満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 19… 満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 1994年8月22日)は、日本の陶磁器研究者。 三重県生まれ。1930年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。大和文華館勤務、1968年京都市立芸術大学教授。1972年滴翠美術館館長。1974年大手前女子大学教授、1986年退任。1987年小山富士夫記念賞功績褒章受章。1994年8月22日、肺癌のため死去。 数代前の先祖に佐賀藩士で儒学者の満岡允成(俗称:一兵衛、白里)がいる。
佐治 誠吉(さじ せいきち、1907年(明治40年)1月2日… 佐治 誠吉(さじ せいきち、1907年(明治40年)1月2日 - 1995年(平成7年)9月17日)は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員、滋賀県大津市長。 滋賀県甲賀郡、のちの甲南町(現甲賀市甲南町)で生まれた。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大同元年(1932年)10月、満州国の大同学院を卒業した。 以後、満州国総務庁属官、同人事処弁事、泰康県参事官、北満特別区公署事務官、三江省事務官・警務庁司法科長、同国境警察科長、黒山県副県長兼地籍整理局事務官、三江省理事官、錦州省長官房地方科長、興安東省長官房総務科長兼人事科長、大同学院教官・第一錬成部長、綏化県副県長などを歴任した。
奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 197… 奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 1978年12月23日)は、日本の児童文学作家。宮城県仙台市出身。東京商業学校(現在の一橋大学)卒業。本名:山田三郎。 小川未明に師事する。 1952年、『まいごのドーナツ』で第1回小学館児童文化賞受賞。1959年、『とけいの3じくん』で文部大臣賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳原 正之(やなぎはら まさゆき、1907年〈明治40年〉1… 柳原 正之(やなぎはら まさゆき、1907年〈明治40年〉1月2日 - 1989年〈平成元年〉10月28日)は、昭和期の農業技術者、政治家。長野県長野市長。位階は正五位。 長野県更級郡八幡村(現千曲市)で、柳原慶助、ゆみ の二男として生まれた。1924年(大正13年)3月、更級農業学校(現長野県更級農業高等学校)を卒業。 1928年(昭和3年)八幡村農会技手となり、1934年(昭和9年)長野県技手、1941年(昭和16年)農商務省技手、1944年(昭和19年)長野県農林技師、1951年(昭和26年)特産課長、1953年(昭和28年)農業改良課長、1955年(昭和30年)下伊那地方事務所長、1957年(昭和32年)地方課長、1959年(昭和34年)人事課長、1960年(昭和35年)人事委員会事務局長、1961年(昭和36年)企業局電気部長を歴任した。
岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1… 岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1月2日 - 1958年(昭和33年)8月14日)は、日本の文芸評論家。 山口県吉敷郡小郡町(現山口市)に生まれる。家が貧しいため、中学進学ができなかったので、小郡の変電所に勤務するが、学業への意志は強く、鴻城中学校の編入試験に合格した。卒業後は早稲田大学に進み、英文科に所属するも、そのころから社会運動にかかわり、何度か検挙され、結局大学は中退という形になった。 その後、会社勤めをしながら評論を書くことを志し、1938年に評論家としての最初の文章が『中央公論』に掲載される。この時期、活発に評論活動を行い、1941年5月3日の『朝日新聞』には「全国民を動かす政治的指導が絶対に必要である。
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日… 人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。
岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 19… 岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 1982年10月23日)は、日本の経営者、工学博士。高知県出身。 1935年に大阪帝国大学工学部機械学科を卒業し、同年にクラレに入社。1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1972年1月に学位を取得した。 1982年10月23日腎不全のために死去。75歳没。
清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)… 清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)は、日本の俳優。本名:清水 元義。父は清水新報社社長の清水平吉、長男はNHKディレクターの清水満、娘は『鉄腕アトム』のアトム役の声で知られる声優の清水マリ。 東京市神田区松永町出身。中央大学商学部卒業。 父の平吉が経営する広告代理店・清水新報社での勤務を経て、1937年に村瀬幸子・北村喜八夫妻が創立した芸術小劇場に入団し、新劇俳優として舞台を踏む。戦時中は移動演劇隊に入り、戦後は劇団炎座の舞台に立った。1953年以降は映画俳優に専念し、以降はテレビドラマにも出演した。 映画デビューは1940年に公開された『田園交響楽』。戦後も菅井一郎らの第一協団に参加する傍ら、各社の映画に出演。
小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 19… 小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 1990年7月6日)は、日本の地質学者。東京農業大学教授を務め、1980年定年。地すべりで一度崩れたところは当分は危険がない「地すべり免疫論」の論陣を張る。また、治水については水防林の効用を主張した。 兵庫県出身。実家はもとは出石藩の家老の家柄。第六高等学校から、1934年東京帝国大学農学部林学科卒業。同年から北海道帝国大学農学部に助手として勤務。その後東京帝国大学理学部地質学科に再入学する。 1943年地質調査所に勤務。その後林野庁勤務をへて東京農業大学、また経済安定本部資源調査会に勤めるかたわら、宇都宮大学や秋田大学で非常勤講師を務めた。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1… 安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉8月3日)は、日本の能楽師(大鼓方)である。位階は従五位。 群馬県前橋市に生まれる。叔母の太鼓の師であった清水正徳に跡継ぎがいなかったことから、11歳の時に上京してその弟子となり高安流の大鼓方を学ぶ。1919年(大正8年)に『猩々』にて初舞台を踏む。1927年(昭和2年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)邦楽科を卒業。 1937年(昭和12年)から1977年(昭和52年)まで母校の東京芸術大学で講師として教鞭を執った。1927年(昭和2年)には兵隊検査により、第二次世界大戦が終戦するまで数回にわたり兵役となった。
有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 199… 有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 1991年7月6日)は、日本の厚生官僚。医師。医学者、軍人。医学博士。専門分野は内科学。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の子として生まれる。1932年北海道帝國大學医学部卒業。1937年同大学院(旧制)修了。1937年同医学部助手。その後、兄たちが所属する日本陸軍の衛生局に入隊。軍医となる。1944年北海道帝國大學で「Allergenに関する研究」にて医学博士を受く。1945年終戦により日本陸軍を離任。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年厚生省に入省。その後、北海道旭川保健所長。国立北海道第二療養所(現国立病院機構北海道医療センター)所長。
座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月… 座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県駒ヶ根市長。 長野県下伊那郡上飯田村(現・飯田市)で、座光寺和作、ゆきの二男として生まれた。上飯田高等小学校卒業後、飯田の松濤義塾に学ぶ。1924年(大正13年)4月、上飯田町役場に入り、1933年(昭和8年)長野県庁に転じ長野県書記となり、学務部社会課勤務、飯田職業紹介所勤務、長野県職業課勤務、知事官房秘書課勤務、下伊那地方事務所兵事厚生課長、同総務課長を歴任した。1947年(昭和22年)6月、飯田市助役に就任し、1956年(昭和31年)6月、駒ヶ根市助役に転じた。
伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1… 伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1944年12月11日)は、宮城県遠田郡涌谷町出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は深山 静。170cm、120kg。最高位は西前頭15枚目。 1923年1月初土俵、1932年2月十両昇進。1935年5月新入幕したが、わずか2場所の在位で1936年1月廃業し、茨城県日立市で割烹を経営、のちに北海道に渡ったが、戦時中に若くして亡くなった。 色白の肥満体で玉のようにきれいで(本名も女性っぽい静)、明治の横綱・小錦のようとも言われたが、小錦と違い出足に欠けて勝ち味が遅かった。
小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 19… 小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 1990年2月11日)は日本の経済学者。証券経済論。
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 -… 内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の軍医。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士。 京都府綾部町出身。茨木中学校、旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、1931年(昭和6年)に卒業。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる。 1937年(昭和12年)からヨーロッパ、アメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験にも関わったとされる。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月… 立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月26日 - 1990年 <平成2年> 10月13日)は、日本の銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 東京都出身。1929年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月から1975年12月までに山陰合同銀行頭取を務めた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年10月13日肺炎のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - … 松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - 1991年1月7日)は、日本の仏教学者、真宗学者。金子大栄、 曽我量深に師事。 大谷大学名誉教授、元学長。 1906年、福井県大野市生まれ。旧制福井県立大野中学校(現福井県立大野高等学校)卒。大谷大学卒。大谷大学教授、学長。1980年退任、名誉教授。真宗大谷派円徳寺元住職。
石澤 守雄(いしざわ もりお、1906年12月24日 - 1… 石澤 守雄(いしざわ もりお、1906年12月24日 - 1979年4月8日)、日本の内務官僚。京都府副知事。 東京帝国大学法学部卒業。内務省役人として京都府に赴任、鹿児島県庁に転勤後、蜷川虎三京都府知事の要請で京都に呼び戻され、京都府副知事として、蜷川府政7期(28年間)のうち3期を支え、赤字財政を立て直した。 蜷川は退任後こう語る。 夫人の石澤千恵子(日本女子大出身)の父は初代・岡田春夫で、実兄は2代目・岡田春夫(衆議院副議長を2期務める)で、実弟は岡田晃(外交官)。他に岡田豊(フジサンケイグループ取締役)がいる。 石澤守雄亡き後も、石澤千恵子は保護司や更生保護女性会長、名誉会長として活動した。
岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は… 岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は、日本のヤクザ、実業家。暴力団・三代目山口組舎弟。三友企業 社長。神戸生コン運輸社長。全国港湾荷役振興協会理事兼神戸副支部長。岡山県倉敷市出身。 明治39年(1906年)12月、 岡山県倉敷市で生まれた。岡精義は、幼少の頃から叔母の元で育った。 岡精義は、旧制中学校を卒業した。 大正12年(1923年)、神戸市へ移住し、港湾荷役の沖仲仕として働き始めた。 昭和5年(1930年)、神戸の賭場で、田岡一雄(後の三代目山口組組長)と知り合った。その後、金銭的に苦しかったこともあり、田岡一雄の借り上げた部屋に、度々滞在し寝食を共にするようになった。
河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 … 河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 - 1985年6月12日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友本社に入社。1946年に井華工業(のちの住友金属鉱山)に転じ、取締役に就任し、1948年に常務、1956年6月に専務を経て、1963年5月に社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1979年4月に会長に就任。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月12日呼吸器疾患のために死去。78歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月… 秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月22日 - 1979年(昭和54年)3月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 神奈川県三浦郡、のちの横須賀市で秋山清平の長男として生まれる。1924年(大正13年)横須賀市立実業補習学校を卒業した。 横須賀海軍工廠員として勤務。その後、横須賀市吏員、川崎市吏員を歴任。社会民衆党、社会大衆党に入党した。労働運動に加わり、全日本自治団体労働組合(自治労)特別執行委員、横須賀市労連顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)神奈川県議会議員に選出された。日本社会党清掃特別委員会事務局長、同選挙制度対策特別委員会事務局長、地方公営企業対策特別委員会事務局長、地方公務員定年制反対特別委員会事務局長、同神奈川県連副会長、同横須賀支部長などを務めた。
牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> … 牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> 1月19日- 1999年 <平成11年> 8月20日)は、日本の教育心理学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1953年)(学位論文「精神発達の規準に関する研究」)。九州大学名誉教授。位階は正四位。 長崎県長崎市生まれ。1923年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1928年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 卒業後、東京帝国大学文学部副手となり、立教大学助手も兼務。1929年立教大学文学部教授、1945年10月東京女子高等師範学校教授、1949年6月校名変更でお茶の水女子大学教授、1949年愛育幼稚園園長、1950年九州大学教育学部教授を兼務、恩賜財団母子愛育会愛育研究所教養部長、1953年「精神発達の規準に関する研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。
上田 保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日… 上田 保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、日本の英文学者。 1906年(明治39年)、山口県吉敷郡大道村(現・山口市)で生まれた。慶應義塾大学文学部英文科で学び、1929年に卒業。 1934年に第一書房に入社し、『セルパン』で西洋文化の紹介を担当。1941年、慶應義塾大学予科教員に転じた。1949年、慶應義塾大学経済学部教授に就いた。1972年に慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となった。
東光 武三 (とうこう たけぞう、1906年1月19日 - … 東光 武三 (とうこう たけぞう、1906年1月19日 - 1945年4月1日)は、日本の外交官。阿波丸事件で死去した。死後設立された阿波丸会では、妻の孝子(日加協会事務局長)が中心的立場となった。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ政治)。
黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11… 黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11月8日)は、日本の経済学者。 鹿児島市生まれ。第七高等学校造士館卒、1931年京都帝国大学経済学部卒、1960年「日本工業の構造」で京都大学経済学博士。1938年建国大学助教授、1944年教授、1948年同志社大学経済学部教授。59-61年経済学部長、1976年定年、名誉教授となる。
水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 197… 水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 1971年5月16日)は、日本の映画美術家・美術監督。 1906年(明治39年)1月17日、岐阜県に生まれる。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。同校在学中である1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、大道具課装置係に配属される。同校はのちに卒業した。同撮影所では、1929年(昭和4年)、清水宏監督の『不壊の白珠』、1930年(昭和5年)、小津安二郎監督の『朗かに歩め』にいずれも「舞台設計」としてクレジットされたほか、作品名は定かではないが牛原虚彦、豊田四郎、斎藤寅次郎らの作品も手がけた。 その後、関西の映画会社・帝国キネマ演芸に移籍し、再びクレジットが見られるのは同社が新興キネマに改組されたのちの1933年(昭和8年)、溝口健二監督の『祇園祭』であり、「美術」とクレジットされている。
吉永 登(よしなが みのる、1906年1月16日 - 198… 吉永 登(よしなが みのる、1906年1月16日 - 1989年1月28日)は、日本の国文学者。 奈良県出身。1927年関西大学専門部国文科卒。1960年「万葉集の研究」で関西大文学博士。1943年関西大学専門部教授、1948年同文学部教授、1976年定年、名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受章。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月… 池上 隆祐(いけがみ たかすけ、1906年(明治39年)1月15日 - 1986年(昭和61年)4月3日)は、日本の民俗学者、政治家。衆議院議員、信濃木崎夏期大学理事長。 1906年、長野県東筑摩郡松本町(現松本市)で、商家・池上良三の五男として生まれた。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学で学んだ。学生時代は柳田国男に師事し、赤羽一雄ら信州白樺派の教員とも交流を持った。 卒業後は農林省研究所に勤務。義兄の有賀喜左衛門とともに民俗学雑誌『郷土』の編集と発行にあたり、菅江真澄遊覧紀の刊行にあたっては信濃の部を担当した。長野県をたびたび訪れた折口信夫らとも交誼を深めた。
椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月… 椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月15日 - 1989年(平成元年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県宮崎郡佐土原町(現宮崎市)出身。1920年(大正9年)宮崎商業学校(現宮崎県立宮崎商業高等学校)を卒業した。 1937年(昭和12年)昭和水産合資会社常任理事に就任。その他、対満薬品工業社長、ツシマ化粧品社長、宮崎県運搬業組合長、社団法人華陽会理事会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で宮崎県地方区に日本社会党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、参議院議員に1期在任した。その後、1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に立候補したが落選した。
藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 19… 藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 1991年 2月10日)は、神戸又新日報記者、大日本帝国陸軍情報将校、大手前大学創立者。大阪府守口市出身。 藤井健造は1906年(明治39年)、大阪府北河内郡守口町(現・守口市)に、樋口家の長男として生まれた。幼い頃から馬と自動車に興味を持ち、関西大学へ進学後は馬術部で活躍し、第4回全国乗馬大会では個人三等で入賞している。 神戸又新日報記者時代 大学卒業後、神戸又新日報に記者として入社するも、馬と車に情熱を燃やした。1932年ロサンゼルスオリンピックでは、バロン西の愛称で知られる男爵の西竹一陸軍中尉が障害飛越競技で出場することから、自費通信員の資格を得て、民間人で唯一の付き人として同行渡米し、担当記者として取材。
秋田 大助(あきた だいすけ、1906年(明治39年)1月1… 秋田 大助(あきた だいすけ、1906年(明治39年)1月14日 - 1988年(昭和63年)11月29日)は、昭和期の政治家。衆議院議員(12期)、自治大臣(第17代)、法務大臣(第27代)。父は衆議院議長を務めた秋田清。「策士」と称された父親と対照的に、地味で穏健な学究肌の政治家であった。 徳島県三好郡足代村(現東みよし町)に生まれる。旧制高知高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部経済学科を卒業、東邦電力に入社する。戦前は実業界で活躍し、西樺太商事取締役、土佐電気専務取締役、大阪プレス製作所専務取締役、松本鋳造鉄工所専務取締役、田中鉄工所取締役社長、太陽通商取締役、日東海運産業取締役、日東自動車監査役などを務めた。
李 孝祥(イ・ヒョサン、朝鮮語: 이효상、1906年1月14… 李 孝祥(イ・ヒョサン、朝鮮語: 이효상、1906年1月14日 - 1989年6月18日)は、大韓民国の詩人、哲学者、教授、政治家。第6・7代国会議長、参議員、第6・7・9・10代韓国国会議員。 本貫は星山李氏(朝鮮語版)。号はハンソル。カトリック教徒。 1906年に大邱で生まれた。1930年に東京帝国大学(現・東京大学)文学部独文学科卒、帰国後は嶠南学校で教職を務め、1940年に校長に就任した。解放後は慶尚北道学務局長を経て、1952年に慶北大学校文理科大学教授に着任した。1954年にルーヴェン・カトリック大学で哲学と文学を修学し、帰国後は慶北大学校文理科大学の初代学長を務めた。他には大倫教育財団理事、嶺南大学校財団理事長、国際新聞編集者協会・アジア新聞編集者協会韓国代表、大邱毎日新聞社理事など教育・新聞界でも活動した。
小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 199… 小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 1993年6月6日)は、日本の分子物理学者、生物物理学者。理学博士。東京大学・東京理科大学名誉教授、東京理科大学元学長。京都府京都市生まれ。明仁上皇の教育係を務めた。 田艇吉の二男哲と、柏原銀行頭取や柏原町長を務めた小谷保太郎の長女ふきの子として生まれる。父が小谷家に婿養子に入ったため、小谷姓を名乗った。 1929年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。卒業後は、東京帝国大学工学部講師、理学部助教授、後に教授昇進。東京大学理学部長、大阪大学基礎工学部教授をつとめた。また京都大学でも教鞭をとり、京都大学兼任教授も務めた。 1960年に日本生物物理学会を創設。
井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)… 井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)1月13日 - 1980年(昭和55年)9月29日)は、日本の農業指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・升。 宮城県柴田郡村田町で升健蔵の長男として生まれ、井上ちせの養子となった。1924年(大正13年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。新聞販売業を営んだ。 村田町農会長、全国治水砂防協会評議員、同県支部長、宮城県森林組合連合会長、同県蒟蒻栽培生産組合連合会副会長、全国蒟蒻原料配給統制協議会常任理事、宮城県蒟蒻原料統制 (有) 取締役社長、商工組合中央会理事、宮城県蚕糸連盟評議員などを務め、農民の福祉の向上に尽力した。
古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973… 古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)は、日本の出版人、筑摩書房の創業者、初代社長。
柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997… 柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997年3月16日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。 1906年、京都市下京区で生まれた。京都府立第一中学校を経て、第三高等学校に進学。1925年に卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。三浦周行、西田直二郎の指導を受け、1930年に卒業。 1930年、京都帝国大学文学部副手に採用された。1932年に助手昇格。 1946年に助教授昇格。1950年、京都大学分校(後の教養部)教授に昇格。1963年から1965年まで京都大学教養部長をつとめた。1969年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。同1969年4月より関西大学文学部教授。1970年からは財団法人元興寺仏教民俗資料研究所人文科学室長をつとめた。
森長 英三郎(もりなが えいざぶろう、1906年1月10日 … 森長 英三郎(もりなが えいざぶろう、1906年1月10日 - 1983年6月1日)は、日本の弁護士。徳島県出身。 小学校を首席で卒業し、県立農学校(後の徳島県立城西高等学校)に学ぶ。作家を志して明治学院に進むが除籍となり、山谷や浅草で放浪生活を送り帰郷。再上京後、1932年に日本大学を卒業。1936年、弁護士登録。治安維持法違反事件を担当、戦後は自由法曹団に参加、労働事件を担当。三島由紀夫「宴のあと」訴訟でプライバシー権を提起、大逆事件の再審請求も担当。
楫西光速(かじにし みつはや、1906年1月9日-1964年… 楫西光速(かじにし みつはや、1906年1月9日-1964年3月19日)は、日本の経済史学者。 大阪市西区出身。1923年、大阪高等学校文科に入学。1926年3月に卒業し、翌月、東京帝国大学経済学部経済学科に入学。1929年に卒業。1958年「下総行徳塩業史」で東京大学経済学博士。大阪の商業学校で教えたのち、1938年に渋沢敬三のアチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)研究員。戦後1948年法政大学教授となり、1950年東京教育大学教授。この間、土屋喬雄を助けて『渋沢栄一伝記資料』を編集。『東京商工会議所史』の編纂に当たったほか、日本資本主義発達史を中心とする多数の著書、論文、社会科の教科書も執筆した。
小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8… 小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8日 - 1988年(昭和63年)7月20日)は、昭和期の日本の出版事業家。 現在の北海道旭川市に生まれる。 1928年、旭川師範学校(現在の北海道教育大学旭川校)を卒業後、北海道内の小学校で教員として勤務した。 穂高書房社長などを経て、1948年、設立に参画した教育出版専務となる。以後、副社長(1963年)を経て、1967年に社長に就任した。1975年に社長を宍戸馨に禅譲、のち相談役に退く。他に教科書協会常務理事などを務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 193… 篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、日本の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)。旧号は未踏、雲彦。鹿児島県出身。無季俳句で有名。 1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業。1926年(大正15年)第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1929年(昭和2年)東京帝国大学法学部を卒業。不景気のため就職口がなく、また病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した 1931年(昭和6年)より沖縄県立宮古中学校 (旧制)の英語教諭を務める。
宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - … 宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - 1997年5月22日)は、日本の教育者、実業者、歯科医である。コープオリンピア、中野ブロードウェイなどを開発した東京コープ販売社長、南国酒家経営者、城西歯科大学、岐阜歯科大学創立者。慶應義塾大学医学博士。三男は宮田侑。 特記なきものは著書『一瞬と永遠――建学の精神の基礎にあるもの』著者略歴より。 北海道の湧別町川西に早期開拓民として高知県から入植した宮田亀之助の3男として1906年1月7日に生まれる。上京後、逓信官吏練習所(もしくは逓信講習所)で無線や電気材料学を学ぶかたわら、大阪歯科医学専門学校に通う。1923年に父親が病死したため生活は苦しく、運転手などをして学費を稼ぎ、1931年3月に卒業、同年12月に東京・大塚駅北口に宮田歯科医院を開業する。
杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 20… 杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 2002年5月29日)は、日本の生理学者、性評論家、翻訳家、医師。医学博士(東京帝国大学・1940年)。文部省国民精神文化研究所文化部主任、東京教育大学・専修大学教授を歴任。旧姓は渡辺。 大阪府堺市生まれ。第二高等学校卒業。1928年、東京帝国大学医学部卒業。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。1940年、「筋負傷電位の電源の座に関する研究」にて東京帝国大学医学博士。 日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 - 1951年8月 公職追放。1946年 - 1951年『医学書院』編集長、1952年 - 1969年東京教育大学教授、1956年『人間の科学』で毎日出版文化賞受賞。
杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年〈明治39年〉1月6… 杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年〈明治39年〉1月6日 - 1997年〈平成9年〉4月4日)は、広島県広島市出身の新劇の女優。本名:石山 春子。旧姓:中野。 築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優。称号は東京都名誉都民。 1906年、当時の軍都、広島県広島市西地方町(現在の広島市中区土橋町、河原町付近)生まれ。芸者の母、軍人だったとされる父が春子の幼時に死んだため、花柳界の中にある建築資材商と置屋経営者の養女となる。養父は近所の寿座という西日本一の芝居小屋の株主だった関係で、幼少期から歌舞伎や新派、歌劇、文楽などに親しむ。
草野 一郎平(くさの いちろうべい、1906年1月5日 - … 草野 一郎平(くさの いちろうべい、1906年1月5日 - 1973年11月22日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲章は勲二等旭日重光章。衆議院議員(6期)。自由民主党所属。 滋賀県東浅井郡出身。高等小学校卒業後に電力会社勤務の傍ら近江新聞の通信員となり、大谷大学卒業後に新聞記者をしながら農民運動に参加。1933年に27歳で大津市会議員に当選し、新聞記者と政治家・農民運動家として活動し滋賀新聞編集局長を歴任した。 国政選挙では、1942年の翼賛選挙で滋賀選挙区に東方会(非推薦)から立候補したものの落選。終戦直後の1946年の総選挙でも無所属で立候補したが次点に終わり、公職追放で一時期政治から遠ざかることになる。
川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不… 川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 赤穂実業から八王子実業団を経て1937年に名古屋金鯱軍へ入団。開幕戦となる3月28日の東京巨人軍戦では8番サードでスタメン出場した。 同年の秋季リーグ終了後に退団した。
八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 196… 八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 1968年6月3日)は、日本の都市計画家、行政官僚。 内務省や厚生省、建設省で官僚として活動し、全国区画整理協会連合会会長、歴史的風土審議会委員、帝都高速度交通営団管理委員会委員、財団法人都市計画協会理事を歴任した。 富山県新湊町(現・射水市)に生まれる。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)から旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学する。在学中高等文官試験に合格し、1930年に卒業後、内務省に勤める。福島県や岩手県、愛知県、兵庫県を転任し、1942年鹿児島県官房長となる。1943年に福島県経済部長に移る。ここまでは警察や経済部といった部署を歩んだ。
田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3… 田中 伊三次(たなか いさじ、1906年〈明治39年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月11日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(15期)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 衆議院副議長(第44代)、法務大臣(第22・23・31代)、自治庁長官(第7・8代)等を歴任した。 兵庫県にて田中宗吉の二男として生まれる。家が貧しく、17歳の時に郷里の兵庫県姫路の在からナマ米をかじりながら鉄道線路を歩いて大阪に出る。新聞配達、めし屋の注文取りなどをしながら貯めた金で汽車に乗り、京都に移る。 立命館中学、府立第二中学校、京都予備学校(のちの京都商業)を経て、立命館大学に入学した。1931年、高等文官試験に合格。
豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977… 豊田 四郎(とよだ しろう、1906年1月3日 - 1977年11月13日)は、日本の映画監督。多くの文芸映画を作り、「文芸映画の巨匠」と呼ばれた。