南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987… 南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987年7月4日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大和鉱業、小倉石油での勤務を経て、1944年8月に東亜燃料工業に転じ、1950年1月に取締役に就任し、1951年11月に常務、1959年9月に専務、1963年8月に副社長を経て、1965年9月には社長に就任した。1976年3月に会長を経て、1984年3月には相談役に就任。 1966年10月に藍綬褒章を受章。 1987年7月4日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木下 重範(きのした しげのり、1906年(明治39年)1月… 木下 重範(きのした しげのり、1906年(明治39年)1月3日 - 1977年(昭和52年)8月13日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 大分県西国東郡岬村(のち香々地町、現豊後高田市)で生まれる。1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 弁護士を開業し、日本弁護士連合会理事、同代議員、福岡県弁護士会小倉部会長、小倉市信用組合監事などを務め、日本水産、朝日新聞西部本社、三菱化成工業などその他多くの企業の顧問弁護士を務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から無所属で出馬して当選し、同友会に所属し衆議院議員に1期在任した。
三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日… 三島 雅夫(みしま まさお、1906年〈明治39年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉7月18日)は、日本の俳優。本名・長岡 正雄(ながおか まさお)。 東京都で生まれ、新潟県三島郡与板町(現・長岡市)に育つ。本名は長岡 正雄(ながおか まさお)。元与板藩士で、陸軍軍人となり三條中学校の助教諭や、帝国生命保険の書記などを務めた父・茂雄と母・マツの間に6人兄弟(男4人・女2人)の長子、長男として生まれた。1924年(大正13年)に獨協中学校(旧制中学校)を卒業し、茂雄がのめりこんでいた影響で演劇(新劇)の世界に足を踏み入れる(茂雄も演者として舞台に立っていたようである)。同年に『ヴェニスの商人』で初舞台を踏んだ。
山田 和男(やまだ かずお、1906年1月2日 - 1985… 山田 和男(やまだ かずお、1906年1月2日 - 1985年12月15日)は、日本の英語学者。 静岡県静岡市生まれ。静岡県立静岡商業学校卒業、1927年東京外国語学校英語部貿易科卒業。京北実業学校教諭、1928年米沢高等工業学校講師、助教授、1935年東京商科大学予科講師、1938年同付属商学専門部教授、1949年一橋大学商学部教授、1969年定年退職、名誉教授。
伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日… 伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、広島県安芸郡下蒲刈島三之瀬出身の実業家、弁護士。元日本航空(JAL)会長。 1906年、弁護士の永野法城の五男、永野輝雄として出生。日本有数の閨閥地図を作り上げたといわれた"永野六兄弟"の一人となった。 海軍中将だった伍堂卓雄に養子入りし、広島高等師範学校附属小学校・中学校(現・広島大学附属小学校、広島大学附属中学校・高等学校)、第六高等学校を経て、東京帝国大学卒業。卒業後、岩田寅造法律事務所に勤務。1933年、日本鋼管顧問弁護士。 昭和鋼管勤務、鉄道大臣秘書官を経て1941年日本鋼管に入社。
唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1… 唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1976年7月30日)は、政治評論家、ジャーナリスト。 広島県竹原市(当時は竹原町)出身で三男として生まれる。旧制忠海中学校(現在の広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した(1928年)。 東京帝国大学卒業後、国民新聞社に入社した。編集局長などを経て、1940年に退社した。1943年、東京新聞社(現在の中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長を務めた。 一時占領軍の公職追放令で一線を退いたが1950年の解除後、同社に復帰した。復社後は東京新聞の1面コラムに筆名・武原敏として「筆洗」を長きにわたり書き続けた。
北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月… 北原 泰作(きたはら たいさく、1906年(明治39年)1月1日 - 1981年(昭和56年)1月3日)は、日本の部落解放運動家。戦前から部落解放運動を行っており、戦後の部落解放同盟結成時幹部であったが、戦後は全国水平社出身のメンバーらと共に部落解放同盟と対立した。 岐阜県稲葉郡黒野村大字黒野(現・岐阜市)の被差別部落の小作農の貧困家庭に生まれる。父は作蔵。母は琴。高等小学校卒業。 1925年、全水解放連盟に参加。1927年1月、大日本帝国陸軍二等卒として岐阜歩兵第68連隊に入営。同年11月19日、閲兵式にて軍隊内部の部落差別の存在と待遇の改善を昭和天皇に直訴し、逮捕される(天皇直訴事件)。請願令違反で11か月間、大阪衛戍刑務所で服役した後に陸軍教化隊へ編入。
細川 ちか子(ほそかわ ちかこ、1905年(明治38年)12… 細川 ちか子(ほそかわ ちかこ、1905年(明治38年)12月31日 - 1976年(昭和51年)3月20日)は、日本の女優である。本名横田 冬(よこた ふゆ)。 東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホール、第一ホテルアネックスの辺り)に生まれる。 香蘭女学校を卒業し、1925年に小山内薫らの「築地小劇場」に入団、新劇の世界に入った。演出家土方与志は恩師。細くて近眼の女だからと、芸名を「細川ちか子」と命名したのは土方である。 『各人各説』で伏見直江らと初舞台を踏み、その美貌でスターとなった。1929年、23歳のときに丸山定夫らとともに同劇団を脱退し、「新築地劇団」結成に参加する。
常盤 稔(ときわ みのる、1905年〈明治38年〉 12月3… 常盤 稔(ときわ みのる、1905年〈明治38年〉 12月31日 - 1981年〈昭和56年〉4月21日)は、日本の経営者。清水銀行頭取を務めた。 静岡県出身。1923年に沼津中学校を卒業し、同年6月に岩渕銀行に入行。 1948年に清水銀行に転じ、1960年4月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1971年4月に専務を経て、1974年8月から1979年4月までに頭取を務めた。 1981年4月21日に胃癌のために死去。75歳没。
北島 織衛(きたじま おりえ、1905年〈明治38年〉12月… 北島 織衛(きたじま おりえ、1905年〈明治38年〉12月31日 - 1980年〈昭和55年〉4月27日)は、昭和期の日本の実業家。大日本印刷元会長。大平電工元社長。東邦紙業元取締役。 1905年12月31日、大日本印刷元社長・青木弘の三男として東京に生まれ、北島吉兵衛の養子となる。1923年、東京府立四中卒業。1929年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、大日本印刷の前身・秀英舎に入社。1955年に同社社長就任、1979年、同社会長。経営陣の刷新や労使関係の調整に強気の姿勢であたり、事業の拡大と多角化に努めた。 大日本印刷を世界最大の印刷会社にするとともに、インテリア、清涼飲料、電気部品などに進出、多角化をはかった。
伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1… 伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1991年3月24日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(2期)。 急逝した夫の伊藤好道の地盤を継いで政治家の道を歩んだ。衆議院議員、愛知県会議員を務めた本多鋼治は義兄。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市昭和町4丁目)に雑貨商の成瀬保吉の三女として生まれる。旧姓は成瀬。挙母第一尋常小学校(現・豊田市立挙母小学校)から、「山の学校」と呼ばれた挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)に進んだ。『改造』『解放』など大正デモクラシーを支えた雑誌に親しむ。当時、挙母町には書店は一軒しかなく、そこから西加茂郡全域に毎月配本される4冊の『改造』のうち1冊を伊藤がとっていたという。
清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 19… 清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 1993年6月21日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。 1960年1月に神奈川新聞社に転じ、1969年1月には社長に就任した。1981年1月に会長に就任し、1982年1月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役に就任した。 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年6月21日脳血栓のために死去。87歳没。
大谷東平(おおたに とうへい、1905年12月29日-197… 大谷東平(おおたに とうへい、1905年12月29日-1977年5月5日)は、日本の気象学者。学位は、理学博士(論文博士・1947年)(学位論文「止風線および集風線の研究」)。 東京出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部卒業。1947年「止風線および集風線の研究」で理学博士の学位を取得。1928年中央気象台嘱託、1939年11月気象技師、1945年7月満州国中央観象台長、1946年大阪管区気象台長、1963年気象大学校長、1964年気象研究所長、1966年退職。天気予報の技術分野に大きな影響を与えた。
長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月2… 長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月27日 - 1990年11月28日)は、日本の美術史学者。専攻は東洋美術史。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中国石窟寺院の研究」)。京都大学名誉教授。 東京府葛飾生まれ(牛込とする記述もあり)。1929年京都帝国大学文学部卒業、東方文化学院京都研究所所員となり、梅原末治の助手となる。1934年の中国旅行を経て仏教石窟研究へ関心が移り、1936年に水野清一と中華民国・河北省南北響堂山および河南省龍門石窟の調査を行った。1938年から1944年にかけては、山西省雲崗石窟の調査を行った。 1930年代後半には反ファシズムの隔週刊新聞『土曜日』の執筆に参加したこともある。
安中 忠雄(あんなか ただお、1905年 <明治38年> 1… 安中 忠雄(あんなか ただお、1905年 <明治38年> 12月27日 - 1999年 <平成11年> 8月17日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。宮崎県知事。位階は従四位。 新潟県出身、東京帝国大学卒。1928年内務省に入省。厚生省大臣官房会計課長を経て1945年宮崎県知事(官選)に就任。 1947年に知事が公選となったのに伴い、初の知事選挙に出馬。一位の二見甚郷が法定得票数に届かず、二見との決選投票となったが、二見の公職追放により無投票当選した。知事を1期務めた後1951年に郷里・新潟県の知事選に鞍替え出馬するが落選。翌1952年の総選挙において新潟2区から自由党公認で立候補したが落選。1959年に返り咲きを目指して再度宮崎県知事選に出馬するも黒木博に敗れた。
小川 弘貫 (おがわ こうかん、1905年12月26日 - … 小川 弘貫 (おがわ こうかん、1905年12月26日 - 1974年4月10日)は、日本の曹洞宗の僧侶、駒澤大学教授、駒沢女子短期大学初代学長。専門は如来蔵思想。
並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 19… 並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 1984年5月8日)は、日本の翻訳家、放送作家、放送・文芸・美術・ジャズ評論家、英文学者。 写真家の並河萬里の父。 島根県生まれ。東京帝国大学法学部卒。NHK国際部、毎日放送に勤務。日本大学で文学博士取得。その後同大学旧文学部で教授を務めた。 ドス・パソス『U.S.A.』を唯一完訳。そのほかにアプトン・シンクレアなどの翻訳、放送台本、評論活動がある。 生涯にわたり『華厳経』の研究著作を行った。
波多野 勤子(はたの いそこ、1905年12月26日 - 1… 波多野 勤子(はたの いそこ、1905年12月26日 - 1978年9月15日)は、日本の心理学者。東京出身。父は畠山健。 1927年(昭和2年)日本女子大学英文学部を卒業、女子経済専門学校の英語教師となる。 1928年(昭和3年)日本女子大学児童研究所の開設で所員になる。1930年(昭和5年)波多野完治と結婚。 1936年(昭和11年)東京文理科大学心理学科選科を卒業。 1937年(昭和12年)日本女子大学児童研究所を辞して東京文理科大学教育相談員兼心理学科副手となる。1948年(昭和23年)日本大学の大学院に入学する一方、恩賜財団愛育会愛育研究所教育部員となる(1957年まで)。 1950年(昭和25年)に出版した『少年期―母と子の四年間の記録』がベストセラーとなり、脚光を浴びる。
春見 文勝(かすみ ぶんしょう、1905年(明治38年)12… 春見 文勝(かすみ ぶんしょう、1905年(明治38年)12月25日 - 1998年(平成10年)10月17日)は、日本の僧侶。臨済宗妙心寺派第29代管長、妙心寺642世、海清寺住職、全日本仏教会会長。道号・諱は文勝無覚、室号は「南隠窟」「南陽室」「喝雲窟」「大楠窟」「大楠樹」「自春見」「大楠」遷化時の「大楠」には窟は付けない。 1905年(明治38年)12月25日に岐阜県美濃加茂市にて、父は兼四郎、母はひさの三男として生まれる。男五人、妹一人の六人兄弟。1919年(大正8年)に美濃加茂市の瑞林寺大崎文渓和尚に就て得度。1923年(大正12年)には京都の花園中学入学。1931年(昭和6年)法政大学高等師範部卒業、法政大学に入学。
渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12… 渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12月25日 - 1985年(昭和60年)5月27日)は、将棋棋士。棋士番号4。名誉九段。日本将棋連盟会長。関根金次郎十三世名人門下。千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。1922年四段昇段。 1941年八段。順位戦に3期参加した後、1949年に引退。 1948年、日本将棋連盟会長に就任。在任中の1949年に名人戦の主催社が毎日新聞社から朝日新聞社に変更されるが、これは渡辺の北海道出張中に交渉を委任された加藤治郎副会長(後の名誉九段)がやったことで、渡辺の帰京後、委任の範囲を巡って渡辺と加藤の間で一悶着あったという。
村山 有(むらやま たもつ、1905年12月24日 - 19… 村山 有(むらやま たもつ、1905年12月24日 - 1968年12月31日)は、アメリカ合衆国シアトル生まれの日本のジャーナリスト。早稲田大学講師。ソルトレイク市名誉市民。ボーイスカウト日本連盟理事・相談役。
祝 宮静(ほうり みやしず、1905年12月24日 - 19… 祝 宮静(ほうり みやしず、1905年12月24日 - 1979年4月20日)は、日本の民俗学者。 大分県宇佐市出身。京都の下鴨神社の宮司の長男として誕生する。父は子爵園池家からの養子、母方の家は大分県杵築の社家であった。1928年國學院大學卒業。その後、國學院大學助手、講師などを勤め、1933年より渋沢敬三のアチック・ミューゼアムで水産史関係資料を研究する。東京農業大学教授を1947年に辞職し郷里に帰る。[要出典]文化財保護委員会事務局から民俗資料の保護の担当者の人選を求められた渋沢の推薦により、1952年に文化財保護委員会事務局記念物課民俗資料係長、のち主任文化財調査官となり、1967年まで勤める。
廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年… 廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年)12月23日 - 1945年(昭和20年)2月24日)は、台湾総督府警察の警察官、海軍巡査である。毎年9月第三土曜日か日曜日に、台湾・苗栗県南庄郷の勸化堂で慰霊祭が斎行されている。 1905年(明治38年)12月23日、神奈川県足柄下郡根府川村(片浦村を経て現在の小田原市)に生まれる。片浦尋常高等小学校(現・小田原市立片浦小学校)・逗子開成中学・日本大学予科を経て、1928年(昭和3年)に幹部候補生として佐倉歩兵第57連隊へ入隊。軍曹まで昇進する。 満期除隊後、湯河原町の小学校教員となるが、1930年(昭和5年)に職を辞して台湾に渡り、当時難関の職業であった台湾総督府巡査を志願し晴れて合格した。
木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 198… 木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 1984年)は、日本の英語学者。専門は商業英語。 北海道小樽市出身。1927年(昭和2年)小樽高等商業学校卒業。1931年(昭和6年)小樽高等商業学校助教授。1937年、アメリカペンシルベニア大学経営学部大学院に入学し、商業英語と国際貿易の研究のため、文部省在外研究員として在留。1939年、同大学修士課程修了。1943年、正六位に叙される。1944年、小樽経済専門学校教授。翌年、勲六等に叙せられ瑞宝章を授与される。1950年、小樽商科大学教授と小樽経済専門学校教授を兼務。1960年、再びアメリカへの出張を命じられ、ミシガン大学大学院言語学科において、英語学と外国語教授法を学ぶ。
金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月1… 金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月19日または1907年 - 1983年5月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、公務員、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は義城金氏(朝鮮語版)、朝鮮時代の文臣の金漢卿の子孫である。字は致勲、号は松崗。 慶尚北道青松郡出身。和睦公立普通学校(現・和睦初等学校(朝鮮語版))、大邱啓聖中学校(朝鮮語版)、平壌崇実専門学校(現・崇実大学校)農科、中央大学法学科卒。 啓聖中学校教員を経て、光復後は金泉中学校(朝鮮語版)校長、金泉女子中学校(朝鮮語版)校長、慶北女子中学校(現・慶尚中学校(朝鮮語版)に統合)校長、釜山東新中学校(朝鮮語版)校長、嶺南商業高等学校(現・釜山情報高等学校(朝鮮語版))校長、慶尚北道学務課長を歴任した。
高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月1… 高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月18日 - 1991年(平成3年)5月19日)は、日本の教育者、政治家、平和運動家。参議院議員(2期)。旧姓は渡辺。 福島県信夫郡福島町(現福島市)で、裁判官・渡辺晶、トヨ夫妻の三女として生まれる。福島県立福島高等女学校を経て、1922年、福島県女子師範学校を卒業。福島県伊達郡掛田尋常高等小学校訓導に就任。1924年に依願退職して勉学のため上京し、東京府(東京都)下の小学校で勤務した。 1945年11月、日本社会党創立に際し党員となる。同年12月、東京都教育労働組合の結成に参加。1947年4月、東京都品川区議会議員に当選し1950年まで在任。
河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月1… 河野 広道(こうの ひろみち、1905年(明治38年)1月17日 - 1963年(昭和38年)7月12日)は、日本の昆虫学者、考古学者。 1905年1月17日、北海道史研究者の河野常吉の息子として生まれる。北海道帝国大学農学部にて、昆虫学を学ぶ。 大学卒業後の1930年に、北海道帝国大学農学部の助手として採用される。1932年、27歳の時に「日本産象鼻虫科ノ研究(独文)」により、農学博士の学位を授与される。 また、考古学などの研究も始める。1935年に、「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」の論文を発表し、縄文遺跡の貝塚は、ゴミ捨て場というよりは、アイヌ儀礼の「物送り場」という解釈を論じる。1944年、北海道帝国大学を退職。
伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 … 伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。位階は正五位。勲等は勲三等。 本名は伊藤整(いとう ひとし)。社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
児玉 洋一(こだま よういち、1905年1月16日 - 19… 児玉 洋一(こだま よういち、1905年1月16日 - 1981年3月24日)は、日本の経済史学者。 和歌山県那賀郡粉河町(現・紀の川市)出身。1926年和歌山高等商業学校(現和歌山大学)卒。1958年「近世瀬戸内海における塩業、特に入浜塩田の成立に関する研究」で経済学博士(大阪大学)。高松高等商業学校助教授、高松経済専門学校教授、1949年香川大学経済学部助教授、1951年教授。1963年経済学部長、1968年定年退官、名誉教授。1970年京都学園大学教授。1962年「近世塩田の成立」で日本学士院賞受賞。
藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月… 藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年〈明治38年〉1月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月21日)は、日本の俳優。本名は安惠 重男、戦時中の芸名は藤原 鶏太。身長156cm。 実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役。女優の沢村貞子は元妻。他に安恵一夫、藤原秀臣という芸名も用いた。 1905年1月15日、東京市深川区(現東京都江東区)に生まれる。家業の印刷屋不振のため、10歳で麹町の菓子屋に奉公に出る。四ツ谷第三小学校夜間部卒業。薬剤師を目指していた時期もあるが、浅草オペラ全盛時代とあってオペラ俳優に憧れ、滝野川俳優養成所に入る。 卒業後、浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。
福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14… 福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年〈明治38年〉1月14日 - 1995年〈平成7年〉7月5日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正二位。勲等は大勲位。 大蔵省主計局長、衆議院議員(14期)、農林大臣(第2次岸改造内閣)、大蔵大臣(第1次佐藤第1次改造内閣・第1次佐藤第2次内閣・第2次佐藤第2次改造内閣・第3次佐藤内閣・第2次田中角栄第1次改造内閣)、外務大臣(第3次佐藤改造内閣)、行政管理庁長官(第2次田中角栄内閣)、経済企画庁長官(三木内閣)、自由民主党総裁(第8代)、内閣総理大臣(福田赳夫内閣)を歴任した。 東京帝国大学法学部から大蔵省入り。1947年主計局長となるが、翌年昭電疑獄に連座して退官。
佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9… 佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9月29日)は、日本の演出家・作詞家・社会主義運動家。日本では「インターナショナル」の訳詞の作詞者として知られる。後半生はメキシコを拠点とした演劇活動に費やし、メキシコでは「メキシコ演劇の父」と称される。
服部 英次郎(はっとり えいじろう、1905年1月14日 -… 服部 英次郎(はっとり えいじろう、1905年1月14日 - 1986年7月31日)は、日本の哲学研究者。関西大学名誉教授。 和歌山県生まれ。京都帝国大学文学部哲学科卒。神戸大学教授、名古屋大学教授、奈良女子大学教授、関西大学教授、1975年定年、名誉教授。 古代哲学末期のアウグスティヌスから中世哲学のトマス・アクィナス、ルネサンス期のベーコンなどの思想家を研究、アウグスティヌス『告白』『神の国』など多くの原典訳がある。
石渡 満子(いしわた みつこ、1905年(明治38年)1月1… 石渡 満子(いしわた みつこ、1905年(明治38年)1月13日 - 1974年(昭和49年)8月27日)は、日本の裁判官、弁護士。女性として日本で最初に裁判官となった。 神奈川県(京都府との説もある)にて、旧名主であり官吏の家の4人姉妹の長女として出生。1922年東京女子高等師範学校附属高等女学校本科卒業、1926年東京女子高等師範学校卒業。卒業と同時に結婚する。8年後に離婚し、法曹を志し、明治大学に進学し、1944年に卒業。1945年司法試験に合格。1948年婦人法律普及会を結成。 1949年女性初の判事補として東京地方裁判所に赴任。1950年婦人人権擁護同盟を組織。1961年判事となり、関東各地の地方裁判所に赴任。
宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 198… 宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 1982年5月10日)は、昭和期の日本の海洋物理・水産海洋学者。 1905年、高知県土佐郡小高坂村で生まれた。1921年に高知県立第一中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に進んだ。1924年、東京帝国大学物理学科に入学し、寺田寅彦や藤原咲平の指導を受けた。1927年に同大学を卒業。 卒業後の1927年(昭和2年)4月、農林省水産講習所(後の東京水産大学、現在は東京海洋大学)技師に採用された。1928年(昭和3年)2月から翌年11月まで、兵役のため、幹部候補生として浜松高射砲第一連隊に入隊。除隊後に復職するが、水産講習所の組織再編により、1929年10月より農林省水産試験場技師となり、海洋調査部に勤務。
名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月1… 名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月13日 - 1987年〈昭和62年〉10月3日)は、日本の考古学者。 1905年(明治38年)1月13日、長野県諏訪郡富士見村に生まれる。 1919年(大正8年)4月、長野県立諏訪中学校に入学する。 1925年(大正14年)4月、北海道帝国大学予科に入学し、卒業後の1928年(昭和3年)4月、同大学農学部生物学科に進学する。 大学卒業後の1931年(昭和6年)4月、同大学農学部付属博物館に就職する。また、同年12月26日、中山きよと結婚した。 1933年(昭和8年)、北海道史跡名勝天然記念物調査委員となる。 1949年(昭和24年)8月8日、北海道大学理学部助教授となる。
李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武… 李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武9年 / 明治38年)1月12日 - 1950年12月28日)は、日本の官僚、実業家。位階は正四位。爵位は侯爵。本貫は牛峰李氏。 1905年に李恒九男爵の長男として生まれた。李完用の次男が恒九であり、丙吉は孫にあたる。その後、李完用の長男である李升九の養子に入り、1926年に(大正15年)に李完用が死去すると、侯爵を襲爵した。学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)京都帝国大学に入学。1931年(昭和6年)に帝大を卒業し、朝鮮総督府学務局編集嘱託を経て、1934年(昭和9年)に宮内省式部職御用掛に任命された。1939年(昭和14年)から国民精神総動員朝鮮連盟参事を兼任。
大橋 勝夫(おおはし かつお、1905年(明治38年)1月1… 大橋 勝夫(おおはし かつお、1905年(明治38年)1月11日 - 1945年(昭和20年)7月16日)は、日本の海軍軍人(海兵53期卒)。太平洋戦争において四艦の潜水艦長を歴任し、交通破壊戦に戦果を挙げた。その一方で漂流していた連合国将兵を攻撃せず、戦後になってこの大橋の行為が明らかとなった。神龍特別攻撃隊を構成した「伊13」潜水艦長として戦死し、一階級昇進により最終階級は海軍大佐。 大橋は三重県出身で、横須賀中学校を経て海軍兵学校に入校した。1925年(大正14年)に卒業した(53期)の同期生には海軍青年士官運動の中心人物である藤井斉がおり、他の10名が特別高等警察作成のブラックリストに掲載されているが、大橋の名はない。
駒井和愛(こまい かずちか、1905年1月11日 - 197… 駒井和愛(こまい かずちか、1905年1月11日 - 1971年11月22日)は、日本の考古学者。東アジアの考古学で多大な功績をあげた。 1905年、富山県生まれ。早稲田大学を卒業。1927年より東京帝国大学副手となり、原田淑人の指導を受け、1928年から1944年まで中国大陸の考古学的調査と研究に従事する。1928年には北京大学に留学し、馬衛教授のもとで金石学を修めて、1938年に東京帝国大学文学部講師、東方文化学院研究員となった。 1934年には立教大学文学部教授を兼務し、1945年まで同大学で考古学を講じた。立教大学で教えていた当時、駒込林町(現・文京区千駄木)に自宅があった。 1945年に東京帝国大学文学部考古学科助教授となり、1946年「鏡鑑を主材として考察したる六朝以前の文化」を東大に提出して文学博士号を取得。
胡井 剛一(えびい こういち、1905年1月10日 - 19… 胡井 剛一(えびい こういち、1905年1月10日 - 1988年2月22日)は日本の柔道家(講道館9段)。 愛媛県出身で、京都の平安中学校を経て武道専門学校に入学。身長167cm・体重68kgと決して大柄な体格ではなかったが、絶品と言われた小内刈や大内刈、巴投から固技への連絡を武器に柔軟な体や熱心な技の研究とも相俟って腕を磨き、また背負投や大外刈にも長じてその名を轟かせた。記録上の講道館入門は1928年3月20日。1930年5月に柔道教士を拝命した。 1931年3月に武専を卒業するとそのまま同校の助手として残る傍ら京都府警察部堀川警察署でも指導を行い、また京都同志社高商では師範として寝技を部員に徹底的に叩き込んで1937年の全国高専柔道大会で同校を優勝に導いた。
飯田 一男(いいだ かずお、1905年〈明治38年〉1月10… 飯田 一男(いいだ かずお、1905年〈明治38年〉1月10日 - 1995年〈平成7年〉[要出典])は、日本の電気工学・通信工学者。工学博士(京都大学)。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気科学(特にテレビ受像機)、電気通信工学・無線工学。 京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1949年、摂南工業大学(同年、大阪工業大学に改称)工学部電気工学科教授となり、電気工学教室を担当した。指導する電気科学研究部が製作したテレビ受像機が文部大臣賞(1953年)を受賞した。その後も20年わたって教鞭を執り、大学初期の電気工学・電気通信工学(特に無線工学)の研究・育成を手がけた。 1959年4月に大阪工業大学電子工学科客員教授にも就任した。
遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1… 遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1998年12月14日)は、日本の経営者、電気技術者。 東京エレクトロン研究所(現・東京エレクトロン)初代社長をつとめた。 北海道小樽市出身。1930年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。電通での勤務を経て、1952年にラジオ東京に入社し、取締役を経て、1956年1月に常務取締役テレビ技術局長に就任。 1963年にラジオ東京などの出資により東京エレクトロン研究所が設立されると、同社の初代社長に就任。1974年には会長に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年12月14日老衰のために死去。93歳没。
滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月… 滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月10日 - 1993年(平成5年)11月2日)は日本の裁判官、弁護士。 北海道余市郡余市町出身。小樽商業学校卒業、東北帝国大学の聴講生となり、試験を経て本科編入、在学中の1927年(昭和2年)12月、高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)3月、同法文学部法科卒業、翌4月に司法官試補として東京地方裁判所所属、それから予備判事、1929年(昭和4年)11月判事任官、1931年(昭和6年)5月山形地方裁判所判事転任、1932年(昭和7年)9月札幌地方裁判所判事転任。 滝内は東京地裁時代の1930年(昭和5年)、日本共産党員を講師に同じく判事の為成養之助らと研究会を結成、共産主義思想に共鳴、同党が国体変革して私有財産を否定していることを知った上で同年10月から1932年8月まで東京で他の同志とともに党資金として毎月5円から7円を支出、山形転任後は同志獲得のために動き同年3月から指導者として同地裁書記中心に主義宣誓も行い、同僚判事の福田力之助も引き込み、同年5月6月に現地の婦人十数名を集めて研究会を開催して主義宣伝を行ったり同地方責任者として左翼グループを結成、山形高等学校など上層階級対象に党員獲得活動をした。
金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日… 金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日 - 1989年5月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は慶州金氏。 京畿道安城郡出身。中東中学校卒、日本大学専門部法科卒または中退。朝鮮日報記者・取締役、新幹会会員、株式会社三益社支配人を経て、解放後は安城郡小作委員会委員、好城産業株式会社専務、朝鮮農工株式会社取締役、安城産業株式会社専務取締役、大韓逓信事業協会理事、平沢税務署所属調査委員、韓国独立党安城郡委員長・中央党執行委員、大韓独立促成国民会安城支部委員長、大韓労総安城支部顧問、大韓農民総同盟安城支部顧問・副委員長、国会懲戒委員会委員長・懲戒資格委員会委員長・財政経済委員会常任委員、京畿道知事、大韓海運公社監事、忠北旅客株式会社社長、制憲同志会総務幹事・副会長を務めた。
馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年… 馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年11月6日)は、朝鮮の児童文学作家。本名は馬 湘圭(マ・サンギュ、마산규)。創作童話の執筆に生涯を捧げ、方定煥と共に朝鮮の児童文学運動を先駆を担う。その文才は菊池寛に認められ、『文藝春秋』の編集部に入り、のち『モダン日本』の社長となる。朝鮮人にして日本の文化界の一流文人として活動した。詩人の馬鍾基は子。 1905年1月8日、京畿道(現:黄海北道)開城市大化洞52番地に生まれる。父は木川馬氏の馬応輝、母は密陽朴氏の朴光玉で、7人兄妹の6番目である。幼名は昌録。6歳の頃から書堂で漢文を習い、1912年、7歳で開城第一公立普通学校に入学、1916年に卒業する。
中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、1905年(明治38年)1… 中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、1905年(明治38年)1月7日 - 1998年(平成10年)10月23日)は、日本の文学者。大谷大学教授・京都市立美術大学など歴任。専門は書道史、中国文学。号は有廬(ゆうろ)、書斎を心花室(しんげしつ)と称した。 主な研究対象は王羲之・米芾・黄庭堅・空海・貫名菘翁など。 浩瀚な著述を残しているが、その研究分野は次の6つに分類できる。 以上の中で中国文学の詩余(漢詩)の研究と書道史の研究に重きが置かれ殊に書道史の研究においては質・量ともに日本の第一人者であり、その著作は翻訳され中国や欧米諸国でも高い評価を受けている[要出典]。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月7日 - 1986年〈昭和61年〉8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(自由民主党所属、14期)、建設大臣、農林大臣。魚屋から衆議院副議長にまで上り詰めた立志伝中の人物として知られる。群馬県名誉県民第1号。 群馬県山田郡大間々町大字桐原(現・みどり市大間々町桐原)に、父・辰之助、母・テルの三男として生まれる。父は養蚕指導員だったが、幼少期に死去。大正7年(1918年)大間々尋常高等小学校を卒業し、地元の「いも寅」商店に奉公。1931年(昭和6年)に魚店「魚丈」を開業し、1936年(昭和11年)に株式会社長谷川商店に改組。
浅井 真男(浅井眞男、あさい まさお、1905年1月6日 -… 浅井 真男(浅井眞男、あさい まさお、1905年1月6日 - 1987年3月9日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。東京府生まれ。早稲田大学名誉教授。 早稲田大学独文科卒、同助教授、教授を務めた。 リルケ、ニーチェ、キェルケゴールなど、19世紀から20世紀前半のドイツ文学やドイツ哲学、哲学書を多く翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5… 片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員、文化功労者・文化勲章受章者。位階は従三位。現在の北海道札幌市東区出身。 1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。 卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選するが、その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4… 土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4日) - 平成10年(1998年)11月25日)は、山梨県出身の郷土史家。民俗学、口承文芸研究者。本名は土橋 力。 山梨県西八代郡上九一色村古関(現在の甲府市古関町)に、父「喜一」、母「かん」の長男として生まれる。上九一色尋常小学校を経て、1922年(大正11年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業する。同年、父親が第四代局長を務める上九一色郵便局に勤務する。上九一色郵便局は1874年(明治7年)7月に開局し、里木の曽祖父である土橋助右衛門は初代局長を務めている。 昭和23年(1948年)に里木は五代目の上九一色郵便局長となり、昭和48年(1973年)に退官する。