熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶… 熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶應2年4月12日) - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務官僚。樺太庁民政長官、官選県知事。 熊谷禎蔵の長男として江戸で生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省試補となり社寺局に配属された。 1893年11月、北海道庁参事官に就任。以後、内務書記官、拓殖務省書記官、農商務省・陸軍省・内務省の各参事官、兼台湾総督府事務官などを歴任。1905年8月、樺太民政署が設置されると民政長官に就任。1907年4月、樺太民政署が樺太庁に改編され、引き続き民政長官を務めた。 樺太庁では長官の楠瀬幸彦と不仲になり、第1次西園寺内閣の内務大臣である原敬は1908年4月24日に両名を更迭し、熊谷は同年6月12日付けで山梨県知事に就任した。
小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年… 小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年4月10日)- 1925年(大正14年)3月1日)は、日本の実業家、投資家である。旧姓、浅川。幼名は国五郎。 甲斐の甲府生まれ。小学校卒業後の1878年(明治11年)に12歳で若尾逸平の門に入り、株式取引を師事する。1890年(明治23年)に若尾が貴族院議員に就任したと同時に秘書を務めた。1895年(明治28年)には、若尾と共に生まれ故郷の甲府で綿や絹の商人として活動した。 1896年(明治29年)、小池銀行創立(組織としては株式会社だが、株式のほとんど全てを小池一族が所有しており、実質的には小池の個人銀行。国三没後の1930年に小池証券に改組し、1943年に山一證券と合併)。
新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年… 新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年5月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉5月2日)は、明治から昭和前期に活躍した南画家。本名は信吉。号は白雲、後に洞巌。養子は住友生命保険社長・会長を務めた新井正明。「洞厳」は誤記。 上野国吾妻郡原町須郷沢(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)に、新井半重郎の次男として生まれた。6歳の時に母、13歳の時に兄、19歳の時に父を亡くし、継母は異母妹を連れて郷里へ帰ったため天涯孤独となる。 長井雲坪、四谷延陵、菅原白龍、高森砕巌に南画を、漢学を貫名海雲に学んだ。1896年(明治29年)から18年に渡って日本全国や中国の洞庭湖、台湾などを旅した。その絵は吉川英治や安岡正篤らに評価され、吉川からは「最後の南画人」と評された。
宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(186… 宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)4月9日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→立憲政友会)、弁護士。 常陸国行方郡行方村(現在の茨城県行方市)出身。今泉源兵衛の二男で、縁戚の宮古氏の跡を継いだ。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学するが、学制の改正により第一高等中学校に移り、1889年(明治22年)に卒業した。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1892年(明治25年)に卒業した。卒業後は弁護士を開業し、また日本法律学校(日本大学)の講師も務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、9回の当選回数を数えた。
石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866… 石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任した。 肥後国託麻郡、のちの熊本県託麻郡大江村(飽託郡大江村を経て現熊本市)出身。明治法律学校を卒業し弁護士となる。1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)9月まで河内郡選出の栃木県会議員を務め、1899年11月からは県会副議長を務めた。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で栃木県郡部選挙区から立候補して当選。衆議院議員は連続3期務め当初は憲政本党に所属したが後に立憲国民党に参加している。
西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2… 西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2年4月8日)- 1924年(大正13年)4月30日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡出城村長。 加賀国石川郡竹松村(石川県石川郡出城村竹松、松任町、松任市を経て現白山市竹松町)で、西村庄右衛門、りせ の長男として生まれる。1896年(明治29年)4月、家督を相続した。農業を営む。 1900年(明治33年)10月、立憲政友会石川県支部が設立されると幹事に就任。1901年(明治34年)12月、出城村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。同年9月、石川県会議員に当選し、1911年(明治44年)8月まで2期在任し、同参事会員も務めた。
森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月2… 森 茂生(もり しげお、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1929年(昭和4年)8月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、三重県桑名郡桑名町長。幼名・栄次郎。 伊勢国桑名郡矢田村(三重県桑名郡益生村大字矢田、桑名町を経て現桑名市矢田)で、森純次郎の二男として生まれる。慶應義塾で学んだ。1889年(明治22年)6月に家督を相続した。 政界では、益生村会議員、町村組合会議員、桑名郡会議員、同参事会員、同議長、三重県会議員(1890年-1902年)、同参事会員、同副議長、桑名町長などを務めた。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(三重県郡部、中正倶楽部)で初当選。
尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元… 尾見 浜五郎(おみ はまごろう、1865年6月18日(慶応元年5月25日)- 1932年(昭和7年)1月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 常陸国真壁郡吉間村(茨城県真壁郡村田村、明野町を経て現筑西市)出身。尾見家は代々吉間外15郷の割元名主を務め、農業を営む。村田村会議員、同村長、真壁郡会議員、同郡農会長となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から無所属で立候補して当選した。1908年(明治41年)第10回総選挙と1912年(明治45年)第11回総選挙は不出馬。1915年(大正4年)第12回総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選。1917年(大正6年)第13回総選挙で再選。
小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865… 小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 大正5年(1916年)5月16日)は、日本の文部官僚・教育者。族籍は兵庫県士族。位階および勲等は正四位・勲四等。 兵庫県姫路市出身。姫路藩士で藩校の教官の小泉吉善と母ふさ(同藩士の白倉直記の三女。天保14年12月生)の長男として生まれる。弟に海軍少将の小泉武三がいる。姫路中学校を経て、1887年(明治20年)に東京高等師範学校を卒業。沖縄県尋常師範学校教諭、沖縄県学務課長心得、沖縄県尋常師範学校校長補、徳島尋常中学校教諭、福岡県尋常師範学校教諭、同教頭、同校長、和歌山県第一尋常中学校校長を歴任した。1899年(明治32年)、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事に転じ、1905年(明治38年)からは同附属中学校主事も兼ねた。
宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865… 宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 昭和3年(1928年)8月15日)は、明治・大正期の社会運動家。号は巡耕。後に中華民国を建国することとなる孫文を支援した熊本県荒尾市の宮崎家の本家筋当主。 肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)出身。兄の八郎、弟の弥蔵・寅蔵(滔天)とともに「民権兄弟」として知られる(特に民蔵・弥蔵・寅蔵を「宮崎三兄弟」と呼ぶこともある)。 宮崎政賢・左喜夫妻の六男に生まれるが、兄・八郎が西南戦争で戦死し、他の兄も既に没していたため、1880年(明治13年)に民蔵が16歳で宮崎家の当主となる。 八郎と同様に自由民権運動の影響を受けて上京し、中江兆民の仏学塾に入ったものの、病気のため帰郷する。
村上 鬼城(むらかみ きじょう、慶応元年5月17日〈1865… 村上 鬼城(むらかみ きじょう、慶応元年5月17日〈1865年6月10日〉 - 1938年〈昭和13年〉9月17日)は日本の俳人、司法代書人。本名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)。 明治義塾法律学校中退。正岡子規に書を送り、「ホトトギス」創刊後は俳句、写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の「ホトトギス」を支えた。貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多い。句集に『鬼城句集』(1917年)など。 鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸小石川に生まれるが、8歳の時、群馬県高崎市に移り住み、11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗る。 明治17年(1884年)に東京へ行き、軍人を志したが耳疾のために断念し、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(司法書士の前身)となった。
斯波 与七郎(與七郎、しば よしちろう、1865年6月9日(… 斯波 与七郎(與七郎、しば よしちろう、1865年6月9日(慶応元年5月16日)- 1932年(昭和7年)5月8日)は、明治から昭和初期の大地主、農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 播磨国加東郡西村(兵庫県加東郡河合村大字西村を経て現小野市)で豪農、斯波家11代・斯波喜の長男として生まれた。父の死去に伴い1893年(明治26年)10月に家督を相続した。 1895年(明治28年)6月、加東郡所得税調査委員に就任。1896年(明治29年)2月、兵庫県会議員に選出され、同年8月、加東郡会議員に就任した。 1897年(明治30年)7月の貴族院多額納税者議員選挙で互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年… 楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年6月8日) - 昭和8年(1933年)6月17日)は、日本の海軍軍人、火薬学者。最終階級は海軍造兵中将従三位工学博士。東京帝国大学名誉教授。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)に沢村辰吾の三男として生まれ、楠瀬好静の養子となった。1891年(明治24年)に東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業した後、フランスに留学した。1894年(明治27年)に帰国後、海軍少技士となった。1904年(明治37年)、造兵少監となり、翌年に造兵監督官としてイギリスに出張。1907年(明治40年)、造兵中監に昇進し、翌年に帰国。1911年(明治44年)、造兵大監となり、下瀬火薬製造所長、造兵廠火薬部長、海軍大学校教官などを務めた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6… 富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6月4日〉 - 昭和15年〈1940年〉11月6日)は、日本の医学者・医学史家。旧姓は藤川、幼名は充人。安芸国沼田郡長楽寺村(後に安佐郡に編入、現:広島県広島市安佐南区長楽寺)出身。 医師・藤川雪の子に生まれる。雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」を佳字である「富士川」と改名している。 1879年、藩校浅野学校(現:修道中学校・高等学校)から広島県立中学(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に転学を経て1887年、広島医学校(現:広島大学医学部)卒業。同級に尼子四郎らがいた。上京し明治生命保険の保険医となる。
中山 南加(なかやま なか、慶応元年5月10日(1865年6… 中山 南加(なかやま なか、慶応元年5月10日(1865年6月3日) - 昭和25年(1950年)3月)は、幕末から昭和時代前期にかけての華族女性。結婚後は嵯峨 南加。名前は仲子とも。中山忠光の娘。母は恩地トミ。嵯峨公勝の妻。 父・忠光の同母姉・慶子は明治天皇の生母であり、南加は明治天皇の従妹にあたる。 父・忠光が暗殺された半年後の慶応元年(1865年)5月10日(もしくは11日)、長府城下(下関市長府)の江尻半右衛門邸で生まれる。長州藩内の対立に巻き込まれ、身の危険があった母娘は住居を転々とする逃亡生活を送る。 毛利氏は支藩の長府藩が明治天皇の叔父となる忠光を殺害した事を憂慮し、遺児である南加を探し出した。
二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日(慶應… 二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日(慶應元年5月10日)- 1916年(大正5年)12月17日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した日本の新聞記者である。「孤松」「震堂」「画美人楼主人」といった号を用いた。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。父は宇和島藩士だった。宇和島に設置された「南予変則中学校」に学んだ。 15歳の時、藩校明倫館の助教となる。1883年(明治16年)に朝野新聞に入社。 1888年(明治21年)から1892年(明治25年)までドイツへ留学する。帰国後に山縣有朋の支援で内務省嘱託となり、日清戦争時には戦地で山縣の秘書も務めた。 内藤鳴雪の勧めで俳諧に進み、「孤松」は俳号として使用したものである。
石井 泰助(いしい たいすけ、1865年6月3日(慶応元年5… 石井 泰助(いしい たいすけ、1865年6月3日(慶応元年5月10日) - 1931年(昭和6年)7月11日)は、明治から大正時代の政治家。神奈川県橘樹郡川崎町長、川崎市長。神奈川県多額納税者。 先代の材木商・石井泰助の長男として神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市川崎区)にて生まれ、1891年(明治24年)8月、家督を相続し、幼名「泰次郎」を改め「泰助」を名乗る。石井家は、代々「吹田屋」を号し材木商を営んだ地元の名士。吹田屋は、1876年(明治9年)に石井材木店と改称し、さらに同年、石井合名会社となる。 川崎町会議員、川崎町助役を経て、川崎町長を3期務める。1901年(明治34年)橘樹郡会議員に当選。
平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31… 平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31日(慶応元年5月7日) - 1950年(昭和25年)9月25日)は、明治期から昭和期にかけての内科医。日本陸軍軍医、最終階級は陸軍軍医総監(中将相当)。日本赤十字社病院院長、宮内省御用掛。若狭国小浜藩出身。 1865年5月31日((旧暦)慶応元年5月7日)、小浜藩典医平井三琢の長男として福井の雲浜村に誕生する。1876年に東京外国語学校入学。1889年(明治22年)度東京帝国大学医科大学を首席で卒業、同期には山極勝三郎・田代義徳・入沢達吉等がいる。卒業後陸軍軍医となり、日清戦争に従軍した後、1896年(明治29年)12月『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員、陸軍薬局方(第二版)編纂委員、陸軍衛生会議委員等を歴任した。
井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29… 井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29日(慶応元年5月5日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の弁護士、政治家・衆議院議員(憲政本党)、実業家。松山商工会議所会頭。早稲田大学評議員。松山高等商業学校理事。北予中学会理事。族籍は愛媛県士族。号は不去庵。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)3代・5代社長。 伊予国喜多郡菅田村(現在の愛媛県大洲市)の庄屋の家に生まれた。有友平衛の長男。のちに井上家の養嗣子となる。地元の小・中学校を経て1882年(明治15年)に上京して丸山作楽塾、岡松甕谷塾で学び、翌年漢学者鈴村譲の海南書院(松山)で学ぶ。法学を独習して代言人(弁護士)試験に合格。
佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5… 佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5月27日) - 昭和14年(1939年)10月30日)は、山形県東田川郡(現・鶴岡市)出身の、日本の教育者。鉄道省事務官。幼名は雄之助。
松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年… 松下 牧男(まつした まきお、1865年5月26日(慶応元年5月2日) - 1926年(大正15年)5月15日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 駿河国、のちの静岡県富士郡須津村(吉原市を経て現富士市)出身。漢学を学ぶ。煙草製造業を営む傍ら、ツルチュック醸造監査役を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応… 青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応元年5月1日) - 1926年(大正15年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(4期)。 青地半三郎の長男として駿河国志太郡前島村(静岡県志太郡青島村、青島町を経て現藤枝市)に生まれる。1884年(明治17年)11月、家督を相続した。静岡中学校に学ぶ。静岡の朝陽義塾、掛川の冀北学舎を経て東京専門学校に入学し、1886年(明治19年)同校政治経済科を卒業する。1889年(明治22年)青島村初代村長に就任し、現在の東海道本線藤枝駅の青島への誘致、役場や学校の建設、伝染病予防のための隔離病舎の建設などに尽くした。ほか、地方金融の整備のため青島実業銀行(のち頭取)を創立し、物流集散のため青島運送合資会社を立ち上げた。
浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5… 浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5月22日) - 大正3年(1914年)11月10日)は、日本の英語学者、エスペランティスト、聖書学者。 徳山藩の家に生まれ、京都中学校を1883年7月に同校を優等賞にて卒業。その後、上京し、東京英和学校(現:青山学院)を経て、1886年に工部大学校予科を優等賞にて卒業。学制改革に伴い、第一高等学校を経て、帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)へ進学。キリスト教に対する信仰心の高まりもあり、中退後に渡米しノースウェスタン大学にて神学と言語学を学ぶ。1893年、シカゴ大学にて第一号となる博士号を取得した(博士論文:旧約聖書ゼカリヤ書(第1章 - 第8章)の原典比較研究)。
浄法寺 五郎(じょうほうじ ごろう、1865年5月22日(慶… 浄法寺 五郎(じょうほうじ ごろう、1865年5月22日(慶応元年4月28日) - 1938年(昭和13年)1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階は従三位、勲等は勲二等、軍功は功三級。 下野国那須郡黒羽町(現栃木県)出身。浄法寺氏の末裔で、黒羽藩の城代家老を代々務めた浄法寺操の次男として生まれる。先祖に松尾芭蕉の門下であった浄法寺高勝がいる。父操は維新後、旧藩主大関子爵家の家扶を務めた。五郎は藩の重臣であった三田称平の家塾である地山堂で学んだ。 1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し歩兵少尉に任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校に入学するが、日清戦争開戦のため1894年(明治27年)7月に中退。
大原 義剛(おおはら よしたけ、慶応元年4月27日〈1865… 大原 義剛(おおはら よしたけ、慶応元年4月27日〈1865年5月21日〉 - 1945年〈昭和20年〉1月17日)は、日本の政治家、玄洋社の結成に参加した国家主義者。衆議院議員。 福岡県筑紫郡警固村(現・福岡市)に生まれる。明治11年(1878年)に開墾社に入り、明治14年(1881年)、鹿児島三州社に入り陽明学者の中尾水哉に学び、明治21年(1888年)6月、慶應義塾に入り明治25年(1892年)大学部を卒業。黒龍会の内田良平が結成した天佑侠の結成に参加。天佑侠を結成した時点で玄洋社員だったのは内田と大原義剛の二人だけである。二六新報の鈴木天眼と共に朝鮮に渡り東学党の乱を支援。 明治35年(1902年)8月、第7回衆議院議員総選挙で福岡県郡部区から出馬し進歩党の代議士となり憲政本党に移る。
粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(186… 粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日)は、日本の教育者。 陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。
西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(18… 西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(1864年6月20日) - 昭和17年(1942年)6月15日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、大津市長。 近江国浅井郡南浜村(現在の滋賀県長浜市)出身。同人社で学んだ後、1888年(明治21年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後、山梨日日新聞の記者となり、3年後に近江新報に主筆として招かれ、1896年(明治29年)には社長に就任した。その一方で、前田正名の地方産業振興運動に加わって全国を奔走。さらに農商務省の嘱託として、1898年(明治31年)に清の商工業を視察、1903年(明治36年)には北清やシベリアでの日本製品販売の調査を行った。
大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864… 大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864年6月16日) - 昭和20年(1945年)5月11日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。 佐賀藩士大石良英の二男として生まれる。藩校弘道館で学ぶが、東京に出て神田共立学校、大学予備門で学んだ。その後大隈重信の知遇を得、1884年(明治17年)に大隈の勧めでアメリカ合衆国のラトガース大学に留学した。ラトガーズ大学で学位を得た後、1889年(明治22年)にニューヨーク大学に入り、1892年(明治25年)に哲学博士号を得た。 帰国後は『報知新聞』記者や東京専門学校(現在の早稲田大学)講師を務めた。1897年(明治30年)、大隈が農商務大臣に就任するとその秘書官となり、翌年に大隈が内閣総理大臣に就任にすると秘書官となった。
佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治… 佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治元年5月10日〉 - 1940年〈昭和15年〉8月16日)は、明治・大正・昭和時代に日本・中国(当時の関東州を含む)・朝鮮・台湾で、主に児童の養育・救援に尽力した、日本の社会福祉活動家。藍綬褒章受章者。 1864年、土佐国幡多郡下田竹島(現在の高知県四万十市竹島)に、父宮村源左衛門、母佐雄の4男として生まれる。7歳のときに親戚の佐竹家に養子にやられたので名字は佐竹となるが、13歳のときに養父母の離婚により生家に戻って育つ。 1881年に村の小学校の助手となり、1886年に東京府下巣鴨尋常小学校長に就任するも1年後には校長を辞し、神田の明治法律学校(明治大学の前身)を経て、1890年に本郷湯島の医学専門学校済生学舎(日本医科大学の前身)に学んだ。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864… 後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864年6月12日) - 昭和2年(1927年)1月11日)は、日本の実業家、政治家。町会議員、郡会議員、県会議員。旧姓小林。山陰鉄道敷設最大の功労者である。 出雲国能義郡布部村宇波(現・島根県安来市)出身。広瀬の山村塾・県立松江中に学び、小学校教師を勤めた。 明治20年(1887年)鳥取・米子の名門商家後藤家の養子となる。養子のため当主が代々襲名する市右衛門を名乗ることはなかった。当時後藤家の経済はやや苦しかったが、為替倉庫業・質業などで次第に業績をあげた。刻煙草製造業も経営していたが、煙草専売法施行後、松江との競争に勝って岡山専売局の出張所誘致に成功し、その働きによって山陰の煙草元売捌権を得た。
降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(186… 降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(1864年6月10日) - 昭和6年(1931年)9月15日)は、日本の衆議院議員(憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。 信濃国筑摩郡本郷村(現在の長野県松本市)出身。郷里で漢学を学んだ後、慶應義塾に入学した。1882年、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転入学し、1885年に同校邦語政治科を卒業した。卒業後は帰郷し、1886年に信陽日報(のち信濃日報)の社長となった。さらに本郷蚕種業組合組長・信濃蚕業伝習所長などの役職を歴任して、養蚕業の発展に貢献した。その他、出獄人保護院も設立している。 1888年、長野県会議員に選出され、1891年には信濃民党を組織した。
富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治… 富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治元年5月6日)- 1931年(昭和6年)10月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 筑後国山門郡吉開村(現・福岡県柳川市三橋町吉開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男として生まれる。東京法学院を卒業。 博多商業会議所特別議員、福岡県教育会副会長、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電気軌道取締役、九州電気軌道取締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業取締役、日本電報通信社取締役、福岡日日新聞社社長(昭和3年8月25日~4年11月22日)などを務めた。 政界では、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任。
山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月… 山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月6日) - 1901年(明治34年)2月20日)は、日本の彫刻家である。鬼斎は号で本名は常吉。 越前の坂井郡(現在の福井県坂井市)に生まれる。実父は仏師であった事より、幼少の頃から彫刻を学んだ。明治維新後の1886年(明治19年)に同郷であった岡倉天心に同行して上京し、その後は天心と共に奈良にて寺院や神社に祀られている古仏の研究や宝物の調査に携わる。 後に高村光雲の助手となり、1890年(明治23年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)に雇われ1896年(明治29年)には同校の教授となり、彫刻の教鞭を執る。この頃に『平治物語』等、日本の歴史的な出来事をテーマにした同国の伝統彫刻の技を用いた西洋風の彫刻作品を制作し、1893年(明治26年)に開催されたシカゴ万国博覧会では鬼斎の作品が出品された。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年… 高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年5月1日) - 1929年(昭和4年)12月23日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 高橋敬吾の弟として、美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡川並村(現大垣市)に生まれる。1902年(明治35年)10月、分家する。漢学を修めた。また、日清戦争に従軍した。 上京し、下谷区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を務めた。ほか、揖斐川電力監査役となった。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から選出された大熊三之助の刑確定に伴い実施された補欠選挙に出馬して当選。つづく第11回総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選した。
森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864… 森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864年6月2日) - 昭和8年(1933年)1月12日)は、日本の教育者。 兵庫県出身。1885年(明治18年)、神戸師範学校を卒業し、ついで1889年(明治22年)に東京高等師範学校を卒業した。愛知県師範学校教諭、同校長、徳島県師範学校教諭、福岡県師範学校校長、東京高等師範学校教授、大阪府師範学校校長を歴任。1904年(明治37年)、大阪府視学官に任じられた。1906年(明治39年)、文部省視学官となり、さらに奉天省教育顧問として清に招聘された。1908年(明治41年)に帰国後は愛知県の明倫中学校校長を務めた。その後、宮崎県立宮崎中学校校長に就任した。
唐辛 多喜弥(とうがらし たきや、1864年6月2日 - 1… 唐辛 多喜弥(とうがらし たきや、1864年6月2日 - 1944年6月27日)は、福岡県行橋市出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は奥村 多喜弥(旧姓:宮原)。最高位は西前頭11枚目(1896年1月場所)。現役時代の体格は164cm、81kg。 唐辛という非常に珍しい四股名の持ち主だが、これは「小粒でもピリリと辛い」という意味が込められていたという。名付け親は彼を贔屓にしていた伊藤博文とも、黒田清隆とも伝わる。 当初は大坂相撲で取っていたが上京し、15代横綱梅ヶ谷に入門、1883年(明治16年)1月場所序二段付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。十両には1889年(明治22年)1月場所に昇進、入幕は1894年(明治27年)5月場所のことだった。
萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日… 萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日) - 大正12年(1923年)12月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、内務官僚、検事。 薩摩国薩摩郡樋脇村(現在の薩摩川内市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、1895年(明治28年)に司法官試補となり、1897年(明治30年)より鹿児島、久留米、佐賀、宮崎、熊本などの裁判所で検事として勤務した。1907年(明治40年)に内務省に転じ、山形県事務官・警察部長、青森県内務部長、和歌山県内務部長を歴任し、1914年(大正3年)に休職となった。 その後、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元… 高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元年4月26日) - 1935年(昭和10年)11月14日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 西条藩士高橋村三郎の長男として、伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)に生まれた。明治法律学校(現在の明治大学)で法学・政治学を学んだ。卒業後、伊予市之川鉱山会社取締役を経て、「進歩党党報」記者、「憲政党党報」記者、北陸タイムス社社長兼主筆を歴任した。 神田区会議員、東京市会議員、同参事会員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。墓所は多磨霊園(18-1-35)。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1… 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1864年5月29日) - 昭和15年(1940年)6月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→純正国民党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 伊予国宇和島出身。宇和島藩士村松喜久造の長男。1884年(明治17年)に同人社を卒業後、高野山大学林で英学講師を務めた。その後、関西日報、国会新聞、中央新聞、東京朝日新聞、大阪朝日新聞などで記者を務めた。やがて雑誌「大国民」を創刊し、また日刊大東通信社の社長を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は5回(第10回、第11回、第13回、第16回、第17回にて当選)を数えた。
岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日… 岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日) - 大正6年(1917年)5月14日)は、日本の実業家。 長門国厚狭郡(現在の山口県)出身。 吉田松陰の松下村塾に学んだ後、上京して、明治法律学校(現明治大学)に学ぶ。卒業後、大蔵省税務官に任官。実業界に転向し、当時の大財閥であった鈴木商店に入り、支配人に就任(1906年)。更に、東京瓦斯(現東京ガス)の創立に携わり、設立と共に常務取締役に就任。1912年には帝国麦酒(現サッポロビール)を設立し、社長に就任。後に大正生命保険設立にも関与し、同社専務に就任。他にも、京王電鉄など数社の取締役、監査役を務めた。 1917年、死去。52歳没。
堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日… 堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日(文久3年5月3日) - 1936年(昭和11年)4月24日)は、貿易商。堀越商会主。 下野国足利郡三重村五十部東山の農家に生まれる。1868年、瑞泉院の寺子屋に入り神童と評される。1878年五十部学校入学。 木村半兵衛の目に留まり、東京遊学給費生となり、共立学校(現開成高等学校)を経て、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。 霊巌寺の人相占いの助言を受けアメリカ合衆国へ渡ることを決意し、木村が蒐集した骨董品を売却して捻出した資金を貰い、1884年、横浜港から出帆し、同窓の友人の世話で力士の下で下宿生活を送ったのち、母校矢野二郎校長の紹介状を伝手に相談した高橋新吉在ニューヨーク領事の紹介で、フレッチャーの二番商会に入社した。
増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日)… 増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日) - 昭和19年(1944年)4月13日)は日本の政治家。上道村長(5代)、上道村会議員。 二女よしは元鳥取弁護士会会長君野順三の弟で醤油醸造業君野秀三(元若桜町町長)の妻。ソニー育ての親として知られる増谷麟(元東宝常務、PCL創立社長、日本ポリドール社長)は三男。 上道村(現鳥取県境港市上道町)出身。家業は薬問屋、醤油醸造。若いころから村会議員を務め一派を形成していた。大正15年(1925年)5月から昭和4年(1929年)9月まで上道村長を務めた。 短歌や墨絵を趣味とし、囲碁も強くて碁打ち友達がよく来ていた。
頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月1… 頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月16日〉 - 1926年〈大正15年〉12月3日)は、日本の政治家(衆議院議員、当選1回)、広島県多額納税者、広島県の大地主、名望家、資産家、実業家。竹原銀行取締役頭取。木ノ江汽船相談役。族籍は広島県平民。 安芸国竹原(現・広島県竹原市)出身。頼廉次郎の長男。和漢学及び英学を修めた。町会議員に挙げられた。農業、製塩業、金穀貸付業を営んだ。1894年、広島県第5区より選ばれて衆議院議員となった。実業同志倶楽部、大手倶楽部に所属。 江戸後期の儒者、勤王家頼山陽の叔父頼春風の曽孫にあたる。家は累世栄え、俊直に至り、その富は益々大になり、「竹原町随一の長者」と称呼された。
坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文… 坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文久3年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。坂口商店代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身。木綿商・坂口平吉郎の三男。坂口喜平の養子となる。 尾高区区長、西伯郡会議員、米子町収入役、米子町会議員、米子製糸取締役、米子製鋼所監査役、西伯酒造組合長、西伯醤油製造同業組合長などをつとめる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(… 相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(文久2年5月22日)- 1942年(昭和17年)6月16日)は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位、勲三等、功四級。 佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる。藩校(弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校(フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し、同日、陸軍騎兵少尉に任官。 1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任。1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる。日露戦争に出征し、鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦などに参戦した。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された。
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2… 田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる。 淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。 1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文… 清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日)- 1905年(明治38年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村(日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた。志水大三郎に師事し、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ。帰郷して農業を営む。 1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任。