太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 20… 太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 2009年10月8日)は、日本の建築史学者。九州大学名誉教授。東京府生まれ。 1935年早稲田大学理工学部卒業。1957年「平安、鎌倉時代における住宅建築史の研究」で早大工学博士。東京帝室博物館研究員、九州大学工学部教授、1977年定年退官、名誉教授、早稲田大学文学部客員教授、1983年退任。87年春、勲三等瑞宝章受勲。1988年『寝殿造の研究』で角川源義賞受賞。 2009年、心筋梗塞のためサイパンの三男宅で死去。98歳没。 『家屋雑考』ベースの寝殿造を学び、それを乗り越えて寝殿造の研究大きく発展させたのが太田静六である。特に「東三条殿の研究」、「堀河殿の考察」、「鳥羽殿の考察」については現在も評価は高い。
吉井 信康(よしい のぶやす、1911年(明治44年)4月1… 吉井 信康(よしい のぶやす、1911年(明治44年)4月15日 - 没年不明)は、旧華族吉井家(旧吉井藩主鷹司松平家)14代当主。1924年(大正12年)から1946年(昭和21年)まで子爵(1947年の日本国憲法施行により華族制度廃止)。父は子爵吉井信宝。妻は宮地栄治郎の次女。 1936年京都大学経済学部卒業。1939年、宮地鉄工所(現・宮地エンジニアリンググループ)に入社し、1953年に経理課長代理、1959年に監査役となった。 頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 剛1958-1965 | 宜子1965-現在 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997… 水野 稔(みずの みのる、1911年4月15日 - 1997年8月19日)は、日本の国文学者。専門は日本近世文学、特に山東京伝。 兵庫県姫路市生まれ。1920年に急逝した兄の影響を受けて、近世文学研究を志す。姫路高等学校文科甲類を経て、1933年東京大学文学部国文学科を卒業。1935年、同大学大学院を修了。1939年仙台陸軍幼年学校教授。1940年姫路高校時代の恩師だった原田虎男の長女と結婚。1942年陸軍予科士官学校教授。1946年兵庫県立姫路商業学校教諭、1949年兵庫県立姫路工業大学付属高等学校教諭と兵庫県立姫路工業大学講師を兼任。1955年、明治大学文学部助教授、1960年同教授。1982年同大学を定年退職。
大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月1… 大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月14日 - 1980年(昭和55年)7月12日)は、沖縄県出身の洋画家。二科会会員。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に入学し、在学時に美術教師・比嘉景常の指導を受ける。1934年(昭和9年)、東京美術学校を卒業する。 1936年(昭和11年)、沖縄県の私立開南中学校(沖縄戦により廃校)の美術教師となる。沖縄美術展覧会の創設に参加した。 太平洋戦争後、名渡山愛順・安谷屋正義らと首里儀保町のニシムイ美術村にアトリエを設ける。1950年(昭和25年)には琉球大学助教授に就任した。 代表作に久高島の祭事・イザイホーに取材した『神々の誕生』などがある。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
横田 信夫(よこた のぶお、1911年4月13日 - 197… 横田 信夫(よこた のぶお、1911年4月13日 - 1978年1月23日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1932年に高等試験行政科に合格し、1933年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。逓信省での勤務を経て、1950年8月に日本電信電話公社理事に就任し、1959年9月から1962年9月までに副総裁を務めた。1963年5月に富士重工業社長に就任し、1970年5月から1971年11月までに会長を務めた。NHK経営委員も務めた。妻は波子(藤岡郊二の長女)である。 1978年5月12日急性心不全のために死去。67歳没。
和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008… 和田 茂樹(わだ しげき、1911年4月12日 - 2008年4月29日)は、愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 198… 間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 1989年11月20日)は、日本の外科医、鍼灸師、医学博士。 神奈川県足柄下郡小田原町(現小田原市)出身。 1935年に京都帝国大学医学部を卒業し、同大学病院で外科を習得後、父の開業した間中外科医院を継ぐ。第二次世界大戦に医師として従軍、1946年に復員すると間中外科医院を医療法人温和会間中病院に改組した。 西洋医学の医師でありながら、東洋医学、特に鍼灸医学の普及発展に貢献し1950年には日本東洋医学会の設立に参加した。1957年に京都大学医学部で医学博士号を取得、小田原医師会会長に就任。その後、中国やアメリカ、フランスなどで講演活動を行う。
荒川 政司(あらかわ まさし、1911年4月11日 - 19… 荒川 政司(あらかわ まさし、1911年4月11日 - 1995年2月7日)は、日本の経営者。日野自動車社長を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に東京瓦斯電気工業に入社。1951年7月に日野自動車取締役に就任し、常務を経て、1969年11月に専務に就任し、1974年5月に社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1995年2月7日急性肺炎のために死去。83歳没。
三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - … 三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - 1989年3月20日)は、日本の保険事業家。三淵忠彦の三男。 1911年(明治44年)4月11日、元判事で元慶應大学講師、住友信託社員の父三淵忠彦と、母登喜の三男として、福島県に生まれる。 1935年(昭和10年)、早稲田大学法学部(ドイツ法)卒業。兄の三淵乾太郎は判事となっていた。 1941年(昭和16年)、大東京火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)に入社し、1943年には徴収課主任。のち、常務を務めた。 妹の多摩は法学博士で大審院検事石渡敏一子息の石渡慎五郎(東京火災保険社員)と結婚した。 自動車保険料率算定会(自算会)の常務を務めた。
氷上 英廣(ひがみ ひでひろ、1911年4月10日 - 19… 氷上 英廣(ひがみ ひでひろ、1911年4月10日 - 1986年9月16日)は、ドイツ文学者、東京大学名誉教授。ドイツ文学、比較文学、比較文化専攻。妻は南原繁の長女で歌人であった待子。
金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10… 金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10日 - 1975年6月17日)は、大韓民国の政治家、官僚。韓国銀行総裁や駐日大韓民国代表部首席代表(現在の駐日大韓民国大使の前身)、大韓民国副首相兼経済企画院長官などを務めた。本貫は清風金氏(朝鮮語版)。 1911年に黄海道載寧郡で生まれる清風金氏。海州高等普通学校を経て、1932年京城高等商業学校卒業。1938年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、日本植民地時代に韓国銀行の前身である朝鮮銀行に入行し、貸付部長、理事、副総裁などを経験する。1951年から5年間は韓国銀行総裁を務め、国際通貨基金と国際復興開発銀行加入のために活躍する。1957年には駐日大韓民国代表部首席代表に着任し、その後は駐英韓国大使を経て1961年の5・16軍事クーデターを機に政界へ進出した。
野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 198… 野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 1984年8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。旧姓高木。
加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月… 加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。蔵座林業社長。通称は八右衛門。加計隅屋23代当主。 広島県出身。加計正文の長男。1937年、法政大学経済科卒業。芸備銀行(現広島銀行)に入る。同行加計支店長に就任。広島県体育協会理事、広島県山県郡体育協会長を兼ねた。 趣味は読書、スポーツ、絵画。宗教は神道。住所は広島県広島市上柳町、山県郡加計町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩野 見斉(いわの けんせい、1911年(明治44年)4月8… 岩野 見斉(いわの けんせい、1911年(明治44年)4月8日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、第13代四日市市長。三重県員弁郡(現:いなべ市)出身。 1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学法学部卒業。戦前は旧満州国官吏として勤務。戦後に東海財務局津財務部に奉職。1949年(昭和24年)以降、四日市市役所商工課長、庶務課長、秘書課長、総務部長、水道局長を歴任。 1964年(昭和39年)に市長平田佐矩から四日市市助役に任命され、次代の九鬼喜久男の元でも助役を務めた。1972年(昭和47年)に四日市市長選挙に無所属で立候補し、日本社会党の前川辰男候補と日本共産党の稲垣重郎候補と安藤素滋(無所属)候補との保守革新の3分裂の選挙となった末、当選する。
唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - … 唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - 2004年8月11日)は、日本の教育学者、東京教育大学名誉教授。日本教育史を研究。 新潟県出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)教授、東京高等師範学校教授、1949年(昭和24年)に東京教育大学教授。1953年(昭和28年)「中世初期仏教々育思想の研究」で東京教育大文学博士。定年退職後、日本女子大学教授。1980年(昭和55年)に日本女子大退職。1993年(平成5年)、教育史の資料を展示した「唐澤博物館」を自宅敷地内(東京都練馬区豊玉北)に開設。 新潟県出雲崎で尋常小学校・尋常高等小学校時代を送る。成績は優秀で「操行並びに学業優秀に付きこれを賞す」の賞状が残されている。
北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 19… 北川 省一(きたがわ せいいち、1911年4月7日 - 1993年1月5日)は、日本の詩人、良寛研究家。 新潟県刈羽郡柏崎町(現在の柏崎市)生まれ。塗師の父が出奔して母と兄との家庭に育つ。第一高等学校在学時代には絵画、詩を創作。東京帝国大学仏文科に入学するが左翼活動のため1年で中退。郷里で私塾経営などをしたのち再度上京、兵役で千島で特攻訓練をするうち敗戦を迎えた。戦後は郷里で貸本屋をし、たびたび日本共産党から衆議院に立候補するが、田中角栄に敗れ続ける。66歳以後良寛研究家として多くの著書を著す。椎名麟三とは鉄工場の同僚だった。1993年1月5日、胃癌のため死去。 息子は北川フラム。娘の原若菜は原広司夫人であり、その名付け親は中野重治である。
福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 19… 福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 1994年)は、宮城県出身の歯科医師、サッカー選手、サッカー審判員。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)でサッカーを始め、日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)でもサッカー部に入部。1933年に大学を卒業し以降も第一生命保険などでプレーした。 1936年の全日本蹴球選手権大會(第16回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で線審を務め以降、日本サッカー協会の審判員として活動を続けた。1958年からは国際審判員としてAFCユース選手権や1964年の東京オリンピックで主審を務めた。1969年には国際Aマッチ10試合以上の条件をクリアし、国際サッカー連盟(FIFA)から日本人初の審判特別功労賞(FIFA Referees’Special Award)を受賞した。
中山 治一(なかやま じいち、1911年4月6日 - 199… 中山 治一(なかやま じいち、1911年4月6日 - 1990年7月25日)は、日本の歴史学者。 京都市出身。1934年京都帝国大学文学部史学科卒。第三高等学校 (旧制)教授、名古屋大学文学部教授、大阪市立大学教授を務め、1974年定年退官、椙山女学園大学教授、愛知学院大学教授を務めた。歴史記述の方法論、西洋近代史を専門とした。
市川弘勝(いちかわ ひろかつ、1911年4月5日 - 198… 市川弘勝(いちかわ ひろかつ、1911年4月5日 - 1984年2月29日)は、日本の経済学者。東洋大学名誉教授。鉄鋼について研究した。 東京出身。東京帝国大学経済学部卒。日本鉄鋼協議会調査課長、政治経済研究所所員、理事長。東洋大学教授を務め、1981年定年、名誉教授。
阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996… 阿部 宗明(あべ ときはる、1911年4月3日 - 1996年8月9日)は、日本の魚類学者。とりわけ東アジアのフグの分類に関する業績を残している。1949年にフグ科の属としてトラフグ属を提案している。この他、数々の新種を発見し、また、献名も多く受けている。『日本産魚類図説』の編纂に第49巻より携わる。 1911年(明治44年)4月3日、東京の田端に生まれる。1919年(大正8年)、家族で台湾に移住する。1932年(昭和7年)に台北高等学校を卒業後、魚類学の道に進むため上京して東京帝国大学理学部動物学科に入学する。田中茂穂に師事する。1935年(昭和10年)、同学科を卒業し、東京帝国大学理学部大学院に進学する。
松谷 義範(まつたに よしのり、1911年4月3日 - 19… 松谷 義範(まつたに よしのり、1911年4月3日 - 1996年7月6日)は、日本の実業家、神学者。 山口県出身。1936年東京帝国大学文学部哲学科卒。教師、薬品メーカー勤務をへて、1948年東邦薬品を創設、社長となる。のち会長。神学の著作・翻訳も多く、演劇にも一家言を持つ。墓所は多磨霊園
金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010… 金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010年7月13日)は、日本の実業家。日興證券役員、日興證券投資信託委託副社長、日興ビルディング社長などを歴任。「奄美大島に於ける「家人」の研究」等、奄美の史料論文著者としても知られる。 鹿児島県瀬戸内町出身。奄美群島加計呂麻島の諸鈍生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1931年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1936年東京帝国大学経済学部卒業。三菱信託銀行から日興證券に転じる。日興證券本店債券部長(1957年)、金融法人部長(1959年)、取締役人事部長(1961年)、常務取締役(1963年)を歴任。
森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年… 森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年1月23日)は、日本の官僚、実業家。元通商産業省軽工業局長。元石油資源開発社長。 香川県三豊郡常磐村(現 観音寺市流岡町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。 1934年(昭和9年)商工省入省。特許、貿易、工務、機械、電力の各局を担当、電業課長、機械課長を務める。1939年(昭和14年)三豊中学の同級生であった蒙疆の張家口に勤務する大平正芳(大蔵省派遣の興亜院事務官)を訪問。 1943年(昭和18年)フィリピン島戦線に応召。三豊中学の頃から親しんで来た短歌に於いては、社会人になって間もなく斉藤茂吉が育てた結社「アララギ」に所属。
中島 隆太郎(なかじま りゅうたろう、1911年3月31日 … 中島 隆太郎(なかじま りゅうたろう、1911年3月31日 - 1998年11月1日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1932年に神戸高等商業学校を卒業し、同年4月に日本ペイントに入社。1963年6月に取締役に就任し、1968年12月に常務、1971年6月に専務を経て、1974年6月に副社長に就任し、1975年7月には社長に昇格。1981年7月には相談役に就任。 1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年11月1日肺炎のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
佐田 豊(、1911年〈明治44年〉3月30日 - 2017… 佐田 豊(、1911年〈明治44年〉3月30日 - 2017年〈平成29年〉7月[要出典])は、日本の元俳優。東京府東京市本郷区千駄木生まれ。本名同じ。旧芸名・別名は佐田 豊二、佐田 豊彦。 1928年、旧制京北中学校を卒業後、高松プロに入社。その後J.O.スタヂオの演技部に所属。当初は監督志望であったが、すぐに俳優へ転身し河合・大都映画の作品に多数出演する。 第二次世界大戦中は移動劇団にて活動し、映画では松竹作品に出演記録がある。 戦後は東宝と専属契約を結び成瀬巳喜男監督作品や特撮映画など数多くの作品に出演。中でも黒澤明監督『天国と地獄』での子供を誘拐される運転手・青木役が有名であり、佐田自身も最も好きな役だと語っている。
近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月… 近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月30日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、日本の数学史家、科学思想史家。元岡山大学法文学部教授。岡山大学名誉教授。文学博士。 岡山県に生まれる。岡山県立第一中学(現・岡山朝日高等学校)京都帝国大学文学部哲学科に入学。田辺元に師事する。その後東北大学に理科学生として在籍する。 昭和高等商業学校、第六高等学校で教授を務めた後、1952年(昭和27年)より岡山大学法文学部教授となった。 1946年(昭和21年)にゲーデルの赤い本を翻訳して出版した。
梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1… 梶谷 善久(かじたに よしひさ、1911年3月28日 - 1990年9月3日)は、日本のジャーナリスト。新聞記者、評論家。 大阪府出身。大阪商科大学(現大阪市立大学)卒。1937年(昭和12年)朝日新聞社入社、1942年(昭和17年)ジャワ島特派員。1949年(昭和24年)全朝日新聞労組委員長となり、1950年(昭和25年)レッドパージで解雇され裁判に訴え、勝訴・復職した。 朝日新聞では社会部、外報部、調査研究室、朝日ジャーナルなどに勤務。1966年(昭和41年)朝日新聞社を退職。 その後は文化学院、青山学院大学で講師を勤めたほか、アジア問題の評論などを書く。国際日本協会編集長、日朝文化交流協会理事長。
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 198… 松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。 1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽区(現・小樽市)生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)在学中、1933年(昭和8年)、コロムビアから「ミス・コロムビア」という覆面歌手として『浮草の唄』でデビューする。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために宣伝の写真にも目隠しをして彼女をデビューさせた。
堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月… 堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月27日 - 2001年(平成13年)4月13日)は、日本の彫刻家である。抽象彫刻の先駆者として知られた。 京都市の生まれ。幼年期より抽象的な彫刻作品に興味を持ち、その作品を制作し続けていた。後に上京し、1929年(昭和4年)に開催された第16回二科展において自身の作品を入選された事がきっかけで、当時通学していた東京高等工芸学校を中退した。その後青山学院大学やアテネ・フランセで彫刻学の教鞭を執る。 後に番衆技塾で藤川勇造の門人となるが、制作中に発生した第二次世界大戦における体制を批判したことによって、制作を一時中断する。親交が深かった辻晉堂との書翰には、橋本平八の彫刻造形や彼の「日本彫刻、西洋彫刻の異」についての考えに関心を持つ様子がうかがえる。
碓井 益雄(うすい ますお、1911年3月26日 - 199… 碓井 益雄(うすい ますお、1911年3月26日 - 1997年6月25日)は、日本の動物学者。 朝鮮・京城(現・ソウル特別市)生まれ。東京帝国大学理学部生物学科卒、1952年「有尾両棲類における重複肢に関する研究、特に肢の場の構造との関係について」で東京大学より理学博士の学位を取得。東京文理科大学教授、東京教育大学理学部教授。1974年定年退官、名誉教授。動物実験発生学専攻。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 19… 内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 1994年6月5日)は、日本の映画監督。宮城県加美郡小野田町(現・加美町)出身。 旧制神奈川県立逗子中学校卒。早稲田大学文学部在学中の1934年に長谷川一夫の勧めで松竹京都撮影所に入社し大学を中退。1943年に召集され、1947年に復職。1955年に東映京都撮影所に移籍。東映の路線転換によりテレビ部のディレクターに転身し、1963年にフリーとなった。 主にナショナル劇場『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』などのテレビ時代劇のディレクターとして活躍。『水戸黄門』では東野英治郎主演版第1部(1969年)から最終シリーズの第13部(1983年)まで足掛け13年半にわたり156本を担当し現役を退いた。
安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26… 安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26日 - 1994年(平成6年)10月6日)は、新東宝の第6代社長であり、国際放映の初代社長。福岡県北九州市生まれ。
大内田 正(おおうちだ ただし、1911年3月25日-199… 大内田 正(おおうちだ ただし、1911年3月25日-1998年3月5日 )は、日本の経営者。日立建機社長、会長を務めた。 福岡県出身。1933年に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に日立製作所に入社。 1963年11月に取締役に就任し、1968年11月に常務を経て、1970年9月に専務と日立建機取締役に就任し、1981年6月には社長に就任。1981年6月に会長に就任し、1985年6月に相談役に就任。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1998年3月5日腎不全のために死去。86歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月2… 長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月25日 - 2004年(平成16年)5月3日)は日本の実業家。元野村證券投資信託委託会長・野村證券専務。 大阪府に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業し、野村證券に入社する。1948年(昭和23年)に同社営業第一部長、1949年(昭和24年)に同社引受部長、1952年(昭和27年)に同社取締役、1959年(昭和34年)に同社常務、1962年(昭和37年)に同社専務を経て、1968年(昭和43年)に野村證券投資信託委託社長に就任する。1973年(昭和48年)に同社会長に就任し、1975年(昭和50年)に証券投資信託協会会長を務める。
川村 清一(かわむら せいいち、1911年3月23日 - 2… 川村 清一(かわむら せいいち、1911年3月23日 - 2004年7月16日)は、日本の政治家。参議院議員(3期・日本社会党)、北海道議会議員。 北海道小樽市生まれ。函館師範学校(現在の北海道教育大学函館校)卒。1946年北海道教職員組合情報宣伝部長、1948年浦河町立浦河第一中学校校長を経て、1955年日本社会党から北海道議会議員に初当選。1963年日本社会党北海道本部委員長。1965年の同党公認で第7回参議院議員通常選挙にて初当選。以後連続3期。参議院農林水産委員会理事を長く務め、1979年に再び同党北海道本部委員長に就任。横路孝弘の知事選の裏方役に徹し、横路道政誕生に尽力した。1983年横路知事の誕生と共に引退。
瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1… 瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1995年6月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1911年(明治44年)3月22日、長野県長野市に善光寺塔頭蓮華院の長男として生まれる。 旧制・長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)、旧制・姫路高等学校(現在の神戸大学)をそれぞれ卒業後、東京帝国大学に入学、同文学部で美術史学を専攻し、同学を1934年(昭和9年)に卒業した。卒業後、同郷の映画監督・池田義信の在籍する松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社した。池田のほか、深田修三、渋谷実に師事した。 1940年(昭和15年)、三浦光子主演の映画『女の気持』で監督に昇進した。第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、河村黎吉・吉川満子主演の『家に三男二女あり』を監督した。
田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - … 田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - 2001年3月8日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1961年)。日本学士院会員。京都府舞鶴市出身。
安井 謙(やすい けん、1911年3月22日 - 1986年… 安井 謙(やすい けん、1911年3月22日 - 1986年3月10日)は、日本の政治家。位階は従二位勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。 参議院議長(第13代)、参議院副議長(第11代)、自治大臣(第4代)、国家公安委員会委員長(第13代)、総理府総務長官(第14代)、参議院議院運営委員長(第16代)、自由民主党参院議員会長(第10代)同参議院幹事長、参議院議員(6期)。 兄は公選初代東京都知事を務めた安井誠一郎。弟は雪印食品副社長の安井三郎。 岡山県岡山市出身。旧制岡山第二中学校、旧制第六高等学校文科乙類、1935年、京都帝国大学経済学部卒業。京都帝国大学在学中は学生運動に参加し、左翼思想に傾倒していたため周囲から「マルクス坊や」と呼ばれていた。
加藤 僘(かとう ひろし、1911年〈明治44年〉3月21日… 加藤 僘(かとう ひろし、1911年〈明治44年〉3月21日 - 没年不明)は日本の実業家。 兄は元加藤商事社長加藤章。 鳥取県米子市出身。愛知県・豊吉の次男。父豊吉は米子にやって来て煉瓦や土管やセメント屋になり、鉄道工事建設の資材を納める仕事を始めた。 昭和10年(1935年)東大政治学科卒業、安田保善社に入り安田火災海上より昭和15年(1940年)住友金属工業に転じ燃料資材各課長、製鋼所業務部長、航空機器事業部営業部長、参与、調査役を経て昭和34年(1959年)9月住友鋼材工業監査役、11月大阪チタニウム製造取締役営業部長。 其間小倉汽船・尼崎製氷冷蔵各取締役、柏原機械製作所・日東産業・大塚鉄工所・三和金属各監査役を歴任。
宮本 忍(みやもと しのぶ、1911年3月21日 - 198… 宮本 忍(みやもと しのぶ、1911年3月21日 - 1987年8月18日)は、日本の外科医学者、日本大学名誉教授。 静岡県出身。東京帝国大学卒。国立東京療養所勤務、外科医長、1956年日本大学医学部教授。1981年定年退任、名誉教授。 肺結核の外科的治療を専門としたが、ほか社会評論など著作を多く書いた。
原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月2… 原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月21日 - 1995年〈平成7年〉7月)は、日本の書家、教育者。福岡県にて生まれ、戦前は東京都で教鞭を取り、戦後は福岡に戻って複数の幼稚園を開設した。後の日本習字教育財団を創立して日本全国で書道教育を推進したほか、海外の文化資料の蒐集を行った。開設した博物館である観峰館には蒐集した資料が所蔵されている。 本名は原田孝太郎。1911年3月21日、福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)に生を受ける。実家は酒樽の製造を営んでいた。教育熱心な父親の下に育ち、幼少期から書道を嗜み、また学問にも秀でていたとされる。当時は小野鵞堂の作品を手本として筆の練習をしていた。
森玉 美雄(もりたま よしお、1910年4月19日 - 19… 森玉 美雄(もりたま よしお、1910年4月19日 - 1943年4月8日)は、日本の小説家、詩人。兵庫県加古郡天満村(現・稲美町)出身。織田作之助が編集長格の雑誌「大阪文学」で見出された小説家。 短編小説『おふくの家出』(雑誌「大阪文学」2巻4号に発表)が第15回芥川賞推薦候補になる。活躍し始めてすぐの昭和18年4月8日に、結核のため32歳で死去。 1910年(明治43年)4月19日、大百姓の森玉柳祐の次男として生れる。母はえい。本名は作男。1911年(明治44年)に長女豊江、1916年(大正5年)に三女善枝が生れる。天満村立天満尋常小学校(現・稲美町立天満小学校)から兵庫県立小野中学校(現・兵庫県立小野高等学校)を経て、神戸高等商船学校(現・神戸大学海洋政策科学部)機関科に入学。
弥富 武(いやとみ たけし、1910年4月19日 - 197… 弥富 武(いやとみ たけし、1910年4月19日 - 1975年5月28日)は、日本の経営者。東京建物社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。1955年に取締役に就任し、1959年10月に常務を経て、1963年2月に東京建物副社長に就任し、同年8月には社長に昇格した。 1975年5月28日、急性心不全のために在任中に死去。65歳没。
東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18… 東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18日 - 1971年(昭和46年)8月4日)は、日本のバレエダンサー、振付家である。 宮城県仙台市で生まれた。1922年、12歳の時にアンナ・パヴロワの来日公演を横浜で鑑賞して感銘を受けた。旧制仙台二中(現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業後に上京し、1930年に当時鎌倉の七里ガ浜でバレエスクールを開いていたエリアナ・パヴロワの内弟子となってバレエの道に進むことになった。 後にパヴロワの元を離れ、蘆原英了が創設した「日本チェケッティ協会」に加入してバレエの研究に取り組んだ。一方で日劇を本拠地にして1934年に高田せい子の門下だった益田隆、浅草の「カジノ・フォーリー」で活躍していた梅園竜子とともに「益田トリオ」を結成して活動し、1936年に来日したオリガ・サファイアのパートナーも務め、サファイアからソビエトバレエについての知識を得た。
広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 19… 広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 1959年4月18日)は、日本の官僚、聖職者、教育者、翻訳家。文部省文部事務官、文部省宗教課文部属、日本聖公会の伝道師。 1910年(明治43年)4月17日、広島県沼隈郡郷村(現・福山市)にて、広安助一郎の三男として生まれる。 1923年(大正12年)、広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)へ入学。結核のため2年間の休学を経て、1930年に同校を卒業。青年期に兄・広安謙一の影響を受けてキリスト教を知るが、兄は、札幌農学校のクラーク博士の遺風を慕って、北海道帝国大学医学部に学び、後に旭川で開業医となっている。 1932年(昭和7年)3月25日に、地元の福山基督教会の司祭・横田金熊のもとで洗礼を受ける。
八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文… 八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文学者、俳人。 愛媛県生まれ。松山中学校、松山高等学校卒、1934年東京帝国大学文学部英文科卒。外務省嘱託、世界経済調査会主事、1946年明治大学文学部教授、1981年定年。俳句は1933年臼田亜浪に師事し「石楠」に拠る。1981年から『河原』に参加、俳号は八木絵馬。
保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年… 保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年〈明治43年〉4月15日 - 1981年〈昭和56年〉10月4日)は、日本の文芸評論家。多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆名も用いた。 奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れた際には竹内が案内役となった。 東京帝大在学中から大阪高時代の同窓生と共に『コギト』を主宰。高校時代のマルクス主義からヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒し、近代文明批判と日本古典主義を展開した。
篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975… 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。 旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
鍋島 綱利(なべしま つなとし、1910年4月14日 - 1… 鍋島 綱利(なべしま つなとし、1910年4月14日 - 1969年9月26日)は、日本の実業家。住友電気工業元社長。佐賀県鹿島市出身。 朝鮮総督府通信技手・鍋島鋼三の長男。1927年(昭和2年)に第五高等学校に入学、弓道部で主将を務めた。 1933年に東京帝国大学法学部を卒業し、住友電気工業に入社した。翌年には、高校の後輩でのち住友ゴム工業社長となる下川常雄も入社し、下宿先を貸し出した。1939年4月1日、第2期経理部甲種幹部候補生として陸軍経理学校に入学し、同年9月23日卒業。歩兵第56連隊(55連隊とも)附主計少尉として太平洋戦争を迎える。淡路山丸よりコタバル上陸作戦に参加。翌年2月のジョホール水道上陸作戦では自ら戦線を志願し、背中に銃創を負う。