山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13… 山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13日 - 1991年〈平成3年〉5月3日)は、日本の元大蔵次官。位階は正三位。
山羊座:10,554人
山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13… 山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13日 - 1991年〈平成3年〉5月3日)は、日本の元大蔵次官。位階は正三位。
佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 19… 佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 1994年10月12日)は、日本の国語学者。
藤原 豊次郎(ふじわら とよじろう、1899年1月12日 -… 藤原 豊次郎(ふじわら とよじろう、1899年1月12日 - 1979年12月8日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1929年千葉医科大学卒。眼科医院を開業し、市川市議、千葉県議を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙において千葉1区から日本社会党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選した。その後、1969年の第32回衆議院議員総選挙で諸派として立候補したが落選した。 このほか社会党市川支部長、市川市医師会会長、千葉県医師会顧問や日中友好協会千葉県会長なども歴任した。
常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月… 常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月12日 - 1989年〈昭和64年〉1月2日)は、日本の政治家、参議院議員(2期)、宗教家、文筆家。 1899年(明治32年)福岡県糟屋郡古賀町(現古賀市)に生まれる。慶應義塾大学部理財科に在学していたが、卒業前に結核に倒れ、同大学を中退。闘病と共に天理教の修養を始める。 1935年(昭和10年)修養団体『中心社』を創設。その後、月刊誌「中心」を主宰し中心社主幹。この他、養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘を経営して社会福祉に貢献、健康学園を創建。兼ねてよりの持論である5健運動を推進する。 1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙全国区に緑風会から出馬し参議院議員に当選。
横田 正俊(よこた まさとし、1899年〈明治32年〉1月1… 横田 正俊(よこた まさとし、1899年〈明治32年〉1月11日 - 1984年〈昭和59年〉7月1日)は、日本の裁判官。第4代最高裁判所長官を務めた。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。なお、前任の最高裁判所長官横田喜三郎と同姓だが、縁戚関係はない。 1925年(大正14年)4月から裁判官生活に入り、東京地裁判事、東京控訴院判事等を務め、1943年(昭和18年)3月に甲府地裁所長に就任。戦後、司法省臨時企画部長に就任。1946年に大審院判事。1947年(昭和22年)7月に公正取引委員会委員その後1952年(昭和27年)2月に同委員長に任命され1958年(昭和33年)3月に退任するまで、通算10年8か月にわたり公正取引委員会に在職した。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月1… 大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月10日 - 1992年(平成4年)4月5日)は、日本の実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長。12代目当主。 1899年(明治32年)1月、京都府京都市伏見区で大倉恒吉の長男として生まれる。1923年(大正12年)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業と同時に第一銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。その後、月桂冠株式会社の前身である大倉恒吉商店に入社し、大倉恒吉商店、共同酒造株式会社各常務、東京菱油商会、江田醸造研究所株式会社各監査を歴任後、1945年(昭和20年)に大倉酒造(現・月桂冠)株式会社代表取締役社長(のち会長)に就任した。
大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日… 大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)、茨城県多賀郡高萩町長。 茨城県出身。1917年(大正6年)茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、高萩町長、同消防団長、茨城県会議員、同議長などを務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に茨城県第2区から改進党公認で出馬して初当選。第27回総選挙で再選されたが、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は次点で落選。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙と第30回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
泉 敬太郎(いずみ けいたろう、1899年(明治32年)1月… 泉 敬太郎(いずみ けいたろう、1899年(明治32年)1月8日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は、昭和時代の政治家。教育者。愛媛県新居浜市長。 愛媛県宇摩郡別子山村(現新居浜市)に生まれる。泉半次の長男。1922年(大正11年)愛媛県師範学校(現在の愛媛大学教育学部)卒業。 同年から1955年(昭和30年)まで新居郡内の小学校教員、小学校長、県教育組合副委員長を経て、1955年(昭和30年)から愛媛県議会議員を2期務める。1965年(昭和40年)社会党公認で新居浜市長に当選。5期20年在任し全国最高齢かつ唯一の社会党公認市長だったが、1984年(昭和59年)10月、病気のため任期満了を待たずに辞任した。
山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1… 山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1899年1月5日 - 1977年11月13日)は、日本の政治家、婦人運動家、フェミニスト。婦人参政権獲得期成同盟会(婦選獲得同盟)の創設に加わり、全国地域婦人団体連絡協議会の初代理事長となったほか、参議院議員を2期務めた。 1899年1月5日に三重県津市で、三重県師範学校校長であった父・幾之丞と母・とみの間に次女として生まれた。幼い頃の戸籍名はひらがなではなく、漢字の「茂」であった。子どもの頃は教師であった両親の仕事の都合でさまざまな場所に住んでいた。父が亡くなって以降は母子家庭で育っており、これが後年に母子保護活動に尽力するようになった大きな理由のひとつである。
杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年… 杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年9月12日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。立教女学院短期大学学長、日本アメリカ文学会会長を務めた。 東京・赤坂新町出身。1923年(大正12年)早稲田大学露文科卒業、1931年(昭和6年)立教大学文学部英文科卒業。立教大学で高垣松雄に師事し、岡倉由三郎(岡倉天心の実弟)にも学んだ。 巣鴨高商専門学校(現・千葉商科大学)教員を経て、1940年(昭和15年)立教大学講師、翌年助教授。 1942年(昭和17年)立教大学教授に就任。その後、同大学文学部英米文学科科長を務め、1956年(昭和31年)には、フルブライトリサーチスカラーとしてハーバード大学及びデューク大学で研究に従事した。
前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 198… 前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 1982年6月13日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長、相談役を歴任。 鹿児島県薩摩郡入来村(後の入来町、薩摩川内市の一部)生まれ。1918年3月に鹿児島県師範学校本科(現 鹿児島大学教育学部)を卒業。1918年4月から鹿児島県日置郡の天昌尋常高等小学校(現 日置市立永吉小学校)教諭を務めるが、病気療養のため退職。 1920年10月に大福海上火災保険へ入社し、調査課勤務。1942年7月、大福海上火災保険と大東海上火災保険の合併により共栄火災海上保険が設立されると同時に神戸支店長となり、1944年3月から大阪支店長、1946年12月から近畿支社長。
野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 … 野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 - 1985年8月8日)は日本の実業家。サッポロビール社長。長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)生まれ。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
橋浦 はる子(はしうら はるこ、1899年〈明治32年〉1月… 橋浦 はる子(はしうら はるこ、1899年〈明治32年〉1月4日 - 1975年〈昭和50年〉2月25日)は、日本の社会運動家。日本で初めて女性が参加した1921年(大正10年)のメーデーにおいて、女性による社会主義団体「赤瀾会」の1人として参加したことで警察に拘束され、「日本で初めてデモ活動に参加した女性」として話題になった。 鳥取県岩美郡岩美町で、10人の兄弟姉妹の末子として誕生した。父は新進的な考えの持ち主、長兄は大学で学んだ社会主義思想を家に持ち込み、はる子はこの家庭環境で大きな影響を受けて育った。 18歳のとき、勉学を望んで、兄を頼って上京し、精華女学校(後の東海大学付属市原望洋高等学校)や渡辺女学校(後の東京家政大学)専門部に学んだ。
西本 三十二(にしもと みとじ、1899年〈明治32年〉1月… 西本 三十二(にしもと みとじ、1899年〈明治32年〉1月2日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の教育学者。大学で教鞭を取った後に日本放送協会職員として放送教育の実践を行った。 1899年(明治32年)大阪府に生まれる[要出典]。1916年(大正5年)大阪府立八尾中学校を卒業後[要出典]、大阪府師範学校第二部を経て[要出典]、1923年にコロンビア大学教育学部を卒業した。1924年に同大学修士課程を卒業した。1925年 - 1928年に帝塚山学院高等女学部を創設した。1928年(昭和3年)、奈良女子高等師範学校教授に就任した。この際、ラジオ番組を受け持つ機会に恵まれると、次第に自分の理想の教育をラジオを通じて実践したいという思いが高まり、1932年(昭和8年)に教授職を辞して日本放送協会に入る。
牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1… 牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1985年3月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1943年に常務に就任し、1946年11月には社長に昇格。しかし、翌1947年7月に公職追放となった。追放解除後の1961年5月から1972年5月までに会長を務めた。 慶應義塾理事も務めた。 1959年5月に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年3月21日肺炎のために死去。86歳没。
久保 満雄(くぼ みつお、1899年(明治32年)1月2日 … 久保 満雄(くぼ みつお、1899年(明治32年)1月2日 - 1989年(平成元年)1月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1899年(明治32年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第40期、東京帝国大学法学部卒業。1939年(昭和14年)7月に陸軍省整備局戦備課高級課員に就任した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第40師団参謀長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。1942年(昭和17年)8月に朝鮮軍参謀に転じ、1944年(昭和19年)7月14日に歩兵第90旅団長(駐蒙軍・第118師団)に就任した。 同年8月1日に陸軍少将に進級し、1945年(昭和20年)3月31日に第43軍参謀長(北支那方面軍)に就任した。
星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1… 星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1月1日 - 1988年(昭和63年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県出身。星野太三郎の長男として生まれる。大分県立大分中学校を経て、1925年(大正14年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業した。 同年4月、三井鉱山に入社し、1927年(昭和2年)3月、三井合名会社に転じた三井総元方情報主任となり、司法省刑事局嘱託、内務省警保局嘱託も務めた。1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け旧北海道4区から出馬して当選、衆議院議員を1期務めた。この間、翼賛政治会総裁秘書、小磯内閣で小林躋造国務大臣秘書官、行政査察使随員、幣原内閣で海軍参与官、同第二復員参与官などを歴任。
高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年… 高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年3月20日)は、社会運動家、政治評論家。日本きってのソ連通として知られた。パルタイナーメ(共産党員名)は寺田。 滋賀県大津市生まれ。大阪高等工業学校の醸造科を卒業後、家業の酒屋を継がず、1922年アメリカへ渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月、片山潜の手引きでソ連に入り、東方勤労者共産大学を卒業後、1929年にソ連共産党員に転籍、コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、極東でオムスを取り仕切っていたゲンリフ・リュシコフの片腕となる。1935年2月帰国。同年5月検挙され転向し、その後陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した。
鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12… 鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12月29日 - 1987年(昭和62年)7月29日)は、大正末から昭和期の逓信官僚、政治家、俳人。参議院議員(2期)。俳号は鈴木杏一(きょういち)。 神奈川県出身。鈴木彦八の二男として生まれる。京華中学校(現京華中学高等学校)、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 同年4月、逓信省に入省し通信局書記に任官。以後、郵務局勤務、通信事務官・伏見郵便局長、大逓局経理課長、大臣官房保健課勤務、逓信省事務官などを歴任し、1935年(昭和10年)7月から1936年(昭和11年)8月まで米国に出張した。
浅尾 荘一郎(あさお そういちろう、1898年12月29日 … 浅尾 荘一郎(あさお そういちろう、1898年12月29日 - 1978年5月31日)は、日本の電子工学者。富山県出身。 銀セシウム光電管の光電感度を飛躍的に高めた。また日本真空協会会長の初代会長を務めた。 妻は大日本帝国陸軍軍人・矢木亮太郎の長女。長女の夫は西洋史学者で大東文化大学名誉教授の穂積重行。次女の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。同夫は言語学者で大阪大学名誉教授の徳川宗賢。孫は日本史学者で東京大学教授の松方冬子。 旧制富山中学、旧制四高を経て、1923年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後、東京電気に入社。 ドイツのエルスターおよびガイテルにより1888年に発明された光電管は光電感度が低く実用で使えるものではなかった。
生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年… 生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年)12月28日 – 1984年(昭和59年)4月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、ダイジェット工業社長、同会長。 奈良県宇陀郡三本松村(室生村を経て現宇陀市)で生まれる。生悦住安蔵の長男。1914年(大正3年)三本松村大野尋常高等小学校を卒業し、隣家、田畑商店の年季奉公人となり醤油の行商に従事した。1919年(大正8年)家出して大阪に移り石堂鋼商会で働く。大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)採鉱冶金科の夜学で学び、1923年(大正12年)に卒業した。 1924年(大正13年)米子製鋼所に入社。1928年(昭和3年)独立して三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で生悦住鋼商会を開業。
鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 -… 鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 - 1975年7月23日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。岩手県選出の衆議院議員・鈴木巌の二男として生まれた。6歳から父の転勤に伴って盛岡に移る。盛岡中学校、第一高等学校をへて東京帝国大学英文科、のち国文科に転じて1923年卒業。高校時代寮の同室だった川端康成、石浜金作、酒井眞人に今東光の五人で第6次『新思潮』を1921年創刊。1923年文藝春秋同人、1924年川端、横光利一らの『文藝時代』に参加。新感覚派の一人とされた。1928-1930年舟橋聖一、村山知義らと心座の新劇運動に携わる。のち農民小説、大衆小説、歴史小説、相撲小説に転じる。
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1… 浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。
上原 七之助(うえはら しちのすけ、1898年(明治31年)… 上原 七之助(うえはら しちのすけ、1898年(明治31年)12月27日 - 1945年(昭和20年)2月6日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・宮崎県。陸軍将校・上原勇作の長男として生まれる。父の死去に伴い、1933年(昭和8年)家督を継承し、1934年(昭和9年)1月15日、子爵を襲爵した。 父は七之助に軍職を進めなかったことから大学へ進み、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学経済学部を卒業。同年、東京海上火災保険に入社。その後、南満州鉄道嘱託などを務めた。 1938年(昭和13年)9月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、死去するまで二期在任した。
山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 19… 山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 1975年1月8日)は、広島県出身の政治家。広島市長、参議院議員。
坂本 種芳(さかもと たねよし、1898年〈明治31年〉12… 坂本 種芳(さかもと たねよし、1898年〈明治31年〉12月26日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の技師、アマチュア奇術師、奇術研究家。筆名は天城 勝彦(あまぎ かつひこ)。技師としては、九州の筑後川昇開橋を始めとする、多くの可動橋を設計した。奇術師としては、日本初のアマチュア奇術師団体である「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ(Tokyo Amateur Magicians Club、以下TAMCと略)」で中心的な人物として活躍した。また、アメリカの奇術雑誌「スフィンクス(英語版)」から奇術の優秀作品へ贈られる「スフィンクス賞」を、日本人として初めて受賞した。 岩手県上閉伊郡綾織村(後の遠野市)出身。
小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1… 小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。 山梨県西八代郡高田村出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満洲・長春へ赴任。夫人の小澤さくらによれば、「昼間まじめに診察していたのは、1931年(昭和6年)の満洲事変の前まで」だった。また、長春にいた頃、奉天の鉄道の責任者になり、初めて視察に行った際に、駅のプラットホームで何者かに狙撃されたが無事だった。1928年(昭和3年)に満州青年聯盟を、1932年(昭和7年)には満洲国協和会を結成し民衆の教化を行った。 満洲事変の立役者であった関東軍の板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。
坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 199… 坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 1991年2月22日)は、日本の内務官僚、実業家。富山県知事、警視総監、大商証券社長。旧姓・田中。坂信彌とも表記、あるいはこちらが正確か。 堺市出身、本籍・山口県。農業・市会議員、田中龍太郎の四男として生まれる。堺中学校、第八高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り茨城県属として内務部産業課に配属された。その後、長州系官僚である坂仲輔の家の婿養子に迎えられる。 1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 199… 藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 1993年1月4日)は、大正-平成期の婦人運動家・教育者。津田塾大学学長、労働省婦人少年局長、新日本婦人同盟会長を務めた。 判事・藤田菊江の二女として、赴任先である愛知県名古屋市橦木町(後の東区)で誕生。母・かめきがクリスチャンだった関係で幼児洗礼を受けている。父は仕事柄転勤が多く、一家はたきが尋常小学校2年生の時に那覇に、5年生の時に富山に、卒業後は旅順にと引っ越しを繰り返した。1913年(大正2年)に父は退官。大阪で弁護士事務所を開くが、頑固な性格が災いし経営は上手くいかなかった。 たきは1914年(大正3年)金蘭会高等女学校の3年に編入。
橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12… 橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12月23日 - 昭和45年(1970年)3月15日)は、日本海軍の軍人(最終階級は海軍大佐)、実業家。東京市渋谷区出身。 首相を務めた橋本龍太郎の伯父にあたる。 日本麦酒社員橋本卯太郎、マツの二男として生まれた。 大正9年(1920年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。海軍大学校選科学生として無線兵器研究のため派遣され、昭和3年(1928年)東北帝国大学工学部を卒業。以後、呉海軍工廠電気部員、海軍通信学校教官、海軍艦政本部員、海軍技術研究所員、独乙瑞典駐在並に駐在武官、沼津海軍工廠無線部作業主任等歴任。 戦後、寿電業社長、六興電気副社長などを務めた。
梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月… 梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月22日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の政治家、教員、実業家。位階は正五位。参議院議員(1期、日本社会党)。 1898年(明治31年)、元前橋藩士[要出典]・梅津幸次郎、とう(元前橋藩目付・明石家長女)[要出典]の長男として群馬県前橋市高田町(現・文京町1丁目)に生まれる。中川小学校を経て、1913年(大正2年)、教員養成所に入所し、翌年桂萱小学校補助教員となる。1920年(大正9年)、群馬師範学校本科卒業とともに桐生北尋常小学校に赴任した。のち高崎南小学校に転勤。高崎北小学校、片岡小学校に転任し、1946年(昭和21年)高崎市第一国民学校教頭となった。
田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日… 田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日 - 1975年(昭和50年)1月29日)は、日本の劇作家、脚本家。 神奈川県横浜市出身。田島商事社長・田島啓次郎の長男。1922年、早稲田大学英文科を卒業した。早大在学中に執筆した処女作(戯曲)「能祇と泥棒」が1921年旧帝国劇場で上演(十四代守田勘彌、二代 市川猿之助による)されている。また同じく早大在学中に松竹キネマに入社した。のち松竹本社文芸部に入社した。昭和期に入ってから劇作から遠ざかり、演出などをした。1926年、『田島淳戯曲集』を刊行した。1968年に復刊された『劇と評論』では編集長を務めた。宗教は日蓮宗。住所は神奈川県横浜市中区根岸町。
福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月… 福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 - 1992年(平成4年)10月16日)は、日本の洋画家。日本にシュルレアリスムを紹介した画家として知られる。文化功労者、文化勲章受章、群馬県名誉県民。 1898年(明治31年)1月18日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。祖父・常五郎は繭商人として組合製糸・甘楽社を設立し成功を収めた人物で、富岡町長や県会議員を務めた。常五郎の長男・仁太郎は衆議院議員・宮口二郎の姪・ハツと結婚し、夫婦の最初の子として生まれたのが一郎である。仁太郎も後に富岡町長を務めた。 一郎は1910年に富岡尋常高等小学校を卒業後、旧制富岡中学校に入学し1915年に卒業。
田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 19… 田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 1954年2月3日)は、日本の建築構造学者、防災研究者、建築家。日本の建築物、都市の不燃化の研究、啓蒙に務めた。東京工業大学名誉教授。 田辺政之助の子として京都府で生まれる。1922年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、神戸高等工業学校講師。1925(大正14)年、建築構造学研究のため、欧米に出張。ドイツとイギリス、アメリカ合衆国へ2年間滞在する。ドイツでは商店で火事に遭遇する。 帰国後の1929年、神戸高等工業学校教授。「鉄筋混凝土版の基本的事項に関する研究」で工学博士号を取得。東京工業大学教授を兼任。 1931年、日本建築学会学術賞受賞。
中村 為治(なかむら ためじ、1898年1月17日 - 19… 中村 為治(なかむら ためじ、1898年1月17日 - 1991年6月30日)は、日本のイギリス文学者。 東京銀座に生まれる。第一高等学校で川端康成と同級。1923年東京帝国大学英文科卒。関西学院英語講師、1926年東京商科大学(現一橋大学)予科教授。同僚の上原専禄と親しかった。1943年、45歳で辞職し、長野県乗鞍高原に隠棲した。農業と翻訳で暮らすが、1967年中部女子短期大学(現中部学院大学)教授となり、1972年まで務めた。 ロバート・バーンズを専門とし、キップリング詩集の翻訳などがある。大江健三郎は少年時代に中村の訳した岩波文庫の『ハックルベリー・フィンの冒険』を愛読した。
吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 19… 吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 1972年9月13日)は、日本の民藝運動家。医師。鳥取県鳥取市出身。 医学生時代より交流のあった柳宗悦の民藝運動に共感して活動。柳宗悦が見出した民藝の美を日常の生活の中に取り入れるため、1931年(昭和6年)新たな民藝品を作り出す活動を開始した。工種は陶芸・木工・家具・竹工・漆工・染織・金工・石工・和紙・建築等に及び、このような運動は全国各地でも起こりのちに新作民藝運動と呼ばれることになる。吉田は「民藝のプロデューサー」を自認し、「たくみ工芸店」(鳥取・東京)を開き民藝の普及に大きな足跡を残した。新作民藝のプロデューサーとして、企画・デザイン・生産・流通に関わり、また自らも多くのデザインを残しており、衣食住に渡る幅広いデザイナーとしての業績も大きい。
甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年… 甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年)1月17日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員 (1期) を務めた。 兵庫県城崎郡五荘村(現・豊岡市)栃江に生まれる。苦学の末、弁護士となり、内務省嘱託や斎藤隆夫の秘書になった。1947年五荘村長に就任、1950年に合併による豊岡市発足まで務めた。斎藤隆夫の死(1949年)を受けて地盤を受け継ぎ、1952年の第25回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党公認で出馬して初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選。1958年の豊岡市長選では現職の佐川辰夫に敗れた。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉… 椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉1月16日 - 1979年〈昭和54年〉9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心 として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。 1898年(明治31年)に岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。
洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15… 洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15日 - 1978年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教授、政治家、サッカー組織幹部。制憲韓国国会議員。政界では金融通として知られる。 慶尚南道東萊(現・釜山広域市)または全羅南道光山出身。中央大学政治科もしくは経済科卒。日本統治時代は普成専門学校(現・高麗大学校)教授・評議員、京城第一プリント社経営者を務め、解放後は韓国民主党中央執行委員・中央常務委員・労農部長・青年部長、中央労働調整委員、非常国民会議代議員、大韓国民代表民主議院特別経済専門委員、民族統一総本部宣伝部長、過度政府立法議院議員などを務めた。李承晩が大統領に就任し、ソウル東大門甲選挙区の制憲国会議員に欠員が出た後に実施した1948年の補欠選挙で、韓国民主党の候補として国会議員に当選し、国会財経委員長・金融通貨委員長・財政金融委員長・税制分科委員長を務めた。
斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 … 斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 - 1989年5月11日)は、日本の哲学研究者、東洋大学名誉教授、明治大学名誉教授。 1898年、愛媛県生まれ。実家は宇和島藩の藩校の儒学者の家系で、早くから漢籍に親しむ。1924年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は東洋大学教授、大東文化学院教授などを務めた。1943年より日本出版会常務理事。1944年に辞職した。 太平洋戦争が終結すると、占領期にはかつての論説等が戦争協力にあたるとされ、公職追放の対象となった。公職追放解除後、1952年より明治大学教授、1953年からは東洋大学教授を兼任。1956年より東洋大学文学部長。1969年に定年退任した。
村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15… 村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15日 - 1978年(昭和53年)8月21日)は、元多芸村長、化学者である。岐阜県養老郡養老町橋爪出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-197… 内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-1974年8月17日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。専門はヒメバチ類の分類。農林害虫に関する論文も多数著し、昆虫生態学の研究をすすめ、指導的役割を果たした。 1898年(明治31)1月15日、埼玉県に生まれる。 1918年(大正7)北海道帝国大学予科に入学し、その後松村松年教授に師事、昆虫学を学ぶ。1924年(大正13)3月、北海道帝国大学農学部農業生物学科を卒業し、4月より同大学農学部助手となる。1930年(昭和5)5月、同大学農学部助教授となり、9月に農学の博士号を取得した。1935年には動物学昆虫学養蚕学の講座を担当している。
内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月1… 内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月14日 - 昭和32年(1957年)6月23日)は日本の実業家、政治家。元米吾代表取締役。内田家の12代目。元米子市議会副議長。 大正15年(1926年)社長職に就いた保秀にとって、先代・秀蔵とともに建設を始めた「米子米吾ビル」の竣工が初仕事となった。 昭和22年(1947年)、米子市議会議員に立候補し初当選を果たした。昭和24年(1949年)には、「米吾」を有限会社とした。昭和28年~30年(1953~1955年)には市議会副議長をつとめた。 内田家は代々米問屋を家業としていた。明治7年(1874年)廃業、旅館経営へ転業。明治35年(1902年)国鉄山陰線敷設以来、米子駅構内営業を始める。
船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年〈明治31年〉1月1… 船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年〈明治31年〉1月13日 - 1970年〈昭和45年〉3月14日)は、日本の法学者(ローマ法)、教育者、政治家。教育者として作新学院院長。政治家として衆議院議員(当選3回)、行政管理庁長官、賠償庁長官。叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の次男で、衆議院議長となった船田中は兄、自治大臣や運輸大臣などを歴任した藤枝泉介は実の弟にあたる。また夫人の船田文子は主婦連副会長をつとめた。 1898年1月13日、船田兵吾(作新学院創設者)の次男として、栃木県宇都宮市に生まれる。一高を経て1921年東京帝国大学法学部英法科卒業。1924年から1926年までローマ法研究のためフランス・ドイツ・イタリア・イギリスに留学。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月1… 薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月22日)は、日本の病理学者、厚生技官、医師。医学博士。台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授。 新潟県中蒲原郡木戸村大字鴉俣(現 新潟市東区山木戸)の医師・薄田敬勝の長男として出生。 1915年(大正4年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1923年(大正12年)4月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学医学部病理学教室に入室、1925年(大正14年)1月に泉橋慈善病院内科医員に就任、1926年(大正15年)4月に同病院病理解剖科医員に就任、1932年(昭和7年)11月に東京帝国大学から医学博士の学位を取得。
奥田 達郎(おくだ たつろう、1898年(明治31年)1月1… 奥田 達郎(おくだ たつろう、1898年(明治31年)1月12日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 広島県出身。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部法学科を卒業し、高等試験に合格した。台湾総督府財務局事務官、台中州大屯郡守、台北州内務部勧業課長、高雄州警務部長、警務局衛生課長、財務局税務課長、台北州警務部長、殖産局特産課長などを歴任。1939年(昭和14年)、台中州知事に就任し、さらに米穀局長、食糧局長、国土局長を務めた。 1943年(昭和18年)に退官した後は、台湾食糧営団理事長に就任した。 戦後は広島市助役に任命された。