内村 清次(うちむら せいじ、1902年(明治35年)4月8… 内村 清次(うちむら せいじ、1902年(明治35年)4月8日 - 1964年(昭和39年)11月22日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 熊本県飽託郡春日村(春日町、熊本市春日町を経て現:熊本市西区春日)で、内村政平、ノトの息子として生まれる。古町小学校を経て、1918年(大正7年)3月、西部高等小学校を卒業した。 1918年4月、鉄道院(のち鉄道省)熊本機関区の機関夫試傭試験に合格。1919年(大正8年)2月、機関科教習所に入所し、同年5月に卒業。1922年(大正11年)4月、機関士見習に合格し、1923年(大正12年)4月、機関士科を卒業。同年6月、機関士に任じられた。1924年(大正13年)1月、徴兵され歩兵第13連隊に入隊し満洲に派遣され、1925年(大正15年)11月に除隊した。
村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991… 村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991年1月28日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党衆議院議員(14期)。郵政大臣(第8・35代)、建設大臣(第18代)などを歴任した。 元参議院議員の村上春蔵は実弟。長男の禎は豊和工業の会長、二男の宏はフジテレビスポーツ部長を務めた。 大分県南海部郡大入島村(現・佐伯市 大入島)に、土建業「村上組」を経営していた村上袈裟松の長男として生まれる。1918年早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業後、飛島組(現・飛島建設)を経て、1944年、村上組の後身「大和土建」社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から立候補し当選、以後当選14回(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。
久生 十蘭(ひさお じゅうらん、1902年4月6日 - 19… 久生 十蘭(ひさお じゅうらん、1902年4月6日 - 1957年10月6日)は、日本の小説家、演出家。北海道函館市出身。本名:阿部 正雄。推理小説、ユーモア小説、歴史・時代小説、現代小説、ノンフィクションノベルなど多彩な作品を手掛け、博識と技巧的な文体で「多面体作家」「小説の魔術師」と呼ばれた。 北海道函館区に、父・小林善之助と母・鑑(戸籍上は「カン」) の長男として生まれる。母方は回漕業を営む家の次女 で草月流生花の師匠、父は番頭頭だった(後に離婚)。2歳の時に両親と離れて、回漕業を営む祖父阿部新之助に養育される。1916年春に函館区立寶小学校高等科を卒業して北海道庁立函館中学校(現:北海道函館中部高等学校)に進学するも中退。
八島 健三(やしま けんぞう、1902年(明治35年)4月6… 八島 健三(やしま けんぞう、1902年(明治35年)4月6日 - 1979年(昭和54年)10月17日)は、日本の長距離走選手。 北海道出身。稲穂小学校に学ぶ。小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)在学中に、1920年アントワープオリンピックにマラソンで出場。2時間57分20秒0で21位だった。北海道出身者としては初のオリンピック選手である。1921年には第5回極東選手権競技大会のマラソンに出場。 のち明治大学に進み、箱根駅伝に出場。1923年から1928年まで6年連続出場、5年連続(1928年を除く)で各区間賞を獲得した。1924年の第5回大会では、往路優勝の東京高師に明大が追い上げをかける展開となったが、10区を任された八島は鈴ヶ森で東京高師の選手を抜き、明大の3年ぶり2回目の優勝に貢献した。
盛本 完(もりもと かん / ゆたか、1902年(明治35年… 盛本 完(もりもと かん / ゆたか、1902年(明治35年)4月5日 - 1955年(昭和30年)11月17日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選宮崎県知事。 広島県出身。盛本縫之助の養子となる。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、中央大学法学部を卒業。1925年、内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、警視庁衛生主事、同衛生部衛生課長、同警視、中野警察署長、早稲田警察署長、四谷警察署長、警視庁刑事部捜査第二課長、千葉県地方課長、同庶務課長兼人事課長、同知事官房主事、北海道庁事務官・経済部商業課長、神奈川県警察部特別高等課長、山梨県書記官・経済部長、富山県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、山口県内務部長などを歴任。
羽衣 歌子(はごろも うたこ、1902年(明治35年)4月5… 羽衣 歌子(はごろも うたこ、1902年(明治35年)4月5日 - 1979年(昭和54年)9月7日)は、青森県出身の歌手。本名:加藤絢子。民謡歌手の三島一声は元夫。 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、1930年(昭和5年)にデビュー。1931年(昭和6年)に、広津和郎の小説を原作とした映画「女給」の主題歌「女給の唄」がヒット。日本ビクター蓄音機社の社歌や、「満州行進曲」などを吹き込む[要出典]。その後「東京音頭」で知られる、民謡歌手の三島一声と結婚するが、離婚。 戦後は引退していたが、音楽塾を経営し、歌の指導を行っていた。 昭和40年代の懐メロブームで復帰。1966年(昭和41年)に、田谷力三や榎本健一と共に出演した、第202回三越名人会「浅草オペラ」の歌唱が認められ、文部省芸術祭大衆芸能部門奨励賞を受賞し、再び表舞台へと返り咲いた。
信田秀一(しだ ひでかず-しゅういち、1902年4月5日 -… 信田秀一(しだ ひでかず-しゅういち、1902年4月5日 - 1974年5月3日)は、児童文学作家。青森生まれ。1922年青森師範学校卒、小原圀芳の自由教育に参加、成城学園のイデア書院の編集部に勤務。小学館、誠文堂新光社、日本出版、二葉株式会社の児童出版の企画編集。1973年日本児童文芸家協会から児童文化功労者。別筆名・石上十地、斎藤久児。
南江治郎(なんえ じろう、1902年4月3日 - 1982年… 南江治郎(なんえ じろう、1902年4月3日 - 1982年5月26日、別名筆名、南江 二郎)は京都府亀岡市出身の、大正・昭和期の日本の詩人、人形劇研究家。1934年(昭和9年)NHKに入局、企画部長、編成局長、専務理事を歴任し、1953年(昭和28年)顧問となる。 元財団法人都民劇場理事。元CBC嘱託。元南海電鉄顧問。文部省芸術祭実行委員、文部省「芸術選奨」選衡委員、日本詩人クラブ常任理事、日本文芸家協会員。ITI国際演劇協会日本センター理事。 早稲田大学で坪内逍遙、小山内薫らに学び、中退。1921年(大正10年)に処女詩集「異端者の恋」を出版、1922年(大正13年)に詩誌「新詩潮」を主宰。
結城 令聞(ゆうき れいもん、1902年4月2日 - 199… 結城 令聞(ゆうき れいもん、1902年4月2日 - 1992年8月28日)は、日本の仏教学者、元東京大学名誉教授。兵庫県姫路市の浄土真宗の寺善教寺に生まれる。1927年、東京帝国大学文学部印度哲学科卒。1929年、大学院入学、東方文化学院助手。1930年、大学院退学。1934年、東方文化学院研究員。1942年、東洋文化研究所嘱託。1949年、同教授。同年、「世親唯識の研究」で東京大学より文学博士を取得。1960年、東京大学東洋文化研究所所長、東京大学評議員。1963年、定年退官、京都女子大学教授、のち学長。1991年[要出典]、東京大学名誉教授。 浄土真宗本願寺派初代伝道院長も務めた。 剣道範士八段。
福田 一(ふくだ はじめ、1902年〈明治35年〉4月1日 … 福田 一(ふくだ はじめ、1902年〈明治35年〉4月1日 - 1997年〈平成9年〉9月2日)は、日本の政治家、位階は従二位。 自由民主党所属の衆議院議員(14期)、衆議院議長(第62代)。自民党では大野派→福田グループに属した後に、無派閥となる。 福井県出身。東京府立三中(現在の東京都立両国高等学校)、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部仏法科卒業。同盟通信記者を経て衆議院議員に。通産大臣、自治大臣、法務大臣などを歴任した。通産大臣時代には小説「官僚たちの夏」に描かれた今井善衛と佐橋滋との間の事務次官人事抗争に介入し、存在感を見せ付けたこともある。 自治大臣在任中、1975年1月21日、参議院決算委員会で「私は市川(房枝)さんほど国民を尊敬していない」と述べたため、野党の反発を招き、発言の取り消しを要求された。
七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1… 七代目 市川 壽美藏(いちかわ すみぞう、新字体:寿美蔵、1902年(明治35年)4月1日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は上方の歌舞伎役者。屋号は升田屋、定紋は藤巴の中に桔梗紋、替紋は寿の字巴紋。本名は太田 光之助(おおた みつのすけ)。 東京本郷生まれ。二代目市川團九郎の子、祖父は五代目市川壽美蔵。六代目市川壽美蔵(三代目市川壽海)は叔父にあたる。初舞台は明治45年(1912年)5月東京座の『大和橋』で市川登美三郎を名乗って馬子。大正8年(1919年)二代目市川團次郎を襲名。大正13年(1924年)名題昇進。のち六代目壽美蔵とともに二代目市川左團次主催の自由劇場に参加する。 戦後昭和23年(1948年)関西歌舞伎に移籍。
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体: 廣川 弘禪、190… 広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体: 廣川 弘禪、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1967年〈昭和42年〉1月7日)は、日本の政治家、僧侶、教育者。「弘禅」は曹洞宗の僧侶名で、本名は広川 弘(ひろかわ ひろし)。 衆議院議員。農林大臣(第12・14・16代)、行政管理庁長官(第6代)、自由党総務会長・幹事長、民主自由党幹事長、財団法人青葉学園理事長、青葉学園短期大学初代学長を歴任した。位階・勲等は正三位勲一等瑞宝章。 福島県石川郡玉川村生まれ。生家は曹洞宗の寺院大安寺。苦学し曹洞宗大学(後の駒澤大学)仏教学部中退。当時広川は、藤田俊訓らと共に同大学の単科大学昇格運動に積極的に参加していたため「風紀を乱す」として大学に目をつけられており、退学理由についても「当時の学長である忽滑谷快天の怒りを買った」ためとする説がある。
安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31… 安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1989年〈平成元年〉11月12日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市東堀通9番町(現 新潟市中央区東堀通9番町)の資産家・安宅安太郎の次男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)に独学で画家を志す。 1926年(大正15年)の第7回帝展で『風景』が初入選、1928年(昭和3年)に義兄(姉の夫)の大久保賢治郎の支援によりヨーロッパに渡って各国の美術を研究、1931年(昭和6年)に帰国。 1936年(昭和11年)に二科会会友になるが、1939年(昭和14年)に二科会を退会、1940年(昭和15年)に一水会会員になり、1946年(昭和21年)に一水会委員に就任、1949年(昭和24年)に一水会運営委員に就任。
山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - … 山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - 1972年6月3日)は、日本の野球公式記録員。日本プロ野球の規則や記録の整理・研究に貢献した人物である。本名・山内育二、後に祖名相続により山内佐助となる。 島根県松江市天神町の「山内佐助商店」の跡取りとして生まれる。山内佐助商店は1764年(明和元年)創業で、小間物問屋から始まり廻船問屋を経て、山内の誕生当時は呉服反物商だった。当主は代々「佐助」を名乗り、自身も1936年に7代目佐助を襲名している。長男にもかかわらず「育二」と名付けられたのは、養子の義兄がいたためとされる。生家は天神町および隣接する灘町に485坪の土地を持ち、祖父(5代目佐助)と父(6代目佐助)はともに地元銀行や商業会議所の要職も兼ね、松江市議会議員も務める名士で、裕福な家庭だった。
井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)… 井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)3月31日 - 1965年(昭和40年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 福岡県朝倉市出身。旧制福岡県立朝倉中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中70番、卒業時255名中31番。太平洋戦争中、軍令部作戦部や第六艦隊などで参謀として潜水艦作戦の立案に携わる。潜水艦に関する航空本部と同様の中央機関の必要性を訴え、潜水艦部の発足に尽力。戦後B級戦犯に問われ巣鴨刑務所に収監された。 井浦の自著によれば、将兵の娯楽ために、各地の基地に慰安所を設置することを、軍中央は公然と指示しており、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体:廣川 弘禪、1902… 広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体:廣川 弘禪、1902年(明治35年)3月31日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、日本の政治家、僧侶、教育者。「弘禅」は曹洞宗の僧侶名で、本名は広川 弘(ひろかわ ひろし)。農林大臣、国務大臣行政管理庁長官、日本自由党総務会長を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。
村山 道雄(むらやま みちお、1902年3月31日 - 19… 村山 道雄(むらやま みちお、1902年3月31日 - 1981年12月10日)は、日本の政治家。山形県知事や参議院議員を務めた。また、アララギ派の歌人でもあった。1972年勲二等旭日重光章。1982年正四位。 兵庫県出身。東京帝大法学部政治学科卒。1945年官選山形縣知事、1947年から山形県知事を2期8年務めた。同年8月に行われた昭和天皇の戦後巡幸では随行役を務めたほか、在任中は基督教独立学園高等学校の新制高校認可を助けるなどした。1950年に自由党入党。 知事退任後は、1959年の第5回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山形地方区から出馬し当選。内閣委員長を務めている。 1981年12月10日、老衰のため79歳で死去。
平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月3… 平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月31日 - 2004年(平成16年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、童謡歌手、音楽教育者。 旧姓:早川(はやかわ) 実業家、早川鉄冶の子として東京に生まれる。6歳から山田流箏曲を山木派の須藤春賀に学ぶ。1919年(大正8年)青山女学院卒業。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)でハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1923年(大正12年)同校本科声楽部卒業。1925年(大正14年)同校研究科声楽部修了。1925年8月函館市で本居長世・みどり・貴美子、吉田晴風、早川美奈子による演奏。
梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月… 梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月30日 - 1986年(昭和61年)4月26日)は、北海道函館出身の画家・彫刻家。東京美術学校を首席で卒業、戦前から少年倶楽部をはじめとする児童雑誌や絵本などの挿絵画家として活躍。彫刻家としても、函館市の高田屋嘉兵衛像や長崎市グラバー園の三浦環(蝶々夫人)像などの作品を制作した。また、日本出版美術家連盟の設立にも加わった。 1902年、北海道函館区で梁川亀太郎、ヨコの長男として生まれ、生後すぐ亀太郎の兄・鶴松の養子となる。14歳のとき父親の転勤に伴い札幌へ移り、北海中学に入学する。北海中学では応援団に入ったほか、「団栗(どんぐり)会」という美術部で本郷新らと絵を描いていた。
工藤 友恵(くどう ともえ、1902年 <明治35年> 3月… 工藤 友恵(くどう ともえ、1902年 <明治35年> 3月30日 - 1972年 <昭和47年> 9月27日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 長野県出身。1925年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に大阪商船に入社。 1949年4月に大阪建物監査役を経て、1960年11月には社長に就任。1961年6月から1966年10月までに関西経済連合会副会長を務めた。 1972年9月27日、直腸癌のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浜田 稔(はまだ みのる、1902年(明治35年)3月30日… 浜田 稔(はまだ みのる、1902年(明治35年)3月30日 - 1974年(昭和49年)12月30日)は、日本の建築材料学者、建築防災学者。東京大学名誉教授。大阪府生まれ。 東京大学、東京理科大学教授として、コンクリート草創期のJIS制定や、日本コンクリート会議の設立をはかった。また科学的防火・避雅の問題に取り組み、都市の防火体制の確立とともに内装材制限の法制化に尽力。 仕事が速く実行も結論をまとめることも速かったという。大学院時代も初め暫くは文献の調査などに当たり、やがて設備が整ったとはいえない実験室で休むことのないコンクリートの試験体作りを開始。これが後に「コンクリートの浜田」といわれるようになった第一歩であり、「コンクリートの浜田」はその後「火災の浜田」「都市防災の浜田」となり、死の直前までその方面の第一人者として活躍。
小森 善一(こもり よしかず、1902年3月30日 - 19… 小森 善一(こもり よしかず、1902年3月30日 - 1990年9月15日)は、日本の実業家。小森コーポレーション社長を務めた。福井県福井市出身。 1918年に福井高等工業学校機械科を卒業。上京を経て、1923年に小森印刷機械製作所(のちの小森コーポレーション)に入社した。1946年に株式会社への変更と同時に専務に就任し、1952年3月に社長に昇格し、1979年から相談役を務めた。 1965年に黄綬褒章を受章し、1972年に勲三等瑞宝章を受章した。 1990年9月15日心不全のために死去。88歳没。
川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(い… 川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(いけだ まさかず)、1902年3月29日 - 1980年8月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の運動にも関わった。また、紙芝居の制作にも携わり、第二次世界大戦後の民主主義教育の普及にも貢献した。 北海道札幌市生まれ、旭川市出身。幼少期は巖谷小波に関心をもち、図書館に通って巌谷の本を二百冊以上読んでいた。1919年に北海道庁立旭川中学校を卒業後に上京、巌谷小波のもとを訪ねて師事。早稲田第二高等学院を経て早稲田大学文学部英文学科卒業。在学中に大杉栄の全集を読んで影響を受け、早大童話会にも所属していた。また巌谷の翻訳業の下請けをして学費や生活費を稼いでいた。
冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29… 冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29日 - 1970年1月15日)は、日本の作家、画家。 大分県大分市生まれ。父・冨澤久蔵は中学校の英語教師をしており、転勤の都合により全国に移り住む。やがて幼年期より名古屋市で過ごす。旧制東海中学校卒業。東京美術学校に進学して絵画だけでなく文学についても学ぶが1年で中退し、漫画記者として新愛知新聞(現在の中日新聞)に入社する。 1921年より2年連続で帝展に入選し、1927年にはフランスへ1年間留学し絵画を学んだが、その側で作家としての活動も行い1925年に同人誌『鷲の巣』を創刊している。1930年に結婚し、東京市牛込区天神町(当時)へ移住すると、次第に作家としての活躍が認められるようになり、1936年8月に発表した『地中海』で翌1937年2月に芥川賞を受賞した。
小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 195… 小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 1959年3月27日)は、昭和期の冶金学者・金属工学者。東京府(現:東京都)出身。
富永 祐治(とみなが ゆうじ、1902年(明治35年)3月2… 富永 祐治(とみなが ゆうじ、1902年(明治35年)3月29日 - 1997年7月25日)は、日本の交通経済学者。大阪市立大学経済学部名誉教授。 東京商科大学(のち一橋大学)卒、大塚金之助に師事。1929年大阪商科大学付属大阪市経済研究所勤務、1933年大阪商大助教授、教授、1953年「交通における資本主義の発展」で大阪商大経済学博士、大阪市立大学経済学部教授、1965年定年退官、名誉教授。都市交通研究所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月2… 寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月29日 - 1993年(平成5年)8月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、大阪府泉北郡高石町長。号・青胡。 1902年(明治35年)大阪府で寺田財閥創業者寺田甚与茂の四男として生まれる。1929年(昭和4年)明治大学商科卒業。 1940年(昭和15年)兄(寺田甚吉)の後を継ぎ、岸和田紡の社長となり、戦争時の要請により、岸和田紡績を大日本紡績(現ユニチカ)に合併した後はその専務まで務めた他、寺田財閥系企業などの経営に関与した(オーツタイヤ社長、 朝日火災海上保険常務など)。 また、大日本紡績常務のときに、経済同友会が発足し、幹事に就任した。
3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈… 3代目 桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉- 1961年1月16日)は、日本の落語家。本名:小林 七郎。出囃子:「つくま」。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て落語協会に移籍。 当時さほど注目されていなかった落語『芝浜』を独自に練り上げ得意にした。それ以降『芝浜』は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも3代目桂三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」。他にも通称は「田端の三木助」、「隼の七」。 実家は床屋。後日、養子であることを知るが両親には最後まで聞かなかったと告白している。
由利 健次(ゆり けんじ、1902年3月27日 - 没年不詳… 由利 健次(ゆり けんじ、1902年3月27日 - 没年不詳)は、日本の元俳優である。本名は中山 太吉(一説に中山 章、なかやま あきら)。旧芸名は中野 洋二(なかの ようじ)、中野 健治(なかの けんじ)、中野 健次、中野 健二。 1902年(明治35年)3月27日、三重県桑名郡城南村字小貝須(現在の同県桑名市小貝須)に農業を経営する父・弥太郎と母・すわの次男として生まれる。城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)卒業後、北海道雨竜郡深川町(現在の同道深川市)にあった親戚邸に移り、北海道庁立旭川中学校(現在の北海道旭川東高等学校)に進学するも、1921年(大正10年)に中退する。ただし、1998年(平成10年)に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』では「旭川中学校卒業」としている。
須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973… 須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973年8月15日)は、昭和期の日本の実業家。揖斐川電気工業(現・イビデン)社長。大垣市名誉市民。鳥取県出身。 因幡銀行取締役の須崎幾蔵の長男として生まれる。鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、1924年慶應義塾大学経済学部を卒業。同年大同電力に入社。その後、大阪電力、因幡銀行取締役、大同化学(現 信越化学工業)を経て、1940年3月揖斐川電気工業(現 イビデン)に移る。1947年1月にイビデン取締役、同年8月に常務取締役(営業部長)となる。 取締役副社長(1959年11月)を経て、宮寺敏雄の後任として1962年5月に代表取締役社長に就任した。
大津 有一(おおつ ゆういち、1902年3月27日 - 19… 大津 有一(おおつ ゆういち、1902年3月27日 - 1983年7月1日)は、日本の国文学者。 石川県生まれ。1930年東京帝国大学文学部国文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)教授、1949年金沢大学法文学部教授、1957年「伊勢物語古註釈の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。金沢大法文学部長、66年定年退官、名誉教授、皇學館大學教授。『伊勢物語』を専門とした。
小川 正子(おがわ まさこ、1902年3月26日 - 194… 小川 正子(おがわ まさこ、1902年3月26日 - 1943年4月29日)は、日本の医師。手記『小島の春』で知られる。 1932年、希望して岡山県の長島愛生園に勤務、光田健輔の指導を受ける。ハンセン病在宅患者の収容に赴き、その状況を『小島の春』に著した。同書はその文学的価値が高く評価されて映画化され、「小島の春現象」を産んだが、一方でハンセン病に対する偏見を強化し、無らい県運動に加担したとする批判もある[誰によって?]。 ※以下の文中では、当人存命当時の慣例に沿って、ハンセン病について「らい」と表記する場合がある。 山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市)に生まれる。1918年に甲府高等女学校を卒業した。
穂積 五一(ほづみ ごいち、1902年3月26日 - 198… 穂積 五一(ほづみ ごいち、1902年3月26日 - 1981年7月17日)は、日本の社会教育家。アジア学生文化協会、アジア文化会館の創設者として知られる。アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどから2万人を超える留学生を受け入れ、国際交流に貢献した。 愛知県八名郡能登瀬村(現・新城市能登瀬)に生まれる。父親は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三。弟に日本社会党衆議院議員の穂積七郎がいる。幼くして1904年6月27日に父を亡くし、母とともに生家を追われる。旧制愛知県豊橋中学校を経て、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業し、同年東京帝国大学に進学。 1925年(大正14年)、上杉慎吉を中心とする思想団体「帝大七生社」が結成され、穂積は同団体において会員の育成にあたった。
武内 五郎(たけうち ごろう、1902年(明治35年)3月2… 武内 五郎(たけうち ごろう、1902年(明治35年)3月25日 - 1981年(昭和56年)2月10日)は、日本の農民運動家、政治家。参議院議員(2期)、青森県上北郡浦野舘村長。 青森県出身。1926年(大正15年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 早大建設者同盟設立に参加し社会主義運動に加わる。日本社会主義同盟、日農関東同盟に加わり農民運動に参画し、新潟県木崎村小作争議、同県王番田、同乙村などの小作争議を指導した。労働農民党、日本労農党、日本大衆党などの無産政党の結成に参画した。 戦後、青森県上北郡浦野舘村長に就任。以後、八戸労働組合学校主事、日本農民組合中央執行委員、社会党左派中央委員、日本社会党新潟県書記長、同執行委員長、新潟県農業会議議員、同県土地収用委員などを務めた。
峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1… 峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1991年3月21日)は、日本の経営者、歌人。 長野県小県郡富士山村(現在の上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業。 加島銀行での勤務を経て、野村銀行に入行し、大和銀行専務を経て、1959年に副頭取に就任し、1963年に会長に就任し、1968年から顧問を務めた。積水化学工業取締役なども歴任した。 1923年に太田水穂に師事し、歌人としても活躍し、「峯村英薫歌集」がある。 1965年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年3月21日急性心不全のために死去。
塩谷 信男(しおや のぶお、1902年3月24日 - 200… 塩谷 信男(しおや のぶお、1902年3月24日 - 2008年3月14日)は、日本の医師、心霊研究者。
小栗 孝則(おぐり たかのり、1902年3月22日 - 19… 小栗 孝則(おぐり たかのり、1902年3月22日 - 1976年)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。 東京生まれ。海軍大将の小栗孝三郎の長男。父親の母方の親戚に戸田城聖がいる。 東京府立第一中学校を経て東京外国語学校ドイツ語科中退。1937年の『新編シラー詩抄』のうちの「人質」をネタとして太宰治が「走れメロス」を書いた。
徳力 富吉郎(とくりき とみきちろう、明治35年(1902年… 徳力 富吉郎(とくりき とみきちろう、明治35年(1902年)3月22日 - 平成12年(2000年)7月1日)は明治時代末期から平成時代にかけての版画家。 京都市の西本願寺絵所を預かる家系の12代目として生まれる。京都市立美術工芸学校に学んだ後、大正12年(1923年)に京都市立絵画専門学校を首席で卒業する。卒業後、土田麦僊に師事した。昭和3年(1928年)に国画創作家協会に日本画を出品、樗牛賞を受賞する。翌昭和4年(1929年)には麻田弁次、浅野竹二、亀井藤兵衛らとともに「京都創作版画協会」を創立した他、国画賞を受賞している。主に京都で多くの創作活動をし、仏教版画の研究を行った。この頃から富吉郎は木版を始めており、平塚運一や棟方志功らと同人誌『版』を創刊する。
楢橋 渡(ならはし わたる、1902年(明治35年)3月22… 楢橋 渡(ならはし わたる、1902年(明治35年)3月22日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の弁護士、政治家。国民民主党最高顧問。内閣書記官長・運輸大臣を務めた。その風貌と弁舌から怪物と呼ばれた。従三位。勲二等。元衆議院議員の楢橋進は長男。 福岡県三井郡国分村(現・久留米市)に生まれる。農業・楢橋浅吉の長男。三井郡立准教員養成所を卒業後、小倉師範学校を受験するも、色盲のため不合格となり、煩悶の末出奔する。北九州鞍手郡炭坑にて5年間鉱夫として働く。その後18歳で上京し、3年間の独学を経て1923年高等文官試験司法科に合格。最年少(20歳)合格者ということで各新聞に取り上げられた。
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 -… 岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。 1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市東区田島町(現・中央区)で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村(現・橋本市柱本)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授。1929年(昭和4年)、フランス留学。中谷宇吉郎と中谷治宇二郎に出会い、妻の岡ミチも合流する。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。
福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日… 福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日 - 没年不明)は、日本の教育者。元境高等学校長。 旧制鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)では、西田税(二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、北一輝とともに刑死)と同期だった。大正13年(1924年)、旧制金沢医科大学附属薬学専門部卒業。鳥取県立米子中学校教諭、同米子工業学校長、鳥取県立境高等学校長を歴任した。昭和32年(1957年)退職。 大正14年(1925年)3月、秩父宮が来陰した際、西田税は汽車に同車し、秩父宮と談笑した。西田と米子中学校(現・米子東高校)で同期だった福島は「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ。
金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945… 金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945年4月25日)は、朝鮮のキリスト教指導者。本貫は慶州金氏。 咸鏡南道咸興府出身。1919年に日本の正則英語学校に留学し、1920年に東京のホーリネス教会で受洗、1921年内村鑑三のロマ書講義に感銘を受け、以後の聖書集会に出席した。1927年東京高等師範学校理科第3部を卒業後帰国し、咸興の永生女子高等普通学校の教師を務め、1928年からは京城の養正高等普通学校、1940年には第一高等普通学校、1941年には開城の松都高等普通学校に赴任した。 1927年には咸錫憲ら無教会主義の同志らと『聖書朝鮮』誌を創刊し、「世の中で一番良いものは聖書と朝鮮」であり、「新しい朝鮮を聖書の上に建てよ」と説き、朝鮮的キリスト教を追求した。
渡辺 本治(渡邊、わたなべ もとじ、1901年(明治34年)… 渡辺 本治(渡邊、わたなべ もとじ、1901年(明治34年)4月18日 - 1961年(昭和36年)3月14日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県、後の西条市の農家に生まれる。10歳で父が死去し、商店や銅山で働き、17歳の時に一家で九州に移った。 1925年(大正14年)中島炭鉱に入社し採炭作業に従事。1933年(昭和8年)熊ヶ畑炭鉱(山田市)を開鉱。1936年(昭和11年)篠谷炭鉱(二瀬町)を開鉱。その後、伊岐須鉱・後牟田鉱(二瀬町)、赤間鉱(宗像町)、古月鉱(鞍手町)、稲築鉱、水江鉱などを経営し、渡辺鉱業社長、渡辺商事社長となる。1947年(昭和22年)小倉硝子工業を設立し社長に就任。
斉藤 利忠(さいとう としただ、1901年 <明治34年> … 斉藤 利忠(さいとう としただ、1901年 <明治34年> 4月17日 - 1981年 <昭和56年> 12月29日)は、日本の経営者、銀行家。安田倉庫、安田信託銀行各社長を務めた。群馬県出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に安田銀行に入行。1945年1月に安田保善社に転じ、1946年8月に安田倉庫専務に就任し、1948年には社長に昇格。1951年11月には安田信託銀行副社長に就任し、1957年6月には社長に昇格し、1963年5月から1970年5月までに会長を務めた 1966年4月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年12月29日に肺炎のために死去。
岩木 哲夫(いわき てつお、1901年(明治34年)4月15… 岩木 哲夫(いわき てつお、1901年(明治34年)4月15日 - 1980年(昭和55年)2月2日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。旧姓は三宅川。 愛媛県越智郡富田村(現今治市)で、三宅川秀逸の長男として生まれ岩木六兵衛の養子となる。大阪大倉商業学校(現関西大倉中学校・高等学校)を卒業した。 藤本合資に入り、同社代表、大阪穀物商同業組合副組長、同組合長を経て、1937年(昭和12年)大阪府米穀商業組合理事長に就任。1942年(昭和17年)食糧営団の設立に伴い大阪府食糧営団専務理事となる。以後、中央食糧営団理事、大阪府食糧国防団団長、同物価協力会議食糧部長、同府経済警察協議員、大阪食糧科学学校講師、大阪地方検事局及び裁判所経済委員などを務めた。
毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 198… 毛利 与一(もうり よいち、1901年4月15日 - 1982年1月30日)は、日本の弁護士。 福岡県北九州市で生まれる。 1925年に京都帝国大学法学部を卒業。1928年には大阪で法律事務所を開く。その後は第2次大本教事件、人民戦線事件、天理本道事件などの弁護人を務める。戦後、東京裁判では平沼騏一郎の補佐弁護人を務め、鈴木大阪警視総監名誉毀損事件ではGHQの裁判干渉に抗議しながら弁護に当たった。その他にも松川事件、八海事件、破壊活動防止法京都事件、朝日訴訟、砂川事件などで弁護活動を行った。 1958年『自由心証論 : 有罪心証としての』で立命館大学法学博士を取得。1959年に大阪弁護士会会長を務めた。
安立 綱光(あだち つなみつ、1901年4月15日 – 19… 安立 綱光(あだち つなみつ、1901年4月15日 – 1981年11月2日) は、日本の昆虫学者。 1921-1922年兵役をへて、1925年に東京大学農学部に入学し卒業。1932年に助手となり、1948年に助教授。 1954年、東洋大学教授に就任。 彼は1976年に退官。 足立は主に昆虫学に関する75の科学論文を執筆しており、そのほとんどがハネカクシに関するものであった。 彼の発見した11の新種はすべて日本から。 リー・H・ハーマン(2001)。 Staphylinidae(昆虫綱:甲虫目)のカタログ。 1758年から第二千年紀の終わりまで。 I.はじめに、歴史、伝記のスケッチ、およびオマリーングループ 、アメリカ自然史博物館紀要、265 :i + vi + 649 p。
吉富 滋(よしとみ しげる、1901年〈明治34年〉4月15… 吉富 滋(よしとみ しげる、1901年〈明治34年〉4月15日 - 1946年〈昭和21年〉10月18日)は、日本の内務・厚生官僚。官選高知県知事。 山口県出身。吉富瀬兵衛の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1928年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し、神奈川県属となる。 以後、福島県教育課長、同地方課長、島根県警察部特別高等警察課長、兵庫県警察部外事課長、内務省社会局事務官、厚生事務官、軍事保護院書記官、同業務局業務課長、厚生省大臣官房会計課長などを歴任。 1946年1月、高知県知事に就任。県立学校の統合、四国配電株式会社重役陣の改組、県内の復興などに取り組んだ。
廿日出 厖(はつかで ひろし、1901年〈明治34年〉4月1… 廿日出 厖(はつかで ひろし、1901年〈明治34年〉4月15日 - 1947年〈昭和22年〉10月19日)は、日本の教育者、政治家。浜松学院興誠高校の創立者、衆議院議員。 1901年(明治34年)広島県呉市豊町大長出身。ミカン農家の五男に生まれる。長崎高等商業学校を卒業し、1929年(昭和4年)3月に東北帝国大学宗教哲学科を卒業する。 内務大臣望月圭介の秘書官を経て、遠江商業学校校長に就任する。しかし、学校の経営責任者と対立し生徒らと共に学校を去り新たに普済寺で授業を開始する。 1933年(昭和8年)11月、文部大臣から財団法人・興誠商業学校の設立指定を受ける。 1946年(昭和21年)4月に、戦後第1回の総選挙に諸派から静岡県全県区で衆議院議員に当選した。
山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4… 山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4月15日 - 1979年(昭和54年)9月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期)、鎌倉市長(3期)、鎌倉市会議員、神奈川県会議員(鎌倉市選挙区)。山梨県生まれ、東京都出身。位階は従四位。