山路 閑古(やまじ かんこ、1900年10月13日 - 19… 山路 閑古(やまじ かんこ、1900年10月13日 - 1977年4月10日)は、化学者、俳人、古川柳研究家。 静岡県鷹匠町(現・静岡市葵区)出身。本名は萩原時夫。1925年、東京帝国大学理学部化学科卒。川柳を阪井久良伎に、俳句を高浜虚子に、連句を根津芦丈に学び、古川柳を紹介した。1962年大磯鴫立庵十九世庵主。東京高等商船学校教授、共立女子大学教授(化学)、1971年定年。
林 一夫(はやし かずお、1900年 <明治33年> 10… 林 一夫(はやし かずお、1900年 <明治33年> 10月12日 - 1978年 <昭和53年> 7月14日)は、日本の経営者。山口県出身。位階は正四位。 1925年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1941年に日本鉱業に転じ、1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1959年に専務を経て、1960年から1965年8月までに副社長を務め、1964年2月には帝石石油社長に就任。1965年8月から1969年5月までに共同石油社長も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年7月14日心不全のために死去。77歳没。
田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12… 田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年)4月23日)は、日本の実業家。東京測器(現・日本ファイリング)株式会社社長。小竹商店、湘南軌道各取締役。 田嶋勝次郎の四男として豊島区に生まれる。祖父の宇太郎は加賀国出身で、江戸に出て東本願寺の寺侍となった。早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業。その後、東京建鉄技師、大東工業副社長、日本鋼鉄家具常務、京浜鋼鉄工業社長、清水建材興行取締役を歴任。1939年(昭和14年)12月23日、東京測器(現・日本ファイリング)株式会社を設立し、同社社長に就任。1961年(昭和36年)紫綬褒章を受け、1970年(昭和45年)11月勲四等に叙せられた。
丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月… 丸山 久雄(まるやま ひさお、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年))は、大正後期から昭和期の教育者、政治家。長野県中野市長。位階は従五位。 長野県下高井郡倭村(現中野市)で、教育者・丸山久保吉の長男として生まれた。長野師範学校卒業後、1921年(大正10年)7月、公立小学校訓導に就任。1922年(大正11年)兵役につく。除隊後、下高井郡高丘小学校長、平穏小学校長、中野小学校長を歴任し、長野県視学などを経て、1947年(昭和22年)下高井郡教育会長を務めた。長野県教職員組合執行委員長を経て1955年(昭和30年)長野県教育委員会教学指導課長に就任した。 1962年(昭和37年)8月、中野市長選挙に当選し、1970年(昭和45年)8月まで2期務めた。
竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日… 竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日 - 1984年6月7日)は、日本の実業家。安田生命保険取締役会長や、同社取締役社長を務め、中興の祖とされた。 秋田県北秋田郡大館町(現・大館市)出身。大館尋常小学校を経て、1918年秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)卒業。1921年小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業。1924年東京商科大学(現・一橋大学)商学部卒業(井浦仙太郎ゼミ)。 大学卒業後、安田銀行に入行。安田銀行金融課長、安田銀行小舟町支店長、安田銀行取締役本店営業部長、日本貯蓄銀行専務取締役などを歴任したが、日本の降伏後、公職追放となる。 1950年安田生命保険取締役会長に復帰。
今道 潤三(いまみち じゅんぞう、1900年(明治33年)1… 今道 潤三(いまみち じゅんぞう、1900年(明治33年)10月11日 - 1979年(昭和54年)5月25日)は、日本の実業家。TBS元社長・会長。長崎県諫早市高来町出身。 1925年(大正14年)に京都帝国大学経済学部卒業。大阪商船(現在の商船三井)での勤務を経て、1952年(昭和27年)にラジオ東京(現在のTBSホールディングス)に入社した。 1965年(昭和40年)からは東京放送社長を務め、テレビドラマと報道番組の強化により、「報道とドラマのTBS」として一時代を築いた。1969年(昭和44年)11月28日から会長、1976年(昭和51年)からは相談役を歴任した。 その一方で、1968年(昭和43年)から1974年(昭和49年)までは日本民間放送連盟会長を務めた。
宮田 為益(みやた ためます、1900年(明治33年)10月… 宮田 為益(みやた ためます、1900年(明治33年)10月11日 - 1955年(昭和30年)7月2日)は、日本の内務・厚生官僚。官選岩手県知事。 島根県能義郡広瀬町(現・安来市)出身。第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し佐賀県属となる。 以後、高知県警察部警務課長、山口県警察部保安課長兼工場課長、和歌山県学務課長兼社寺兵事課長、兵庫県商工課長、同知事官房主事兼秘書課長、同人事課長、茨城県学務部長、厚生省書記官・薬務課長、山梨県書記官・総務部長兼経済部長、神奈川県官房長、厚生省大臣官房会計課長、同衛生局資材課長などを歴任。
豊島 至(とよしま いたる、1900年10月10日-1947… 豊島 至(とよしま いたる、1900年10月10日-1947年9月20日)は、アメリカ統治下の奄美群島の首長。臨時北部南西諸島政庁知事。元は鹿児島県大島郡の教育者。 現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町出身(奄美群島加計呂麻島芝地域生まれ)。1921年、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業。管鈍尋常小学校(後の瀬戸内町立管鈍小学校)の代用教員となったのを皮切りに教育者としての道を歩み、諸鈍や小野津の校長を務める。大島郡教育会主事を経て、鹿児島県大島支庁総務課振興係主任となる。 1946年2月、奄美群島が日本と行政分離されアメリカ合衆国の統治下に入ったことに対応するため全大島連絡委員会が発足し、豊島は大島支庁振興主事として同会幹事に就任する。
竹田 直平(たけだ なおひら、1900年10月10日 - 1… 竹田 直平(たけだ なおひら、1900年10月10日 - 1998年3月16日)は、日本の法学者。富山県出身。専門は刑法。立命館大学教授、近畿大学教授、甲南大学教授を歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2… 梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2006年8月30日)は、岡山県岡山市生まれの実業家。岡山木村屋創業者、岡山商工会議所最高顧問。梶谷博則は息子。 その他、岡山県経営者協会会長(1960年~1968年、1981年~1988年)。岡山商工会議所会頭(1960年~1968年)。さらに、岡山県商工会議所連合会会長、岡山県観光連盟会長、日本赤十字社岡山県副支部長などを歴任。 木村屋総本店からの暖簾分けの際に、「一生、パン以外の事業はしない」と当時の会長に約束して、自身が死ぬまで約束を守り通した。 福祉に関心があり、社会福祉法人旭川荘の理事を40年務めた。また、1990年に1億円を投じて梶谷福祉基金を設立している。
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月… 太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日)は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業。京都帝国大学大学院産婦人科専攻(大正15年)修了。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した。優生保護法の制定に尽力。日本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。 京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業後に医師になる。
江頭 恒治(えがしら つねはる、1900年10月7日 - 1… 江頭 恒治(えがしら つねはる、1900年10月7日 - 1978年10月5日)は、日本の経済学者。滋賀大学名誉教授。 佐賀県生まれ。1924年佐賀高等学校を卒業。同年、京都帝国大学経済学部に入学し、本庄栄治郎のもとで日本経済史を学び、1927年卒業。浪速高等学校講師などを務めたのち、1933年黒正巌が開設した日本経済史研究所の所員となる。1937年、満州建国大学助教授、1940年に同大学教授。戦後、1947年2月に彦根経済専門学校講師となり、翌3月同校教授。1949年に同校が新設の滋賀大学に包摂されると、同大学教授となり、兼ねて同大学彦根経済専門学校教授に任ぜられる。1961年、定年退官、名誉教授。
中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1… 中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1969年8月19日)は、日本の小説家。本名は中山 議秀(なかやま よしひで)。横光利一に兄事し、無名時代の長い苦節を経て『厚物咲』『碑』で文壇に登場。以後作家として幅広く活躍した。後年は、戦国武将物や剣豪物を多く書いた。日本芸術院会員。 福島県西白河郡大屋村(後の大信村、現在の白河市)生まれ。 1918年に旧制福島県立安積中学校(現在の福島県立安積高等学校)を卒業、1923年に早稲田大学文学部英文科卒業。 早稲田大学在学中に、横光利一、富ノ澤麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊。小説『穴』を発表。また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。
平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日… 平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日 - 1989年(平成元年)6月17日)は、日本の医学者。新潟県出身。専門は脳神経解剖学。京都大学教授、京都大学第16代総長などを務めた。 1900年(明治33年)新潟県西蒲原郡七穂村(のち味方村、現新潟市南区)に生まれる。 幼時より医師になることを志し、地元の小学校を卒業した後父の居た京都に独りで赴き、1912年(大正元年)に京都市立平安中学に入学、1915年(大正4年)に府立第二中学へ転校し1917年(大正6年)に卒業。同年7月、金沢の第四高等学校(金沢大学の前身)に入学、1920年(大正9年)高校を卒業し、京都帝国大学医学部に入学。
只野 直三郎(ただの なおさぶろう、1900年〈明治33年〉… 只野 直三郎(ただの なおさぶろう、1900年〈明治33年〉10月2日 - 1984年〈昭和59年〉9月26日)は、日本の政治家、衆議院議員 (3期)。陸軍司政官。 宮城県大崎市出身。1932年(昭和7年)、東北帝国大学法文学部を卒業。東北中学の教諭や東北薬学専門学校の講師を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙に非推薦で立候補したが落選した。同年、陸軍司政官となった。他にも東北中学・商業学校校長代理や東北農学校長などの役職を務め、1946年(昭和21年)に日本人民党を結成して党首となった。同党は実質的に只野の個人政党であったが、1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙に宮城1区から立候補し初当選した。
福井 慶三(ふくい けいぞう、1900年10月1日 - 19… 福井 慶三(ふくい けいぞう、1900年10月1日 - 1987年12月24日)は、日本の実業家。日本綿花(現双日)第11代社長や、オリエント・リース(現オリックス)初代社長を務めた。 兵庫県出身。神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業後、1923年に日本綿花(後の日綿実業、ニチメン、現・双日)入社。長年にわたりインドに駐在し、1939年にボンベイ支店長、1947年に取締役、常務、専務をそれぞれ歴任。1960年に社長就任し、1966年に会長就任。それに先んじて1964年には、乾恒雄や宮内義彦らとともにオリエント・リース(現・オリックス)設立に携わって初代社長となり、3年間務めた。 1967年には中小企業振興業団(現・中小企業事業団)を設立するほか、日中貿易センター監事や毎日放送取締役なども務めた。
柳谷 清三郎(やなぎや せいざぶろう、1900年(明治33年… 柳谷 清三郎(やなぎや せいざぶろう、1900年(明治33年)10月1日 - 1984年(昭和59年)3月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。能代市長。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 秋田県出身。1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。能代港町学務課長、同助役を経て、1946年第3代能代市長に就任した。市長在任中は市民歌の制定、市役所、警察署などの建設、1949年には能代大火が起こり、その復興に力を入れた。市長は1955年まで務め、同年の第27回衆議院議員総選挙で秋田1区から日本民主党公認で立候補したが落選。次の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党公認で立候補して初当選し、2期務める。
稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - … 稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - 1955年2月21日)は、日本の農民運動家・政治家。衆議院議員(5期)。本名は「稲村 順蔵」、ペンネームは「村上 進」。 新潟県三条市出身。稲村道三郎の二男として生まれた。北海道帝国大学予科から東京帝国大学へ入学するが、兄・稲村隆一の影響を受け農民運動に関わるようになり大学を中退。1926年に労働農民党に入党し、雑誌「マルクス主義」の編集者。無産大衆党書記や社会大衆党書記を務め、1927年『労農』同人。1928年に日本大衆党に参加するが翌1929年5月21日に除名処分を受ける。1932年には秋田、新潟の農民運動に参加するも、1937年人民戦線事件で検挙され、釈放の後に帝国農業会嘱託や中央農会副参事として勤務する。
大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 … 大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 - 1987年12月7日)は、日本の建築家・建築史学者。修理技術者でもある。 木造古建築の不燃化を目指し、RC造で日本の伝統様式の再現を試みている。 主要作品には浅草寺本堂(1958)や川崎大師平間寺本堂(1964)、聖光寺本堂(1970)などや、松前城本丸跡に立地する松前城資料館(1960)が確認される。 東京出身。1926年東京帝国大学工学部建築学科卒。1941年「興福寺伽藍配置ノ我伽藍制度史上ニ於ケル地位ヲ論ズ」で工学博士(東京帝大)。1927年文部省宗務局嘱託となり、のち文部技官、国立博物館保存修理課課長、法隆寺国宝保存工事事務所所長。
美川 きよ(みかわ きよ、女性、1900年9月28日 - 1… 美川 きよ(みかわ きよ、女性、1900年9月28日 - 1987年7月2日)は、日本の小説家。 神奈川県出身。大阪府立大手前高等女学校(後の大阪府立大手前高等学校)卒。本名は鳥海清子。 大正15年(1926年)『三田文学』に「デリケート時代」を発表。昭和5年(1930年)以降「父の恋愛」など女性心理をえがく短編を手がける。画家の鳥海青児と結婚。
春 彦一(はる ひこいち、1900年(明治33年)9月27日… 春 彦一(はる ひこいち、1900年(明治33年)9月27日 - 1965年(昭和40年)11月2日)は、日本の地方官僚。官選岩手県知事、東京都副知事。 福岡県出身。春米吉の二男として生まれる。福岡県立嘉穂中学校、第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、東京市役所事務員となり電気局庶務課に配属された。 以後、東京市主事、電気局庶務課長、企画局庶務課長、同企画課長、同財務課長、総務局文書課長、電気局総務課長、東京市理事・電気局電車部長、市長室企画部長、東京都交通局総務課長、港湾局長、交通局長などを歴任。 1946年1月、岩手県知事に就任。
堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月… 堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 - 1948年〈昭和23年〉9月25日)は、日本の海軍軍人、体操研究者。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。海兵50期。 御馬下尋常小、濟々黌を経て、海軍兵学校第50期入校。席次は入校時298名中283番、卒業時272名中156番。堀内は第13期飛行学生(艦上機班)となったが飛行作業中に車輪止め位置を直そうと駆け寄りプロペラ接触、2日間意識不明の重症を負い2ヶ月間程治療後、飛行場に出るも教官から次期飛行学生に編入されると告げられ憤然とし「次期編入であれば飛行学生を辞めます」と立ち去ったという。このため砲術専攻へ転科し、のち駆逐艦や巡洋艦の砲術長を歴任した。
戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945… 戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945年8月9日)は、日本の哲学者。
佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)… 佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)9月27日 - 昭和49年(1974年)7月31日)は、日本の歌人、国文学者。文学博士。 祖父は儒学者正墻適処。兄は歌人佐伯新一郎。 鳥取県倉吉市仲ノ町に教育者佐伯元吉の三男として生まれた。 鳥取師範(現鳥取大学地域学部)、東京高等工業学校(現東京工業大学)を経て1937年早稲田大学文学部卒業。新聞記者や満州国官吏を歴任し、1960年「歴代和歌の詞に関する論文」で文学博士の学位を得る。 1926年歌誌『国民文学』に入社。「論の佐伯、作の新免(新免忠)」といわれ、『短歌雑誌』の歌壇批評で中央歌壇から注目された。 1935年歌誌『槻の木』に入社し窪田空穂に師事、戦後は歌誌『珊瑚礁』『樹木』同人、また『花冠』を主宰する傍ら多くの雑誌に短歌論を発表してその地位を不動のものとした。
大越 隆三(おおこし りゅうぞう、1900年(明治33年)9… 大越 隆三(おおこし りゅうぞう、1900年(明治33年)9月26日 - 1943年(昭和18年)2月8日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。嘉義市尹 福島県出身。1925年(大正14年)3月、東北帝国大学理学部を経て、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格後、1930年(昭和5年)4月に台湾総督府警務局保安課に出仕し、1933年(昭和8年)12月に地方警視に進み、屏東警察署長を経て、1934年(昭和9年)9月に台中州警務課長となり、1935年(昭和10年)9月、同州警務部高等警察課長に転じた。 ついで、台北州勧業課長を経て、1939年(昭和14年)7月に台南州嘉義市尹に就任した。
華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月… 華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月26日 - 1972年(昭和47年)8月10日)は、昭和期の官僚、外交官、政治家。衆議院議員。旧姓・江口。 山形県で江口親明の二男として生まれ華山儀一郎の養子となる。山形高等学校を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部を卒業。同年、内閣統計局に入局し統計局属に任じられ、同年12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、統計局書記官・庶務課長、興亜院書記官・総裁官房勤務、大東亜書記官・大臣官房会計課長、北京大使館参事官兼総領事などを務めた。戦後、参議院常任委員会専門員、山形県副知事などを歴任した。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に山形県地方区から日本社会党公認で出馬して次点で落選。
梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu… 梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu Umeda、1900年9月25日 - 1961年12月7日)は日本の僧、歴史学者。 1922年(大正11年)駒澤大学卒業後、ポーランドに留学し、ワルシャワ大学卒業。同大学講師。同国の「東洋学院」の教授にも任命され、日本語、日本文化を担当した。日本大使館の文化関係の委託業務を行った。戦時中は朝日新聞社ソフィア駐在嘱託。東欧諸国語の権威。1955年関西学院大学教授。1960年「ヴォルグ・ブルガール史の研究」で関西学院大学 文学博士。 梅田良忠は日本橋槙町で弁護士、梅田貞次の長男として生まれた。生まれた時の名前は梅田芳穂であったが、これは彼の長男と同じ名前である。
荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 19… 荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 1992年3月8日)は、日本の英文学者・英語教育者。青山学院女子短期大学名誉教授。 福岡県八幡市出身。1918年福岡県立東筑中学校卒業、親を失い母校で教える。1923年東京外国語学校卒業、西南学院高等学部教授兼中学部教諭。1925年武蔵高等学校教授。1943年東海大学の創立に参加し教授。1951年青山学院女子短期大学教授。1971年定年退任、名誉教授。武蔵高等学校在職中から多くの受験参考書を執筆した。 長男の荒牧重雄(1930年- )は火山学者(東大、北大、日大教授)。
吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年… 吉田 吉太郎(よしだ よしたろう / きちたろう、1900年(明治33年)9月25日 - 1968年(昭和43年)1月22日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府出身。1924年(大正13年)関西大学専門部法律科を卒業した。 大阪市役所勤務を経て、映画興業、不動産業を経営し、摂津怛産取締役社長、新大阪土地開発取締役社長、阪神土地興業取締役社長を務めた。 政界では、尼崎市会議員(1940年-1947年)、兵庫県会議員(1947年-1948年)を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党所属で立候補して落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に兵庫県第2区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33… 矢後 嘉蔵(戸籍名は嘉藏、やご かぞう、1900年(明治33年)9月25日 - 1984年(昭和59年)3月24日)は、大正から昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。富山市会議員。富山県の農民運動、無産運動の草分け。 富山県婦負郡倉垣村荒屋(和合町を経て現富山市四方荒屋)で、海産物商・矢後六蔵、とき の12姉弟妹の第四子、長男として生まれる。1913年(大正2年)3月、倉垣尋常小学校(現富山市立倉垣小学校)を卒業。北海道寿都郡寿都町で父が経営する海産物商兼船問屋で働く。 1919年(大正8年)9月に上京し東京主計学校夜間部で学んだ。1923年(大正12年)ニシンの不漁、肥料販売不振のため東京に移ったが、同年、単身で北海道に戻る。
伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月2… 伊藤 郷一(いとう ごういち、1900年(明治33年)9月23日 - 1987年(昭和62年)9月8日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(7期)。 北海道白糠郡白糠村(現白糠町)で生まれる。1927年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。横浜市総持寺高等女学校教師、釧路市文化協会理事長、中華民国新民会河南省総会次長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第二区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、北海道第5区で第27回総選挙まで連続6回当選し、その後第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算7期務めた。この間、衆議院図書館運営委員長、同文部委員長、第2次吉田内閣農林政務次官、北海道開発審議会委員、裁判官訴追委員長、自由党両院議員総会副会長、同党政調会文教部長、同党総務、自由民主党文教制度調査会副会長などを歴任した。
上山 珊瑚(かみやま さんご、1900年9月23日 - 19… 上山 珊瑚(かみやま さんご、1900年9月23日 - 1927年9月8日)は、日本の女優。本名は三田小枝子。山川浦路の実妹にして上山草人の義妹。 1900年、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、鉱物学者の守一の娘として生まれる。東京女学館へ通うが、父の事業不振のため、大阪のプール女学院に転校後、中退。姉・千枝子(山川浦路)が上山草人と結婚したつながりから、近代劇協会が上演した舞台『ヴェニスの商人』などに出演。草人の友人だった谷崎潤一郎の紹介で1920年大正活映に入社。葉山三千子主演の『アマチュア倶楽部』に出演。谷崎潤一郎脚本映画『月の囁き』に主演予定だったが企画が頓挫。代わりに、泉鏡花原作、谷崎脚色、トーマス栗原監督の『葛飾砂子』に主演。
中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月… 中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月23日 – 1949年(昭和24年)11月3日)は、衆議院議員(立憲民政党)。厚生政務次官、陸軍参与官。ジャーナリスト。 茨城県に警察官の息子として生まれる。父の配属の都合で東京・茨城を転々としながら、水戸中学校に入学するも教師を批判したことで放校処分となり、日本中学校を卒業。日本大学専門部を中退し、やまと新聞に入社し水戸支局に入り、1922年(大正11年)に報知新聞へ移って土浦支局長になった。のち茨城民報を創刊するが、茨城民報はいはらき新聞に吸収合併され、そのままいはらき新聞社の取締役を務めた。 土浦町会議員、茨城県会議員に当選する一方で、茨城県出身の民政党代議士原脩次郎が拓務大臣に就任すると拓務省嘱託となり、ついで原が鉄道大臣に就任すると鉄道省嘱託となった。
小田原 俊彦(おだわら としひこ、1899年(明治32年)1… 小田原 俊彦(おだわら としひこ、1899年(明治32年)10月22日 - 1945年(昭和20年)1月25日)は、日本の軍人。最終階級は海軍少将。 海軍兵学校第48期生で、後の総理大臣となる鈴木貫太郎校長の薫陶を得る。 1899年(明治32年)10月22日、神奈川県横浜市で浜税関吏小田原秀太郎の次男として生まれる(本籍は鹿児島県士族)。 旧制神奈川県立第一横浜中学校を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校48期を171名中19番で卒業、少尉候補生。1920年少尉候補生 練習艦隊遠洋航海 司令官:舟越楫四郎 参加艦艇:浅間・磐手 世界周航(南米→アフリカ経由)装甲巡洋艦磐手乗組。1921年(大正10年)6月、少尉任官。
塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1… 塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1899年10月22日 - 1988年10月28日)は、日本の写真家。 鳥取県東伯郡赤崎村(現・琴浦町)に生まれる。生家は廻船問屋である。 明治初期の商家である生家は塩谷家により寄贈され、「NPO法人塩谷定好フォトプロジェクト」により、作品展示を行う記念館として整備され、塩谷定好写真記念館として2014年4月26日に開館した。
佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。 日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。 オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。
高階 順治(たかしな じゅんじ、1899年〈明治32年〉10… 高階 順治(たかしな じゅんじ、1899年〈明治32年〉10月22日 - 1989年〈平成元年〉7月13日)は、日本の哲学者。 1899年、秋田県仙北郡千屋村(現美郷町)で生まれた。1915年に仙北郡千屋尋常高等小学校補習科を卒業し、代用教員となった。その後秋田県師範学校で学び、1921年に卒業、東京高等師範学校に進み、1925年に卒業。1929年に東京文理科大学に入学した。佐々木秀一の長女・信と結婚する。 卒業後は、1935年から高松高等商業学校教授。1941年から東京高等師範学校教授を務めた。1947年に公職追放の対象となり、その後は金子書房に勤務。 1953年、国士舘短期大学助教授となり、拓殖大学助教授を兼ねた。
内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1… 内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1983年1月28日)は、日本の実業家。キヤノン社長を務めた。 岡山県倉敷市出身。1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に山一證券に入社。 1933年に吉田五郎とともに精器光学研究所を設立し、1936年にハンザキヤノンの発売を開始した。1954年には社長に就任した。 1983年1月28日、肺水腫のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
久米 又三(くめ またぞう 1899年10月21日 - 19… 久米 又三(くめ またぞう 1899年10月21日 - 1976年5月9日)は、日本の生物学者。教育者。 1899年、兵庫県神戸市に生まれる。1924年、東京帝国大学理学部動物学科で動物発生学を専攻して卒業後、東京女子高等師範学校を経てお茶の水女子大学教授、同大学付属図書館長、理学部長を経て1960年から1965年までお茶の水女子大学の学長を務めた。学長時代には大学院の設置に尽力した。 学外では、大学基準等研究協議会、大学設置審議会、公立大学調査委員会の各委員を務めた。 1976年5月9日、肺線維症のため聖路加国際病院で死去。76歳。墓所は台東区寛永寺。
具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21… 具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21日 - 1984年4月24日)は、大韓民国の中央銀行家、政治家。韓国銀行総裁や、韓国産業銀行総裁、大韓民国商工部長官を務めた。 本貫は昌原具氏(朝鮮語版)。日本名具原 一郞。 釜山府出身。父は乙未事変に加担したとして逮捕状が出るなど混乱の渦中にあり、禹範善の子である禹長春や、李容九の子、宋秉畯の孫といった親日派の子女6名で、日本人の酒井姉妹の下で、父から離れて日本で育てられた。 日本人のために作られた京城中学校に通い、1922年東京商科大学(のちの一橋大学)予科修了。1925年同大学卒業、朝鮮銀行入行。同期50人のうち具が唯一の朝鮮人であり、東京支店に配属となったが、給料や昇進、配属などでは差別を受けた。
大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月… 大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、日本の宗教家、俳人。 岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。
栢原 保親(かやはら やすちか、1899年(明治32年)10… 栢原 保親(かやはら やすちか、1899年(明治32年)10月21日 - 1944年(昭和19年)6月22日)は、日本の海軍軍人。商船9隻、43,437tを撃沈する戦果を挙げた「伊10」潜水艦長である。あ号作戦に関連した作戦行動で第二二潜水隊司令として戦死。最終階級は海軍少将。 栢原は愛媛県出身の海兵49期生で、1921年(大正10年)に海軍兵学校を卒業した。皇族2名を除いた席次は174名中43番、翌年5月に少尉へ任官している。栢原は中尉進級と同時に第十四潜水艇隊附となり、その潜水艦歴を開始する。兵科将校は基本的に大尉時代に履修する専門課程によってその専攻が決定される。栢原は運用術練習艦航海学生を卒業した航海専攻士官であった。
風間 彦男(かざま ひこお、1899年10月20日 - 19… 風間 彦男(かざま ひこお、1899年10月20日 - 1945年2月3日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中尉、酒田風間氏分家・東美家第八代当主。
山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - … 山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - 1987年2月2日)は、彫刻家。東京新宿生まれ。本名は豊。 戸張孤雁に師事。1918年から三年間、太平洋洋画会研究所においてデッサンを学ぶ。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。 1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。
寺尾 琢磨(てらお たくま、1899年〈明治32年〉10月1… 寺尾 琢磨(てらお たくま、1899年〈明治32年〉10月19日 - 1984年〈昭和59年〉9月13日 )は、日本の経済学者。慶應義塾大学名誉教授。専門は統計学と人口論。 1899年静岡県榛原郡相良町生まれ。静岡県立静岡中学校卒業。1924年、慶應義塾大学経済学部卒業。1926年、同学部助手。1929年、イギリス、フランス、ドイツに留学(統計学の研究のため、1932年まで)。帰国後、慶應義塾大学経済学部助教授、1934年、同、教授。1950年、博士号取得。1957年から1959年まで経済学部学部長及び経済学研究科研究科研究科長。 その他、慶應義塾大学産業研究所副所長、同大学国際センター所長、同大学大学院社会学研究科委員長を歴任。
高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年(明治32年)10… 高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年(明治32年)10月19日 - 1985年(昭和60年)10月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選高知県知事、東北放送会長。 宮城県栗原郡岩ヶ崎町(現栗原市)出身。高橋珍平の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。大正12年(1923年)12月、高等試験行政科試験に合格。大正13年(1924年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、茨城県警視、静岡県警視、埼玉県警視、鳥取県学務部長、岡山県学務部長、福島県書記官・警察部長、内務書記官・警保局検閲課長、神奈川県書記官・警察部長、同県部長・警察部長などを歴任。
仁田 勇(にった いさむ、1899年(明治32年)10月19… 仁田 勇(にった いさむ、1899年(明治32年)10月19日 - 1984年(昭和59年)1月16日)は、日本の物理化学者。東京都文京区小石川生まれ。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授。 1923年3月東京帝国大学理学部化学科を卒業(卒業研究は松原行一教授の指導の下で有機化学を専攻)、直ちに理化学研究所(現在の独立行政法人理研)に入り、西川正治博士の研究室で結晶によるX線回折の研究を始めた。当時はX線回折は純粋に物理学の領域であったが、西川は仁田に有機化合物にX線回折の方法を応用してみることを勧めた。これが後に日本で結晶化学の大きな分野を開く端緒となった。西川はどんな有機化合物が適当かは仁田が自分で決めるように指示した。
佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月… 佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月18日 - 1991年11月、本名: 佐藤 武市(さとう たけいち))は、日本の銀行員、大学教員、俳人である。ホトトギスの同人であった。 明治32年、青森市に生まれる。弘前中学校に通う。大正9年に小樽高等商業学校を卒業した後、太平洋戦争終結による解体まで台湾銀行に勤める。台南勤務、スラバヤへの駐在を経て、蘇州支店長、漢口支店長を歴任する。佐藤は武漢での勤務は「文字どうりの滅私奉公の四年であった」と振り返っている。戦後は日本に引き揚げ、GHQ大阪軍政部の技術顧問となった。後に大阪工業高等専門学校および大阪工業大学短期大学部で講師を務めた。
井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 19… 井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 1980年5月27日)は、日本の外交官。外務事務次官や在アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。1969年勲一等瑞宝章。1980年正三位。 和歌山県生まれ。旧制徳義中学校、旧制和歌山中学校(のち和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。 1921年に高等試験外交科試験合格し、1922年大学を中退し外務省入省。入省同期や前後期に田尻愛義、安東義良、西村熊雄らがいる。オックスフォード大学留学等を経て、1940年在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官、1941年同大使館参事官、1942年太平洋戦争開戦に伴い交換船で帰国。 情報局情報官を経て、1943年情報局第三部長。
宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月… 宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月18日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は、日本の海軍軍人。米駐在時代に情報活動に従事し、米国官憲に摘発され国外追放処分を受ける。太平洋戦争中、連合艦隊先任参謀に擬せられるが、山本五十六の戦死により実現しなかった。最終階級は海軍大佐。