父の飼っていた畸形の金魚が爆撃の光に乱反射した水槽を泳ぐ姿である。
矢野 浩三郎(やの こうざぶろう、1936年7月20日 - … 矢野 浩三郎(やの こうざぶろう、1936年7月20日 - 2006年3月26日)は、日本の翻訳家・著作権エージェント・実業家。福岡県甘木市(朝倉市) 生まれ。明治大学文学部卒、斎藤正直の教えを受ける。 1961年、雑誌「ホリディ」の担当編集者として早川書房に入社するが、1号のみの雑誌となり退社。1963年からチャールズ・イー・タトル商会 (現タトル・モリ エイジェンシー) に移り、海外著作権エージェントとなる。1965年から海外評論社に勤務。1966年に独立し、宮田昇とともに著作権エージェンシー業務を提供する矢野著作権事務所を開設し、代表取締役に就任した。1970年、同事務所は日本ユニ・エージェンシーへ改称して拡大した。
奈良 文夫(なら ふみお、1936年7月20日 – 2018… 奈良 文夫(なら ふみお、1936年7月20日 – 2018年2月6日)は、日本の俳人。俳人協会監事を務めていた。本名・奈良文夫。山梨県出身。中村草田男に師事、『萬緑』第5代選者・『群星』元代表。 1936年山梨県上野原町に生まれる。1956年、早稲田大学法学部に入学。二年生の冬、結核で休学。療養中、俳句を知りほとんど同時に「萬緑」に入会。1959年復学。早稲田大学俳句研究会に入部。1962年東京都庁に入庁、台東区役所に配属され、1997年の退職まで勤務。1963年旧姓佐藤寿子(俳人、俳号比佐子)と結婚。1971年榑沼けい一と「群星」創刊。 1973年萬緑新人賞、1985年萬緑賞受賞。1987年香西照雄死去のあと萬緑運営委員。
小久保 晴行(こくぼ はるゆき、1936年(昭和11年)7月… 小久保 晴行(こくぼ はるゆき、1936年(昭和11年)7月20日 - 2025年10月7日[要出典])は、日本の著作家、洋画家、歌人、評論家、経営学博士。 公益財団法人 えどがわボランティアセンター理事長、一般財団法人 国際江戸川文化福祉財団理事長、社会福祉法人 つばき土の会理事長。株式会社トーヨー会長、株式会社エフ・イー・アイ会長。江戸川区文化会会長、江戸川区美術会会長、江戸川区芸能文化協会会長、江戸川区福祉ボランティア団体協議会会長、江戸川区友好団体連絡会会長、江戸川明るい社会づくりの会会長、江戸川第九を歌う会会長、江戸川区ドッジボール協会会長、八代目橘家円蔵一門を励ます会会長。江戸川区短歌連盟顧問、江戸川区都市計画審議会委員、江戸川区民生委員推薦会委員。
橋本 敬包(はしもと たかかね、1936年7月19日 - 2… 橋本 敬包(はしもと たかかね、1936年7月19日 - 2007年4月23日)は、佐賀県出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。
細矢 治夫(ほそや はるお、1936年7月18日 - )は、… 細矢 治夫(ほそや はるお、1936年7月18日 - )は、日本の化学者。お茶の水女子大学名誉教授。理学博士。専門は数理化学、理論化学、情報化学。神奈川県鎌倉市出身。 化学構造のグラフ表現(分子グラフ)に関するトポロジカル・インデックスという用語の提唱者、その一つである細矢インデックス (Hosoya Index) の発案者として知られる。
中谷 比佐子(なかたに ひさこ、1936年7月18日 - )… 中谷 比佐子(なかたに ひさこ、1936年7月18日 - )は日本の和装研究家、エッセイスト。大分県大分市出身。 大分県立大分上野丘高等学校を経て共立女子大学文芸学部卒業。女性雑誌『女性自身』『二人自身』の編集記者を経て、株式会社 秋櫻舎(こすもすしゃ)設立。きもの季刊誌『きもの秋櫻』発行。婦人雑誌等にきものの記事を執筆。東京都新宿区在住。
藤田 栄一(藤田 榮一、ふじた えいいち、1936年7月18… 藤田 栄一(藤田 榮一、ふじた えいいち、1936年7月18日 - )は、日本の英文学者、ビジネス英語教育者。 大阪府大阪市出身。1959年大阪府立大学経済学部卒、藤田鉄工所入社。1963年早川電機工業(シャープ)貿易部入社、大阪市立大学文学部英文科卒。1965年神戸大学大学院修士課程修了。1969年関西外国語大学専任講師となる。1972年助教授。1990年神戸女学院大学短期大学教授、神戸学院大学教授。専攻分野、英米文学(特にヘンリー・ジェイムズ)、英米文化、国際ビジネス、国際交渉・説得、国際普及学。
飯野 四郎(いいの しろう、1936年7月18日 - 200… 飯野 四郎(いいの しろう、1936年7月18日 - 2008年9月2日)は、日本の医学者、医師。医学博士。専門は、肝臓病学。日本「ウイルス性肝炎治療の父」と呼ばれる。 福岡県出身。1964年東京大学医学部卒業。1992年聖マリアンナ医科大学教授。インターフェロン治療の先駆者で、長く勤務した東京都杉並区の清川病院玄関の「インターフェロン治療発祥の地」の碑が立つ。 2002年に提起された薬害C型肝炎訴訟で原告側を支援し、結果、国と製薬会社の責任を認めた大阪地裁判決となった。2008年、膵臓癌のため72歳で死去。
久保 晴生(くぼ はるお、1936年7月18日 - )は、日… 久保 晴生(くぼ はるお、1936年7月18日 - )は、日本テレビ放送網の元アナウンサー、日テレ学院スーパーバイザー。旧・満洲奉天市出身。愛称は、晴さん。 早稲田大学卒業後、1960年、日本テレビにアナウンサーとして入社。同期は久能靖らがいる。 元NHKでフリーアナウンサーの久保純子は長女。 バラエティ・中継担当番組・その他 金原二郎1969年以前-1982以後 / 赤木孝男1985前後 / 久保晴生1987-1990 / 今井昌彦1990-1992 / 長浜幸郎1992-1993 / 舛方勝宏1993-1997.5 / 石川牧子1997.6-2001.6 / 倉増吉継2001.5-2003.5 / 笹尾光2003.6-? / 福田泰久?-2007.3 / 大澤雅彦2007.4-2010.6 / 鷹西美佳2010.7-2010.11 / 木村優子2010.12-2014.5 / 鈴木雅人2014.6-2015.5 / 村山喜彦2015.6-2019.5/伊東修2019.6-2022.6/今井田彩2022.7-
木之下 晃(きのした あきら、1936年7月16日 - 20… 木之下 晃(きのした あきら、1936年7月16日 - 2015年1月12日)は、日本の写真家。日本福祉大学客員教授。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。1955年長野県諏訪清陵高等学校卒業。日本福祉大学社会福祉学部を卒業後、中日新聞社、博報堂に勤務し、広告写真などに携わる。音楽好きで演奏会に通ううちに、勤務地の名古屋で開催される音楽演奏会の記録撮影の仕事を得る。これをきっかけに、音楽をめぐる写真を撮影するようになる。1970年『音と人との対話 音楽家 木之下晃写真集』を自費出版。これにより、1971年日本写真協会賞新人賞を受賞。1973年、フリーランスの写真家となる。初期は主としてポピュラー音楽の演奏会を対象に、広告写真での経験を生かし、ブレやゆがみなどの効果を駆使した「音の映像化」というテーマを追求したが、80年代にはクラシック音楽を対象に、音楽家の演奏中のポートレートに取り組む。
伴野 朗(ともの ろう、1936年7月16日 - 2004年… 伴野 朗(ともの ろう、1936年7月16日 - 2004年2月27日)は、日本の小説家・推理作家・歴史作家。 愛媛県松山市生まれ。1954年、愛媛県立松山北高等学校卒業。1960年、東京外国語大学中国語学科卒業。 1962年、朝日新聞社入社。朝日新聞秋田支局を振り出しに、外報部、インドシナ特派員などを経て上海支局長を務めるかたわら、執筆活動を並行した。1976年、『五十万年の死角』で第22回江戸川乱歩賞を受賞。 1983年、日本冒険作家クラブの創設の発起人の一人となる。(同クラブの代表幹事をつとめたことがある ) 1984年、『傷ついた野獣』で第38回日本推理作家協会賞受賞。 1989年、朝日新聞社を退社。
福田 康夫(ふくだ やすお、1936年(昭和11年)7月16… 福田 康夫(ふくだ やすお、1936年(昭和11年)7月16日 - )は、日本の政治家。
酒井 ツギ子(さかい つぎこ、1936年(昭和11年)7月1… 酒井 ツギ子(さかい つぎこ、1936年(昭和11年)7月16日 - )は、日本の教育学者。哲学者。元徳島文理大学教授。元日本ホワイトヘッド・プロセス学会理事。 南山大学文学部卒業。名古屋大学大学院教育学研究科修了。愛知県出身。 愛知県出身。1975年(昭和50年)、南山大学文学部を卒業。1982年(昭和57年)、南山短期大学人間関係学科の講師に就任。1983年(昭和58年)、イタリア政府国費留学にてローマ大学大学院哲学研究科へ留学。1985年(昭和60年)、南山大学法学部の講師に就任。1985年、名古屋大学大学院教育学研究科博士課程を修了。 1986年(昭和61年)に山口女子大学文学部の助教授に就任し、1992年(平成4年)より同学部の教授に就任。
堀川 哲男(ほりかわ てつお、1936年7月15日 - 19… 堀川 哲男(ほりかわ てつお、1936年7月15日 - 1990年10月5日)は、日本の中国史学者。中国近代史専攻。 1936年、愛媛県松山市生まれ。京都大学文学部史学科、同大学院文学研究科博士課程満期退学。岐阜大学助教授、京都大学教養部助教授、教授。1990年、腎腫瘍のため死去。
鵜狩 道夫(うがり みちお、1936年7月14日 - 201… 鵜狩 道夫(うがり みちお、1936年7月14日 - 2018年8月27日)は、鹿児島県日置市出身のプロ野球選手(投手)、スポーツ店経営者。現役時代は「鵜狩 好応」、「鵜狩 道旺」の登録名も使った。 伊集院高から社会人野球の鹿児島市交通局を経て、1955年に西鉄ライオンズに入団。 西鉄では3年間で1勝もできなかったが、1958年に広島カープに移籍するとチーム最多の23試合先発を果たし、初勝利を含め6勝を挙げる。1958年9月19日、長嶋茂雄にこれが認められたらトリプルスリーとなっていた幻の本塁打を打たれる。翌1959年には、元近鉄パールス監督の藤田省三からマンツーマンの指導を受け、シュートをマスターして11勝10敗を記録、初めて規定投球回(7位、防御率2.53)に達する。
佐藤 公博(さとう きみひろ、1936年7月13日 - )は… 佐藤 公博(さとう きみひろ、1936年7月13日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手(投手)。 函館工業では1954年夏の甲子園道予選準々決勝に進むが、札幌北高に延長10回サヨナラ負け。卒業後は東洋高圧砂川に入社し、1955年から都市対抗の常連として活躍する。 1961年に阪急ブレーブスへ入団、同年は4月から先発陣に加わり4勝をあげる。その後は一時低迷するが、1965年には先発、中継ぎとして幅広く起用され42試合に出場。1966年には柿本実との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。ここでは主として救援に回るが、9月26日には巨人戦で先発し、1点リードの9回2死までノーヒットノーランに抑える。