小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月2… 小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月25日 - 1958年(昭和33年)12月11日)は、日本の電気工学者。電気学の権威。神奈川大学教授、同大理事を兼任した。京都帝国大学工科教授工学博士小川梅三郎・志摩(共に同墓)の長男であり、妻の香代(香代子)の家系も科学者の家系であり父は地質学者小川琢治、母小雪(小川駒橘の娘)であり、その小川琢治の三男にノーベル賞物理学者湯川秀樹がいる。一清と香代の長男の小川岩雄も核物理学者。享年66歳。墓所は多磨霊園。 東京出身。東京帝国大学卒業。逓信省電気試験所第二部長、東北帝国大学教授、富士通信機製造取締役部長、古河電工通信機部長などを歴任。1949年(昭和24年)新制神奈川大学発足時に神奈川大学教授。
美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日… 美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市出身。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。道事務官、税関監視官、税関事務官、専売局事務官、咸鏡北道警察部長、慶尚北道警察部長、慶尚南道警察部長を歴任し、1931年(昭和6年)に欧米各国に出張した。帰国後、平安南道内務部長を経て、1932年(昭和7年)に京畿道内務部長となり、さらに京城税務監督局長に転じた。1936年(昭和11年)より平安北道知事となった。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮マグネサイト開発社長、咸南鉄道会長を経て、戦後は三幸建設工業に入り、副社長、顧問を歴任した。
小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年… 小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年9月25日)は岐阜県大垣市出身の日本のピアニスト。東京音楽学校(現東京芸術大学)教授。戦前日本を代表する女流ピアニストである。 小倉末は、1891年に小倉周一(元大垣藩士小寺専助五男)、紫登の三女として生まれた。幼い頃からドイツ人の義姉マリアよりピアノの手ほどきを受け、1910年3月に神戸女学院を卒業 (4期) した。その前後ですでに演奏活動を行っており、1905年から1911年までに東京音楽学校に学び、その間学内外で演奏を行った記録が残っている。 また、末は「日本最初の婦人ゴルファー」ともいわれている。15歳の時にゴルフ場を作ったアーサー・ヘスケス・グルームの持つ山荘で休憩する姿の写真が、神戸の六甲ゴルフ倶楽部のアルバムに「Miss sueko ogura」の書き込みと共に残されている。
田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月… 田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月17日 - 1948年(昭和23年)10月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県(現在の薩摩川内市上川内町)出身。士族・農業、田上亭二の二男として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業。 1927年(昭和2年)3月、歩兵第45連隊中隊長となり、陸士教官、歩兵第17連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第16師団参謀、第1師団参謀、歩兵学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第34連隊長に発令され日中戦争(上海派遣軍/松井石根大将)に出征し上海戦、南京戦などに参戦した。
高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 … 高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 - 1919年3月30日)は、日本のダンサーである。大正年間の一大ムーヴメントである「浅草オペラ」にアメリカ流のダンスで火をつけたことで知られる。トウシューズで踊った日本初のダンサーである。のちに離婚して「永井 徳子」(ながい とくこ)に戻る。 1891年(明治24年)、東京市神田区今川小路(現在の神田神保町)に生まれる。永井胆一の先妻の子であり、父親の永井は旧幕臣で、印刷局の技師をしていた。神田高等女学校を中退し、継母らの勧めで1906年に15歳で高木陳平と結婚し渡米、11月末ニューヨークに到着。 陳平は料理人、徳子はメイドとしてアメリカ人宅で働く。
山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正… 山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正鄕、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 山口県出身。山口県立徳山高等学校を経て1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を席次5番で卒業。伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、そして山県本人も含めたこの期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。 遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - … 尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - 1955年8月26日) は、日本の化学者。理化学研究所名誉研究員。帝国学士院賞受賞。 山形県上山町(現上山市)出身。1911年に山形師範学校を経て、1914年、広島高等師範学校卒業。1919年、東北帝国大学理学部物理学科入学。松生義勝と同時に同化学科に転じ、1922年に化学科を卒業し、理化学研究所へ入所。1927年理学博士。1941年帝国学士院賞受賞。1942年理化学研究所主任研究員。1955年定年退職、理化学研究所名誉研究員、星薬科大学教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1… 小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1973年12月25日)は、日本の建築家、教育者。明治神宮外苑の建設に関わり、日本建築学会会長、千葉大学学長などを務めた。 1891年(明治24年)、茨城県稲敷郡の豪農の家に生まれる。竜ヶ崎中学校、第二高等学校を経て、1916年(大正5年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業(高橋貞太郎、伊部貞吉、小倉強らと同年)。卒業後、大蔵省臨時建築局嘱託。 1919年、恩師佐野利器の推薦で明治神宮造営局技師(高橋貞太郎の後任)に就任、神宮外苑の施設建設(絵画館、競技場、水泳場、日本青年館など)に従事。関東大震災を乗り越え、外苑の整備に尽力する。 1926年に東京高等工業学校教授。
河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - … 河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の経済学者、社会思想家。東京帝国大学経済学部教授。第二次世界大戦前夜における著名な自由主義知識人の一人として、共産主義とファシズムに抵抗した。 東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる。戸籍には誤りで「栄次郎」と記載されるが、本人は「栄治郎」で通した。尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰の平民主義に惹かれていた。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒業、銀時計受領。
直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 -… 直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 - 1934年2月24日)は、日本の小説家、脚本家、映画監督。本名は植村 宗一(うえむら そういち)。弟は東洋史学者の植村清二。エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称:直木賞)は、彼に由来する。 1891年2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。 父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。 1920年、久米正雄、吉井勇、田中純、里見弴らによって創刊された『人間』の編集を担当。
毛利 基(もうり もとい、1891年2月11日 - 1961… 毛利 基(もうり もとい、1891年2月11日 - 1961年12月17日)は、日本の内務官僚。特別高等警察で活動、佐賀県・埼玉県などの警察部長を歴任した。 1891年、福島県伊達郡大木戸村に生まれる。大木戸小学校から旧制福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)に進学するが、父親の死により2年で中退する。その後上京して警視庁の試験を受け、1915年に警視庁巡査になる。 巣鴨署に配属された毛利は高等課労働係に所属した。ここから毛利と共産党との関係が始まる。また猛勉強を重ね巡査部長、警部補と、とんとん拍子に出世した。警視庁特別高等課労働係として、1928年の日本共産党などの一斉検挙三・一五事件の内偵に従事。
松本 巍(まつもと たかし、1891年2月11日 - 196… 松本 巍(まつもと たかし、1891年2月11日 - 1968年1月27日)は、日本の植物病理学者。台湾の農作物の疾病の研究と防除に功績があり、第二次世界大戦後も国立台湾大学農学院教授として働いた。 1891年、東京・銀座に生まれた。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業後、カリフォルニア州立大学、ワシントン大学などに留学する。帰国後の1921年から盛岡高等農林学校の教授となった。1924年に農学博士となる。1926年に台湾に招かれ、イギリス、ドイツなどに留学後、1929年台北帝国大学教授および付属農林専門部教授として赴任し、植物病理学を教えた。台湾の農作物の病害の研究と防除の研究と実践を行った。
唐沢 俊樹(からさわ としき、1891年(明治24年)2月1… 唐沢 俊樹(からさわ としき、1891年(明治24年)2月10日 - 1967年(昭和42年)3月14日)は、昭和期の日本の内務官僚、政治家。戦前は内務次官、貴族院議員を歴任し、戦後、自由民主党の衆議院議員。第1次岸改造内閣の法務大臣を務める。勲一等瑞宝章。
中村 不二男(なかむら ふじお、1891年(明治24年)2月… 中村 不二男(なかむら ふじお、1891年(明治24年)2月10日 - 1941年(昭和16年)5月9日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 長崎県西彼杵郡長浦村(現在の長崎市)出身。1909年(明治42年)、長崎県立長崎中学校を卒業。長崎日日新聞記者となり、後に取締役に就任した。また長崎県会議員に2回選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。 その他に長崎女子商業学校(現在の長崎女子商業高等学校)校主を務めた。
石井 満(いしい みつる、1891年2月9日 - 1977年… 石井 満(いしい みつる、1891年2月9日 - 1977年11月13日)は、日本の作家、出版人、教育学者。 千葉県生まれ。第一高等学校在学時代は芥川龍之介らと同期であった。東京帝国大学法科大学卒業。大学院で交通政策を学ぶ。新渡戸稲造に師事。鉄道院事務官、東京市電気局総務課長を経て、1946年日本出版協会会長。 GHQの指導で戦争責任を問われた出版社の粛清を行い、夏目漱石の著作権問題の処理に当たった。学校法人精華学園理事長などを務めた。
山下 若松(やました わかまつ、1891年(明治24年)2月… 山下 若松(やました わかまつ、1891年(明治24年)2月6日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市長、台中市長。旧姓は川上。 川上勝右衛門の三男として岡山県岡山市に生まれ、のち山下全増の養子となる。岡山県商業学校、岡山県立高等簿記学校を経て、1912年に関西大学商業学科第2学年を修了する。この間、神戸税務監督局に勤めた。 台北庁税務吏を皮切りに、専売局書記、府秘書課統計主務を経て、1934年(昭和9年)5月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任。ついで1937年(昭和12年)11月、台北州文山郡守に転じ、1939年(昭和14年)4月、新竹州苗栗郡守、1940年(昭和15年)6月、台南州新豊郡守を歴任したのち、1941年(昭和16年)6月、屏東市長に就任し、さらに1943年(昭和18年)1月には台中市長となった。
中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 197… 中村 佐一(なかむら さいち、1891年2月6日 - 1978年6月18日)は経済学者。専門は金融論。
水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 199… 水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 1997年12月11日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長、会長を務めた。東京都出身。 1915年に慶應義塾大学部理財科を卒業し、同年に森村組に入社。1956年に取締役に就任し、1934年に日本陶器取締役にも就任し、1944年には日本特殊陶業専務に就任し、1949年に取締役、1961年に監査役、1963年に顧問を経て、1971年に社長に就任。1973年に会長に就任。 1972年に勲三等瑞宝章を受章。 1997年12月11日、呼吸不全のために死去。106歳没。
三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 19… 三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 1944年2月7日)は、大正・昭和時代の小説家。大衆文学の流行作家となり、文壇の寵児と呼ばれた。代表作に『雪之丞変化』など。活躍期にはその作風から「日本のバルザック」とも呼ばれた。内縁の妻は作家の長谷川時雨。 埼玉県中葛飾郡桜井村生まれ(現在の春日部市木崎)。代々儒医(漢方医)家業で、祖父はまた漢詩人大沼枕山門下の詩人でもあった。旧制粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を経て田山花袋に私淑。父純太郎も於菟吉を医師に進ませようとしたが、中学校時代から文学少年となり白夜のペンネームで『文章世界』『中学世界』などに投稿していた。 1911年早稲田大学文学部英文科予科に入学し、広津和郎や谷崎精二らと交友を持ち、ロシア文学で片上伸に認められて「片門十哲」の一人とも言われた。
安井 大吉(やすい だいきち、1891年2月4日 - 196… 安井 大吉(やすい だいきち、1891年2月4日 - 1968年8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。浦和市長(1期)。旧姓、花沢。 静岡県出身。日本大学法学部で学ぶ。岐阜県羽島郡長、同県地方課長、庶務課長、東京都区政課長、財政課長、厚生局長、生活局長を歴任し、1942年9月28日から1944年10月25日まで第4代浦和市長を務める。 戦後の1953年、時の首相吉田茂の予算委員会での発言に対する懲罰動議が可決されたため、可決の原因となった広川弘禅(広川は鳩山一郎、三木武吉らに同調し採決を欠席、のち内閣不信任案の可決、解散(バカヤロー解散)に繋がる)の対立候補として第26回衆議院議員総選挙で東京3区から自由党公認で立候補して当選した(広川は分党派自由党から立候補し、落選)。
諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 196… 諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 1960年4月17日)は、日本の俳優、占い師である。本名同じ。大正末期から昭和初期にかけて、松竹蒲田撮影所の二枚目俳優として一世を風靡し、俳優廃業後は諸口 悦久(もろぐち よしひさ)を名乗って占い師に転向、断易の大家として知られた。 1891年(明治24年)2月3日、福井県大野郡大野町(現在の同県大野市)に生まれる。 1907年(明治40年)、満16歳の時に上京し、旧制福井県立大野中学校(現在の福井県立大野高等学校)から旧制成城中学校(現在の成城中学校・高等学校)に転校する。ところが、翌1908年(明治41年)には中退して、新派俳優藤澤浅次郎が後継者養成のため私財を投じ、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)にあった牛込高等演芸館を校舎に開校した東京俳優養成所(後の東京俳優学校、1911年閉校)の第1期生として入所、同期には岩田祐吉、田中栄三、上山草人らがいた。
佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月… 佐伯 卯四郎(さえき うしろう、1891年〈明治24年〉2月1日 - 1972年〈昭和47年〉1月12日)は、日本の実業家・政治家。日本陶器社長や、中部経済連合会会長、参議院議員等を務めた。 東京市牛込区矢来町3番地(現東京都新宿区矢来町)で、佐伯成允、満佐の4男として生まれた。東京市立愛日尋常高等小学校(現新宿区立愛日小学校)を経て、1908年3月、私立早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を卒業した。 1912年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1914年森村組入社。1934年日本陶器取締役。1939年日本陶器常務取締役。1942年日本陶器専務取締役。1946年日本陶器取締役社長。1947年第1回参議院議員通常選挙愛知県選挙区当選(補欠、任期3年)。
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日… 福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)2月1日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の農家に生まれる。1905年(明治38年)4月、鳥取県立米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校に40期生として入校。1912年(明治45年)7月、144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1… 米田 規矩馬(よねだ きくま、1891年(明治24年)2月1日 – 1974年(昭和49年)10月28日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 広島県双三郡吉舎町(現在の三次市)出身。1918年(大正7年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士を開業した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。その間、犬養内閣で三土忠造逓信大臣の秘書官となり、斎藤内閣でも三土鉄道大臣の秘書官を務めた。 その後、吉舎町長に就任した。
富永 文一(とみなが ぶんいち、1891年(明治24年)1月… 富永 文一(とみなが ぶんいち、1891年(明治24年)1月31日 - 没年未詳)は、日本の朝鮮総督府官僚。徳島県徳島市の人。 1937年に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮開拓株式会社理事を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
五藤 齊三(ごとう せいぞう、1891年1月31日 - 19… 五藤 齊三(ごとう せいぞう、1891年1月31日 - 1982年7月11日)は、日本の技術者・実業家で、天体望遠鏡やプラネタリウムなどの専門メーカー、五藤光学研究所の創業者。高知県生まれ。 父が司法官であったため、幼少時は宇和島市、高松市、大阪市と転居を繰り返した。 戦前の日本光学工業(現在のニコン)では、すでに小型の天体望遠鏡を製造しており、中学校や高等学校むけに販売していた。五藤はこれらの営業を担っていたが、その価格は、一般の学校で簡単に導入できるようなものではなく、販売は伸び悩んでいた。 また、当時(第一次世界大戦後)、ドイツから日本光学工業へ招聘されていた光学技術者から、「優れた光学機器を作れば必ず儲かる」とも聞かされた。
宇土 虎雄(うと とらお、1891年1月30日 - 1986… 宇土 虎雄(うと とらお、1891年1月30日 - 1986年12月23日)は日本の柔道家(講道館9段)、スポーツ指導者。 柔道家として全日本選士権優勝等の実績を持つ一方、熊本県に様々な近代スポーツを紹介して“熊本近代スポーツの父”や“ミスター熊本”とも呼ばれる。 長崎県南高来郡湯江村(現・島原市)の生まれ。鎮西学院中学在学中に柔道を始め、卒業後1912年に東京の東京高等師範学校に進学して山下義韶や永岡秀一(いずれも後の講道館10段)に師事し柔道を学んだ。東京高師時代の同期には岡部平太や会田彦一、先輩に1909年入学の大谷武一や甲佐知定のほか中途退学したものの徳三宝らの顔触れがあり、後輩には1913年入学で東口真平や後に“高師の秀才”と謳われた桜庭武らがいた。
中村 左衛門太郎(なかむら さえもんたろう、1891年1月2… 中村 左衛門太郎(なかむら さえもんたろう、1891年1月29日 - 1974年11月25日)は、地震学者。 東京府出身。東京市京橋区銀座一丁目で針問屋を営む中村利吉と母美保(神田区鍛冶町の唐物商・恵藤卯平の姪)の長男として生まれる。号・傾円。キリスト教徒。1914年東京帝国大学理学部実験物理学科卒。1920年理学博士。中央気象台勤務を経て1924年東北帝国大学理学部教授。1951年同名誉教授、熊本大学理学部教授、1955年理学部長。1956年定年退官、九州物理探査社長、1961年熊本商科大学教授。地震計、地磁気の研究で知られる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
森部 隆輔(もりべ りゅうすけ、1891年(明治24年)1月… 森部 隆輔(もりべ りゅうすけ、1891年(明治24年)1月28日 - 1978年(昭和53年)8月6日)は、日本の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員、参議院議員。 福岡県上座郡福成村大字長淵(のち朝倉郡大福村大字長淵、現朝倉市長渕)で、篤農家・森部隆造、ウメノ夫妻の三男として生まれた。1911年、東京高等農学校を卒業した。 1916年、長淵信用購買販売組合を設立して組合長に就任。福岡県農会常任幹事、福岡県会議員(5期)、同副議長、上座銀行頭取、産業組合中央会福岡県支会副会長、福岡県農会長、福岡県青果統制会社社長、帝国耕地協会理事、福岡県農業協会理事長、福岡県養蚕組合連合会長などを歴任。1942年4月、第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け福岡県第一区から出馬して当選。
島 為男(しま ためお、1891年1月27日 - 1988年… 島 為男(しま ためお、1891年1月27日 - 1988年1月30日)は、日本の教育者。 大分県に生まれる。高等小学校卒業後、代用教員となる。1915年、大分師範学校卒、教員ののち広島文理科大学で研究、熊本第二師範学校で教えたのち、1929年に上京、成城学園教授。教育雑誌を刊行して戦後に及ぶ。綴り方、ベルクソン、マルクス主義、社会科教育、夏目漱石など関心は幅広く、『草枕』の那美のモデルが前田案山子の娘であることを初めて指摘した。 息子に嶋広二(日本大学生産工学部教授)、嶋悦三(東京大学地震研究所教授)、島澄(きよし、文化人類学、武蔵大学教授)。
高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、189… 高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、1891年(明治24年)1月27日(戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日)は、経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。 山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。1906年5月、家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出る。1907年、朝鮮へ渡航し二田商会に入り、日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。 やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。
甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月… 甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月20日)は、日本の陸軍軍人。 陸軍憲兵大尉時代にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを殺害した甘粕事件で知られる。事件後、短期の服役を経て日本を離れ満洲で関東軍の特務工作を行い、満洲国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦の直後に現地で服毒自殺した。 1891年(明治24年)1月26日、宮城県仙台市青葉区北三番丁に米沢藩士で当時宮城県警部だった父・甘粕春吉と、母・志け(旧姓:内藤、仙台藩士内藤与一郎の娘)の長男として生まれた。第四次川中島の戦いでの奮戦で知られる上杉家家臣甘粕景持の子孫で、三菱信託銀行社長を務めた甘粕二郎と陸軍大佐の甘粕三郎は弟。
越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991… 越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991年4月18日)は愛媛県松山市出身の随筆家、評論家、郷土史家である。俳号は水草。柳号は緋威子、やなぎ丸。 小学校では藤野古白の弟である藤野滋と同級生であった。投書雑誌『文章世界』に「越智水草」「落二郎」という筆名で投稿していた(「サフラン酒」は『文章世界』の優秀作を厳選した田山花袋編『二十二篇』東雲堂1910年にも収録された)。1909年5月に創刊された雑誌『四国文学』では2巻5号まで編集者を務めた。愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、海南新聞社(現在の愛媛新聞社)に入社。1913年5月に同紙一面に文芸欄が新設された際、担当者に就く。
坂西 一良(ばんざい いちろう、1891年1月26日 - 1… 坂西 一良(ばんざい いちろう、1891年1月26日 - 1946年9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。勲一等旭日大綬章。 鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。陸軍三等軍医・稲田清淳の長男として生まれ、坂西利八郎陸軍中将の養嗣子となる。 米子中学校(現在の米子東高校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第10連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業。 1919年(大正8年)5月、参謀本部付勤務(ドイツ班)となり、参謀本部員、参謀本部付(ドイツ出張)などを経て、1923年(大正12年)2月から1926年(大正15年)6月までドイツ大使館付武官補佐官を務めた。
万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 -… 万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 - 1975年3月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 宮城県出身。仙台第二中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1938年(昭和13年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11大隊長となり日中戦争に出征。平定の治安維持に当った。1939年(昭和14年)8月、甲府連隊区司令官に就任。 1941年(昭和16年)1月、第1独立歩兵隊長に発令され太平洋戦争を迎えた。中国南部の諸作戦に参加。1942年(昭和17年)2月、第23軍付として広東市特別警備司令官に就任。 1944年(昭和19年)4月、南方軍付となり、同年10月、歩兵第78旅団長に発令されレイテ島の戦いに従軍。
高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 194… 高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 1944年7月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期、陸大34期。最終階級は陸軍中将。 千葉県山武郡成東町(現・山武市成東)出身。成東中学校、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1922年11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 基隆要塞参謀、歩兵第50連隊大隊長、陸軍工兵学校教官、陸士教官、近衛歩兵第4連隊付、留守第16師団参謀、歩兵第3連隊付、高雄要塞司令官、歩兵第60連隊長などを歴任し、1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第27旅団長、第14歩兵団長、独立混成第17旅団長などを経て、1943年10月、陸軍中将となり第29師団長に親補された。
加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月2… 加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月25日 - 1974年(昭和49年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。竹材商・加藤直八の三男として生まれる。明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第18連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)2月から1931年(昭和6年)2月までアメリカに駐在し、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)… 大島 喜一郎(おおしま きいちろう、1891年(明治24年)1月25日 - 1980年(昭和55年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板村幸岡に生まれる。塩谷郡書記などを経て、1944年(昭和19年)に矢板町助役に就任。1947年(昭和22年)4月から1951年(昭和26年)4月まで塩谷郡選出の栃木県議会議員を務めた。 1955年(昭和30年)2月17日、合併に伴う矢板町長選挙が行われ、大島がいずれも元矢板町長の高柳宰正と高橋保平を破り当選した。1958年(昭和33年)11月1日、矢板町の市制施行に伴い矢板市長に就任し、市長は1959年(昭和34年)2月16日まで務めた。町長および市長在任中には公共施設の整備や合併後の地域の一体化に努力した。
大志摩 孫四郎(おおしま まごしろう、1891年1月24日 … 大志摩 孫四郎(おおしま まごしろう、1891年1月24日 - 1961年4月28日)は、日本の実業家。南洋拓殖社長。 東京府赤坂区生まれ。1918年に東京帝国大学法学部政治学科卒業後、朝鮮銀行入行。 1938年東洋拓殖入社。資金主任、資金課次席、資金課長、平壌支店長、経理課長、理事を経て、1940年南洋拓殖社長。1944年南洋拓殖会長。 日本の降伏後、公職追放を経て、日本海外移住振興社長を務め、1956年から海外移住審議会委員。1961年従四位勲二等瑞宝章追贈。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
片野 重脩(かたの しげなが、1891年(明治24年)1月2… 片野 重脩(かたの しげなが、1891年(明治24年)1月21日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の政治家。実業家。衆議院議員(2期)立憲政友会所属。秋田相互銀行、秋田銘醸、羽後交通社長などを務めた。 江戸時代は佐竹一族の戸村家の家臣であり、士族。秋田県横手町(現・横手市)出身。東京帝国大学法学部に進むも、病気のため中退し帰郷する。 1922年(大正11年)に、横手町長に就任する。翌年には、秋田県会議員選挙に出馬し当選。その後には県会議長も務めた。 1930年(昭和5年)には、衆議院選挙に出馬し当選。議員を2期にわたって務めた。その一方、秋田県の農業団体の役員も務め、農業界の実力者としても君臨した。
原 惣兵衛(はら そうべえ、1891年(明治24年)1月20… 原 惣兵衛(はら そうべえ、1891年(明治24年)1月20日 - 1950年(昭和25年)1月30日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、姫路市長。 兵庫県赤穂郡上郡村(現上郡町)出身。父親の事業の失敗により1902年(明治35年)に大阪へ転居する。1912年(大正元年)6月、大阪の陸軍第4師団輜重兵第4大隊に入隊。在営満期で除隊。 1919年(大正8年)、日本大学専門部法律科を卒業。1920年(大正9年)に弁護士試験に合格し、東京弁護士会に所属した。1921年から1923年にかけて日本大学の海外留学生としてベルリン大学とミュンヘン大学に留学し法学・国家学を学んだ。在独中は在独日本人会常任理事を務めた。
小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)… 小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)1月20日 - 1986年(昭和61年)2月26日)は、大正から昭和期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市で、小林市之助の四男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学政治経済学科を卒業した。 大阪現株取引(株)支配人、大阪市福島商業学校講師、逓信省海運事業調査嘱託などを務め、下岡忠治が朝鮮総督府政務総監に就任した際に随行して同秘書(朝鮮総督府嘱託)となった。その他、神戸電機製作所監査役、石産製作所監査役、日本輸出農産物(株)設立委員なども務めた。 1937(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。
杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月1… 植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月16日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、大正・昭和期の歌人。名は壽樹とも書く。歌誌『沃野』を創刊・主宰した。 東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町)生まれ。中学時代、電報新聞(現・毎日新聞)の窪田空穂選歌欄に投稿したのをきっかけに師事し、1905年窪田空穂主宰の十月会に入会。 1914年(大正3年)空穂の『国民文学』立ち上げに参加。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科卒業、大阪の加島銀行に入社。この時期に川田順、木下利玄らと親交を深め、「五日会」を興す。 1919年に銀行を退職して、大倉商事大阪支店に入社。1921年、大倉商事を退職。
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1… 中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 神奈川県出身。中村庄吉・サダの息子として生れる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官し「矢矧」乗組となる。海軍大学校(乙種学生)、海軍水雷学校高等科・特修科で学ぶ。「常磐」分隊長、「龍田」水雷長、元帥副官兼海軍省出仕(元帥大将東郷平八郎附属)などを経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 海大時代の末期に健康を害し、療養の意味も込めて同年12月、横須賀防備隊水雷長に就任し、横須賀海軍工廠機雷実験部部員を兼任。
戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日… 戸水 昇(とみず のぼる、1890年(明治23年)2月16日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 石川県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、逓信局監理課長・為替貯金課長、交通局参事・簡易保険局書記官、殖産局商工課長、交通局参事・鉄道部庶務課長、台北州内務部長、交通局理事・逓信部長、台北州知事を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、東台湾電力興業株式会社専務取締役となり、1942年(昭和17年)には総督府評議会員に就任した。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年… 瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年)2月14日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、大正から昭和時代の柔術家、柔道整復師。父のいとこに荒川鉱山の経営者・瀬川安五郎がいる。 岩手県盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの三男として生まれる。岩手師範附属小学校、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1912年(明治45年)京都の武術専門学校へ進学する。同校卒業後、山口県徳山中学校を経て、1917年(大正6年)4月に奥田松五郎の後任として、1943年(昭和18年)まで母校の盛岡中学校にて柔道の指導にあたる。その間、1931年(昭和6年)、加賀野の自宅にて整骨院を開き、小中学生や生活困窮者に対しては無料で施術を行った。