若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 … 若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 - 1999年12月25日)は、日本の日本史学者。 京都府出身。1936年京都帝国大学文学部国史学科卒。金沢大学教育学部助教授、奈良女子大学教授を務め、1972年定年退官、龍谷大学教授、大手前女子大学教授を務めた。能登地方の市町村史誌を数多く手がけたことから「能登守」と呼ばれた。
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若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 … 若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 - 1999年12月25日)は、日本の日本史学者。 京都府出身。1936年京都帝国大学文学部国史学科卒。金沢大学教育学部助教授、奈良女子大学教授を務め、1972年定年退官、龍谷大学教授、大手前女子大学教授を務めた。能登地方の市町村史誌を数多く手がけたことから「能登守」と呼ばれた。
田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18… 田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18日-2000年(平成12年)7月8日)は日本の書家。全日本書芸文化院名誉代表。本名は田上重利。 1908年(明治41年)4月18日、熊本県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業する。1933年(昭和8年)に田代秋鶴に師事し、書を始める。教職の傍ら、書学に励み、1938年(昭和13年)に文部省検定(文検習字科)に合格する。 共立女子専門学校、白百合女子大学で書道の指導にあたり、1950年(昭和25年)に日本書道美術院審査員、1951年(昭和26年)に全日本書芸文化院副会長、1965年(昭和40年)に日本書道美術院理事、1971年(昭和46年)に全日本書芸文化院代表を歴任する。
三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 199… 三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 1990年10月16日)は、日本の地球化学者。東京教育大学教授。 岡山県岡山市にて誕生。岡山県立岡山中学校、静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1931年東京大学理学部化学科を卒業。 北海道大学理学部助手、中央気象台、同台研究部(戦後はそのまま気象庁・同庁気象研究所に改称)勤務。1940年 東京大学にて、「西部北太平洋の海洋科学」の論文で理学博士号を取得。 1957年、東京教育大学教授。 1954年のビキニ事件を発端にビキニ周辺海域・大気の放射能汚染を調査、研究し、高い評価を得た。以後、海洋や大気の放射能汚染の危険性を訴えつづけた。第五福竜丸の船体の保存にも尽力。
神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月… 神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月16日 - 1986年(昭和61年)8月25日)は、日本の農業経済学者。京都大学名誉教授。専門は農業経営学で、農家家計経済、農村社会学的日本農民論、近代経済学的農業経営論を主に研究。農学博士。 鹿児島県姶良郡清水村(現:霧島市)の後の国分清水地域出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1931年(昭和6年)3月に第五高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1934年(昭和9年)3月に京都帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、同年9月より朝鮮総督府技手。旧制五高・京大在学中は学生野球選手で、京大では関西六大学リーグ優勝を経験。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部教務嘱託、同年7月京都帝国大学農学部助手就任、1941年(昭和16年)3月京都帝国大学農学部講師嘱託。
泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1… 泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1967年11月1日) は、剛柔流を学んだ空手の達人。神奈川県川崎市に本部を置き、東京、大阪、大田、神奈川県に支部を持つ泉武館道場の創始者。 沖縄県那覇市で武家のもとに生まれる。 東恩納寛量の高弟許田重発(那覇テ)に師事し、宮城長順(剛柔流の創始者)と修身を受けた。 日本本土で剛柔流や比嘉世幸の伝統を広め、空手道を広めるために南米に渡り、新館県を設立。先輩学生には、荒川武仙(倫武館)、市川素水(素水館)、高頭勉(太田仙館支部長)、原田彪太朗(誠心塾)、ケネス村上(ハワイ・仙室)、吉丸京社が含まれる。 泉武館道場は1939年に設立された。 泉武館道場は泉川寛文に受け継がれ、後に泉武会と改称。
杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 19… 杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 1972年5月11日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)生まれのプロ野球選手(外野手)・監督。ハワイ移民の日系2世。
松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 199… 松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 1992年11月14日)は、日本銀行の理事。
渡辺 三男(わたなべ みつお、1908年4月15日 - 20… 渡辺 三男(わたなべ みつお、1908年4月15日 - 2000年2月1日)は、国文学者、博士。駒澤大学教授。専門は中古文学。 1961年3月『中国の文献に見える日本語文資料の研究』で博士号(国文学、駒澤大学)取得。駒澤大学文学部国文学科助教授を経て、教授に就任。同大学文学部国文学研究室の代表などを務める。 著書に「紫式部日記要解」「大鏡要解」など。 渡邊 梢(わたなべ しょう)の別名もあり、その名義では1冊のみ著書がある。 2000年2月1日、肺炎のため死去。 「国立国会図書館サーチ」を参照 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 20… 鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 2017年9月10日)は、日本の政治家。浮羽町長(6期)を務めた。 1908年4月14日、福岡県浮羽郡浮羽町(現うきは市)に生まれる。1935年、福岡師範学校(現福岡教育大学)専攻科卒業。1941年3月、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験日本史東洋史に合格し、1942年1月より、福岡県学務部社会教育課兼学務課勤務となった。その後、三井地方事務所教育課長、教育庁三井出張所長、糟屋出張所長、福岡県教育委員会社会教育課長を歴任し、1963年8月に福岡県国民健康保険課長在職時に退職した。1969年12月、浮羽町長に無投票で初当選した。1981年11月21日、無投票で6選を果たした。
湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13… 湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13日 - 1994年(平成6年)10月19日)は、日本のアララギ派の歌人。ペンネーム: 杉 鮫太郎(すぎ さめたろう)、岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1908年(明治41年)岡山県岡山市に住む父・湯浅立太郎、母・いなよの長男として出生する。その後、父が警察官であるため、岡山県内を転々と転勤し、岡山市内の小学校から、旧制岡山県立第二中学校(現:操山高校)入学を経て、旧制津山中学(現:津山高校)、旧制高梁中学(現:高梁高校)へ転校する。高梁中学を1928年(昭和3年)に卒業する。 同年(昭和3年)、岡山県警察部へ就職し、通信技手として働く。
秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年… 秦 藤樹(はた ふじき、1908年4月13日 - 2004年3月25日)は、日本の医師。医学者。専門は微生物科学。元北里大学学長。旧姓は藤松。細菌学者の秦佐八郎の養子となった。 長野県東筑摩郡会田村(現・松本市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒業。内科入局、助手、1934年12月 - 1936年3月、短期現役軍医、1936年北里研究所研究員となり(生化学、藤田秋治部長)、1938年7月 - 1945年12月、軍務(山西省陸軍病院、東京第一陸軍病院)、1939年医学博士。論文の題は「組織内Cytoclirom C定量法の研究」。 1948年北里研究所同研究所長、1954年8月-1955年11月、ラトガース大学微生物研究所留学、1961年北里研究所所長。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月1… 山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月11日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、日本の洋画家、教育者。長崎県長崎市出身。 代表作に「長崎の唐寺境内」、三部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」など。 1908年(明治41年)、長崎県長崎市に生まれる。 1933年(昭和8年)に大阪美術学校を卒業、同年第1回東光展に作品が入選。 1937年(昭和12年)より郷里長崎県に戻り、長崎市立商業学校の教諭を務める。 戦後の1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて3年連続で日展に出品した3部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」が全作入選した。 1966年(昭和41年)に東光会委員に推挙を受け、1969年(昭和44年)には東光会審査員を務める。
田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 197… 田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 1977年7月19日)は、日本の植物学者。シダ植物の分類学的な研究で知られる。 1908年、大阪府大阪市で、3人兄妹の次男として生まれた。兄は陶芸家の田川基一、弟は独文学者の田川基三。 1930年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に入学、植物学教室で小泉源一に師事した。同時期には大井次三郎や北村四郎も在籍していた。1933年に同大学を卒業し、大学院に進学、本格的にシダの研究を始めた。 1939年に理学部副手を嘱託されたため、大学院を退学、1942年に理学部講師となる。1953年に助教授、1970年に教授へと昇進し、研究、教育活動を行った。1972年に定年退職、京都大学名誉教授となった。
高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1… 高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1993年4月20日)は、日本の経営者。アサヒビール社長、会長を務めた。高橋龍太郎の長男。 愛媛県喜多郡内子町出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友銀行に入行。京都支店長、取締役、常務、専務などを歴任し、1967年3月に副頭取に就任した。1971年2月に朝日麦酒社長に就任し、1976年2月から1980年3月までに会長を務めた。金蘭会学園理事長も務めた。 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1993年4月20日急性呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - … 小林為太郎(こばやし ためたろう、1908年4月10日 - 1985年11月12日)は、日本の弁護士である。 高知県幡多郡下川口村大津(現在の土佐清水市)出身。旧姓・上岡為太郎。長男は元・タレント漫才師の上岡龍太郎。映画監督の小林聖太郎、兄弟お笑いコンビのミキは孫に当たる。 1908年(明治41年)4月10日、上岡岩吉、マサノの三男として出生。高等小学校卒業後、しばらく村の三等郵便局に勤務するが、18歳までサツマイモを作ったり、テングサをとったりイカ釣りをしていた。その間、独学で小学校教員資格試験を三度受験する。 1926年(大正15年)3月、働きながら勉学する決心をして高知市に出る。キリスト教系団体によって運営されていた『学生労働会』に入り、牛乳配達をしながら自学する。
古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日… 古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日 - 1997年〈平成9年〉11月23日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱罪で有罪となった海軍中尉である。戦後、不二人と改名し、不二流体術を創始。 長崎県佐世保市で生まれ、佐賀県佐賀市で育つ。佐賀中学を経て、1928年、海軍兵学校56期卒。王師会会員となる。 1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる。 1932年(昭和7年)五・一五事件では牧野伸顕邸や警視庁を襲撃。 事件後、横須賀鎮守府軍法会議で反乱幇助罪に問われ、禁錮15年の刑を受け失官。小菅刑務所に服役する。これにより従七位を失位、大礼記念章(昭和)を褫奪された。
宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 197… 宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 1970年6月22日)は日本の教育学者、東京大学名誉教授。同僚の勝田守一(教育学)、宮原誠一(社会教育学)と並び、「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。
斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 … 斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 - 1988年(昭和63年)5月25日)は、昭和時代の日本の化学者。 東京府出身。東京帝国大学理学部卒業。1953年(昭和28年)東京工業大学教授、1968年(昭和43年)同大学長となる。翌年の1969年(昭和44年)5月、長期学生ストなどの責任を取り辞任。触媒の研究で1964年(昭和39年)石油学会賞を受賞。ほか、石油学会理事・同会長、学術奨励審議会専門委員、触媒学会会長、有機合成化学協会会長などを歴任した。
大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 … 大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 - 1959年(昭和34年)1月12日)は、日本の政治家である。
入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4… 入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4月8日 - 1999年(平成11年)6月8日)は、日本の日本経済史学者、早稲田大学名誉教授。 早大卒、早大商学部教授を1978年まで務め、徳川時代の経済史、および幕末土佐藩史を研究した。兄は坂本龍馬の銅像を建てた入交好保。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
野村 千春(のむら ちはる、1908年(明治41年)4月6日… 野村 千春(のむら ちはる、1908年(明治41年)4月6日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の洋画家。夫は児童文学者、歌人の巽聖歌。結婚後、東京都日野市に居住し、創作活動を行なった。 諏訪郡平野村(現:岡谷市)の豪農の二女として生まれた。三女一男の家であった。 平野高等女学校(現:長野県岡谷東高等学校)時代、同校の教師だった諏訪郡原村出身の洋画家 清水多嘉示に画才を認められて画家を志した。1925年、同校を卒業後、父の反対を押し切って上京し、キリスト教伝道者の姉・菊枝の下に身を寄せる。1929年、洋画家 中川一政に内弟子として師事し、春陽会研究所に学ぶ。その後、同郷の武井直也から彫刻を学び、妹・百代とともに武井家に留守番として住まわせてもらう。
岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 199… 岡本 理一(おかもと りいち、1908年4月6日 - 1992年12月2日)は、日本の経営学者・商学者。専門は、中小企業経営論。元・旭川大学学長。元・札幌大学学長。小樽商科大学名誉教授。 京都府亀岡市出身。桃山中学校(旧制)(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。1932年関西大学第二部商科卒業。1936年(昭和11年)神戸商業大学卒業。その後、小樽高等商業学校講師を経て、1940年(昭和15年)小樽高等商業学校教授。1951年(昭和26年)小樽商科大学商学部教授。1970年(昭和45年)小樽商科大学停年退官。同名誉教授。札幌大学学長代行代理。1971年札幌大学学長。1974年札幌大学学長を退任。
永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 198… 永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 1983年4月18日)は、日本の国文学者、民俗学者、翻訳家。 神奈川県横浜市生まれ。1931年東洋大学卒。兵庫県の公立高校の教員、校長を経て文筆家。古典文学、日本神話、民俗学、芸能などについて執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日… 野崎 利夫(のざき としお、1908年〈明治41年〉4月4日 - 1989年〈平成元年〉4月11日)は、日本の新聞記者、経営者。プロ野球中日ドラゴンズ球団社長を務めた。愛知県豊橋市出身。 第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、1936年に新愛知新聞社に入社。 新聞記者として勤務し、名古屋タイムズ社社長を経て、1962年には中部日本新聞社(現在の中日新聞社)取締役に就任。1964年には球団史上初めての中日ドラゴンズ球団社長に就任し、1967年までに務めた。 1989年4月11日食道ガンのために死去。81歳没。 著書に「天国と地獄の間」がある。
杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000… 杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島2丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。 杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。
奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1… 奈良岡 良二(ならおか りょうじ、1908年4月2日 - 1992年6月2日)は、日本の陸上競技(競歩)選手、保健体育学者。青森県出身。1936年ベルリンオリンピックに50キロメートル競歩で出場した。競歩競技では日本初のオリンピック選手である。 青森県南津軽郡浪岡町(現青森市浪岡)出身。実弟の奈良岡健三ものちに競歩選手となる。 青森県師範学校に学び、在学中は短距離走・駅伝からスキーまでをこなした。同校を卒業し、1931年に東京に出る。「いつでもトレーニングできる種目」として競歩を選んだといい、競歩がオリンピック種目として復活すると、1936年ベルリンオリンピックに向けて計画的にトレーニングを重ね、国内予選を突破して日本代表選手に選ばれた。
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日 - 1987… 亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日 - 1987年2月27日)は、日本の映画監督。 福島県原町(現・南相馬市)生まれ、幼少時に仙台市門前町に転居し、南材木町尋常小学校(現・仙台市立南材木町小学校)に通う。早稲田中学校卒業。 1928年 - 文化学院大学部を中退後、ソビエト美術を学ぶため1929年にソビエトへ渡る。ソビエトで見た映画に感動し、映画の道を志し、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になったのが映画監督になるきっかけ。 特に記録映画の分野で活躍し、社会派の記録映画とともに、自然科学分野の記録映画、企業映画などもつくった。日中戦争では反戦的ともみえる映画を撮ったことで上映禁止処分や治安維持法違反で逮捕・投獄を受ける要因となり、戦後は日本の帝国主義侵略を告発した映画がときの権力層の何らかの忌諱に触れ、GHQから上映禁止処分を受ける要因となっている。
許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1… 許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾の政治家・医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある。また、日本で3人目の女性医師である。 1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた。日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した。 台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日… 真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日 - 2001年〈平成13年〉11月14日)は、日本の外交官。1959年から1964年までと1969年から1989年まで宮内庁で昭和天皇の通訳を務めた。 陸軍大将の真崎甚三郎は父。貴族院議員の長谷川赳夫は妻の父。 佐賀県出身。東京府立第四中学校、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業。1934年に外務省情報部嘱託。1939年に外務省翻訳官。1940年に大使館二等通訳官・中華民国・上海駐在。1941年にアメリカ在勤。1942年1月に中華民国在勤、上海駐在、9月に一等通訳官、10月に帰国。1943年5月に陸軍通訳官・比島軍政監部付、10月に大使館三等書記官を歴任。
塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 197… 塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 1971年6月4日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は植物栄養化学。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1930年(昭和5年)東京帝国大学理学部化学科卒業。台湾総督府工業研究所技師、第一高等学校教授、東京大学教授を経て、東邦大学教授在職中の1971年(昭和46年)逝去。
成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 199… 成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 1992年3月17日)は、日本の建築家。宮城県仙台市出身。1950年に国鉄施設局建築課長となり、鉄道建築の総締めの地位につく。位階は従五位。 国鉄の建物の多くは木造であり、成田は建築物の不燃化に取りくみ、「不燃化の成田さん」として知られた。 終戦直後の1945年10月、伊藤滋鉄道省建築課長から「鉄道に来てくれるような良い建築技師が軍にいないだろうかと相談を受けた」のちに同僚となる太田和夫は成田春人を陸軍航空本部に訪ねた。成田は同僚の井上英彦と高山馨を誘うことを約束し、同年12月に3人が鉄道省に入ることになったという。 井上英彦によると木造の格納庫建築のために木造大張間構造の実現が求められ、陸軍航空本部では木材の接合部の処理を釘とジベルの2つとし、釘は高山馨、ジベルは成田が中心となって担当することとなり、いずれの工法も成功して鋼材の節約に貢献したという。
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30… 沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日 - 1988年〈昭和63年〉5月5日)は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・高崎市京目町)に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる。生家の反町家は庄屋の家柄で、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。 地元の京ヶ島小学校を経て、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業。
田中 重弥(田中 重彌、たなか しげや、1908年(明治41… 田中 重弥(田中 重彌、たなか しげや、1908年(明治41年)3月30日 - 1993年(平成5年)2月25日)は、日本の出版実業家、俳人、衆議院議員(2世議員)。雅号は茂哉(しげや)。田中弥助の長男。 長野県長野市に生まれる。1926年(大正15年)旧制長野商業学校卒業。父業を継いで第一法規出版社長となる。1950年(昭和25年)、全法令を網羅した『現行法規総覧』全100巻を出版して行政関係者必備の書との声価を得て、1953年(昭和28年)から日本の古今の全裁判例を網羅した『判例体系』全300巻を刊行した。さらに一般書籍まで出版を広げ、美術書「光悦」、歴史書「日本政治裁判史録」は毎日出版文化賞特別賞受賞。
花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 -… 花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 - 1997年1月4日)は、日本の財界人。従三位。 福岡県飯塚市生まれ。嘉穂中学校 (旧制)、山口高等学校 (旧制)を経て、1932年東京帝国大学経済学部を卒業。 卒業後、国立福岡少年院教官を経て、1942年に東大経済学部時代の同期であった帆足計に誘われ、経団連の前身である重要産業協議会に入り、1946年経済団体連合会(経団連)の設立に伴い、総務部次長となる。 1953年から1954年の海運造船疑獄事件で政治献金への世間の不信が高まったのをきっかけに、当時、経団連副会長であった植村甲午郎の下でそれまでの個々の企業からの献金をやめ、経団連を通じての自由民主党への献金システム作りを担当、企業献金に関わるようになり、後に財界政治部長の異名を取る。
朝長 正軌(ともなが まさのり、1908年3月30日 - 1… 朝長 正軌(ともなが まさのり、1908年3月30日 - 1999年10月21日)は、日本の経営者。JCB社長を務めた。長崎県出身。 1933年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1962年11月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1967年11月に専務に就任。1970年7月にJCB社長に就任し、1981年2月から相談役を務めた。 1999年10月21日心不全のために死去。91歳没。 妻は、全日本テニス選手権の女子ダブルスで優勝(1948、49、51 - 55年)した、テニス選手の朝長慶子。
久保田 音二郎 (くぼた おとじろう、1908年 <明治41… 久保田 音二郎 (くぼた おとじろう、1908年 <明治41年> 3月30日 - 1979年 <昭和54年> 7月1日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 大阪市住吉区安立町生まれ。1931年関西学院高等商業部卒業。1934年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。平井泰太郎ゼミで会計学を専攻した。同年関西学院高等商業学校講師。1938年同教授。1941年山口高等商業学校教授。1945年神戸経済大学助教授。1949年神戸大学教授。1954年経営学博士の学位を取得。1962年神戸大学経営学部学部長。1965年企業会計審議会委員。1968年日本学術会議会員。1971年神戸大学名誉教授、関西学院大学教授。
井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - … 井野川 利春(いのかわ としはる、1908年3月30日 - 1976年6月16日)は、岡山県玉野市出身のプロ野球選手・監督・審判員。 関西中学校在学時代から捕手。明治大学ではレギュラーをつとめる。その堂々たる体格は「その面貌、あくまで頑猛無比」と称された。1931年の日米野球にも日本代表として選出される。 1932年に明治大学を卒業後、当時九州の実業団で強豪と謳われた門司鉄道局に入局。中心打者として1936年には監督兼任捕手としてチームを都市対抗野球大会覇者に導き、この年導入された「橋戸賞」の初代受賞者に輝いている。その間の1934年には日米野球の全日本選抜メンバーに選出され、全18試合中11試合に出場し、23打数8安打1本塁打,打率.348とチームトップの成績を残した。
池田 辰巳(いけだ たつみ、1908年3月30日 - 196… 池田 辰巳(いけだ たつみ、1908年3月30日 - 1969年7月10日)は、長崎県長崎市出身の実業家・政治家。自由民主党所属。長崎県議会議員(4期、1958年~1969年)、長崎県議会議長(1969年)。長崎県議会議長在職中に刺殺された。 1908年(明治41年)3月30日、長崎県長崎市大黒町に生まれた。学歴こそ低いが、度胸や行動力のある人物だったとされる。 温泉街である南高来郡小浜町(現・雲仙市)で、遊廓、旅館、映画館の小浜映劇などを経営した。 1958年(昭和33年)3月、馬渡謙蔵の死去に伴う補欠選挙によって長崎県議会議員に初当選し、1961年(昭和36年)には自由民主党長崎県連幹事長に就任した。
石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1… 石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1973年10月19日)は、医師、病理学者。父は同じく医学博士の石川日出鶴丸。別名「石川 太刀雄丸」(いしかわ たちおまる)、「石川 大刀雄」いしかわ たちお)。 1908年、石川日出鶴丸の息子・太刀雄丸として富山県射水郡下村で誕生。本人の弁によると、自分としては太刀雄であるが戸籍係の間違いで丸の字がついたのだ、といわれている。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年、京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、同大医学部講師に就任。1938年、医学博士の学位を取得した。京都帝国大学の病理学者清野謙次の勧めで、大日本帝国陸軍技師として満州国にわたった。
平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3… 平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3月29日 - 1980年 <昭和55年> 9月19日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1932年に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年5月に日動火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1962年6月に常務、1964年1月に専務を経て、1966年2月には社長に就任。1969年5月から1972年6月までに会長を務めた。 19809月19日急性腎不全のために死去。72歳没。
杉田 馨子(すぎた けいこ、1908年(明治41年)3月29… 杉田 馨子(すぎた けいこ、1908年(明治41年)3月29日 – 1992年(平成4年)12月23日)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓塚本。 東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。実家は精密機械製造・輸入業を営んでいた。1930年日本女子大学高等学部英文科卒。萬朝報の記者だった杉田省吾と結婚。その後は北京中央広播電台放送科に勤務する。1946年の第22回衆議院議員総選挙に茨城県から公職追放により立候補不可となった夫に代わって日本自由党公認で立候補して当選した。同年暮れに夫が死去した。 翌年の総選挙で茨城3区から立候補したが落選。落選後の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
相磯 貞三(あいそ ていぞう、1908年3月28日 - 19… 相磯 貞三(あいそ ていぞう、1908年3月28日 - 1960年4月13日)は、日本の国文学者。 静岡県出身。國學院大學文学部国文科卒。1960年「記紀歌謡論」で國學院大学文学博士。慶應義塾大学文学部教授。52歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
植村 敏夫(うえむら としお、1908年3月28日 - 19… 植村 敏夫(うえむら としお、1908年3月28日 - 1995年5月5日)は、日本のドイツ文学者。 宮崎県宮崎市郊外に生まれる。1932年東京帝国大学独文科卒。NHK勤務。満洲国建国大学助教授。戦後、NHK嘱託。文化放送教養部長、1966年「ゲーテと音楽」で日本大学文学博士、日本大学法学部教授。1979年定年退任。1995年5月5日、肺炎のため死去。
穂刈 四三二(ほかり しさんじ、1908年3月28日 - 2… 穂刈 四三二(ほかり しさんじ、1908年3月28日 - 2004年1月2日)は、日本の数学者。旧・東京都立大学名誉教授、元城西大学学長 元中央ゼミナール校長 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
川村 琢(かわむら みがく、1908年3月28日 - 199… 川村 琢(かわむら みがく、1908年3月28日 - 1993年3月19日)は、日本の農学者・経済学者。学位は、経済学博士(東北大学・論文博士・1961年)(学位論文「農産物の商品化構造」)。昭和期の農業経済学の大家。北海道大学名誉教授。1990年勲三等瑞宝章受章。秋田県大曲市(現・大仙市)生まれ。 1929年弘前高等学校卒業。1932年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。 同法文学部助手。1934年北海道帝国大学農学部助手。1940年北海道農業研究会常任幹事。 1942年治安維持法違反容疑で拘禁(北海道農業研究会事件)。1945年GHQ指令で釈放。 北海道農業会農業経営調査課長。1948年北海道信用農業協同組合連合会参事。
渡辺 操(わたなべ みさお、1908年3月28日 - 197… 渡辺 操(わたなべ みさお、1908年3月28日 - 1970年2月20日)は、日本の地理学者。北海道の地域研究で知られる。 1908年、北海道根室市で生まれた。小学校を卒業後、北見や小樽などで小学校教員となった。幼少の頃から地理学に関心をもっており、勤務の傍ら18歳ごろからほぼ独学で北見のハッカ、羊蹄山麓の農業など北海道各地の実態調査を行っていた。1938年、研究を深めるために明治大学専門部文科に入学。1942年に卒業し、文部省図書局勤務に勤務した。 戦後、1946年に明治大学講師に就いた。同時に農林省開拓研究所研究員も兼任し、その調査結果はその後の開拓行政の大きな指針となった。1948年に教授昇格。