本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日(1866年8… 本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日(1866年8月11日) - 昭和27年(1952年)1月29日)は、日本の林学者、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。旧名、折原静六。 東京帝国大学農科大学教授となり、「月給4分の1天引き貯金」を元手にした投資で富を築き、定年退官とともに全財産を寄付した。孫に光触媒研究の本多健一がいる。 武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の第6子として生まれた。東京山林学校に入学するまでのあいだ河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった。ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった。
大戸嵜 岩枩(おおとざき いわまつ、1866年8月10日(慶… 大戸嵜 岩枩(おおとざき いわまつ、1866年8月10日(慶應2年7月1日) - 1928年12月28日)は、現在の秋田県大曲市(現・大仙市)出身で待乳山部屋、尾車部屋、陣幕部屋(大坂相撲)に所属した力士。本名は高橋 岩松。167cm、86kg。最高位は東前頭2枚目(大阪相撲)。6代松ヶ根。 1888年5月初土俵、1892年6月十両昇進。1893年5月に入幕を果たしたが脱走し、1896年から1899年までは大坂相撲に参加した。1900年1月に西前頭15枚目格で復帰する。そして1914年1月、実に47歳で引退した。江戸時代の生まれで、両国国技館で十両の土俵をつとめた力士のひとりである。その後は松ヶ根を襲名したが、1926年1月に廃業した。
小川 寅六(おがわ とらろく、慶応2年6月29日(1866年… 小川 寅六(おがわ とらろく、慶応2年6月29日(1866年8月9日) - 大正10年(1921年)10月8日)は、日本の衆議院議員、弁護士。旧姓・尾上。 肥前国(長崎県)長崎出身。尾上栄文の長男として生まれ、1884年(明治17年)5月、小川マスの養子となり家督を相続した。同年、東京に出て、1886年(明治19年)東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後は郷里で弁護士を開業し、長崎県会議員、長崎市会議員、長崎県教育会評議員に選出された。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙に長崎市から出馬し当選を果たした。 その他、松尾鉄工所相談役、早稲田大学評議員を務めた。
菅野 善三郎(かんの ぜんざぶろう、慶応2年6月26日(18… 菅野 善三郎(かんの ぜんざぶろう、慶応2年6月26日(1866年8月6日) - 1924年(大正13年)9月21日)は、日本の検事。 福島県伊達郡福田村(現在の川俣町)出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。仙台区裁判所検事、宮城控訴院検事、秋田地方裁判所検事正、樺太地方裁判所検事正、熊本地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1916年(大正5年)、大審院検事となる。 その後、台湾総督府法院検察官に転じ、覆審法院検察官長、高等法院検察官長を務めた。
塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6… 塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6月20日)- 1941年(昭和16年)6月30日)は、日本の女性教育者である。旧姓は小川。 江戸の本郷にてうまれる。幼少時に静岡県に移住し、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学する。入学後両親を失った野口幽香と親交を持ち、欠席時の補佐として携わった。これにより幽香と共に1889年(明治22年)キリスト教に受洗し、卒業後は大阪女子師範学校(後の大阪第一師範学校、現在の大阪教育大学教育学部)にて教鞭を執り、その管理も務めた。後に同学校に勤務する傍ら、梅花女学校(現在の梅花女子大学)の教師も兼任した。 この頃に農学者の塚本道遠と結婚し、6人の子供を産む。
初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日… 初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日(慶応2年6月18日) - 1931年(昭和6年)3月31日)は、明治から昭和時代戦前の実業家。政治家。貴族院多額納税者議員。田村駒創業者。 摂津国池田村槻木(現・池田市槻木町)の酒造業・笹部九兵衞(神田屋)の二男として生まれたが、家業はすでに傾いており、9歳で父親を亡くし、13歳で西田商店(現・呉春酒造)に奉公、徴兵逃れのため1883年に親戚の田村キクの養嫡子となった。翌年、モスリン友禅の開発に成功した大阪の洋反物商・岡島千代造の店員となり、鮮明な染色法等を完成、1891年に岡島合名会社の共同出資者となり、1894年に洋反物卸商として独立、実弟の平松徳三郎(伊丹平松家養子)とともに「神田屋田村駒商店」を創業。
石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 … 石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 - 1956年12月7日)は、日本の実業家、教育者。 1891年12月21日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールで、体育担当教官ジェームス・ネイスミスによって考案された新スポーツのバスケットボールを初めてプレーした人物。1892年卒業の「一般事業担当主事養成科クラス」18人の学生のひとり。最初に実施されたゲームのスケッチを残している。 1866年(慶応2年)館林藩の藩士・石川喜四郎の三男として生まれる。字(あざな)は、定邦または定国(さだくに)。2歳の時、父が戊辰戦争で戦死。8歳時に母の実家である東京・富ヶ谷へ移り住む。
大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日… 大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日(1866年7月26日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は江戸出身の実業家。 当時経営が悪化していた芝浦製作所(現東芝)を再建し、同社専務等を務めた後に、各地で水力電気会社を設立した。 また、二葉亭四迷とは、東京外国語学校および東京商業学校(現一橋大学)での親友であり、四迷は大田黒をモデルに小説『浮雲』を執筆した。 徳川幕府の御家人である小牧辰蔵の四男として江戸小石川(後の東京府東京市小石川区、現・東京都文京区)に生まれ、幕府の没落により3歳のとき一家で静岡へ移住し富士の裾野に帰農。没落士族の辛酸を嘗める。 沼津の旧制中学校を卒業後、上京して大学予備門(現東京大学)を受験したが失敗して東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に入学、二葉亭四迷と親交を結ぶ。
岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年… 岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年7月26日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月11日)は、日本の書家。日下部鳴鶴の弟子である。本名は要輔。号は群鵞居士、刀寧漁夫。 下総国相馬郡高野村(現・茨城県守谷市高野)出身。茨城師範学校を卒業後、茨城県・神奈川県の小学校、神奈川師範学校、埼玉師範学校で教師を務める。1921年に書道雑誌『郡鵞』を発刊。日本美術協会評議員、泰東書道院総務審査員、大日本書道院総務審査員を務めたほか、1936年には日本書道学校を創設するなど書道界の発展に尽力した。 1927年当時の住所は東京市牛込区矢来町2番地26号。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応… 吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応2年6月13日) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功四級。 福井藩士・吉江徳衛の長男として越前国(現・福井県)に生まれ、1894年(明治27年)家督を相続する。本籍は東京府、のち静岡県。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業。 東京防禦総督部副官、近衛師団副官、第13師団参謀、歩兵第31連隊附、第14師団参謀、歩兵第59連隊附を経て、1912年(明治45年)4月に陸軍歩兵大佐・関東都督府高級参謀に任官。
小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1… 小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1866年7月23日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月16日)は、日本の衆議院議員(公友倶楽部→公正会)、経済学者。 上野国邑楽郡小泉村(現在の群馬県邑楽郡大泉町)に、慶次郎の次男として生まれる。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省した後、1896年(明治29年)に法制局参事官、1898年(明治31年)に法制局書記官に任じられた。1907年(明治40年)に台湾総督府財務局長に転じ、また法学博士の学位を授けられた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し、当選を果たした。1917年(大正6年)、海外駐箚財務官に任命され中華民国に赴任した。
吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年… 吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年7月1日) - 1944年(昭和19年)4月17日)は、日本の実業家、教育者。常盤生命保険株式会社(現・朝日生命保険)元支配人、元専務取締役、紐育(ニューヨーク)生命保険会社元日本支店長。実業界に入る前には、学習院大学、東洋協会専門学校(現・拓殖大学)、水産講習所(現・東京海洋大学)等で教鞭を執った。聖公会の信徒。 1865年8月21日(慶応元年7月1日)、石州浜田藩士の吉田保(1834年(天保5年4月16日)〜1907年(明治40年)9月8日)と母志ゆん(同藩士三浦兼義二女、1847年(弘化4年9月)〜1929年(昭和4年)10月27日)の長男として生まれる。
黄金井 為造(こがねい ためぞう、1865年8月17日(慶応… 黄金井 為造(こがねい ためぞう、1865年8月17日(慶応元年6月26日)- 1934年(昭和9年)10月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 相模国愛甲郡七沢村(神奈川県愛甲郡玉川村を経て現厚木市)で、酒造業・黄金井伝四郎の長男として生まれた。慶應義塾、高等商業学校、東京英和学校で学ぶ。 酒造業と肥料業を営む。愛甲郡会議員、同議長、神奈川県酒造組合、同産牛馬組合各組合長、同農会長、全国酒造組合連合会会長、日本酒造組合中央会会長となる。 1910年の衆議院神奈川県郡部の補欠選挙において立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
中村 直吉(なかむら なおきち、慶応元年6月25日〈1865… 中村 直吉(なかむら なおきち、慶応元年6月25日〈1865年8月16日〉 - 昭和7年〈1932年〉7月27日)は、明治時代の冒険家。生来の旅好きで「旅行狂」「風船玉」を自称した。 三河国吉田呉服町(現・愛知県豊橋市呉服町)に生まれる。 明治20年(1887年)、福沢諭吉が横浜正金銀行初代頭取だった中村道太とともに、アメリカに「日本村」建設を計画すると、これに共鳴し参加を志す。しかし、計画の責任者だった井上角五郎が甲申政変に関与した嫌疑で逮捕されたため、渡航直前に計画が頓挫してしまう。 アメリカ行きの志を諦めきれない直吉は、翌21年(1888年)に結婚後間もない妻を残し単身渡米した。以後、同26年(1893年)の一時帰国を挟んで、明治31年(1898年)までの前後10年間に及ぶ海外放浪を続け見聞を広める。
豊国 覚堂(とよくに がくどう、慶応元年6月25日〈1865… 豊国 覚堂(とよくに がくどう、慶応元年6月25日〈1865年8月16日〉 - 1954年〈昭和29年〉2月4日)は、明治期から昭和にかけての曹洞宗の僧、郷土史家。俗名、義孝(よしたか)。群馬県前橋市堀越町長善寺住職。上毛郷土史研究会を結成し『上毛及上毛人』を刊行したほか、『高崎志』『前橋風土記』などの郷土資料の出版、『征露記念高崎繁昌記』『戦捷記念前橋繁昌記』『歩兵第十五連隊日露戦役史』『高山彦九郎叢書』など地域関連書籍の刊行を行った。 慶応元年(1865年)、上野国多野郡日野村猪田(現・群馬県藤岡市)曹洞宗長湯山興春寺に父田川義水、母知加の子として生まれる。父が校長を務めていた下日野小学校に学んだ。
臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 192… 臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、日本で20世紀初頭に成立した民間精神療法「臼井霊気療法」(のちに「レイキ」として国際的に普及)の創始者として知られる人物である。西方寺にある顕彰碑(功徳之碑)の碑文では、門人は2,000人を超えたとされる。霊気は、施術者が手を軽く当てる、またはかざすことで「エネルギー」を向けるとされる補完・代替療法であり、アメリカ国立補完統合衛生センター(NCCIH)は健康上の有効性は明確に示されていないとしている。 生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。 職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家後藤新平の秘書[要ページ番号]などさまざまに経験する。
西村 保吉(にしむら やすよし / やすきち、1865年8月… 西村 保吉(にしむら やすよし / やすきち、1865年8月12日(慶応元年6月21日) - 1942年(昭和17年)1月15日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選県知事。 伊予国宇和島で宇和島藩士西村景信の長男として生まれる。愛媛県宇和島区裁判所雇及び県庁雇となる。1890年、普通試験に合格。以後、同県宇摩郡書記、同県属・内務局勤務などを歴任。1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、宮崎県参事官、山口県参事官、長野県事務官・第二部長、北海道庁事務官・第六部長、同土木部長、同拓殖部長、広島県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1917年1月、島根県知事に就任。産業十年計画の策定を行った。
那須 善治(なす ぜんじ 1865年8月12日(慶応元年6月… 那須 善治(なす ぜんじ 1865年8月12日(慶応元年6月21日) - 1938年(昭和13年)12月19日)は、日本の実業家。生協運動が浸透していない日本で生協運動の発展に寄与した。関東消費組合連盟の発展にも財的援助で大きな働きになった。日本の生協運動に後半生をささげた。 のちの嫡流重治(粟村金属工業、灘神戸生協)➡︎ 一郎(三井住友建設)➡︎吉郎(デック)➡︎純一(イントラスト)善治の嫡流を示した、これ以外は分家にあたる。 愛媛県西宇和郡保内町川之石内之浦に、1865年(慶応元年)6月21日に生まれた。いとこに、雨井のおやけの分家(造り酒屋)へ千石船を持って養子に入った、菊池秋三郎(1874年(明治7年)生:海運業を営む)がいる。
荒川 五郎(あらかわ ごろう、1865年8月8日(慶応元年6… 荒川 五郎(あらかわ ごろう、1865年8月8日(慶応元年6月17日) - 1944年(昭和19年)8月3日)は、日本の政治家、衆議院議員(10期)。ジャーナリスト、教育者。 安芸国山県郡八重村(のち広島県山県郡八重町→山県郡千代田町、現・山県郡北広島町)の刀鍛冶の家に生まれる。広島県師範学校高等師範科を経て、小学校訓導、同校長になり、1889年(明治22年)、日本法律学校(日本大学法学部の前身)に1期生として入学し、1893年(明治26年)に日本大学法律科を首席で卒業した。 日本大学教務主任、中国新聞主筆等を経て、1904年(明治37年)3月、第9回総選挙で衆議院議員に当選。第9回~15回、第17回~19回の総選挙に当選。
森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日(18… 森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日(1865年8月8日) - 昭和12年(1937年)1月24日)は、日本の実業家。森永製菓創業者。安倍晋三首相の妻・昭恵は外曾孫娘にあたる。父親の死後、幼少期のほとんどを母親の実家力武家で養われる。 父・常次郎、母・キクの長男・伊左衛門として肥前国松浦郡伊万里(現・佐賀県伊万里市)に生まれる。生家の森永商店は陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋で、伊万里湾の漁業権を握る網元でもあったが、父の代には家勢も衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。親類の家を転々とする不遇な幼少時代を過ごした。やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られて山崎太一郎となり、商人の心構えを教え込まれた。
高岡 唯一郎(たかおか ただいちろう、1865年8月7日(慶… 高岡 唯一郎(たかおか ただいちろう、1865年8月7日(慶応元年6月16日)- 1931年(昭和6年)12月9日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡草野村長。旧姓・酒井。 陸奥国磐城郡中神谷村(福島県磐城郡神谷村、石城郡神谷村、平市を経て現いわき市平中神谷)で、笠間藩士で神谷陣屋の儒者・酒井喜八郎義正の三男として生まれた。明治維新後、父は飴の製造を行い子どもたちが行商して生計を立てていたが、ある時、行商中に唯一郎が侮辱を受け、帰途に飴箱を捨てて帰ったところ父の叱責を受けたため東京に出奔した。 小学校の教員を務めた。1898年(明治31年)3月、石城郡草野村下神谷(平市を経て現いわき市平下神谷)の高岡寅吉の養子となり家督を相続した。
足立 文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(186… 足立 文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(1865年8月6日) - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の解剖学者、人類学者、京都帝国大学医学部教授。専門は軟部人類学。日本人と欧米人の解剖学的差異を解明した。 静岡県田方郡市山村(現:伊豆市)出身。父親が失踪したため、母方の伯父の元で育つ。1894年東京帝国大学医科大学卒業後、1899年からドイツのストラスブール大学に留学、帰国後第三高等学校教授を経て京都帝国大学医学部教授となり、解剖学を担当。筋の異常の統計学的研究のほか、諸民族の体臭と耳垢についての遺伝学的・組織学的研究などが知られ、「身体的特徴において人種的優劣はない」と唱えた。
琴山河合(きんざんかわい、1865年8月6日〈慶応元年6月1… 琴山河合(きんざんかわい、1865年8月6日〈慶応元年6月15日〉- 1931年〈昭和6年〉3月14日)は、日本の林学者。本名は河合鈰太郎(かわいしたろう)。日本統治時代の台湾において阿里山森林資源の開発と、その手段として世界有数の登山鉄道阿里山森林鉄路の建設を提唱した。その功績から「阿里山開発の父」と呼ばれている。 1865年(慶応元年)、尾張国名古屋(現:愛知県名古屋市)で出生。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学(現:東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)林学科を卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学助教授に就任し、同年ドイツ、オーストリアへ留学、西側先進国の森林開発と営林制度を学ぶ。
中谷 弘吉(なかや ひろきち、慶応元年6月16日(1865年… 中谷 弘吉(なかや ひろきち、慶応元年6月16日(1865年8月6日) - 大正12年(1923年)10月23日)は、日本の逓信官僚。 京都府に西田初次郎の四男として生まれ、中谷源吾の養子となった。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。逓信事務官となり、1893年(明治26年)には宇都宮郵便電信局長となった。さらに逓信書記官、同参事官を歴任し、東京郵便電信局長、電気局長を経て、1914年(大正3年)に逓信次官に就任した。 退官後は新たに創設された日本染料製造株式会社の初代社長に就任した。
高島 兵吉(たかしま ひょうきち、1865年8月6日〈慶応元… 高島 兵吉(たかしま ひょうきち、1865年8月6日〈慶応元年6月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月20日)は、日本の政治家。徳島県鳴門市出身。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。後に那賀郡答島で石灰製造業を営んだ。 その後、1903年(明治36年)10月1日から1918年(大正7年)4月8日まで徳島県会議員を務めた。同日、衆議院選挙のため県会議員を辞職し、同月15日の衆議院議員補欠選挙で当選した。1936年(昭和11年)まで通算5回当選した。当初は立憲改進党に所属し、犬養毅に私淑し、行動を共にした。その後、憲政本党、立憲国民党、革新倶楽部、立憲民政党に属した。1937年(昭和12年)の第20回総選挙に当時の徳島県第2区から立候補したが、中立候補で新人の三木武夫らに敗れ落選した。
阪本 弥一郎(さかもと やいちろう、慶応元年6月14日(18… 阪本 弥一郎(さかもと やいちろう、慶応元年6月14日(1865年8月5日) - 大正12年(1923年)1月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)。弁護士。 備後国深津郡福山町(現在の広島県福山市)出身。英吉利法律学校(のち東京法学院、現在の中央大学)で学び、在学中の1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、翌年に卒業した。1893年(明治26年)より和歌山市に弁護士事務所を開業した。1898年(明治31年)には和歌山市会議員に選ばれた。1900年(明治33年)より弁理士や破産管財人も務めた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
両角 彦六(もろずみ ひころく、慶応元年6月12日(1865… 両角 彦六(もろずみ ひころく、慶応元年6月12日(1865年8月3日) - 明治41年(1908年)3月21日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→中正倶楽部)。弁護士。 信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に諏訪藩士の子として生まれる。1884年(明治17年)に司法省法学校予科を修了し、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。判事試補、司法省参事官試補、宮城控訴院書記長、函館地方裁判所判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事を歴任した。1893年(明治26年)に退官し、弁護士を開業した。また和仏法律学校(現在の法政大学)の理事兼講師、明治法律学校(現在の明治大学)講師、専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月… 舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月29日(慶応元年6月7日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、明治から大正期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で少納言・舟橋康賢の二男として生まれる。父の死去に伴い1880年(明治13年)1月16日、家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1882年(明治15年)以降、京都宮殿勤番、殿掌などを務めた。1889年(明治22年)東京専門学校邦語政治科卒業。1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。
里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応… 里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応元年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月21日)は、明治-昭和期の日本の実業家。 国内ではじめて近代的なタオルの織機を開発し生産を始めた人物。 1865年(慶応元年)に和泉国日根郡佐野村(現大阪府泉佐野市)で生まれる。1885年〈明治18年〉、大阪で舶来雑貨商を営む新井末吉の奨めによりタオル製織の研究を始める。1887年(明治20年)、タオルの特徴である輪奈をつくる打出機を開発したことにより、国内で初めてのタオル製織に成功する。以後同地では日本のタオル産業発祥地として発展していき同地で生産されたタオルは「泉州タオル」と呼ばれている。
野呂 駿三(のろ しゅんぞう、1865年7月27日(慶応元年… 野呂 駿三(のろ しゅんぞう、1865年7月27日(慶応元年6月5日) - 1945年(昭和20年)12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・菅井。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡中津町(中津川町を経て現中津川市)で菅井九三の三男として生まれ、先代万次郎の養子となり1898年(明治31年)家督を相続した。酒と醤油醸造業を営む。御嵩町長、岐阜県会議員、同議長、東美銀行、濃飛商工銀行各頭取、東美鉄道取締役、中央製紙、木曽興業、樺太工業各(株)監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において岐阜7区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
玉子屋 円辰(たまごや えんたつ 旧字表記:玉子屋 圓辰、1… 玉子屋 円辰(たまごや えんたつ 旧字表記:玉子屋 圓辰、1865年7月27日(慶応元年6月5日) - 1944年(昭和19年)6月19日)は日本の萬歳および音頭取りの芸人。明治末期から昭和初期にかけ、古典芸能であった萬歳をのちの「漫才」につながる近代的な形式の寄席芸能に仕立て直し、多くの後進を育てたことから、「上方漫才中興の祖」「近世漫才の祖[要出典]」と称される。本名:西本 為吉。 河内国河内郡池島村(のちの大阪府東大阪市)の生まれ。生家は農家。成人して鶏卵の行商をはじめると、河内音頭や江州音頭を歌いながら通りを歩いて鶏卵を売り、評判を取った。音頭取りは俄、講談などと並ぶ当時の大阪の寄席芸の主流であり、そのうち江州音頭は鶴賀鶴年一座や桜川大蔵一座などによるブームの真っ只中だった。
熊谷 五右衛門(五右衞門、くまがい ごうえもん / ごえもん… 熊谷 五右衛門(五右衞門、くまがい ごうえもん / ごえもん、1865年7月25日(慶応元年6月3日)- 1942年(昭和17年)9月1日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越前国坂井郡熊坂村(福井県坂井郡坪江村、金津町熊坂を経て現あわら市熊坂)で、先代・熊谷五右衛門の長男として生まれる。農業を営む。1880年(明治13年)7月、家督を相続した。 坪江村会議員、坪江村長、坂井郡会議員、丸岡町長を務めた。1893年(明治26年)福井県会議員に選出され通算17年在任し、杉田定一系の中心として活動し、参事会員、副議長、議長も務めた。この間、九頭竜川の改修に尽力した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福井県郡部から出馬して当選した。
近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶… 近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶応元年6月1日〉 - 1922年〈大正11年〉7月17日)は、明治-大正時代の土木技師。戦前前期の土木界を代表する人物の一人。日本初の工学博士。 村上藩士・近藤金彌の長男に生まれ、新潟学校を卒業。1878年(明治11年)9月明治天皇北越御巡行の折、特に学術優秀ということで、目録を贈られている。その後、東京帝国大学工科大学土木工学科に進学。常に主席を通し、特待生として1887年(明治20年)に卒業。私費で2年間米国留学し土木工学の先進技術を学び帰国。1890年(明治23年)内務省土木局に入り内務技師となり、1896年(明治29年)の河川法制定後国費による河川改修工事や湾岸・上下水道の新設工事の監督指導に当たる。
斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶… 斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶応元年6月1日)- 1931年(昭和6年)1月28日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。旧名・慶之助。 武蔵国榛沢郡中瀬村(のち埼玉県大里郡中瀬村、現:深谷市)で、素封家・斎藤雄之助の長男として生まれる。1879年(明治12年)、家督を相続し安雄と改名。1885年(明治18年)、埼玉県師範学校を卒業。1891年(明治24年)まで小学校訓導を務めた。 1893年(明治26年)、自由党埼玉県支部が結成され同党に加盟。1894年(明治27年)、埼玉県会議員となる。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から自由党所属で出馬して当選。
秋山 文太郎(あきやま ふみたろう、1864年8月16日(元… 秋山 文太郎(あきやま ふみたろう、1864年8月16日(元治元年7月15日)- 1934年(昭和9年)10月30日)は、日本の政治家。第4代八王子市長、牛込区長、八王子市議(2期)。俳号は佳森(かしん)。 1864年(元治元年)7月15日、農家の長男として多摩郡上川口村(南多摩郡川口村を経て、現在の八王子市)で生まれる。 1882年(明治15年)、五日市勧能学校勤務。自由民権運動に関わり始める。 1884年(明治17年)、自由党に入党。森久保作蔵の側近となる。1897年(明治30年)7月19日、八王子町助役となるものの失火の責任を取る。1899年(明治32年)8月19日に辞任。森久保作蔵により浅草区役所戸籍課長に就く。
羽田 貞義(はた さだよし、1864年8月10日(元治元年7… 羽田 貞義(はた さだよし、1864年8月10日(元治元年7月9日) - 1933年(昭和8年)3月11日)は、日本の教育者、実業家。号は鷲峰。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の祖父。 信濃国小県郡桜井村(現・長野県東御市)の寺島権左衛門の次男として生まれ、1880年に同郡和田村(現・長和町)の羽田三郎の養子となる。1883年長野県師範学校を卒業、1890年東京高等師範学校博物科を卒業後、長野師範教諭、1898年新潟師範学校教頭を務める。 1903年に群馬師範学校校長に就任、1912年より熊本師範学校校長、千葉師範学校校長、1919年より福島師範学校校長を歴任した。 1924年に定年後帰郷し、1927年にはバス会社「和田嶺自動車」を設立して社長となり、山間部の地方交通として貢献した。
太田 直次(おおた なおじ、1864年8月9日(元治元年7月… 太田 直次(おおた なおじ、1864年8月9日(元治元年7月8日) - 1918年(大正7年)1月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1890年、東京法学院卒。神田区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、神田商業銀行取締役となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1918年に死去した。
設楽 貞雄(したら さだお、1864年8月4日(元治元年7月… 設楽 貞雄(したら さだお、1864年8月4日(元治元年7月3日) - 1943年(昭和18年)12月15日)は、明治時代から昭和初期にかけて関西で活躍した民間建築家。工手学校(現・工学院大学)造家学科の第1期生である。 1912年(明治45年)、大阪市の「新世界」開発において、そのシンボルとなる初代通天閣および隣接する遊園地ルナパークの設計を一手に担ったことで知られる。民間建築家の先駆けとして、山陽鉄道の建築部門の確立や住友関連のプロジェクト、さらに聚楽館や神戸タワー、伏見桃山乃木神社の造営など、近代日本の都市形成とインフラ構築に多大な足跡を残した。 設楽建築工務所は、意匠設計から施工管理までを高度に分業化した近代的な組織体制を有していた。
井上 八重吉(いのうえ やえきち、元治元年7月2日(1864… 井上 八重吉(いのうえ やえきち、元治元年7月2日(1864年8月3日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→交友倶楽部)。弁護士。 相模国高座郡座間村(現在の神奈川県座間市)に内藤甚左衛門の三男として生まれ、井上利助の養子となった。1881年(明治14年)、神奈川県師範学校に入り、卒業後は小学校訓導を務めた。その後、東京法学院(現在の中央大学)に入り、1890年(明治23年)に卒業した。同年、高等文官試験に合格。司法官試補、横浜区裁判所検事代理、八王子区裁判所検事、同判事、高崎区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任した。1898年(明治31年)、退官して横浜市で弁護士を開業した。
坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年… 坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年7月1日〉 - 1949年〈昭和24年〉12月29日)は、日本の篤農家、政治家(奈良県南葛城郡会議員)、社会運動家。部落解放運動家阪本清一郎の従兄弟。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現・御所市)の被差別部落出身。掖上村柏原北方区長を務める。 自由党に入って自由民権運動をおし進める。融和事業に取り組み、1912年、松井庄五郎の大和同志会結成に参加し、副会長となる。 柏原や奈良県内の自主的部落改善運動の中心を担った。 寺田蘇人著『部落の人豪』には、奈良県南葛城郡の部落の人豪として清俊の名前が挙げられている。 阪本清一郎は坂本清俊の影響を大きく受けている。
水島 銕也(みずしま てつや、元治元年6月29日(1864年… 水島 銕也(みずしま てつや、元治元年6月29日(1864年8月1日) - 昭和3年(1928年)11月2日)は、神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。雅号「愛庵」。 豊前国中津藩藩士の長男として生まれる。幼少期に両親が離婚。さらに14歳のときに叔父が西南戦争で西郷軍に味方し、鹿児島で戦死。そのことに衝撃を受けた父が急死する。そのため姫路の伯父の家に引き取られた。 城東小学校から旧制姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)に入学。野口ゆからとともに姫路中学の1期生の1人だった。同校卒業後、工部大学(現東京大学工学部)への進学を希望していたが、伯父の「同郷の中津出身者が多い学校の方が良いだろう」という言葉に影響を受け、1881年に神戸商業講習所(現兵庫県立神戸商業高等学校)へ入学した。
小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864… 小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864年7月26日) - 昭和2年(1927年)11月26日)は、柳川藩士の子で、福岡県出身の財界人。ジョン・レノンの妻・オノ・ヨーコの祖父である。 筑後柳川の藩士のもとに出生した。立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の大組組頭世襲家の小野家との関係は不詳である。 地元の柳河中学校を経て1880年(明治13年)、同志社英学校2年に入学する。同級生に安部磯雄や岸本能武太がいた。1883年(明治16年)、新島襄から洗礼を受ける。同年末、徴兵令改正により私立学校は徴兵免除の特典を受けられなくなったため、官立学校への転校を図り退学する。
安孫子 久太郎(あびこ きゅうたろう、1864年7月26日〈… 安孫子 久太郎(あびこ きゅうたろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉 - 1936年〈昭和11年〉5月31日)は、アメリカ合衆国で活動した日本人起業家かつ新聞編集者である。日米新聞社長。 1864年(元治元年)に、のちの新潟県北蒲原郡水原町字外城(現阿賀野市)で、小林徳四郎、いし子の長男として生まれた。母が出産の際に死亡したため、母方の祖父(安孫子彦一郎)方に引き取られ、15歳年上の叔父安孫子石太郎の弟として養育される。家業の蝋燭、紙の販売を手伝わされ、荷車に品々を積んで、近隣の村々を売りに歩く。水原在町中に英人宣教師パームからキリスト教的薫陶を受けた。 1882年(明治15年)、宇尾野藤八、佐藤文二と新潟を出奔する。
大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6… 大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉- 1935年〈昭和10年〉2月11日)は、明治から大正期の陸軍軍人。陸士旧8期、陸大8期(優等)。栄典は従二位勲一等功二級。最終階級は陸軍大将。 現在の山口県青海島にて、長州藩士・大庭此面の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した。以後、参謀本部出仕、兵站総監部副官、参謀本部第1局員を経て、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)までドイツに留学し、その後、陸大教官、参謀本部員兼山縣有朋元帥副官、大本営参謀などを歴任した。
田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6… 田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉- 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は正二位勲一等功三級男爵。 陸軍大臣(第14・16代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)、立憲政友会総裁(第5代)を歴任した。 元治元年6月22日(1864年7月25日)、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩(現在の山口県萩市)に生まれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。
小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8… 小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8月22日) - 大正9年(1920年)10月18日) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名参事、三井家同族会理事などを務めた。 江戸出身。ロンドン留学後、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。同期に福井菊三郎。1884年に三井物産入社。香港支店長、上海支店長、ロンドン支店長などを経て、1906年理事。1909年取締役、三井合名参事。のち、三井家同族会理事。1913年三井合名監査部幹事長。1916年東京海上保険取締役。1918年大正海上火災保険監査役。1920年に病気で危篤となり叙従六位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8… 丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8月11日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月5日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者である。日本で5番目に開業した電力会社名古屋電灯で初代技師長を務めたほか嘱託技師として大阪市電の開業に携わった。愛知県名古屋市出身。 文久3年6月27日(新暦:1863年8月11日)、丹羽氏任の長男として名古屋城下・広小路御園の屋敷で生まれた。父・氏任は尾張藩に仕える儒学者(藩儒)。また丹羽家は一色公深を祖とするという。正道は幼少期から聡明であったといい、東京に出て大学予備門で学んだのち工部大学校へ進学。工部大学校では成績優秀のため官費生であった。
五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3… 五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3年6月27日 ) - 1906年(明治39年)6月6日)は、明治時代の日本の洋画家。本名は熊吉。 1863年8月11日(文久3年6月27日)常陸国水戸藩(現:茨城県水戸市)に生まれる。1878年(明治11年)から翌年まで母校である水戸上市小学校の教壇に立つ。1884年(明治17年)農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る。1887年(明治20年)東京府工芸品共進会に出品。1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会に出品、褒状を受ける。その後、農商務省を依願退職し、肖像画や風景画を描きながら新潟地方や、茨城、栃木など、各地を遊歴。1892年(明治25年)本名を熊吉から文哉に改める。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年… 清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。
大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久… 大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久3年6月25日) - 1920年12月5日)は、日本の解剖学者。医学博士。理学博士。旧姓は大橋。 尾張国海東郡津島村(現・愛知県津島市)出身。1882年に帝国大学医学科を卒業し、1887年に助手となる。1894年に妻を亡くしたのを機に、1895年に自費でドイツに留学。1897年にドイツ人女性と再婚し、同年に帰国、医学博士の学位を取得。1900年に東京帝国大学の教授となる。両生類や爬虫類などの比較組織学を研究。著作に「解剖学講本」などがある。1916年にサンショウウオの研究論文で理学博士の学位を取得。 1920年12月3日、大学での講義を終え、布佐駅で下車して帰宅する途中で倒れ、通行人により自宅へ運ばれるが昏睡状態となり、12月5日に死去した。